鶴を折る朝
午前五時四十分、まだ薄闇の残る更衣室で、白い長靴を履きながら、水無瀬透はいつものように自分の指を数えた。
一、二、三、四、五。左手。一、二、三、四、五。右手。子どものするような確かめかただと自分でも思う。けれど三十年前、研修医のころに指導医から言われた言葉が、いまも骨の底に残っている。――外科医の指はな、朝いちばんに数えてやれ。数えられるうちは、まだ人を切っていい。数えられなくなったら、辞めろ。あの人はもう死んだ。心臓の手術の名手だったのに、最後は自分の心臓が言うことをきかなかった。
透は五十九歳になっていた。今日、彼が執刀する患者は九歳だった。
一
病院というものは、朝がいちばん静かだ。
日中の喧噪を知る者ほど、そう思う。廊下を行き交うストレッチャーの車輪の音も、点滴台の軋みも、家族の泣き声も、まだ眠っている。夜勤帯の低い呼吸だけが、この巨大な建物のどこかで細く続いている。透はその静けさが好きだった。手術のある朝は、いつもより一時間早く来る。誰もいない術野を、頭のなかで一度だけ、まっさらな手つきで開いてみるためだ。
朝の病院には、独特の匂いがある。夜のあいだに沈殿した消毒液の匂いと、まだ淹れられていない一日ぶんの珈琲の予感と、それから、これから始まるいくつもの物語の匂い。今日、この建物のなかで、何人が生まれ、何人が死に、何人が助かり、何人が助からないのか。それは、まだ誰にも分からない。夜勤の看護師が、眠そうな目でカルテを繰っている。清掃の人が、まだ人けのない廊下に、モップの水の跡をひとすじ残していく。そのすべてが、透には愛おしかった。三十年、この朝を見てきた。三十年、この朝から出立してきた。
透は、自分が働きに来る、という言いかたをしない。出勤する、とも言わない。彼はいつも、心のなかで、こう言う。――今日も、持ち場へ行く。戦場へ行く兵士のような言いかただと、若い医師には笑われるかもしれない。けれど透にとって、手術室は、たしかにひとつの場所だった。逃げてはならない場所。引き受けたからには、最後まで立っていなければならない場所。人の命が、ほんとうに危うい綱を渡るのを、この目で見届け、この手で支える場所。
更衣室の窓は、東を向いていた。
長靴を履き終えて顔を上げると、ガラスの向こうに、夜明けまえの空があった。地平の際がわずかに白みはじめ、その上に紺青がまだ濃く残っている。都会の空だから星は少ない。けれど今朝は、いつもとちがった。東の低い空に、細く長い光の筋が一本、斜めに引かれていた。蒼白い、しずかな光。尾を引く、その先が、昇りかけた光にじわりと溶けかけている。
彗星だ、と透は思った。
そういえば数日前から、天文の好きな麻酔科の若い医師が騒いでいた。何十年ぶりかで大きな彗星が近づいている、明け方の東の空に見える、と。ミラ彗星、というのだったか。名前だけは聞いた気がする。透は天文には疎い。星の名前を覚えるより、血管の走行を一本でも多く覚えるほうに、この頭の容量を使ってきた。
けれど今朝の彗星は、なぜか目を離せなかった。
それは消えかけていた。昇る陽の底に沈むように、蒼い尾のさきから順に、朝の白さに吸い取られてゆく。あと十分もすれば、もう見えなくなるだろう。あるいはもう、透以外の誰の目にも入っていないかもしれない。世界がまだ本気で目覚めるまえの、ほんの短いあいだだけ、そこにある光だった。
彼はしばらく、その名残を見ていた。
――明け方に、こんな星が出ていた。
いつか誰かに、そう言ってやりたいような気がした。九歳の患者に。手術がうまくいって、あの子が退院する日にでも。今朝、きみを切るまえに、空に蒼い星が出ていたんだよ、と。
そこまで考えて、透は小さく苦笑した。まだ切ってもいないうちから、退院の日のことを考えている。悪い癖だ。祈りと、驕り。そのふたつは、外科医のなかでいつも隣り合わせに座っている。
彗星は、と透はふと思った。何十年に一度、この空にやってくるという。前に来たときは、自分はまだ研修医で、指の数えかたを教わったばかりだった。次に来るときは、自分はもう、この世にいないだろう。星は、人よりずっと長い時間を生きている。人の一生など、あの蒼い尾がひとつ、空をよぎるあいだの、まばたきにも満たない。それなのに人は――外科医は――そのまばたきにも満たない一生のなかで、他人の一生を、なんとか少しでも延ばそうと、こんな暗い明け方から起きて、指を数えている。
ばかばかしい、と思う夜もあった。星の時間から見れば、なんという徒労だろう、と。けれど今朝は、そうは思わなかった。星が長い時間を生きているからこそ、人の短い時間は、いっそう惜しいのだ。九歳の悠真の、これからの時間が。まだ何十年も残っているはずの、その時間が。透は、その残りの時間を、今日、少しでも守ってやりたかった。星の徒労ではなく、人の営みとして。
