二種類の音
昼前の畑には、二種類の音が流れていた。ひとつは鍬の音、ひとつは歌の声で、そのふたつは長いあいだ、決して重ならなかった。
夏のはじめの、風のやわらかな日のことである。町のはずれに、なだらかな畑地がひろがっていた。段々にひらかれた畑のひとつを、朝から耕している者があった。名を勤助といった。もうひとつ、その畑を見おろす草の丘の上に、朝から寝ころんで歌っている者があった。名を歌吉といった。
朝の慌ただしさが、ちょうど一段落したころだった。町の女房たちは、もう朝餉の片づけをすませて、井戸ばたのおしゃべりに花を咲かせていた。子どもたちは手習いに出はらい、男たちは畑や川や、それぞれの持ち場へ散っていた。竈の煙が、あちこちの屋根から、まっすぐに、ほそく、のぼっていた。日はもう、ずいぶん高くなっていた。けれど、まだ、昼にはならない。そういう、宙ぶらりんな、けれど、なぜか、いちばん平和な刻限だった。
このふたりの話をしよう。ずっと昔の、けれどどこの町にでもありそうな、昼前の話である。
鍬の音
勤助は、日の出とともに畑に出た。
これは今日にはじまったことではない。春も、秋も、冬でさえ、勤助は日の出とともに畑に出た。まだ露のおりている土に鍬を打ちおろし、太陽が中天にかかるころには、もう一畝も二畝も、まっすぐな溝を掘りあげていた。
勤助の鍬には、迷いというものがなかった。上げて、おろす。上げて、おろす。土を起こし、石をよけ、根をひろい、また上げて、おろす。その繰りかえしのなかに、勤助のよろこびのすべてがあった。畑は嘘をつかない、というのが勤助の口ぐせだった。まいた種のぶんだけ芽が出る。かけた手のぶんだけ実がなる。土は、はたらいた者にしか、応えない。
「そうとも」と、勤助はひとりごとを言いながら、額の汗をぬぐった。「はたらかざる者、食うべからず。これが世のことわりというものだ」
昼前の陽が、勤助のうなじを焼いていた。汗が背中をつたい、腰のあたりで塩の白い筋になっていた。勤助はそれを誇りに思った。この汗こそが、秋の実りの前ばらいなのだ。この汗のひとしずくずつが、冬のあいだの一膳の飯に、変わってゆくのだ。
畑のわきには、勤助が朝に掘りおこしたばかりの馬鈴薯が、土のついたまま籠に積まれていた。ひとつ、ふたつ、みっつ――勤助はそれを数えるのが好きだった。数は、はたらきの証だった。歌うことでは、芋はひとつも増えはしない。
勤助の畑は、町でいちばんの畑だった。すくなくとも、勤助は、そう信じていた。畝はまっすぐで、雑草ひとつ、生えていなかった。うねとうねのあいだの通り道は、いつも箒ではいたようにきれいで、石ひとつ、ころがっていなかった。勤助は、収穫のたびに、芋の数、豆の莢の数、瓜の玉の数を、いちいち帳面につけた。去年より、今年。今年より、来年。数がふえてゆくのが、勤助のなによりのよろこびだった。
町の市に、勤助が野菜をもってゆくと、女房たちは、われさきに買っていった。勤助さんの芋は、ほくほくして甘い。勤助さんの瓜は、みずみずしい。ひとつ五文の芋を、勤助のはこぶ籠からは、六文でも七文でも、みんな喜んで買っていった。それは、勤助のはたらきに、みなが払う、敬いのしるしのようなものだった。勤助は、その一文の上のせを、誇りに思った。この一文は、汗の一文だ、と。
その、歌である。
丘の上から、それは降ってきた。
風にのって、ゆるやかに、ためらいもなく、それは畑のうえにひろがった。勤助は鍬をとめて、丘のほうをふりあおいだ。草のうえに、ひとりの男が寝ころんでいた。片ひざを立て、両手を頭のうしろで組み、青い空にむかって、なにやら歌っている。
歌吉だった。
歌の声
歌吉が、いつからあの丘にいるのか、勤助は知らなかった。
気がついたら、いた。春のおわりごろ、どこからともなくやってきて、あの草の丘に寝ころんで、それからずっと、歌っている。畑仕事はしない。田も持たない。家があるのかどうかも、あやしいものだった。夜になるとどこかへ消え、朝になるとまた、あの丘にいる。
町の者は、はじめのうち、歌吉をあやしんだ。どこの馬の骨か、と。物盗りではないか、と。けれど、歌吉は、なにひとつ盗まなかった。畑の作物にも、手をつけなかった。ただ、丘の上で、うたっているだけだった。そのうち、町の者は、歌吉のことを、気にとめなくなった。井戸ばたの女房たちは、あの怠け者、と笑いながらも、洗濯の手をやすめて、ときおり、歌吉の歌に、耳をかたむけた。子どもたちは、手習いのかえりに、丘にのぼって、歌吉のまわりにあつまった。歌吉は、子どもたちに、いろんな歌をうたってきかせた。子どもたちは、それをおぼえて、家にかえって、母にうたった。そうやって、歌吉の歌は、いつのまにか、町のあちこちに、しみこんでいった。
けれど、勤助は、歌吉のところへは、ゆかなかった。勤助には、うたっているひまなど、なかった。
歌吉の歌には、これといった中身がなかった。
その日そのとき、目にうつるものを、そのまま歌にした。雲がながれれば、雲がながれてゆくと歌った。鳥がとべば、鳥がとんでゆくと歌った。畑で勤助が鍬をふれば、
