見よ、まだ、いる
世界がまだ夜より若かったころ、朝という言葉はどこにもなかった。だから、この物語には初め、名づけようのないものが多くある。
一
いちばん最初の世界は、ずっと夜だった。
これを聞くと、いまの人は身をすくめて、さぞ寒く、さぞ暗く、さぞ恐ろしかったろうと思う。けれど、そうではない。そうではなかったのだ、と語り部たちは口をそろえて言う。なぜなら、その世界はまだ、寒いも暗いも恐ろしいも知らなかったからだ。比べるべきものがなかった。夜しかなければ、夜は夜ですらない。それはただ、あるものの全部であった。
その世界には、いくつもの水があった。星の光をためた黒い水、油のように動かぬ水、指を入れると音もなく吸いつく水。水と水のあいだには、やわらかな島があった。島は、寝入った獣の背のように、ゆるやかに息をしていた。獣たちは、そのころみな眠っていた。花も眠っていた。花は眠ったまま咲き、眠ったまま散った。人も——そう、そのころすでに人はいたのだが——人もまた、目を半分だけあけて生きていた。目を全部あけるということを、まだ誰も覚えていなかったのである。
空には、数えきれぬ星があった。星々は流れず、またたきもせず、鋲を打ったように貼りついていた。星のあいだを、ときおり冷たい風がわたった。風がわたると、島の草がいっせいに向きをかえて、さらさらと鳴った。その音を、人々は「うた」と呼んでいた。ほかにうたと呼べるものがなかったからだ。
その世界には、時というものが、まだなかった。時がないので、いつ、ということもなかった。何かがおこる前と、おこった後との区別が、うすかった。人々は、生まれたことと死ぬことのあいだを、ひとつづきの、ながい、ゆるやかな夢としてすごした。腹がすけば水辺の実をとって食べ、眠くなれば眠り、目が半分あけばまた起きた。だれも急がなかった。急ぐべき先が、どこにもなかったからだ。持ち場というものが、まだ、なかったのである。それぞれがどこかへ出かけていって、何かをなしとげ、また帰ってくる——そういう、ゆきかいのことを、人々はまだ知らなかった。世界は、ひとつの、動かぬ、大きな夜の水たまりのようであった。
そして、星々のいちばん端に、一本の光があった。
ほかの星が点であるのに、それだけは尾を引いていた。蒼白い、細く長い尾を、水の面をひとなですするように引いて、じっとかかっていた。人々はそれをただ「あの子」と呼んだ。名づけようのないものに、人々はよく「あの子」という名を貸した。あの子は動かなかった。動かないくせに、じっと見ていると、ほんの少しずつ、位置を変えているような気がした。気がするだけで、確かめるすべはなかった。確かめるという心も、まだ生まれていなかったのだ。
この世界のいちばん深い水のほとりに、ひとりの娘が住んでいた。
娘の名を、いま私たちはトモシビと呼んでいる。けれども、これはずっとあとになってつけられた名だ。娘が生きていたころ、娘には名がなかった。名がないので、母は娘を呼ぶとき、ただ手をのばした。手をのばされると、娘は行った。それが呼ぶということであり、応えるということであった。
娘は、目を全部あけて生まれてきた、ただひとりの子だった。
いまとなっては、これがどれほどふしぎなことか、うまく伝わらぬかもしれぬ。目を全部あけるということは、いまでは、朝、床から起きあがるだれもがすることだ。けれど、そのころ、それは、いっさいの前例のない、たったひとつの事件であった。だれも、まっすぐに、はっきりと、ものを見たことがなかった。すべては、うすもや越しの、なかば夢の、なかばまことの、あいまいなかたちであった。その、あいまいなかたちのなかで、たったひとり、この娘だけが、ものを、そのもののとおりに、見た。見て、そして、そのもののなかに、まだそこにないもの——欠けているもの、つづきになるべきもの——を、感じとった。それが、この娘の、生まれながらの、業であり、さだめであった。
二
これは母の側からいえば、困ったことであった。
ほかの赤子はみな、目を半分だけあけて、うっすらとした夢のなかで乳を飲み、うっすらとした夢のなかで育っていった。ところがこの子は、生まれ落ちたときから、両の目をまんまるにあけて、じいっと母を見あげたのである。母はぞっとした。何を見られているのか、わからなかった。見られるということは、そのころ、誰も経験したことのないものだったからだ。
「この子は、見すぎる」と、母は年老いた者に相談した。
年老いた者は、いちばん動かぬ油のような水のほとりに住み、この世界のことをいちばん多く覚えていた。覚えているといっても、その者もまた半分眠っていたので、覚えていることの半分は夢であった。年老いた者は、娘の目をのぞきこんで、ながいこと黙っていた。それから、こう言った。
「この子の目には、ないものが映っている」
「ないもの、とは」と母は問うた。
