飴色の仕事箱
埃は、時間の匂いがする。
朝の八時半に幕板を外して、茣蓙を敷いて、風呂敷をほどく。そのたびに立ちのぼる細かなものが、日の斜めに差す光のなかで金の粉のように舞う。あれはただの塵ではない。だれかの簞笥の底で、だれかの茶の間の隅で、二十年三十年と眠っていたものの、ほどけた眠りだ。堀切の骨董市に店を出して四十年、佐野の爺さんはそう言って憚らなかった。埃を吸って生きてきたようなものだ、と。
巳の刻――と、爺さんは古風に言う。午前九時をまわって、十一時にかからんとするこの二時間ばかりが、市のいちばん良い時分だと。朝いちばんの目の色を変えた業者連中がひとわたり引いて、日曜のひやかし客がぽつぽつと増えはじめる、そのあわいだ。焦って買う者もいなければ、値切り倒す元気もまだない。品と客とが、ゆっくりと目を合わせるための刻。
一
その日、境内の砂利は前夜の雨でしっとりと締まっていた。
六月の末で、梅雨の晴れ間だった。空はうすい水色に霞んで、東のほうの高いところに、目を凝らせば蒼い一点が残っている。明け方まで冴えていたミラ彗星の、消えのこりだ。爺さんは店を並べながら一度だけそれを見上げて、まだいたか、と呟いた。夜のうちはずいぶんはっきり尾を引いていたが、日が高くなるにつれ、あれは牛乳に一滴たらした藍のように、じきに空へ溶けてしまうだろう。
佐野古美術、と墨で書いた小さな木札を、爺さんは折りたたみの台の端に立てる。台の上には、ちゃんとした売り物が並んでいる。染付の小皿が三客、根来の折敷、鉄瓶がひとつ。その奥に、ぐい呑みや盃の類を桐箱ごと積んで、値の張るものは目の届く手前に置く。
だが、爺さんの店のほんとうの見どころは、その台の下だった。
茣蓙のうえに、無造作に積まれたがらくたの山。錆びた鉋の身、缶切り、片方だけの下駄、欠けた擂鉢、蓋のない万年筆、由来の知れぬ木の枡。ひとつ百円、二品で百五十円、と手書きの札が刺してある。爺さんに言わせれば、あれは「掃き溜め」ではなく「川」だった。上流のいい品ばかり見ていては、目は肥えない。掃き溜めのなかに、ときどき鶴の羽根が一枚まじる。それを見つける目こそが、この商いの命だと。
「値打ちのわかる客ってのはな」と爺さんは、隣で店番を手伝う孫の慎司に言ったことがある。「上の台なんか見やしねえ。かがみこんで、下の山から掘るんだ」
堀切の市は、月に二度、境内で立つ。
社の裏手から表参道にかけて、ずらりと店が並ぶ。刀剣や甲冑を扱う気難しい老舗もあれば、進駐軍払い下げのライターやら軍票やらを箱に投げこんだだけの露天もある。掛軸屋、古着屋、レコード屋、古銭屋。焼きものの目利きと、切手の目利きとが、隣どうしで、たがいの領分には口を出さず、朝の茶をすすっている。
その界隈のことばには、独特の訛りと、独特の符牒がある。「あがり」といえば売上のこと、「はけ口」といえば買い取り先のこと、「ハコもの」といえば桐箱つきの茶道具のこと。値の交渉のときには、「そこを、なんとか」と客が言い、「勘弁してくださいよ」と店主が返す。その、なんとか、と、勘弁、のあいだの、ほんの一寸のやりとりに、四十年やってきた者どうしの、間合いがある。
九時をまわると、市の色が変わる。
朝いちばんの、目の色を変えた業者連中は、日の出とともに来て、いいものだけをさらっていく。彼らは客ではない。仲間であり、敵だ。品を見る目は速く、値切りは容赦がない。だが九時をすぎると、その一群がひとわたり引いて、市は、すこし息をつく。かわりに、日曜の、ふつうの客が、ぽつぽつと現れはじめる。散歩がてらの老夫婦。若い恋人たち。何を買うでもなく、ただ古いものの匂いを嗅ぎにきた者たち。
爺さんは、その、ふつうの客を、業者よりも好んだ。業者は、値しか見ない。だが、ふつうの客のなかに、ごくまれに、ねうちの見える者がまじる。その一人を待つために、爺さんは四十年、この掃き溜めの山を、積みつづけてきたようなものだった。
その客が来たのは、九時をだいぶまわったころだった。
五十がらみの女だった。生成りの麻のシャツに、色の褪せた紺のスカート。日傘も持たず、化粧気もなく、けれど身なりの隅々にどこか折り目正しいものがあって、この市には珍しい客だと爺さんは思った。手には、藍染めの布の手提げをひとつ。
女は台の上の品にはほとんど目もくれず、まっすぐにかがみこんで、下の山を見はじめた。
爺さんは黙って煙草に火をつけた。月光堂の、青い小さなマッチ箱。三日月の刻印のある藍色の箱で、擦るとぷんと硫黄の匂いがする。もう長いこと、この箱のマッチしか使わない。孫にはやめろやめろと言われるが、この匂いがないと、店を出した気がしないのだ。
