はざまの刻
昼前の待合室というものは、世界のどこかがゆっくり息を吐いているような場所だと、志乃はいつも思う。
朝いちばんの、痛みや不安を抱えて駆けこんでくる患者たちの波が引いて、けれど昼の混雑にはまだ間がある。その、ちょうど谷になる時刻。九時をいくらか過ぎて、十時に近づくころ。診療所の窓から差しこむ光は白くやわらかく、床に落ちた長方形が、掛け時計の秒針の速さとは無関係に、少しずつ形を変えていく。
内海医院は、駅から続く商店街を一本外れた路地にあった。木造をあとから鉄筋に建てなおしたので、外は四角い箱のようだが、待合室だけは昔のままの板張りが残っている。長椅子が二脚、向かいあわせに置かれ、そのあいだに低い机がひとつ。机の上には、いつのものともしれない雑誌が、角のすり切れたまま積まれていた。
志乃はこの医院の看護師だった。もう十一年になる。
受付の小窓から待合室を見わたすのが、彼女の一日の大半だった。カルテを整え、血圧計を拭き、注射器の減りを数え、そのあいまに、顔を上げて、待っている人たちを見る。誰が長く待っているか。誰が具合を悪くしていないか。誰が、ただ順番を待つよりも、少し話をしたがっているか。
そういうことは、体温計の目盛りには出てこない。けれど、待合室にはたしかにある。志乃はそれを読むのが、我ながら得意なほうだと思っていた。
消毒液の匂いが、いつものように、部屋の底に薄く沈んでいた。
いちばん奥の長椅子には、もう三十分ほど前から、常連の老人が座っていた。
田渕さん、といった。歳は八十を越えているはずだが、本人は「もう数えるのをやめた」と言って笑う。血圧の薬をもらいに、二週間に一度、決まってこの時刻にやってくる。診察はものの五分で済むのに、いつも一時間近く待合室にいる。志乃は知っていた。田渕さんは、診てもらいに来るというより、ここへ座りに来るのだ。
「志乃ちゃん、今日はえらい静かだねえ」
小窓の向こうから、田渕さんが声をかけてきた。〈ちゃん〉と呼ばれるには、志乃はもう若くない。けれど田渕さんにとっては、たぶんこの町の女はみな、いつまでも娘のままなのだろう。
「ええ。谷の時間ですから」
「谷?」
「朝の急ぎの人が引けて、お昼前の人がまだ来ない。ちょうど、はざまなんです」
「はざまか」田渕さんは、その言葉を口のなかで転がすように、もう一度繰り返した。「はざま。いい言葉だ。わしくらいの歳になるとね、一日じゅうが、はざまみたいなもんだよ」
志乃は笑った。田渕さんの言葉には、いつも、湿っぽくなる手前で止まる軽みがあった。ずっしり重いことを、ふわりと言う。長く生きた人だけが持つ、独特の身のこなしだった。
田渕さんは膝の上で、両手を組んだり、ほどいたりしていた。その手の甲には、老いの染みが地図のように広がって、指の関節は木の節のようにふくらんでいる。若いころは大工だったと、いつだったか聞いた。この商店街の店の、半分くらいは自分が建てた、と。もっとも、その半分はもう、シャッターを下ろしたきりだとも。
「昔はねえ」と田渕さんは、誰にともなく話しはじめた。「この路地も、もっと人がいたよ。魚屋があって、豆腐屋があって、角には駄菓子屋があった。朝のこの時間はね、みんな買い物のかごを提げて、そこらじゅうで立ち話をしてたもんだ。志乃ちゃんの、ここの先生の親父さんの代だな」
「先代ですね」
「そうそう。あの先生も、よう待たせる人でねえ。診察が長いんじゃない、話が長いんだ。患者と、天気の話やら、相撲の話やら、延々やってる。おかげで待合室はいつも満員でな。でも、誰も怒らんかった。あの待つ時間がまた、よかったんだ」
志乃は、先代の医師のことは、写真でしか知らない。受付の後ろの壁に、白衣を着て、少し困ったように笑っている白黒の写真が、今も掛かっている。その息子である今の院長は、父とは正反対に、診察がはやく、口数が少ない。それはそれで、忙しい患者にはありがたがられていた。
「今の先生も、いい先生だよ」と田渕さんは、志乃の胸の内を読んだように言い添えた。「はやいのがいい。わしみたいに暇な年寄りには、ちいと寂しいがね」
自動ドアが、かすかな音を立てて開いた。
入ってきたのは、若い男だった。
二十歳を出たか出ないか、というくらい。ひょろりと背が高く、けれど背中を丸めていて、その丸め方が、実際の身長よりも彼を小さく見せていた。紺色のパーカーのフードを、屋内だというのにまだ半分かぶったままで、その下から、寝癖の残る髪がのぞいていた。
男は、自動ドアをくぐったところで、一瞬、立ちどまった。待合室の全体を、素早く一度、見わたすような目つきだった。それから、受付の小窓の前まで来て、けれど声を出すのを、ためらった。
志乃は、こういう患者の顔を、たくさん見てきた。
