大根の白
一
大根の白は、朝より昼前のほうがきれいだ、と祖母はいつも言っていた。
なぜかと訊いても、はっきりした答えは返ってこなかった。朝の光は青すぎて、白がしゃんとしすぎる。夕方の光は赤みが差して、白がくすむ。昼前の、ちょうど陽が高くなりきる手前の、あのやわらかい白い光のときが、大根の肌にはいちばん似合うのだと、祖母はそんなふうな、答えになっているようでなっていないことを言った。孫の千夏は、そのたびに、ふうん、と気のない返事をした。
けれども、こうして自分が店先に大根を並べる番になってみると、たしかに、と思うことがある。
四月の終わりの、巳の刻を過ぎたころ。相生商店街の「やおや志ん」の店先には、朝いちばんに市場から仕入れてきた野菜が、木の台の上にきちんと並んでいた。台には少し傾斜がつけてあって、客のほうへ向かって野菜が転がり落ちてこないように、細い桟が打ってある。その桟の際に、大根が十数本、青首を左に揃えて寝かせてあった。土をていねいに落とした白い肌が、天蓋の隙間から差しこむ光をやわらかく撥ね返して、なるほど、しゃんとしすぎもせず、くすみもせず、ちょうどよく白かった。
台の並びには、決まった順序があった。手前の、いちばん目に立つところに、その日いちばん出来のいい野菜を寝かせる。今朝なら、大根と、それから、まだ露を含んだような小松菜の束。その奥に、玉葱と、じゃがいもの、土のついたのが、竹籠に山と盛られている。玉葱は、朝いちばんに、祖母が一つひとつ、外の薄皮を軽く剥いて、艶を出しておいたものだった。艶を出すといっても、磨くわけではない。ただ、いちばん外の、乾いて茶色くなった薄皮を、指の腹で、そっと剥いてやる。すると、その下から、飴色の、つやつやとした肌が現れる。それだけのことで、玉葱は、見違えるように、うまそうになった。
「野菜はね、化粧するの」と祖母は言った。「けど、しすぎちゃいけない。しすぎると、嘘くさくなる。ちょいと、身ぎれいにしてやる。それくらいがいいの」
値札は、木札に白墨で書いてあった。大根一本、百五十円。小松菜一把、百二十円。玉葱三つ、百円。祖母の字は、太くて、少し右上がりで、値切りたくなるような、けれど、値切っても仕方がないような、そういう、妙に堂々とした字だった。値段は、たいてい、切りのいい数字だった。九十八円だの、百九十八円だのという、隣の新しいスーパーが好んで使う、あの、一円だけ引いた数字を、祖母は使わなかった。
「あんなのは、けちくさい」と祖母は言った。「二円まけるほうが、まだましだよ。一円引いて安く見せるなんて、お客をばかにしてる」
千夏は、その理屈が、正しいのか正しくないのか、わからなかった。会計事務所では、一円の狂いも許されなかった。伝票の、いちばん端の桁が合わないと、千夏は、何時間でも、電卓を叩き直した。けれど、祖母の店では、一円は、まるで、意味を持たなかった。とめさんが値切っても、まからない百五十円。一円引いて安く見せることを、けちくさいと切って捨てる、その、一円。同じ一円でも、事務所の一円と、この店の一円とは、まるで別の生きものだった。
千夏は今年、二十二になる。
去年の春に短大を出て、駅前の会計事務所に勤めた。事務所は今、決算前の閑散期で、月に一度か二度、平日に代休がまわってくる。今日がその代休だった。本当なら朝からまだ布団の中で丸まっているはずの時刻に、こうして祖母の店の帳場に座っているのは、べつだん親孝行のつもりでも、手伝いのつもりでもなかった。ただ、なんとなく、家にいたくなかった。母と顔を突きあわせているのが、このところ、少しばかり息苦しかった。
「千夏、そこの大根、いっちばん端の、ちょっと持ってきておくれ」
奥から祖母の声がした。腰の曲がった小さな体が、白菜の箱の陰から手だけを出して、おいでおいでをしている。千夏は帳場を立って、桟の端に寝ていた大根を一本とった。ずしりと重い。青首の張りがよくて、葉のつけ根のところが、しゃきりと締まっていた。
「これ?」
「そうそう、それ。ちょいと見せてごらん」
祖母は皺だらけの指で大根の尻のほうを撫でて、ふ、と鼻から息を抜いた。
「これはね、す、が入ってるよ」
「す?」
「巣。中に、ほら、空洞が。持ってごらん、重さのわりに、なんだか間が抜けた重さだろう。ずしりと詰まった重さじゃない。抜けた重さだ」
言われて、千夏はもう一本、ちゃんと詰まっているらしい大根を桟からとって、両手に一本ずつ持ってみた。たしかに、と思った。同じくらいの太さなのに、片方は水を吸った石みたいに、みっちりと重い。もう片方は、重いことは重いのだけれど、どこか、その重さに芯がない。中に空気の入った、間延びした重さだった。
「わかんないよ、そんなの」
「わかるようになるよ。二十年もやってりゃね」
