南の窓の白い光
一
交番の窓は、東と南に一枚ずつある。
朝のうちは東の窓が明るくて、机の上を金色に照らすのだが、九時をまわるころにはもう日がまわって、南の窓のほうがしらじらと白い。市原巡査はその白い光のなかに座って、湯呑みの縁を指でなぞっていた。茶はとっくにぬるくなっている。ぬるいのがまた、この刻にはちょうどいい。
町の名は、聞かれるたびに「本町でございます」と答えることになっている。けれど誰もそんなに正式には呼ばない。商店街の人は「うちの通り」と言い、川向こうの人は「あっちの町」と言う。市原巡査の詰めるこの交番は、その本町の四つ辻の、ちょうど床屋と乾物屋のあいだにある。赤い電球の下に「交番」と白抜きの札が下がり、その上に「本町交番」と黒々書いた木の看板がかかっている。看板は雨で右下が反り返っていて、去年からそのままだ。直しましょうと言うと、署の庶務のほうがいつも、予算がねえ、と言って笑う。
九時十七分。
朝の慌ただしい波は、もうひいたあとだった。通勤の自転車の群れも、駅へ急ぐ革靴の音も、子どもらの上履き袋を揺らす小走りも、みんな八時のうちに通り過ぎてしまう。そのあとに来るのは、ゆっくりした足だ。買い物籠を提げた奥さんの下駄、犬を連れた隠居の杖、乳母車の軋み。町がひと息ついて、のんびりと動きはじめる刻。市原巡査はこの刻がいちばん好きだった。
好きだと口に出したことはない。巡査が刻の好き嫌いを言うのは、なんとなく、締まりのないことのように思われたからだ。それでも、南の窓の白い光のなかで、ぬるい茶を飲みながら、通りをゆく下駄の音を数えている時間を、彼はひそかに大事にしていた。
市原巡査は今年で二十六になる。この交番に来て三年目だ。はじめの年は、道を訊かれても地図を出さなければ答えられず、酔っぱらいを前にすると声が上ずり、落とし物の受付簿の書き方を一つ一つ先輩に訊いた。三年目のいまは、たいていのことは地図なしで答えられる。声も、まあ、上ずらない。それでも、自分が「町のお巡りさん」になれたかというと、まだ心もとないところがある。
町の人は彼を「若いお巡りさん」と呼ぶ。前任の内田巡査部長のことは、いまでも「内田さん」と名前で呼ぶ人が多い。内田さんはこの町に二十年いた。市原巡査は三年だ。あと十七年、この町にいれば、自分も「市原さん」と呼ばれるのだろうか。そんなことをふと考える。考えて、まだ先の長い話だ、と湯呑みを置く。
置いたところで、引き戸ががらりと開いた。
「お巡りさん、いる?」
顔を出したのは、乾物屋の富江さんだった。前掛けをしたまま、片手に何か白いものを提げている。
「いますよ、富江さん。どうしました」
「これね、うちの店の前に落ちてたんよ。掃除しよったら、隅っこにね」
差し出したのは、手袋だった。
女ものの、白い毛糸の手袋。ずいぶん使い込まれていて、指の付け根のあたりが薄くなり、手首の折り返しがくたりとしている。よく見ると、小指のところに、同じ白い糸で几帳面に繕った跡があった。誰かが、大事に、繕って使っていた手袋だ。
「片っぽだけ?」
「そう、片っぽだけ。もう片っぽは、いくら探してもなかった。今朝、店開ける前に掃いたときには、なかったと思うんやけどねえ。いつ落ちたんやろ」
市原巡査は手袋を受け取った。毛糸は乾いていた。露にも濡れていない。だとすると、朝のうちに落ちたものだろう。
「六月に手袋ねえ」と富江さんが言った。「もう暑いのに、手袋なんか誰が持っとったんやろ」
たしかに、六月の末である。町の桜はとうに散り、川べりの若葉はもう濃くなって、日中は上着がいらない。手袋を提げて歩く人など、いまどきいない。
「しまい忘れて、鞄の隅にでも入れとったのが、ふとした拍子に落ちたんやないですか」と市原巡査は言った。「冬のあいだ、ずっと使っとった手袋みたいですよ。ほら、ここ、繕ってある」
「あら、ほんまや。器用に繕うたねえ」
富江さんは老眼鏡を鼻の上にずらして、その繕い跡をのぞきこんだ。
