月光書房
巳の刻 ・ 昼前 ・ 第 九 話

湯気の相棒

更科 灯里
市井・青春 ・ 約25頁

一

湯気は、朝いちばんの生きものだった。

寸胴のふたを持ちあげると、白い湯気が音もなく立ちのぼって、天井の煤けた梁に吸いこまれていく。信一はその湯気に顔をなでられるのが好きだった。まだ暗いうちに起きて、水を張り、火を入れ、鰹と昆布と、それから鯖と鯵の節を惜しみなく落として、待つ。ただ待つ。湯が煮え立つ寸前で火を落とし、節が鍋の底へゆっくり沈んでいくのを、じっと見ている。その時間だけは、この店のなかで信一の呼吸がいちばん深くなる時間だった。

「信、灰汁」

親方の声が背中に飛んでくる。信一は柄杓を持ちなおして、鍋のふちに寄ってくる茶色い泡を、そっと、そっとすくった。乱暴にやれば出汁が濁る。親方はそう言った。出汁ってのは、女の機嫌とおんなじだ、追いかけちゃいけねえ、待つんだ、と。信一には女の機嫌のことはまだよくわからなかったが、出汁のことなら少しはわかってきた気がしていた。この一年で。

「更科屋」という名の、蕎麦屋である。信一の生まれるずっと前から、この路地の角にあった。祖父の代からの客がまだ通ってくると親方は言う。看板の文字はもう半分かすれて、遠目には「更利屋」と読めなくもない。暖簾は紺で、真ん中に白く「そば」と染め抜いてある。その暖簾を、朝の九時前に、親方のかみさんが竿にかけるのが、この店の一日の始まりだった。

店の造りは、古い。土間があって、床几が二つ。奥に小上がりが一つ。壁には短冊の品書きが貼ってあって、その墨の色が、上のほうから順に、だんだん薄くなっている。いちばん上の「もり 三百五十円」の短冊は、もう茶色く変色していて、値のところだけ、あとから紙を貼って直してある。かみさんの字だった。親方は値を上げるのを、いつも嫌がった。「上げたくねえなあ」と言いながら、それでも粉や油が上がれば、しぶしぶ上げる。その、しぶしぶ上げた値の短冊が、壁に順に並んでいる。それはこの店の、暦のようなものだった。

厨房は狭い。茹で釜が一つ、出汁の寸胴が一つ、それに揚げ場。信一はこの狭い厨房のなかを、体を斜めにして通り抜けるのに、はじめの半年は苦労した。親方の背中と、熱い釜のあいだを、汁の入った丼を持って、すり抜ける。一度、油の跳ねで手の甲を火傷したこともあった。かみさんが味噌を塗ってくれた。今では、目をつぶってでも通れる。狭さも、熱さも、体が覚えた。

信一が住みこみで入ったのは、去年の春だった。中学を出て、高校へは行かず、いくつかの仕事を転々として、そのどれもが半年ともたなかった。工場のライン、宅配の下請け、コンビニの夜勤。どれも悪い仕事ではなかったのだろうが、信一はそのどれにも、自分の手ざわりというものを感じられなかった。ただ流れていく時間があって、そのなかに自分が浮かんでいるだけのような気がした。

更科屋の求人は、路地の電柱に貼られた手書きの紙だった。「出前 若い衆 求む 住込可 まかない有」。それだけだった。時給も休みも書いていなかった。信一はその紙の前で、しばらく立っていた。夕暮れで、店の窓から出汁の匂いが流れてきていた。その匂いを嗅いだとき、腹が鳴った。ただそれだけのことで、信一は暖簾をくぐった。

親方は、六十を少し過ぎたくらいの、痩せた男だった。手だけがやたらと大きくて、その手で蕎麦を打つと、粉が生きもののように動いた。信一が「働かせてください」と言うと、親方は信一の顔ではなく、手を見た。それから「飯は食ったか」と聞いた。信一が首を横に振ると、親方はかみさんに「かけ、一丁」と言った。

そのとき、信一は履歴書も持っていなかった。名も、まだ名乗っていなかった。親方は、信一がどこの生まれで、何をしてきたか、そんなことは一つも聞かなかった。ただ、腹が減っているかどうか、それだけを聞いた。あとになって、信一はそのことを何度も思い返した。親方は、人を、来歴で見なかった。今、その人が、どんな顔をして立っているか、それだけを見た。捨て犬でも、拾ったからには飯を食わせる。そういう男だった。

その、かけそばを、信一は今でも覚えている。特別なものではなかった。ただのかけそばだった。だが、出汁がのどを通ったとき、信一のなかで何かがほどけた。腹の底の、ずっと固く結ばれていた紐のようなものが、ふっと、ゆるんだ。信一は蕎麦を食べながら、なぜだか泣きそうになった。泣かなかったが。

「明日から来い」

親方はそう言って、奥へ引っこんだ。それが一年前のことだった。

二

出前の日は、朝の仕込みが済むと、岡持ちの手入れをする。

信一の岡持ちは、店でいちばん古いものだった。新しいのもあるのだが、信一はこの古いのを選んで使っていた。黒く漆の塗られた木の箱で、角がすっかり丸くなって、あちこちに傷がある。持ち手のところは、何十年も握られてきたせいで、木肌が艶を帯びていた。信一はその持ち手を握るのが好きだった。自分より前に、いくつもの手がここを握ってきたのだと思うと、なんだか心強かった。

