月光書房
辰の刻 ・ 朝 ・ 第 十 話

ここで、いっしょに暮らしました

青柳 実
家族ドラマ ・ 約25頁

家は、去る者よりも先に、静かになる。

トラックが路地の入口に停まったのは、まだ六時をいくらか過ぎたばかりの時刻だった。エンジンの震えが、朝の空気を通して、家の柱にまで伝わってくる。ミサキはそれを、玄関の三和土に立ったまま、足の裏で聞いた。何十年も歩いてきた土間のコンクリートは、外がどれだけ冷えていても、いつもほんのわずかに、暮らしの温もりを残していた。今朝も、そうだった。まだ、そうだった。

「先に、二階の箱からいきますね」

引っ越し屋の若い男が、白い息を吐きながらそう言って、階段を上がっていった。作業着の背中に、社名が刺繍されている。その男が段板を踏むたびに、上から四段目が、きゅう、と鳴いた。ミサキは、その音を、六十年ぶん知っていた。

家は、この家は、彼女が生まれるより前からそこにあった。祖父が建て、父が継ぎ、そしてミサキが継いだ。継いだ、というほど大げさなものではないのかもしれない。ただ、出ていく理由がなかったから、いつづけた。それだけのことだったのかもしれない。けれど、いつづけるということは、家にとっては、たぶん、いちばん大きな出来事なのだ。人が来て、人が去る。そのあいだ、家だけが、ずっとそこにある。

荷造りは、三日前からはじめていた。

一人でやるには、荷が多すぎた。六十年ぶんの暮らしは、思っていたよりも、ずっと重かった。押し入れをあけるたびに、忘れていたものが出てきた。夫の背広。もう着ない喪服。息子の、幼稚園のスモック。どれも、捨てるべきか、持っていくべきか、彼女には決められなかった。決められないまま、段ボールに詰めては、また出して、眺めては、また詰めた。そうしているうちに、日が暮れた。三日、そんなふうに、過ぎた。

物には、それぞれの、時間がしみこんでいる。

湯呑みひとつにも、それを使った朝がある。座布団ひとつにも、それに座った人がいる。ミサキは、荷造りというものが、ただ物を箱に入れる作業ではないことを、この三日で、思い知った。それは、ひとつひとつの物から、しみこんだ時間を、はがしていく作業だった。この湯呑みは、夫のものだった。この座布団には、正月に来た孫が、座った。そういう時間を、ひとつずつ、指でなぞって、それから、箱に、しまう。しまうたびに、その物が、少しだけ、ただの物になっていく。暮らしの温もりが、抜けていく。

けれど、家そのものは、箱には詰められない。

柱も、壁も、床も、窓も、この家に染みた歳月そのものは、運び出せない。それらは、ここに残る。彼女が去ったあとも、ずっと。それが、荷造りをしながら、ミサキが、いちばん、こたえたことだった。持っていけるものは、しょせん、暮らしのかけらにすぎない。いちばん多くの時間をおぼえているものは――家そのものは――ここに置いていくしかない。

今日、その家を、彼女は出る。

二階

二階の子ども部屋は、もう子どもの部屋ではなかった。

三十年前に息子が出ていってから、そこはずっと物置だった。使わなくなった座布団や、季節はずれの毛布や、いつか読むつもりで積んだまま黄ばんだ雑誌が、部屋の隅に少しずつ堆積して、地層になった。ミサキはその部屋を、いつのころからか「上の部屋」としか呼ばなくなっていた。息子の名前をつけて呼ぶと、まだそこに息子がいるような気がして、そのくせ、あけてみればがらんとしていて、その落差に胸が冷えるのが嫌だったのかもしれない。

引っ越し屋が箱を運び出したあと、ミサキは一人で「上の部屋」に入った。

窓から、朝の光が斜めに差していた。ここの窓は東を向いている。だから朝がいちばん明るい。息子が小さかったころ、彼はこの光で目を覚まし、この光の中で宿題をし、この光を背にして、いつも何かに夢中になっていた。プラモデル。図鑑。それから、あの、ひと夏だけ熱をあげた天体望遠鏡。

壁に、四角い影のように、日焼けの跡が残っていた。

そこには長いあいだ、一枚のポスターが貼ってあった。息子が小学生のとき、どこかの科学館でもらってきた、星座と天体の図。彼はそれを何度も張り替え、画鋲の穴が四隅にいくつも増えていったが、ある日、高校生になった息子は、恥ずかしくなったのか、無言でそれを剥がした。剥がしたあとの壁だけが、まわりより少しだけ色が濃く、四角く残った。日に焼けなかった部分が、そこだけ、昔の壁の色をしていた。

ミサキは、その四角い跡に、手のひらを当ててみた。

ひんやりとしていた。壁は、記憶を、色でおぼえている。人が忘れても、壁はおぼえている。ここに何があったか。ここに、だれが、どんな顔をして立っていたか。剥がされたポスターの下に、まだ昔の朝がしまわれているようだった。手のひらの下で、あの夏の、望遠鏡をのぞく息子の背中が、うっすらと立ちのぼってくる気がした。

