月光書房
巳の刻 ・ 昼前 ・ 第 十 話

縁側の陽だまり

庭田 しづ江
市井・日常 ・ 約25頁

縁側の板が、朝の湿りをすっかり手放して、足の裏にあたたかい。トメさんはその一枚一枚の温もりを踏みしめるようにして、洗濯物を抱えて出てきた。

昼前の陽は、まだ真上まで昇りきらず、庭の南天の葉先を斜めに撫でている。露はとうに乾いた。土のにおいがしなくなって、かわりに、日向のにおいがしてきた。あの、なんとも言えぬ、あたたかい埃のような、乾いた綿のような、ほのかに甘いにおい。トメさんはこのにおいが、この時刻のにおいだと、六十年連れ添った家で覚えていた。

物干し竿は、縁側の軒下に渡してある。物干し台まで下りるのが、この二、三年、億劫になった。膝が言うことをきかぬ。だから洗濯物は、縁側の陽だまりのすぐそば、軒の下に干す。そのほうが、猫のミケの寝どころも近くていい。

「よいしょ」

声に出すと、腰がまっすぐ伸びるような気がする。誰に教わったわけでもないのに、いつからか、重いものを持ち上げるたび、ものを引きずるたび、この一言が口をついて出るようになった。亡くなった夫の清一さんも、そういえば、縁側に上がるたび「よいしょ」と言っていた。うつったのだろう。人は連れ添ううちに、口癖まで似てくる。似てきたところで、片方がいなくなると、その口癖だけが残される。

まず、清一さんの、いや、もう清一さんのではない、自分の下着から干す。それから手拭い。そのつぎに、割烹着。竿にかけて、両手で軽く叩く。ぱん、ぱん、と乾いた音がして、皺が伸びる。皺を伸ばしながら干すのは、母から教わったことだった。ちゃんと伸ばして干せば、取り込むときに畳みやすい。母は、そういう、暮らしの小さな理屈をたくさん知っていた。米のとぎ方、大根の面取り、障子の張りかえ、梅の漬けかた。そういうものを、母は、口では教えなかった。ただ、そばで見せた。見て覚えろ、というのが、あのころの、教えかただった。

洗濯物は、いまでは、たったこれだけになった。一人分。下着が二、三枚と、手拭いが一枚、二枚。割烹着に、寝間着。清一さんが生きていたころは、竿がいっぱいになった。清一さんの、大きなシャツ。股引。腹巻き。作業着。冬になれば、綿入れ。それを、二人分、干した。竿が、たわむほどに。取り込むのに、いくどもいくども、往復した。あのころは、それが、面倒でもあった。いまは、その面倒が、いとおしい。

洗濯物が減ると、人生も、減ったような気がする。トメさんは、乾いてゆく手拭いを見ながら、そんなことを思った。けれど、思ってから、いや、と首を振った。減ったのではない。軽くなったのだ。年をとるというのは、少しずつ、荷を下ろしてゆくことだ。いつか、なにもかも下ろして、身ひとつになる。そのときには、きっと、ずいぶん、身軽になっているだろう。

洗濯ばさみを、木の箱から、ひとつ、ふたつ、つまみ出す。この洗濯ばさみも、古い。木でできた、昔ながらのもの。清一さんが、生前、ひとつ、ふたつと、こしらえてくれた。器用な人だった。壊れると、また、削って、こしらえた。だから、この箱の中の洗濯ばさみは、大きさも、形も、ひとつずつ、みんな違う。トメさんは、それを使うたびに、清一さんの、削っていた手を、思い出す。

ラジオが、縁側の隅で低く鳴っている。

古い、木の箱のようなラジオ。ダイヤルがふたつ並んでいて、片方はもう回してもなにも変わらない。もう片方だけが、かろうじて生きている。朝の連続ドラマが終わって、いまは歌謡曲の時間だ。誰の歌か知らぬ、けれど耳になじんだ節が、ゆっくりと流れてくる。

トメさんはこのラジオを、消さない。朝起きてからつけて、夜寝る前に消す。一日じゅう、低く鳴らしておく。音がしていると、家に人がいるような気がするからだ。清一さんが逝ってから、そうなった。しんとした家は、こわい。こわいというより、なんだか、自分がいないような気がしてくる。ラジオの音は、自分がここにいることを、そっと知らせてくれる。

ミケが、日向のいちばんいいところで、腹を上に向けて眠っている。三毛の、もう年寄りの猫だ。トメさんと同じくらい、耳が遠い。呼んでもなかなか来ない。だが陽だまりの気配だけは、誰よりも早く嗅ぎつける。朝、雨戸を開けると、もうそこに座って待っている。

「いい身分だねえ」

トメさんは、洗濯ばさみを口にくわえたまま、もごもごと言った。ミケは片耳をぴくりと動かしただけで、目も開けない。腹が、陽を吸って、ふっくらとふくらんだり、しぼんだりしている。生きているものの、あたたかさ。トメさんはそれを見ると、いつも、なぜだか少しほっとする。

竿の端まで干し終えて、空になった洗濯籠を、縁側の板の上に置いた。腰を下ろす。膝を、そっと手のひらで撫でる。膝は、いつも少し痛い。痛いのが、あたりまえになった。あたりまえになると、痛みも、古い友だちのようなものだ。