初めて来る人。それも、来るまでにずいぶん迷った人。何日も、あるいは何週間も、行こうか行くまいか、指を宙で止めたまま考えて、それでもとうとう、来てしまった人。そういう人は、待合室の空気に、まず気圧される。
「こんにちは。診察は初めてですか」
志乃は、いつもより少しだけ、声をやわらかくした。
「あ……はい」
男の声は、思ったよりも低かった。けれど語尾が、水にひたした紙のように、力なくほどけた。
「保険証、お持ちですか」
「あ、えっと」
男は、ズボンのポケットを探り、パーカーのポケットを探り、それから肩に掛けた小さな鞄を、もどかしげに開けた。指先が、少し震えているのが、志乃には見えた。緊張のためか、あるいは別の何かのためか。
「すみません、どこに……あ、あった」
差し出された保険証を、志乃は受け取った。名前の欄に、細い字で「宗方良太」とあった。良太、という名を、志乃は心のなかで一度、なぞった。まだ学生かもしれない。あるいは、勤めはじめたばかりの、若い社会人か。
「良太さんですね。今日は、どうされましたか」
その問いに、良太は、また口ごもった。
「……よく、眠れなくて」
小さな声だった。田渕さんに聞こえないように、と気をつかったのだろう。志乃も、それに合わせて、声を落とした。
「眠れないのが、続いていますか」
「はい。もう、ひと月くらい……夜、目が冴えて。明け方になって、やっと少し眠れるんですけど、そのあと、起きられなくて」
「そうですか。おつらいですね」
志乃は、問診票を差し出した。良太は、それを受け取り、ペンを握ると、いちばん奥の田渕さんとは反対の、入口に近い長椅子の端に、身を縮めるようにして腰を下ろした。
書きはじめようとして、けれどペンは、なかなか動かなかった。
十時を少し回った。
自動ドアが、また開いた。
今度は、赤ん坊を抱いた母親だった。
年のころは、三十ぜんご。淡い色のワンピースの上に、カーディガンをはおって、その胸に、生まれてまだ数ヶ月というような赤ん坊を、しっかりと抱いていた。片方の肩に、大きなマザーズバッグ。それがずり落ちそうになるのを、たびたび肩をゆすって、直す。
「予防接種の予約をしていた、三宅です」
「はい、お待ちしておりました。三宅さん、ゆうちゃんですね」
「はい」
志乃は、母子手帳を受け取りながら、赤ん坊の顔をのぞきこんだ。丸い頬に、まだ焦点の定まりきらない目。眠っているのか、起きているのか、その中間のような、やわらかな表情をしていた。
「かわいい寝顔ですね」
「今は、ですけど」と母親は、疲れた笑みを浮かべた。「注射のあと、きっと大泣きしますよ」
「そうですねえ。でも、泣くのは元気な証拠ですから」
母親は、良太が座っているのとは向かいの長椅子、田渕さんの隣に、少し間をあけて腰を下ろした。バッグを足もとに置き、赤ん坊を抱きなおすと、ふう、と息をついた。その息の吐き方に、朝からの、いくつもの小さな仕事の疲れが滲んでいた。
これで、待合室には四人になった。
奥に田渕さん。その隣に、赤ん坊を抱いた三宅さん。向かいの入口寄りに、フードの良太。そして小窓の内から、それを見ている志乃。
掛け時計が、こつ、こつ、と秒を刻んでいた。
沈黙は、長くは続かなかった。
「おや、ちいちゃいねえ」
口を開いたのは、田渕さんだった。隣の赤ん坊に、木の節のような指を、そっと近づける。触れはしない。ただ、近づけて、その空気を確かめるように。
「まだ、何ヶ月かね」
「もうすぐ、四ヶ月です」と三宅さんが答えた。
「四ヶ月。そりゃあ、いちばんいい時分だ」田渕さんの目が、細くなった。「うちの孫も、そのくらいのときが、いちばんよかった。抱いてると、こう、ずしっと重うなってきてね。生きてるもんの重みっていうのは、あれは、いいもんだよ」
「重いです、ほんとに」と三宅さんは笑った。「腕が、もう、ぱんぱんで」
「そうだろう、そうだろう。今のうちだよ。すぐ歩きだして、抱かせてもくれなくなる。あっという間だ。ほんとに、あっという間だよ」
三宅さんは、その言葉に、少し目を伏せた。笑ったまま、けれどその笑みの底に、ふと、何かがよぎるのを、志乃は見た。〈あっという間〉。それは、すでに過ぎた者の言葉だ。まだそのただ中にいる者には、一日一日が、途方もなく長い。夜は眠れず、昼は追われ、自分の時間などどこにもない。あっという間だと言われても、その〈間〉のなかにいる者には、それは慰めにも、少しの棘にもなる。
けれど三宅さんは、やわらかく受けた。
「そう言っていただけると、なんだか……救われます。毎日、必死で、よくわからなくなってて」
「わからんで、いいんだよ」と田渕さんは言った。「わしらだってね、子どもを育ててたときは、何もわからんかった。今になって、ああ、あれでよかったんかなあ、なんて思うだけでね。そのときは、みんな、必死さ。必死なのが、いちばんいいんだ」