部屋の反対の壁には、もっと小さな跡が、いくつも散らばっていた。

セロテープの、黄ばんだ跡。画鋲の、こまかな穴。息子が、成長するにつれて、貼るものは変わっていった。星の図から、好きな野球選手の切りぬきへ。それから、いつのまにか、彼女の知らない、音楽家らしい若者たちの写真へ。母には見せない世界が、この壁には、少しずつ、貼られていったのだ。そして、剥がされていった。跡だけを残して。ミサキは、それらの跡を、指でたどった。ひとつの穴には、ひとつの季節がある。ひとつのテープの跡には、ひとつの、彼女の知らない、息子の憧れがある。壁は、それを、ぜんぶ、おぼえていた。母が、知らなかったことまで。

窓の桟には、うっすらと、鉛筆の落書きが残っていた。

小さな、へたな、船の絵。息子が、いくつのときに描いたのだろう。彼女は、その絵に、気づいたことがなかった。六十年、この家に住んで、この窓の桟の、この落書きに、いま、はじめて気づいた。消しゴムで消したつもりで、消えきれずに残った、細い鉛筆の線。海に浮かぶ、小さな船。帆が、ひとつ。それが、どこかへ、出ていこうとしている絵。ミサキは、その絵を、しばらく見ていた。あのころから、この子は、どこかへ、行きたかったのかもしれない。この、東向きの窓から、まだ見ぬどこかへ。そして、ほんとうに、行ってしまった。

――かあさん、見えた。見えたよ。

そう言った息子の声を、ミサキはふいに思い出した。あれは、いつだったろう。

あれは、ミラ彗星の年だった。

そう、そうだ。あの夏、空に彗星が来ていた。何十年に一度だという、蒼白い長い尾を引く星。息子はそれに、すっかり夢中になった。安物の望遠鏡を小遣いで買って、毎晩、この東向きの窓から空を見ていた。彗星がいちばんよく見えるのは、明け方だと、どこかで読んできたらしかった。夜明け前の、いちばん暗い時刻。それから、陽が昇りはじめると、彗星は光の中に溶けて、見えなくなる。だから息子は、まだ暗いうちに起きて、この窓にはりついていた。

ミサキも、何度か、その隣に立った。

寝ぼけまなこで、寒くて、正直なところ、星などどうでもよかった。ただ、息子が一人で早起きしているのが、なんとなく気がかりで、彼女も起きた。二人で、狭い窓に顔を寄せた。息子の吐く息が、ガラスを白く曇らせた。

「ほら、あれ」

息子の指が、東の空を差した。

ミサキには、はじめ、なにも見えなかった。ただ、白みかけた空があるだけだった。けれど、目が慣れてくると、たしかに、そこに、あった。空の低いところに、蒼くかすれた、ひとすじの光。もう夜が明けかけていて、その光は、朝の明るさに押されて、いまにも消えそうだった。消えそうなまま、まだ、そこにあった。

「消えちゃうの?」と、彼女は訊いた。

「陽が昇ると、見えなくなる。でも、消えてるわけじゃないんだって」と、息子は言った。「昼のあいだも、ずっとそこにあって、ただ、見えないだけ。夜になると、また見える」

見えないだけ。

ミサキは、その言葉を、なぜだかずっと、おぼえていた。

やがて陽が昇り、彗星は光の中に薄れて、消えた。息子はしばらく空を見ていたが、やがて、あくびをして、布団に戻った。ミサキは台所へおりて、朝の支度をはじめた。そういう朝が、あの夏、何度かあった。それから彗星は遠ざかり、望遠鏡はいつしか押し入れの奥にしまわれ、息子は大きくなって、家を出ていった。

あの夏の、ある朝のことを、ミサキは、とりわけよくおぼえていた。

彗星を見たあと、いつものように、息子は布団に戻らなかった。彼女が台所で味噌汁の火をつけていると、息子が、寝間着のまま、おりてきた。まだ、外は薄暗かった。息子は、台所の椅子に座って、彼女が朝ごはんを作るのを、ぼんやりと見ていた。めずらしいことだった。いつもは、起こしても起きない子が。

「かあさんは」と、そのとき、息子が、ふいに言った。「どこにも、行きたくないの?」

ミサキは、鍋をかきまぜる手を、止めた。

「行きたいところ、ないの? 遠いところとか」

十歳の子の、口にする問いとしては、それは、妙に、大人びていた。彼女は、少し考えて、それから、答えた。

「かあさんは、ここが、いちばん、いいのよ」

息子は、それを聞いて、なにか、腑に落ちないような顔をした。そのくせ、少し、安心したような顔も、していた。母は、どこにも行かない。ここにいる。それが、その子には、たしかめたいことだったのかもしれない。彗星が、遠くへ、行ってしまうのを見て。だから、母は、行かないのだと、たしかめたかったのかもしれない。