彼は窓に背を向けた。
二
患者の名は、朝倉悠真といった。
九歳。小学四年生。生まれつき心臓の四つの部屋を隔てる壁に穴があり、二本の大血管の付きかたが人と少しちがっていた。医学の言葉では複雑先天性心疾患という。生後まもなく一度、大きな手術を受けている。当時の執刀医は、いまはもう退官した透の先輩だった。その手術で悠真はいったん命を拾い、九年を生きてきた。けれど成長とともに血流の道が狭まり、右心室に無理がかかりつづけて、心臓が少しずつ疲れてきていた。
放っておけば、あと数年で立ちゆかなくなる。今度の手術は、その血流の道を作り替える大きなものだった。心臓を止め、人工心肺で全身の血をまわし、そのあいだに古い流れを解いて、新しい流れを縫い直す。子どもの、握りこぶしよりまだ小さな心臓のなかで。縫合の一針が、道を分ける。うまくいけば、悠真はふつうに走れる子になる。失敗すれば――透はその先を、いつものように言葉にしなかった。言葉にしないことも、外科医の技のうちだ。
彼がこの症例の相談を受けたのは、半年前だった。
各地の病院で断られてきた、と紹介状には書いてあった。むずかしい、リスクが高い、うちでは診きれない。透の勤める病院は、この国で先天性心疾患の手術を最も多く手がける施設のひとつだった。それでも、この症例は難しい部類に入った。カンファレンスで画像を見た若い医師たちの顔が、少しずつ曇っていったのを、透は覚えている。
「先生、これは……」
と、外科の後輩がためらいがちに言った。
「五分五分ですね」
透は答えなかった。かわりに、もう一度、心臓の断面図を最初から見なおした。血管の壁の厚さ。弁の動き。狭くなった道の、そのわずかな隙間。何度も、何度も。夜、家に帰ってからも、風呂のなかでも、その心臓を頭のなかで開いていた。どこから、どう入るか。どこを、どう縫うか。三十年やってきて、それでもまだ、答えの見えない朝がある。
初めて悠真本人に会ったのは、三か月前の外来だった。母親に手を引かれて診察室に入ってきたその子は、痩せて、唇のいろがわずかに悪かった。血のめぐりが足りていない子どもに特有の、あの色だ。少し歩くと息が切れる、と母親は言った。運動会の徒競走では、いつもいちばん後ろを、笑いながら歩いてくるのだと。笑いながら、というところで、母親の声が詰まった。
透は、悠真に、いくつか簡単なことを訊いた。好きな食べもの。好きな遊び。将来、なりたいもの。悠真は、少し恥ずかしそうに、けれどはっきりと答えた。サッカー選手になりたい、と。ほんとうは、走りたいのだ、とその子の目は言っていた。息を切らさずに、いちばん前を、思いきり走りたいのだ、と。
「先生」と、その日、悠真は帰りぎわに、透を見上げて言った。「手術したら、走れるようになりますか」
透は、その問いを、いまも忘れていない。
「なるように」と透は答えた。「先生も、がんばる」
五分五分。
けれど五分五分の五分の側には、悠真が走っている姿がある。息を切らさず、いちばん前を、風のように走っている姿が。透はそちらを見ることにした。見なければ、メスは持てない。
三
更衣室を出るまえに、透は自分のロッカーの扉を開けた。
内側の扉に、一枚の写真が貼ってある。もう十年以上もそこにある写真だ。海辺で撮ったものだった。まだ小さかった娘が、麦わら帽子をかぶって、砂の上にしゃがんでいる。何かを拾おうとしている手が、ぶれて写っている。妻が撮った一枚だった。
娘はいま二十七になり、遠い街で自分の暮らしをしている。妻は五年前に病で逝った。写真のなかの娘は、永遠に六つのままで、砂浜で何かを拾おうとしている。
透はこの写真を、手術のある朝にだけ見ることにしていた。
なぜかは、うまく言えない。ただ、この写真を見ると、自分がこれから触れるものが何なのかを、思い出す。ロッカーのなかの、この一枚の顔と同じ顔の子どもが、手術台の上で眠っている。誰かの娘、誰かの息子。数字ではない。五分五分の、五分ではない。ひとりの子どもだ。それを忘れた外科医は、指の数を数えられても、もう人を切ってはいけない。透はそう信じている。
写真のそばに、小さな青い箱が置いてあった。
マッチ箱だった。藍色の紙に、細い三日月が金で刻んである。「月光堂」という古い店の名が、隅に小さく入っている。ずいぶん昔、妻がどこかの路地の店で買ってきたものだった。彼女は蝋燭を灯すのが好きだった。停電の夜も、誕生日の夜も、この青いマッチで火を点けた。妻が逝ってから、透はこの箱を捨てられず、ロッカーの奥に移した。もう擦る蝋燭もないのに、なぜか手放せなかった。
彼はマッチ箱を一度だけ手に取り、また元に戻した。
火は点けない。ただ、その重さを確かめる。妻の指がここに触れていた、というだけの重さ。それだけで、今朝は足りた。
