湯気の柱
湯というものは、と梅乃は思う、人よりも先にその日を知っている。
朝いちばんに焚き口の火を落として、まだ薄暗いうちに沸かしはじめる。井戸から引いた水が、床下の釜でゆっくりと熱を持ちはじめると、まず匂いが変わる。冷たい石の匂いが、湯気のふくらんだ甘い匂いに変わる。それから音が変わる。ぱき、ぱき、とタイルが目を覚ますように鳴る。梅乃はその音を、もう五十と幾年、番台の上で聞いてきた。
巳の刻――町の者はそんな古い言い方をしないけれど、梅乃の亡くなった母はそう呼んだ。朝の九時から昼前の、湯が空になる刻。勤め人はとうに出払い、学校の子らは机の前にいて、店を持つ者は仕込みに追われている。この時分に湯へ来るのは、行き場のない者と、暇を持て余した者と、そして年寄りだ。
「梅乃さん、今日はぬるいねえ」
脱衣所の板戸ががたぴしと開いて、しん、と冷えた空気が一筋、番台の足もとを撫でていった。声の主を見なくても分かる。豆腐屋の隠居、佐々木のじいさんだ。
「そんなことないよ、じいさん。あんたの体が冷えてるんだ」
「そうかねえ」
じいさんは下駄をつっかけたまま、脱衣籠のほうへよたよたと歩いていく。梅乃の座る番台は、ちょうど男湯と女湯の境の壁を背にして、両方の脱衣所を見渡せる位置にある。高い台の上から見下ろすと、じいさんの頭のてっぺんの、薄くなった白髪の渦がよく見えた。
昼前の湯は、空いている。
梅乃の父が、この「松の湯」を建てたのは戦のあとだ。焼け残った町の、焼け残った路地の突きあたりに、父はまず釜を据えた。湯屋というのは、家のない者、風呂のない者、どこにも身の置きどころのない者が、裸になって一つの湯に浸かる場所だ。焼け跡の町には、そういう者ばかりだった。
梅乃はそのころ、まだ十かそこらだった。番台にのぼって町を見るのが好きだった。高いところから見ると、人はみな小さくて、けれど一人ひとり、ちゃんと歩いていた。
父が死んで、母が番台に座り、その母も逝って、梅乃が座った。夫が生きていたころは二人で回した。夫が逝ってからは、一人だ。子はなかった。だから梅乃は、この番台を継ぐ者のことは、もう考えないことにしている。
考えても、いない者は、いない。
「なあ梅乃さん」佐々木のじいさんが、帯を解きながら言った。「今朝がた、彗星が見えたって話、聞いたかい」
「彗星?」
「ミラってやつだと。孫がな、学校で習ったとかで、明け方に叩き起こされたよ。東の空にな、こう、青っぽいのが、ぽつんと」
「へえ」
梅乃は帳面に目を落としたまま、生返事をした。彗星なんぞ、この歳になると珍しくもない。子どものころにも、たしか一度、大きな尾を引くのが出た。町じゅうが夜空を見上げて、母は梅乃を抱いて縁側に座り、あれはお不動さまのお使いだよ、と言った。あのとき見たものが、この目のどこかにまだ残っている気がする。
「もう昼だから、見えねえだろうがな」じいさんは湯に向かいながら言った。「明け方だけだと」
「そうかい」
板戸の向こう、男湯のほうから、じゃぶり、と湯を使う音がした。それから、ふう、と長い息。
「あー、生き返るなあ」
生き返る、とじいさんは毎朝そう言う。梅乃はそのたびに、まだ生きてるくせに、と思う。けれど、その「生き返る」の一言のために、じいさんは毎朝ここへ来るのだ。誰かに「生き返るなあ」と言うために。
佐々木のじいさんは、去年、連れ合いを亡くした。八十を過ぎての、独り暮らしだ。豆腐屋は、とうに息子夫婦に譲った。だから、じいさんには、もう、やることがない。朝、目が覚めても、話す相手がいない。飯を炊いても、向かいに座る者がいない。
そういう年寄りが、この町には、多い。
だから、湯へ来る。湯へ来れば、梅乃がいる。さだ子がいる。お六さんがいる。「今日はぬるいねえ」と言えば、「あんたの体が冷えてるんだ」と返ってくる。その、ただの、なんでもない、やりとりのために、じいさんは、下駄をつっかけて、路地を、よたよたと、歩いてくる。
梅乃は、それを、知っている。だから、番台を、空けない。誰も来ない昼前でも、梅乃は、ここに、座っている。じいさんが、来たときに、「あんたの体が冷えてるんだ」と、返してやるために。
「なあ、梅乃さん」湯のなかから、じいさんの声がした。「うちのばあさんも、生きてたころは、朝いちで、ここへ来てたよなあ」
「来てたねえ。あんたより、先に来て、女湯で、さだちゃんと、油売ってた」
「そうだったなあ」じいさんは、しみじみと、言った。「もう、あの声も、聞けねえ」
梅乃は、なにも、言わなかった。湯気の向こうの、じいさんの、丸まった背中を、番台から、見ていた。人の悲しみには、言葉を返すより、ただ、そこにいてやるのが、いいときがある。梅乃は、そういうことを、五十と幾年、この番台で、覚えてきた。
女湯のほうには、まだ誰もいない。