女の指は、山のなかを迷いなく動いていた。錆びた金物をよけ、木の破片をよけ、埃を払っては置き、また払っては置く。素人の手つきではなかった。ものの扱いに、いちいち丁寧な間があった。壊れやすいものを恐れる手ではなく、ものの重みを確かめる手だ。
爺さんは、そういう手つきを、幾種類も見てきた。
買い叩こうとする者の手は、せわしない。品をひっくり返し、底を見て、傷をさがす。ほしいものがあっても、わざと素っ気なく扱う。逆に、ずぶの素人の手は、こわごわしている。触れていいものかどうか、店主の顔色をうかがう。そして、ほんとうに目のある者の手は――ものと、静かに、対話をする。急がず、しかし迷わず。ものが、そのものであることを、ただ確かめるように。
この女の手は、その三番目だった。しかも、ただ目があるだけではない。この手は、何かを、さがしている。爺さんは、煙草の煙のむこうから、じっとそれを見ていた。市には、いろんな客が来るが、こういう手つきの客は、めったに来ない。
やがて女の手が、山のいちばん底のほうで止まった。
引き出されたのは、小さな木の箱だった。
掌にのるほどの、桐の印籠箱のようなもの。だが印籠ではない。細長い、蒲鉾を伏せたような蓋のかたちで、上に薄い引き蓋がついている。木肌は飴色に艶を帯びて、あちこち手擦れで丸くなっている。爺さんの目にも、それがずっと素手で撫でられ続けてきたものだとわかった。
女は引き蓋を、指の腹でそっとずらした。
なかに入っていたのは、竹の管が数本と、小さな刃物だった。
「――笛の道具ですね」と女が言った。声は低く、しずかだった。「篠笛の。歌口をあける、錐と、小刀」
爺さんは煙草を灰皿の縁で叩いた。ほう、と内心で唸っていた。あの山の底のものは、爺さん自身、由来をよく知らずに仕入れたものだった。去年の暮れ、廃業する道具屋の店じまいをまとめて引き取ったなかにまじっていた。竹の切れ端と錐が入っているだけの、なんの銘もない箱。値のつけようもなく、掃き溜めに放り込んでおいたのだ。
「よくわかったね」と爺さんは言った。「わしゃあ、ただの木箱だと思ってたよ」
女は答えず、竹の管を一本、光にすかしていた。
二
篠笛というのは、と、あとで爺さんは慎司に説いた。ただの、穴のあいた竹ではない。竹を選ぶところから、もう、仕事がはじまっている。肉の厚い、節と節のあいだの長い、まっすぐな竹。それを、何年も寝かせて、油を抜く。火であぶって、曲がりを矯める。内側を、うるしや、地の粉で塗って、鳴りを整える。歌口と、七つの指孔。その一つひとつの、大きさと、位置と、あけかたで、音のよしあしが、まるでちがってくる。同じ寸法であけても、竹が一本ずつちがうから、名人は、一本ごとに、耳で、位置を決める。数字ではない。音で、あけるのだ。
だから、笛師の仕事箱には、その人の、耳が、しみこんでいる。
「これは」と女は、竹をゆっくりと回しながら言った。「途中まで、あけてある」
女は爺さんに、その竹を見せた。細い管の側面に、小さな穴がひとつ、あいている。歌口だ。だが本来ならそのあとに並ぶはずの、指孔が――ない。あけかけの、鉛筆のうすい下描きのような印だけが、ぽつり、ぽつりと竹の表につけられている。
「笛は、作りかけなんです」と女は言った。「作った人が、途中でやめてしまった」
爺さんは黙って、その竹を受け取った。老眼鏡の奥で、目を細める。なるほど、女の言うとおりだった。穴は歌口ひとつきり。あとは、これから穴をあけようとして印だけつけた、その途中で手が止まっている。何十年も前に止まったまま、竹はここまで来たのだ。
「あんた、笛を吹くのかね」
「――昔、少し」と女は言った。少しの間があった。「作るのも、習いました。父に」
爺さんは顔を上げた。女は竹を見つめたまま、そのさきを続けなかった。
孫の慎司が、こういうとき、爺さんはいちばん商売気を出すのだと知っている。客の情に触れるものが、山のなかから出てきたとき。爺さんはそれを、逃さない。だが逃さないのは、値を吊り上げるためではなかった。爺さんはただ、そのものが、然るべき手に渡るのを見届けたいのだ。四十年、そればかりやってきた。
「その箱はね」と爺さんは言った。「去年の暮れに、根岸のほうの道具屋をたたむのを、まとめて引き取ったなかにあったんだ。竹細工やら指物やら、いろんなものを扱ってた店でね。もう爺さんが亡くなって、跡取りもいなくてね」
女の手が、わずかに止まった。
「根岸の」と女は言った。「道具屋」
「知ってるかね」
女は答えなかった。けれど、その沈黙のなかに、何かが降りてくるのを爺さんは見た。長いことしまい忘れていた抽斗が、ふいに指にあたって、開くときの――あの感じだ。
女は箱を、両手で持ちなおした。まるで重さが変わったかのように、そっと持った。
「いくらですか」と女は訊いた。