「今日も勤さんが土を掘る、掘って掘って掘りあげて、掘ったさきに何がある、掘ったさきには昨日の穴が、埋めたところにまた新しい――」
などと、いいかげんな節をつけて歌った。
勤助は、はじめのうちこそ腹を立てた。人がまじめにはたらいているそばで、遊びくらしている者を歌にされて、いい気持ちのするはずがない。けれど歌吉は、悪気があってのことではないらしかった。ただ、目にうつるものを歌にせずにはいられない。それだけのことのようだった。
「歌吉」と、あるとき勤助は丘の下から声をかけた。「そんなに歌ってばかりいて、腹はふくれるのか」
歌吉は、寝ころんだまま、片手をあげてこたえた。
「ふくれやしないさ、勤さん」
「ならば、なぜ歌う」
「腹がふくれないから、歌うのさ」
勤助には、その理屈がわからなかった。
わからないので、勤助は、また鍬をふるいはじめた。上げて、おろす。上げて、おろす。丘の上では、歌吉が、また歌いはじめた。今度は、勤助の畑の瓜のことを歌っていた。まるい瓜が、まるくなる、まるくなって、ころころと、畑のはしまで、ころがって、川にぽちゃんと、落っこちた――そんな、なんの役にもたたない歌だった。勤助は、鼻で笑った。そんなことを歌っていて、なにになる。瓜は、うたわなくても、まるくなる。うたっても、うたわなくても、川になど、落っこちはしない。
けれど、その夜、床につくと、勤助の耳のおくで、なぜだか、その瓜の歌が、ぐるぐるとまわった。まるい瓜が、まるくなる。まるくなって、ころころと。勤助は、寝がえりをうって、その歌を、追いはらおうとした。追いはらっても、追いはらっても、その歌は、耳のおくで、ころころと、ころがった。とうとう勤助は、あきらめて、その歌といっしょに、眠りにおちた。
こまったやつだ、と勤助は思った。あいつの歌は、耳にこびりついて、はなれない。
わからないまま、季節はめぐった。
夏がふかまり、勤助の畑では、豆の莢がふくらみ、瓜がまるくなり、馬鈴薯が土のなかで数を増やした。勤助は、朝から昼前まで、昼から日暮れまで、はたらきづめにはたらいた。その手は節くれだち、爪のあいだには土がしみこんで、いくら洗っても落ちなくなった。勤助は、それでよかった。土のしみこんだ手は、はたらいた手だった。
歌吉のほうは、あいかわらずだった。
痩せていた。着ているものは、つぎはぎだらけの単衣が一枚きり。それでも歌吉は、腹をすかせているようには見えなかった。畑のわきに落ちた瓜のへたを拾って食べ、道ばたの野いちごを摘んで食べ、川で小魚をつかまえては、火もおこさずに食べているらしかった。それで、また歌った。
「歌吉」と、勤助はまた声をかけた。「冬が来るぞ」
「来るだろうねえ」
「そのなりで、どうやって冬を越す」
歌吉は、しばらく黙っていた。それから、ゆっくりと起きあがって、勤助のほうを見た。歌吉の目は、意外なほど澄んでいた。
「勤さんは、冬のために夏をはたらくのかい」
「そうとも。ほかに何のためにはたらく」
「おれは、夏のために夏を歌うよ」
勤助には、やはり、わからなかった。
「夏は、いつか、おわるぞ」と、勤助は言った。
「おわるさ」と、歌吉はこたえた。「だから、いま、うたうんだ。夏が、まだここにあるうちにね。夏がおわってしまってから、夏を歌ったって、もう、おそいだろう」
勤助は、その言葉を、心のどこかに、しまいこんだ。しまいこんだつもりだったが、それは、ときおり、勤助の胸のなかで、ちいさく、うずいた。夏は、いつか、おわる。勤助は、それを知っていた。だから、はたらいた。冬にそなえて、はたらいた。けれど、歌吉は、おなじことを知りながら、うたっていた。おなじ、夏のおわりを見つめながら、ひとりは鍬をふり、ひとりは歌をうたっていた。ふたりは、おなじものを見ていた。それなのに、していることは、まるで、ちがった。
それが、勤助には、ふしぎでならなかった。
わかれ道
そうこうするうち、秋が来た。
勤助の畑は、豊かにみのった。稲は黄金に垂れ、豆は鞘のなかで固くしまり、蔵には俵が積みあがった。勤助は、その年いちばんの収穫を得た。町の者たちは口ぐちに、勤助のはたらきぶりをほめそやした。あの働き者を見ろ、あれこそ人の鑑だ、と。
歌吉のことは、だれもほめなかった。それどころか、町の者たちは歌吉を、あの怠け者、と呼んだ。あんな者が冬をどうやって越すのか、越せずに野たれ死ぬのが目に見えている、それみたことか、と。
勤助も、内心では、そう思っていた。
秋の市の日、勤助が籠いっぱいの野菜をはこんでゆくと、市はにぎわっていた。魚屋が、朝どれの鮎をならべ、豆腐屋が、湯気のたつ豆腐を切りわけ、飴屋が、子どもらに囲まれて、飴をひねっていた。勤助の野菜も、飛ぶように売れた。ひとつ五文の芋が、六文で、七文で、次から次へと、売れていった。籠が空になるころ、勤助のふところは、銭でずっしりと重かった。
「勤助さん」と、隣の店の女房が声をかけた。「あんたは、ほんとうに、はたらきものだねえ。あの丘の怠け者とは、大ちがいだ」