ミサキは、いま、この空っぽの部屋で、そのことを思い出して、胸が、痛んだ。

かあさんは、ここが、いちばんいい、と言ったのに。その、いちばんいい場所を、いま、彼女は、出ていこうとしている。あのとき、行かないと約束したわけではない。けれど、なにか、破ってはいけない約束を、破るような気が、した。息子は、もう、そんなことは、おぼえていないだろう。十歳の朝の、寝ぼけた問いなど。けれど、この家は、おぼえている。この台所は。あの朝の、彼女の、返事を。

それから彗星は遠ざかり、望遠鏡はいつしか押し入れの奥にしまわれ、息子は大きくなって、そして、母よりも先に、家を出ていった。行きたくないの、と訊いた本人が、いちばん遠くへ、行ってしまった。

荷

一階へおりると、居間は、もうほとんど空になっていた。

たんすが運び出されたあとの畳には、四つの重たい凹みが、くっきりと残っていた。何十年も同じ場所に立っていたたんすの重みが、畳の目をつぶし、青々としていたはずのそこだけを、白く枯らしていた。日焼けと、その逆。まわりの畳は陽に焼けて茶色くなり、たんすの下だけが、昔の青い色を残している。ちょうど、あの、二階の壁とは逆だ。片方は焼けて色を変え、片方は焼けずに昔のままでいる。どちらも、そこに何かがあったことの、証だった。

ミサキは、その凹みのひとつに、そっと足を乗せてみた。

畳が、少しだけ、へこんだ。人の重みなど、たんすの重みにくらべたら、たいしたことはない。それでも、へこんだ。生きているものの重みは、死んだものの重みほどには、深くしるしを残さないのかもしれない、とミサキは思った。人は動く。荷物は動かない。動かないものだけが、床に、深い跡を残す。

「奥さん、この段ボール、割れ物って書いてありますけど、こっちの車に載せていいですかね」

引っ越し屋の若い男が、台所のほうから顔を出した。彼はもう一人、年配の男と二人で来ていた。年配のほうは無口で、黙々と箱を運んでいた。

「ええ、お願いします」

「あと、これ、荷物の隙間にあったんですけど」

若い男が、なにか小さなものを差し出した。

ミサキは受け取って、目を落とした。

それは、片方だけの、手袋だった。

子どもの、赤い毛糸の手袋。

小さな、ちいさな手袋。てのひらほどの大きさ。毛糸はところどころ薄くなり、赤い色も褪せて、いまはもう、くすんだ煉瓦のような色になっていた。ミサキは、それを、しばらく見ていた。どこから出てきたのだろう。たんすの奥か、押し入れの隅か。長いあいだ、荷物と荷物のあいだの、暗い隙間に、はさまっていたのだろう。だれも気づかないまま。片方だけで。

これは、息子のものだった。

そうだ。彼が幼稚園のころ、彼女が編んだのだ。赤い毛糸で、対の手袋を編んだ。あのころ、彼女は、よく編みものをした。夜、息子と夫が寝静まったあと、台所の、いちばん明るい電球の下で、毛糸をたぐった。編み針の音だけが、しずかな家に、ちいさく響いた。かちゃ、かちゃ、と。手袋を編むのは、むずかしかった。指の一本ずつを、細く編んでいく。何度も、ほどいては、編みなおした。ようやく、対ができあがったとき、彼女は、それを、まだ眠っている息子の枕もとに、そっと置いた。朝、目を覚ました息子が、それを見つけて、どんな顔をするか。それを思うと、彼女は、編み針を持つ手が、疲れているのも、忘れた。

息子はそれをはめて、雪の日に、庭で走りまわった。そして、ある日、片方をなくした。どこで落としたのか、いくら探しても見つからなかった。息子は泣いた。ミサキは、また編んであげるからと言った。でも、結局、編まなかった。忙しかったのか、面倒だったのか、あるいは、もう毛糸が余っていなかったのか。理由はおぼえていない。ただ、片方だけの手袋は、片方だけのまま、どこかにしまわれて、そして、忘れられた。

いや――と、ミサキは、手袋を握りながら、思いなおした。

編まなかったのではない。編めなかったのだ。もう片方が、なくなってしまったから。なくなったものと、対になるものは、もう、編めない。片方だけ、残っていても、それは、対にはならない。編みなおすなら、また、はじめから、二つ、編まなければならなかった。でも、彼女は、そうしなかった。なぜだろう。いま思えば、彼女は、この片方を、捨てられなかったのだ。なくなったもう片方の、代わりに、残ったこの片方を。これがある限り、なくなったほうも、まだ、どこかにある気がした。この世界の、どこかに。対の片われが、残っている限り。だから、彼女は、新しいのを編まずに、この、片方だけを、しまっておいた。もう片方の、帰りを待つように。

三十年、いや、四十年。

その手袋は、この家のどこかに、ずっとあった。だれにも見られず、対の相手を待つでもなく、ただ、あった。見えないだけで、ずっとそこにあった。息子が失くしたと思っていたのは、もう片方だ。じゃあ、こちらの片方は、ずっと、ここにいたのだ。息子が家を出てからも。夫が死んでからも。ミサキが一人になってからも。この家の暗がりのどこかで、片方だけで、じっと。