「もったいなくて、捨てられんかったんやろねえ。片っぽ落として、この子も困っとるやろ」
この子、というのは手袋のことなのか、手袋の持ち主のことなのか。市原巡査にはわからなかった。けれど、なんとなく、両方のような気がした。
「預かっときますよ。取りに来る人がいるかもしれん」
「そうしてあげて。ほんなら、私は店があるけ」
富江さんは前掛けを翻して出ていった。引き戸ががらがらと閉まる。
市原巡査は手袋を、机の上に置いた。それから、拾得物の受付簿を引き出しから出して、日付を書いた。六月三十日。時刻、九時二十三分。品名、婦人用毛糸手袋、白、片方。拾得場所、本町三丁目、乾物屋前。拾得者、丸田富江。
書きながら、彼はその白い手袋を見ていた。片方だけの手袋というのは、なんだか妙にさびしいものだ。両方あれば、ただの手袋なのに、片方だけになると、もう片方がどこかにあるはずだ、という気持ちにさせられる。持ち主も、きっと、もう片方を探しているだろう。あるいは、もう探すのをあきらめて、片方だけになった手袋のことを、忘れかけているかもしれない。
彼は手袋を、窓ぎわの棚に置いた。落とし物は、拾いに来た人が見つけやすいように、窓の近くに並べておくのが、この交番の習わしだった。傘が三本。子どもの水筒が一つ。あとは、蝶の飾りのついた髪留めと、鍵が一つ。そこへ、白い手袋が加わった。
窓の外は、白い空だった。梅雨の晴れ間で、雲は薄く、日は霞んでいる。
九時四十分ごろ、道を訊きに来たのは、旅行者らしい若い夫婦だった。
「あの、すみません、円光寺ってどう行けばいいですか」
「円光寺ですか。ええと」
市原巡査は窓口に地図を広げかけて、やめた。この頃はもう、地図なしで言える。
「この通りをまっすぐ、二つ目の信号を右に折れてください。少し坂になってます。坂を登りきったところに、大きな銀杏の木が見えます。その銀杏の根方に、細い道が一本あって、それをたどると、山門が見えてきます」
「銀杏の木ですね」
「はい。いまは葉が青々してますから、すぐわかります。秋になると黄色くなって、それはもう見事なんですが」
若い夫はうなずきながら、地図をひらいて確かめようとした。妻のほうが、その袖を引いた。
「いいのよ、お巡りさんが言うとおりに行けば」
「はあ」
「銀杏の木ね。ありがとうございます」
妻はぺこりと頭を下げて、夫を引っぱるように連れていった。市原巡査は窓から首を出して、二人が二つ目の信号のところで、ちゃんと右に折れるのを見届けた。折れた。よし、と小さく思う。
道を訊かれて、正しく答えて、その人がちゃんとそのとおりに行く。ただそれだけのことが、彼にはいまだに、ちょっとした手ごたえだった。地図の上の線ではなく、自分の足で歩いた道を、言葉にして人に渡す。それが、町のお巡りさんの、いちばん基本の仕事のような気がした。
内田さんは、道を訊かれると、必ず途中の目印を一つ入れて教えた。豆腐屋の角、赤い郵便ポスト、大きな銀杏。そうすると、初めての人でも迷わないのだ、と。市原巡査は、それを見習っている。銀杏の木のことを言えたとき、彼は少しだけ、内田さんに近づいたような気がした。
窓ぎわの手袋が、白い光のなかで、ふっと目に入った。
彼はもう一度、その手袋を手に取ってみた。手のひらにのせると、思いのほか軽い。繕い跡の糸目は、細かく、そろっていた。針を持ち慣れた人の手だ、と思う。若い人の手ではないかもしれない。母親か、祖母か。誰かのために編んだのか、自分のために編んだのか。それとも、店で買ったものを、繕いながら使っていたのか。
わからない。わからないけれど、この手袋を落とした人は、きっと、それを大事にしていた。それだけは、繕い跡が語っていた。
十時ちょうどに、時計屋の柱時計が、通りの向こうで十を打った。
その音を合図のように、酔い覚めの常連がやってきた。
「よう、お巡りさん」