タイルを張った洗い場に、天窓から昼前の光が斜めに落ちて、湯気がその光の帯のなかを、ゆらゆらとのぼっていく。誰もいない湯というのは、不思議なものだ。人がいないのに、そこに人の気配だけが満ちている。何十年ぶんもの、裸の人間の気配が。
梅乃は番台の引き出しを、そっと開けた。
なかには、いろいろなものが入っている。釣り銭の小箱。老眼鏡。夫の使っていた懐中時計。それから、いちばん奥に、青いマッチ箱がひとつ。
月光堂、と刷ってある。
もう、そんな屋号の店は町にない。梅乃が娘のころには、駅前に小間物と煙草を売る店があって、そこの品だった。青い地に、細い三日月がひとつ。そのマッチで、梅乃は嫁いだ晩に、夫の煙草に火をつけてやったのだ。
――こんな、火のつけ方も知らんのか。
そう夫は笑った。梅乃は手が震えて、三本も擦り損じた。四本目でようやく、ぽ、と小さな焔が立った。夫はその火を、大事そうに手のひらで囲って、煙草に移した。
もう、六十年になる。
マッチはとうに湿気てしまって、擦っても火はつかない。分かっているのに、梅乃は捨てられない。青い箱を指でなでて、また引き出しの奥へ戻す。火のつかないマッチを、後生大事に持っている女がいる。それが自分だと思うと、梅乃は少しおかしくなる。
「梅乃さーん」
女湯の板戸が開いて、今度は八百屋のおかみ、さだ子が入ってきた。頭に手ぬぐいを巻いて、赤い顔をしている。
「あら、さだちゃん。仕込みは」
「もう終わったよ。今日は大根が安くてねえ、朝から山ほど並べたから、腰が痛くて痛くて」
さだ子はどっかと洗い場の腰掛けに座り込むと、さっそく世間話をはじめた。誰それの嫁がどうした、どこそこの店が畳んだ、区役所の道路の工事がいつまで続くのか。梅乃は番台から、うんうん、と相槌を打つ。
こういうのを、聞くのも仕事のうちだ。いや、これこそが仕事なのかもしれない。湯を沸かすのは釜がやる。梅乃の役目は、この番台に座って、町の話を、水が低いところへ集まるみたいに、集めることだ。
町の話は、みな、この番台に、集まってくる。誰の家に、子が生まれた。誰の店が、傾いた。誰と誰が、いい仲だ。誰それの、姑が、きつい。梅乃は、それを、聞いて、覚えて、けれど、決して、余所へは、漏らさない。湯屋の番台というのは、そういうものだ。町じゅうの、裸を、見る。体の裸だけでなく、心の裸も。それを、見て、見なかったことにする。
「大根、いくらだったんだい」梅乃は、話を変えた。
「一本、九十八円。安いだろう。これがね、市場じゃ、百三十はするんだよ。うちは、朝いちで、まとめて仕入れるから」
「そりゃあ、安い。あとで、二本、もらおうかね」
「二本と言わず、三本、持っていきなよ。梅乃さんとこは、いつも、お世話になってるんだから」さだ子は、湯のなかで、手足を伸ばした。「ああ、極楽、極楽」
「そういえばね」さだ子が声をひそめた。「梅乃さん、お六さん、来た?」
梅乃の相槌が、そこで止まった。
「……いや。今日は、まだだね」
「そうかい。あたし、さっき八百屋の前で見かけたんだけどね。いつもと違う道を歩いてってさ。声かけたんだけど、聞こえないみたいで」
「そうかい」
お六さん――本当の名は、ろく、というのだろうか。梅乃も知らない。町の者はみな、お六さん、と呼ぶ。ここへ来るようになって、もう二十年になる、いちばん古い常連の一人だ。
お六さんは、毎朝、必ず来る。
お六さんが最初に来た日のことを、梅乃はよく覚えている。
二十年前の、やはり昼前だった。板戸が開いて、痩せた女が入ってきた。まだ五十を過ぎたばかりだったろう。けれど、その顔には、五十では持てないほどの疲れが刻まれていた。
女は、湯銭を出す手が震えていた。番台の梅乃の顔を見ようともせず、うつむいたまま、脱衣所の隅で服を脱いだ。
その脱ぎ方を、梅乃は今でも忘れない。人が服を脱ぐのには、いろいろな脱ぎ方がある。急いで脱ぐ者、めんどくさそうに脱ぐ者、若い娘のように恥ずかしそうに脱ぐ者。けれどお六さんの脱ぎ方は、そのどれでもなかった。まるで、脱いだ服を、二度と着ないつもりの者の脱ぎ方だった。
梅乃は、番台を降りた。
そんなことは、めったにしない。番台を空けるなんて。けれど、そのときは、体が勝手に動いた。梅乃は洗い場へ入っていって、お六さんの隣にしゃがんだ。何も言わずに、桶に湯を汲んで、背中に、ざあ、とかけてやった。
お六さんの背中が、びくりと震えた。
それから、その背中が、ゆっくりと、揺れはじめた。声も立てずに、お六さんは泣いていた。梅乃は何も訊かなかった。ただ、もう一杯、湯を汲んで、また背中にかけた。何度も、何度も。湯気のなかで、二人の女が、ただそうしていた。
お六さんは、その日から死ぬのをやめた。梅乃はそう思っている。あの日、お六さんは死ぬためにここへ来た。けれど、背中に湯をかけられて、生き延びてしまった。