ミサキは、その手袋を、掌のなかで、そっと握った。

赤い毛糸の感触が、四十年を飛び越えて、指先に戻ってきた。

台所

台所は、彼女がいちばん長い時間を過ごした場所だった。

朝、いちばんに来て、火をおこす。夜、いちばん最後まで、片づけをする。この家で、彼女がいちばんよく知っている場所は、たぶん、この四畳ほどの台所だった。壁は、長年の煮炊きの湯気と油で、うっすらと飴色に染まっていた。ガス台のまわりだけ、拭いても拭いても取れない焦げの跡がついている。流しのステンレスは、無数の傷で、もう鏡のようには光らなかった。

窓の下の棚に、青いマッチ箱が、ひとつ、置き忘れられていた。

藍色の、小さなマッチ箱。三日月が、銀色に刻まれている。「月光堂」と、小さな文字がある。いつ、どこで手に入れたのか、もう思い出せなかった。夫が、まだ煙草を吸っていたころのものかもしれない。あるいは、どこかの店で、火をつけるのに使って、そのまま持ち帰ったものかもしれない。長いあいだ、この棚の隅で、埃をかぶっていた。荷造りのときにも、気づかずに残してしまったのだろう。

ミサキは、それを手に取った。

振ると、なかで、まだ何本か、乾いた音がした。使えるのかもしれない。彼女は、そっと、蓋をあけた。赤い頭の、細いマッチが、身を寄せあうように並んでいた。一本、抜いた。側薬にこすりつける。しゅっ、と、小さな音がして、火が、ともった。

台所に、その小さな炎だけが、ゆれた。

朝の光がもう十分に明るいのに、その小さな火は、なぜだか、しっかりとそこにあった。ミサキは、それをしばらく見ていた。この台所で、何万回、火をつけただろう。味噌汁の鍋の下に。魚を焼く網の下に。子どもの弁当のための、卵焼きの、卵を割る前の、まだ冷たいフライパンの下に。火をつけるという、たったそれだけの所作を、彼女は、この家で、生涯くりかえした。火をつけて、家族を、あたためた。

炎は、やがて、指もとまで燃えおりてきた。

ミサキは、ふっと、それを吹き消した。

細い煙が、ひとすじ、朝の光のなかを、立ちのぼった。それは、あの彗星の尾に、少しだけ、似ていた。蒼くはなかったけれど。まっすぐ立ちのぼって、途中でゆらいで、そして、消えた。見えなくなった。消えたのではなく、見えなくなっただけ、と、あの夏の息子の声が、また、耳の奥で言った。

「奥さん」と、年配の引っ越し屋が、はじめて口をきいた。

低い、しわがれた声だった。

「立派な、古いお家ですね」

ミサキは、青いマッチ箱を、そっとエプロンのポケットにしまいながら、うなずいた。

「ええ。もう、ずいぶんと」

「柱が、いい木でしてね」と、その男は、居間と台所のあいだの、太い柱に、手をふれた。「近ごろは、こういう木、なかなか手に入らない。大事にされてきたんでしょう」

その柱を、ミサキは知っていた。この家で、いちばんよく知っている柱だった。

縁側

柱のことを話す前に、ミサキは、年配の男に、お茶でも、と言いかけて、湯呑みが、もう箱の中だと気づいた。

「すみません。もう、なにも、出せなくて」

「いいえ」と、男は、静かに笑った。「お気になさらず。仕事ですから」

二人の引っ越し屋が、また、荷を運びに、奥へ入っていった。ミサキは、縁側に、腰をおろした。この縁側だけは、まだ、そのままだった。運び出すものが、なかったから。ただの、板の間。庭に面した、細長い、板の間。

庭には、朝の光が、いっぱいに、差していた。

小さな庭だった。祖父が植えたという、老いた柿の木が、一本。それから、母が好きだった、紫陽花の株。もう、花の季節は過ぎていたけれど、青々とした葉が、朝露に、光っていた。この庭を、ミサキは、この縁側から、六十年、眺めてきた。柿がなる秋も、雪の降る冬も、紫陽花の咲く梅雨も。座って、お茶を飲みながら。あるいは、繕いものをしながら。この縁側は、家の、いちばん、ゆっくりした場所だった。

縁側の板は、日に焼けて、白っぽくなっていた。

長年、陽が当たりつづけて、木の色が、抜けていた。けれど、ところどころ、色の濃い部分がある。そこには、昔、鉢植えが置いてあった。あるいは、座布団が。陽の当たらなかったところだけが、木の、昔の色を、残している。ここもまた、日焼けと、その跡。この家は、どこもかしこも、時間を、色で、記録していた。人が、どこに、なにを置いて、どこに、座って、どこを、通ったか。木の、焼け具合が、それを、おぼえていた。

ミサキは、縁側の、いちばん、色の濃いところに、手を置いた。

そこは、彼女が、いつも座る場所だった。六十年、同じところに座って、木を、陽から、庇いつづけた。彼女が座っていたところだけ、木は、焼けなかった。彼女の影が、この板を、守っていた。その、影のかたちが、いまも、そこに、残っている。彼女がいなくなっても、この、座った跡だけは、残るだろう。次の人が、ここに座って、この、色の濃いところに気づいて、ふしぎに思うかもしれない。なぜ、ここだけ、色が、違うのだろう、と。