縁側の陽だまりに、腰を落ち着けると、体じゅうから、ふうっと、力が抜けた。この、腰を下ろす瞬間が、トメさんは、一日のうちで、いちばん好きだった。朝、起きて、雨戸を開けて、顔を洗って、仏壇に手を合わせて、飯を炊いて、洗濯をして――そこまでが、この年になると、ひと仕事だった。それを済ませて、こうして、縁側に座る。昼前の陽が、膝の上に、あたたかく載る。そのとき、ああ、今日も、なんとか、やれた、と思う。

清一さんの、位牌に、今朝も、炊きたての飯を、ひと口だけ供えた。清一さんは、飯が好きだった。おかずより、なにより、白い飯。それも、炊きたての、湯気の立つやつ。だから、トメさんは、いまでも、飯だけは、毎朝、炊く。一人だから、ほんの、ひとにぎりでいい。けれど、炊きたてを、供える。冷や飯を供えるのは、なんだか、気の毒だった。生きているうちに、たくさん、うまい飯を食べさせてやれなかった。せめて、いまくらいは。

縁側の柱に、背をあずけて、トメさんは、目を細めた。庭の南天。その向こうの、生垣。生垣の、椿。もう花は終わって、青い実をつけている。そのまた向こうに、隣の家の、瓦屋根。屋根の上に、白い、白い空。なにもかも、見なれた景色だった。六十年、見つづけてきた景色。目をつぶっていても、描ける。けれど、見飽きることは、なかった。日によって、季節によって、時刻によって、光が違う。同じ景色が、少しずつ、違って見える。それが、おもしろかった。

見上げると、空が、淡く白んでいた。

昼前の空は、青いというより、白に近い。夜の濃い藍が、朝の光にすっかり薄められて、いちめん、乳を溶かしたような色になる。雲は、ほとんどない。あるかないかの、薄い刷毛でひとはけ掃いたような雲が、東の空の低いところに残っているきりだ。

トメさんは、その白い空の、ずっと高いところに、目を凝らした。

――今朝も、まだ、いるかしら。

明け方、まだ暗いうちに一度、厠に起きた。そのとき、雨戸の隙間から、外を覗いた。東の空の、木立の梢のあたりに、蒼い、小さな点が、ぽつりと灯っていた。星にしては、ひときわ蒼く、ひときわ淡い。長い尾を、ほんのわずか、刷いていた。彗星だ、と思った。

去年の暮れから、近所で噂になっていた。ミラ彗星というのだそうだ。八百屋のおかみさんが教えてくれた。何十年に一度か、あるいは、もっとずっと長い、人の一生を何度もまたぐような、そういう巡りで、この空に帰ってくる星なのだと。夜には冴えて見え、明け方には薄れ、昼にはもう名残だけになる。

いま、昼前の白い空に、目を凝らしても、もう蒼い点は見えない。光に溶けてしまった。けれど、たしかにそこにあると、トメさんにはわかる。明け方に、この目で見たのだ。溶けて見えないだけで、消えたわけではない。

「あんたも、遠くから帰ってきたんだねえ」

トメさんは、白い空に向かって、ひとりごちた。何十年かぶりに、この空に。人が、待ちくたびれるほどの、長い旅をして。

清一さんは、この彗星を見なかった。去年の春に逝ったから。あと一年、もうすこし生きていれば、いっしょに見られたのに。清一さんは、星が好きだった。若い時分、二人で縁側に座って、よく夜空を見上げたものだった。あれは、この星だったろうか、と、いまになって思う。名も知らぬ星に、二人で名をつけて笑った。あの星の名も、もう思い出せない。

清一さんと出会ったのは、トメさんが、二十のときだった。近所の、世話焼きのおばさんの、口ききだった。写真を一枚、見せられて、それで、決まった。会ったのは、祝言の、その日が、はじめてだった。そういう時代だった。好いた惚れたで、いっしょになる者など、めったに、いなかった。それでも、清一さんは、いい人だった。無口で、不器用で、けれど、やさしかった。手が、あたたかい人だった。冬の夜、トメさんの、冷えた足を、自分の足のあいだに、はさんで、あたためてくれた。「冷たいなあ、おまえの足は」と言いながら。

子どもは、二人、授かった。上が、男。下が、女。二人とも、とうに、家を出た。上の子は、東京で、会社勤め。下の子は、嫁いで、九州にいる。孫も、いる。けれど、みんな、遠い。盆と正月に、電話が来る。声を聞くと、うれしい。うれしいけれど、電話を切ると、また、しんとする。無理もない。みんな、みんな、それぞれの、暮らしがある。年寄りの相手を、してばかりも、いられない。トメさんは、それを、恨みには思わなかった。子は、育てば、離れてゆく。それが、あたりまえだ。巣立った鳥が、巣に戻らぬのと、同じことだ。

けれど、清一さんが逝ってからの、この一年ばかりは、ときどき、こたえた。誰とも、口をきかぬ日が、あった。声を出すのは、ミケに話しかけるときと、ラジオに、相槌を打つときと、それくらい。人の声を、じかに聞かぬ日が、幾日も、つづくことがあった。すると、自分の声が、だんだん、しゃがれて、うまく出なくなる。まるで、使わぬ道具が、錆びてゆくように。

