鋏の言葉
鋏の音というものは、二人だけの言葉に似ている。切り手と、切られる者と。その間に交わされるものが言葉であるとは、たぶん誰も気づかない。
一
「大和堂理髪店」の硝子戸は、開けるときにいつも同じ音を立てた。下のほうで木がわずかに反っていて、右へ寄せると敷居に触れ、ことり、と鳴る。三十年、同じ音だ。竹次郎はその音を、朝いちばんに聞くのが好きだった。もっとも、好きだと口に出したことは一度もない。
昼前の光が、東向きの店に斜めに差し込んでいた。表通りから一本外れた路地の、突き当りの手前。硝子戸の磨り硝子を透かして、その光は白く柔らかく、床の古びた市松の油布の上に、四角い形を落としている。その四角のなかで、埃がゆっくりと回っていた。竹次郎は椅子の背に手を置いて、それをしばらく見ていた。
朝の客が二人、もう帰っていた。一人は近くの魚屋の親父で、月に二度、耳のまわりだけを短くしてくれと言う。もう一人は名も知らぬ若い勤め人で、写真を見せて、こんな具合にと注文した。竹次郎は写真のとおりにはしなかった。頭の形が違う、と思ったからだ。若い男は鏡を見て、少し不服そうな顔をしたが、外へ出るころには、まあこれでいいか、という顔になっていた。竹次郎はそういう顔を、三十年見てきた。
いまは、誰もいない。
時計が、店の奥で時を刻んでいた。文字盤の下に振り子の見える古い柱時計で、竹次郎の父が店を開いたときからあるものだ。かちり、かちり、と、その音は鋏よりも遅く、けれど鋏よりも確かだった。
竹次郎は椅子を布で拭いた。合皮の張られた回転椅子は、肘のところが擦れて下地が覗いている。何度か張り替えようと思ったが、そのたびに、まだいい、と思った。まだいい、というのがこの店の合言葉のようなものだった。看板も、庇のところで塗料が剥げているが、まだいい。表の赤と青の斜めの筒――サインポールというのだと、いつか客が教えてくれた――も、いまはもう回らない。中の螺旋を動かす仕掛けが壊れて、修繕を頼もうにも、直せる者がいなくなった。だが、赤と青の斜めの筋はそのままそこにあって、動かないなりに、理髪店であることを示している。それで、まだいい。
棚に、青いマッチ箱が一つ置いてあった。
月光堂、と側面に小さく刷ってある。細長い、上等な燐寸だ。もう火をつけるものは店にほとんどない。父の代には、剃刀を蒸すための湯を沸かす焜炉に、これで火をつけた。いまは電気の蒸し器を使っている。だからこのマッチ箱は、ただ棚に置かれているだけだった。青が、いい青だった。曇った日の、夜明け前の空のような青。竹次郎はときどき、指でその箱を撫でた。中の軸木が、かさ、と乾いた音で寄る。それだけで、なぜか気持ちが落ち着いた。
十一時になる前に、あの人が来る。
竹次郎は掛け時計を見た。あと、四十分ほど。
あの人――佐野さんは、二十年以上、月に一度、判で押したように同じ日、同じ時刻に来る。第三の火曜日、昼前の十時半すぎ。仕立屋を長くやっていた人で、いまはもう店を畳んだと聞いた。細身の、背の高い老人で、髪はもうほとんど白いが、それでも月に一度、律儀に整えに来る。
竹次郎は、佐野さんの頭の形を、目をつぶっても言えるほど知っていた。左の後頭部が、少しだけ平たい。若いころに何かで打ったのだと、いつか聞いた。つむじは右に一つ。生え際は、この二十年で、着実に後退した。それを、竹次郎は毎月、鋏の下で見送ってきた。人の老いというものを、これほど間近で、長い年月をかけて見る仕事も、そうはないだろう、と思う。
前掛けをかけ直し、竹次郎は鋏を手に取った。使う前に、いつも一度、開いて閉じる。かちん、と、澄んだ音がする。刃が合っている。父から譲られた鋏だ。刃を研ぐたびに、少しずつ痩せていく。人と同じだ、と思う。
硝子戸が、ことり、と鳴った。
竹次郎は顔を上げた。磨り硝子の向こうに、細長い影が立っていた。戸が横に滑り、昼前の光と一緒に、佐野さんが入ってきた。
「どうも」
低い、少しかすれた声だ。佐野さんはいつもそう言う。おはよう、でも、こんにちは、でもなく、ただ、どうも、と。
「いらっしゃい」
竹次郎も、いつものように言った。それ以上は言わない。
佐野さんは帽子を脱ぎ、入口の脇の帽子掛けにかけた。灰色のソフト帽で、鍔のところがくたびれている。それから外套を脱いだ。この季節にはまだ少し早い外套だったが、佐野さんは寒がりだった。年を取ると寒がりになる、といつか言っていた。血の巡りが悪くなるんだね、と。
外套の下から、片方の手袋が覗いた。左手にだけ、革の手袋をはめている。右手は素手だ。竹次郎はそれに気づいていたが、何も言わなかった。何年か前から、佐野さんは左手にだけ手袋をするようになった。理由は聞いていない。聞くことではない、と思っていた。人には、聞いてはいけないことがある。それを心得ているのが、この商売の礼儀のようなものだった。