あとになって、梅乃は、少しずつ、お六さんの身の上を、知った。訊いたわけではない。長い年月のあいだに、湯気のなかで、ぽつり、ぽつりと、お六さんが、こぼしたのだ。
亭主に、早くに、死なれたこと。一人息子を、女手ひとつで、育てたこと。その息子が、まっとうに育って、遠い町で、所帯を持ったこと。そして――その息子が、あの年、事故で、逝ったこと。二十年前の、あの日は、四十九日の、あくる日だった。
お六さんは、なにもかも、やりきってしまったのだ。育てるべき子は、育て終えた。その子は、逝ってしまった。もう、生きる、張りが、どこにも、なかった。だから、湯屋へ来た。この、松の湯へ。誰も知らない町の、路地の突きあたりの、湯屋へ。
けれど、背中に、湯を、かけられた。
「あのとき、梅乃さん」いつだったか、お六さんは、言った。「あんたが、なんにも、訊かなかったのが、よかった。なんで泣いてるのとか、どうしたのとか、訊かれてたら、あたし、逃げてたよ。でも、あんたは、ただ、湯を、かけてくれた。だから、あたし、生きていられた」
だから――と梅乃は思う。だから、お六さんは、毎朝来るのだ。生き延びたことを、確かめるために。あの、背中の湯の温さを、もう一度、思い出すために。
そのお六さんが、今日は、来ない。
「お六さん、近ごろ、体の具合が悪いって話じゃなかったかい」さだ子が湯に浸かりながら言った。「この前も、階段でふらついたとか」
「聞いたことないよ」梅乃は言った。「あの人は、そういうこと、言わないから」
「そりゃそうだ。お六さん、無口だもんねえ」
無口、というのとは、少し違う。梅乃はそう思う。お六さんは、言葉を、大事にしすぎるのだ。安売りしない。一日にひとつか、ふたつ。梅乃に「今日は寒いねえ」と言い、湯を出るときに「ありがとうよ、梅乃さん」と言う。それだけ。けれどその二言のなかに、お六さんの一日のすべてが入っている。
じゃぶり、と男湯で音がして、佐々木のじいさんが上がる気配がした。
「梅乃さん、あがるよ。今日もいい湯だった」
「さっき、ぬるいって言ったくせに」
「ぬるいのが、いいんだよ、この歳になるとな」
じいさんは、からから笑いながら、脱衣所で体を拭いている。背中の、痩せて骨の浮いた、けれど妙に色の白い背中を、梅乃は番台から見るともなく見ていた。
人の背中というのは、正直だ。顔は嘘をつけるけれど、背中は嘘をつけない。梅乃はこの番台から、何万という背中を見てきた。子どもの、まるい背中。若い男の、張った背中。年寄りの、丸まった背中。そして、生きるのに疲れた者の、崩れそうな背中。
その一つひとつを、梅乃は湯で、洗い流してきたつもりだ。
じいさんは、着替え終えると、番台の前で、湯銭を、置いた。
「梅乃さん。また、明日な」
「ああ。気をつけて、お帰り」
じいさんは、板戸を、がたぴしと開けて、外へ出ていった。ひとすじの、冷えた風が、また、番台の足もとを、撫でていった。
梅乃は、その、じいさんの、置いていった湯銭を、小箱に、しまった。四百八十円。この町の、湯銭だ。梅乃が娘のころは、たしか、十五円だった。それが、二十円になり、五十円になり、百円になり、いつのまにか、四百八十円になった。町が、変わっていくのを、梅乃は、この、湯銭の額で、覚えている。
けれど、湯そのものは、変わらない。
熱くて、甘くて、人の垢を、溶かす。裸の者を、生き返らせる。それは、梅乃の父が、焼け跡に釜を据えた、あの日から、なにひとつ、変わっていない。
二
昼前の光が、少しずつ、位置を変えていく。
天窓から落ちる光の帯が、洗い場のタイルの上を、ゆっくりと這っていく。梅乃はその光を、時計代わりにしている。あの帯が三番目の柱のところまで来たら、もう十時だ。四番目まで来たら、十時半。
佐々木のじいさんが帰り、さだ子が帰り、女湯にも男湯にも、また誰もいなくなった。
こういう時分が、梅乃は、いちばん好きだ。
湯気だけが、天井に向かってのぼっていく。タイルを伝う水の音。釜の、遠いうなり。それから、時おり、どこかで、ぽたり、と雫の落ちる音。梅乃はこの静けさのなかに座って、六十年ぶんの音を、聞いている。
夫の声も、まだ、聞こえる気がする。
夫は、ここの釜焚きだった。梅乃の父に雇われて、はじめは通いの職人だったのが、いつのまにか、梅乃の亭主になっていた。無口な男で、一日じゅう釜のそばにいて、薪をくべていた。手が、いつも煤で真っ黒だった。
その手で、梅乃の背中を、洗ってくれたことがある。
一度だけ。梅乃が、大きな病をして、寝込んだあとのことだ。ようやく起きられるようになって、久しぶりに湯に入った。まだ体に力が入らなくて、自分では背中に手が回らなかった。夫は黙って、桶に湯を汲んで、梅乃の背中に、ざあ、とかけた。
――こんな、痩せて。
夫は、それだけ言った。