「ごめんくださァい」

声がしたのは、そのときだった。

生垣の向こう、庭木戸のあたりから。かすれて、けれど、よく通る声。トメさんは、はっと我にかえった。空を見上げていた首を、ゆっくりと下ろす。

「はァい、どちらさん」

腰を上げようとして、膝が痛んで、また「よいしょ」と言った。木戸のところに、人影が立っている。逆光で、顔がよく見えない。手拭いを頭にかぶった、女の人のようだ。背に、大きな風呂敷包みを負っている。

「毎度、お邪魔いたします。行商の者でございます。反物と、小間物と、ちょいとしたお菓子なんぞ、持ってまわっておりますが」

行商か、とトメさんは思った。近ごろは、めっきり見なくなった。昔は、よく来たものだ。魚屋、豆腐屋、金魚売り、飴屋。それぞれの売り声が、路地に響いた。いまは、店に行けばなんでもある。行商の姿は、もう、遠い昔のことのように思っていた。

「まあ、行商さん。珍しいこと。どうぞ、こちらへお上がんなさい」

トメさんは手招きした。買うつもりはなくとも、この昼前の、誰も来ぬ縁側に、人の声がするのは、なんだかうれしかった。それに、遠くから歩いてきたのだろう。喉も渇いていよう。

女の人は、木戸を押して、庭に入ってきた。飛び石を、ひとつ、ふたつと踏んで、縁側の前まで来る。手拭いを、そっと取った。

そして、顔が、日向に照らされた。

トメさんは、息をのんだ。

年は、トメさんと同じくらいだろうか。皺の深い、けれど、目もとに、どこか懐かしい面ざしのある顔。頬骨の高いところ、笑うとできる、右の頬のえくぼ。その、右のえくぼ。

「……サヨちゃん?」

口から、ひとりでに、その名がこぼれた。

女の人は、風呂敷を負ったまま、しばらくトメさんの顔を見つめていた。皺の奥の、その目が、ゆっくりと、見開かれてゆく。何十年もの、時が、逆さに巻き戻されてゆくように。娘の顔を、老いた顔の下に、探しあてるように。それから、その右の頬に、ゆっくりと、深いえくぼができた。

「……トメちゃん。トメちゃん、だねえ」

声が、震えていた。

七十年。七十年ぶりの、名前。トメちゃん、と、その人が呼んだ。トメさん、でも、おばあちゃん、でもなく、トメちゃん、と。誰も、もう、そう呼ぶ者は、いなかった。両親も、清一さんも、みんな、逝ってしまった。トメちゃん、と、幼名で、呼んでくれる人は、この世に、もう、一人も、いないはずだった。それが、いま、目の前に、いる。トメちゃん、と、呼んでくれる人が。

その一言で、トメさんの中の、なにかが、ほどけた。年月が、するすると、ほどけて、十二の、あの娘に、戻った。膝の痛みも、腰の曲がりも、皺も、白髪も、ぜんぶ、どこかへ、消えて、ただ、サヨちゃんに、名を呼ばれた、うれしさだけが、胸に、あふれた。

サヨちゃんだった。

女学校の、いや、女学校などという上等なものではない。尋常小学校の、同じ組の、いちばんの仲よし。トメさんとサヨちゃんは、いつも、二人でいた。手をつないで学校へ行き、手をつないで帰った。田んぼの畦道を、二人で、飛ぶように走った。

家が、隣どうしだった。垣根ひとつ、隔てただけの。垣根には、破れ目があって、そこをくぐって、行き来した。朝、目がさめると、まず、サヨちゃんの顔を見に行った。夜、寝るまえに、垣根ごしに、おやすみを言った。姉妹よりも、姉妹のようだった。トメさんには、姉も、妹も、いなかったから、サヨちゃんが、姉であり、妹であり、なんでもあった。

春には、二人で、土手のつくしを摘んだ。袴を取って、母たちが、卵とじにしてくれた。夏には、川で、はだかんぼで、泳いだ。秋には、稲刈りのあとの田んぼで、落穂を拾い、いなごを捕った。冬には、霜柱を踏んで、ざくざくと音をさせて、学校へ通った。手が、かじかんで、痛くて、二人で、はあ、はあ、と、息を吹きかけあった。

サヨちゃんは、おてんばだった。木登りが、上手だった。柿の木の、いちばん上まで、するすると登って、いちばん甘い実を、もいでくれた。トメさんは、下で、はらはらしながら、見上げていた。「落ちるよ、落ちるよ」と言うと、サヨちゃんは、木の上で、けらけらと笑った。「落ちやしないよう」と。あの、木の上の笑い声を、トメさんは、七十年たった、いまでも、耳の奥に、覚えている。

それが、十二の年に、別れた。サヨちゃんの家が、急に、遠くへ引っ越すことになったのだ。父親の仕事の都合とかで。汽車に乗って、山をいくつも越えた、遠い町へ。あのころは、遠い町へ行くというのは、もう二度と会えぬ、というのと同じことだった。電話も、めったに、なかった。手紙を出そうにも、子どもには、切手を買う銭も、そうそう、なかった。いちど、遠くへ行けば、それきり。人の縁が、そこで、ふっつりと、切れた。