佐野さんは手袋を外し、外套のポケットにしまった。それから、回転椅子に腰を下ろした。
「どうぞ」
竹次郎は白い布を広げ、佐野さんの首もとに巻いた。襟のところに紙のテープを差し込み、布の端を留める。この所作を、二十年以上、繰り返してきた。手が覚えている。目をつぶっていてもできる。
鏡のなかで、佐野さんの顔が竹次郎を見ていた。皺の深い、痩せた顔だ。目だけが、妙に若い。黒目がちの、澄んだ目。その目が、今日は、少し違って見えた。竹次郎はそう思ったが、気のせいかもしれない、とも思った。
「いつものように」
佐野さんが言った。竹次郎は頷いた。
いつものように、というのは、この二十年、変わらない注文だった。耳のまわりを短く。襟足を刈り上げる。全体を、少しだけ整える。それだけだ。竹次郎は、その「いつものように」の中に、佐野さんの一月を読み取るのが常だった。伸びた分だけ、時間が経っている。今月は、いつもより少し伸びていた。
竹次郎は霧吹きを取り、佐野さんの髪を湿らせた。しゅ、しゅ、と、細かい水が舞う。白い髪が、しっとりと落ち着く。それから、櫛を入れた。ゆっくりと、頭皮に沿って。佐野さんの髪は、細く、柔らかかった。年を取った人の髪だ。子供の髪に、少し似ている。
鋏を取った。かちん、と一度、開いて閉じる。
そして、切りはじめた。
二
鋏の音だけが、しばらく店を満たした。
しゃきん、しゃきん、と、刃が髪を噛む。竹次郎はその音を、自分の呼吸のように聞いていた。速すぎず、遅すぎず。一定の間合いで。指の腹で髪をすくい、櫛で持ち上げ、その分だけを切る。落ちた髪が、白い布の上に、細く散る。それは雪のようでもあり、灰のようでもあった。
柱時計が、かちり、かちり、と鳴っていた。
「今日は、いい天気だね」
佐野さんが、鏡のなかで言った。竹次郎は、鋏を止めずに答えた。
「ええ」
それだけだった。会話は、いつもそうだった。途切れがちに、ぽつり、ぽつりと。天気のこと。季節のこと。ときどき、町のこと。誰それが亡くなった。どこそこの店が閉まった。そういう話を、佐野さんはぽつぽつと話し、竹次郎はそれを、鋏の音の合間に聞いていた。相槌は少ない。だが、聞いていないわけではなかった。むしろ、この店の誰よりも、竹次郎は佐野さんの話を聞いていた。
「表の筒、まだ回らないままだね」
佐野さんが言った。竹次郎の手が、一瞬、止まった。
「ええ。直せる者が、いないもんで」
「そうか」
佐野さんは、少し笑ったようだった。鏡のなかの目もとが、皺を寄せた。
「あれが回ってると、いかにも床屋って感じがしてね。子供のころ、あれを見ると、なんだか嬉しくなったもんだ。ぐるぐる回るのが、面白くてね」
「よく、言われます」
「回らなくても、いいさ」
佐野さんが言った。竹次郎は頷き、また鋏を動かしはじめた。
しゃきん、しゃきん。
「この路地も、ずいぶん変わったね」
佐野さんが、鏡のなかで、ぽつりと言った。
「昔は、もっと、にぎやかだった。角に、駄菓子屋があってね。その隣が、下駄屋。その先が、湯屋だった。夕方になると、湯屋の煙突から、煙が上がってね。それを見ると、ああ、一日が終わるな、と思ったもんだ」
竹次郎は、覚えていた。竹次郎が子供のころ、この路地には、まだ、その店々があった。駄菓子屋の婆さんは、竹次郎に、よく飴を一つ、おまけしてくれた。下駄屋の親父は、雨の日に、鼻緒をすげ替えてくれた。湯屋は、竹次郎が十五、六のころに、閉まった。いまは、そのどれも、ない。駄菓子屋のあったところは、駐車場になり、下駄屋は、人の住まなくなった家のまま、朽ちている。湯屋の跡地には、小さなアパートが建った。
「みんな、いなくなっちまった」
佐野さんが言った。その声は、責めるでも、嘆くでもなく、ただ、事実を確かめるようだった。
「あんたの店だけが、まだ、ここにある。不思議だね。あんな店も、こんな店も、みんな畳んじまったのに、床屋だけが、残ってる」
「髪は、伸びますから」
竹次郎が言うと、佐野さんは、ふ、と笑った。
「そうだね。髪は、伸びる。人が生きてる限り、髪は伸びる。だから、床屋は、いる。なるほどね」
「死んだあとも、伸びるって、言いますよ」
竹次郎が、ぽつりと言った。自分でも、なぜそんなことを言ったのか、わからなかった。父が、いつか、そう言っていた。爪も、髪も、死んでから、しばらくは伸びるものだ、と。ほんとうかどうかは、知らない。
佐野さんは、鏡のなかで、竹次郎を見た。それから、静かに言った。
「そうか。死んでも、伸びるか」
竹次郎は、しまった、と思った。今日という日に、言うべきことでは、なかったかもしれない。だが、佐野さんは、気にした様子もなく、むしろ、どこか、安らいだような顔をしていた。
「それなら、いいな」