妻は、看護師だった。この病院で出会った。若いころ、透がまだ自信ばかり大きくて技のともなわない外科医だったころ、手術中に取り乱しかけた彼を、術野の向こうから、静かな目で見つめて落ち着かせてくれたのが、彼女だった。あわてないで、先生。あなたの手は、大丈夫。――何度、その言葉に救われたか分からない。彼女が亡くなってから、透は、自分にその言葉をかけてくれる者を失った。だから、いまは、自分で自分に言う。あわてるな。おまえの手は、大丈夫だ、と。
妻は最後まで、透の手を信じていた。自分の病気を、透が治せないと分かってからも。あなたはたくさんの子どもを助けてきたのだから、わたしのことは、もういいの――そう言って笑った。その笑顔を、透は、いまも術野の向こうに、ときどき見る。今朝も、見た気がした。青いマッチ箱の、三日月の紋のうえに、ほんの一瞬。
扉を閉める。金属の音が、静かな更衣室に短く響いた。
四
手術室は、地下にあった。
窓のない世界だ。時計と、外からの連絡と、患者の体のなかの時間だけが流れている。透は長い廊下を歩いた。両側に手術室の扉が並び、その一つひとつに番号がついている。今日、悠真が入るのは、第三手術室だった。
その手前に、家族の待つ小さな控室がある。
透は執刀のまえに、必ずここへ寄る。決まりではない。むしろ、余計なことをすると若い医師は言うだろう。手術直前の外科医は、余分な感情を持ち込むべきではない、と。それでも彼は寄る。三十年、寄りつづけてきた。
控室には、悠真の両親がいた。
父親は四十くらいの、痩せた男だった。膝の上で手を組み、その組んだ手をじっと見ている。母親は、そのとなりで、小さなハンカチを両手で握っていた。ふたりとも、ひと晩眠っていない顔をしていた。透が入っていくと、母親がはじかれたように立ち上がった。
「先生」
「おはようございます」
透は静かに言った。芝居がかった落ち着きではない。三十年かけて身についた、体温のような落ち着きだ。彼は椅子をすすめ、自分も向かいに腰を下ろした。
「今朝、悠真くんに会ってきました。よく眠れたようです。強い子ですね」
母親の唇が震えた。何か言おうとして、言葉にならなかった。かわりに父親が、組んでいた手をほどいて、顔を上げた。
「先生。あの……」
「はい」
「本当に、助かるんでしょうか」
透は、すぐには答えなかった。
こういうとき、嘘は言わない。それは彼の三十年の掟だった。けれど、必要以上の真実も言わない。真実にはいくつも顔がある。そのなかから、家族がこの数時間を耐えられる顔を、ひとつだけ選んで差し出す。それも技のうちだ。メスを握る技と、たぶん同じくらい難しい技だ。
「わたしは」と透は言った。「今日、自分にできることを、全部します。ひとつも手を抜きません。三十年のあいだに覚えたことを、全部、あの子のために使います」
父親の目が、じっと透を見ていた。
「そのうえで」と透はつづけた。「助けます、とは言いません。医者がそれを言えないことは、たぶんお父さんもご存じでしょう。でも、こうは言えます。――わたしは、悠真くんの手術を、逃げずに引き受けました。断らなかった。それは、勝てると思ったからではありません。あの子には、勝つ価値があると思ったからです」
母親が、声を殺して泣きはじめた。
透は、その涙を止めなかった。止めるべきものではない。彼はただ、少しのあいだ、ふたりのそばに座っていた。壁の時計の秒針が、こつ、こつ、と時を刻んでいた。
やがて透は立ち上がった。
「行ってきます」
そう言うと、母親が涙のなかで、はっとした顔をした。まるで、いま初めてその言葉の重さに気づいたように。行ってきます、という言葉が、こんなに祈りに近い響きを持つことを。透は毎朝、この言葉を家族に置いていく。行ってきます。まるで、これから遠い旅に出るように。ある意味では、そうだった。心臓のなかは、いつも遠い。
「先生」と、母親が呼び止めた。「あの、これを」
彼女が差し出したのは、小さな折り鶴だった。ちいさな、赤い折り紙の鶴。
「悠真が、昨日の夜、折ったんです。手術の先生に渡してって。うまく折れなかったって、恥ずかしがってたんですけど」
透は、その鶴を受け取った。
たしかに、うまく折れてはいなかった。首のところが少しつぶれ、翼の片方がひしゃげている。九歳の指が、慣れない手つきで折ったものだ。けれど、その不格好さのなかに、確かにひとつの鶴がいた。飛ぼうとしている鶴が。
「ありがとうございます」
透は言った。声が、わずかに掠れた。
「大事に、預かります」
五
手洗い場のまえに立ったとき、透はいつも、少しだけ別の人間になる。
長い流し台に、水が細く流れている。彼は肘でレバーを押し、指先から肘まで、順に濡らしていく。ブラシに消毒液を含ませ、爪のあいだ、指の一本一本、手のひら、手の甲、手首、そして肘へ。決まった順序で、決まった時間だけ。三十年、一度も省いたことのない手順だ。