引っ越しの話を、サヨちゃんから聞いた日のことを、トメさんは、いまでも、覚えている。学校の帰り道、いつもの畦道で、サヨちゃんが、ぽつりと言った。「あたし、遠くへ行くの」と。トメさんは、はじめ、意味が、わからなかった。遠くへ、というのが、どのくらい遠いのか。「どのくらい?」と聞いた。サヨちゃんは、しばらく黙って、それから、言った。「もう、会えないくらい、遠く」と。その日から、引っ越しの日まで、二人は、いっそう、離れなかった。一分でも、一秒でも、長く、いっしょにいようとした。

別れの日、サヨちゃんは泣いた。トメさんも泣いた。二人で、駅のホームで、手をつないだまま、汽車が来るぎりぎりまで、離れなかった。サヨちゃんの、母親が、「もう、およし」と言っても、離さなかった。汽笛が鳴って、無理やり手を離されたとき、サヨちゃんが、ふりむいて、何か叫んだ。汽車の音にかき消されて、聞こえなかった。白い、蒸気の煙が、ホームに、もうもうと、たちこめた。その煙の向こうに、サヨちゃんの、小さな手が、窓から、いつまでも、振られていた。煙が晴れたときには、もう、汽車は、点になっていた。あれが、七十年前のことだ。

その日、家に帰って、トメさんは、床にもぐって、声をあげて、泣いた。母が、背中を、さすってくれた。「また、いつか、会えるよ」と、母は言った。けれど、その「いつか」が、まさか、七十年も、先になろうとは。母も、トメさんも、あのときは、思いもよらなかった。人の一生の、ほとんど、まるごと。それが、この二人にとっての、「いつか」の、長さだった。

「まあ、まあ、まあ」

トメさんは、それしか言えなかった。まあ、まあ、と繰り返しながら、縁側から、危うく転げ落ちそうな勢いで、庭下駄をつっかけた。サヨちゃんの、皺だらけの手を、両手で、しっかりと握った。あたたかかった。あの、田んぼの畦道を走った、小さな手が、こんなにも大きく、こんなにも皺深くなって。

「上がって。上がって、ちょうだい。さ、荷物、下ろして」

サヨちゃんは、風呂敷包みを、縁側の端にそっと下ろした。ずしりと重そうだった。長いこと、これを負って、町から町へ、歩いてきたのだ。

「トメちゃんの家だなんて、思いもよらなんだよ。この表札を見て、まさか、と思ったけれど、まさか、まさか、と思って。行商をしとると、たまに、こういうことがある。昔の人に、ばったり会う。けど、まさか、トメちゃんとは」

サヨちゃんは、縁側に腰を下ろして、そう言った。息が、まだ少し弾んでいる。

トメさんは、大急ぎで、茶を淹れにいった。台所で、湯を沸かしながら、手が震えた。急須に茶葉を入れる手が、なんども、こぼした。落ち着け、落ち着け、と自分に言い聞かせた。七十年ぶりの人に、こぼした茶を出すわけにはいかない。

戸棚の奥から、来客用の、いい茶碗を出した。清一さんが逝ってから、一度も使っていない、対の茶碗。片方に、ひびが入っている。それでも、いいほうの、ひびのない片方を、サヨちゃんのために選んだ。

この茶碗も、思えば、片方だけが、欠けている。清一さんが生きていたころ、二人で使った、夫婦茶碗。清一さんの茶碗のほうに、ある日、ひびが入った。それでも、清一さんは、「まだ使える」と言って、そのまま、使っていた。ひびに、茶渋がしみて、だんだん、色が濃くなった。清一さんが逝ってから、トメさんは、その、ひびの入った茶碗を、捨てられなかった。ひびごと、清一さんの手の跡が、しみついているような気がして。だから、こうして、対のまま、しまってある。片方には、人が、もう、いないのに。

菓子鉢に、羊羹を切って盛った。八百屋のおかみさんに、先だってもらった、上等の羊羹だ。もったいなくて、しまいこんでいた。こういう日のために、しまってあったのだ、と、いまになって思った。羊羹を切るときの、あの、すう、という、包丁のとおる音が、トメさんは、好きだった。ぴたりと切れて、断面が、つやつやと、光る。上等の羊羹は、切り口が、鏡のようになる。安い羊羹は、そうはいかない。切り口が、ざらつく。清一さんは、甘いものは、あまり食べなかったけれど、羊羹だけは、好きだった。「羊羹は、男の菓子だ」などと、妙なことを言っていた。なにが、男の菓子なものか、と、トメさんは、いまでも、おかしくなる。