赤ん坊が、腕のなかで、小さく身じろぎした。
三宅さんは、それをあやすように、ゆっくりと体を揺らしはじめた。ゆら、ゆら、と。そして、ごく小さな声で、口ずさんだ。
眠れ、眠れ。
星が海をわたるまで。
その旋律を、志乃は知っていた。古い子守唄だった。この町の女なら、たいてい、どこかで聞いたことのある一節。三宅さんが歌うと、赤ん坊は、また目を閉じて、寝息のリズムに戻っていった。
田渕さんが、その歌を、じっと聞いていた。何かを、遠くに探すような目で。膝の上の手が、いつのまにか、動くのをやめていた。組んでも、ほどいてもいない、ただ、宙で止まったような手だった。歌の一節が、その老いた耳の、いちばん奥のほうまで、ゆっくりと、届いていくのが、志乃には見えるようだった。
三宅さんは、自分が歌っていることに、たぶん、気づいていなかった。赤ん坊をあやすとき、母親の口は、考えるより先に、勝手に、その旋律をなぞる。息をするのと、同じように。だから彼女は、田渕さんの目が、自分の口もとに注がれていることにも、気づかなかった。
「その唄はね」と、田渕さんが、ぽつりと言った。「わしの母親も、歌ってた」
三宅さんが、驚いたように顔を上げた。
「え、この唄をですか」
「ああ。ずいぶん昔だがね。この町じゃ、みんな、その唄を歌ってた。夜、寝かしつけるときにね」田渕さんは、遠い記憶をたぐるように、言葉を選んだ。「うちは、貧しくてね。父親が早くに死んで、母親が、女手ひとつで、わしら兄弟を育てた。夜なべ仕事をしながら、その唄を、小さい声で歌うんだ。眠れ、眠れって。今から思うと、あれは、わしらに歌ってたんじゃなくて、自分に歌ってたのかもしれんな。眠れって。自分に。もう、休んでいいって」
待合室が、静かになった。
秒針の音だけが、こつ、こつ、と続いていた。
三宅さんは、何も言わなかった。ただ、腕のなかの赤ん坊を、少しだけ、強く抱きなおした。その仕草が、田渕さんの言葉に、いちばんの返事になっていた。
志乃は、小窓の内から、その光景を見ていた。
見知らぬ者どうしだった。八十を越えた元大工の老人と、三十そこそこの母親。ふだんなら、生涯すれ違うこともなかったかもしれない。ただ、たまたま、同じ昼前の待合室に、同じ時刻に居合わせただけの。それなのに、ひとつの古い子守唄が、二人のあいだに、細い糸を張った。何十年もの時をまたいで。
こういうことが、待合室では、起こる。
痛みや不安を抱えて、みなここへ来る。けれど待つあいだに、その痛みや不安が、ふと、隣の誰かのものと、触れあう。同じ町に生きているというだけの、ゆるやかな縁が、この谷の時間には、そっと立ちのぼる。
診察室では、こうはいかない。あそこは、一対一の場所だ。医師と患者。病と、それを診る者。閉じた引き戸の内で、体は測られ、名づけられ、薬を処方される。それは、たしかに、大切なことだった。けれど、その前の、この待合室でだけ、起こることがある。患者と患者が、ただ、隣りあって、順番を待つ。そのあいだにこぼれる、ほんの数語が、時に、薬よりも、ずっと深いところへ、届くことがある。
志乃は、それを、何度も、見てきた。
会計の窓口で、涙をこらえていた老女が、隣に座った見知らぬ若い母親に、子育ての愚痴をひとしきり聞いてもらって、帰るころには、けろりと笑っていたこと。受験に落ちたばかりだという高校生が、退院を明日に控えた老人と、ぽつぽつ将棋の話をして、少しだけ、背筋を伸ばして帰ったこと。名前も知らない。二度と会うこともない。それでも、たしかに、何かが、手わたされた。
志乃が、この仕事を続けてきたのは、たぶん、それを見ていたかったからだった。血圧を測り、注射器を数える、その合間に立ちのぼる、この、名もない交わりを。
入口寄りの長椅子で、良太は、まだ問診票を書いていなかった。
いや、正確には、書きかけて、途中で止まっていた。ペンを握ったまま、うつむいて、じっとしている。フードの奥の横顔は、こわばっていた。
志乃は、それに気づいていた。
老人と母親のやりとりを、良太が、聞いていないふりをしながら、しっかりと聞いていることも。田渕さんが〈眠れって、自分に〉と言ったあたりで、良太の肩が、わずかに動いたことも。
眠れない、と良太は言った。ひと月、夜が明けるまで、目が冴えている、と。
若い体が、夜のあいだじゅう、眠りを拒む。それがどういうことか、志乃には、おおよそ見当がついた。体の病気ではない。あるいは、体だけの病気ではない。心が、どこかで、張りつめている。学校か、仕事か、人か、あるいは、自分自身か。何かに、追いつめられている。ここへ来るまでに、ずいぶん迷ったであろうことも、その迷いの重さも。
志乃は、席を立った。
小窓を出て、待合室の、良太のそばへ、そっと歩み寄る。