爺さんは、すぐには答えなかった。煙草の煙を、ゆっくりと空へ流した。空の高いところには、まだあの蒼い一点が、うっすらと残っている。彗星の見えた夜の翌朝は、なぜだか、いい客が来る。爺さんは長年の勘で、そう信じていた。
「あんた、それをどうするね」と爺さんは訊きかえした。「飾るのかね。それとも」
「――続きを」と女は言った。ほとんど、自分に言い聞かせるような声だった。「あけようと思います。残りの穴を。父が、途中でやめた」
爺さんは、そのことばの意味を測った。作りかけの笛を、五十年ぶりに完成させる。それは商いのことばではなかった。それは、供養に近いものだった。
「あんたのお父さんかね。これを作ったのは」
「たぶん」と女は言った。「――いいえ、きっと、そうです」
女は箱の底を、指でさぐった。桐の底板の隅に、爺さんも気づかなかった、小さな焼き印のような跡があった。女はそれを、爪の先でなぞった。
「父は笛師でした」と女は、静かに語りはじめた。「小さな工房を持っていました。根岸の。この箱は、父の仕事箱です。私が子供のころ、そばで見ていました。父が竹を選んで、火であぶって、油を抜いて、まっすぐにして。歌口をあけるときの、あの錐の音を、今でも覚えています」
三
爺さんは煙草を消して、あぐらをかきなおした。市のざわめきが、遠くなった気がした。すぐそばで、隣の古着屋が、客と反物の値を、のんびりと押し引きしている。その声も、犬の遠吠えも、参道を行き交う下駄の音も、みな、いちど水のなかに沈んだように、くぐもって聞こえた。爺さんの世界には、いま、この女と、この飴色の箱と、途中でやめられた一本の竹しか、なかった。
女の話は、こういうことだった。
女の父は、篠笛を作る職人だった。祭囃子の笛や、稽古用の笛を、注文をとって一本ずつこしらえていた。工房といっても、家の一間の板の間に、竹を積んだだけの小さなものだ。母は早くに亡くなり、女は父とふたりきりで育った。夕方になると、父の笛の試し吹きが聞こえた。窓の外がだんだん藍色になっていくなかで、まだ穴のあいたばかりの笛が、かすれた、頼りない音を出す。それが女の、いちばん古い記憶だった。
女が十七のとき、父は一本の笛を作りはじめた。女のための笛だった。嫁ぐことが決まって、その祝いに、父が自分の手で一本、と言い出したのだ。
「私は、笛なんかいらないって言ったんです」と女は言った。うつむいていた。「東京を出て、遠くへ行くのが決まっていて。もう笛を吹くこともないだろうって。父の手仕事が、なんだか、時代おくれの、みじめなもののように思えて。――若かったんです」
嫁ぐ相手は、四国の、造船の会社に勤める男だった。父の暮らしとは、何もかもがちがう暮らしになるはずだった。板の間の竹屑も、油と煤の匂いも、夕暮れのかすれた笛の音も、みんな、置いていく暮らし。女は、それを、望んでいた。望んでいたと、思っていた。
「祝いに、と父が言ったとき」と女は続けた。「私は、いい顔をしなかった。笛より、お金のほうがいい、と、口には出さないけれど、そういう顔をした。父には、わかったと思います。父は、何も言いませんでした。ただ、その晩から、竹を、選びはじめました。何十本もある竹のなかから、いちばん、まっすぐな、いちばん、鳴りのいい一本を。私のために」
女は、膝のうえの箱を見た。
「私は、それを、見ていながら、見ていないふりをしました。もう、この家の子ではないのだ、という顔で。ひどい娘でした」
父は何も言わず、笛を作りつづけた。竹を選び、火を入れ、まっすぐに矯め、油を抜き、歌口をあけた。歌口をあけるとき、父はいつも、息をつめる。錐の先を、ほんの寸分、あやまれば、竹は割れる。その一瞬の、張りつめた沈黙を、女は子供のころから、そばで見て育った。だがその歌口をあけたところで、指孔をあける前に――女は、家を出た。挨拶もそこそこに、荷物をまとめて、迎えの車に乗って。父は工房の戸口に立って、それを見送った。手には、あけかけの竹を、まだ持ったままだった。錐も、握ったままだった。
「それきりでした」と女は言った。「父とは、それきり。手紙も、あまり。父が亡くなったのは、五年前です。工房のことも、道具のことも、私は何も引き取りませんでした。恐かったんです。あの板の間に入るのが。あの竹の匂いを、また嗅ぐのが」
女は箱を、膝の上でひらいた。竹の管が、日の光にほのかに飴色を返した。
「まさか、ここで」と女は言った。声が、少しふるえていた。「五十年たって、こんなところで、また会うなんて」
爺さんは、長いこと黙っていた。
こういう話を、爺さんは幾度も聞いてきた。骨董というのは、つまるところ、そういう商いなのだ。売り買いしているのはものではない。ものにしみこんだ、時間だ。人の手が、何十年も撫でつづけたものには、その人の掌の跡が残る。それを、次の掌へと渡していく。値をつけるというのは、その時間に値をつけるということだ。難しい仕事だ。安く売れば、時間を粗末にする。高く売れば、時間が届かない。