梅乃は、あのときの湯の温さを、まだ背中に覚えている。人の手で汲んで、人の手でかけられた湯は、なぜか、蛇口の湯とは違う温さがする。人肌を通った湯、とでも言うのか。少しぬるくて、けれど、芯まで温まる。
夫は、無口な男だったから、優しい言葉は、ひとつも、言わなかった。「好きだ」も、「大事だ」も、六十年、いちども、聞かなかった。けれど、あの、背中にかけてくれた、一杯の湯に、夫の言いたかったことが、みな、入っていた。梅乃は、そう思っている。言葉より、湯のほうが、正直なのだ。
夫が逝ったのは、十二年前の、冬だった。釜のそばで、薪をくべているうちに、ふっと、倒れた。医者が来たときには、もう、事切れていた。苦しまなかったのが、せめてもの、慰めだった。梅乃は、夫の亡骸を、この、松の湯の、湯で、清めた。人に頼まず、自分の手で。桶に湯を汲んで、夫の体に、ざあ、とかけた。六十年、この湯を焚いてきた、夫の体を。最後に、その体を、この湯で、洗ってやれたことを、梅乃は、いまでも、ありがたいと、思っている。
お六さんの背中に、かけてやった湯も、きっと、そういう温さだったろう。
梅乃は、また、番台の引き出しを開けた。青いマッチ箱を、手に取る。月光堂。細い三日月。指でなでていると、あの明け方の彗星の話を、ふと思い出した。
東の空に、青っぽいのが、ぽつんと。
このマッチの三日月みたいに、と梅乃は思う。淡い空に、ぽつんと。もう昼だから、見えないだろうけれど、それでも、あの蒼い一点は、まだ空のどこかにあるはずだ。目には見えなくても。
お六さんも、あれを見ただろうか。明け方の、彗星を。
板戸が、がたり、と鳴った。
梅乃は顔を上げた。お六さんか――と、一瞬、思った。けれど、入ってきたのは、見慣れない若い女だった。
三十くらいだろうか。手に、大きな鞄を提げている。旅の者のような、疲れた顔をしていた。
「あの……お風呂、入れますか」
「入れるよ」梅乃は言った。「大人一人、四百八十円だよ」
女は財布を出して、小銭を数えた。それから、思い出したように、
「あの、タオル、貸してもらえますか。手ぶらで来ちゃって」
「貸しタオル、二十円。石鹸は、そこの棚のを使いな。備えつけだから」
女は、ほっとしたように笑った。梅乃は、その笑い方に、なにか見覚えがある気がした。誰かに似ている。誰だったろう。
女は脱衣所で服を脱ぎ、洗い場へ入っていった。梅乃は番台から、その背中を見た。若い、張りのある背中。けれど、その背中には、旅の疲れと、それから、なにか思いつめたようなものが、うっすらと浮かんでいた。
梅乃は、また、あの日のお六さんを思い出した。
死ぬためにここへ来た、痩せた女。
まさか、この女も――と思って、梅乃は、いや、と首を振った。考えすぎだ。この歳になると、人の背中に、なんでも読み取ろうとする。それは、悪い癖だ。
けれど。
梅乃は、番台を、そっと降りた。
「お客さん」梅乃は、洗い場の入口から声をかけた。「背中、流そうか」
女は、驚いたように振り返った。
「え……いいんですか」
「暇だからね。昼前は、客がいないんだ」
梅乃は、桶を手に取った。女の隣にしゃがんで、湯を汲む。それから、その背中に、ざあ、とかけた。
女の背中が、びくりと震えた。
――ああ、と梅乃は思った。この、震え方。あの日のお六さんと、同じだ。人に触れられ慣れていない者の、背中の震え方。長いあいだ、一人で生きてきた者の。
梅乃は、何も訊かずに、もう一杯、湯を汲んだ。ざあ。また一杯。ざあ。
「あの……」女が、ぽつりと言った。「私、遠くから来たんです」
「そうかい」
「田舎の母が……先週、亡くなって。それで、家を、片づけに」
梅乃の手が、止まりかけた。けれど、止めなかった。湯を汲んで、背中にかける。ざあ。
「一人娘だったから、私が。でも、母とは、ずっと、仲が悪くて。もう十年も、口をきいてなかったんです。それなのに……最後に会えないまま」
女の声が、湿ってきた。
「家を片づけてたら、母の日記が出てきて。私のこと、ずっと……気にかけてたって、書いてあって。私、それを読んで、もう、いたたまれなくなって、家を飛び出して、当てもなく歩いてたら、ここの湯気が見えて」
梅乃は、湯を汲む。ざあ。
「なんだか、母に、洗ってもらってた頃を、思い出しちゃって」
女は、そこで、こらえきれずに、声をあげて泣いた。
梅乃は、その背中を、洗いつづけた。石鹸を手に取って、痩せた肩甲骨のあいだを、ゆっくりと、円を描くように。もう何十年も前、夫が梅乃にしてくれたように。あの日、梅乃がお六さんにしてやったように。
「あんたのおっかさんも」梅乃は、静かに言った。「きっと、こうやって、あんたの背中を、洗ったんだろうねえ」
女は、うん、うん、と、子どものように頷いた。
「痩せてるねえ」梅乃は言った。「ちゃんと、食べてるかい」
「……食べてません」
「そうかい。じゃあ、湯から上がったら、うちで、なんか食べていきな。ろくなものはないけど、味噌汁くらいなら」