水の流れる音のなかで、頭のなかが、しずかに整っていく。
さっきまで家族の控室にいた水無瀬透という男は、少しずつ後ろに退がっていく。かわりに前に出てくるのは、名前のない、ただの手だ。三十年、人の体のなかを歩いてきた手。何百という心臓に触れ、そのいくつかを取りこぼし、それでもまた次の朝に立った手。
洗いながら、透はまた指を数える。
一、二、三、四、五。左手。一、二、三、四、五。右手。まだ数えられる。まだ、切っていい。
彼は隣で同じように手を洗っている若い医師に、ちらりと目をやった。今日、第一助手を務める、外科三年目の女性医師だった。彼女の指先が、わずかに震えているのを、透は見て取った。緊張だ。無理もない。彼女にとって、これほどの症例の助手は初めてだろう。
「緊張しているか」
透は、水の音にまぎれるくらいの低い声で訊いた。
「……はい」
彼女は正直に答えた。透はそれを好ましく思った。緊張していない、と嘘をつく研修医より、はるかに信用できる。
「震えていい」と透は言った。「手洗いのあいだは、いくら震えてもいい。ここで全部、震えておけ。台に立ったら、震えは器械が受け取ってくれる。人間は震える。器械は震えない。だから人間は器械を持つんだ」
彼女は、少し驚いたように透を見た。それから、小さくうなずいた。
透は水を止めた。手を上に向けたまま、後ろ向きに扉を押して、手術室へ入っていく。滅菌されたガウンと手袋が、看護師の手で差し出される。
手袋をはめるとき、彼はいつも、一瞬だけ息を止める。
乾いた滑石の匂い。ゴムが指を包んでいく、あの独特の感触。両手を通し、指のさきまで隙間なく収まったとき、透の手は、もう水無瀬透のものではなくなる。それは滅菌された、無菌の、人のものでない手になる。この手だけが、人の心臓に触れることを許されている。
――手袋は、いつも対で来る。
ふと、そんなことを思った。なぜだろう。手洗い場の隅に、片方だけの手袋が落ちていたのが、目のはしに残っていたのかもしれない。誰かが片方を落とし、片方だけをはめたまま行ってしまった。片方だけの手袋は、妙にさびしいものだ。対であるべきものが、対でなくなっている。
そういえば、と透は思い出した。妻が病室で、片方だけの手袋を編んでいたことがあった。もう指がうまく動かなくなっていたころだ。編み棒を持つ手が震えて、片方を編み終えるだけで、精いっぱいだった。もう片方は、とうとう編めなかった。透はそれを、いまも家の抽斗にしまっている。対にならなかった、片方だけの手袋を。捨てられなかった。対にならなかったからこそ、捨てられなかったのかもしれない。
透は、両手の手袋を確かめた。左、右。対になっている。よし。
それだけのことが、今朝はなぜか、小さな安心になった。対であること。ふたつがそろっていること。それは、あたりまえのようで、あたりまえではない。片方を失ってはじめて、人はそれを知る。だからこそ、いま透の手にある、この対の手袋が、ありがたかった。この対の手で、今日、彼はひとりの子どもの、対の心室を、あるべき道につなぎ直す。
六
第三手術室は、まぶしいほど明るかった。
無影灯の白い光が、天井から術野へと注いでいる。地下の窓のない部屋に、それでもひとつの朝がある、と透は思うことがある。この光が、この部屋の朝だ。外の空がどれだけ暗くても、ここでは常に真昼の光が灯っている。皮肉なことに、と彼は思う。人がいちばん深く眠らされる場所に、いちばん明るい光が差している。
手術台の上に、悠真がいた。
すでに麻酔がかかり、深く眠っていた。ちいさな体。あわい色の肌。剃られた前胸部が、消毒液の色に染まっている。挿管され、モニターの緑の線が、規則正しく上下していた。心電図。動脈圧。酸素飽和度。無数の数字と波形が、この小さな命のいまを、休みなく告げている。
透は台の頭のほうへまわり、麻酔科の医師と短く目を交わした。
「導入、問題なし。バイタル安定してます」
「ありがとう」
透は、眠っている悠真の顔を、ひととき見下ろした。
九歳。ロッカーのなかの、麦わら帽子の娘と、同じ年ごろだ。まぶたを閉じた顔は、あどけない。この子のなかに、いま透が手を入れようとしている。ちいさな胸を開き、心臓を止め、その道を作り替える。眠っているこの子は、それを知らない。ただ、目が覚めたら、走れるようになっているかもしれない。あるいは、二度と目を覚まさないかもしれない。その分かれめを、これから透の手が決める。
祈り、と、驕り。
またそのふたつが、彼のなかで隣り合った。この子を助けたい、という祈り。この子を助けられる、という驕り。祈りだけでは、メスは持てない。驕りだけでは、人を殺す。そのあわいを、細い綱を渡るように、これから何時間も歩く。それが手術だ。
透は、ガウンの内側に手を入れた。