盆に載せて、縁側に運ぶ。

サヨちゃんは、ミケを、そっと撫でていた。ミケは、見知らぬ人に撫でられても、逃げもせず、腹を出して、ごろごろと喉を鳴らしている。

「猫は、好きかい」

「好きだよ。むかし、うちにも、三毛がいたっけねえ。タマっていうの。あんたのうちの、ミケと、そっくりだ」

「まあ、そう。うちのは、ミケっていうんだよ」

二人は、顔を見あわせて、笑った。ミケとタマ。芸のない名だ、と、また笑った。あのころ、猫はみんな、ミケかタマか、クロだった。

茶を、すすった。サヨちゃんは、両手で茶碗を包むようにして、うまそうに、ひとくち、飲んだ。

「ああ、おいしい。ほんとに、おいしい」

「ちょっと、ぬるかったろう。手が震えて」

「いいえ。ちょうどいい。歩いてきて、喉が、からから」

羊羹を、ひときれ、口にした。サヨちゃんは、目を細めた。

「甘いねえ。甘くて、しみるねえ」

そのとき、ラジオが、ちょうど、曲の変わりめだった。少し、雑音が入って、それから、次の曲が流れはじめた。

古い、古い曲だった。誰かが、口ずさむような、静かな、子守唄めいた旋律。

サヨちゃんの手が、羊羹をつまんだまま、ふと、止まった。

「……この歌」

トメさんも、耳をすませた。聞き覚えがある。ずっと、ずっと、昔に。

――眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。

ラジオの歌声が、その一節を、ゆっくりと歌った。眠れ、眠れ。星が、海をわたるまで。

「トメちゃん、この歌、覚えとるかい」

サヨちゃんの声が、また、震えていた。

「覚えとるよ。忘れるもんかね」

これは、二人の歌だった。あのころ、サヨちゃんのお母さんが、よく歌っていた。サヨちゃんの家に遊びに行くと、赤ん坊の弟をあやしながら、お母さんが、この歌を歌っていた。眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。トメさんも、いつのまにか覚えて、二人で、田んぼの畦道で、よく歌った。声を合わせて。

サヨちゃんのお母さんは、やさしい人だった。トメさんが、遊びに行くと、いつも、なにか、食べさせてくれた。ふかした芋。煮た豆。あられ。貧しかったけれど、いつも、なにか、あった。そして、弟をあやしながら、この子守唄を、歌った。低い、あたたかい声で。眠れ、眠れ。トメさんは、その声を聞くと、いつも、眠くなった。サヨちゃんの家の、囲炉裏のそばで、二人して、こっくり、こっくり、居眠りをした。母親の、子守唄を聞きながら。

この歌が、どこの、なんという歌なのか、トメさんは、知らない。サヨちゃんのお母さんが、そのまた母親から、教わったのだろう。そうして、母から子へ、また、母から子へと、いくつもの代を、わたってきた歌だ。星が、海をわたるまで。海など、この山あいの村からは、遠くて、見たこともなかった。それでも、その一節を歌うと、見たこともない海が、まぶたの裏に、青々と、広がった。夜の海を、星が、いくつも、わたってゆく。子ども心に、それは、この上もなく、美しい光景に、思われた。

「あんたのお母さん、これを、歌ってなさったねえ」

「そうそう。母さんが。……母さんも、もう、とうの昔に」

「うちの母も」

二人は、しばらく、黙って、ラジオを聞いた。眠れ、眠れ。歌は、二番に入った。星が、海をわたるまで。ねんねの、赤い、鼻緒がすげるまで。

トメさんの目に、涙が、じわりと滲んだ。年をとると、涙もろくなる。すぐに、目のふちが、あたたかくなる。サヨちゃんの目も、光っていた。

「トメちゃん、あのね」

歌が終わって、また歌謡曲に戻ったころ、サヨちゃんが、ぽつりと言った。

「あの日、駅で。汽車に乗るとき。あたし、ふりむいて、叫んだの。覚えとるかい」

「覚えとる。覚えとるけど、聞こえなんだ。汽車の音で」

「そうだろうねえ。あたしも、届かんかったろうと思うとった。けど、ずっと、あんたに、言いたかった。七十年、言いたかった」

サヨちゃんは、茶碗を、そっと膝に置いた。そして、遠くを見るような目をして、言った。

「あのとき、あたし、こう叫んだの。――『トメちゃん、わすれんといて』って」

トメさんは、息を、のんだ。

「わすれんといて、って。あたし、それだけ、叫んだの。それだけ、どうしても、伝えたかった」

トメさんの目から、涙が、ひとすじ、こぼれた。皺を伝って、顎のところまで、つうっと。

「……忘れとらんよ」

やっと、それだけ言った。

「一日も。一日も、忘れとらんよ、サヨちゃん」

嘘ではなかった。

トメさんは、この七十年、サヨちゃんのことを、折にふれて、思い出していた。桜の咲くころ。田んぼに水の張るころ。子守唄を、どこかで耳にするたび。片方だけになった手袋を、簞笥の奥で見つけるたび。

嫁に来てからも、ときどき、思い出した。姑に、きつく叱られて、便所の陰で、こっそり泣いたとき。もし、サヨちゃんが、そばにいてくれたら、と思った。子どもが、麻疹で、高い熱を出して、幾晩も、寝ずに看病したとき。もし、サヨちゃんが、いてくれたら、と思った。うれしいときより、つらいときに、サヨちゃんのことを、思い出した。あの、木の上で笑う、けろりとした顔を思い出すと、なんだか、つらいことも、たいしたことでは、ないような気がしてきた。