女房は、丘のほうを、あごでしゃくった。市の喧騒のむこう、遠い草の丘の上に、ぽつんと、歌吉の寝ころんでいる姿が見えた。かすかに、歌が、風にのって、市までとどいていた。
「あんな者は、冬になれば、飢えて死ぬよ」と、女房は言った。「はたらかない者の、なれのはてさ。それみたことか、とね」
勤助は、あいまいに、うなずいた。うなずきながら、けれど、なぜだろう、勤助の胸は、少しも、晴れなかった。ふところの銭の重みが、いつもより、ずしりと、こたえた。
思いながら、けれど勤助の胸には、名づけようのない、小さな棘のようなものが刺さっていた。それは、歌吉のあの澄んだ目のことだった。おれは、夏のために夏を歌うよ――そう言ったときの、歌吉の顔のことだった。
勤助は、その棘を、はたらくことで忘れようとした。冬支度に追われ、薪を割り、藁を綯い、漬物を漬け、味噌を仕込んだ。手を動かしているあいだは、棘のことを考えずにすんだ。
やがて、初雪が降った。
その朝、勤助が畑のようすを見にいくと、丘の上に、歌吉の姿がなかった。
勤助は、いやな予感がした。とうとう、あの怠け者は、寒さと飢えに負けて、どこかで倒れているのではないか。ざまをみろ、と思う気持ちと、それを見たくない、という気持ちが、勤助のなかでもつれあった。
勤助は、丘にのぼった。
丘の上には、だれもいなかった。ただ、歌吉がいつも寝ころんでいたあたりの草が、ぺしゃんと平らにへこんで、そこに、うっすらと雪が積もっていた。人ひとりぶんの、あたたかそうな窪みだった。
勤助は、その窪みの前に、しばらく立ちつくした。
冬は、長かった。
歌のない冬だった。勤助は、蔵の食糧を頼りに、こもって暮らした。何ひとつ不足はなかった。芋も、豆も、米も、味噌も、はたらいたぶんだけ、ちゃんとそこにあった。勤助は、それを食べた。腹はふくれた。
雪は、しんしんと降った。町は、白く、しずかに、うもれた。井戸ばたの女房たちの声も、子どもたちのはしゃぐ声も、雪のなかに、吸いこまれて、きこえなくなった。町じゅうが、まるで、白い綿にくるまれたように、ひっそりと、息をひそめていた。
勤助は、囲炉裏に薪をくべ、あたたかい汁をすすった。芋は、ほくほくと、あまかった。豆は、やわらかく、煮えていた。何ひとつ、足りないものはなかった。はたらいた者の冬は、こういうものだ、と勤助は思った。あたたかく、満ちたりて、なにひとつ、こわいものがない。
けれど、なぜだろう。
いくら食べても、あの棘は、消えなかった。
夜、ひとりで囲炉裏のはたにすわっていると、しんと静まりかえった雪の音のなかに、勤助はときどき、歌吉の歌を思いだした。あのいいかげんな、中身のない、けれどなぜか耳にのこる節を。今日も勤さんが土を掘る、掘って掘って掘りあげて――思いだすと、勤助はなぜだか、ひとりで笑ってしまうのだった。笑って、それから、少しさびしくなるのだった。
歌吉は、生きているだろうか。
死んでしまったのだろうか。
勤助には、わからなかった。
春の丘
雪がとけ、また春が来た。
勤助は、また日の出とともに畑に出た。冬のあいだにゆるんだ土を起こし、去年とおなじように、まっすぐな溝を掘りはじめた。上げて、おろす。上げて、おろす。鍬の音が、朝の畑にひびいた。
その音のなかに、ある日、まじるものがあった。
歌だった。
勤助は、鍬をとめた。息をのんで、丘のほうをふりあおいだ。
歌吉が、いた。
去年とおなじ、あの草の丘の上に、去年とおなじつぎはぎの単衣を着て、去年とおなじように寝ころんで、歌吉が歌っていた。痩せてはいたが、死んではいなかった。ちゃんと、生きていた。
勤助は、なぜだか、胸がいっぱいになった。
鍬をほうりだして、丘をかけのぼった。息をきらして、歌吉のそばにたどりつくと、歌吉はゆっくりと起きあがって、いつものように澄んだ目で、勤助を見た。
「よう、勤さん。ひさしぶりだね」
「歌吉、おまえ……」勤助は、言葉につまった。「おまえ、生きていたのか」
「生きていたよ」
「どうやって、冬を越した」
歌吉は、にやりと笑った。
「歌って、越したのさ」
勤助には、やはり、わからなかった。けれど、今度は、わからないことが、なぜか腹立たしくなかった。
「勤さん」と、歌吉は言った。「まあ、すわりなよ」
勤助は、草のうえに腰をおろした。ひさしぶりに、何もせずに、ただすわった。土のにおいと、草のにおいと、遠くの川の音がした。畑では、勤助のほうりだした鍬が、朝の光をうけて、鈍く光っていた。
何もしないでいるということが、勤助には、ひどく、おちつかなかった。手が、しぜんに、うごきたがった。あたりの草をむしろうか、石をどけようか、と手がうずいた。けれど、歌吉のとなりに、ただすわっていると、そのうずきが、すこしずつ、しずまっていった。昼前の陽が、あたたかかった。風が、草をなでて、さらさらと鳴った。どこかで、雲雀が、鳴いていた。
「いい天気だねえ」と、歌吉が言った。
「ああ」と、勤助はこたえた。
そんな、なんでもないやりとりが、勤助には、ふしぎと、心地よかった。
越冬のはなし