祖母は笑って、す、の入った大根を横へ避けた。その大根は、たぶん今日の昼までには、店の隅の傷み野菜の籠に移されて、夕方には煮物用に安く売られるか、家の食卓に上るかする。
店の隅には、その、傷み野菜の籠が、いつも一つ、置いてあった。しなびかけた葉物。少し茶色くなった茄子。傷のついたトマト。す、の入った大根。世間の目には、売り物にならない、はずれの野菜たち。けれど、祖母は、それを、恥じたり、隠したりしなかった。むしろ、その籠を、店先のよく見えるところに置いて、「傷あり、お徳用」と、木札に書いて、堂々と、安く売った。
「野菜はね、生きものだよ」祖母は、よく、そう言った。「生きものだから、疵もつくし、歳もとる。傷んだのを、なかったことにして、裏に隠しちまうのは、あたしは、いやなんだ。傷んだって、まだ食える。ちゃんと、それなりの値をつけて、それを承知で買ってくれる人に、渡す。そのほうが、野菜も、成仏するってもんだ」
成仏、という言葉を、祖母は、野菜に使った。千夏は、初めてそれを聞いたとき、少し、おかしかった。けれど、この店で何度も店番をするうちに、その言葉が、だんだんと、おかしくなくなってきた。祖母にとっては、大根一本にも、玉葱一つにも、それぞれの一生があるのだった。市場から来て、店先に並んで、誰かの籠に入って、誰かの台所で煮られて、誰かの腹におさまる。それが、野菜の、まっとうな一生だった。傷んだからといって、その一生を、途中で、ごみ箱に放りこんでしまうのを、祖母は、忍びなく思うのだった。
「す、の入ったのは、値をつけてもいいけど、正直に言って売るんだよ。すが入ってますけど、煮ればわかりませんよ、その分安くしときますよ、ってね。黙って売っちゃいけない。こういう小さいことでね、店の信用ってのは、ぽろぽろ崩れていくんだから」
「はいはい」
「はい、は一遍でいいの」
祖母の名は、しん、といった。八百屋の屋号「志ん」は、この祖母の名からとったものだ。もとは千夏の祖父が始めた店で、屋号も別の、もっとこう、いかにも商家らしい堅苦しい名前がついていたらしいのだが、祖父が早くに亡くなったあと、祖母が一人で店を切り盛りするようになってから、いつのまにか近所の者が「志んさんとこ」「志んの八百屋」と呼ぶようになって、それがそのまま看板になった。人の名が屋号になるというのは、それだけ祖母がこの商店街に長く、深く、根を張ってきたということだった。
その母、つまり千夏の母である春江が、店の奥から前掛けで手を拭きながら出てきたのは、九時半をまわったころだった。
「おかあさん、ごぼう、あと二把しかないよ。今日、多めに出しといたほうがいいんじゃない、金曜だから」
「ああ、そうかい。じゃあ裏の箱から出しといて」
「うん」
春江は千夏と目を合わせなかった。合わせないというのは大げさかもしれない。ただ、店の用事のあいだに、ふっと娘のほうを見て、それから、何も言わずに視線を野菜のほうへ戻す。その、何も言わずに戻す感じが、千夏にはこのところ、妙に応えた。
母と娘のあいだに、これといった喧嘩があったわけではない。
強いていえば、先月のことだ。千夏が、事務所の同僚のことを、ふとした流れで話した。三つ年上の、経理課の男の人で、何度か二人で食事に行った、という、それだけの話だった。まだ付き合っているとも決まっていない、ほんの入口のところの話だった。それを、母は、あまり嬉しそうな顔で聞かなかった。
「その人、どこの人」と母は言った。
「どこ、って」
「実家。どこの人なの」
「北のほう。詳しくは知らないけど」
「ふうん」
母は、それきり何も言わなかった。ふうん、というのは、祖母の、す、の入った大根を横へ避けるときの、ふ、という鼻息とよく似ていた。何かを、静かに、脇へ避けるときの音だった。母は千夏の話を、脇へ避けた。
それ以来、なんとなく、二人のあいだには薄い膜のようなものが張っていた。互いに、その膜を破ろうとはしなかった。破ってしまうと、その向こうにある本当のところ――母が本当は何を思っているのか、千夏が本当は何を訊きたいのか――が、剥き出しになってしまう気がした。だから二人は、大根が、す、を隠すみたいに、その膜を、そっとそのままにしていた。
母の春江は、二十四のときに、千夏を産んだ。
千夏の父は、千夏がまだ物心つく前に、家を出ていった。理由を、千夏は、詳しくは知らない。母も、祖母も、そのことを、あまり話したがらなかった。ただ、千夏が小学校に上がるころには、家には、父の姿はもうなくて、母と、祖母と、千夏の、女三人の暮らしになっていた。母は、それから、ずっと、この八百屋を、祖母と二人で、切り盛りしてきた。朝は、暗いうちに起きて、市場へ行く。日中は、店番。夜は、翌日の仕込み。母の手は、千夏が物心ついたときから、いつも、少し荒れていた。冬になると、あかぎれが切れて、指の関節のところが、赤く割れた。それでも、母は、その手で、野菜を選り、キャベツの葉を剥き、千夏の弁当を作り、千夏の髪を、結ってくれた。