いちど、思い切って、探そうとしたことも、あった。子どもたちが、育って、少し、手が空いたころ。けれど、手がかりが、なかった。引っ越した先の、町の名も、うろ覚えだった。汽車で、山をいくつも越えた、遠い町。それだけ。名字は、覚えていたけれど、女は、嫁げば、名字が変わる。サヨちゃんも、きっと、どこかへ、嫁いだだろう。名字も、変わっただろう。となると、もう、探しようが、なかった。トメさんは、あきらめた。あきらめて、けれど、忘れは、しなかった。会えなくとも、思い出すことは、できた。思い出すたびに、サヨちゃんは、あの、十二の、おてんばな娘のままで、木の上で、笑っていた。

――そう、あの手袋。

トメさんは、はっと、思い出した。

「サヨちゃん、ちょっと、待っとって。すぐ、戻るから」

膝の痛みも忘れて、トメさんは立ち上がった。奥の間へ、急ぐ。清一さんの遺した、古い簞笥。その、いちばん下の引き出し。ふだんは、開けることもない、開かずの引き出し。

ぎ、ぎ、と、木の軋む音をさせて、引き出しを引いた。樟脳のにおいが、ふわりと立った。古い、しまいこんだもののにおい。畳んだ着物のあいだから、それを、探した。

あった。

赤い、毛糸の手袋。片方だけの。

トメさんは、その手袋を、両手で捧げるようにして、縁側に戻った。

「サヨちゃん。これ」

サヨちゃんの膝の前に、そっと、置いた。赤い、片方だけの、毛糸の手袋。小さな、子どもの手袋だ。あちこち、繕った跡がある。毛糸は、色あせて、もとは、もっと鮮やかな赤だったろう。

サヨちゃんは、それを見て、口を、あけた。

「これ……」

「あんたが、くれたんだよ。別れる、まえの冬に。二人で、おそろいの手袋を編んでもらって。あんたは右、あたしは左。二人で、片方ずつ、はめて、片方ずつ、交換して。片手ずつ、あんたのと、あたしのを、はめとった。覚えとる?」

サヨちゃんは、震える手で、その手袋を取り上げた。裏返し、掌に載せ、繕った跡を、指でなぞった。

「覚えとる……。覚えとるよ。冬に、手が、かじかんで。二人で、片方ずつ。もう片方は、ポケットに。……そうだ、そうだった」

「あたし、この、あんたにもらった右のを、ずっと。捨てられなんだ。あたしの左のは、いつか、なくしてしまったけど。あんたのくれた、右のだけは」

サヨちゃんの目から、涙が、ぽたり、ぽたりと、手袋の上に落ちた。

「あたしも」と、サヨちゃんは、かすれた声で言った。「あたしも、あんたのくれた、左のを、ずっと持っとる。いまでも。荷物の、奥のほうに。行商の、荷物の、いちばん奥に」

サヨちゃんは、風呂敷包みを、ほどきはじめた。

反物や、小間物や、菓子の包みを、ひとつずつ、縁側に出す。手が、もどかしそうに、震えている。いちばん奥、いちばん底のほうから、小さな、油紙にくるんだものを、取り出した。

油紙を、そっと、ひらく。

赤い、毛糸の手袋。左の、片方だけ。

二つを、並べた。トメさんの持っていた右と、サヨちゃんの持っていた左。縁側の、日向の中に、七十年ぶりに、二つの手袋が、そろった。

色あせ方も、繕いの跡も、まるで、双子のようだった。もとは、一人の手が、同じ毛糸で、同じ晩に編んだものだ。それが、七十年、山をいくつも越えて、別々の簞笥の、別々の荷物の底で、それぞれの持ち主を待っていた。そして、いま、同じ日向で、そろった。

トメさんは、右の手袋を、手にとった。サヨちゃんは、左を。二人は、あのころのように、片方ずつ、そっと、手にはめようとした。けれど、皺だらけの、大きくなった手には、子どもの手袋は、指の先しか入らなかった。

それでも、二人は、笑った。

指先だけ入れた、赤い手袋を、突きあわせて、二人は、声をあげて、笑った。笑いながら、泣いた。

日が、少し、高くなった。

軒の下の洗濯物が、すっかり乾いて、そよ風に、ゆらゆらと揺れている。日向のにおいが、いっそう、濃くなった。ミケは、あいかわらず、腹を出して眠っている。ラジオは、低く、鳴りつづけている。

トメさんは、二杯めの茶を淹れた。今度は、手が、震えなかった。

二人は、縁側に、並んで座った。七十年ぶりに、また、二人で、並んで。あのころ、田んぼの畦道に、並んで座ったように。

「サヨちゃん、あんた、ずっと、行商を?」

「ずっとじゃないよ。連れ合いを、早くに亡くしてね。子どもを、女手ひとつで、育てるのに。始めたんだよ、これを。もう、四十年になるかねえ。子どもは、みんな、独り立ちして、いまさら、やめてもいいんだけど。歩くのが、癖になってしまってねえ。じっとしとると、かえって、体が、なまるの」

「まあ。苦労、したんだねえ」

「あんたは?」

「あたしは、この家に、嫁に来て。連れ合いは、去年の春に、逝ってしまって。いまは、ミケと、二人ぐらし。子どもはねえ、遠くに、いるにはいるんだけど。なかなか、帰ってこられなくて」