女は、湯気のなかで、また、泣いた。
三
女が湯から上がって、着替えているあいだ、梅乃は番台の奥の小さな部屋で、味噌汁を温めた。
大根と、油揚げの味噌汁。今朝の残りだ。さだ子のところで買った大根は、みずみずしくて、甘い。梅乃は、それに、ご飯を軽く一膳、漬物を少し、盆に載せた。
「どうぞ。あがりに、そこの縁側で」
女は、恐縮しながら、盆を受け取った。脱衣所の隅の、古い縁側に腰かけて、味噌汁をすする。
「……おいしい」
「そうかい。大根が、いいんだよ。八百屋のさだちゃんとこのは」
女は、少しずつ、味噌汁を飲んだ。飲みながら、涙を、こぼした。おいしいものを食べると、人は、泣くものだ。梅乃は、それを知っている。悲しくて泣くのより、おいしくて泣くののほうが、人を、生き返らせる。
「お母さん、料理、上手だったかい」梅乃は、番台から、訊いた。
「……上手でした」女は、椀を、両手で、包むように持って、言った。「特に、味噌汁が。煮干しで、ちゃんと、だしを取って。私、それが、当たり前だと思ってて。家を出てから、自分で作ってみて、はじめて、あんなに、おいしくは、できないって、知りました」
「そういうもんさ」
「喧嘩の理由も、もう、覚えてないんです」女は、言った。「たしか、私が、母の反対した人と、一緒になろうとして。それで、家を、飛び出して。意地になって、連絡も、取らなくて。そのうち、どう戻ればいいか、分からなくなって。……その人とも、結局、別れたのに」
女は、力なく、笑った。
「馬鹿みたい。意地なんか、張って。母は、私のこと、待ってたのに。日記に、書いてあったんです。いつでも、帰っておいで、って。私の好きな、味噌汁を、作って、待ってる、って」
梅乃は、なにも、言わなかった。ただ、番台から、湯気を、見ていた。
親と子というのは、と梅乃は、思う。近すぎて、かえって、こじれる。他人になら、言えることが、言えない。他人になら、詫びられることが、詫びられない。そうして、こじれたまま、片方が、逝ってしまう。よくある話だ。市井の、どこにでも、転がっている話だ。けれど、その、ありふれた話の、一つひとつが、当人にとっては、生涯、消えない、傷になる。
脱衣所の窓から、昼前の光が射しこんでいる。
女は、味噌汁の椀を持ったまま、ふと、窓の外を見上げた。
「きれいな空」
「そうだねえ」
淡い、青い空だった。雲ひとつない。梅乃も、番台から、その空を見た。
「今朝ね」梅乃は言った。「彗星が、見えたんだって。ミラってやつが。明け方に、東の空に、青っぽいのが、ぽつんと」
「彗星……」
「もう、昼だから、見えないけどね。でも、空のどこかには、まだ、あるんだと。目に見えなくても」
女は、空を見上げたまま、しばらく、黙っていた。
それから、ぽつりと言った。
「母も……あの空の、どこかに、いるのかな」
梅乃は、答えなかった。答えのない問いには、答えないのが、いちばんいい。ただ、女の隣に立って、同じ空を、見上げた。
見えなくても、そこに、ある。
彗星も。死んだ者も。火のつかないマッチの、六十年前の焔も。梅乃の父も、母も、夫も。この番台から見送った、何千、何万の、背中も。みな、見えなくても、そこに、ある。
湯気が、天窓に向かって、のぼっていく。
女が帰り支度をしながら、ふと、脱衣籠のところで、手を止めた。
「あの……これ」
女が拾い上げたのは、片方だけの、手袋だった。毛糸で編んだ、古い、女ものの手袋。左手のぶんだけ。
「籠の下に、落ちてました。どなたかの、忘れ物じゃ」
梅乃は、その手袋を見て、あっ、と思った。
お六さんのだ。
先週の寒い日、お六さんが編んでいた手袋。梅乃が「もう春も近いのに、いまさら手袋かい」と笑うと、お六さんは「編むのが、遅いんだよ」と、少し照れたように言った。両手ぶん、編み上げるのに、ひと冬、かかったのだ。片方だけ、ここに、忘れていったらしい。
「これは……うちの、常連さんのだよ」梅乃は、手袋を受け取った。「取っておくよ。また、来るだろうから」
「そうですか」
女は、鞄を提げて、立ち上がった。
「本当に、ありがとうございました。私、なんだか……生き返った気がします」
生き返った。
その言葉に、梅乃は、少し、笑った。佐々木のじいさんと、同じことを言う。人は、湯から上がると、みな、生き返る。
「また、おいで」梅乃は言った。「湯は、いつでも、沸いてるからね」
女は、深く、お辞儀をして、板戸の向こうへ、消えていった。
がたぴし、と板戸が閉まった。
昼前の光は、もう、洗い場の四番目の柱のところまで来ていた。十時半だ。
梅乃は、番台に戻って、片方だけの手袋を、引き出しにしまった。青いマッチ箱の、隣に。
火のつかないマッチと、片方だけの手袋。この引き出しには、どうして、こう、片割れのものばかりが集まるのだろう。梅乃は、少し、おかしくなった。