爺さんはふと、この竹を仕入れたときのことを思い出した。根岸の道具屋の店じまいは、荒れていた。跡取りがなく、遠い親戚が業者を呼んで、めぼしいものだけを持っていったあとだった。残されたものは、二束三文で叩かれるのを待つばかりだった。爺さんはそのなかから、指物の道具や竹細工の材を、目についただけまとめて引き取った。仕事箱のたぐいは、由来もわからず、掃き溜めに入れておいた。
――あの店の爺さんが、この女の父だったのか。
「あんた」と爺さんは言った。「名前を、訊いていいかね」
「――柏木、といいます」と女は言った。「柏木、しの、です」
爺さんは、目を閉じた。しの。篠。篠笛の、篠。父親が、娘にそういう名をつけたのだ。笛を作る男が。
四
境内のほうから、囃子の稽古の音が流れてきた。近くの神社で、夏祭りの準備がはじまっているのだろう。笛と、締太鼓の、たどたどしい合わせ。若い子が吹いているらしく、笛の音は途中で裏返り、また立ちなおる。
しの、と名乗った女は、その音のほうへ、しばらく耳を澄ませていた。
爺さんは、その音に、しばらく耳をかたむけていた。
商いというのは、間だ、と爺さんは思う。値をいくらにするか、それは、いつ口にするか、で、まるでちがってくる。早すぎれば、品がまだ客の胸に落ちていない。遅すぎれば、思いが値をこえて、渡すことが、ぎこちなくなる。四十年、その間ばかりを、はかってきた。
囃子の音が、ひとくぎり、ついた。
「値のことだがね」と爺さんは言った。「この箱は、五百円にしよう」
女は顔を上げた。「五百円」
「ものの値じゃない」と爺さんは言った。「掃き溜めの底にあったんだ。売り物の値は、それだけだ。だが」
爺さんは、そこで言葉を切った。孫の慎司は、爺さんのこういう「だが」を知っている。値のあとに続く、値ではないもの。
「だがね、柏木さん。ひとつ、頼みがある」
「なんでしょう」
「その笛を、あけおわったら」と爺さんは言った。「一度、聞かせてもらえんかね。ここでなくていい。いつでもいい。あんたが吹く、その笛の音を。それが、この箱の、ほんとうの値だ」
女は、しばらく爺さんの顔を見ていた。それから、目のふちが、ゆっくりと濡れていくのがわかった。女は袖でそれを拭おうとして、拭わなかった。ただ、うなずいた。
「――はい」と女は言った。「必ず」
女は手提げから、小さな財布を出した。五百円玉を一枚、爺さんの掌に、両手で載せた。爺さんはそれを、ゆっくりと握った。ずいぶんと軽い五百円だと爺さんは思った。そして、ずいぶんと重い五百円だ、とも。
女が箱を藍染めの布に包もうとしたとき、爺さんはふと、あることに気づいた。
「待ちなさい」
爺さんは、女がいましがた掘っていた山のあたりに、手をのばした。竹の管が入っていた箱の、すぐそばだ。何かが、指にあたる。埃をかぶった、小さな、四角いもの。
引き出してみると、それは青いマッチ箱だった。
藍色の紙箱に、三日月の刻印。月光堂の、あのマッチ箱だ。爺さん自身が使っているのと同じもの。だが、これは爺さんのではなかった。爺さんのは今しがた、上着の胸に戻したばかりだ。これは、あの仕事箱と一緒に、根岸の店じまいから来たものにちがいなかった。
「これは」と爺さんは言った。「あんたのお父さんの、かもしれん」
女は、それを受け取った。振ってみると、なかで、かさかさと乾いた音がした。何本か、マッチが残っているらしい。女は箱をあけた。半分ほど減ったマッチのあいだに、折りたたんだ紙きれが一枚、はさまっていた。
女は、それをひらいた。
鉛筆で書かれた、みじかい覚え書きだった。竹の寸法らしい数字が、いくつか。それから、いちばん下に、こう書いてあった。
「しののふえ、うたぐち、あけおわり。あなあけ、まつ」
女は、その一行を、長いこと見つめていた。
うたぐち、あけおわり。歌口を、あけおわった。あなあけ、まつ。穴あけは――待つ。
父は、待っていたのだ。
女が帰ってくるのを。あるいは、女が笛を欲しがる日を。歌口だけをあけて、指孔をあけずに、待っていた。いつあけてもいいように。娘の手に合わせて、あけられるように。だからそれは、作りかけではなかった。半分だけ、あけて、あとの半分を、娘のために残しておいたのだ。
五
女は声を立てずに泣いた。
肩を落として、うつむいて、麻のシャツの膝のあたりに、涙が落ちて、丸いしみを作った。爺さんは、何も言わなかった。孫の慎司も、じっとしていた。市のざわめきと、遠い囃子の音だけが、そこに満ちていた。空の高いところの蒼い一点は、いつのまにか、すっかり日の色に溶けて、もう見えなかった。