「そうかい。そうかい」

サヨちゃんは、うなずいた。よけいなことは、言わなかった。ただ、うなずいた。うなずいて、トメさんの手の甲に、そっと、自分の手を、重ねた。あたたかかった。

「苦労は、したろうねえ、おたがい」と、サヨちゃんが、ぽつりと言った。「けど、こうして、生きてる。生きて、また、会えた。それだけで、なんだか、報われたような気がするよ」

「ほんとにねえ」

二人は、しばらく、黙って、茶を、すすった。話すことは、山ほどあるのに、こうして、黙っていても、少しも、気づまりでは、なかった。むしろ、この、黙っている時間が、なんとも、心地よかった。七十年も、離れていたのに、まるで、昨日も、一昨日も、いっしょにいたように。そばに、いるのが、あたりまえのように。人の縁というのは、不思議なものだ。切れたようでいて、切れていない。糸が、細く、細く、どこかで、つながっている。

サヨちゃんが、荷物の中から、ふと、小さなものを取り出して、縁側に置いた。藍色の、マッチ箱だった。三日月の模様が、刻んである。

「これ、道中で、ある店で、もらってね」と、サヨちゃんは言った。「妙な店だったよ。夜、道に迷ってねえ。路地の奥に、明かりが灯っとって。古い、本屋だった。月光書房、とか、そんな名の。棚に、古い本が、ぎっしり。あたしみたいな者にゃ、縁のない、上等な店さ。けど、そこの主人が、親切な人でねえ。道を教えてくれて、このマッチを、一箱、くれたの。火に、困らんように、って。月光堂の、青いマッチ、とか、言うとった」

「まあ、しゃれた」

「翌る朝、礼を言いに、行こうとしたら、その店が、もう、ないの。路地に、そんな店なんぞ、なかったように。狐に、つままれたようだったよ」

トメさんは、そのマッチ箱を、手にとって、しげしげと、眺めた。藍色の地に、細い三日月。マッチ箱ひとつに、こんなに、心を込めるとは。トメさんは、ふと、いい人がいる、と思った。世の中には、まだ、こんな、ささやかな心づかいをする人が、いる。それだけで、なんだか、うれしかった。

「いい火が、灯りそうだねえ」と、トメさんは言った。「大事に、お使いよ」

「うん。大事の大事の、いざというときにね」と、サヨちゃんは、笑った。

「昨日の晩ね」と、サヨちゃんが、空を見上げて、言った。「宿場の、木賃宿に泊まったんだけど。夜中に、便所に起きてね。外を見たら、星が、蒼いのが、ひとつ。長い尾を、引いて。ありゃ、彗星だねえ。何十年ぶりかの、と、宿の人が言うとった」

「ミラ彗星、っていうそうだよ」

「へえ。ミラ、って言うのかい。きれいな名だねえ」

「あたしも、今朝、明け方に、見たよ。厠に起きて。東の空に、蒼い、ちいさな点が、ぽつりと」

二人は、そろって、昼前の空を、見上げた。

白い、乳を溶かしたような空。もう、蒼い点は、見えない。光に溶けて、消えたように見える。けれど、二人には、わかっていた。そこに、あるのだ。溶けて見えないだけで、消えたわけではない。ずっと、そこにあって、長い長い旅をして、いつか、また、帰ってくる。

「あの星も、遠くから、帰ってきたんだねえ」と、トメさんは言った。

「そうだねえ。何十年も、旅をして」と、サヨちゃんが言った。

「あたしらみたいだ」と、トメさんは言った。

二人は、また、笑った。今度は、静かに。

昼前の、ゆるやかな時間が、縁側に満ちていた。

なにも、大きなことは、起こらなかった。ただ、洗濯物が乾いて、猫が眠って、ラジオが鳴って、七十年ぶりの人が、茶を飲んで、羊羹を食べた。ただ、それだけのことだった。

けれど、トメさんは、この昼前のことを、きっと、死ぬまで、忘れないだろうと思った。

日向のにおい。乾いた洗濯物の、ぱりっとした感触。二杯めの茶の、湯気。ミケの、ふくらんだ腹。ラジオから流れた、あの子守唄。そして、七十年ぶりにそろった、二つの赤い手袋。

サヨちゃんは、昼をだいぶ過ぎるまで、いた。二人は、話しても話しても、話すことが、尽きなかった。あのころの、田んぼのこと。学校のこと。先生のこと。いたずらのこと。互いの、その後の、長い長い、七十年のこと。

あの、こわい顔をした、担任の先生。名を、なんといったか。二人で、うんうん、と、うなって、思い出そうとしたが、どうしても、出てこなかった。あんなに、こわかったのに。あんなに、叱られたのに。名前だけが、七十年のあいだに、どこかへ、こぼれ落ちてしまった。「山田先生じゃ、なかったかい」「いや、田中先生だよ」「ちがう、ちがう」と、言いあって、けっきょく、思い出せずに、二人で、笑った。忘れてしまったことすら、こうして、二人でいると、おかしかった。