お六さんは、まだ、来ない。
さだ子は、いつもと違う道を歩いていた、と言った。声をかけても、聞こえないようだった、と。
梅乃は、番台に座って、板戸のほうを、じっと見ていた。あの板戸が、がたり、と開いて、お六さんの、痩せた顔が、覗く。「今日は寒いねえ」と言う。梅乃が「もう春だよ」と返す。お六さんは、いつもの隅で、服を脱ぐ。生き延びた者の、脱ぎ方で。
けれど、板戸は、鳴らない。
湯気だけが、のぼっていく。
四
十一時に近くなって、板戸が、鳴った。
梅乃は、はっと顔を上げた。
けれど、入ってきたのは、お六さんではなかった。町内会の、田中さんの若い奥さんだった。息を切らして、青い顔をしている。
「梅乃さん、大変」
「どうしたね」
「お六さんが……さっき、川べりの道で、倒れて。今、病院に運ばれて」
梅乃の、手が、止まった。
「……容体は」
「分からないんです。でも、意識はあったって。救急車のなかで、なにか、うわ言みたいに、言ってたって」
「なにを」
「それが……松の湯、松の湯、って。ずっと、繰り返してたそうで。だから、田中さんが、梅乃さんに知らせてこいって」
松の湯。
梅乃は、番台の上で、しばらく、動けなかった。
お六さんは、倒れながら、ここの名を、呼んでいた。二十年前、死ぬためにここへ来て、生き延びてしまった、あのお六さんが。今度は、生きるために、ここの名を、呼んでいた。
「病院は、どこだね」
「駅前の、市民病院です」
「そうかい」梅乃は、立ち上がった。「悪いけど、田中さんの奥さん。ちょっと、番台、頼めるかい。すぐ、戻るから」
「え、梅乃さん、行くんですか」
「行くよ」
梅乃は、番台の引き出しから、片方だけの手袋を、取り出した。それから、少し迷って、青いマッチ箱も、一緒に、袂に入れた。
なぜマッチを持っていくのか、自分でも、分からなかった。ただ、なんとなく、お六さんに、見せてやりたかった。月光堂の、細い三日月を。もう店もなくなった、昔の、青いマッチを。
火は、つかないけれど。
外へ出ると、昼前の光が、まぶしかった。
梅乃が湯屋の外へ出るのは、めったにない。一日じゅう、番台の上にいる。だから、こうして町を歩くと、いつもと違う町に見える。番台から見下ろす町ではなく、地面を、自分の足で歩く町。
路地を抜けて、大通りに出ると、八百屋の前で、さだ子が、大根を並べていた。
「さだちゃん」梅乃は、声をかけた。「あたし、ちょっと、病院に行ってくる。お六さんが、倒れたって」
「ええっ」さだ子は、大根を取り落とした。「あたしも、行くよ」
「いいよ、店があるだろう」
「なに言ってんだい。お六さんだよ」
さだ子は、前掛けを外して、店に「ちょっと出てくるよ」と声をかけると、梅乃の隣に並んだ。二人の年寄りの女が、昼前の町を、急ぎ足で歩いていく。
「梅乃さん、それ、なに持ってんの」さだ子が、梅乃の手の、手袋に気づいた。
「お六さんの、忘れ物だよ。片方だけ、うちに、置いてった」
「へえ。よく編んであるねえ」
「ひと冬、かかったんだと。編むのが、遅いって、言ってた」
二人は、しばらく、黙って歩いた。
「ねえ、梅乃さん」さだ子が、ふと言った。「あたしたちも、いつか、こうやって、誰かに、心配される側に、なるんだねえ」
「もう、なってるよ」梅乃は言った。「あんただって、この前、腰が痛いって、大根の前で、うんうん唸ってたじゃないか」
さだ子は、からから笑った。梅乃も、少し、笑った。
昼前の空は、淡く、青かった。彗星は、もう、見えない。けれど、そのどこかに、蒼い一点は、まだ、ある。梅乃は、そう思うことにした。
五
市民病院の、廊下は、消毒の匂いがした。
湯屋の匂いとは、まるで違う。湯屋は、人の匂いだ。裸の人間の、汗と、垢と、石鹸の匂い。生きている者の匂い。けれど、病院の匂いは、その、生きている者の匂いを、消そうとする匂いだ。梅乃は、その匂いが、苦手だった。
看護婦に尋ねると、お六さんは、処置室から、大部屋のベッドに移されたところだという。命に別状はない、と。ただの、貧血と、過労だと。
「よかった」さだ子が、胸を撫でおろした。
梅乃も、ふう、と、息をついた。
大部屋の、いちばん奥のベッドで、お六さんは、点滴の管につながれて、目を閉じていた。痩せた顔が、いっそう、痩せて見えた。梅乃は、その枕もとに、そっと、立った。
「お六さん」
小さく、呼んだ。
お六さんの、まぶたが、ぴくり、と動いた。ゆっくりと、目を開ける。梅乃の顔を見て、その、乾いた唇が、かすかに、動いた。
「……梅乃、さん」
「なにやってんだい」梅乃は、笑って言った。「湯にも来ないで、こんなとこで、寝てて」
お六さんの、目に、涙が、にじんだ。
「……ごめんよ。今朝は、体が、動かなくて。でも、どうしても、湯に、行きたくて。無理して、歩いたら……川べりで」