その岡持ちのふたの内側に、一枚のマッチ箱が貼りつけてあった。

正しくは、貼りつけてあったマッチ箱の、燃え殻だった。青い紙の箱で、もう半分はすすけて黒くなっている。表には金の細い字で「月光堂」と読める。裏には小さく、月と星のような模様。信一がこの店に来たとき、すでにそれは貼ってあった。誰が貼ったのかは知らない。親方に聞いても「さあな」と言うだけだった。

「前に、出前に出てた奴が貼ったんじゃねえか」

「その人、今どこにいるんですか」

「知らねえよ。いろんな奴がいたからな」

親方はそれ以上は言わなかった。信一もそれ以上は聞かなかった。ただ、そのすすけた青いマッチ箱を、信一は剥がさずに残しておいた。剥がす理由もなかったし、なんとなく、剥がしてはいけないような気がした。誰かがここに貼った。その誰かが、この岡持ちを持って、この路地を、この町を、自転車で走った。そのことの証のように、信一には思えた。

月光堂という店を、信一は知らなかった。マッチ箱に住所は書いていない。ただ「月光堂」という三文字と、月と星の模様だけ。マッチ棒はもう一本も入っていない。全部使ったのだろう。誰かが。いつか。

信一は岡持ちの内側を、乾いた布巾でていねいに拭いた。マッチ箱のところは、そっと、指の腹でなでるようにした。そうしてから、ふたを閉めた。

一度だけ、信一はその月光堂という名を、この町の年寄りに聞いてみたことがあった。乾物屋の隠居に。すると隠居は、少し遠い目をして、こう言った。

「月光堂かい。ああ、あったなあ。いや、あったっていうか……」

隠居は言い淀んだ。

「夜な、夜だけ、たまに出るんだよ。古本屋がな。どこにあるかって聞かれると、困る。日によって、場所が違うんだ。ゆうべは薬屋の隣にあった、なんて言うと、次の日にはもうねえ。朝になると、消えてる。うちのばあさんは、月光書房、なんて呼んでたけどな。若い衆にこんなこと言っても、笑うだろ」

信一は笑わなかった。ただ、青いマッチ箱のことを思った。夜だけ出て、朝には消える古本屋。その店で、誰かが、このマッチを買ったのだろうか。そうして、火を灯し、それから、この岡持ちに、燃え殻を貼ったのだろうか。信一には、それが本当のことなのか、隠居の作り話なのか、わからなかった。だが、わからないままにしておくのが、いちばんいいような気がした。この町には、そういうものが、ときどきあった。わからないまま、大事にしておくべきものが。

三

「信、上原さんとこ、たぬき二丁。それとな、角の文房具屋、ざる一枚。急ぎだとよ」

昼前の、十時を少し回ったころ。最初の注文が入った。

信一は岡持ちに丼をおさめる。たぬきの丼には、揚げ玉がたっぷり、青ねぎ、それに親方の出汁。汁がこぼれないよう、丼のふちまで八分目。ふたをして、木の栓で留める。この栓のさじ加減が難しい。強く留めすぎると走っている間に緩まないが、開けるとき指を痛める。弱いと、坂道でこぼれる。信一はこの一年で、その加減を体で覚えた。

自転車は、店の裏に停めてある。これも古いものだった。黒い実用車で、荷台に岡持ちを載せる金具がついている。ペダルは重く、ブレーキは鳴く。だが信一はこの自転車が気に入っていた。町のどんな路地にも入っていける。段差も、砂利道も、狭い階段の脇の坂も。

岡持ちを荷台に固定して、信一は路地へ出た。

昼前の町は、朝の慌ただしさが去って、ゆるやかに動いていた。八百屋の前で、おばさんが二人、大根を手に立ち話をしている。「奥さん、これ、今日安いのよ」「あら、ほんと」。魚屋の親父が水をまいて、路地が黒く濡れている。乾物屋の店先には、干し椎茸と昆布の匂い。花屋の前を通ると、菊の、少し湿った匂いがした。

この時間の町を、信一は好きだった。朝のいちばん忙しい時間、勤め人たちが駅へ急ぐ時間は、町がざわざわと尖っている。それが、九時を回り、十時に近づくと、ふっと角がとれる。急ぐ者はもう急いでしまって、あとに残るのは、この町にずっと居る人たちだった。年寄りと、商いの人と、赤ん坊を抱いた母親と。その人たちが、ゆっくりと動いている。信一の自転車は、その、ゆっくりとした流れの、いちばん速い点だった。だが、速すぎてはいけない。汁がこぼれる。信一は、町の流れに、自分の速さをそっと合わせて走る。速すぎず、遅すぎず。それが、いい出前の走り方だと、信一は思っていた。