佐野さんは、そう言って、目を閉じた。
竹次郎は、また、鋏を動かした。
しゃきん、しゃきん。
耳のまわりを整える。ここは、慎重にやる。耳のかたちに沿って、少しずつ。佐野さんの右の耳たぶは、下のほうが少し欠けている。若いころの怪我だと、これもいつか聞いた。竹次郎は、その欠けたところを避けるように、鋏を入れた。長年の癖だった。
窓の外で、雀が鳴いていた。路地の、隣の家の屋根のあたりだろう。ちちち、ちちち、と、忙しない声。それから、遠くで、豆腐屋のラッパが聞こえた。ぷぉー、ぷぉー、と、間延びした音。昼前の、町の音だ。竹次郎は、その音を毎日聞いている。聞きすぎて、もう耳が拾わないほどに。だが、今日はなぜか、その音がはっきりと聞こえた。
佐野さんが、鏡のなかで、外を見ていた。
磨り硝子の向こうに、光がある。その光を、佐野さんはじっと見ていた。何を見ているのだろう、と竹次郎は思った。磨り硝子だから、外の景色は見えない。ただ、光の明暗があるだけだ。だが佐野さんは、その先の何かを見ているような目をしていた。
「竹さん」
不意に、佐野さんが言った。竹次郎、を、佐野さんはいつも、竹さん、と呼んだ。
「はい」
「今日で、最後にしようと思うんだ」
竹次郎の手が、止まった。
鋏が、宙で止まった。刃と刃の間に、白い髪が一筋、挟まったまま。
柱時計が、かちり、と鳴った。
「……最後、と言いますと」
竹次郎は、自分の声が、いつもより低くなっているのに気づいた。
「ここに来るのも、今日で最後だ」
佐野さんは、鏡のなかで竹次郎を見ていた。その目は、静かだった。悲しんでいるのでも、寂しがっているのでもない。ただ、静かだった。決めたことを告げる者の、落ち着いた目だった。
竹次郎は、しばらく何も言えなかった。鋏を、そっと下ろした。挟まっていた髪が、白い布の上に落ちた。
「引っ越し、ですか」
やっと、それだけ言った。
「まあ、そんなようなもんだ」
佐野さんは、曖昧に答えた。
竹次郎は、それ以上、聞かなかった。聞いてはいけないことが、この世にはある。長年の勘で、竹次郎はそれを察していた。佐野さんの「そんなようなもん」が、ただの引っ越しではないことを。
竹次郎は、また鋏を取った。
手が、少し重かった。だが、切りはじめると、いつもの間合いが戻ってきた。しゃきん、しゃきん。指が覚えている。頭が考えなくても、手が動く。三十年の、手だ。
「長かったね」
佐野さんが言った。
「そうですね」
「あんたの親父さんの代から、来てたんだ。覚えてるかい」
竹次郎は頷いた。覚えている。父がまだ元気だったころ、佐野さんは、もっと若かった。髪も黒く、背筋も、いまよりまっすぐだった。竹次郎はそのころ、まだ修業の身で、店の隅で箒を持っていた。父が佐野さんの髪を切るのを、後ろから見ていた。
「親父さんは、無口な人だったね」
佐野さんが、ふと言った。竹次郎は、少し笑った。
「ええ」
「あんたも、無口だ」
「……ええ」
「血は争えないね」
佐野さんも、鏡のなかで笑った。二人の笑いが、鏡のなかで、少しだけ重なった。
竹次郎は、父のことを思い出していた。父は、本当に無口な人だった。一日、十も言葉を発しないことがあった。だが、鋏を持つと、父は雄弁だった。竹次郎はそう思っていた。父の鋏は、よく喋った。速く、鋭く、迷いなく。父の切った髪は、いつも、その人がその人らしく見えた。竹次郎は、それを盗もうとした。だが、盗みきれなかった。父の鋏の喋り方は、父だけのものだった。
竹次郎の鋏は、父より、少し遅い。少し、静かだ。それが竹次郎の喋り方だった。
「あんたの切り方は、親父さんとは違うね」
佐野さんが、竹次郎の心を読んだように言った。
「違いますか」
「違うよ。親父さんは、こう、ばりばりっとやった。あんたは、こう……なんて言うのかな。撫でるみたいに切る」
竹次郎は、鋏を止めた。
「そうですか」
「悪い意味じゃないよ。あんたに切られると、なんだか、落ち着くんだ。眠くなる。今日も、ほら」
佐野さんは、鏡のなかで目を細めた。
「眠くなってきた」
「寝ても、いいですよ」
竹次郎が言うと、佐野さんは少し笑った。
「いや。今日は、寝ないでおくよ。最後だからね。ちゃんと、起きていたい」
竹次郎は、また鋏を動かしはじめた。
しゃきん、しゃきん。
その音が、今日は、少し違って聞こえた。
三
襟足を刈る段になって、竹次郎はバリカンを取った。
手動のバリカンだ。電気のものもあるが、佐野さんの襟足には、いつも手動のものを使う。じょり、じょり、と、刃が首筋を這う。電気のものより、遅い。だが、その遅さが、竹次郎は好きだった。首筋の皮膚の下に、骨がある。その骨のかたちを、じょり、じょりと、確かめるように刈っていく。