「良太さん」と、小さく声をかけた。「お茶でも、いかがですか。冷たいのと、あたたかいの、どちらもありますよ」
良太は、はっと顔を上げた。
「あ……いえ、大丈夫です」
反射のように、そう答えた。けれど志乃は、引かなかった。
「そうですか。もし、書きにくいところがあったら、飛ばしても大丈夫ですからね。全部、埋めなくていいんです。あとで、先生と話しながら、埋めていけばいいので」
良太の目が、少し、揺れた。
「……はい」
「眠れないのは、つらいですよね」志乃は、隣の長椅子の端に、腰を下ろした。良太を見るのではなく、同じ方向を向いて、少し斜めに。まっすぐ向きあうと、緊張する人がいる。斜めに座ると、言葉が、少しだけ、こぼれやすくなる。「夜がいちばん、長く感じるんじゃないですか」
良太は、しばらく、黙っていた。それから、ほとんど聞こえないくらいの声で、言った。
「……夜って、こんなに長いんだって、初めて知りました」
「そうですよね」
「みんな、寝てるのに。世界じゅうが寝てるのに、自分だけ、起きてて。天井、ずっと見てて。何回も、時計、見て。もう三時だ、もう四時だって。そのうち、外が、うっすら明るくなってきて」
「明け方に、やっと眠れる、って」
「はい。明け方に……なんか、力が抜けて。ほっとするみたいに、少し、眠れて」良太は、うつむいたまま続けた。「この前の明け方、窓のところに、立ってたんです。眠れなくて。空が、まだ暗くて、でも、ちょっとだけ、青くなりかけてて。そしたら、星が、ひとつ」
「星」
「ミラ彗星、っていうやつ、ですよね。ニュースで、やってて。ずっと、蒼い星が、空を横切ってるって。その、明け方の空に、それが、まだ、うっすら」良太の声が、ほんの少し、ゆるんだ。「なんか、そのとき、思ったんです。ああ、こんな時間に、こんな星を見てるの、たぶん、世界に、そんなにいないなって。ほとんど、みんな、寝てて。でも、この星は、ちゃんと、出てて。誰も見てなくても、出てて。なんか……変な話ですけど、それ見てたら、少し、楽になって」
志乃は、黙って、うなずいた。
窓の外へ、目を向ける。昼前の空は、白っぽく晴れていた。彗星など、もうどこにも見えない。日の光にまぎれて、蒼い一点は、とうに溶けてしまっている。けれど、それはまだ、そこにあるのだ。見えないだけで。良太が明け方に見たあの星は、今も、この白い空のどこかを、静かに横切っている。
「見えなくても、あるんですよね」と、志乃は言った。
良太が、顔を上げた。
「今、この空にも、ちゃんとあるんです。ただ、お日さまが明るすぎて、見えないだけで。夜になったら、また、見えます。昼のあいだ、消えてなくなったわけじゃなくて。ずっと、ある」
良太は、志乃の横顔を、じっと見た。
その目に、何かが、ゆっくりと、ほどけていくのが、志乃には、わかった。
田渕さんが、こちらを見ていた。
三宅さんも、赤ん坊を抱いたまま、静かに、こちらへ耳を傾けていた。
良太は、二人の視線に気づいて、また少し、身を縮めた。けれど、さっきほどの、追いつめられた縮み方では、なかった。
「兄ちゃん」と、田渕さんが、声をかけた。
良太が、びくりとした。
「眠れんのか」
田渕さんの声は、ぶっきらぼうだった。けれど、その底に、何か、あたたかいものがあった。良太は、少し迷って、それから、小さくうなずいた。
「わしもな、若いころ、眠れん時期があってな」と田渕さんは言った。「戦争が終わって、しばらくしてからだ。世の中がひっくり返って、何を頼りに生きたらいいか、わからんくなってな。夜になると、いろんなことが、頭んなかを、ぐるぐる回るんだ。ああでもない、こうでもない、ってな。それで、朝まで、眠れん」
良太は、じっと、聞いていた。
「でな、わしの母親が、言ったんだ。眠れんなら、無理に眠ろうとするな、ってな。眠ろう眠ろうとするから、よけい眠れん。目ぇつぶって、ただ、横になっとけばいい。眠れんでも、横になってりゃ、体は休まる。それでいいんだ、ってな。ふしぎなもんでね、そう思うと、力が抜けて、いつのまにか、眠っとる」
「……無理に、眠ろうとしない」
「そうだ。無理すんな。眠れん夜も、あってええ。眠れん夜を、ちゃんと生きてりゃ、そのうち、眠れる夜が、来る」田渕さんは、そう言って、にっと笑った。歯の抜けた、けれど気持ちのいい笑い方だった。「もっとも、わしは今じゃ、昼間っから、ここで居眠りしとるがな」
待合室に、小さな笑いが起きた。三宅さんが、くすりと笑い、良太の口もとにも、初めて、かすかな笑みが浮かんだ。
「先生に、ちゃんと診てもらうといい」と田渕さんは、付け加えた。「ここの先生は、いい先生だ。はやいがな。だが、はやいってのは、こっちの言うことを、ちゃんと聞いてくれてるってことだ。だらだら喋る先生より、ずっと、頼りになる」