母が、若いころ、この商店街で評判の器量よしだった、という話は、近所の人から、何度も聞いた。けれど、千夏は、母が、着飾ったところも、化粧をこらしたところも、ほとんど見たことがなかった。母の器量よしは、いつも、前掛けと、荒れた手と、右上がりの白墨の値札の、向こう側に、しまいこまれていた。
だから、千夏が、家を出ていくかもしれない、という話は、母にとって、ただの、娘の縁談の話ではなかったのだろう。それは、たぶん、女三人で、寄り添うようにして張ってきた、この暮らしの――この、小さな、けれど、頑丈な、暮らしの――形が、変わりはじめる、その、最初の一歩の話だった。母が、ふうん、と言ったのは、たぶん、そのことに、いちばん先に、気づいてしまったからだった。娘の千夏よりも、ずっと先に。
「千夏」母が言った。
「なに」
「あんた、そんな薄着で寒くないの。今日、朝方冷えたのよ。彗星がよく見えたくらい」
「彗星?」
「ミラ彗星。夜明け前、東の空にね、青い星が一つ、尾を引いて。おばあちゃんが早く起きて、見といでって、あたしのこと起こしたの」
千夏は空を見上げた。天蓋の隙間から見える四月の昼前の空は、うっすらと白っぽい水色で、そのどこにも、彗星らしきものは見えなかった。目を凝らせば、ずっと高いところに、青い、ごく淡い一点が、消え残っているようでもあり、ただの目の錯覚のようでもあった。
「今は、見えないよ」
「昼は見えないさ。でも、まだあそこにいるの。明け方の、あの青いのが」
母は、それだけ言って、ごぼうの箱を取りに裏へ引っこんだ。千夏は、少しのあいだ、その青いのがいるという空のあたりを、ぼんやりと見ていた。母が自分を、明け方に起こしてくれなかったことに、なぜだか、ほんの少し、寂しいような気がした。
十時が近づくと、商店街に人が増えてくる。
朝いちばんの、忙しい主婦たちの波が引いたあとの、この巳の刻の時間帯には、少し年配の、のんびりした客が多くなる。買い物というより、散歩のついでに寄る、といった風情の老人たち。乳母車を押した若い母親。定年らしい男が一人、新聞をたたんで小脇に挟んで、ぶらぶらと歩いてくる。魚屋の店先では、氷の上でぴちぴちと鯵が跳ね、その隣の惣菜屋からは、油で揚げるいい匂いが、湯気といっしょに商店街の天蓋の下にひろがっていた。
まず店先に現れたのは、駅の向こうで小さな居酒屋をやっている、松ちゃんという、五十がらみの男だった。まだ暖簾を出す前の、仕込みの買い出しである。松ちゃんは、大根やら、葱やら、生姜やらを、次々と籠に放りこみながら、祖母と、慣れた調子で言葉を交わした。
「志んさん、今日の大根、いいねえ。おでん、うまく染みそうだ」
「そりゃそうだよ。今朝の、いちばんのを、松ちゃんのために、とっといたんだから」
「嘘つけ。とめさんにも、同じこと言ってんだろう」
「言ってないよ。とめさんのは、二番目のだ」
松ちゃんは、げらげらと笑った。それから、生姜を一かけ、手にとって、匂いを嗅ぎ、
「これ、香りがいいな。新生姜、入ったのかい」
「入ったよ。今朝ね。松ちゃん、目が早いね」
「商売だからな」
松ちゃんは、新生姜を、ひとつかみ、籠に足した。祖母は、その手つきを見ながら、
「松ちゃんとこの、あの、新生姜の甘酢漬け、うまいよねえ。あたし、あれが好きでね」
「じゃ、今度、届けるよ。志んさんとこの生姜で漬けた甘酢漬けを、志んさんに食わせるってのも、妙な話だがな」
「妙でも、うれしいよ」
こういうやりとりが、この商店街には、いくらでもあった。八百屋の生姜が、居酒屋の甘酢漬けになって、また八百屋の食卓に戻ってくる。魚屋の鯵が、大根と交換されて、八百屋の昼飯になる。物が、金だけでなく、情のようなものといっしょに、店から店へ、ぐるぐると、めぐっていた。千夏は、事務所の伝票の上では、決して見ることのない、その、めぐりを、店番のたびに、少しずつ、覚えていった。
松ちゃんが去って、しばらくすると、今度は、しゃがれた声が、店先に立った。
「志んさーん、大根まけといてよ」
しゃがれた声とともに、店先に立ったのは、この商店街の名物みたいな婆さんだった。豆腐屋の裏に一人で住んでいる、たしか、とめさん、といった。いつも同じ、色の褪せた藤色の割烹着を着て、片手にくたびれた買い物籠を提げている。もう八十をいくつか越えているはずだが、口だけは達者で、商店街じゅうの店で、日に一度は必ず値切っていくので有名だった。
「とめさん、うちの大根はね、まけないよ。日本一だもの」祖母が笑って応じる。