「わしにもわからん」と年老いた者は答えた。「わからんから、ないのだ。だが、この子には見えているらしい。見えているものを、いつか、この子はほしがるだろう。ほしがったら——」
そこで年老いた者は口をつぐんだ。つぐんだまま、目を半分とじて、また眠りに落ちてしまった。母は、言い終わらぬ言葉のつづきを、ながいこと待った。けれど、つづきはとうとう来なかった。年老いた者は、それきり、二度と目をあけなかったからである。眠ったまま水にとけ、水は少し温かくなり、それでおしまいだった。
娘は育った。
ほかの子が眠りのなかで大きくなるのに、娘はいつも起きていた。起きていたので、娘はいろいろのことに気がついた。花が眠ったまま咲くこと。獣の背が上下すること。風がわたると草が鳴ること。そして——空の端の、あの子だけが、ほんの少しずつ動いていること。
娘はある夜、母の手のなかで、こう尋ねた。夜、と言ったが、そのころはすべてが夜だったので、これはただ「あるとき」という意味である。
「かあさん。あの子は、どこへ行くの」
母は驚いた。母には、あの子が動いているとは見えなかったからだ。
「あの子は、どこへも行かないよ」と母は言った。「あそこに、ずっといるのだよ」
「ちがう」と娘は言った。娘の声は静かで、けれども確かだった。「あの子は、少しずつ、水のほうへおりてきている。いつか、あの水の、向こうがわにおりてしまう。そうしたら、もう見えなくなる」
母は、娘の言うことがこわかった。見えなくなる、という言葉が、母のなかで冷たくひろがった。母はそのとき初めて、失う、というものの形を、うっすらと感じたのだった。
「そんなことを言うものではない」と母は言った。手をのばして、娘の目をふさごうとした。
けれど娘は、その手のあいだから、なおも空を見ていた。
三
娘の目に映る「ないもの」が、何であるか。
それは、娘自身にも、ながいことわからなかった。ただ、娘には、この世界のどこかに、いまここにあるものと「ちがうもの」がある、という感じがつきまとって離れなかった。夜の反対がある、という感じ。眠りの反対がある、という感じ。あの子の蒼白い光とはべつの、もっと大きな、もっと温かい光が、どこかにしまわれている、という感じ。
娘は、それをさがしにいくことにした。
母は泣いた。母は娘の片手をとって、放さなかった。
「行ってはいけない。この世界のふちには、何もない。何もないところへ行けば、おまえも何もなくなってしまう」
「でも、かあさん」と娘は言った。「わたしには、あるように見えるの」
母は、もう一方の手で、娘の手袋を編んでいた。ふちのないところは冷たいと聞いていたので、せめて手だけでも守ってやりたかったのだ。母は、藍色の糸で、ふたつの手袋を編もうとしていた。けれど、片方を編みおえたところで、娘は行ってしまった。だから、母の手には、いつまでも片方だけの手袋が残った。
母は、その片方だけの手袋を、ながいこと胸に抱いていた。抱いたまま、母もまた、いつしか半分眠りのなかに沈んでいった。目を半分あけたまま、母は片方の手袋を握りしめ、片方だけの手を宙にのばして、そこにいない娘を、いつまでも呼びつづけた。
娘は、片手にだけ手袋をはめて、旅に出た。
はめていないほうの手で、娘は水にさわりながら歩いた。水は冷たく、指を吸った。けれども娘は、その冷たさを、なつかしいと思った。冷たさの向こうに、温かさがあることを、娘は指で覚えようとしていたのだ。
四
はじめに娘が出会ったのは、影を織る者であった。
影を織る者は、いちばん暗い水と水のあいだの、細い島に住んでいた。その者は、指のあいだから、黒い糸のようなものをたぐり出し、それを幾重にも織りかさねて、夜をつくろっていた。夜は、放っておくとほつれる。ほつれた夜のすきまから、あの子の蒼白い光がもれる。影を織る者は、そのほつれを、たえまなく織りつくろっていたのである。
「どこへ行く」と、影を織る者は、手をやすめずに尋ねた。
「光をさがしにいく」と娘は答えた。「夜の反対の光を。それをこの世界に渡したいの」
影を織る者の指が、はたと止まった。
「よしなさい」と、その者は言った。低い、糸のかすれるような声だった。「わたしは、夜を織る者だ。夜がほつれれば、わたしの仕事はふえる。だが、そのために言うのではない。おまえのためを思って言うのだ。——考えてもみよ。もしこの世界に、夜の反対の光が満ちたら。眠っている花はどうなる。眠っている獣はどうなる。半分あけた目で生きている者たちは、その光に、まともに射られる。射られて、目を全部あけてしまう。全部あけたら、もう半分にはもどれない。もどれないまま、その者たちは、見なくてもよかったものを、みな見てしまうのだよ」
「見なくてもよかったもの、とは」と娘は問うた。
「たとえば」と影を織る者は言った。「自分がいつか、この水にとけて消えるということ。となりの島が、じつは自分とは別のものだということ。愛していると思っていたものが、じつはただ、暗くて見えなかっただけかもしれぬということ。——光は、それらをみな、照らしだしてしまう。おまえは、この世界に、そういうものを渡そうというのか」