パン屋の前で、白い前掛けをした主人が、焼きあがったばかりのパンを、木の棚に並べていた。喫茶店のママが、店の前の鉢植えに水をやっていた。理髪店の回る看板が、青と赤と白で、くるくると回っていた。どれも、毎日、同じだった。同じ町の、同じ朝。だが、その同じさが、信一にはありがたかった。転々としてきた信一には、同じ場所に、同じ人が、毎日いる、ということが、こんなにも心を落ち着かせるものだとは、思っていなかった。

信一はペダルを踏む。岡持ちのなかで、丼が小さく鳴る。汁が揺れないように、なるべく平らに、なめらかに。段差の手前ではペダルをゆるめて、腰を浮かせる。この、腰を浮かせる呼吸を、信一は誰にも教わっていない。走っているうちに、自然と身についた。

上原さんの家は、路地を二つ曲がった先の、古い二階家だった。信一が着くと、玄関の引き戸がもう開いていた。

「あら、更科屋さん。早いのね」

上原のおばあさんが顔を出す。この人はいつも待っていてくれた。信一が来る時間を、ちゃんと見はからって。

「たぬき二丁、お待たせしました」

「ちょうどね、孫が来てるのよ。あの子、更科屋さんのたぬきが好きでねえ」

信一は岡持ちから丼を出す。木の栓を抜き、ふたを取ると、湯気が立った。おばあさんはその湯気を見て、目を細めた。

「いい匂い。親方さん、お元気?」

「はい、相変わらず小言ばっかりです」

おばあさんは笑った。少し欠けた前歯が見えた。

「あの人はね、若いころからそうよ。うちの人と同い年でね。喧嘩ばっかりしてたわ。もう、うちの人はいないけど」

信一は空の丼を、明日また取りに来ることにして、代金を受けとった。たぬき二丁で、千四百円。おばあさんは財布から、しわの寄った千円札と、小銭をていねいに数えて出した。その手が、少し震えていた。信一はその手から、そっとお金を受けとった。

「ありがとうございました」

「気をつけてね。坂道、多いから」

信一は自転車にまたがる。おばあさんは、信一が路地の角を曲がるまで、玄関に立って見送っていた。信一は角で一度振り返って、頭を下げた。おばあさんが手を振った。片手だけ、小さく。

その手には、片方だけ、毛糸の手袋がはめてあった。もう初夏だというのに。灰色の、古い手袋だった。信一は前から、それが気になっていた。片方だけの手袋。もう片方は、どこへ行ったのだろう。あるいは、もともと片方しかなかったのだろうか。信一は聞かなかった。人には、聞かないほうがいいこともある。この一年で、信一はそれを覚えた。片方だけの手袋には、片方だけの手袋の、理由があるのだろう。それは、その人だけのものだった。信一が、踏みこんでいい場所ではなかった。

坂を下りながら、信一はしかし、少しだけ、その手袋のことを考えた。おばあさんの、亡くなった連れ合いのものだろうか。それとも、遠くにいる、誰かのものだろうか。わからなかった。ただ、あの片方の手袋が、あの手を、あたためているのなら、それでいいのだと信一は思った。夏でも。理由がなんであれ。

四

角の文房具屋のざるは、もう待たせていた。信一は少し急いだ。

文房具屋は、若い店主が一人でやっている。信一と同じくらいの年だろうか。いつも忙しそうで、ざるを出前で頼むのは、昼飯を作る暇もないからだった。

「ごめん、待たせて」

信一が店に飛びこむと、店主は帳簿から顔を上げた。

「いや、こっちこそ急がせて悪い。棚卸しでさ、飯どころじゃなくて」

信一はざるを渡す。冷たい蕎麦を、竹のざるに盛って、上に刻み海苔。つゆは別の器に。わさびと、ねぎと。店主はそれを、帳簿を広げたカウンターの端で、立ったまま食べはじめた。

「うまい。やっぱ更科屋のは違うわ」

「親方に言っときます」

「あのさ」

店主は蕎麦をすすりながら、ちょっと言いにくそうに言った。

「兄ちゃん、蕎麦屋、長いの?」

「一年です。まだ見習いで」

「そっか。いや、なんか、いつも楽しそうにしてるからさ。出前に来るとき。羨ましいなって思って」

信一は、少し驚いた。楽しそうに見えていたのか。自分では、そんなつもりはなかった。ただ、毎日走っていただけだ。丼を運んで、また戻って。

「俺なんかさ、親父の店継いだはいいけど、これでいいのかなって、毎日思うよ。文房具なんて、今どき売れねえしさ」

店主はざるの蕎麦を、あらかた食べ終えて、つゆの残りを飲んだ。

「でも兄ちゃん見てると、ちゃんと自分の仕事してるって感じがすんだよな。なんつうか、地に足ついてるっていうか」

信一は返す言葉が見つからなかった。地に足がついている、なんて、思ったこともなかった。ただ、この一年、丼を落とさないように、汁をこぼさないように、必死だっただけだ。だが、その必死さが、外からはそんなふうに見えていたのかもしれない。

「また頼むわ」

「はい。ありがとうございました」

信一は空になったざるを岡持ちに戻し、店を出た。外の光がまぶしかった。文房具屋の店先には、色あせたノートや、鉛筆や、古い便箋が並んでいた。誰が買うのだろう、と信一は思った。それでも、この店は毎日開いている。あの店主が、毎朝シャッターを上げて。