「日本一が聞いて呆れる。ゆうべ、あんたんとこの隣の、あの新しいスーパー、大根一本、九十八円だったよ」
「そりゃ安いねえ。買っといでよ」
「あんなの、水っぽくて食えたもんじゃない。志んさんとこのがいいの。だからまけて」
「まけないよ。百五十円。日本一の百五十円」
「けちんぼ」
「けちんぼで結構」
二人は、まるで長年連れ添った夫婦みたいな、息の合った掛け合いをした。千夏は帳場でその様子を聞きながら、思わず笑ってしまった。とめさんは、ちらりと千夏のほうを見て、
「おや、春江さんとこの娘さん? 大きくなったねえ。この前まで、そこの縁台で、あんず飴なめてたのに」
「もう二十二ですよ」千夏の代わりに祖母が答える。「事務所勤めで。今日は代休だってさ」
「代休? そりゃ結構なご身分だ。あたしなんか、一日も休んだことないよ、この八十何年」
「とめさんは働いてないでしょ」祖母がすかさず言うと、とめさんは、ひひ、と歯の抜けた口で笑った。
結局、とめさんは大根を一本、百五十円で買っていった。まけろまけろと散々言っておいて、値段は一円も動かなかったのに、なぜだかとめさんは満足そうだった。たぶん、値切ることそのものが、とめさんにとっては、この商店街に来る用事なのだった。大根が要るから来るのではなくて、値切る相手が――軽口を叩き合う相手が――ここにいるから、来る。
「あの人ね」とめさんが去ったあと、祖母がぽつりと言った。「去年、旦那さんを亡くしてね。それまでは、あの人、うちで値切ったことなんか一度もなかったの。旦那さんが達者なうちは、二人でつつましく暮らして、言い値でちゃんと買っていく、いいお客さんだった」
「じゃあ、どうして」
「淋しいんだよ」祖母は、す、の入った大根を撫でたときと同じ手つきで、台の上の大根の位置をそっと直した。「一人になると、人と、口がききたくなる。値切るってのはね、口をきく口実なんだよ。あの人にとっちゃ」
千夏は、とめさんの、色の褪せた割烹着の後ろ姿を思い出した。片手に提げた、くたびれた買い物籠。その中に、大根が一本、青首を覗かせていた。値切って、値切って、一円もまからなかった大根を、それでも満足そうに提げて帰っていく、小さな背中。
「おばあちゃんは」千夏は言った。「だから、まけないんだ」
「そう。まけたら、あの人、来なくなる。まけないから、また明日、文句を言いに来る。あたしはね、あの人の文句を、聞いてやりたいんだよ。それがね、日本一の百五十円さ」
祖母は、また、ふ、と笑った。
二
昼が近づくにつれて、空気の匂いが変わってくる。
朝の、まだ土のにおいの残る、ひんやりとした青物のにおいから、だんだんと、あちこちの家や店から漂ってくる昼餉の支度のにおいへ。だしの香り、味噌の香り、どこかで魚を焼く煙。商店街の天蓋の下には、そういう、暮らしのにおいが、ゆっくりと澱んでいく。それは決して不快なにおいではなくて、むしろ、この時刻の商店街を、いちばん商店街らしくしているにおいだった。
母の春江が、ごぼうの箱を出し終えて、帳場のそばに戻ってきた。母は、しばらく無言で、キャベツの傷んだ外葉を一枚ずつ剥いては、足元の籠に落としていた。剥いていくと、内側から、みずみずしい薄緑の葉が現れる。その手つきは、迷いがなくて、ていねいで、見ていて気持ちがよかった。千夏は、自分にはとうていできない手つきだと思った。会計の伝票を繰る手つきなら、千夏にも自信があった。けれども、野菜の傷みを見わけて、剥くべきところと残すべきところを、目でなく指で判じるような、この手つきは、母のものであり、祖母のものであって、千夏のものではなかった。
「千夏」母が、葉を剥きながら、こちらを見ずに言った。
「なに」
「あんた、あの人とは、どうなってるの」
千夏は、どきりとした。膜が、破れた、と思った。母のほうから、膜に触れてきた。
「べつに。どうも、なってない」
「食事、行ってるんでしょ」
「うん、まあ」
「そう」
母は、また、キャベツの葉を剥いた。しゃくり、と葉のちぎれる音がした。それきり、母は何も言わなかった。千夏は、母が何を言いたいのか、わからなかった。反対しているのか。心配しているのか。それとも、ただ、事実を確かめただけなのか。母の横顔は、キャベツのほうを向いていて、何も読み取れなかった。
千夏は、思いきって、言ってみた。
「おかあさん、あのとき、なんで、ふうん、って言ったの」
「ふうん?」
「先月。あの人の話したとき。北のほうの人だって言ったら、おかあさん、ふうん、って。あれ、なんか、いやそうだった」
母の手が、止まった。剥きかけのキャベツの葉が、指のあいだで、ぴんと張ったまま止まっていた。