「……はい」と良太は言った。今度は、力なくほどけない、しっかりとした声だった。
志乃は、立ちあがった。
「良太さん、お茶、やっぱりお持ちしますね。あたたかいの」
「……あ、はい。すみません、ありがとうございます」
小窓の内へ戻りながら、志乃は、ふと、胸のあたりが、あたたかくなるのを感じた。
これだ、と思った。
体温計にも、血圧計にも、決して出てこない、これだ。
湯呑みを盆にのせて戻ると、待合室の空気は、来たときとは、すっかり変わっていた。
良太は、フードを、いつのまにか、脱いでいた。あらわになった顔は、思ったよりも、あどけなかった。まだ少年の名残を残した、まっすぐな顔だち。彼は、問診票を、また書きはじめていた。今度は、ペンが、迷わず動いていた。
「はい、どうぞ。熱いので、気をつけて」
「ありがとうございます」
良太は、湯呑みを両手で受け取り、その温かさを、しばらく、手のひらで確かめていた。ひと口すすって、ほう、と息をつく。冷えた指先が、湯呑みの熱を、ゆっくりと吸っていくのが、見ているだけで、わかるようだった。
三宅さんが、口を開いた。
「あの」と、良太のほうへ。「わたしも、上の子のとき、眠れなくて。授乳で、二時間おきに起きてたのもあるけど、それだけじゃなくて。なんか、ずっと、不安で。この子を、ちゃんと育てられるのかなって。夜、この子の寝顔を見ながら、泣いてました」
良太が、驚いたように、三宅さんを見た。
「今も、正直、こわいです」と三宅さんは、赤ん坊に目を落として、続けた。「でも、こうやって、待合室で、知らない人と話してると、なんか、少し、ましになる。ひとりじゃないんだって。みんな、いろいろ抱えて、ここに来てるんだなって」
「……ひとりじゃない」と良太が、繰り返した。
「うん」と三宅さんは、うなずいた。「あなたも、ひとりじゃないよ」
良太は、何も言わなかった。ただ、湯呑みを、また少し、強く握った。その目のふちが、うっすらと、赤くなっているのに、志乃は気づいた。けれど、彼は泣かなかった。泣くのを、こらえたのではなく、泣かなくても、いいくらいに、何かが、満ちていた。
田渕さんが、うんうん、とうなずきながら、また、赤ん坊のほうへ、指を近づけていた。
診察室から、ブザーが鳴った。
「三宅ゆうさん、診察室へどうぞ」
志乃は、告げた。三宅さんが、赤ん坊を抱きなおして、立ちあがる。バッグを肩にかけ、少しよろけて、田渕さんが、とっさに手を伸ばして、支えようとした。
「ああ、すみません」
「気をつけてな」と田渕さん。
三宅さんは、良太のほうを、ちらりと見た。
「あなたも、お大事に」
「はい。……あの」良太が、呼びとめた。「ありがとうございました」
三宅さんは、少しだけ、驚いたような顔をして、それから、やわらかく笑った。
「こちらこそ」
そして、赤ん坊を抱いて、診察室へ入っていった。
待合室に、田渕さんと、良太と、志乃が残った。
しばらく、誰も、口をきかなかった。けれど、その沈黙は、良太が入ってきたときの、張りつめた沈黙とは、まるでちがっていた。やわらかく、あたたかく、少しばかり、名残惜しいような沈黙だった。
田渕さんが、雑誌の山から、いちばん上の一冊を取って、ぱらぱらとめくった。ずいぶん古い、旅行の雑誌らしかった。表紙は、色あせて、どこか外国の、青い海が写っていた。
「志乃ちゃん」と、田渕さんが、ページをめくりながら言った。「この雑誌、いつのだい」
「さあ……先代のころからあるかもしれません」
「だろうな。ここに載っとる海に、行った人がおるんだかね」
「どうでしょう」
「行ってなくてもいいんだ」と田渕さんは言った。「見るだけで、行った気になれる。それが、雑誌ってもんだ。待合室の雑誌ってのはな、行けなかった場所の、写真集だよ」
志乃は、笑った。
田渕さんの言葉は、いつも、こうして、ふと、胸に残る。行けなかった場所の、写真集。八十年のあいだ、この人が、どれだけの〈行けなかった場所〉を、抱えて生きてきたのか。志乃には、想像もつかない。
三宅さんの診察は、予防接種も含めて、思いのほか、はやく済んだ。
診察室から、赤ん坊の泣き声が響いてきた。注射のあとの、火がついたような泣き声。けれど、それは、田渕さんの言ったとおり、元気な証拠だった。しばらくして、泣き声は、母親のあやす声にまじって、少しずつ、おさまっていった。
三宅さんが、赤ん坊を抱いて、診察室から出てきた。赤ん坊の目のふちに、涙のあとが、光っていた。けれど、もう泣きやんで、母親の胸で、少し、ぐずっているだけだった。
「お疲れさまでした」と志乃。「よく、がんばりましたね、ゆうちゃん」
「泣きましたよ、やっぱり」と三宅さんは、疲れた、けれど、どこか晴れやかな顔で言った。