そこに、あの赤い折り鶴があった。滅菌のことを思えば、術野に持ち込めるものではない。だから、清潔野の外の、ガウンの下のいちばん内側、彼の胸のあたりに、それはしまってあった。九歳の指が折った、不格好な鶴。首のつぶれた、翼のひしゃげた鶴。手術のあいだじゅう、それは透の心臓のすぐそばにいることになる。
彼は、その鶴に、一瞬だけ手を触れた。
「行ってきます」
声には出さず、そう言った。母親に言ったのと、同じ言葉を。今度は、眠っている悠真に。
七
「メス」
透の声が、部屋の空気を切った。
その一言で、部屋のなかの時間の質が変わる。それまでのざわめきが、水を打ったように静まる。器械出しの看護師の手が、迷いなく動く。冷たい金属の柄が、透の手のひらに、正確な向きで手渡される。三十年、この受け渡しは一度も間違えたことがない。手術は、外科医ひとりのものではない。透の手の先には、この部屋にいる十数人の、それぞれの手がつながっている。麻酔科。看護師。臨床工学技士。助手。研修医。ひとつの心臓のために、これだけの手が、この朝、ここに集まっている。
透は、悠真の胸に、最初の一線を引いた。
皮膚が、静かに割れる。血がにじむ。助手がすかさず吸引する。透の手は、迷わない。もう水無瀬透ではない。ただの手だ。三十年、この一線から始めてきた手だ。皮膚、皮下、そして胸骨。電動の鋸が、骨を縦にひらく。乾いた振動が、透の腕に伝わってくる。ちいさな胸が、ゆっくりと左右に開かれていく。
そして、心臓が、あらわれた。
拍動していた。
無防備な、ちいさな心臓が、白い光の下で、けんめいに動いていた。人差し指と親指で囲めそうなほど小さいのに、それは休むことなく、拍っていた。この九年間、一度も止まることなく、この子を生かしてきた心臓が。透は、いつもこの瞬間に、言葉にならない何かを感じる。畏れ、と呼ぶのがいちばん近い。人の手が触れていいのだろうか、という、根源的なためらい。それを毎回、飲みくだして、彼は先へ進む。
「人工心肺、準備」
臨床工学技士が復唱する。管が繋がれていく。この子の全身をめぐる血を、これから機械が肩代わりする。心臓を止めるためだ。止まった心臓のなかでしか、この手術はできない。人の心臓を止め、機械に命を預け、そのあいだに縫い直し、そしてもう一度、動かす。もし動かなければ――透は、その先を考えない。
「心筋保護液、注入」
透の合図で、冷たい液が心臓に流れこむ。
拍動が、ゆっくりと弱まっていく。速く、遅く、さらに遅く。そして、止まった。
ちいさな心臓が、白い光の下で、しずかに、動きを止めた。
部屋の空気が、また一段、張りつめる。ここから先は、時間との勝負だ。心臓を止めていられる時間には、限りがある。長く止めれば止めるほど、蘇りにくくなる。透の手が速く、正確に動くほど、悠真が助かる可能性は上がる。速さと、正確さ。ふつうなら相反するそのふたつを、同時に、極限まで。それが、いま透に求められていることだった。
彼は、止まった心臓の壁に、切開を入れた。
止まった心臓は、生きている心臓とは、まるでちがうものだった。拍っている心臓は、意志を持つもののように、透の手から逃げようとする。けれど止まった心臓は、しずかで、従順で、そして――どこか、痛ましかった。動きを止めた心臓のなかへ、透は分け入っていく。狭くなった道を確かめ、古い縫合の跡を丁寧にたどる。九年前、透の先輩がここを縫った。その一針、一針が、いまも残っている。あの人の手の記憶が、この小さな心臓のなかに、たしかに刻まれている。透は、その古い針目のうえに、自分の新しい針目を重ねていく。手術は、ひとりの外科医のものではない。時をこえて、手から手へ受け継がれていく、長い仕事なのだ。
八
そこから先の数時間を、透はほとんど覚えていない。
覚えていない、というのは正確ではない。むしろ、あまりに深く覚えているために、時間の感覚が消えてしまう、というほうが近い。手術のあいだ、透はほとんど呼吸すら意識しない。目のまえの、ちいさな心臓のなかの、迷路のような血管の道だけが、世界のすべてになる。ここを切る。ここを縫う。この一針が、道を分ける。針を持つ手が、髪の毛ほどの誤差もなく動く。三十年が、この数時間に凝縮されている。
途中、一度だけ、危ない場面があった。
古い縫合の痕から、思いがけず出血した。血が、みるみる術野を赤く染めた。若い助手が、息をのんだのが分かった。モニターの数字が、警告の色にゆれた。
「圧迫」
透の声は、しかし、少しも乱れなかった。
「あわてるな。血は止まる。ここは止まる。三十年で、止まらなかった血はない」
嘘だった。止まらなかった血は、あった。何度も。けれど、いまはその嘘が必要だった。手術室のなかで、外科医が動じることほど、危険なことはない。透の落ち着きが、部屋全体の落ち着きになる。彼の指が、正確に、出血点を押さえた。糸をかける。結ぶ。血が、止まった。