そこに、だれかが、ずっと座っていたからだ、とは、次の人には、わからない。

柱

その柱には、傷が刻んであった。

床からすこし上のところに、いくつもの、横向きの切りこみ。鉛筆でひかれた線と、その脇に書かれた、小さな数字。息子の背丈をはかった跡だった。ミサキの夫が、息子の誕生日ごとに、そこに背をつけさせて、頭のてっぺんに定規をあて、鉛筆でしるしをつけた。そして、そのしるしを、小刀で、そっと刻んだ。鉛筆の線は消えても、刻んだ傷は消えないから、と、夫は言った。

いちばん下のしるしは、三歳。

たどたどしい鉛筆の字で、日付が書いてある。それから、四歳、五歳、六歳。しるしは、少しずつ上へのぼっていく。年ごとに、間隔がひらいたり、つまったりしている。よく伸びた年もあれば、あまり伸びなかった年もあった。ミサキは、そのしるしのひとつひとつに、あの年のことを、おぼえていた。この四歳の年は、はしかで寝込んだ。この八歳の年は、自転車で転んで、前歯を折った。この十歳の年に、あの、彗星が来た。

しるしは、十五歳で、ぷつりと、止まっていた。

そこから上には、なにもない。十五を過ぎたころ、息子は、もう背をはかられるのを嫌がった。子どもっぽいと言った。それきり、柱の傷は、増えなくなった。息子の背は、そのあともまだ伸びたはずだけれど、この柱は、十五歳のところで、彼の成長を、記録するのをやめた。だから、この柱のなかで、息子は、永遠に、十五歳のままだった。まだ、あの、生意気ざかりの、けれど、まだ、母を必要としていた、あのころのままで。

ミサキは、その柱に、頬を寄せた。

木の匂いがした。何十年ものあいだ、家族の手が触れ、背がもたれ、油と埃と暮らしを吸って、深い飴色になった、その木の匂い。目を閉じると、しるしのひとつひとつから、その年の朝が、立ちのぼってくるようだった。誕生日の朝。まだ眠そうな息子を柱の前に立たせて、「動かないの」と叱った、あの朝。夫が、真剣な顔で、定規をあてていた、あの朝。台所からは、味噌汁の匂いがしていた、あの朝。

この柱は、連れていけない。

家といっしょに、ここに残る。次に住む人は、この傷を、見るだろうか。見ても、これがなんの傷か、わからないだろう。ただの、古い柱の、古い傷。もしかしたら、邪魔だと言って、削ってしまうかもしれない。あるいは、柱ごと、抜いてしまうかもしれない。この家は、もう、ミサキのものではなくなる。この柱も、この傷も。息子の、十五年ぶんの背丈も。

ミサキは、鞄から、鉛筆を、一本、取り出した。

なぜ、鉛筆を持っていたのか、自分でもわからなかった。荷造りのあいだ、箱に名前を書くのに使っていた、ちびた鉛筆。それを持って、彼女は、柱の前にしゃがんだ。いちばん下のしるし――三歳のしるしの、さらに下に。彼女は、そっと、しるしを、ひとつ、書きたした。

小さな、横線。

その脇に、日付を書いた。今日の日付。そして、その下に、ためらってから、こう書いた。

「ここで、いっしょに暮らしました」

鉛筆の字は、いずれ消えるだろう。刻んだわけではないから。夫のように、小刀で刻む勇気は、彼女にはなかった。ただ、鉛筆で、そっと。消えてもいい。消えたって、いい。ただ、いま、この柱に、それを、書きたかった。ここで、いっしょに、暮らしました。この家と、いっしょに。この柱と、いっしょに。彼女は、そう、家に、言いたかった。

がらんどう

正午近くになって、荷物は、すべて運び出された。

家は、空になった。

ミサキは、玄関からいちばん奥の座敷まで、ゆっくりと歩いた。歩くたびに、床が、鳴った。家具のなくなった部屋は、足音が、よくひびいた。人がいたころは、暮らしの音に紛れて聞こえなかった、床のきしみが、いまは、一歩ごとに、はっきりと聞こえた。きゅう。きし。ぎい。それぞれの床が、それぞれの声で、鳴いた。この床は、こんな声をしていたのか、とミサキは思った。何十年も踏んできて、いまはじめて、その声を、きちんと聞いた気がした。

空っぽの部屋は、広く見えた。

こんなに、広かったのか。家具があったころは、こんなに広いとは、思わなかった。がらんとした畳の上に、朝の――もう昼に近い――光が、まっすぐに落ちていた。障子を透かした、やわらかな光。埃が、その光のなかで、きらきらと舞っていた。空になった部屋で、いちばん動いているのは、その埃だった。長いあいだ、家具の陰や、たんすの裏に、じっとひそんでいた埃たちが、いま、家が空になって、はじめて、光のなかへ出てきて、舞っていた。まるで、この家に染みついた歳月が、いっせいに、宙へ立ちのぼっているようだった。