信一は自転車のペダルを踏んだ。少し、胸が温かかった。

店へ戻る途中、小さな公園の脇を通った。砂場のそばで、まだ幼稚園にも上がらないような男の子が、一人でしゃがんでいた。母親らしい人が、少し離れたベンチで、赤ん坊をあやしている。

男の子は、地面に何かを描いていた。小さな枝で、土に、線を引いている。信一は自転車の速さをゆるめた。汁のせいではなく、ただ、その子が何を描いているのか、気になったのだった。

近づいてみると、それは、星のようだった。丸を描いて、そこから、ぴゅっと、尾を引いている。

「それ、なあに」

信一は、思わず声をかけた。男の子は顔を上げて、信一を見た。人見知りをしない子らしかった。

「ほうきぼし」

「ほうきぼし?」

「けさ、みたの。おそらに。あおいの」

信一は、はっとした。彗星のことだった。この子も、見たのだ。明け方の、あの蒼い一点を。

「そうか。おじさんも見たよ」

「ほんと?」

「ほんとだ。青くて、小さくて、遠くにあった」

男の子は、うれしそうに笑った。それから、また、土に星を描きはじめた。今度は、尾をもっと長く引いた。ぴゅうっと、公園の端まで届きそうなくらい、長く。

信一は、その絵を、しばらく見ていた。子どもの引いた、土の上の彗星。それは、明日の雨で消えてしまうだろう。あるいは、今日の午後、誰かが踏んで消してしまうかもしれない。だが、この子は、たしかに、けさ、あの星を見たのだ。そして、それを、描かずにはいられなかったのだ。

「おじさん、おしごと?」

「そう。おそば屋さんだよ」

「おそば、すき」

「そうか。今度、食べにおいで」

信一は、また自転車にまたがった。男の子は、片手を上げて、信一を見送った。土の上には、長い尾を引いた蒼い星が、残っていた。

信一は思った。あの星は、この町のみんなの上を、通り過ぎていく。年寄りの上も、子どもの上も。八百屋のおばさんの上も、文房具屋の店主の上も。誰もが、それぞれの朝に、あの一点を見上げた。そうして、それぞれの一日を、生きていくのだ。信一も、その一人だった。ほうきぼしを見た、大勢のなかの、一人。

五

店に戻ると、親方が蕎麦を打っていた。

木鉢のなかで、粉に水を回している。親方の大きな手が、粉のなかで踊る。信一はいつも、この光景を見るのが好きだった。乾いた粉が、少しずつまとまって、生きた塊になっていく。親方の手つきには、迷いというものがなかった。

「戻りました」

「おう。上原のばあさん、元気だったか」

「はい。お孫さんが来てるって」

「そうか」

親方は手を止めなかった。粉はもう、しっとりとまとまりはじめていた。

「信、水回しは、な、水が主役じゃねえ。粉が主役だ。水はな、粉に、目を覚まさせてやるだけだ。あんまり構いすぎると、粉が眠っちまう」

信一はうなずいた。親方はときどき、こうして手を動かしながら、ぽつりぽつりと話す。それは教えというより、独り言に近かった。だが信一は、その独り言を、一つも聞きもらすまいと思っていた。

「おまえ、来たときはひでえ顔してたな」

親方が、ふいに言った。

「え」

「腹減らして、目えだけぎらぎらさせて。捨て犬みてえだった」

信一は苦笑した。そうだったのかもしれない。あのころの自分の顔を、信一はよく覚えていなかった。

「今はな、少しはましな顔してる。飯食ってる顔だ」

親方はそう言って、こねた蕎麦の玉を、まな板の上にどすんと置いた。それから、麺棒を取った。玉を伸ばしはじめる。丸かった生地が、少しずつ、四角く、薄く、広がっていく。

信一は、その手を見ていた。丸い玉が、四角くなっていく。ふしぎだった。親方は、力を入れているようには見えない。ただ、麺棒を転がしているだけだ。だが、生地は、親方の思うとおりの形になっていく。

「角を出すのがな、難しいんだ」と親方は言った。「丸いもんを、四角くする。世の中で、いちばん難しいことかもしれねえな」

信一には、その言葉の意味が、半分しかわからなかった。だが、残りの半分も、いつか、わかる気がした。麺棒を握る自分の手が、いつか、角を出せるようになったとき。

「蕎麦ってのはな」

親方は麺棒を転がしながら言った。

「たった一杯だ。腹の足しには、たいしてならねえ。それでも、人は食いに来る。なんでだと思う」

信一は考えた。わからなかった。

「わかりません」

「俺もわからねえ」

親方は笑った。信一も笑った。

「わからねえけどな、五十年、打ってきた。わからねえまま、打ってきた。それでいいんだと思うよ、俺は」

生地は、もう紙のように薄くなっていた。親方はそれを几帳面にたたんで、包丁を入れはじめた。とん、とん、とん、と、一定のリズムで。細い蕎麦が、まな板の上に生まれていく。信一はその音を、体の奥で聞いていた。