娘は、ながいこと黙っていた。
やがて、娘は言った。「でも」と。
「でも、それでも、見たいと思う心が、わたしのなかにあるの。見て、それでもなお、愛したいと思う心が。暗くて見えないから愛せるのなら、それは、ほんとうに愛したことになるのかしら」
影を織る者は、答えなかった。答えるかわりに、また黒い糸をたぐりはじめた。たぐりながら、その者は、背を向けたまま、こう言った。
「行くなら、行くがよい。だが、覚えておけ。おまえが光を渡した日から、わたしの織る夜には、必ず、片端にほつれが残る。どんなに織っても、ふさがらぬほつれがな。そのほつれから、いつまでも、蒼白いものがもれつづける。——それが、おまえの渡す光の、代償だ」
娘は、そのときは、その言葉の意味がわからなかった。わからぬまま、頭をさげて、島を出た。
五
つぎに娘が出会ったのは、うたを守る者であった。
うたを守る者は、風のよくわたる島に住んでいた。風がわたると草が鳴る、あの音——人々が「うた」と呼んだ、たったひとつのうた——を、その者は、耳を島の土につけて、いつまでも聞いていた。聞きながら、その者は、口のなかで、それをなぞっていた。
娘が近づくと、うたを守る者は、顔をあげた。
「おまえ、ひどく明るい顔をしている」と、その者は言った。「まるで、まだない光を、もう浴びてしまったような顔だ」
「わたしは、光をさがしにいくの」と娘は言った。
うたを守る者は、悲しそうに笑った。
「ならば、これを持っておいき」と、その者は言った。そして、口のなかでなぞっていたうたを、はじめて声に出した。それは、ながく、ゆるやかな、寄せてはかえす波のようなうただった。娘は、そのうたを、生まれて初めて、うたとして聞いた。草の鳴る音ではなく、誰かの声としてのうたを。
「これは、ねむりのうただ」と、うたを守る者は言った。「はるかむかしから、母から子へ、口うつしに伝わってきた。——眠れ、眠れ。星が海をわたるまで。眠れ、眠れ。星が海をわたるまで。ずっと、そうやって、みなを眠らせてきたうただ」
「なぜ、それをわたしに」と娘は問うた。
「おまえが、光を渡してしまえば」と、その者は言った。「もう、みなは眠らなくなるかもしれぬ。眠らぬ者に、ねむりのうたは要らぬ。だから、このうたは、いつか忘れられる。——だが、もし。もし、光を渡してもなお、みなが眠るときがくるなら。そのときのために、おまえが覚えておいておくれ。ひとつの世界に、光と眠りが、両方あるように。おまえの渡す光が、眠りを殺してしまわぬように」
娘は、そのうたを、胸に受けとった。受けとったしるしに、娘は、そのうたを、小さく口ずさんでみた。眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。声に出すと、娘の胸のなかで、片方だけの手袋のことが、ふいに温かくなった。母の手が、藍色の糸をあやつっていた、あのときの気配が。
「ありがとう」と娘は言った。
うたを守る者は、また島の土に耳をつけて、風の音を聞きはじめた。聞きながら、その者は、背を向けたまま、こう言った。
「行くなら、行くがよい。だが、覚えておけ。おまえが光を渡した日から、このうたは、ねむりのうたでありながら、同時に、光を寿ぐうたにもなる。ひとつのうたが、ふたつの意味を持つ。——夜を惜しむ心と、朝をよろこぶ心とが、同じ節にのって、ひとつになる。それが、おまえの渡す光の、贈りものだ」
娘は、そのときも、その言葉の意味がわからなかった。わからぬまま、頭をさげて、島を出た。
六
三ばんめに娘が出会ったのは、はじまりを恐れる者であった。
はじまりを恐れる者は、島でも水でもない、その中間の、じくじくした泥の岸に、うずくまっていた。その者は、両手で耳をふさぎ、両膝に顔をうずめ、ちいさく、ふるえていた。娘が近づくと、その者は、顔をあげずに、くぐもった声で言った。
「来るな。来るな。おまえは、変えようとする者だ。わたしには、においでわかる」
「わたしは、光をさがしにいくの」と娘は言った。「夜の反対の光を」
「知っている」と、はじまりを恐れる者は言った。「だから、来るなと言うのだ。——おまえは、この世界に、はじまりを持ちこもうとしている。はじまりは、いちばん恐ろしいものだ。なぜだかわかるか。はじまりがあれば、かならず、おわりがあるからだ。いままで、この世界には、はじまりもおわりもなかった。ただ、ずっと、つづいていた。つづいているものには、失うということがない。ところが、おまえが光を渡し、朝というはじまりをつくれば、そのとたん、夕という、おわりが、うまれる。朝がはじまるということは、いつか夜がおわるということであり、夜がおわるということは、いつか、また朝がおわるということだ。——おまえは、この世界に、失うということを、教えようとしているのだ」
娘は、泥の岸に、そっと膝をついた。恐れる者の、まるめた背に、目の高さをあわせた。