会計を済ませ、三宅さんは、帰り支度をはじめた。マザーズバッグを肩にかけ、赤ん坊を抱きなおし、それから、長椅子のあたりを、ふと、見まわした。
「あれ」
「どうかしましたか」
「手袋が」三宅さんは、長椅子の座面を、探していた。「上の子の、手袋を、持ってきてたんですけど。今日、寒かったから。片方、どこかに……」
志乃も、いっしょに、長椅子のまわりを探した。田渕さんも、座ったまま、周囲に目をやった。
「これかい」と、田渕さんが、隣の座面から、小さなものをつまみあげた。
赤い、子ども用の手袋だった。ミトンの形をした、毛糸の。片方だけ。
「あ、それです。すみません」と三宅さんが、受け取ろうとして、けれど、バッグの中を探って、首をかしげた。「あれ……もう片方が、ない」
三人で、また、探した。長椅子の下も、机の下も、待合室の隅々まで。けれど、もう片方の、赤いミトンは、どこにも見つからなかった。
「電車の中かしら」と三宅さんは、困ったように笑った。「よく、なくすんです、この子。片方だけ」
「片方だけ、なあ」と田渕さんが、赤いミトンを、しみじみと見た。「よくあることだ。手袋ってのは、なぜだか、片方だけ、なくなる。両方いっぺんに、なくなることは、めったにない」
「ほんと、そうですね」
「片方だけ残ると、もう片方が、どこかで、待ってるみたいでな」と田渕さんは言った。「うちにも、あるよ。何十年も前に、女房が編んだ手袋の、片方だけがな。もう片方は、とうの昔になくした。でも、残った片方が、なんだか、捨てられんでな。ずっと、簞笥の引き出しに、入っとる」
「奥さまが、編まれたんですか」と三宅さんが、たずねた。
「ああ。手先が、器用な女でな」田渕さんは、赤いミトンを、まだ、見つめていた。「わしは、大工で、手は動くほうだったが、あんな細かいもんは、編めん。女房は、冬になると、家じゅうのぶんの手袋を、編んどった。わしの、子どもらの、それぞれの手に合わせて。指の長さまで、ちゃんと測ってな。だから、うちの手袋は、みんな、ぴったりだった。よそで買うのとは、ちがう。手に、吸いつくみたいでな」
三宅さんは、自分の抱いた赤ん坊の、その、まだ何も握れない小さな手を、そっと、見た。
「それを、まだ、取ってあるんですね」
「捨てられんのさ」と田渕さんは、繰り返した。「片方だけになっても、いや、片方だけになったからこそ、かもしれんな。両方そろってたら、ただの手袋だ。片方だけになると、そこに、なくした片方のぶんまで、思い出が、詰まる。ふしぎなもんだよ」
三宅さんは、赤いミトンを、大事そうに、バッグにしまった。片方だけ。
「まあ、いいです。片方だけでも、取っておきます」と、彼女は言った。「この子が大きくなったら、こんなに小さかったんだって、思い出せるように」
そう言って、彼女は、赤ん坊を抱いたまま、頭を下げた。
「みなさん、ありがとうございました。ゆう、ばいばい、しようね」
赤ん坊は、ばいばい、はできなかったけれど、母親に抱かれたまま、まるい目で、待合室を、ぼんやりと見わたした。田渕さんが、しわだらけの手を振った。良太も、少し照れながら、小さく手を振った。
自動ドアが開いて、母子は、昼前の光のなかへ、出ていった。
待合室に、田渕さんと、良太と、志乃が残った。
「いい母親だな」と田渕さんが、ぽつりと言った。
「ええ」と志乃。
「あの子も、大きくなるんだろうなあ。あっという間に。手袋を、片方なくして、母親を困らせて、それでも、大きくなる。ふしぎなもんだ」
診察室から、ブザーが鳴った。
「田渕さん、診察室へどうぞ」
「おっと、わしか」田渕さんは、よっこいしょ、と、膝に手をついて立ちあがった。「じゃあ、行ってくるかな」
彼は、立ちあがりざま、良太のほうを見た。
「兄ちゃん」
「はい」
「また、来いよ。眠れんかったら、また、ここへ来い。ここは、いい場所だ。眠れん者が、来て、座って、少し、話をする。それだけで、ちいと、ましになる」田渕さんは、そう言って、良太の肩を、ぽん、と叩いた。「わしは、まあ、二週間に一ぺんは、たいてい、ここに、おるからな」
良太が、田渕さんを、見上げた。
「……ありがとうございます」
「なあに」田渕さんは、照れくさそうに、鼻の頭をこすった。「年寄りの、暇つぶしだ」
そう言って、田渕さんは、診察室へと、ゆっくり歩いていった。その後ろ姿は、少し、腰が曲がっていた。木の節のような手が、診察室の引き戸に、かかった。
引き戸が、静かに、閉まった。
待合室に、良太と、志乃が、残った。
良太は、湯呑みの、最後のひと口を、飲みほした。
「あの人」と、良太が、診察室のほうを見て、言った。「なんか、すごいですね」
「田渕さんですか」
「はい。あんなふうに、知らない人に、平気で話しかけて。しかも、なんか、ちゃんと、届く言葉で」