包丁は、駒板を左手で少しずつ送りながら、まっすぐに下ろす。切る幅は、いつも同じ。親方の切った蕎麦は、一本残らず、同じ太さだった。信一も、切らせてもらったことがある。だが、信一の切った蕎麦は、太いのと細いのが、まちまちだった。太いのは茹でるのに時間がかかり、細いのは先にのびる。「まだまだだな」と親方は言った。だが、笑っていた。「五十年やってもな、たまに太いのが混じる。それが蕎麦だ」

とん、とん、とん。信一は、その音を聞きながら、いつか自分もこの音を出せるようになるのだろうか、と思った。同じ太さの、まっすぐな蕎麦。同じリズムの、迷いのない包丁。まだ、遠かった。だが、遠いということが、信一にはかえってうれしかった。それだけ、先があるということだった。歩いていく道が、まだ、ずっと、先まで続いているということだった。

六

昼前の、いちばん静かな時間だった。

十時半を過ぎると、注文が一度、途切れる。昼の忙しさの前の、束の間の凪だった。信一は店の裏で、自転車のチェーンに油を差していた。ブレーキの鳴きも、少し直したい。

この凪の時間が、信一はまた、好きだった。朝の仕込みは済み、昼の波は、まだ来ない。店のなかでは、親方が蕎麦を打ち終えて、一服している。かみさんが、薬味のねぎを刻んでいる。とん、とん、という、まな板の音。それと、遠くの、町のざわめき。どこかで、赤ん坊が泣いている。どこかで、ラジオが鳴っている。それらの音が、混ざり合って、この時間の、静かな地鳴りのようなものを作っていた。

信一は、その音のなかで、自転車の手入れをする。油の匂いと、金属の匂い。指が黒く汚れる。だが、この作業が、信一を落ち着かせた。自転車は、信一の相棒だった。この一台で、信一は町を巡る。だから、手入れは、欠かさない。チェーンに油を差し、タイヤの空気を見て、ブレーキを直す。相棒の調子を整えるのは、信一の、大事な仕事だった。

裏の路地は、猫の通り道だった。今日も一匹、茶虎の猫が、塀の上を歩いていた。信一が油を差していると、その猫が、塀の上からじっと信一を見おろしていた。

「よお」

信一が声をかけると、猫は少し首をかしげた。それから、興味をなくしたように、また歩きだした。

信一は空を見上げた。

昼前の空は、淡い青だった。雲がほとんどなく、光がやわらかい。信一は目を細めて、空のいちばん高いところを見た。

明け方に、彗星を見たのだった。今日の、まだ暗いうち。仕込みの水を汲みに、裏の井戸へ出たとき。東の空の低いところに、蒼い、小さな一点が見えた。ずっと前から新聞で騒いでいた、ミラ彗星というやつだろう。何十年に一度、この空にやってくるのだという。信一はそれを、しばらく見ていた。井戸のつるべを握ったまま。蒼い点は、瞬きもせず、ただそこにあった。遠く、静かに。

その星を見ていると、信一はふしぎな気持ちになった。あの星は、何十年もかけて、暗い宇宙を旅してきて、今、この町の上にいる。そして、また、何十年もかけて、どこか遠くへ去っていく。次にこの町に来るのは、信一が、親方くらいの年になったころだろうか。あるいは、もう、いないかもしれない。だが、そのとき、この店の暖簾を、誰かがかけるのだろう。そして、誰かが、また、明け方の井戸端で、あの蒼い星を見上げるのだろう。信一が、今、こうして見上げているように。

新聞には、ミラ彗星という名の由来が書いてあった。ミラとは、「ふしぎなもの」という意味の、古い言葉なのだという。ふしぎなもの。信一は、その名がいいと思った。空に、ふしぎなものが一つ、あってもいい。わからないものが、一つくらい、あってもいい。世の中は、わからないことで、できているのだから。

その名残が、今、この昼前の空にも、あるのだろうか。信一は目を凝らした。淡い青のなかに、ほんの一瞬、蒼い点が見えたような気がした。だが、瞬きをすると、それはもう見えなくなった。彗星なのか、目の錯覚なのか、信一にはわからなかった。

わからないまま、信一は空を見ていた。

親方の言葉を思い出した。わからねえまま、打ってきた。それでいいんだと思うよ、俺は。

信一は、なんだか、その言葉が今日はやけに胸に残った。

「信! 何ぼんやりしてやがる。注文だ!」

親方の声が、店の中から飛んできた。信一はあわてて立ちあがった。手の油を、そばにあった布でざっと拭いて、店へ駆けこんだ。

七

「駅裏の、木村さんとこ。天ぷらそば一丁だ。それとな」

親方は珍しく、少し声を落とした。

「これも一緒に、持ってってやれ」

親方が差し出したのは、小さな折り詰めだった。蕎麦がきと、それに、蕎麦団子。甘い、あんこの団子だった。

「木村さんの、婆さんな。今週、退院してきたんだと。長いこと、うちのそば食いに来てくれてた人でな。婆さん、蕎麦がきが好物なんだ。だから、これは店からだ。金はいらねえ」