「そう」と娘は言った。「そうかもしれない。わたしは、失うということを、この世界に、渡すのかもしれない。——でも」
「でも、なんだ」
「失うことのない世界では」と娘は言った。「たぶん、だれも、なにも、いとおしまない。ずっとつづくとわかっているものを、人は、いとおしんだりしない。いとおしむというのは、いつか失うと知っている手が、それでも、いま、そばにあるものを、そっとつつむことだから。——わたしは、いとおしむということを、この世界に渡したいの。そのためになら、失うということも、いっしょに渡す」
はじまりを恐れる者は、ながいこと、黙っていた。
それから、その者は、はじめて、顔をあげた。泥にまみれた顔だった。その顔を、娘のほうへ向けて、恐れる者は、こう言った。
「では、ひとつだけ、教えておこう。——おまえが渡す朝は、一度きりではすまない。一度朝をつくれば、朝は、めぐるものになる。めぐるということは、くりかえすということだ。人は、くりかえされる朝に、やがて、なれてしまう。なれてしまえば、朝のありがたさを、忘れる。おまえがどれほどの代償をはらって渡したものかも、忘れる。ただ、あたりまえのものとして、毎朝、目をさまし、あくびをして、持ち場へ出かけていくだろう。——それでも、おまえは、渡すか」
「渡す」と娘は、まよわず言った。「わすれられても、いい。わすれられるくらい、あたりまえになるくらい、この世界になじんでくれるなら、それが、いちばんいい。——贈りものは、贈った者の名が忘れられて、はじめて、ほんとうに、その人のものになるのだから」
はじまりを恐れる者は、その言葉を聞くと、ふしぎなことに、ふるえるのを、やめた。
「行け」と、その者は言った。もう、来るなとは言わなかった。「行って、渡してこい。——わたしは、おまえが朝を渡したら、恐れることを、やめてみよう。恐れるかわりに、まちがえるだろう。まちがえて、後悔するだろう。失って、悲しむだろう。——だが、それらは、みな、いままでの、ながい夢のなかには、なかったものだ。おまえが、連れてくるものだ。わたしは、それを、待ってみよう」
娘は、泥の岸で、恐れる者の手を、いちど、そっとにぎった。手袋をはめていないほうの手で。恐れる者の手は、つめたく、しめっていたが、にぎりかえす力は、たしかにあった。
娘は、頭をさげて、泥の岸を、あとにした。
娘は、歩きつづけた。
水をわたり、島をこえ、また水をわたった。はめていないほうの手で水にさわり、その冷たさをたよりに、温かさのほうへ、温かさのほうへと歩いた。歩くうちに、星々が、ゆっくりと背後に流れていった。そして、あの子——空の端の、蒼白い尾を引くあの子だけが、いつまでも、娘のゆく手のほうにあった。
娘は、あの子について歩いていることに、あるとき気づいた。
「あなたも、どこかへ行くの」と、娘はあの子に話しかけた。
あの子は、もちろん、答えなかった。けれど、娘には、あの子が、ほんの少しうなずいたように見えた。あの子の蒼白い尾が、ふうっと、ゆく手のほうへなびいたのだ。
「わたしたち、おなじほうへ行くのね」と娘は言った。
それからの旅は、さびしくなかった。あの子がいたからだ。娘が歩けば、あの子も少し動いた。娘が休めば、あの子も止まった。ふたりは、口をきかぬ道づれとして、世界のふちを、いっしょにめざした。
七
とうとう、娘は、世界のふちに着いた。
世界のふちは、影を織る者が言ったとおり、何もないところだった。水もなく、島もなく、星もなかった。ただ、大きな、黒い、こぼれ落ちるような虚があった。娘は、そのふちに立って、はめていないほうの手を、虚のなかへ、そっとさしのべた。
すると。
指の先に、何かがふれた。
それは、これまでにふれたどんな水よりも、温かかった。温かくて、けれど、なぜだろう、涙が出るほど、なつかしかった。娘は、その温かいものを、両手で——片方だけ手袋をはめた両手で——すくいあげた。
それは、光だった。
夜の反対の、はじめての光。まだ誰も見たことのない、大きな、温かい、金色の光。それは、世界のふちの、そのまた向こうに、ずっと昔からしまわれていたのだ。誰にも気づかれず、誰にもほしがられず、ただ、ほしがる者が来るのを、待っていたのだ。
娘は、光をすくいあげて、胸に抱いた。
抱いたとたん、娘は、その重さに、膝をついた。
光は、重かった。世界のどんなものよりも重かった。娘は、その重さで、あやうく虚のなかへ引きこまれそうになった。娘は、歯をくいしばって、こらえた。こらえながら、娘は、初めて、影を織る者の言葉の意味を知った。
——これを渡すには、代償が要る。
光は、ただでは渡せなかった。この重い光を、世界のまんなかまで運び、みなの上にひろげるには、運ぶ者が、そのぶんだけ、軽くならねばならなかった。軽くなるとは、すなわち、自分のなかから、何かを、この虚に置いていくということだった。