佐野さんの首は、細くなっていた。二十年前は、もっと太かった。いまは、皮膚がたるんで、その下に骨が透けて見える。老いというのは、こういうことか、と竹次郎は思う。人は、少しずつ、削られていく。鋏で切るように。バリカンで刈るように。時間という刃で。
「竹さん」
佐野さんが、また言った。
「はい」
「あんた、彗星、見たかい」
竹次郎は、バリカンを止めた。
「彗星、ですか」
「ミラ彗星だ。今朝、明け方に見えた。西の空に、低くね。青っぽい、小さな星でね。尾が、こう、うっすらと」
佐野さんは、右手を持ち上げて、宙に細い線を描いた。
「新聞に、出てたろう。何十年かに一度、来るんだと」
「ああ」
竹次郎は、思い出した。そういえば、朝刊の隅に、そんな記事があった。竹次郎は、あまり気に留めなかった。星のことなど、この店には関係ない、と思って。
「今朝、眠れなくてね」
佐野さんが言った。
「夜中に目が覚めて、それっきり眠れなくてね。それで、表に出てみたんだ。まだ暗いうちに。そうしたら、あれが、見えたんだ。ミラ彗星が」
竹次郎は、バリカンを持ったまま、佐野さんの話を聞いていた。
「きれいだったよ。青くてね。ほんの、小さな点だ。だが、青かった。あの色は、なんて言うのかな……」
佐野さんは、言葉を探すように、少し黙った。それから、竹次郎の後ろの棚に目をやった。鏡越しに。
「あの、マッチの箱の青に、似てたな」
竹次郎は、振り返った。棚の上の、青いマッチ箱。月光堂の、青。
「月光堂のマッチだ」
竹次郎は言った。
「ああ、月光堂か。懐かしいね。まだ、あるのかい、あの店」
「いえ。とうに、閉めました。これは、父の代からのもので」
「そうか」
佐野さんは、その青を、鏡のなかでじっと見ていた。
「あの青は、いい青だ。空の青とも、海の青とも違う。夜明け前の、いちばん暗い、けれど、もう夜じゃない、あの時間の青だ。彗星も、あの色だった」
竹次郎は、また佐野さんの襟足に、バリカンをあてた。じょり、じょり。
「昼でも、見えるらしいよ」
佐野さんが言った。
「え」
「あの彗星さ。今日は、昼前でも、目を凝らせば見えるらしい。空の、高いところにね。そう、新聞に書いてあった。滅多にないことだと」
竹次郎は、鏡越しに、窓のほうを見た。磨り硝子だから、空は見えない。ただ、白い光があるだけだ。
「見えますかね」
「さあ。どうだろう。だが、いると思えば、いるんだろうね。見えなくても」
佐野さんは、そう言って、少し笑った。
竹次郎は、佐野さんの襟足を刈り終えた。じょり、という最後の音のあと、店は、また静かになった。柱時計だけが、かちり、かちり、と鳴っている。
竹次郎は、蒸しタオルを取りに、奥へ行った。電気の蒸し器から、湯気の立つタオルを、火箸のようなもので摘まみ上げる。あつい。手のひらで転がして、少し冷ます。それから、佐野さんの襟足に、そっとあてた。
佐野さんが、小さく息を漏らした。
「ああ、気持ちいいね」
竹次郎は、タオルで襟足の細かい毛を拭った。それから、剃刀を取った。父から譲られた、西洋剃刀。刃を、革砥で数度、往復させる。しゃっ、しゃっ、と、革の擦れる音。刃が、光を弾く。
「剃りますよ」
竹次郎が言うと、佐野さんは目を閉じた。
竹次郎は、佐野さんの襟足に、石鹸を塗った。刷毛で、白く泡立てる。それから、剃刀を寝かせて、皮膚の上を滑らせた。しゃり、しゃり。細い毛が、刃に集まる。竹次郎は、それを湯の入った器で、ゆすいだ。また、剃る。しゃり、しゃり。
この、剃刀を握るときの緊張が、竹次郎は嫌いではなかった。人の首に、刃をあてる。少しでも力を間違えれば、傷をつける。その緊張が、竹次郎を、その瞬間だけ、無心にした。過去も、未来も、消える。ただ、刃と、皮膚と、その間の、髪一本ほどの隙間だけがある。
佐野さんは、目を閉じたまま、身じろぎ一つしなかった。二十年、竹次郎に首を預けてきた人だ。竹次郎の手を、信じている。その信頼が、竹次郎の手を、いっそう慎重にした。
人の首に刃をあてるとき、竹次郎はいつも、父の手を思い出す。父の手は、大きく、節くれだって、指先が、いつも乾いていた。その手が、剃刀を握ると、まるで別のものになった。迷いがなく、無駄がなく、まっすぐだった。竹次郎は、子供のころ、その手を、飽きずに見ていた。おれの手は、あんなふうには、ならない、と思っていた。だが、いつのまにか、竹次郎の手も、父の手に、似てきた。指先が乾き、節が太くなり、甲に、染みが浮いた。剃刀を握ると、迷いが、消えた。血は争えない、と佐野さんは言った。手も、そうだった。父の手が、竹次郎の手のなかに、生きていた。
そして、いま、その手で、竹次郎は、佐野さんの、最後の一剃りを、している。二十年分の、最後の。竹次郎は、その一剃りを、ことさら、丁寧にした。急がず、深すぎず、浅すぎず。皮膚のうえを、刃が、なめらかに滑った。しゃり、しゃり。細い産毛が、刃に集まった。竹次郎は、それを、そっと、器でゆすいだ。まるで、時間そのものを、洗い流すように。