「あのな、勤さん」と、歌吉は空を見あげたまま話しはじめた。「おれがどうやって冬を越したか、聞きたいかい」
「聞きたい」
「町のはずれに、古い書房があるのを、知っているかい」
勤助は、首をかしげた。「書房。本屋か」
「夜だけあらわれる、へんな書房さ。夜になると、ふっと灯りがともって、朝になると、ふっと消える。月光書房、というんだ」
勤助は、聞いたことがなかった。そんなあやしげなものが、この町にあるとは思えなかった。
「おれは、去年の初雪の夜、寒くてどうにもならなくなって、あてもなく町をさまよったのさ」と、歌吉はつづけた。「そうしたら、いつもは何もない路地の奥に、ぽつんと、灯りがともっていた。近づいてみると、書房だった。窓から、あたたかそうな光がもれていてね。おれは、おそるおそる、戸を押した」
「なかには、だれがいた」
「じいさんが、ひとり。ちいさな眼鏡をかけて、帳場にすわって、本を読んでいた。おれが入っていくと、顔もあげずに、こう言った。『歌えるか』」
「歌えるか、と」
「ああ。おれは、歌えると答えた。そうしたら、じいさんは言った。『では、ひと晩、歌ってゆけ。代わりに、あたたかい場所と、一杯の茶をやろう』とね」
勤助は、その話を、半信半疑で聞いていた。
「おれは、ひと晩、じいさんのために歌ったよ」と、歌吉は言った。「じいさんは、本を読みながら、おれの歌を聞いていた。ときどき、うなずきながらね。夜が明けるころ、じいさんは、あたたかい茶を一杯くれて、それから、こう言った。『また、寒い夜が来たら、来るがいい。ここは、歌える者を、追い返さぬ』とね」
「それで……」
「それで、おれは、冬じゅう、寒い夜にはあの書房にかよったのさ。歌をうたって、茶を飲んで、あたたまって、また草の丘にもどって、昼は歌った。そうやって、冬を越したんだ」
勤助は、しばらく黙っていた。
「歌が……」と、ようやく勤助は口をひらいた。「歌が、おまえを、食わせたのか」
「食わせたわけじゃない」と、歌吉は言った。「おれの腹は、あいかわらず、ぺこぺこだったさ。でもな、勤さん。腹がへっていても、あったかい場所と、聞いてくれるだれかがいれば、人は、越せるんだよ。冬を」
勤助は、しばらく、黙って、その話を、かみしめていた。
「そのじいさんは」と、勤助はたずねた。「なぜ、おまえの歌を、聞きたがった。銭にもならぬ、腹もふくれぬ、そんな歌を」
歌吉は、しばらく、考えていた。
「わからない」と、歌吉は言った。「けれど、じいさんは、こう言っていたよ。『この書房には、夜な夜な、いろんな者が、やってくる。ねむれぬ者、まよえる者、なくしものをした者。そういう者たちが、本をもとめて、ここへ来る。けれど、本は、だまってはいるが、うたいはせぬ。だから、ときには、うたう声が、要るのだ。この書房には、うたう声が、要るのだ』と、ね」
勤助には、その意味が、よくわからなかった。けれど、なぜだろう。その、夜な夜な本をもとめてやってくる者たちのことを思うと、勤助の胸は、しんと、しずかになった。ねむれぬ者。まよえる者。なくしものをした者。勤助自身のなかにも、そういう、名づけようのないものが、いつからか、住んでいるような気が、したのだった。
マッチ箱
歌吉は、そう言うと、単衣のふところから、ちいさなものを取りだした。
青い、マッチ箱だった。
擦りきれて、角のまるくなった、けれど鮮やかな青いマッチ箱。ふたに、細い金の文字で、月光堂、と刷ってあった。
「これを、じいさんがくれたのさ」と、歌吉は言った。「別れぎわにね。『火が要るときに、使え』と言って」
勤助は、そのマッチ箱を、まじまじと見た。青は、朝の空よりも、もっと深い青だった。
「一本、擦ってみるかい」と、歌吉は言った。
歌吉は、マッチを一本とりだして、箱のわきで、しゅっと擦った。
ちいさな火が、ぽっと灯った。
昼前の、明るい陽のなかである。火の色など、ほとんど見えないはずだった。それなのに、その火は、妙にあざやかに、勤助の目にうつった。青みをおびた、しずかな炎だった。歌吉は、その火を、手のひらでかこって、しばらくじっと見つめていた。
「おれはね、勤さん」と、歌吉は火を見つめたまま言った。「はたらくのが、いやなわけじゃないんだ。ただ、おれには、歌のほうが、火なんだよ。この、ちいさな火みたいにね。腹はふくれない。冬もこせない。でも、これがないと、おれは、生きていられないのさ」
火が、ゆらいで、消えた。
歌吉の指のあいだに、ちいさな煙が、ひとすじ、のぼった。青い燐のにおいが、ふわりと、勤助の鼻をかすめた。それは、なつかしいような、それでいて、はじめてかぐような、ふしぎなにおいだった。
「その火は」と、勤助はたずねた。「そんなに、たいせつなものか」
「たいせつさ」と、歌吉は言った。「これがなくなったら、おれは、うたえなくなる。うたえなくなったら、おれは、おれでなくなる。勤さんが、鍬をとりあげられたら、勤さんでなくなるみたいにね」
勤助は、はっとした。