ミサキは、部屋のまんなかに、立った。

なにもない部屋の、まんなかに。

そして、耳をすませた。

家が、話しかけてくる、と思った。

こんなことは、家具があったころには、なかった。人がいて、物があって、暮らしの音がしていたころは、家は、ただの入れ物だった。人を容れ、物を容れる、静かな箱。けれど、すべてが運び出されて、空になったとき、家は、はじめて、それ自身の声で、話しはじめた。床のきしみで。壁の反響で。窓のたてつけの、かすかな軋みで。

がらんどうの家は、よく反響した。

ミサキが、小さく、咳をした。その音が、部屋から部屋へ、ひびきわたって、返ってきた。彼女は、思わず、声を出してみた。

「ただいま」

その声が、家じゅうに、ひびいた。

なぜ、「ただいま」と言ったのか、自分でもわからなかった。出ていく朝に、「ただいま」はない。「いってきます」でも、「さようなら」でもなく、彼女の口をついて出たのは、「ただいま」だった。何万回も、この玄関で言ってきた言葉。買い物から帰って。息子を迎えにいった帰りに。夫の葬式のあと、一人で帰ってきた、あの夕方にも。ただいま、と。彼女は、この家に、ずっと、「ただいま」と言いつづけてきた。そして、家は、そのたびに、あった。おかえり、とは言わないけれど、ただ、そこにあることで、彼女を、迎えた。

がらんどうの家が、その「ただいま」を、反響で、返してきた。

ただいま。ただいま。ただいま。

だんだん小さくなって、やがて、消えた。

ミサキは、その反響が、まるで、この家の、いままで交わされたすべての声の、最後の一滴のように、思えた。この家では、六十年、絶えることなく、声がしていた。子どもの泣き声。夫の笑い声。ラジオの音。包丁の音。掃除機の音。喧嘩の声も、あった。仲直りの声も。そういう声が、いつも、どこかで、していた。だから、家は、いつも、なにかで、満ちていた。反響する隙も、なかった。声が、声を、埋めていた。

それが、いま、ぜんぶ、なくなった。

声がなくなって、はじめて、この家が、これほど、よく反響する家だったことを、ミサキは知った。空っぽの家は、彼女の、たったひとつの「ただいま」を、こんなにも、大きく、返してくる。まるで、いままで飲みこんできた声を、いま、いっぺんに、吐き出しているみたいに。六十年ぶんの声を。ためこんでいた、すべての声を。この家は、聞いていたのだ。ずっと。だまって。人の声を、ぜんぶ、聞いて、しまいこんで、そして、いま、だれもいなくなった部屋で、それを、そっと、返している。

見えないだけ、と、また、あの声がした。消えたのではなく、見えなくなっただけ。聞こえなくなっただけ。この家で交わされたすべての「ただいま」と「おかえり」は、消えたのではなく、ただ、聞こえなくなっただけで、いまも、この柱や、この壁や、この床の、木の目のなかに、しみこんで、あるのかもしれない。人が忘れても、家は、おぼえている。壁は色で、柱は傷で、床はきしみで。この家は、この六十年を、まるごと、おぼえている。

ミサキは、しばらく、そこに立っていた。

やがて、彼女は、二階へ、もういちど、あがった。

もういちど、上の部屋へ

四段目が、きゅう、と鳴いた。

その音を、ミサキは、あと何度、聞けるだろうと思った。もう、聞けない。今日で、最後だ。この段は、あと何十年も、きゅう、と鳴くだろう。次に住む人の足の下で。けれど、その音を、ミサキが聞くことは、もう、ない。彼女は、四段目を、いつもより、ゆっくりと、踏んだ。ありがとう、と、口のなかで言った。段板に、言った。

上の部屋に、入った。

窓から、光が差していた。もう、朝の斜めの光ではなく、昼近い、白い光。それでも、この部屋は、やっぱり明るかった。東向きの窓は、一日じゅう、どこかしら、明るい。壁の、四角い日焼けの跡が、その光のなかに、ぽつんとあった。ポスターの跡。星の図の跡。

ミサキは、ポケットから、あの、片方だけの、赤い手袋を、取り出した。

そして、窓辺に立った。

窓の外には、朝の――もう昼に近い――町があった。トラックのエンジン音。どこかで、雨戸をあける音。自転車のベル。子どもを送りだす、母親の声。犬を散歩させる、老人の足音。町は、もう、すっかり、動きだしていた。それぞれの人が、それぞれの、今日という一日の、持ち場へと、出立していた。仕事へ。学校へ。畑へ。この家を出ていくミサキも、その、動きだした町の、ひとりだった。彼女もまた、今日、あたらしい場所へ、出立するのだ。息子夫婦の暮らす、遠い町の、新しい家へ。

見あげると、東の空の、低いところに。

蒼く、かすれた、ひとすじの光が、あった。

彗星だ、とミサキは思った。

まさか。そんなはずはない。あの彗星は、何十年に一度だ。あの夏の一度きりだったはずだ。これは、ただの、飛行機雲かもしれない。あるいは、朝の空に残った、雲の、切れはしかもしれない。目の錯覚かもしれない。年老いた目が、見たいものを、見ているだけかもしれない。