その一瞬、透の胸の奥を、遠い記憶がよぎった。何年もまえ、この同じ手術室で、透は一度、子どもを失ったことがある。今日と同じような、朝の手術だった。あのときも出血が止まらず、透はあわてた。あわてて、判断を誤った。取り返しのつかないことになった。手術のあと、透は家族に頭を下げた。何も言えなかった。ただ、下げた頭を、長いあいだ、上げられなかった。あの子の顔を、透はいまも忘れない。忘れてはいけないと思っている。あの子が、透に、あわてるな、と教えてくれたのだ。いちばん高い授業料を払って。
だから、いま透は、あわてない。あの子のためにも、あわてない。透の指は、あの日のあやまちを、ひとつずつ、償うように動いていた。
助手が、ちいさく息を吐いた。
「よく見ておけ」と透は、糸を結びながら言った。「あわてなければ、止まる。あわてれば、殺す。外科は、心臓の手術じゃない。自分の心臓を止める手術だ。まず自分の心臓を、冷たく止めろ」
彼女は、うなずいた。透の手の動きを、食い入るように見ていた。いつか彼女が、自分の手術室を持つ日が来るだろう。そのとき、この朝のことを思い出すかもしれない。あの人は、あわてなかった、と。それでいい。技は、そうやって手から手へ渡っていく。透自身も、あの死んだ指導医から、そうやって受け取ってきた。
新しい道が、少しずつ、形になっていく。
古い流れを解き、狭くなった道を広げ、新しい血管をつなぐ。透の針が、一針、また一針と、道を縫っていく。時間の感覚は消えたままだ。けれど、彼の体のなかのどこかが、正確に時を測っている。心臓を止めてから、どれだけ経ったか。あと、どれだけ許されるか。速く。正確に。速く。正確に。
縫いながら、透の頭のなかには、ふしぎと、雑念というものがなかった。ふだんの生活のあれこれ。老いていく体のこと。ひとり暮らしの家の、静かすぎる夜のこと。遠い街の娘に、もう長く電話していないこと。それらは、いま、どこにもなかった。あるのは、目のまえの、髪の毛ほどの太さの血管の壁と、その壁に糸をかけていく、自分の指のさきだけだった。この、何もかもが消えて、ただひとつのことだけになる時間を、透は、若いころから、どこかで愛していた。世界がこんなにも単純になる瞬間は、手術室のほかに、どこにもなかった。
そして――皮肉なことに、と透はいつも思う。世界がいちばん単純になるこの瞬間に、人の命は、いちばん複雑な綱を渡っている。ひとつの結び目が、生と死を分ける。その重さと、この静けさとが、透のなかで、ふしぎな均衡をとっていた。
そして、最後の一針が、結ばれた。
九
「復温、開始」
透の合図で、冷やされていた血が、少しずつ温められていく。
止まっていた心臓を、もう一度、動かす。これが、いちばん怖い瞬間だ。切ることは、透の技だ。縫うことも、技だ。けれど、動かすことは――半分は、技を超えている。冷たく止まった心臓が、ふたたび拍ちはじめるかどうかは、最後には、心臓自身が決める。透の手が及ばない領域だ。ここで、外科医は、ただ祈る人になる。
血が、温まっていく。
心臓が、あたたまっていく。
部屋の全員が、モニターを見ていた。緑の、平らな線を。動いていない心臓の、静かな線を。透も、見ていた。彼の手は、もう、することがなかった。三十年でできることは、全部した。ひとつも手を抜かなかった。ここから先は――
ガウンの内側の、あの折り鶴が、透の胸のそばにあった。
首のつぶれた、翼のひしゃげた、九歳の鶴。飛ぼうとしている鶴。透は、その鶴のことを思った。あの子が、昨日の夜、うまく折れないと恥ずかしがりながら、それでも折った鶴。手術の先生に渡して、と言った鶴。透の口のなかで、いつのまにか、古い歌が、ちいさく回っていた。
眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。
どこで覚えた歌だったろう。たぶん、妻が娘に歌っていたのだ。海辺の写真の、あの娘に。眠れ、眠れ、星が海をわたるまで――透は、いま、その歌を、眠っている悠真に向けて、声には出さず、心のなかだけで歌っていた。眠れ。まだ、眠っていい。けれど、そのあとで――目を、覚ませ。
血が、温まっていく。心臓が、あたたまっていく。けれど、線は、平らなままだった。
透は、待った。
待つことは、外科医にとって、切ることよりも、縫うことよりも、ずっと難しい。手を動かしているあいだは、まだいい。自分にできることをしている、という手応えがある。けれど、手を止めて、ただ待つとき――そのとき、外科医は、自分がいかに無力かを、思い知る。心臓が動くかどうかは、もう、透の手の外にある。三十年の技も、無数の症例も、ここでは何の役にも立たない。透にできるのは、ただ、待つことだけ。そして、祈ることだけ。