しばらくして、女は顔を上げた。目は赤かったが、その顔には、ふしぎな明るさがあった。長いこと閉ざしていた部屋の窓を、やっとあけた者の顔だった。
「あけます」と女は言った。「この錐で。父のあけた歌口に、私が、残りの穴を」
「そのほうがいい」と爺さんは言った。「機械であけちゃいかん。この錐でな。あんたの父さんが、あんたのために持ってたもんだ」
女は、竹と錐を、藍の布に包んだ。マッチ箱も、覚え書きも、そこへ大事にしまった。それから立ち上がって、爺さんに深く頭を下げた。
「ありがとうございました」と女は言った。「――五百円で、こんなものを」
「五百円で売ったのはな」と爺さんは笑った。「竹の切れ端と、錐だ。あんたが持って帰るのは、それとは別のもんだよ。それには、わしにゃ値のつけようがない」
女は、もう一度、頭を下げた。それから、市の人混みのなかへ、藍の包みを胸に抱いて、歩み去っていった。
その後ろ姿を見送りながら、爺さんはふと、市のいちばん隅のほうに、目をやった。
いつもは何もない、境内の裏手の塀ぎわ。石灯籠の陰になった、日のあたらないその一角に、見たことのない屋台がひとつ、出ていた。
朝、店を並べたときには、たしかになかったはずだ。
古い木の棚を車に載せた、書物の屋台だった。屋根も、幟もない。ただ、雨曝しの古書が、背表紙をこちらに向けて、ぎっしりと並んでいる。店番の姿は、見えなかった。棚の横に、小さな木の看板が立てかけてあって、墨で、こう書いてあった。
――月光書房。
爺さんは、目をこすった。もう一度見たときには、屋台のあたりは、ただの塀ぎわの日陰にもどっていた。石灯籠の影が落ちているきりで、書物も、看板も、なかった。
「じいちゃん」と慎司が言った。「どうかした」
「いや」と爺さんは言った。しばらく、そのあたりを見ていた。「――なんでもない。目の錯覚だな」
爺さんは、上着の胸から、青いマッチ箱を出した。三日月の刻印を、親指で撫でた。それから、煙草に火をつけた。ぷんと、硫黄の匂いが立った。
「昨夜(ゆうべ)は、彗星が出てたからな」と爺さんは、だれにともなく言った。「そういう晩の翌朝は、ときどき、ふしぎなことがある」
六
その日はそれから、これといったことも起こらなかった。
日曜のひやかし客が、上の台の染付を手にとっては置き、根来の折敷の値を訊いては、高いと言って離れていった。ひとり、若い男が、蓋のない万年筆を手にとって、これ、書けますかね、と訊いた。書けやしないよ、と爺さんは笑った。だが、そのペン先の細工を見てごらん、と。今どき、こんな細工はできない。男は、それを、百円で買っていった。掃き溜めの山からは、片方だけの下駄も売れた。片方だけの下駄を、いったい何に使うのか、爺さんにはわからなかったが、世の中には、片方だけのものを、なぜか集めたがる者がいるのだった。
昼になって、慎司が近くの店で買ってきた稲荷寿司を、ふたりで頬張った。境内の木陰は、六月の日ざしをやわらげて、涼しかった。稲荷寿司の甘い油の匂いと、境内の、古い木と苔の匂いと、店から立つ埃の匂いとが、まじりあっていた。爺さんは、その匂いのなかで、四十年、飯を食ってきた。
爺さんは、五百円玉を、ずっと前掛けのポケットに入れていた。ときどき、指でさわった。妙に、あたたかい気がした。
「じいちゃん」と、稲荷寿司をひとつ食べおわった慎司が言った。「あの箱、ほんとは、いくらぐらいのもんなの」
「あの竹箱かい」と爺さんは言った。「銘もないただの仕事箱だ。市場に出したって、二、三千円がいいとこだろう。錐と小刀は、たいしたもんじゃない」
「じゃあ、五百円じゃ、損したんじゃないの」
爺さんは、稲荷寿司の油のついた指を、前掛けで拭った。しばらく、境内の砂利のうえに落ちる、木漏れ日を見ていた。
「なあ、慎司」と爺さんは言った。「この商いをな、四十年やってきて、わしがひとつだけ、わかったことがある」
慎司は、じいちゃんの、こういう話を聞くのが好きだった。
「ものにはな、値と、ねうちが、あるんだ」と爺さんは言った。「値ってのは、そのものが、市でいくらで売れるか、だ。ねうちってのは、その値の外にある。だれかにとって、そのものが、どれだけ大事か、だ。この二つは、たいてい、ちがう」
爺さんは、遠くを見た。
「わしらの商いはな、値をつける商いだと、みんな思ってる。ちがうんだ。わしらは、ものの値と、ねうちを、引き合わせる商いなんだ。値はつくが、ねうちのわからんものが、ここには山と積んである。それを、そのねうちのわかる、たった一人の客に、渡す。渡せたときにな――」
爺さんは、前掛けのポケットの、五百円玉をにぎった。