鍬をとりあげられたら、勤助でなくなる――それは、まさに、勤助が、いちばんおそれていることだった。年をとって、腰がまがって、鍬がふるえなくなったら。そのとき、おれは、なんだ。なんの、値打ちもない、ただの老いぼれだ。勤助は、ときおり、夜中に、そのことを考えて、こわくなることがあった。
歌吉は、それを、見ぬいていた。
「勤さん」と、歌吉は、やさしく言った。「はたらけなくなっても、うたはうたえる。うたは、手がふるえなくても、うたえるんだ。腰がまがっても、うたえる。目が見えなくなっても、うたえる。死ぬ、その日まで、うたは、うたえるんだよ」
勤助は、なにも、こたえられなかった。
彗星
「そういえば」と、歌吉は不意に、空を指さした。「勤さん、あれを見たかい」
勤助は、歌吉の指のさきを見あげた。
昼前の空は、あわく、青くひろがっていた。雲がひとつ、ふたつ、ゆっくりとながれていた。勤助には、はじめ、歌吉が何を指しているのか、わからなかった。
「あそこさ」と、歌吉は言った。「あの、空のいちばん高いところ。よおく、目をこらしてごらん」
勤助は、目をこらした。
すると、あった。
あわい青空のなか、ほとんど気のせいのように、蒼白い、ちいさな一点が、じっとそこに、とどまっていた。日の光にとけて、消えかけていた。けれど、たしかに、そこにあった。
「彗星だよ」と、歌吉は言った。「ミラ彗星というんだ。明け方には、しっぽを長くひいて、それはきれいに見えるのさ。おれは、毎朝、それを見てから、丘にのぼる。昼になると、ほら、あんなふうに、消えかけてしまう。でも、消えたわけじゃない。ちゃんと、そこにあるんだ。目に見えないだけでね」
勤助は、その蒼白い一点を、じっと見つめた。
「おれの歌もな」と、歌吉は言った。「あれと、おなじさ。昼のあかるさに、とけて、消えてしまうように見える。だれの腹もふくらませない。何ひとつ、あとにのこらない。でも、消えたわけじゃないんだ。ちゃんと、そこにあるんだよ、勤さん。だれかの耳の、いちばん奥のところに」
勤助は、なぜだか、目のふちが熱くなった。
その日から、勤助のなかで、何かが少しずつ、変わっていった。
勤助は、あいかわらず、日の出とともに畑に出た。鍬をふり、土を起こし、種をまいた。はたらくことを、やめたわけではなかった。やめられるはずもなかった。はたらくことは、勤助の生きることそのものだったから。
けれど、鍬をふるいながら、勤助はときどき、丘のほうを見あげるようになった。歌吉が、そこにいて、歌っている。すると、勤助の口もとが、いつのまにか、ゆるむのだった。
そして、あるとき、勤助は気づいた。
鍬をふるいながら、自分が、ちいさな声で、何かを口ずさんでいることに。
はじめ、それが何なのか、勤助にはわからなかった。歌吉の歌のまねごとかとも思ったが、ちがった。もっと、ずっと古い、なつかしい節だった。どこかで聞いたおぼえのある、けれど、いつ、どこで聞いたのか、思いだせない節だった。
眠れ、眠れ、星が海をわたるまで――
そう、勤助は口ずさんでいた。
子守唄
思いだしたのは、母のことだった。
勤助が、まだちいさかったころ。まだ鍬もにぎれなかったころ。夜、なかなか寝つけない勤助を、母は膝にのせて、その歌をうたってくれた。眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。母の声は、けっしてうまくはなかった。節も、あやしかった。けれど、その歌をきくと、勤助は、ふしぎと安心して、いつのまにか眠りにおちた。
母は、貧しかった。朝から晩まで、はたらきづめにはたらいた。それでも、いつも、どこか、うたっていた。畑で草をむしりながら、川で洗濯をしながら、竈のまえで火をたきながら。母のはたらく手のそばには、いつも、ちいさな歌があった。
いま思えば、母のうたっていた歌の多くは、あの、眠れ眠れ、の子守唄だった。子守唄というものは、赤子のためのものだ、と勤助は思っていた。けれど、母は、赤子がいなくても、うたっていた。ひとりで、洗濯をしながら、うたっていた。あれは、だれのための子守唄だったのだろう。いまになって、勤助は思う。あれは、たぶん、母自身のための、子守唄だったのだ。つらい日々を、その歌で、母は、自分の心を、なだめていたのだ。眠れ、眠れ、と。まるで、疲れはてた自分自身を、そっと、あやすように。
勤助は、それを、忘れていた。
はたらくこと。うたうこと。そのふたつを、勤助はいつのまにか、べつべつのものだと思いこんでいた。はたらく者は、うたわない。うたう者は、はたらかない。どちらかが正しくて、どちらかがまちがっている。そう思いこんでいた。
けれど、母はどうだった。
母は、うたいながら、はたらいていた。はたらきながら、うたっていた。そのふたつは、母のなかで、ひとつだった。ちっとも、べつべつではなかった。
勤助は、鍬の手をとめて、そのことに、しばらくのあいだ、うたれていた。
昼前の陽が、勤助のうなじを、あたたかく照らしていた。
その日の昼前、勤助は、はじめて、うたいながら畑をたがやした。
眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。上げて、おろす。眠れ、眠れ、母の胸で。上げて、おろす。うまくはなかった。節も、あやしかった。けれど、うたいながらふるう鍬は、なぜだろう、少しも、つらくなかった。土が、いつもよりやわらかく、感じられた。汗が、いつもより、心地よかった。
丘の上で、歌吉が、身を起こした。
畑のほうから流れてくる勤助の歌に、歌吉は、耳をすませた。それから、にっこりと笑った。
「勤さん」と、歌吉は丘の上から声をかけた。「うたっているね」
勤助は、鍬をふるいながら、こたえた。
「うたっているとも」
「はたらきながら、うたっているね」
「うたいながら、はたらいているのさ」
歌吉は、声をあげて笑った。それから、勤助の歌にあわせて、丘の上から、いっしょにうたいはじめた。眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。
畑の鍬の音と、丘の歌の声が、そのとき、はじめて、ひとつになった。
手袋
その年の秋も、勤助の畑は、豊かにみのった。
去年とおなじ、いや、去年よりも、たわわにみのった。ふしぎなことに、うたいながらはたらくようになってから、勤助の畑は、いっそう豊かになったのだった。町の者たちは、また口ぐちに、勤助のはたらきぶりをほめそやした。けれど勤助は、もう、はたらきぶりをほめられても、前ほどうれしくなかった。それよりも、うたっていて、たのしかった。
秋の市の日、勤助は、また籠いっぱいの野菜をはこんでいった。ひとつ五文の芋が、また、六文で、七文で、売れていった。けれど、その日、勤助は、ふしぎなことをした。籠の底に、いちばん大きな、いちばん立派な芋を、いくつか、のこしておいたのだ。
市がひけると、勤助は、そののこした芋を籠に入れて、まっすぐ、丘へむかった。
「歌吉」と、勤助は丘の下から声をかけた。「これを、やろう」
歌吉は、寝ころんだまま、片目をあけた。
「なんだい、それは」
「芋だ。今年いちばんの芋だ。冬に、食え」
歌吉は、しばらく、その芋を見ていた。それから、にっこり笑って、こう言った。
「勤さん。おれは、芋は、いらないよ」
「なぜだ」
「もらったら、うたが、へたになる」
勤助には、その理屈も、わからなかった。けれど、歌吉は、こうも言った。
「でもな、勤さん。ひとつだけ、もらおう。ひとつだけ。おまえさんの気持ちが、うれしいからね」
歌吉は、いちばんちいさな芋を、ひとつだけ、とった。そして、それを、その場で、土のついたまま、かじった。
「うまいなあ」と、歌吉は言った。「勤さんの芋は、うたがきこえるよ」
勤助は、なぜだか、胸が、いっぱいになった。
冬が、また近づいてきた。
ある日、勤助は、蔵から古い葛籠をひっぱりだして、なかを整理していた。すると、いちばん底のほうから、ちいさな包みが出てきた。ひらいてみると、なかには、片方だけの、毛糸の手袋があった。
赤い、子どもの手袋だった。もう片方は、どこにもなかった。
勤助は、それを、じっと見つめた。
それは、母が、勤助のために編んでくれた手袋だった。勤助が、まだちいさかったころ。ある冬、勤助は、この手袋の片方を、雪あそびのあいだに、どこかでなくしてしまった。母は、しからなかった。ただ、のこったほうの片方を、たいせつに、しまっておいた。なくしたほうが、いつか、もどってくるとでもいうように。
母は、もういなかった。手袋の片方も、もどってこなかった。
勤助は、その片方だけの手袋を、手にとって、しばらく、そこにすわっていた。
赤い毛糸は、ところどころ、虫に食われて、ほつれていた。けれど、編み目の一目一目に、母の指の運びが、まだ、のこっているようだった。母は、夜なべをして、これを編んでくれた。竈のあかりのそばで、老眼にちいさな目をこらして、一目、一目。勤助のちいさな手が、ぬくもるようにと。片方をなくしたとき、勤助は、母にしかられるのがこわくて、ずっと、黙っていた。母は、しからなかった。ただ、のこったほうを、たいせつに、しまった。母は、なくしたほうが、いつか、もどってくると、信じていたのだろうか。それとも、ただ、片方だけでも、捨てられなかっただけなのだろうか。
いまとなっては、たしかめようも、なかった。
勤助は、その手袋を、そっと、頬にあてた。毛糸のにおいがした。かすかに、竈の煙のにおいが、まだ、のこっているような気がした。そんなはずは、なかった。もう、何十年もまえのことだ。けれど、勤助には、たしかに、そのにおいが、した。
眠れ、眠れ、と、勤助は、ちいさく口ずさんだ。星が、海をわたるまで。
冬の日暮れが、はやばやと、蔵の窓を、あおく染めていた。
その夜、勤助は、ふしぎな夢をみた。
町のはずれの、路地の奥に、ぽつんと、灯りがともっていた。近づいてみると、書房だった。窓から、あたたかそうな光がもれていた。勤助は、おそるおそる、戸を押した。
なかには、ちいさな眼鏡をかけたじいさんが、帳場にすわって、本を読んでいた。勤助が入っていくと、じいさんは、顔もあげずに、こう言った。