線は、平らなままだった。一秒。二秒。三秒。
長い、長い、数秒だった。透の背に、冷たいものが伝った。もし、このまま動かなければ。もし、今日もまた、あの日のように。透は、ガウンの下の折り鶴を、胸で感じた。飛べ、と思った。飛んでくれ。あの子の鶴よ。あの子の心臓よ。もう一度だけ、飛んでくれ。
モニターの線が、ふるえた。
ちいさく、たよりなく、一度。
部屋の空気が、凍りついた。
もう一度。ふるえた。
そして――拍った。
弱く、けれど確かに、心臓が、拍ちはじめた。一拍。間があいて、また一拍。だんだんと、その間隔が、規則正しくなっていく。緑の線が、平らだった線が、山を描きはじめる。ひとつ、またひとつ。ちいさな心臓が、白い光の下で、もう一度、動きだしていた。
「……戻りました」
麻酔科の医師の声が、掠れていた。
「洞調律。バイタル、安定してきています」
部屋のどこかで、看護師が、ちいさく息を吐いた。助手の目に、光るものがあった。透は、何も言わなかった。ただ、動きはじめた心臓を、じっと見下ろしていた。
拍っていた。
さっきまで止まっていた心臓が、いま、また、この子を生かそうとして、けんめいに拍っていた。透の縫った、新しい道を通って、血が、この子の全身へめぐりはじめている。
透は、胸のなかで、もう一度だけ、あの歌の終わりをつぶやいた。
――星が海をわたるまで。
そして、彼は思った。今朝、東の空に、蒼い星が出ていた。長い尾を引いて、昇る陽のなかに溶けていった星が。あれは、海をわたっていったのだろうか。もし、あの星がこの子のためにわたっていったのなら――透は、そんなばかげたことを、生まれて初めて、本気で信じたい気がした。
十
閉胸には、なお慎重な時間がかかった。
出血がないことを、何度も確かめる。心臓の動きを、モニターと、そして自分の目で、繰り返し見る。人工心肺を離脱し、機械の助けなしに、心臓だけで全身をまわせるかを確かめる。ひとつずつ、ひとつずつ。手術は、最後の縫合が終わるまで、終わらない。むしろ、閉じるときにこそ、油断が命取りになる。透は、最初の一線を引いたときと、まったく同じ集中で、最後の皮膚を縫った。
すべてが終わったとき、時計は、正午に近かった。
透が最初のメスを入れてから、五時間あまりが経っていた。地下の窓のない部屋には、時間の色がない。けれど透は、体のどこかで、外の光が変わったことを知っていた。彼が更衣室で見た、あの明け方の空。蒼い星が溶けていった空。あれから、もう五時間が経った。いまごろ、外はまぶしい真昼の光に満ちているだろう。人も、町も、とっくに一日のなかへ出立して、それぞれの持ち場で働いている。
透の持ち場は、ここだった。
この、窓のない、白い光の部屋。人がいちばん深く眠らされる場所。命が、いちばん危うい綱を渡る場所。透は、三十年、毎朝、ここへ出立してきた。行ってきます、と家族に告げて。行ってきます、と眠る患者に告げて。そして、たいていは――けれど、いつもではなく――夕方に、その持ち場から、疲れきって戻ってきた。
「手袋、外します」
看護師の声に、透は我にかえった。
血に汚れた手袋が、指から抜かれていく。両手。左、右。対の手袋が、対のまま、外されていく。滅菌された、人のものでない手が、また、水無瀬透のただの手にもどっていく。指が、外気に触れる。五時間ぶりの、ざらりとした空気。
透は、その手を、ひととき見つめた。
一、二、三、四、五。左手。一、二、三、四、五。右手。まだ、数えられた。今朝も、切っていい手だった。そして今日、この手は、ひとりの子どもの心臓を、止め、縫い、また動かした。三十年やってきて、それでも、自分の手のしたことが、信じられないような朝がある。今朝は、そういう朝だった。
十一
家族の控室に、透はもう一度、寄った。
扉を開けると、両親が、はじかれたように立ち上がった。この五時間、ふたりはずっと、ここに座っていたのだろう。父親の顔は、朝よりさらに削げ、母親の目は、泣き腫らしていた。ふたりは、透の顔を、必死で読もうとしていた。医者の顔から、結果を先に読み取ろうとして。それは、この世でいちばん残酷な、数秒間だ。
透は、なるべく早く、その数秒を終わらせてやりたかった。
「手術は」と彼は言った。「成功しました」
母親が、くずおれるように、椅子に座りこんだ。声にならない声が、その口から漏れた。父親は、立ったまま、動かなかった。ただ、目からひとすじ、涙が落ちた。彼はそれを拭わなかった。拭うことを、思いつかないようだった。
「油断はまだできません」と透は、静かに付け加えた。誠実さは、こういうところに宿る。「これから数日が、大事です。集中治療室で、しっかり管理します。でも――今朝、あの子の心臓は、もう一度、動きはじめました。自分の力で。とても、強い子です」