剃り終えて、竹次郎は、もう一度、蒸しタオルをあてた。佐野さんが、また、ああ、と息を漏らした。
「あんたに剃ってもらうのが、いちばん気持ちいいんだ」
佐野さんが、目を閉じたまま言った。
「よその床屋じゃ、こうはいかない。みんな、電気の剃刀を使うからね。あれは、いけない。ちくちくして。あんたのは、刃物だ。ちゃんとした、刃物だ」
「古い、やり方ですから」
「古いのが、いいんだ」
佐野さんは、目を開けた。鏡のなかで、竹次郎と目が合った。
「なあ、竹さん。あんた、この店、いつまでやるつもりだい」
竹次郎は、少し考えた。
「さあ。やれるうちは」
「そうか。やれるうちは、か」
佐野さんは、少し寂しそうな顔をした。
「わたしは、もう、やれなくなったよ。仕立ての仕事も。この目じゃあ、針の穴が見えない。手も、震える。だから、畳んだ。潮時ってものが、あるんだね」
竹次郎は、何も言わなかった。ただ、佐野さんの頭に、櫛を入れた。全体を、もう一度、整える。細く、白い髪が、櫛の歯に沿って、きれいに流れた。
「潮時、ですか」
竹次郎は、櫛を入れながら、静かに聞いた。
「うん」
「まだ、早いんじゃ、ないですか」
竹次郎は、そう言ってから、少し驚いた。自分が、そんなことを言うとは。いつもなら、竹次郎は、客の言葉に、口を挟まない。相槌だけを打って、鋏を動かす。それが、竹次郎のやり方だった。だが、今日は、違った。言わずには、いられなかった。
佐野さんは、鏡のなかで、少し笑った。
「早くは、ないんだ、竹さん。むしろ、遅いくらいだ。人は、みんな、自分の潮時を、少し、通り過ぎてから、気づくんだね。ああ、あのときが、潮時だったな、と。だから、わたしは、通り過ぎる前に、決めたかった。まだ、自分で、決められるうちに」
竹次郎は、櫛を止めた。
「自分で、決める」
「そう。人に決められるのは、いやだからね。病に決められるのも、年に決められるのも。せめて、最後くらいは、自分で決めたい。今日で、最後にしよう、と。あんたに、髪を切ってもらうのも、今日で最後にしよう、と。そう、決めた」
竹次郎は、その言葉の意味を、深くは、問わなかった。ただ、頷いた。人が、自分で、何かを決める。それは、たぶん、大事なことだった。竹次郎にも、それは、わかった。
「いい、決め方です」
竹次郎は、そう言って、また、櫛を入れた。
四
仕上げに、竹次郎は、鏡を手に取った。
大きな手鏡だ。柄のところの塗りが、あちこち剥げている。竹次郎は、それを佐野さんの後頭部にかざした。正面の鏡に映して、後ろの仕上がりを見せるためだ。
「いかがです」
佐野さんは、鏡のなかの鏡を、じっと見た。自分の後頭部を、見た。左が少し平たい、あの後頭部を。
「うん。いいね。いつもどおりだ」
竹次郎は頷き、手鏡を下ろした。
それから、佐野さんの前掛けを外した。首もとの紙テープを抜き、白い布を、ぱさりと払う。白い髪が、床にこぼれた。市松の油布の上に、佐野さんの一月が、いや、佐野さんの二十年の最後の一片が、散った。
佐野さんは、椅子から立ち上がった。少し、よろけた。竹次郎は、とっさに手を出したが、佐野さんは、大丈夫、と言うように、手を軽く上げた。
鏡の前で、佐野さんは、自分の姿を見た。きちんと整えられた、白い髪。剃り上げた、清潔な襟足。少し、若返ったように見える。佐野さんは、満足そうに頷いた。
「さっぱりした。ありがとう」
竹次郎は、頭を下げた。
佐野さんは、帽子掛けから、ソフト帽を取った。外套を羽織り、ポケットから、片方の手袋を出した。左手に、はめる。革の手袋。竹次郎は、それを見ていた。二十年で、初めて、竹次郎はその手袋のことを、口にした。
「佐野さん」
「うん?」
「その手袋は」
竹次郎は、言葉を選んだ。
「片方だけ、なんですね」
佐野さんは、左手を見た。手袋をはめた、左手を。それから、少し笑った。
「ああ、これかい。気づいてたかい」
「ええ。前から」
「言わなかったね」
「聞くことじゃ、ないと思って」
佐野さんは、頷いた。
「あんたらしいね」
佐野さんは、しばらく、その左手を見ていた。それから、静かに言った。
「これはね、女房のなんだ」
竹次郎は、黙って聞いていた。
「女房が、編んでくれた手袋でね。いや、革のは、買ったものだが。もともとは、女房が毛糸で編んでくれた手袋があったんだ。もう、ずいぶん前だ。二十年、いや、もっと前かな。冬に、両手にはめてね。ところが、片方、失くしちまった。どこかへ、落としたんだね。それで、片方だけ、残った」
佐野さんは、左手を、そっと握った。
「女房は、笑ってね。もう一度、編んでやる、と言った。だが、編まないうちに……逝っちまった。急な病でね」