商店街の喧騒が、その一瞬だけ、遠くなった。魚屋の氷の音も、惣菜屋の油の音も、とめさんに似た誰かの値切る声も、みんな、薄い膜の向こうに引いていった。
「いやなわけ、ないでしょう」母は、低い声で言った。「ただ……」
「ただ?」
「遠いな、と思っただけ」
母は、キャベツの葉を、そっと籠に落とした。しゃくり、という音は、しなかった。ただ、やわらかく、葉が籠の底に触れた音だけがした。
「北のほうの人だっていうから。もし、あんたが、その人と、いっしょになったら。あんた、北のほうに、行っちゃうのかな、って。そんなことばっかり、考えちゃって。それで、ふうん、しか、言えなかったの」
母は、そこで、一度、言葉を切った。そして、剥きかけのキャベツを、そっと、台に置いた。
「あんたがね」母は、続けた。「赤ん坊のころね。夜泣きが、ひどくてね。ほんとに、手のつけられない、夜泣きだったの。おばあちゃんと、二人で、かわりばんこに、あんたを抱いて、夜通し、家のなかを、歩きまわったのよ。あんたを抱いて、廊下を、行ったり来たり。あのころは、この店を続けていけるのかも、あんたを一人で育てていけるのかも、なんにも、わからなくてね。ただ、あんたを抱いて、歩いてた。それしか、できなかった」
千夏は、黙って、聞いていた。
「そのときにね」母は、少し、笑った。「あの子守唄を、うたったの。おばあちゃんに、教わったやつ。眠れ、眠れ、って。うたうとね、不思議と、あんたが、泣きやむの。うたってるあいだは、あたしも、なんだか、落ち着いてね。あんたを抱いて、あの歌をうたって、廊下を歩いてると、この暗い夜も、いつか、明けるんだって、そんな気が、してくるの」
母は、窓のほうを――天蓋の隙間から差しこむ、昼前の光のほうを、見た。
「だからね、あたしにとって、あんたは、あの子守唄と、いっしょなの。切り離せないの。あんたが遠くに行くってことは、あの歌が、この家から、いなくなるってことみたいで。それがね、あたしは……」
母は、そこで、言葉を、のみこんだ。のみこんで、また、キャベツを手にとった。
千夏は、母の横顔を見た。
母は、四十七になる。若いころは、この商店街で評判の器量よしだったと、近所の人が言っていた。今でも、仕事の合間にふと手を止めて、遠くを見るような顔をするとき、その面影が残っている。その顔が、今、キャベツの籠のほうを向いたまま、少しだけ、赤くなっていた。照れているのか、こらえているのか、千夏にはわからなかった。
「あたし、まだ、いっしょになるなんて、決まってないよ」千夏は言った。
「わかってる」
「まだ、入口の入口だよ」
「わかってるってば」
母は、少し笑った。それから、また、新しいキャベツを一つ手にとって、外葉を剥きはじめた。しゃくり。しゃくり。今度は、いつもの、迷いのない音がした。
「でも、いつかは、そういう日が来るんだよね」母が言った。「あんたが、うちを出ていく日が。近くだろうが、遠くだろうが。それは、来るんだよね」
千夏は、返事ができなかった。
「志んさーん、ちょっと、これ、傷んでない?」
若い女の声がした。三十くらいの、身なりのいい女の人が、台の上の茄子を一本つまんで、祖母のほうへ突き出していた。乳母車を片手で押さえている。その茄子のへたのあたりに、たしかに、小さな、茶色い傷みがあった。
「あら、ほんとだ。ごめんなさいね、それ、下げときますから。こっちの、艶のいいのを持っていって」
祖母は、すぐに謝って、傷んだ茄子を引っこめた。女の人は、少し得意そうに、艶のいい茄子を選んで籠に入れた。それから、思い出したように、
「あと、大根も一本。この、いちばん大きいの」
女の人が指したのは、台のいちばん手前、桟の際に寝ていた、あの、一等太い青首の大根だった。朝いちばんに市場から仕入れてきた、いちばん出来のいい大根。祖母が、これは日本一だと胸を張っていた、あの大根だった。
千夏は、なぜだか、その大根を手放したくない、と思った。
理由はなかった。ただ、その大根が、今朝、母が「彗星がよく見えた」と言ったときに、ちょうど陽を受けて白く光っていた、あの大根のような気がした。実際にどの大根だったかなんて、覚えていなかったのに。ただ、なんとなく、その一本が、今日という日の、いちばんいいところを、集めたような大根に思えた。
「はいはい、大根ね。これは、いいのよ。今朝の、いちばんいいの」
祖母が、その大根をとって、女の人の乳母車の下の籠に、そっと入れようとした。
そのときだった。
乳母車の中で、赤ん坊が、ぐずりはじめた。ふえ、ふえ、と、まだ本格的に泣くというほどでもない、機嫌の変わり目のような、頼りない声で。女の人は、慌てて乳母車を揺らした。あやしながら、財布を出そうとして、けれど片手がふさがっていて、うまくいかない。
すると、母が、す、と前に出た。