それでも、それは、たしかに、あった。

昇った陽の光のなかに、いまにも溶けて消えそうな、蒼白い、細い尾。あの夏、息子と二人で、この同じ窓から見た、あの光に、それは、そっくりだった。夜のあいだ、ずっとそこにあって、明け方に、いちばんよく見えて、そして、陽が昇ると、光のなかに薄れていく。いまも、それは、薄れかけていた。もうすぐ、見えなくなる。消えるのではなく、見えなくなるだけの、その光。

ミサキは、片方だけの手袋を、握りしめた。

――かあさん、見えた。見えたよ。

あの朝の、息子の声が、この部屋に、返ってきた。この部屋も、おぼえていた。あの夏の、明け方の、二人の吐息を。ガラスの曇りを。指さす、小さな手を。この家は、なにもかも、おぼえていた。息子の背丈も、剥がされたポスターも、失くされた片方の手袋も、そして、あの、蒼い彗星さえも。人が去ったあとも、家は、それを、しまっておいてくれる。見えないだけで、ずっと、そこにある。

窓の外で、彗星の名残は、いよいよ薄れて、朝の光に、溶けていった。

出立

ミサキは、その手袋を、どうするか、しばらく迷った。

持っていこうか。あたらしい家へ。この家の、たったひとつの、形見として。片方だけの、赤い手袋。四十年、この家の暗がりで、対の相手を待ちつづけた、小さな手袋。

けれど、彼女は、それを、窓辺の、床の上に、そっと、置いた。

日焼けの跡の、真下に。ポスターがあった、あの四角い跡の、下に。ちょうど、そこが、いちばん、光の当たる場所だった。片方だけの手袋を、片方だけのまま、この家に、残していくことにした。連れていくのではなく。ここに、置いていく。この家は、片方を、待つのが、得意だから。四十年、待ってくれたのだから。あと何十年でも、きっと、待ってくれる。いつか、もう片方が、どこかから、帰ってくるのを。あるいは、帰ってこなくても、ただ、片方だけで、あることを。

失われたものは、失われた場所に、いるのがいい。

そう、ミサキは思った。あたらしい家に、この手袋を持っていっても、それは、ただの、赤い毛糸の、片方だけの手袋になってしまう。けれど、この家に、この窓辺に、この光のなかに置いておけば、それは、ずっと、あの夏の、あの朝の、息子の手袋のままでいられる。ここでなら。この、なにもかもをおぼえている家でなら。

ミサキは、手袋に、そっと、手を触れた。

「おまえは、ここにいなさい」と、彼女は言った。

声は、がらんとした部屋に、やわらかく、ひびいた。

そして、彼女は、立ちあがった。

階段を、おりた。

四段目が、きゅう、と鳴いた。それが、最後だった。もう、二度と、この段を、彼女は踏まない。きゅう、という声を、彼女は、胸のいちばん深いところに、しまった。この家の声を。この家の、いちばん、彼女に馴染んだ、声を。

一階の、がらんとした居間を、抜けた。

畳の、たんすの凹みの上を、また、踏んだ。ぎしり、と鳴った。台所を、のぞいた。飴色の壁。傷だらけの流し。もう、なにもない。けれど、なにもないその場所に、六十年の、朝の匂いが、まだ、していた。味噌汁。焼き魚。炊きたての飯。卵焼き。この台所で、彼女が、家族に、送りだしてきた、無数の朝の、匂い。

柱の前で、立ちどまった。

いちばん下の、三歳のしるしの、さらに下。「ここで、いっしょに暮らしました」。鉛筆の、消えかけそうな、細い字。彼女は、その柱に、もういちど、頬を寄せた。木の匂い。飴色の、木の匂い。目を閉じると、しるしのひとつひとつから、あの年の朝が、立ちのぼる。三歳の朝。八歳の朝。彗星の来た、十歳の朝。背をはかられるのを嫌がった、十五歳の、あの、まぶしい朝。

「ありがとう」と、ミサキは、柱に、言った。

それから、家じゅうに、言った。壁に。床に。窓に。天井に。この家の、すべての木と、すべての釘と、すべての、染みついた歳月に。ありがとう。ながいこと、ありがとう。あなたが、わたしたちを、容れてくれた。あなたが、わたしたちを、おぼえていてくれる。だから、わたしは、安心して、ここを、出ていける。忘れることを、あなたに、任せられるから。おぼえておくことを、あなたに、任せられるから。

玄関の、三和土に、おりた。

足の裏に、ひやりとした、コンクリートの感触。それでも、その奥に、ほんのわずかな、暮らしの温もりが、まだ、あった。ミサキは、靴をはいた。何十年も、この三和土で、靴をはいてきた。いってきます、と、この土間で、言ってきた。今日は――今日だけは、「いってきます」ではないのかもしれない。けれど、ほかに、言う言葉を、彼女は、知らなかった。