竹次郎は、目を伏せた。
「残った片方を、長いこと、しまってあった。だが、あるとき、思ったんだ。しまっておいても、しょうがない。だから、これを、はめることにした。女房の編んだ手袋の、代わりに。左手にだけ。女房が、いつも、わたしの左側を歩いたからね」
佐野さんは、そう言って、少し、笑った。泣いてはいなかった。ただ、静かに、笑っていた。
「くだらない話だ。忘れてくれ」
「いえ」
竹次郎は、首を振った。
「いい話です」
佐野さんは、硝子戸のほうへ、歩いていった。
そして、戸に手をかけたところで、振り返った。
「竹さん」
「はい」
「あんた、子守唄、知ってるかい」
竹次郎は、首をかしげた。
「子守唄、ですか」
「うん。こういうんだ」
佐野さんは、低い声で、少しだけ、歌った。
眠れ、眠れ、星が海をわたるまで――
かすれた、老いた声だった。だが、その旋律は、竹次郎の胸の、深いところに触れた。竹次郎は、その歌を、知っていた。どこかで、聞いたことがあった。ずっと昔。母が、まだ生きていたころ。母が、幼い竹次郎に、歌ってくれた。眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。
「知ってます」
竹次郎は、思わず言った。
「そうか。知ってるか」
佐野さんは、嬉しそうな顔をした。
「女房が、よく歌ってた。子供はいなかったけどね。二人でいるときに、ふと、口ずさんでね。あれを歌うと、なんだか、落ち着くんだ。星が、海をわたる。いいだろう。星が、海をわたるんだ」
竹次郎は、頷いた。
「ミラ彗星も、海をわたってるのかね」
佐野さんは、そう言って、笑った。
「何十年もかけて、暗い海を、わたってきて、また、わたっていく。そう思うと、なんだか、いいね。わたしらも、そうかもしれん。星みたいに。海をわたって、また、どこかへ」
竹次郎は、何も言えなかった。ただ、胸の奥が、熱くなった。
「じゃあ、竹さん。世話になった」
佐野さんは、帽子の鍔に、右手を軽く触れた。
そして、硝子戸を開けた。
ことり、と、木が敷居に触れる音。昼前の光が、どっと差し込んだ。佐野さんの細い影が、光のなかに、伸びた。
五
佐野さんが出ていったあと、店は、しんと静まりかえった。
柱時計だけが、かちり、かちり、と鳴っていた。
竹次郎は、しばらく、硝子戸のほうを見ていた。磨り硝子の向こうで、佐野さんの影が、遠ざかっていくのが見えた。細長い、少し傾いだ影。それが、だんだん小さくなって、やがて、光のなかに溶けて、見えなくなった。
竹次郎は、箒を取った。
床に散った、白い髪を、掃きはじめた。しゃっ、しゃっ、と、箒が油布を撫でる。白い髪が、集まってくる。佐野さんの、二十年の、最後の一片。竹次郎は、それを、ちりとりに集めた。
いつもなら、竹次郎は、髪を、そのまま塵として捨てた。だが、今日は、そうしなかった。
竹次郎は、ちりとりのなかの白い髪を、しばらく、見ていた。
それから、棚の引き出しを開けた。奥から、古い、小さな紙の袋を取り出した。薬包紙のような、白い紙。竹次郎は、その紙に、佐野さんの白い髪を、そっと移した。ほんの一つまみ。そして、それを、丁寧に、折り畳んだ。
なぜ、そんなことをするのか、竹次郎自身にも、わからなかった。ただ、捨てるのが、忍びなかった。二十年。判で押したように、月に一度。その、最後の一片を、塵として捨てるのは、どうしても、できなかった。
竹次郎は、折り畳んだ紙包みを、棚の、青いマッチ箱の隣に、置いた。
月光堂の、青。夜明け前の、空の青。ミラ彗星の、青。
その隣に、白い紙包みが、ちんまりと、置かれた。
竹次郎は、椅子に腰を下ろした。
佐野さんが座っていた、あの回転椅子に。竹次郎が、客のために座ることは、めったにない。だが、今日は、座った。
鏡のなかに、自分が映っていた。白髪の混じった、初老の理髪師。無口な父に、よく似てきた、と最近、思う。目もとや、口もとが。血は争えない、と佐野さんは言った。そのとおりだった。
鏡のなかに、窓が映っていた。
正確には、窓の、磨り硝子が。その向こうに、白い光がある。昼前の、淡い光。
竹次郎は、ふと、立ち上がった。
そして、硝子戸のところへ行き、それを、開けた。ことり、と、木が鳴る。
外に出た。
路地は、静かだった。昼前の、日の光が、路地を、白く照らしていた。豆腐屋のラッパは、もう聞こえなかった。雀が、どこかで鳴いていた。ちちち、ちちち。
竹次郎は、空を見上げた。
淡い、白っぽい、昼前の空。雲が、薄く、刷いたように広がっている。
竹次郎は、目を凝らした。
見えるだろうか。彗星が。ミラ彗星が。佐野さんが言った、青い、小さな点が。昼前の、この空に。
竹次郎は、長いこと、空を見ていた。首が、痛くなるほど。目が、かすむほど。
そして――