サヨちゃんの、弟の話も、出た。あの、子守唄で、あやされていた、赤ん坊の弟。あの子は、大きくなって、船乗りになったのだと、サヨちゃんは言った。世界じゅうの、海を、まわったのだと。「星が、海をわたるまで、なんて歌で、育ったからかねえ」と、サヨちゃんは言った。ほんとうに、海を、わたる人に、なった。けれど、その弟も、もう、十年も前に、逝ったのだと。海の男らしく、あっけなく。トメさんは、あの、囲炉裏のそばで、眠っていた、赤い顔の赤ん坊を思い出して、しんみりした。あの子も、もう、この世に、いない。みんな、みんな、先に、行ってしまう。

「あたしらも、そろそろだねえ」と、サヨちゃんが、ぽつりと言った。おどけた口ぶりだったが、目は、笑っていなかった。

「なにを、言うの」と、トメさんは、たしなめた。「まだまだ。ミラ彗星が、次に来るまでは、生きてなくちゃ」

「次って、あんた。何十年、先だい」

「何十年でも」

二人は、また、笑った。何十年でも。もう、そんな先まで、生きられるはずも、ないのに。それでも、そう言うと、なんだか、まだまだ、先が、あるような気がした。星が、また、帰ってくるまで。それまでは、死ねない、というような。

「そろそろ、行かなくちゃ」

サヨちゃんが、腰を上げたのは、日がすっかり真上を過ぎて、影が、東へ傾きはじめたころだった。

「まだ、隣町まで、行かなくちゃ。日の暮れる前に」

「まあ、もう。もっと、ゆっくりしていけばいいのに」

「そうもいかないよ。商いだからね。でも、また、来るよ。この道は、月に一度は、通るから。次は、いつだったかねえ。……そうだ、ミラ彗星が、また見えるころに」

サヨちゃんは、風呂敷包みを、また、背に負った。ずしりと、重そうだった。けれど、来たときより、少し、軽そうにも見えた。

トメさんは、あの、赤い手袋を、サヨちゃんの手に、握らせようとした。二つ、そろえて。

「これ、あんた、持っていって。二つ、そろえて」

けれど、サヨちゃんは、首を、横に振った。

「いいや。一つずつ、でいいよ。あんたが右、あたしが左。それが、いいの。それが、あたしらの、決まりだったろ。片方ずつ、持っとくの。そしたら、また、会える。そろえるために、また、会えるからね」

トメさんは、はっとした。そうだ。片方ずつ。そろえるために、また、会う。それが、二人の、七十年前からの、約束だったのだ。

トメさんは、赤い右の手袋を、また、簞笥のいちばん下の引き出しに、そっと、しまった。樟脳のにおいの中に。けれど、こんどは、もう、開かずの引き出しではなくなった。また、開ける日が、来るのだから。

サヨちゃんは、庭木戸のところで、ふりむいた。あのころのように。駅のホームで、汽車に乗るとき、ふりむいたように。

そして、右の頬に、深い、深いえくぼを作って、笑った。何か、言った。こんどは、汽車の音も、しなかったから、はっきりと、聞こえた。

「トメちゃん。また、ね」

「うん。また、ね。サヨちゃん」

サヨちゃんの姿が、生垣の向こうに、消えた。売り声が、遠く、聞こえた。「反物、小間物、いかがですかァ」。あの、かすれて、けれど、よく通る声。だんだん、遠く、遠く、なっていった。

縁側に、ひとり、残された。

けれど、しんとは、していなかった。ラジオが、鳴っている。ミケが、寝返りを打った。洗濯物が、風に、揺れている。日向のにおいが、まだ、濃く、残っている。

トメさんは、乾いた洗濯物を、一枚ずつ、取り込みはじめた。ぱりっと乾いた手拭いを、顔に、あてた。日向のにおいがした。あたたかかった。取り込みながら、皺を伸ばして、丁寧に、畳んだ。母が教えてくれたとおりに。ちゃんと伸ばして干せば、こうして、畳むときに、楽なのだ。今朝、干すときには、一人分の、たったこれだけの洗濯物が、なんだか、寂しかった。けれど、いまは、そうでも、なかった。この一枚一枚に、昼前の陽が、たっぷりと、しみこんでいる。サヨちゃんと過ごした、この時間の、匂いまで、しみこんでいるようだった。

竿の端に、清一さんの、いや、自分の割烹着が、風に、ふくらんでいる。トメさんは、それを、両手で、そっと、抱きとった。

昼前の空を、もう一度、見上げた。白い、白い空。もう、彗星は、見えない。けれど、そこに、ある。溶けて見えないだけで、消えたわけではない。ずっと、そこにあって、いつか、また、帰ってくる。

トメさんは、小さな声で、口ずさんだ。あの、子守唄を。

「眠れ、眠れ……星が、海をわたるまで」

洗濯物を、胸に抱いたまま、トメさんは、しばらく、そうして、白い空を、見上げていた。膝は、あいかわらず、少し痛かった。けれど、その痛みさえ、なんだか、いとおしいような、昼前だった。

この物語にひそむ符牒

ほかの物語と、ひそかに分かち合っているもの:

  • ミラ彗星
  • 月光堂のマッチ
  • 子守唄
  • 月光書房
  • 片方の手袋

十二をつなぐ符牒について →

← 『市井の物語』目次へ