「よかったら、抱っこしましょうか。お会計のあいだ」
女の人は、一瞬、ためらったようだった。見知らぬ八百屋の女に、赤ん坊を預けることを。けれど、母の、その、迷いのない手つきを見て――キャベツの葉を剥くときの、あの手つきを見て――安心したのか、そっと、赤ん坊を差し出した。
母は、赤ん坊を受けとると、慣れた手つきで、肩に抱き寄せた。そして、あやすように、体を、ゆっくりと左右に揺らしはじめた。
そのとき、母の口から、ごく低く、ほとんど息のような声で、歌が漏れた。
――眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。
千夏は、その歌を、知っていた。
千夏が、赤ん坊のころ。まだ何も覚えていないはずの、いちばん幼いころ。母が、この歌を、うたってくれていた。それを千夏が覚えているのは、母がその後も、千夏がずっと大きくなってからも――小学校のころ、熱を出して寝込んだ夜や、中学のころ、いやなことがあって布団の中で泣いた夜に――ふすまの向こうから、ごく低く、この歌を、うたっていたからだった。眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。母は、千夏が泣いていることに気づかないふりをして、ただ、ふすまの向こうで、独り言のように、この子守唄をうたった。うたい終わると、そっと、廊下の灯を消す音がした。
母は、今、見知らぬ女の子の赤ん坊に、その同じ歌をうたっている。
赤ん坊は、母の低い歌に、だんだんと、ぐずるのをやめた。ふえ、ふえ、という声が、ふ……ふ……と間遠になり、やがて、母の肩のあたりで、静かになった。女の人は、その様子を見て、目を丸くした。
「まあ……上手。すっかり、寝ちゃった」
「歳の功ですよ」母は、笑った。「わたしにも、娘が一人。もう、こんな大きいのがね」
母は、赤ん坊を抱いたまま、あごで、帳場のほうを――千夏のほうを、しゃくった。
千夏は、なぜだか、目の奥が、つんとした。
三
女の人は、赤ん坊を受けとって、何度も礼を言って、乳母車を押して帰っていった。乳母車の下の籠には、あの、一等いい大根が、青首を覗かせて、揺れていた。
千夏は、その大根が、遠ざかっていくのを、見送った。手放したくない、と思っていたのに、いざ、それが赤ん坊のいる家へと運ばれていくのを見ると、これでよかったのだ、という気がした。日本一の大根は、寝てしまった赤ん坊のいる家の、今夜の食卓にのぼるのだろう。母親が、その大根を、どんなふうに煮るのか、あるいは大根おろしにするのか、千夏は知らない。知らないけれど、それでよかった。
「おかあさん」千夏は言った。「あの歌」
「え?」
「あの、子守唄。眠れ、眠れ、って」
母は、少し、きまり悪そうな顔をした。
「ああ、あれ。おばあちゃんが、あたしにうたってくれたのよ。あたしが、赤ん坊のころ。おばあちゃんも、そのまた、おばあちゃんに、うたってもらったんだって。だから、どこの歌だか、いつの歌だか、もう、わからない。ずうっと、うたい継がれてきた歌」
「あたしにも、うたってくれてたよね」
母は、千夏のほうを、見た。今度は、目を、そらさなかった。
「覚えてるの?」
「覚えてる」
「あんた、まだ、赤ん坊だったのに」
「覚えてるよ。ずっと。おかあさんが、あたしが泣いてる夜に、ふすまの向こうで、うたってくれてたの」
母は、しばらく、何も言わなかった。それから、目を、少しだけ、伏せた。
「気づいてたの」
「うん」
「あんたが、寝たふりして、布団の中で泣いてたの」
「うん」
「あたしも、気づかないふりして、うたってたの」
「うん。知ってた」
二人は、しばらく、黙っていた。
商店街の喧騒は、あいかわらず、続いていた。魚屋の呼び込み。惣菜屋の油の音。どこかで自転車のベルが鳴った。八百屋の店先には、あいかわらず、野菜が、傾いた台の上に、きちんと並んでいた。何も、変わったことは、起きていなかった。ただ、母と娘のあいだに張っていた、あの薄い膜が――す、を隠す大根の白い肌のような、あの膜が――今、そっと、破れて、そこから、何か温かいものが、行き来しはじめていた。
千夏は、思った。母は、たぶん、あの子守唄を、うたいながら、覚悟していたのだ。いつか、娘が、この家を出ていく日のことを。あの、赤ん坊のころの、夜泣きの夜から、ずっと。廊下を、行ったり来たり、娘を抱いて歩いていたあのころから、母は、この子は、いつか、自分の腕の中から、いなくなるのだと、わかっていた。わかっていて、それでも、うたった。眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。星は、いつか、海をわたる。子守唄は、子を、眠らせるための歌であると同時に、いつか、その子を、送り出すための歌でもあったのだ。