空の、高いところに、ふと、蒼い一点が、見えた気がした。
ほんの、小さな。針の先ほどの。青い、点。
竹次郎は、瞬きをした。すると、それは、消えた。もう一度、目を凝らすと、また、あるような気がした。あるような、ないような。
見えなくても、いると思えば、いるんだろうね。
佐野さんの言葉が、耳の奥で、聞こえた。
竹次郎は、しばらく、そこに立っていた。空を見上げたまま。青い点が、あるのか、ないのか、確かめようともせず。ただ、そこに、いると思って。海をわたっていく、青い星が。何十年もかけて、また、どこかへ。
眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。
竹次郎の口が、いつのまにか、その旋律を、なぞっていた。声には、出さずに。ただ、胸のなかで。
店に戻ると、柱時計が、正午を告げた。
ぼーん、ぼーん、と、十二回。低い、鈍い音。竹次郎は、それを、いつものように聞いた。
昼だ。
竹次郎は、赤い暖簾を、いや、この店に暖簾はない。だが、なんとなく、竹次郎は、硝子戸に「昼休み」の札を、下げようかと思った。だが、下げなかった。まだ、午後の客が来るかもしれない。誰か、髪を切りに。
竹次郎は、鋏を、手に取った。
かちん、と、一度、開いて閉じる。澄んだ音。刃が、合っている。父の鋏。少しずつ痩せていく、この鋏。
竹次郎は、それを、白い布で、丁寧に拭いた。使ったあとは、いつも、そうする。刃に付いた髪の油を、拭き取る。切れ味を、保つために。
拭きながら、竹次郎は、鏡のなかの、佐野さんが座っていた椅子を、見た。
もう、そこには、誰もいない。
だが、竹次郎には、まだ、そこに、佐野さんが座っているような気がした。細身の、背の高い老人が。左の後頭部が、少し平たい、あの頭が。鏡のなかで、外を見ている。磨り硝子の向こうの、光を。その先の、青い一点を。
竹次郎は、鋏を、いつもの場所に置いた。
そして、棚の、青いマッチ箱を、指で、そっと撫でた。かさ、と、中の軸木が、乾いた音で寄った。その隣の、白い紙包みには、触れなかった。ただ、しばらく、見ていた。
六
その日の午後、二人の客が来た。
一人は、近所の子供だった。母親に連れられて、初めての散髪だ、と言う。四つか、五つか。竹次郎の顔を見て、大声で泣いた。竹次郎は、慣れたものだった。おもちゃの、赤い車を、子供の手に握らせた。棚に、いくつか、そういうものが置いてある。子供が泣いたときのために。竹次郎の父も、そうしていた。子供は、車に気を取られているうちに、髪が短くなった。終わるころには、泣きやんで、鏡のなかの自分を、不思議そうに見ていた。
竹次郎は、子供の髪を、切りながら、佐野さんのことを思った。この子が、佐野さんの年になるころ、わたしは、もう、いない。この店も、たぶん、ない。だが、この子は、いつか、思い出すかもしれない。初めての散髪の、あの、鋏の音を。無口な、床屋の、じいさんのことを。そう思うと、竹次郎の手は、いっそう、丁寧になった。
もう一人は、若い勤め人だった。急ぎだから、早く、と言った。竹次郎は、早く、切った。だが、雑には、しなかった。早く切ることと、雑に切ることは、違う。竹次郎の父が、そう言っていた。速さは、腕だ。だが、雑は、恥だ。竹次郎は、それを守った。若い男は、時計を見ながら、椅子を立ち、金を払って、走るように出ていった。
そして、また、店は、静かになった。
夕方が、近づいていた。
昼前の、白い光は、いつのまにか、西日の、金色の光に変わっていた。それが、磨り硝子を、赤く染めていた。竹次郎は、店の掃除をした。床を掃き、椅子を拭き、鏡を磨いた。鏡が、きれいになると、そのなかに、金色の窓が、映った。
竹次郎は、その窓を、しばらく見ていた。
そして、ふと、思った。
佐野さんは、いま、どこにいるのだろう。
「そんなようなもんだ」と、佐野さんは言った。引っ越し、というわけではないのだろう。竹次郎には、わかっていた。佐野さんが、何を言おうとしていたのか。今日で、最後だ、と、なぜ、言ったのか。
だが、竹次郎は、それを、口にしなかった。心のなかでも、はっきりとは、言葉にしなかった。ただ、そういうこともある、と思った。人は、去っていく。星のように。海をわたって、また、どこかへ。
竹次郎は、棚の、白い紙包みを、もう一度、見た。
佐野さんの、白い髪。二十年の、最後の一片。
竹次郎は、それを、捨てなかった。これからも、捨てないだろう。棚の、青いマッチ箱の隣に、それは、ずっと、置かれているだろう。竹次郎が、この店をやっている限り。竹次郎が、この鋏を握っている限り。
夜になった。
竹次郎は、店を閉めた。硝子戸に、鍵をかける。ことり、と、いつもの音。それから、明かりを消した。店のなかは、暗くなった。だが、磨り硝子の向こうから、外灯の、淡い光が、差し込んでいた。