「歌えるか」
勤助は、しばらく、ためらった。それから、こたえた。
「うまくは、ないが」
「かまわぬ」と、じいさんは言った。「うまいへたは、問わぬ。ここでは、うたう心があれば、それでよい」
勤助は、じいさんのまえで、うたった。眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。母がうたってくれた、あの子守唄を。
じいさんは、本を読みながら、うなずいて、聞いていた。ときおり、本のうえで、指をとめて、じっと、勤助の歌に、耳をかたむけた。
書房のなかは、しずかだった。天井まで、古い本が、びっしりと積まれていた。本のにおいと、古い紙のにおいと、それから、あの青い燐のにおいが、かすかに、まじっていた。帳場のうえには、ちいさな行燈がひとつ、あおい炎で、しずかに燃えていた。その炎は、歌吉が擦ってみせた、あのマッチの火と、おなじ色をしていた。
「よい歌だ」と、じいさんは、勤助が歌いおえると、はじめて、顔をあげて言った。「うまくは、ない。けれど、まことが、こもっている。うまいだけの歌は、耳をとおりすぎてゆく。まことのこもった歌は、耳のおくに、のこる。おまえの歌は、のこる歌だ」
勤助は、なぜだか、涙が出そうになった。
これまで、勤助がほめられてきたのは、いつも、そのはたらきぶりだった。芋の数、豆の数、まっすぐな畝。数えられるもの、目に見えるもの。けれど、この夜、はじめて、勤助は、数えられないもので、ほめられた。目に見えないもので、ほめられた。それは、勤助が、生まれてはじめて、味わう、よろこびだった。
夜が明けるころ、じいさんは、あたたかい茶を一杯くれた。それから、帳場のひきだしから、ちいさなものを取りだして、勤助にわたした。
青い、マッチ箱だった。ふたに、金の文字で、月光堂、と刷ってあった。
「火が要るときに、使え」と、じいさんは言った。
勤助が、茶をのみおえて、ふと帳場のわきを見ると、そこに、片方だけの、赤い毛糸の手袋が、ちょこんとおいてあった。勤助がなくした、あの片方だった。
「それは」と、勤助は言った。「わたしのだ。ちいさなころに、なくした」
「そうか」と、じいさんは言った。「では、もってゆくがいい。なくしものは、いつか、ここにあつまる。だれかが、たいせつにしていたものは、みな、ここにあつまるのだ」
勤助が、その手袋に手をのばしたとき、目がさめた。
冬をこえて
目がさめると、朝だった。
勤助は、しばらく、天井を見あげて、夢のつづきをたどっていた。ゆめのなかの、あの青いマッチ箱の色が、まだ、まぶたのうらに、のこっていた。
勤助は、起きあがって、枕もとを見た。
そこには、なにもなかった。マッチ箱も、手袋も。あたりまえだった。夢だったのだから。
けれど、勤助は、そっと、蔵にいってみた。ゆうべ、手にとったまま、そこにおいてきた、片方だけの手袋を、たしかめたくなったのだった。
蔵の、葛籠のなか。
片方だけの、赤い手袋は、たしかに、そこにあった。ゆうべのまま。何もかわらず。
勤助は、それを、手にとった。
そして、気がついた。手袋の指のさきに、ほんのわずか、青い、マッチの燐のにおいが、しみついているような気がしたのだ。気のせいかもしれなかった。きっと、気のせいだった。けれど勤助は、その片方だけの手袋を、うわぎのふところに、そっと、しまった。
その冬、勤助は、はじめて、寒い夜に町へ出た。
歌吉のいう、月光書房を、さがしにいったのだ。歌吉から、路地の場所は聞いていた。けれど、その路地の奥に、書房はなかった。ただ、暗い、なにもない路地が、しんと、雪にうもれていた。
勤助は、がっかりしなかった。
それでよかった。書房が、そこにあってもなくても、勤助のふところには、片方だけの手袋があった。そして、勤助の胸のなかには、もう、いつでもうたえる、母の子守唄があった。それだけあれば、勤助は、どんな冬でも、こせるような気がした。
歌が、火なのだ。歌吉は、そう言った。
いまなら、勤助にも、その意味がわかった。
春、ふたたび
雪がとけて、また春が来た。
勤助は、また日の出とともに畑に出た。歌吉は、また草の丘に寝ころんで、うたっていた。ふたりの生きかたは、なにひとつ、かわらなかった。勤助は、あいかわらず、はたらいた。歌吉は、あいかわらず、うたった。
けれど、ひとつだけ、かわったことがあった。
いまでは、勤助の畑からも、歌がきこえた。歌吉の丘からも、勤助が畑をたがやしているあいだじゅう、あきることなく、歌がきこえた。ふたつの歌は、ときどき、風のなかで、であった。であって、まざりあって、また、はなれていった。
ある昼前のことである。
歌吉が、いつものように、丘の上から、空を指さした。
「勤さん、見てごらん。ミラ彗星だ」
勤助は、鍬の手をとめて、空を見あげた。
あわい青空の、いちばん高いところに、あの、蒼白い一点が、じっとそこに、とどまっていた。日の光にとけて、いまにも、消えそうだった。けれど、たしかに、そこにあった。
「消えないな」と、勤助は言った。