「長く生きてこられたからでしょうね」と志乃は言った。「たくさんの人と、別れて、たくさんのことを、なくして。それでも、こうやって、毎日、待合室に、座りに来る。誰かと、話すために」
「……座りに、来る」
「田渕さん、本当は、そんなに具合が悪いわけじゃないんです」志乃は、少し、声を落として言った。「血圧の薬をもらうだけなら、月に一度で足りるのに、二週間に一度、来られる。ここへ、来たいんです。誰かと、話したいんです。おうちに、帰っても、ひとりだから」
良太は、しばらく、黙っていた。
それから、湯呑みを、両手で包んだまま、小さく、言った。
「僕、この町に、来たばっかりで」
「そうなんですか」
「大学、入って。ひとり暮らし、はじめて。友だちも、まだ、あんまり、できなくて。授業も、なんか、ついていけなくて。夜になると、誰とも、話してないなって、気づいて。丸一日、誰とも、口きいてない日も、あって。そしたら、だんだん、眠れなくなって」
志乃は、うなずいた。
そういうことか、と思った。若い体が、夜のあいだじゅう、眠りを拒む。その理由は、志乃が想像したよりも、ずっと、単純で、ずっと、切実なものだった。孤独だ。言葉に、飢えているのだ。
「よく、来てくれましたね」と志乃は言った。「ここに」
良太が、顔を上げた。
「来るまでに、ずいぶん、迷われたんじゃないですか」
「……はい」良太は、少し、驚いたようだった。「一週間くらい、この診療所の前、何回も、通って。入ろうか、どうしようか、って。今日、やっと」
「よく、決心されましたね。それが、いちばん、大変なことです。ここまで来るのが」志乃は、良太を、まっすぐ見た。「ここまで来たら、あとは、大丈夫です。先生が、ちゃんと、診てくれます。それに、田渕さんも、言ってましたよね。また、来いって。あの人、口だけじゃないですよ。次に良太さんが来たとき、きっと、覚えてます」
良太の目に、また、あの、ほどけていくものが、見えた。
「……はい」
診察室から、田渕さんの、笑い声が聞こえてきた。院長と、何か、話しているらしい。診察は五分で済むはずなのに、田渕さんは、いつも、そこに少し、いる。院長も、忙しいだろうに、田渕さんの世間話には、少しだけ、つきあってやるのだった。はやい先生の、それは、たったひとつの、道草だった。
志乃は、小窓の内へ、戻った。
カルテを整えながら、ふと、窓の外へ、目をやる。昼前の空は、白く晴れて、路地には、ぽつり、ぽつりと、人が通った。買い物かごを提げた、年配の女。自転車の、郵便配達。ランドセルを背負っていない、平日の昼前の、小さな子どもと、その母親。
田渕さんの言った、昔の商店街の賑わいは、もう、ない。魚屋も、豆腐屋も、駄菓子屋も、シャッターを下ろした。けれど、こうして、人は、まだ、この路地を、通っていく。少なくなっても、静かになっても、町は、まだ、ゆるやかに、動いている。
昼前の、はざまの時間。
急ぐでもなく、止まるでもなく。世界のどこかが、ゆっくり、息を吐いている。
志乃は、窓の外の、白い空を、しばらく、見あげた。
そこに、彗星は、見えない。日の光にまぎれて、蒼い一点は、とうに溶けている。けれど、それは、まだ、そこにあるのだ。良太が、明け方に見た、あの星は。誰も見ていなくても、昼のあいだも、ずっと、この空のどこかを、静かに、横切っている。
見えなくても、ある。
そういうものが、この世には、たしかにある。
田渕さんの、待合室に来たいという寂しさも。三宅さんの、夜な夜な泣いた不安も。良太の、丸一日、誰とも話さなかった孤独も。誰にも見えないところで、たしかに、そこにある。そして、この、昼前の待合室で、それらは、ふと、たがいに触れあった。見知らぬ者どうしの、ほんの、束の間。
けれど、その束の間が、たしかに、誰かを、少しだけ、救った。
診察室から、田渕さんが出てきた。
「志乃ちゃん、また二週間後にな」
「はい、お大事に。田渕さん、お薬、忘れないでくださいね」
「わかっとる、わかっとる」
田渕さんは、会計を済ませ、帰り支度をはじめた。上着を、はおろうとして、そのポケットから、何かを、取り出した。
青い、小さなマッチ箱だった。
三日月の刻まれた、藍色の。田渕さんは、それを、しばらく、手のひらの上で、転がした。
「田渕さん、まだ、煙草を?」と志乃が、たずねた。
「いや、もうやめたよ。とうに」と田渕さんは、マッチ箱を見つめたまま、言った。「これはな、もう、火をつけるためのもんじゃない。ずっと、ポケットに、入れとるだけだ」
「どうして、また」
「これはな」田渕さんは、少し、遠い目をした。「女房が、死ぬ前に、くれたもんでね。あの、路地の奥にな、夜にだけ、たまに出とる古本屋があってな。月光書房、とかいう。妙な店だ。朝になると、消えとる。女房が、そこで、このマッチ箱を、もらってきたんだ。三日月のマッチだ、って。あんたに、火が要るときに、って」