竹次郎は、暗い店のなかで、しばらく、立っていた。
棚の、青いマッチ箱が、その淡い光のなかで、うっすらと、青く、見えた。
竹次郎は、それを、手に取った。
そして、なぜだか、久しぶりに、それを開けた。かさ、と、軸木が寄る。一本、取り出した。細長い、上等な燐寸。
竹次郎は、それを、箱の側面に、擦った。
しゅっ――
小さな音とともに、火が、灯った。
暗い店のなかに、その、小さな炎だけが、揺れた。橙色の、温かい光。竹次郎の、皺の刻まれた顔を、下から照らした。
竹次郎は、その火を、じっと見ていた。
火は、軸木を、少しずつ、舐めていった。やがて、竹次郎の指のあたりまで、来た。竹次郎は、それを、そっと、吹き消した。
ふっ――
火が、消えた。
かすかな、燐の匂いと、白い煙が、暗いなかに、細く、立ちのぼった。
竹次郎は、その煙が、消えるまで、見ていた。
七
翌朝、竹次郎は、いつものように、店を開けた。
硝子戸を、開ける。ことり、と、木が敷居に触れる。三十年、同じ音。
昼前になると、竹次郎は、ふと、掃除の手を止めた。棚のところへ行き、青いマッチ箱を、見た。その隣の、白い紙包みを、見た。
そして、竹次郎は、思い出した。
昨日のことを。佐野さんのことを。片方だけの手袋のことを。子守唄のことを。ミラ彗星のことを。
竹次郎は、鏡のほうを、振り返った。
鏡のなかに、窓が映っていた。磨り硝子の向こうに、昼前の、淡い光がある。竹次郎は、その光を、じっと見た。
見えるだろうか。今日も。
いや、彗星は、もう、遠くへ行ってしまっただろう。昨日、あれほど言われても、はっきりとは見えなかった。今日は、なおさら。何十年もかけて、暗い海を、わたっていく。もう、この空には、いないのかもしれない。
だが、竹次郎は、そう思わなかった。
いると思えば、いる。見えなくても。
佐野さんの言葉を、竹次郎は、信じることにした。
竹次郎は、鏡のなかの窓を、見つめた。その、磨り硝子の向こうの、光を。その、さらに向こうの、昼前の空を。そこに、青い、小さな点が、あると思って。針の先ほどの、蒼い一点が。海をわたっていく、青い星が。
眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。
竹次郎の口が、また、その旋律を、なぞった。今度は、少しだけ、声に出して。低く、かすれた、父に似た声で。
その日も、客が、何人か来た。
魚屋の親父が、いつものように、耳のまわりだけを短くしてくれ、と言った。竹次郎は、いつものように、切った。しゃきん、しゃきん。
だが、竹次郎の鋏の音は、少しだけ、変わっていた。魚屋の親父は、気づかなかった。誰も、気づかなかった。
その音のなかに、竹次郎は、佐野さんを、聞いていた。二十年の、月に一度の、あの、途切れがちな会話を。天気のこと。季節のこと。町のこと。表の、回らないサインポールのこと。子守唄のこと。片方だけの、手袋のこと。
鋏の音というものは、二人だけの言葉だ。切り手と、切られる者と。だが、切られる者が、いなくなっても、その言葉は、切り手の手のなかに、残る。竹次郎は、そう思った。佐野さんは、いなくなった。だが、佐野さんとの、あの、鋏の言葉は、竹次郎の手のなかに、残っている。これからも、残るだろう。竹次郎が、この鋏を握っている限り。
竹次郎は、鏡のなかの窓を、ちらりと見た。
昼前の、淡い光。その向こうに、青い、小さな点。
あるのか、ないのか。
竹次郎は、鋏を、動かしつづけた。
しゃきん、しゃきん、と。
その音は、店の、古い柱時計の音と、静かに、重なった。かちり、かちり。しゃきん、しゃきん。二つの音が、昼前の光のなかで、溶け合った。
床に、髪が、散った。今度は、白ではなく、黒い、魚屋の親父の髪だった。
だが、竹次郎の目には、それが、白く、見えた。
一瞬だけ。
ほんの、一瞬だけ。
そして、また、黒に、戻った。
竹次郎は、鋏を、止めた。そして、鏡のなかの、自分を見た。無口な、初老の理髪師。父に、よく似てきた男。その目もとに、ほんの少し、光るものが、あった。
竹次郎は、それを、指で、拭った。素早く。誰にも、見られないように。
「どうかしたかい」
魚屋の親父が、鏡のなかで、聞いた。
「いえ」
竹次郎は、また、鋏を動かしはじめた。
「なんでも、ないです」
しゃきん、しゃきん。
昼前の光が、店のなかを、白く、満たしていた。その光のなかで、鋏の音だけが、静かに、鳴りつづけた。切り手の、手のなかに、残るものを、確かめるように。ゆっくりと、けれど、確かに。
鋏の音というものは、二人だけの言葉に似ている。そして、その言葉は、片方が去っても、消えはしない。手のなかに、残る。海をわたっていった、青い星が、見えなくても、そこに在りつづけるように。