「消えないさ」と、歌吉はこたえた。「消えたように見えても、ちゃんと、そこにある。だれの目にも見えなくなっても、ちゃんと、めぐっている。何百年も、何千年も、ずっとね」
勤助は、うなずいた。
歌のように、と勤助は思った。片方だけの手袋のように。夜にだけあらわれる書房のように。母の、あの子守唄のように。
目に見えなくなっても、消えたわけではない。ちゃんと、どこかに、めぐっている。
勤助は、うわぎのふところに手を入れて、片方だけの手袋に、そっと、ふれた。それは、いつも、そこにあった。畑に出るときも、市にゆくときも、勤助は、その手袋を、ふところに入れていた。だれにも、言わなかった。歌吉にも、言わなかった。けれど、その片方だけの手袋があると思うと、勤助は、なぜだか、こころづよかった。なくしたものは、消えたわけではない。いつか、めぐって、もどってくる。母のうたも、母のぬくもりも、みな、どこかに、めぐっている。そう思えることが、勤助の、いちばんの、たからものだった。
「歌吉」と、勤助は言った。
「なんだい」
「おれは、しあわせだ」
歌吉は、丘の上で、声をあげて笑った。
「知ってるさ」と、歌吉は言った。「おまえさんの鍬の音を聞けば、わかる。しあわせな鍬の音を、しているよ」
昔の人は、こういう話に、かならず教訓をつけたがった。
はたらきものの蟻と、うたってばかりのきりぎりす。冬になって、きりぎりすは飢えて死に、蟻は蔵の食糧で、ぬくぬくと冬をこす。はたらかざる者、食うべからず。そういう、こわい教えだった。
けれど、この話には、そういう教訓は、ない。
この話のなかで、うたってばかりの歌吉は、死ななかった。ちゃんと、冬をこえた。歌をうたって、あたたかい場所と、一杯の茶をもらって、冬をこえた。そして、はたらきものの勤助は、うたうことを、おぼえた。うたいながらはたらくことが、少しも、はたらきをそこなわないことを、知った。それどころか、うたいながらふるう鍬のほうが、なぜか、畑を豊かにすることを、知った。
それから、幾年もたった。
勤助は、年をとった。腰が、少しずつ、まがってきた。鍬をふるう腕も、昔ほどには、うごかなくなった。けれど、勤助は、こわくなかった。手がふるえても、うたは、うたえる。腰がまがっても、うたは、うたえる。歌吉が、あの日、そう言ってくれたことを、勤助は、忘れなかった。
歌吉のほうは、あいかわらず、痩せていた。あいかわらず、丘の上で、うたっていた。年をとっても、歌吉は、少しも、かわらなかった。まるで、うたっているあいだは、年をとらないとでもいうように。
ある昼前、勤助が、いつものように、うたいながら畑をたがやしていると、丘のほうから、歌が、きこえてこなかった。
勤助は、鍬をとめて、丘を見あげた。歌吉が、草のうえに、しずかに、寝ころんでいた。うたっては、いなかった。
勤助は、いやな予感がして、丘をのぼった。
歌吉は、目をあけて、空を見あげていた。あわい昼前の空を。そして、その空の、いちばん高いところを、ゆびさしていた。
「勤さん」と、歌吉は、ちいさな声で言った。「あれが、見えるかい」
勤助は、その指のさきを見あげた。あわい青空の、いちばん高いところに、あの、蒼白い一点が、じっと、とどまっていた。ミラ彗星だった。
「見える」と、勤助はこたえた。
「おれは、そろそろ、あそこへ、ゆくよ」と、歌吉は言った。「彗星といっしょに、めぐりに、ゆくのさ。だいじょうぶ。消えるわけじゃない。ちゃんと、めぐっている。ときどき、この空に、もどってくる。そのときは、また、うたうよ」
勤助は、なにも言えなかった。ただ、歌吉のそばに、すわった。そして、うたった。あの、子守唄を。眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。
歌吉は、目を、そっと、とじた。その口もとに、しずかな微笑が、うかんでいた。
勤助は、歌いつづけた。昼前の陽が、ふたりを、あたたかく、照らしていた。
はたらくことは、正しい。
うたうことも、正しい。
そのふたつは、あらそうものではなかった。どちらかが勝って、どちらかが負けるものではなかった。ちょうど、畑の鍬の音と、丘の歌の声が、あの昼前に、ひとつになったように。はたらくことと、うたうことは、もともと、ひとつのものだったのだ。母のなかで、そうだったように。
いまも、あの町のはずれの畑では、昼前になると、二種類の音がきこえるという。
ひとつは鍬の音。ひとつは歌の声。
けれど、耳をすませば、そのふたつは、もう、べつべつではない。鍬の音のなかに、歌がある。歌の声のなかに、鍬のひびきがある。ふたつの音は、風のなかで、いつも、であって、まざりあっている。
そして、その音のうえには、あわい昼前の空がひろがり、そのいちばん高いところに、目をこらせば、いまも、蒼白い一点が、じっと、とどまっているのだという。
ミラ彗星。
消えたように見えて、消えていない。ちゃんと、そこにある。
昼前の畑には、いまも、二種類の音が流れている。そして、そのふたつは、もう、いつまでも、はなれない。