「いってきます」

そう、ミサキは、家に、言った。

そして、扉を、あけた。

外には、朝の――もう、すっかり昼に近い――光が、あふれていた。

路地には、トラックが停まっていた。息子が、いつのまにか、来ていた。遠い町から、車を飛ばして、迎えに来たのだった。彼は、あの、片方だけの手袋の子どもではなく、もう、白いものの混じった髪の、初老の男だった。それでも、その顔の、目もとや、口もとに、あの、十五歳の少年の面影が、まだ、残っていた。柱のなかで、永遠に十五歳のままの、あの少年の。

「かあさん」と、息子は言った。「忘れもの、ない?」

ミサキは、ふりかえって、家を見た。

がらんとした、空っぽの家。もう、彼女のものではなくなる家。けれど、この家は、なにひとつ、忘れない。片方だけの手袋も、柱の傷も、壁の日焼けも、床のきしみも、六十年ぶんの「ただいま」も。だから、忘れものは、ない。忘れものは、ぜんぶ、家に、あずけてきた。持っていくのではなく。あずけて。

「ないわ」と、ミサキは言った。「なにも、ないの」

そして、彼女は、口のなかで、ちいさく、うたった。

眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。

いつ、おぼえたのか、わからない子守唄。彼女の母が、うたっていた。彼女も、息子に、うたった。この家の、あの、上の部屋で。彗星の来た夏の、そのまた前の、息子がまだ赤ん坊だった夜に。眠れ、眠れ。その旋律を、彼女は、いま、この家に、うたった。子守唄のように。この家を、眠らせるように。ながいこと、起きていてくれた、この家を。もう、眠っていい。人を容れることに、疲れたなら。ただいまと、おかえりの、あいだで、ずっと、目をあけていた、この家を。眠れ。星が、海を、わたるまで。

車に乗りこむと、息子が、エンジンをかけた。

窓の外を、家が、ゆっくりと、流れていった。

古い、木の、家。何十年もそこにあって、これからも、そこにありつづける家。次に住む人を、また、容れるだろう家。あたらしい「ただいま」を、あたらしい「おかえり」を、あの床のきしみで、あの壁の反響で、また、迎えるだろう家。ミサキの六十年は、その家のなかに、しまわれて、残った。壁の色に。柱の傷に。窓辺の、片方だけの、赤い手袋に。

「彗星が」と、ミサキは、ふと、つぶやいた。

「え?」と、息子が、ハンドルを握ったまま、訊きかえした。

「今朝、見えたのよ。彗星の、名残が。あんたと、昔、見たでしょう。あの夏の。上の部屋の、窓から」

息子は、少しのあいだ、黙っていた。それから、前を見たまま、静かに、言った。

「――おぼえてるよ。かあさんと、二人で、見た」

見えないだけ、と、ミサキは、心のなかで、あの、遠い夏の朝の、少年の声で、つぶやいた。消えたのではなく、見えなくなっただけ。この家も。あの手袋も。あの柱の傷も。六十年も。ぜんぶ、消えたのではなく、ただ、見えなくなるだけ。夜になれば、目を閉じれば、そっと思い出せば、また、見える。あの、蒼い光のように。ずっと、そこに、ある。

車は、路地を出て、朝の町の、大きな流れのなかへ、入っていった。

ずっとあとになって、ミサキは、ときどき、あの家のことを、考えた。

あたらしい町の、あたらしい家の、あたらしい窓辺で。息子夫婦との、あたらしい暮らしのなかで。ふと、あの、四段目のきしみを、思い出した。あの、飴色の柱の、木の匂いを。あの、がらんとした部屋の、反響を。そして、あの、窓辺に置いてきた、片方だけの、赤い手袋のことを。

いまも、そこに、あるだろうか、と思った。

次に住んだ人は、あれを、どうしただろう。捨てただろうか。それとも、あの日焼けの跡の下に、まだ、置かれているだろうか。ミサキには、わからなかった。けれど、なぜだか、あの手袋は、まだ、そこにいるような気が、した。片方だけで。窓辺の、いちばん光の当たる場所で。あの家の、なにもかもをおぼえている、あの家の、ふところのなかで。じっと、あの夏の、明け方の、彗星のことを、おぼえながら。

家は、去る者よりも、長く、そこにある。

そして、去る者が忘れたことを、去る者よりも、ずっと、長く、おぼえている。それが、家というものの、いちばん、やさしいところなのかもしれない、とミサキは思った。人は、出立する。持ち場へ。あたらしい場所へ。前へ、前へと。けれど、後ろに残された家は、去った者の、いちばん幼い朝を、いちばん眠たい夜を、いちばん静かな「ただいま」を、そっと、しまっておいてくれる。見えないだけで、消えたのではなく。

眠れ、眠れ、と、ミサキは、あたらしい窓辺で、ちいさく、うたった。

星が、海を、わたるまで。

この物語にひそむ符牒

ほかの物語と、ひそかに分かち合っているもの:

  • ミラ彗星
  • 月光堂のマッチ
  • 子守唄
  • 片方の手袋

十二をつなぐ符牒について →

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