千夏は、母の、荒れた手を、見た。あかぎれの痕の残る、その手を。その手が、赤ん坊の千夏を抱き、少女の千夏の髪を結い、そして今も、キャベツの葉を、一枚ずつ、ていねいに剥いている。千夏は、その手を、いつまでも、覚えていようと思った。北のほうに行っても、どこに行っても、この手のことは、忘れまいと思った。
「そうだ、千夏」祖母が、奥から声をかけた。「あんた、昼飯、食べてくだろ。ふろふき大根、作るよ。今朝の、す、の入ったやつでね。煮ちまえば、わからないから」
「食べる」千夏は言った。「食べてく」
「よし。じゃあ、母さんと、二人でお食べ。あたしは店番してるから」
「おばあちゃんは?」
「あたしは、いいの。とめさんが、また、値切りに来るかもしれないからね。あの人の相手は、あたしじゃないと、務まらない」
祖母は、そう言って、帳場の、いつもの場所に、腰を下ろした。帳場の脇には、古びた釣り銭皿があった。硬貨を受け渡しするための、小さな、木の皿。その縁が、長年の手ずれで、つやつやと黒光りしていた。
その釣り銭皿のそばに、一つ、小さな箱が置いてあった。
青い、マッチ箱だった。
「月光堂」と、白い字で、そっけなく刷ってある。それだけの、なんの変哲もないマッチ箱だった。ただ、その青は、妙に、目を惹く青だった。夜明け前の空の、いちばん深いところの青。あるいは、明け方に見えたという、あの、ミラ彗星の、青。
「おばあちゃん、これ、なに」千夏は、そのマッチ箱を、指でつまんだ。
「ああ、それかい」祖母は、ちらりと見て、言った。「マッチだよ。線香に火をつけるのに使うの。おじいちゃんの、仏壇のね」
「月光堂って?」
「さあ。昔、この商店街の、はずれのほうに、夜だけ店を開ける、古い本屋があってね」
祖母は、遠い目をした。
「月光書房、って言ったかね。夜になると、ふっと、灯がついて、朝になると、消えてる。看板だけ残して、店は、どこにもない。あたしが、まだ、あんたの母さんくらいの歳のころの話さ。そのころ、その本屋の隣に、月光堂っていう、小さな、乾物だか、雑貨だかの店があってね。そこで、このマッチを、売ってた。今は、もう、どっちも、ないよ。本屋も、乾物屋も」
「でも、マッチは、あるじゃない」
「うん。おじいちゃんが、生きてたころに、買い置きしてたのが、まだ、残ってるの。減らないんだよ、これが。一日に一本しか、使わないからね。線香の分だけ」
祖母は、その青いマッチ箱を、千夏の手からそっととって、また、釣り銭皿のそばに、もとどおりに置いた。まるで、そこが、そのマッチ箱の、いるべき場所だとでもいうように。
「その本屋でね」祖母は、続けた。話し出すと、止まらなくなるのは、歳のせいだった。「あたし、一冊、本を買ったことがあるの。若いころ。夜中に、眠れなくて、ふらっと歩いてたら、いつのまにか、その本屋の前に、来ててね。灯が、ぼうっと、ついてた。青い、灯がね。それで、なんとなく、入ってみたの」
「どんな本、買ったの」
「歌の本さ。子守唄ばっかり、集めた、古い本。そのなかに、あの歌が、載ってたの。眠れ、眠れ、星が海をわたるまで、って。あたしが、母さんに――あんたの、ひいおばあちゃんに、うたってもらってた、あの歌が、そっくりそのまま、載ってたんだよ。びっくりしてねえ。ああ、あの歌は、うちだけの歌じゃなかったんだ、どこか、遠いところから、ずうっと、旅してきた歌なんだって、そう思ったら、なんだか、うれしくって」
「その本、まだ、あるの」
「さあ。どこか、いっちまったねえ。引っ越しのときにでも、失くしたかね。けど、歌は、残ってる。本は失くしても、歌は、こうやって、あんたの母さんから、あんたに、伝わってる。おかしなもんだよ。紙は、失くなるのに、声は、残る」
祖母は、青いマッチ箱を、指で、とん、と軽くはじいた。中で、マッチが、かさりと鳴った。
千夏は、その青を、見つめた。
月光堂の、青いマッチ。夜だけ現れる、月光書房。明け方の、青いミラ彗星。祖母の言う、ずっとうたい継がれてきた子守唄。それから、母が、その子守唄を、赤ん坊のころの千夏にうたってくれていたこと。千夏が、それを、ずっと覚えていたこと。
みんな、どこかで、繋がっている気がした。
夜だけ現れて、朝には消える、あの本屋のように。昼には見えないけれど、まだそこにいるという、あの彗星のように。目には見えないけれど、たしかに、そこにあって、ずっと、うたい継がれ、譲り渡されてきた、何か。
それが、今日、大根一本を挟んで、母から、千夏へ、そっと、渡された気がした。
昼飯は、店の奥の、四畳半の茶の間で食べた。