志乃は、その話を、聞いたことがなかった。
「火が要るとき、って」
「さあな。女房は、それだけ言って、逝った」田渕さんは、マッチ箱を、また、ポケットに、しまった。「わしは、もう火なんぞ、要らんのだがな。それでも、これを持っとると、なんだか、女房が、まだ、そばにおるような気がしてな。だから、ずっと、持っとる。片方だけ残った手袋と、おんなじだ。捨てられんのさ」
そう言って、田渕さんは、にっと笑った。
「じゃあな、志乃ちゃん。兄ちゃんも、また、来いよ」
良太が、立ちあがって、頭を下げた。
「はい。また、来ます」
田渕さんは、自動ドアを、くぐった。昼前の光のなかへ、腰の曲がった背中が、ゆっくりと、遠ざかっていく。路地を、右へ、曲がって、見えなくなった。
「良太さん、診察室へどうぞ」
ブザーが鳴って、志乃は、告げた。
良太が、立ちあがった。
湯呑みを、盆に、そっと戻して、それから、深く、息を吸った。まるで、これから、どこか遠くへ、旅立つみたいに。彼の背中は、来たときとは、ちがっていた。まだ、少し、丸まっていたけれど、その丸まり方には、もう、あの、追いつめられた重さは、なかった。
「あの」と、良太が、診察室へ向かう前に、志乃を、振り返った。「ありがとうございました。お茶と、それから……いろいろ」
「いいえ」と志乃は、微笑んだ。「良太さんが、ちゃんと、来てくれたからです。あとは、先生に、思ってること、全部、話してくださいね。うまく話せなくても、大丈夫ですから。ゆっくりで」
「はい」
良太は、診察室の引き戸に、手をかけた。
そして、ふと、思い出したように、窓の外へ、目をやった。白く晴れた、昼前の空へ。何かを、探すように。
「見えないですね」と、良太が、小さく言った。
「見えなくても、あります」と、志乃は、答えた。
良太は、少しだけ、笑った。それから、引き戸を開けて、診察室へ、入っていった。
引き戸が、静かに、閉まった。
待合室が、からになった。
志乃は、小窓の内から、その、誰もいなくなった空間を、見た。
向かいあわせの、二脚の長椅子。そのあいだの、低い机。角のすり切れた、雑誌の山。田渕さんが、さっき見ていた、青い海の写真の表紙が、いちばん上に、のっていた。行けなかった場所の、写真集。
消毒液の匂いが、また、部屋の底に、薄く沈んでいた。
けれど、その匂いのなかに、志乃は、たしかに、別のものも、感じた。三宅さんの、子守唄の名残。田渕さんの、青いマッチ箱の記憶。良太の、あたたかい湯呑みの、湯気。それらは、もう、目には見えない。けれど、この待合室の、板張りの床や、長椅子の座面に、うっすらと、しみこんで、残っている。
見えなくても、ある。
志乃は、立ちあがって、待合室へ出た。長椅子の座面を、そっと、拭く。それから、良太が座っていたあたりに、ふと、目を止めた。
長椅子の、いちばん端。三宅さんが、赤ん坊を抱いて座っていた、その隣。
そこに、赤いミトンが、片方だけ、ぽつんと、置かれていた。
さっき、三宅さんが、なくしたと言った、片方だ。バッグにしまったのは、田渕さんの見つけた、もう片方。こちらは、探しても見つからなかった、その、対になるはずの、片割れ。座面のすきまに、深く、落ちこんでいたのが、みなが立ったり座ったりするうちに、いつのまにか、押し出されて、出てきたのだろう。
両方が、そろっていた。
三宅さんは、片方だけ、持って帰った。そして、もう片方が、ここに、残った。
志乃は、その、小さな赤いミトンを、そっと、拾いあげた。毛糸の、やわらかな手ざわり。三宅さんは、また、この診療所に、来るだろう。予防接種は、これからも、何度もある。そのときに、渡そう。片方だけでも、取っておくと、三宅さんは言った。けれど、もし、両方そろったら、きっと、喜ぶ。
志乃は、赤いミトンを、受付の、いちばん見えるところに、そっと、置いた。もう片方が、迎えに来る日まで。
窓の外の、白い空を、もう一度、見あげる。
昼前の、はざまの時間は、まだ、続いていた。もうすぐ、昼の混雑が、はじまる。けれど、今は、まだ、静かだった。掛け時計が、こつ、こつ、と、秒を刻んでいた。診察室からは、良太の、ぽつり、ぽつりとした声と、それに、静かに耳を傾ける、院長の声が、かすかに、洩れてきた。
志乃は、赤いミトンを、もう一度、見た。
片方だけ残されたものは、いつも、もう片方が、どこかで、待っているのだと、田渕さんは言った。けれど、時には、こうして、待っていた片方が、ちゃんと、帰ってくることも、ある。両方が、そろうことも、ある。
昼前の待合室というものは、と、志乃は、また、思った。
世界のどこかが、ゆっくり息を吐いて、そして、はぐれてしまった片方どうしが、ふと、また、めぐり会う、そういう場所なのかもしれない。