母親が、両手で顔を覆って、泣いた。
透は、ガウンを脱いだあとの、白衣のポケットに手を入れた。そこに、あの折り鶴があった。手術のあいだじゅう、彼の心臓のそばにいた鶴。首のつぶれた、翼のひしゃげた、九歳の鶴。彼はそれを、そっと取り出した。
「これを、お返しします」と透は言った。「ずっと、預かっていました。手術のあいだ、ずっと、ここに」
彼は、自分の胸のあたりを、手のひらで軽く押さえた。
「悠真くんの鶴が、ずっと、そばにいてくれました。だから、わたしは、あわてずにすんだ。あの子が、わたしを助けてくれたんです」
母親が、涙のなかで、その鶴を受け取った。
不格好な鶴だった。けれど、それは、確かに飛んでいた。この五時間、この不格好な鶴は、たしかに、手術室のいちばん深いところを、飛んでいた。
「あの子が目を覚ましたら」と透は言った。「伝えてください。きみの鶴は、ちゃんと飛んだ、と」
父親が、ようやく、椅子に腰を下ろした。膝が、崩れるように折れた。この五時間、この人はずっと、立っていたのかもしれない。座ることを、自分に許せなかったのかもしれない。彼は、両手で顔を覆った。その肩が、声もなく震えていた。透は、この涙も、止めなかった。止めるべきものではない。人が、こんなふうに泣けるということは、ひとつの祝福なのだ。もし手術が失敗していたら、この人たちは、こんなふうには泣けなかった。もっと深い、底のない場所で、泣くことになっていた。透は、その底を、知っている。あの日の家族の泣きかたを、知っている。
「先生」と、やがて母親が、涙のなかで言った。「先生も、朝からずっと……お疲れになったでしょう。ありがとうございました。本当に、ありがとうございました」
透は、少しだけ、笑った。三十年、この言葉を、何度もらってきただろう。そして、もらえなかった朝も、何度あっただろう。今日は、もらえた朝だった。それだけで、この長い一日は、報われた気がした。
「まだ、お礼を言うのは、早いですよ」と透は言った。「これから、あの子ががんばる番です。がんばって、走れるようになったら――そのときに、また、お礼を言ってください。いえ、そのときは、あの子から、直接、聞かせてもらいます。走れるようになったよ、って」
十二
更衣室に戻ったのは、午後のことだった。
透はロッカーの扉を開けた。麦わら帽子の娘が、砂浜で、何かを拾おうとしている。永遠に六つのままの娘が。透は、その写真を、ひととき見た。それから、隣に置かれた、青いマッチ箱を手に取った。三日月の刻まれた、藍色の箱。妻が、路地のどこかの店で買ってきたもの。
彼は、なぜか今日は、その箱を開けてみたくなった。
なかには、まだ、何本かのマッチが残っていた。妻が使い残した、古いマッチ。透は、そのうちの一本を、指でつまみ出した。もう擦る蝋燭もない。火を点ける理由もない。それでも、彼は、その一本を、箱の側面に、そっと擦った。
しゅ、と小さな音がして、火が点いた。
古いマッチだったのに、それは、ちゃんと燃えた。ちいさな、けれど確かな炎が、透の指のさきで、ゆれた。透は、その火を、ひととき見つめた。妻の指が、いつか、この同じ箱で、同じように点した火を。停電の夜も、誕生日の夜も。眠れ、眠れ、と娘に歌いながら。
火は、すぐに、指のほうへ近づいてきた。透は、それを、静かに吹き消した。
ひとすじの煙が、細く、天井へ昇っていった。
その煙を見ながら、透の口のなかで、また、あの歌が回りはじめた。眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。妻が娘に歌っていた歌。娘が、いつか、その子どもに歌うかもしれない歌。歌は、そうやって、手から手へ、声から声へ、渡っていく。技が、そうやって渡っていくように。透が、死んだ指導医から、指の数えかたを受け取ったように。悠真が、いつか大人になって、もしかしたら、誰かに、この朝のことを語るかもしれないように。――ぼくが九つのとき、心臓の手術をしてくれた先生がいてね。手術の朝、空に、蒼い星が出ていたんだって。
そんな日が来るだろうか。来てほしい、と透は思った。心から、そう思った。
窓の外は、もう、真昼をすぎた光だった。明け方の蒼い星は、とっくに消えていた。人も、町も、それぞれの一日の、なかばにいた。透の一日も、ようやく、いちばん険しい峠を越えたところだった。
彼は、燃え残ったマッチを、箱に戻した。まだ、何本か残っていた。次の朝の、次の手術の、次の子どものために。透は、ロッカーの扉を、静かに閉めた。
金属の音が、誰もいない更衣室に、短く響いた。
そして彼は、また明日の朝、指を数えるだろう。一、二、三、四、五。数えられるうちは、まだ、人を切っていい。数えられるうちは、まだ、この持ち場へ、出立していい。――明け方の空に、蒼い星が出ていようと、いまいと。