信一はうなずいて、折り詰めを、天ぷらそばの丼とは別に、そっと岡持ちに入れた。潰れないように。

駅裏までは、少し距離があった。信一はペダルを踏んだ。商店街を抜け、踏切を渡り、駅の裏手の、住宅街へ。この道は、あまり出前で来ない。だから信一は、少し道に迷いそうになった。木村さんの家は、小さな平屋で、庭に、大きな柿の木があった。柿の実は、まだ青く、小さかった。秋になれば、たわわに実るのだろう。信一は、その青い実を見上げた。

自転車を停めて、岡持ちを外す。この家の前は、少し坂になっていて、自転車のスタンドが、うまく立たない。信一は塀に自転車を立てかけた。それから、天ぷらそばの丼と、折り詰めを、そっと取り出した。折り詰めは、潰れていなかった。信一はほっとした。

戸を叩くと、木村さんが出てきた。天ぷらそばを頼んだのは、この人だった。婆さんの息子だろうか。五十くらいの男だった。

「更科屋です。天ぷらそば、お待たせしました」

「ああ、どうも」

信一は丼を渡した。それから、折り詰めを取り出した。

「あの、これ。親方から。おばあさまに、って。蕎麦がきと、団子です。退院、おめでとうございますって」

木村さんは、その折り詰めを、じっと見た。それから、信一の顔を見た。

「親方が……そうか。あいつ、覚えてたのか」

木村さんの目が、少し赤くなった。

「おふくろな、実は、先週亡くなったんだ。退院してすぐ。家に帰りたいって言うから、連れて帰って、それで、家で。眠るみたいに」

信一は、言葉を失った。折り詰めを持った手が、行き場をなくした。

「いや、いいんだ。あんたのせいじゃない。親方も知らねえんだから」

木村さんは、そっと、その折り詰めを受けとった。

「おふくろ、最期にな、蕎麦がきが食いたいって言ってたんだよ。更科屋の。でも、もう飲みこむ力もなくてな。食わせてやれなかった」

木村さんは、折り詰めを、胸に抱くようにした。

「これ、仏壇に供えさせてもらうよ。おふくろ、喜ぶ。ありがとう。親方に、ありがとうって、伝えてくれ」

木村さんは、庭の柿の木を見上げた。

「あの柿な、おふくろが、俺が生まれた年に植えたんだと。もう五十年だ。毎年、秋になると、おふくろが柿をもいで、近所に配ってた。更科屋にも、持ってったはずだよ。親方、覚えてるかな」

「聞いてみます」

「今年の柿は、俺がもぐことになるな」

木村さんは、少し笑った。それから、その笑いが、ゆっくりと、崩れた。木村さんは、手の甲で、目をこすった。

「悪いな。若い衆に、こんな話」

「いえ」

信一は、うまく声が出なかった。ただ、頭を深く下げた。

「あの、丼、明日、取りに来ます」

「ああ。天ぷらそばは、俺がおふくろの分まで食うよ」

木村さんは、少しだけ笑った。泣きそうな、笑いだった。

信一は自転車にまたがった。ペダルを踏む足が、少し重かった。だが、それは坂のせいではなかった。

八

店に戻る道々、信一はずっと、木村さんの顔を思い出していた。

親方は、知らなかったのだ。婆さんが亡くなったことを。ただ、退院してきたと聞いて、好物を持たせてやろうと思っただけだった。その、間に合わなかった折り詰めが、けれど、仏壇に供えられる。婆さんは、更科屋の蕎麦がきを、あの世で食べるのだろうか。信一にはわからなかった。

わからないことばかりだった。この町には。

信一は踏切で止まった。電車が通り過ぎるのを待つ。がたん、ごとん、と、車輪が鳴る。窓のなかに、いろんな人の顔が見えた。眠っている人、本を読んでいる人、外を見ている人。みんな、どこかへ行く途中だった。信一は、その顔を見送った。

踏切が開いて、信一はまた走りだした。

商店街に戻ると、パン屋の前で、いい匂いがした。焼きたての匂い。信一は少し腹が減っていることに気づいた。まかないは、昼の忙しさが終わってからだ。まだ先だった。

八百屋のおばさんが、信一に気づいて声をかけた。

「更科屋さん、精が出るねえ。これ、持ってきな」

おばさんが差し出したのは、みかんだった。二つ。

「傷モンだけどさ、味は変わんないよ。走ってると、喉、渇くだろ」

信一は礼を言って、みかんを受けとった。ポケットに入れると、少し重かった。

「親方によろしくね。あたしゃもう、四十年、あそこのそば食ってんだよ。娘の祝言のときも、更科屋に出前頼んだんだから」

「そうなんですか」

「あんた、いい店に入ったよ。大事にしな」

信一はうなずいた。みかんの重みが、ポケットのなかで、あたたかかった。

九

昼が来た。

十一時を回ると、店は急に忙しくなった。近所の職人衆や、勤め人が、次々と暖簾をくぐる。かみさんが注文をさばき、親方が蕎麦を茹で、信一は出前と、店の手伝いを、行ったり来たりする。