その茶の間は、千夏が子どものころから、少しも変わっていなかった。すすけた壁に、古い柱時計がかかっていて、こつ、こつ、と、店先の喧騒とは無縁の、ゆっくりした時を刻んでいた。壁ぎわの茶箪笥の上には、祖父の写真が、白黒の額に入って、飾ってあった。写真の祖父は、まだ若くて、店の前で、腕を組んで、少し照れたような顔で笑っていた。その写真の前には、小さな仏壇があって、線香立てと、あの、青いマッチが、もう一箱、供えてあった。千夏は、その青を、ちらりと見た。夜明け前の空の色。母の言った、ミラ彗星の、青。
ちゃぶ台の上に、ふろふき大根と、白い飯と、なめこの味噌汁と、それから、キャベツの浅漬けが並んだ。ふろふき大根は、す、の入った、あの大根で作ったものだったけれど、祖母の言うとおり、煮てしまえば、す、なんて、どこにあるのか、わからなかった。柚子味噌が、とろりと、大根の白い肌にかかっていて、箸を入れると、ほろりと崩れて、中まで、だしの色に染みていた。
「おいしい」千夏は言った。
「そりゃそうさ」茶の間の襖の向こう、店先から、祖母の声がした。祖母は、店番をしながら、耳だけ、こちらに向けている。「日本一の大根だからね」
「す、が入ってたじゃない」千夏が言い返すと、店先で、祖母が、ひひ、と笑う声がした。とめさんの笑い方に、少し、似ていた。
母は、千夏の向かいに座って、黙って、飯を食べていた。
千夏は、大根を一口食べて、味噌汁を一口すすって、それから、思いきって、言った。
「おかあさん」
「なに」
「あたし、たぶん、まだ、しばらくは、どこにも行かないよ」
母は、箸を止めた。
「あの人と、どうなるかは、わからないけど。でも、もし、いつか、そういう日が来ても。北のほうだろうが、どこだろうが。あたし、時々は、帰ってくるから」
母は、しばらく、何も言わなかった。
千夏は、続けた。言ってしまおう、と思った。今まで、膜の向こうに、しまいこんでいたことを。
「あたし、この店が、好きだよ。おばあちゃんの、右上がりの値札の字も。とめさんが、まからない大根を、値切りに来るのも。松ちゃんとこの、甘酢漬けが、まわりまわって、うちの食卓に来るのも。傷んだ野菜を、成仏させてやるって言う、おばあちゃんの、あの、へんな言い方も。ぜんぶ、好き。あたし、たぶん、どこに行っても、この店のことを、思い出すと思う。昼前の、この、大根の白いのを、思い出すと思う」
母は、しばらく、何も言わなかった。
それから、味噌汁の椀を、両手で持って、ゆっくりと、すすった。椀の陰で、母の目のあたりが、少しだけ、光ったように見えた。けれど、千夏は、気づかないふりをした。母が、赤ん坊のころの千夏の泣き声に、気づかないふりをして、子守唄をうたってくれたように。
「帰っておいで」母は、椀を置いて、言った。「大根、煮といてやるから」
「うん」
「日本一のを、な」
「うん」
昼を食べ終えて、千夏は、店先に戻った。
祖母は、相変わらず、帳場に座って、通りかかる客と、軽口を叩いていた。魚屋のおやじが、鯵を三尾、新聞紙にくるんで持ってきて、大根と物々交換していった。とめさんが、また、ひょっこり現れて、今度は、ほうれん草を値切って、一円もまからずに買っていった。若い母親が、乳母車を押して通りかかって、祖母に会釈をした。さっきの、赤ん坊の母親だった。赤ん坊は、まだ、乳母車の中で、すやすやと眠っていた。
すべては、ありふれた、昼前の、商店街の、いつもの光景だった。
千夏は、店先の、傾いた台の上の、大根を見た。
朝より、少し、数が減っていた。けれど、残った大根は、あいかわらず、その白い肌を、四月の昼前のやわらかい光に晒して、ちょうどよく、白かった。しゃんとしすぎもせず、くすみもせず。祖母の言った、あの、昼前の白だった。
千夏は、ふと、空を見上げた。
天蓋の隙間から見える、四月の昼前の空は、うっすらと白っぽい水色をしていた。目を凝らすと、そのずっと高いところに、青い、ごく淡い一点が、消え残っているようだった。それが、母の言った、ミラ彗星の名残なのか、ただの目の錯覚なのか、千夏には、わからなかった。
けれど、そこにいる、と思った。
昼には見えないけれど、まだそこにいる、あの、明け方の青。夜だけ現れて、朝には消える、あの本屋のように。目には見えないけれど、たしかに、そこにあって、ずっと、うたい継がれてきた、何か。
母が、店の奥から、また、前掛けで手を拭きながら、出てきた。母は、千夏の隣に立って、同じように、空を見上げた。
「まだ、いる?」母が訊いた。
「うん」千夏は答えた。「まだ、いる」
母は、少し、笑った。
そして、二人は、しばらく、並んで、その、見えるような、見えないような、青い一点を、見上げていた。
店先には、大根の白が、昼前の光の中で、静かに、白かった。それは、朝より、たしかに、きれいな白だった。