「馬鹿だねえ」梅乃は言った。「湯なんぞ、逃げやしないよ。あんたが元気になってから、いくらでも、入りゃいい」
「うん……」
お六さんは、子どものように、頷いた。
梅乃は、袂から、片方だけの手袋を、取り出した。
「これ。あんた、うちに、忘れてったよ。片っぽ、だけ」
お六さんは、その手袋を見て、あ、と、小さく声をあげた。
「……そうだ。それ、片方、なくして。どこで落としたか、分からなくて。もう、片方だけじゃ、しょうがないから、捨てようかと」
「捨てるもんかい」梅乃は、その手袋を、お六さんの、痩せた手に、握らせた。「両方、そろえば、また、はめられる。だから、あんたも、早く、元気になって、取りにおいで」
お六さんは、その手袋を、両手で、大事そうに、握りしめた。
それから、梅乃は、ふと、思い出して、袂から、青いマッチ箱を、取り出した。
「お六さん。これ、見なよ」
「なんだい、それは」
「月光堂の、マッチだよ。昔、駅前にあった、小間物屋の。もう、店は、ないけどね」
お六さんは、その、青い箱を、じっと見た。細い、三日月の、刷られた箱を。
「……ああ」お六さんの、顔が、ふっと、ゆるんだ。「懐かしいねえ。あったねえ、そんな店。あたしも、若いころ、そこで、紅を、買ったよ」
「そうかい」
「もう、六十年も、前の、話さ」
二人の、年寄りの女が、青いマッチ箱を、覗きこんでいる。もう火もつかない、昔のマッチを。けれど、その青い箱のなかには、二人が、若かったころの、町が、そっくり、しまわれている。駅前の、小間物屋。紅を売る、店の娘。夫の煙草に、火をつけた、震える手。
「梅乃さん」お六さんが、ぽつりと言った。「今朝ね、明け方に、彗星が、見えたよ」
梅乃は、はっと、した。
「あんたも、見たのかい」
「うん。眠れなくて、窓を開けたら、東の空に、青いのが、ぽつんと。ミラって、いうんだと。あたし、あれを見てたら、なんだか、無性に、湯に、入りたくなって。それで、無理して、歩いて」
お六さんは、そこで、少し、笑った。
「馬鹿だね、あたしも。彗星なんぞ、見たせいで、倒れちまった」
「馬鹿だねえ」梅乃も、笑った。
窓の外の、昼前の空は、淡く、青かった。彗星は、もう、見えない。けれど、その、青いマッチ箱の三日月と、明け方の彗星と、いま見えない空の、蒼い一点と、それから、二人の女の、六十年ぶんの町が、みな、ひとつに、つながっている気が、梅乃には、した。
見えなくても、そこに、ある。
六
さだ子が、看護婦を呼んで、お六さんの、これからのことを、あれこれ、相談しているあいだ、梅乃は、病院の窓辺に、立っていた。
窓の外に、町が、見えた。
いつも、番台から見下ろしている町を、今日は、病院の三階から、見ている。番台から見るより、ずっと、高い。町が、小さく、見える。人が、豆粒のように、歩いている。
梅乃は、思い出した。子どものころ、番台にのぼって、町を見るのが、好きだったことを。高いところから見ると、人は、みな、小さくて、けれど、一人ひとり、ちゃんと、歩いていた。
いまも、そうだ。
町の、あの、豆粒のような一人ひとりが、それぞれの、一日を、生きている。仕込みをして、大根を並べ、湯を沸かし、倒れて、運ばれて、また、生き延びる。誰も彼も、名もない、市井の者だ。けれど、その、名もない者の、一人ひとりの背中を、梅乃は、番台から、見てきた。何万という、背中を。
そして、その背中を、湯で、洗い流してきた。
湯屋というのは、と梅乃は、あらためて、思う。人が、裸になる場所だ。裸になって、一日の、垢を、落とす。悲しみも、疲れも、みな、湯に、溶かして、流す。そうして、生き返る。「生き返るなあ」と、佐々木のじいさんは、毎朝、言う。「生き返った気がします」と、あの若い女も、言った。
梅乃の、この番台は、その、生き返りを、見届ける場所だ。
もう、五十と幾年。
継ぐ者は、いない。子は、なかった。梅乃が逝けば、この松の湯も、店を、畳むだろう。青いマッチ箱の、月光堂のように、いつか、この町から、消える。誰も、覚えていない。
けれど――と、梅乃は、思う。
けれど、それでも、いいのだ。
火のつかないマッチが、六十年前の焔を、まだ、抱いているように。片方だけの手袋が、もう片方を、待っているように。見えなくなった彗星が、まだ、空のどこかに、あるように。
この湯屋も、いつか、消えても、そこに、あったことは、消えない。梅乃が、洗い流してきた、何万の、背中は、消えない。あの、生き返った者たちの、一人ひとりの、これからの、一日のなかに、この湯の、温さは、まだ、生きている。
人肌を通った、湯の、温さは。
「梅乃さん」さだ子が、呼んだ。「あたし、もう少し、ここにいるよ。お六さんの、付き添い。梅乃さんは、湯屋があるから、戻んな」
「そうかい。悪いね」
「なに言ってんだい。持ちつ持たれつだよ」