「――そのときは、値なんぞ、どうでもよくなる。あの女には、あの箱の、ほんとうのねうちがわかった。歌口だけあいた竹の、意味がわかった。あんな客に会えるのは、四十年に、何度もねえよ。あれは、二、三千円で売っちゃいかんものだったんだ。五百円で、あの女に渡す。それがいちばん、高く売る、ってことだったのさ」
慎司には、まだ半分もわからなかった。けれど、じいちゃんのその横顔を、なんだか、ずっと覚えていようと思った。
七
秋の彼岸のころだった。
堀切の市が引けて、爺さんと慎司が幕板をたたんでいると、砂利を踏む足音がした。顔を上げると、あの女が――柏木しのが、立っていた。
前とおなじ、生成りの麻のシャツではなかった。すこし改まった、藍鼠(あいねず)の着物を着ていた。手には、細長い、桐の箱をひとつ、抱えていた。その箱の抱えかたに、爺さんは、すぐに、あの日の女だとわかった。ものの重みを、確かめるように抱く、あの手つき。
「その節は」と女は言った。深く、頭を下げた。「ありがとうございました」
「よく、ここが、わかったね」と爺さんは言った。市は、月に二度きりだ。日をちがえれば、爺さんは、ここにいない。
「三度、来ました」と女は、すこし笑った。「二度は、市の立たない日で。空の境内を、見て帰りました。今日で、三度めです」
爺さんは、その言葉に、胸を打たれた。この女は、笛をあけおえてから、三度、この境内へ足を運んだのだ。約束を、果たすために。空の境内を二度も見て、それでも、また来た。ものの、ねうちのわかる者は、約束の、ねうちも、わかるのだと爺さんは思った。
爺さんは、たたみかけた幕板を置いた。
「あけおわったかね」と爺さんは言った。
女は、うなずいた。桐の箱を、そっと、爺さんに差し出した。
「聞いていただけますか」と女は言った。「約束の――音を」
爺さんは、慎司に目配せをした。境内には、もう店じまいの業者が数えるほどしか残っていない。西日が、朱いろに砂利を染めていた。爺さんは折りたたみの床几を出して、そこに腰かけた。
女は、桐の箱をひらいた。
なかから出てきたのは、一本の篠笛だった。飴色の竹に、歌口がひとつ、指孔が七つ、きれいに並んでいる。歌口のあたりは、手擦れで艶があり、そこから先の、指孔のあたりは、まだ竹の肌が新しかった。父のあけた歌口と、娘のあけた指孔。五十年の時をへだてた、二つの手の仕事が、一本の竹のうえで、つながっていた。
女は、笛を構えた。
歌口を唇にあて、しばらく、目を閉じた。西日のなかで、その姿は、ずいぶんと若く見えた。十七の、あの日の娘のように。
そして、女は、息を吹きこんだ。
はじめの音は、かすれた。頼りない、うわずった音だった。爺さんは、その音を聞いて、胸を衝かれた。それは、女の父が、夕暮れの工房で試し吹きしていた、あの、穴のあいたばかりの笛の音――女がいちばん古い記憶として持っている、あの音そのものだったにちがいない。
女は、二度、三度と、息を継いだ。音は、しだいに、まっすぐになっていった。
やがて、女は、ひとつの節を吹きはじめた。
それは、子守唄だった。ゆるやかな、しずかな旋律。爺さんは、その節に聞き覚えがあった。どこで聞いたのか、思い出せない。けれど、たしかに知っている。母親が、揺りかごのそばで、口ずさむような。
眠れ、眠れ、と、笛は歌っているようだった。星が、海を、わたるまで。
爺さんは、目を閉じた。西日が、まぶたのうらを、朱く染めた。
笛の音は、境内の、暮れかけた空へ、ゆっくりとのぼっていった。木々の梢を越えて、屋根を越えて、うすい藍色に染まりはじめた、その空へ。爺さんはふと、こんな時刻に、あの蒼い星が出ていやしないかと、目をひらいて空を見た。彗星は、まだ見えなかった。だが、日が暮れて、夜が来れば――今夜あたり、また出るのかもしれない。そんな気がした。
女の笛は、子守唄を、ひとまわり、吹きおえた。
さいごの音が、長く、長く、尾を引いて、そして、しずかに、消えた。
八
爺さんは、しばらく、目を閉じたままでいた。
「――ありがとう」と、やっと言った。声が、すこし、かすれていた。「いい音だ。あんたのお父さんも、きっと、聞いてるよ」
女は、笛を、そっと下ろした。目のふちが、また、濡れていた。けれど、その顔は、堀切の市であの箱を掘りあてた日とは、まるでちがっていた。あの日、女の顔にあったのは、悔いだった。取りかえしのつかないものを、取りかえそうとする者の、痛みだった。だが、今、女の顔にあるのは――なんと言えばいいのだろう。ゆるされた者の、顔だった。
「この笛はね」と女は言った。「私、母のかわりに、と思って、あの子守唄を最初に覚えたんです。子供のころ。母がいなかったから。父が、口ずさむのを、覚えて」
女は、笛を、桐の箱にもどした。