娘は、まず、名を置いていこうとした。けれど、娘には、もともと名がなかった。置いていくべき名を、娘は持っていなかったのだ。
つぎに、娘は、覚えていることを置いていこうとした。母の手のぬくもり。片方だけの手袋。ねむりのうた。あの子と歩いた道。——けれど、娘は、それらを置いていくことが、どうしてもできなかった。それらを置いていけば、なんのために光を渡すのか、わからなくなる。愛するもののために光を渡すのに、愛したことを忘れてしまっては、なんにもならない。
娘は、ながいこと、虚のふちで考えた。
そして、とうとう、娘は、いちばん置いていきたくないものを、置いていくことにした。
娘は、自分の目を、置いていくことにしたのだ。
八
これは、こういうことである。
娘は、この世界でただひとり、目を全部あけて生まれた子だった。目を全部あけていたから、娘は「ないもの」を見ることができた。光を、さがしあてることができた。——けれど、いまや、光はここにある。もう、さがす目は要らない。
これから娘がすべきことは、見ることではなかった。渡すことだった。
見る目を虚に置いていけば、娘はそのぶん軽くなる。軽くなれば、この重い光を、世界のまんなかまで運べる。運んで、みなの上にひろげられる。——ただし、そのとき、娘自身は、その光を、二度と見ることができない。
はじめての光を、いちばん見たかった者が、いちばん最後まで、それを見られない。
娘は、それでいい、と思った。
「わたしは、もう、見た」と娘はつぶやいた。「ふちの向こうの、しまわれていた光を、わたしは、この手ですくった。この手が覚えている。それでいい。——見るのは、これから、みなの番だ」
娘は、はめていないほうの手を、自分の両の目にあてた。それから、静かに、目を、虚のなかへ返した。見る力を、はじめての光を見つけた者へのほうびとしてではなく、はじめての光をみなに渡すための代償として、娘は、虚に置いていったのである。
娘の目は、閉じた。
閉じたけれど、娘は、こわくなかった。なぜなら、娘の胸には、まだ、あのうたがあったからだ。眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。娘は、それを口ずさみながら、光を抱いて、立ちあがった。
そして、目を閉じたまま、来た道を、もどりはじめた。
九
目が見えなくなった娘には、道づれが、いっそう大切だった。
「あの子」と、娘は、空にむかって呼んだ。もう見えぬあの子に。「わたしは、目を置いてきたの。もう、あなたが見えない。だから、どうか、声で、道を教えて」
もちろん、あの子は、声を持たなかった。
けれど、そのとき、ふしぎなことがおこった。あの子——蒼白い尾を引く、あの子が、すうっと、娘のすぐそばまでおりてきたのだ。そして、娘の、はめていないほうの手のひらに、ちいさな冷たい光の粒を、ひとつ、落とした。
その粒は、道しるべだった。
娘が正しいほうへ歩けば、粒は温かくなった。まちがったほうへ歩けば、粒は冷たくなった。娘は、その冷たさと温かさをたよりに、目を閉じたまま、水をわたり、島をこえ、また水をわたった。あの子は、娘の頭上を、蒼白い尾を引いて、ゆっくりと、ついてきた。
道すがら、娘は、うたをうたった。眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。うたをうたうと、眠っている花が、眠ったまま、少しだけ、娘のほうへ首をかたむけた。眠っている獣が、眠ったまま、少しだけ、耳を動かした。半分あけた目で生きている人々が、半分の目で、通りすぎる娘を見送った。
「あれは、誰だ」と、人々はささやいた。
「目を閉じているのに、まっすぐ歩いている」
「胸に、なにか、重いものを抱いている」
「なにか、温かいものが、あの者から、もれている」
人々は、娘のあとを、そっとついてきた。半分あけた目で、うっすらと、娘の胸からもれる温かいものを、見ようとしながら。
十
娘は、とうとう、世界のまんなかに着いた。
世界のまんなかは、いちばん深い水のほとりだった。娘が生まれ、母が娘を編んだ手で送りだした、あの場所だった。娘には、それが見えなかった。けれど、においで、音で、足の裏の土のやわらかさで、娘には、そこがどこか、わかった。
「かあさん」と娘は呼んだ。
母は、そこにいた。片方だけの手袋を握りしめ、片方だけの手を宙にのばして、半分眠ったまま、いつまでも娘を呼びつづけていた、あの姿のまま。
娘は、母のそばに、そっと座った。
「かあさん。わたし、光を持ってきたの」と娘は言った。「夜の反対の、はじめての光を。いまから、これを、みなの上にひろげる。そうしたら、この世界に、夜ではないときが、生まれるの。——わたしは、それを見られない。目を置いてきたから。だから、かあさん。かあさんが、かわりに見て。そして、いつか、それがどんなだったか、わたしに、教えて」
母は、半分あけた目を、ゆっくりと、全部あけた。