梅乃は、お六さんの、枕もとに、もう一度、行った。お六さんは、片方だけの手袋を、まだ、握りしめたまま、うとうとと、眠りかけていた。
梅乃は、その、痩せた手を、そっと、握った。
「お六さん。ゆっくり、お休み。元気になったら、また、おいで。湯は、いつでも、沸いてるからね」
お六さんは、眠りながら、うん、と、頷いた。
その、痩せた手のなかで、片方だけの手袋が、ほどけそうに、握られていた。毛糸の、あたたかそうな、灰色の手袋。お六さんが、ひと冬かけて、編んだもの。もう片方は、お六さんの、簞笥のどこかに、あるのだろう。二つ、そろえば、また、はめられる。両手を、あたためられる。梅乃は、その、片方だけの手袋を、そっと、直してやった。落ちないように、お六さんの、胸の上に。
それから、梅乃は、小さな声で、口ずさんだ。
眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。
母が、梅乃に、歌ってくれた、子守唄だ。彗星を、見た夜に。梅乃を、抱いて、縁側で。その子守唄を、梅乃は、いま、お六さんに、歌った。
眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。
お六さんの、寝息が、静かに、なった。
七
湯屋に戻ると、田中さんの奥さんが、番台に、ちんまりと、座っていた。
「梅乃さん、お帰りなさい。お六さん、どうでした」
「大丈夫だよ。ただの、貧血だと。じきに、退院できるって」
「よかった」
田中さんの奥さんが、帰っていくと、湯屋は、また、静かに、なった。
昼前は、もう、終わりかけていた。天窓の光の帯が、洗い場の、六番目の柱まで、来ている。もうすぐ、昼だ。昼になれば、また、風呂屋には、別の客が来る。仕事帰りの者、子連れの母親、遠くから来た、湯治の客。梅乃は、また、その一人ひとりの背中を、番台から、見るのだ。
梅乃は、番台に、座った。
いつもの、場所だ。五十と幾年、座ってきた、場所。ここから見ると、男湯と女湯の、両方の脱衣所が、見渡せる。誰もいない、脱衣所。籠が、きちんと、積んである。壁の、古い、体重計。剥げかけた、富士山の、絵。
梅乃は、番台の引き出しを、開けた。
青いマッチ箱を、そっと、戻す。お六さんの、片方だけの手袋は――と思って、梅乃は、あ、と、気づいた。あれは、お六さんに、渡してきたのだった。お六さんが、もう片方と、そろえて、はめるために。
引き出しには、また、青いマッチ箱だけが、残った。火のつかない、片割れのマッチが。
梅乃は、その箱を、指で、そっと、なでた。
明日の、朝も、梅乃は、まだ暗いうちに、火を落として、湯を、沸かすだろう。冷たい石の匂いが、甘い湯気の匂いに、変わるだろう。ぱき、ぱき、と、タイルが、目を覚ますだろう。そして、板戸が、がたぴし、と、開いて、佐々木のじいさんが「今日は、ぬるいねえ」と、言うだろう。
そして、いつか――もう、そう遠くない、いつかの、昼前に。
板戸が、がたり、と、鳴って、お六さんの、痩せた顔が、覗くだろう。「今日は、寒いねえ」と、言うだろう。梅乃が、「もう、春だよ」と、返すだろう。お六さんは、両手に、そろいの手袋を、はめて。生き延びた者の、脱ぎ方で、服を、脱ぐだろう。
そのために、梅乃は、明日も、湯を、沸かす。
湯というものは、と梅乃は、また、思う。人よりも、先に、その日を、知っている。そして、人が、生き返るのを、ずっと、待っている。誰も来なくても、待っている。片方だけの手袋のように、火のつかないマッチのように、いまは見えない彗星のように、ただ、そこに、あって、待っている。
昼前の、最後の光が、天窓から、斜めに、射しこんだ。
湯気が、その、光の帯のなかを、ゆらゆらと、のぼっていく。誰もいない、洗い場。けれど、そこには、六十年ぶんの、人の気配が、満ちている。生き返った者たちの、無数の、背中の、気配が。
梅乃は、番台に、座って、その、湯気を、見ていた。
遠くで、釜が、低く、うなっている。ぽたり、と、どこかで、雫が、落ちた。
梅乃は、その、ぽたり、という音を、聞きながら、目を、閉じた。
まぶたの裏に、いろいろな者が、見えた。焼け跡に、釜を据えた、父。番台に座った、母。薪をくべる、夫。背中を洗った、お六さん。味噌汁を飲んで泣いた、あの若い女。生き返るなあと言う、佐々木のじいさん。極楽極楽と手足を伸ばす、さだ子。そして、明け方の空に、ぽつんと光った、蒼い、彗星。
みな、この、松の湯の、湯気のなかを、通っていった者たちだ。
湯というものは、と梅乃は、最後に、もう一度、思う。人よりも、先に、その日を、知っている。そして、人が、去ったあとも、ずっと、覚えている。この湯気のなかには、六十年ぶんの、人が、まだ、いる。見えなくても、そこに、いる。
湯は、まだ、沸いている。
そして、梅乃は、いつまでも、そこに、座っている。