「もり二丁!」「かけ一丁、天ぬき!」「おかめ、急ぎ!」

声が飛びかう。湯気が立つ。丼が鳴る。信一は汗をかきながら、体を動かした。

顔なじみの客ばかりだった。腕に彫り物のある大工の棟梁は、いつも大盛りのもりに、天ぷらを別で頼む。近くの信用金庫の若い衆は、決まってかけそばを、五分でかきこんで、また戻っていく。年配の常連は、床几に腰かけて、燗酒を一本、板わさをつまみに、ゆっくりやる。それが、この店の昼だった。信一は、誰が何を頼むか、たいてい覚えていた。棟梁が暖簾をくぐると、かみさんはもう「もり大、天別ね」と言っている。

「兄ちゃん、精が出るな」

棟梁が、信一に声をかけた。

「今度、うちの現場にも出前頼むわ。屋根の上まで持ってこれるか」

「持ってきますよ」

信一が言うと、棟梁は豪快に笑った。

「言うねえ。頼もしくなったじゃねえか」

だが、その忙しさのなかでも、信一はさっきの木村さんのことを、忘れられなかった。

出前の合間、親方に、木村さんの言葉を伝えた。婆さんが亡くなっていたこと。折り詰めを、仏壇に供えると言っていたこと。ありがとう、と伝えてくれと言われたこと。

親方は、蕎麦を茹でる手を止めなかった。ただ、少しの間、黙っていた。それから、湯切りをしながら、ぽつりと言った。

「そうか。逝っちまったか」

それだけだった。親方はまた、蕎麦を茹でた。だが、信一は見ていた。親方が、湯気の向こうで、一度だけ、目を閉じたのを。ほんの一瞬。それから、また目を開けて、「はいよ、もり二丁お待ち」と、いつもの声で言った。

信一は、その親方の背中を見ていた。

大きな手。痩せた背中。五十年、蕎麦を打ってきた背中。何人もの客を見送ってきた背中。この町で、たった一杯の蕎麦を、打ちつづけてきた背中。

信一は思った。自分も、いつか、こんなふうになれるだろうか。わからないまま、それでも、打ちつづけられるだろうか。

わからなかった。だが、そのわからなさが、今日は、少しも怖くなかった。

十

午後の、遅い時間。昼の波が引いた。

信一は、まかないの蕎麦を食べていた。かみさんが茹でてくれた、かけそば。信一がこの店に来た日に食べたのと、同じものだった。

一年前と、同じ蕎麦。だが、味は、少し違って感じられた。いや、味は同じだった。変わったのは、信一のほうだった。

「うまいか」

親方が、茶を飲みながら聞いた。

「うまいです」

「そうか」

親方は、それ以上は言わなかった。信一も、それ以上は言わなかった。ただ、二人で、静かに座っていた。店の奥に、午後の光が差しこんでいた。埃が、その光のなかで、ゆっくりと舞っていた。

「親方」

信一は、思いきって、聞いてみた。

「木村さんとこの柿、もらってましたか。毎年、秋に」

親方は、湯呑みを持つ手を止めた。それから、少し遠い目をした。

「ああ。もらってたな。渋柿だったよ、あれは。婆さんが、干し柿にして持ってきてくれた。うまかったなあ。甘くてな」

親方は、湯呑みの茶を、ひとくち飲んだ。

「今年は、もう来ねえか」

それだけ言って、親方はまた黙った。信一も黙った。二人のあいだを、午後の光が、静かに流れていった。信一は、その光のなかの埃が、まるで、小さな星のように見えた。無数の、小さな、名もない星。舞っては消え、また舞う。この町の人たちのように。

しばらくして、親方が、ぽつりと言った。

「信。おまえ、いい出前になったな」

信一は、顔を上げた。親方は、信一のほうを見ていなかった。ただ、まっすぐ、店の奥の光を見ていた。

「丼をな、落とさねえだけじゃねえ。おまえは、汁の温度を、運んでる。あったかいものを、あったかいまま、届けてる。それが、出前だ。それが、いちばん難しいんだ」

信一は、何も言えなかった。ただ、胸の奥が、じん、と熱くなった。それは、あの日、初めてかけそばを食べたときの、あの、紐がほどけるような熱さに、少し似ていた。

信一は蕎麦を食べ終えて、丼を流しに運んだ。それから、明日の仕込みの支度を始めた。鰹節を削り、昆布を拭く。その手つきは、一年前とは、たしかに違っていた。

信一は、岡持ちを拭いた。今日も一日、町を巡った岡持ち。丼を運び、また持ち帰った岡持ち。ふたの内側の、青い、すすけたマッチ箱。月光堂の、燃え殻。

信一は、その燃え殻を、そっと指でなでた。青い紙は、指の腹に、少しざらついた。すすの匂いが、かすかにした。もう何年も前の、誰かが灯した火の、名残の匂い。

誰が貼ったのかは、わからない。月光堂が、どこにあるのかも、わからない。だが、信一には、なんとなくわかる気がした。この燃え殻を貼った誰かも、きっと、この岡持ちを持って、この町を走ったのだ。丼を運び、人に会い、みかんをもらい、坂を上り、空を見上げた。そうして、一日を終えたのだ。信一と、同じように。