はじめて全部あけた目で、母は、娘を見た。目を閉じ、胸に温かい光を抱き、片手にだけ手袋をはめた、娘を。母の目から、涙がこぼれた。母は、握りしめていた片方だけの手袋を、娘の、手袋をはめていないほうの手に、そっとはめてやった。
これで、娘の両手は、藍色の手袋で、揃った。
「さあ、かあさん」と娘は言った。「見ていて」
娘は、胸に抱いた光を、両手で——藍色の手袋で揃った両手で——高く、高く、さしあげた。
十一
さしあげられた光は、はじめ、ためらった。
なにしろ、この世界には、光のひろがるべき道が、まだなかったのだ。夜しかない世界には、光の通り道が、なかった。光は、娘の手のなかで、まるくちぢこまって、出ていくのをためらった。
娘は、うたった。
眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。
すると、うたにさそわれて、光が、ほどけはじめた。ゆるやかに、寄せてはかえす波のように、光は、娘の手から、こぼれ、ひろがりはじめた。まず、いちばん深い水の面を、金色がすべった。つぎに、島のふちを、金色がなでた。眠っている花が、その金色にふれて、はじめて、眠ったままではなく、目ざめて、咲いた。眠っている獣が、その金色にふれて、はじめて、背をのばして、立ちあがった。
半分あけた目で生きていた人々は、その金色に射られて、みな、目を、全部あけた。
全部あけた目で、人々は、見た。
自分がいつか、この水にとけて消えるということを。となりの島が、じつは自分とは別のものだということを。愛していると思っていたものの、その顔の、いちばん細かなところまでを。——影を織る者が言ったとおり、光は、それらをみな、照らしだした。
それだけではなかった。全部あけた目で、人々は、たがいの顔を、はじめて、はっきりと見た。となりに眠っていた者が、こんな顔をしていたのかと、人々は、おどろいた。おどろいて、その顔に、見おぼえのあるような、ないような、なつかしさをおぼえた。ながい夢のあいだ、うすもや越しに、たしかにそこにいた者の、その、まことのかたち。ある者は、それを見て、笑った。ある者は、それを見て、名を——まだ名のなかったころに、それでも呼びかわしていた、手の合図のかわりの、ちいさな声を——思わず、口にした。声に出して呼ぶということが、そのとき、はじめて、生まれた。呼ばれた者は、ふりむいた。ふりむいて、呼んだ者の顔を、見た。ふたりは、光のなかで、たがいを、たしかめあった。
人々は、泣いた。
けれど、それは、こわくて泣いたのではなかった。
美しくて、泣いたのだった。
見なくてもよかったものは、同時に、見られてよかったものでもあったのだ。いつか消えるとわかったからこそ、いまがいとおしかった。別のものだとわかったからこそ、それでもとなりにいることが、ありがたかった。細かなところまで見えたからこそ、その顔は、暗くて見えなかったころよりも、ずっと、深く、愛された。
これが、はじめての朝だった。
十二
朝は、世界じゅうにひろがった。
金色の光は、水をわたり、島をこえ、また水をわたり、影を織る者の島にまで、とどいた。影を織る者は、光が来ると、織りかけの夜を、そっと膝におろした。そして、その夜の、片端に、どうしてもふさがらぬほつれが、ひとつ、残るのを見た。約束のとおりだった。ほつれから、蒼白いものが、いつまでも、もれつづけていた。
けれど、影を織る者は、それを、つくろおうとしなかった。
「これでいい」と、その者はつぶやいた。「夜のはしに、光ののこりがある。光のはしに、夜ののこりがある。ふたつは、たがいに、片端をあずけあっている。——これが、これからの、この世界のかたちだ」
うたを守る者の島にも、光はとどいた。うたを守る者は、光が来ると、島の土から耳をあげた。そして、風のわたる音とはべつに、遠くから、うたが聞こえてくるのを聞いた。娘のうたっている、あのうただった。眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。——けれど、それは、いまや、ねむりのうたであると同時に、朝を寿ぐうたにもなっていた。ひとつのうたが、ふたつの意味を持って、世界じゅうに、ひろがっていった。約束のとおりだった。
そうして、はじめての朝は、完成した。
十三
朝がすっかりひろがったとき、人々は、はじめて、光を渡した者のことを、思い出した。
「あの者は、どこだ」と、人々は、全部あけた目で、あたりを見まわした。
娘は、いちばん深い水のほとりに、母のそばに、静かに座っていた。両手を、藍色の手袋でそろえて、膝の上にのせて。目を、閉じたまま。
「見えたかい、かあさん」と娘は、母に尋ねた。「はじめての朝は、どんなだった」
母は、全部あけた目に、涙をいっぱいためて、娘の手を、両手でつつんだ。
「金色だった」と母は言った。「金色で、温かくて、——おまえの、目のなかに、いつも映っていた、あの、ないものの、とおりだったよ。おまえが見ていたものが、いま、ここにある。おまえが、ここに、連れてきたのだよ」