「父も、あの唄を、よく吹いていました。試し吹きのときに。だから、この笛でいちばんはじめに吹く曲は、あの唄と、決めていました。父のあけた歌口から、はじめて出る、まともな曲は、あの唄でなくちゃいけない、と」
女は、箱の蓋を閉めた。
「――もう、恐くありません」と女は言った。「あの、竹の匂いも。板の間も。父の工房を、来月、片づけに行こうと思います。ずっと、そのままにしてあったんです。今なら、行けます。この笛が、あるから」
爺さんは、うなずいた。それ以上、言うことはなかった。
女は、桐の箱を胸に抱いて、立ち上がった。西日は、もうほとんど暮れて、境内は青い夕闇に沈みかけていた。
「これを」と女は言った。手提げから、小さなものを出した。「お返し、というのも変ですが。もし、よろしければ」
それは、青いマッチ箱だった。三日月の刻印のある、月光堂のもの。あの、父の仕事箱と一緒に出てきた、あのマッチ箱だ。
「私は、火を使いませんから」と女は、すこし笑った。「それに、あなたが、これを使ってらしたのを、見ましたから。同じものを。父も、これでした。父も、これで、竹をあぶる火を、つけていたのかもしれません」
爺さんは、その箱を、両手で受け取った。振ってみると、なかで、まだ何本か、乾いた音がした。
「――もらっとくよ」と爺さんは言った。「大事に、使わせてもらう」
女が、青い夕闇のなかへ、桐の箱を抱いて去っていったあと、爺さんは、長いこと、その場に坐っていた。
慎司が、幕板の残りをたたみながら、こちらを見ていた。
「じいちゃん」と慎司が言った。「泣いてる?」
「馬鹿を言え」と爺さんは言った。「埃が、目に入っただけだ」
爺さんは、もらった青いマッチ箱を、ひらいた。父の覚え書きは、もう入っていなかった。あれは、女が持っていったのだろう。当然だ。あれは、女のものだ。マッチは、三本、残っていた。
爺さんは、そのうちの一本を擦った。ぷんと、硫黄の匂いが、青い夕闇に立った。ちいさな火が、爺さんの、皺だらけの掌のなかで、ゆらいだ。
その火で、爺さんは、煙草に火をつけた。
火を、消そうとして、爺さんは、ふと、手をとめた。ちいさな炎を、しばらく、見つめていた。この火は、と爺さんは思った。この火は、あの女の父が、竹をあぶった、その火と、同じ箱から出た火だ。五十年前の、根岸の工房の、あの試し吹きの夕暮れと、この火は、つながっている。
爺さんは、その火を、そっと、吹き消した。
ちいさな煙が、ひとすじ、立ちのぼって、青い空気のなかに、溶けていった。
九
その夜、爺さんは、めずらしく、遅くまで店の裏で坐っていた。
慎司はさきに帰った。境内は、もう、しんとしていた。祭りの稽古も終わって、囃子の音もしない。ただ、木々のざわめきと、遠くの、車の音だけ。
爺さんは、空を見上げた。
いつのまにか、東の空の高いところに、あの蒼い一点が、また出ていた。ミラ彗星。夜が更けるにつれて、それは、うすい尾を引きながら、しだいに冴えていった。爺さんは、その光を、長いこと、見ていた。
ふと、境内の隅の、あの塀ぎわに、目をやった。
石灯籠の陰の、日のあたらない、あの一角。夜のいま、そこには、たしかに、灯りが、ともっていた。
古い木の棚を載せた、書物の屋台。昼間、一瞬だけ見えて、消えた、あの月光書房。だが今、それは、消えていなかった。ちいさな提灯のような灯りが、棚の横に、ぽつりとともって、古書の背表紙を、ほのかに照らしていた。
爺さんは、立ち上がった。ゆっくりと、砂利を踏んで、そちらへ、歩いていった。
近づいてみると、棚には、ほんとうに、古い書物が、ぎっしりと並んでいた。手ずれのした、和綴じの本。革表紙の、洋書。表題も読めない、古い巻物。そのどれもが、ひどく古く、けれど、大切に扱われてきたものであることが、爺さんの目には、すぐにわかった。四十年、ものを見てきた目には。
店番は、やはり、見えなかった。棚のあいだに、一冊、抜き出しやすいように、すこし手前に出ている本があった。
爺さんは、その本を、手にとった。
うすい、和綴じの本だった。表紙には、なにも書いてない。ひらいてみると、なかには、たくさんの物語が、綴られていた。爺さんが、いま、ぱらりとひらいた頁には――堀切の骨董市の話が、書いてあった。
飴色の仕事箱の話。歌口だけあいた、篠笛の話。五十年ぶりに、娘の手で、あけおわった、指孔の話。青いマッチ箱と、子守唄の話。
爺さんは、その頁を、目で追った。それは、たしかに、今日のできごとだった。けれど、活字で、他人の物語のように、そこに、綴られていた。まるで、ずっとむかしに、だれかが、書きとめておいたかのように。
爺さんは、ゆっくりと、本を閉じた。
いくらかね、と爺さんは、だれにともなく、訊いた。
返事は、なかった。ただ、風が、木々を鳴らして、通りすぎた。