信一は、明日も走るのだろう。あさっても。その次の日も。丼を落とさないように。汁をこぼさないように。そして、いつか、自分もこの燃え殻のように、この岡持ちに、何かを残すのだろうか。次に来る、誰かのために。

わからなかった。だが、それでよかった。

十一

夕暮れが近づいていた。

信一は店の裏で、自転車を拭いていた。今日も、よく走った自転車。チェーンに油を差し、ブレーキの鳴きも、少し直した。明日は、もっとなめらかに走るだろう。

信一は、ふと、空を見上げた。

夕暮れの、藍色になりはじめた空。まだ、星は見えない。だが、信一は、明け方に見た彗星のことを思った。あの、蒼い一点。遠く、静かに、この空を渡っていく星。何十年に一度、この町の上を通り過ぎる星。

信一が生まれる前にも、あの星は来たのだろう。この店を、祖父の代から、上から見おろしてきたのだろう。上原のおばあさんも、木村さんの婆さんも、八百屋のおばさんも、みんな、あの星の下で、生きて、死んで、また生きてきた。信一も、その一人だった。この、ありふれた町の、ありふれた一人。

だが、信一は思った。ありふれている、ということが、こんなにも、確かなことだとは。

一杯の蕎麦を運ぶ。ただ、それだけのこと。だが、その一杯を待っている人がいる。その一杯で、腹をあたためる人がいる。その一杯を、仏壇に供える人がいる。信一の運ぶ、たった一杯の蕎麦が、この町の、誰かの一日に、そっと、混ざっていく。

それは、大したことではないのかもしれない。だが、信一には、それが、この上なく、確かなことに思えた。

信一は、この一年で、たくさんの丼を運んだ。数えたことはないが、何百、いや、何千という丼を。そのひとつひとつに、誰かの一日があった。上原のおばあさんの、孫を待つ朝。文房具屋の店主の、棚卸しの昼。木村さんの婆さんの、供えられた蕎麦がき。そのすべてを、信一の岡持ちが、運んだ。信一の自転車が、この町を巡って。

そのなかには、うれしい日もあった。悲しい日もあった。今日のように、どちらでもある日もあった。だが、どんな日も、湯気は立った。出汁の匂いは、店を満たした。そして、朝が来れば、信一はまた、暖簾をくぐって、岡持ちを持って、町へ出た。

それが、信一の一日だった。ありふれた、けれど、たしかな、一日。

「信、しまいだ。暖簾、下ろせ」

親方の声がした。信一は「はい」と答えて、店の前へ回った。

紺の暖簾を、竿から外す。白く染め抜かれた「そば」の字を、たたむ。信一はその暖簾を、胸に抱くようにして、店の中へ運んだ。出汁の匂いが、まだ、店のなかに残っていた。朝からずっと、この店を満たしていた匂い。

明日も、この匂いのなかで、一日が始まるのだ。

湯気が立ち、親方の小言が飛び、信一は岡持ちを持って、町へ出る。丼を運び、人に会い、坂を上り、空を見上げる。ありふれた、けれど、かけがえのない一日が。

信一は、暖簾をたたみながら、そっと笑った。

出汁の匂いが、するのだった。今日も。明日も。ずっと。

その夜、信一は夢を見た。

明け方の、蒼い彗星の下を、自転車で走っている夢だった。岡持ちを載せて、坂を上り、路地を抜けて。丼のなかには、あたたかい蕎麦が入っていて、湯気が、ふたの隙間から、少しだけ、こぼれていた。信一は、その湯気を、追いかけていた。どこまでも。星のほうへ。

誰かが、子守唄を歌っていた。眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。遠い、やさしい声だった。かみさんの声のような、上原のおばあさんの声のような、あるいは、信一の知らない、誰かの声のような。

信一は、その歌を聞きながら、走りつづけた。蒼い星の下を。あたたかい蕎麦を運んで。

夢のなかで、信一は、一軒の店の前を通った。青い、小さな明かりの灯った店。看板には「月光書房」とあった。戸口に、誰かが立っていた。信一と同じ、若い衆のような姿。その人は、岡持ちを持っていた。信一のと、同じ、古い、黒い岡持ちを。その人は、信一に、片手を上げた。挨拶のように。信一も、片手を上げた。二人は、すれ違った。何も言わずに。だが、信一にはわかった。あの人が、あのマッチ箱を貼った人だ。ずっと前に、この町を、この岡持ちで走った人だ。そして、今、信一が走っている。いつか、また、次の誰かが走るのだろう。この、同じ町を。同じ星の下を。

すれ違いざま、その人が、口を動かした。声は聞こえなかった。だが、信一には、読めた。

「あったかいうちに、な」

信一は、うなずいた。

朝が来れば、また、湯気が立つのだった。あたたかいものを、あたたかいまま、届けるために。信一は、そのために、明日も、この町を走る。たった一杯の蕎麦を運んで。ありふれた、けれど、かけがえのない、この町を。

この物語にひそむ符牒

ほかの物語と、ひそかに分かち合っているもの:

  • ミラ彗星
  • 月光堂のマッチ
  • 子守唄
  • 月光書房
  • 片方の手袋

十二をつなぐ符牒について →

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