娘は、微笑んだ。目を閉じたまま。
「そう」と娘は言った。「よかった」
それだけ言うと、娘は、母の肩に、そっと、頭をあずけた。あずけて、うたを、もう一度、ちいさく口ずさんだ。眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。うたいながら、娘は、ゆっくりと、まどろみはじめた。
「おやすみなさい、かあさん」と娘は言った。
「おやすみ」と母は言った。
そうして娘は、はじめての朝の光のなかで、はじめての眠りに、おちていった。目を全部あけて生まれ、光をさがしつづけて一度も休まなかった娘が、光をみなに渡しおえて、はじめて、ゆっくりと眠ったのである。
娘の眠りは、ながかった。
十四
娘が眠っているあいだに、世界は、すっかりかたちを変えた。
朝が来て、そして——朝が来たからには、朝は、いつか、去らねばならなかった。ひろがった光は、やがて、西の水のほうへ、かたむいていった。そして、光がかたむいたところから、影が、もどってきた。けれど、それは、もとの夜ではなかった。それは、光を一度知った夜であった。人々は、その夜を、こわがらなかった。なぜなら、人々は、いまや、知っていたからだ。夜のあとには、また、朝が来ることを。
こうして、世界に、昼と夜のめぐりが、生まれた。
朝が来て、昼になり、夕になり、夜になり、そして、また、朝が来る。娘が一度渡した光は、それから、めぐりめぐって、絶えることがなかった。世界は、もう、ずっと夜ではなくなった。世界は、めぐるものになった。
けれど、めぐるもののなかで、ひとつだけ、めぐらぬものが、残った。
それが、あの子であった。
十五
あの子——蒼白い尾を引く、あの子は、娘が眠ったあとも、空にのこった。
朝が来ると、ほかの星々は、みな、金色の光のなかに、姿を消した。けれど、あの子だけは、消えきらなかった。昇る陽のなかに、うっすらと、蒼白い尾を、消えのこして、なおしばらく、かかっていた。まるで、眠った娘を、いつまでも見まもるかのように。
やがて、人々は、明け方の空に、そのうっすらとした蒼白い名残を見ると、こうささやくようになった。
「ああ、あの子が、まだ、いる」
「あの子は、光を渡した娘の、道づれだった」
「娘が眠るまえ、あの子は、娘の手に、道しるべの粒を落としてやったのだ」
「だから、あの子は、いまも、消えのこる。娘が、いつか目ざめる朝を、見のがすまいとして」
これが、世界に最後までのこった、夜の光であった。
朝が来て、みなが目ざめ、みなが持ち場へ出立していく、そのいちばん端に、あの子は、いつも、うっすらとかかっていた。夜のなごりでありながら、朝のはじまりを、いちばん近くで見とどける者として。人々は、あの子を、ながく、「みら」と呼んだ。「見よ」ということばと、「まだ、いる」ということばが、いつのまにか、ひとつにとけあって、その名になったのだと、語り部たちは言う。
みら。
——見よ、まだ、いる。
明け方の空に、それを見つけた者は、なぜか、胸のおくが、あたたかくなる。理由は、たいてい、わからない。けれど、それは、はじめて光を渡した娘が、目を置いてまで、みなに見せたかったものの、いちばん最後の、いちばん薄い、なごりなのだ。
十六
さて、この物語には、まだ、語りのこしたことがある。
眠った娘は、それきり、目ざめなかったのだろうか。
いや、と語り部たちは言う。いや、そうではない。
娘は、いまも、眠っている。世界のいちばん深い水のほとりで、藍色の手袋で両手をそろえ、母の肩に頭をあずけて。けれど、娘の眠りは、死ではない。娘は、朝が来るたびに、ほんの少しだけ、目ざめかける。
それがいつかというと——明け方だ。
夜が明けきらぬ、いちばん暗いところから、いちばん明るいところへ、世界がうつりかわる、あのわずかなあいだ。そのとき、娘は、閉じた目のおくで、うっすらと、光を感じる。感じて、口のなかで、あのうたを、ちいさく口ずさむ。眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。すると、そのうたが、風にのって、世界じゅうにひろがる。ひろがって、眠っている者を、そっとゆり起こす。
だから、と語り部たちは言う。だから、朝、目がさめるとき、なんだか、誰かに、やさしく呼ばれたような気がするのだ。手をのばされたような気がするのだ。あれは、娘のうただ。目を置いてまで光を渡した娘が、いまも、眠りのなかから、みなを起こしている、あのうただ。
そして、母は——母は、どうなったのか。
母は、娘の眠るそばで、いつまでも、起きている。全部あけた目で。かつて娘が、たったひとり、全部あけた目で世界を見ていたように、いまは母が、全部あけた目で、世界を見まもっている。娘が渡した光が、絶えず、めぐっているかどうかを。めぐりが、どこかで、とどこおっていないかを。