爺さんは、しばらく、その本を、手のなかで、撫でていた。手ずれのした、うすい本。だれかが、何度も、ひらいたことのある本だった。
それから、爺さんは、その本を、そっと、棚の、もとの場所に、もどした。
「――わしには、まだ、早い」と爺さんは言った。「これを読むのは、店じまいの晩でいい。この商いを、たたむ、その晩に。それまでは、ここに、預けておくよ」
爺さんは、棚に向かって、深く、頭を下げた。四十年、無数のものを、売り、買い、渡してきた、その手を、膝にあてて。
そして、爺さんは、もと来た道を、砂利を踏んで、もどっていった。
一度だけ、ふりかえった。塀ぎわの灯りは、まだ、ともっていた。だが、あすの朝、市を開けにきたときには、そこには、もう、なにもないだろう。石灯籠の影が、落ちているきりで。爺さんは、それを、知っていた。
十
翌朝、六月とはちがう、乾いた秋の光のなかで、爺さんは、いつものように、幕板を外し、茣蓙を敷いた。
塀ぎわの一角には、やはり、なにもなかった。石灯籠が、朝日を浴びて、影を落としているきりだった。爺さんは、そこを、ちらりと見て、それから、いつものように、店を並べはじめた。
染付の小皿。根来の折敷。鉄瓶。そして、台の下の、掃き溜めの山。錆びた金物。片方だけの手袋。蓋のない万年筆。欠けた擂鉢。ひとつ百円、二品で百五十円。
爺さんは、上着の胸から、青いマッチ箱を出した。あの女がくれた、三日月の刻印の箱。残りは、二本になっていた。爺さんは、そのうちの一本を、大事に、擦った。ぷんと、硫黄の匂いが、秋の朝の空気に立った。
煙草に火をつけて、爺さんは、空を見上げた。
うすい、水色の、朝の空。その高いところに、目を凝らせば、まだ、蒼い一点が、消えのこっていた。ミラ彗星の、名残。日が高くなれば、じきに、溶けて、見えなくなる。けれど、夜が来れば、また、出る。同じ星が、同じように、この空を、めぐってくる。
爺さんは、その蒼い一点を、しばらく、見ていた。
昨夜(ゆうべ)、あの月光書房の棚で、頁をひらいた本のことを、爺さんは思い出した。あの本には、この市のことが、書いてあった。飴色の箱のことが。歌口だけあいた笛のことが。ということは、と爺さんは思う。あの本には、たぶん、爺さん自身のことも、書いてあるのだろう。四十年、この掃き溜めの山を積みつづけた、ひとりの古物商のことも。爺さんが、いつか、この店をたたむ日のことまでも、あの、うすい本の、どこかの頁には、もう、書きとめられているのかもしれない。
それでも、いい、と爺さんは思った。それが、この商いだ。ものは、人より、長く生きる。人は、ものより、さきに逝く。爺さんが逝っても、あの飴色の箱は、どこかで、だれかの掌に撫でられている。あの女の笛は、あの子守唄を、まだ、どこかで鳴らしている。そうやって、ものは、人の時間を、つないでいく。爺さんはただ、その、つなぎ目に、しばらくのあいだ、坐っているだけなのだ。
それから、掃き溜めの山に、目をおとした。
このなかに、と爺さんは思った。このがらくたの山の、どこかに、また、鶴の羽根が、一枚、まじっているのかもしれない。だれかの、大切な、けれど値のつけようもないものが、埃をかぶって、その、ねうちのわかる、たった一人の客が、かがみこんで、掘りあててくれる、その日を、じっと、待っているのかもしれない。
たった一人の客。それに会うために、四十年。傍から見れば、割に合わない商いだろう。染付を売り、鉄瓶を売り、根来を売って、暮らしを立てながら、爺さんがほんとうに待っているのは、金にならない、あの、掃き溜めの底のねうちを、掘りあててくれる客のほうだった。その客に会えた日、爺さんは、その品を、ほとんど、ただ同然で渡す。それが、この商いの、割に合わないところであり、割に合わないからこそ、やめられないところだった。
慎司には、いつか、わかるだろうか。爺さんは、稲荷寿司を頬張るこの孫の横顔を、ちらりと見た。この子が、いつか、この店を継ぐかどうかは、わからない。継がなくてもいい。ただ、あの女の笛の音を、この子も、聞いた。あの、かすれて、まっすぐになっていった、子守唄を。それを聞いた耳は、もう、ものの、ねうちの、聞こえる耳だ。それだけで、爺さんには、じゅうぶんだった。
九時をまわった。日曜の、ひやかし客が、ぽつぽつと、増えはじめた。
爺さんは、床几に腰をおろして、煙草を、ゆっくりと吸った。
巳の刻だ、と爺さんは、だれにともなく、呟いた。市の、いちばん、良い時分だ。
埃が、朝の光のなかで、金の粉のように、舞っていた。それは、ただの塵ではなかった。だれかの、ほどけた眠りだった。爺さんは、その、金の粉の舞うのを、しずかに、見ていた。埃は、時間の匂いがした。そして、時間には、値がない。ねうちだけが、ある。