母は、見まもりながら、片方だけの手袋のことを、ときどき、思い出す。
はじめ、母の手には、片方だけの手袋があった。もう片方は、娘が旅に持っていった。長い旅ののち、娘は、その片方を、母に返させることになった——いや、母が、娘に、返した。片方だけだった手袋が、ふたたび、対になって、娘の手におさまった。母の手には、いまや、手袋は、一つもない。
けれど、母は、それを、さびしいとは思わない。
「わたしの手袋は」と、母は、明け方の空にむかって、つぶやく。「あの子の手に、ある。あの子が、あたたかいなら、それでいい。手袋というものは、そういうものだ。だれかの手を、あたためるためにある。編んだ者の手が、寒くてもかまわない」
そう言って、母は、素手のまま、娘の眠る肩に、そっと、手をおく。
十七
これが、はじめての朝の、物語である。
いまも、朝が来るたびに、この物語の、はじめの一こまが、くりかえされている。
夜が明ける。世界のいちばん深いところから、金色の光が、ゆっくりと、ひろがってくる。花が咲く。獣が立つ。人々が、半分の眠りから、全部の目ざめへと、うつっていく。それぞれが、それぞれの持ち場へ、出立していく。舟を出す者は舟を出し、火をおこす者は火をおこし、遠くへゆく者は、片手に手袋をはめて、水にさわりながら、歩きはじめる。
そのすべてのはじまりに、はじめて光を渡した娘の、目を置いていった代償が、しずかに、息づいている。
だれも、そのことを、もう、おぼえてはいない。はじまりを恐れる者が言ったとおり、朝は、あたりまえのものになった。人は、毎朝、あくびをして起き、顔を洗い、持ち場へと出かけていく。そのひとつひとつのしぐさの底に、目を置いてまで光を運んだ娘のことなど、だれも、思いうかべはしない。——けれど、それでよいのだ、と娘なら言うだろう。忘れられるほどになじんだのなら、それが、いちばんよいのだ、と。贈りものは、贈った者の名が忘れられて、はじめて、ほんとうに、その人のものになるのだから。
明け方の空を、ふと見あげてごらん。
昇る陽のなかに、まだ、うっすらと、蒼白いものが、消えのこっているだろう。細く、長い、尾を引いて。あれが、みらだ。見よ、まだ、いる。世界に最後までのこった、夜の光。眠った娘を見まもる、道づれの光。
そして、どこか遠くで、風にのって、うたが聞こえてこないだろうか。ながく、ゆるやかな、寄せてはかえす波のようなうたが。眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。——それは、ねむりのうたでありながら、朝を寿ぐうただ。夜を惜しむ心と、朝をよろこぶ心とが、同じ節にのって、ひとつになったうただ。
そのうたを聞いたら、あなたは、きっと、目をさますだろう。全部あけた目で。そして、あなたの持ち場へ、出立するだろう。
見なくてもよかったものを、見て。それでもなお、愛して。
——それが、はじめての朝が、この世界にのこした、いちばんの贈りものなのだ。
十八
ずっとのちの世に、こんなことがあったという。
彗星が、めずらしく、地の近くまでめぐってきた、ある夜のこと。蒼白い長い尾が、ひとの町の空に、ながながとかかった。その夜だけ、どこの町のかたすみにも、ふしぎな古い書房が、ひとつ、あらわれた。人はそれを、月光書房と呼んだ。彗星の夜にだけあらわれ、朝には、どこにもなくなる書房であった。
ひとりの旅の者が、その夜、その書房に、まよいこんだ。
書棚のいちばん奥に、ひどく古い、一冊の本があった。旅の者が手にとると、それは、いまあなたが読んでいる、この物語であった。旅の者は、ろうそくに火をつけようとして、卓のうえに、藍色のマッチ箱を見つけた。三日月の刻まれた、ちいさなマッチ箱。すり切れた一本のマッチで火をともし、旅の者は、この物語を、明け方まで、読みふけった。
読みおえたとき、東の空が、しらみはじめていた。
旅の者は、書房を出た。出て、明け方の空を見あげた。すると、昇りはじめた陽のなかに、うっすらと、蒼白いものが、消えのこっていた。旅の者は、それを見て、なぜか、胸のおくが、あたたかくなった。理由は、わからなかった。ただ、遠くから、風にのって、ながい、ゆるやかなうたが、聞こえてくるような気がした。
眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。
旅の者は、しばらく、そこに立っていた。それから、藍色の手袋を——なぜか、片方だけになっていた手袋を——片手にはめて、まだ町のねむる方角へ、ゆっくりと、出立していった。
うしろで、月光書房は、朝の光にとけて、もう、どこにもなかった。
けれど、それでよかったのだ。
夜のはしに、光ののこりがある。光のはしに、夜ののこりがある。ふたつは、たがいに、片端をあずけあっている。——それが、はじめての朝から、いまにいたるまで、ずっと、この世界の、かたちなのだから。
見よ。まだ、いる。
そして、朝が来る。