染物屋の隠居、権蔵さんである。今年で七十四になるという。若いころは川向こうで染物の職人をしていて、いまは息子に店をゆずって、朝から酒を飲む。飲むといっても、たちの悪い飲み方ではない。夜のうちにひとしきり飲んで、朝になると、その酔いを覚ましに町を歩く。歩いて、この交番に寄って、水を一杯もらって帰る。それがもう、何年も続いている習慣だった。
「権蔵さん、おはようございます。今朝も一杯やりましたか」
「やったやった。ゆうべの残りをな。もう、たいして飲めやせん。猪口に二つ三つで、ふらふらだ」
権蔵さんは、勝手知ったる様子で、交番の隅の丸椅子に腰をおろした。市原巡査は、備え付けのやかんから、コップに水を注いでやった。権蔵さんはそれを、うまそうに飲んだ。喉仏が、しわの寄った首の下で、ゆっくり動いた。
「うまい。水がいちばんうまいな、酔い覚めには」
「そうですか」
「お巡りさんは飲まんのか」
「勤めのあいだは飲みませんよ」
「かたいなあ」
権蔵さんは笑った。歯が何本か抜けていて、笑うと、そこから息がもれる。市原巡査もつられて笑った。
権蔵さんの話は、いつも同じところをぐるぐるまわる。若いころの染物の話、死んだ女房の話、遠くへ嫁にいった娘の話。市原巡査は、その話を、もう何十回も聞いている。けれど、いやではなかった。同じ話でも、権蔵さんは毎回、少しずつ違うところを話す。今日は、女房が縫い物の上手だった、という話だった。
「うちのばあさんはな、縫い物が上手でな。わしの股引の破れなんぞ、あっという間に繕ってしまう。糸目がきれいでな、繕うた跡が、まるで模様みたいだった」
市原巡査は、ふと、窓ぎわの手袋を見た。
「権蔵さん、これ、見てくれますか」
彼は手袋を手に取って、権蔵さんに差し出した。権蔵さんは、水のコップを置いて、それを受け取った。染物職人だった手は、指が節くれだって、爪が厚い。その手が、白い毛糸の手袋を、そっと持った。
「ほう。繕うてあるな」
「今朝、乾物屋の前に落ちてたんです。片っぽだけ」
権蔵さんは、繕い跡を、しばらく見ていた。老いた目を細めて、糸目をたどるように。
「これは、丁寧な仕事だ」と権蔵さんは言った。「急いで繕ったんじゃない。時間をかけて、一針一針、ていねいにな。糸の色も、ちゃんと合わせてある。白でも、白にはいろいろあるでな。手袋の白と、繕い糸の白が、ぴったり合っとる」
「そんなに、違うもんですか、白って」
「違うとも。染物やっとると、白がいちばん難しいんだ。何も染めん白が、いちばん奥が深い。この繕いをした人は、目のいい人だな。それか、目はもうよくないが、手が覚えとる人だ」
権蔵さんは手袋を返した。市原巡査はそれを受け取って、また窓ぎわに置いた。
「取りに来るといいがな」と権蔵さんは言った。「片っぽだけじゃ、寒かろう」
「もう六月ですよ、権蔵さん」
「そうか。もう夏か」
権蔵さんは、窓の外の白い空を、ぼんやり見た。
「歳をとるとな、季節がわからんようになる。冬だと思うと夏で、夏だと思うと、もう秋だ。ばあさんが死んだのも、こんな、はっきりせん季節だったな」
市原巡査は、何も言わなかった。言うべき言葉が、見つからなかった。ただ、権蔵さんの、水を飲む音を聞いていた。
権蔵さんが帰ったあと、十時二十分ごろ、交番の前で、女の子が泣いていた。
三つか四つ、というところだろうか。赤い靴を履いて、片手に、溶けかけたソフトクリームのコーンだけを握りしめている。アイスの部分は、もう地面に落ちてしまったらしい。足もとに、白い染みが広がっていた。
市原巡査は、交番を出て、しゃがんだ。
「どうした。お母さんは?」
女の子は、しゃくりあげながら、あたりを見まわした。母親の姿はない。市原巡査は、あたりを見た。通りには、買い物の人が何人か歩いているだけで、子どもを探して駆けてくるような人はいない。
「お名前は?」
女の子は答えない。ただ、コーンを握りしめて、泣いている。
「そうか、名前は、まだ言えんか。じゃあ、お母さんと、どこから来た?」
女の子は、通りの向こうを指さした。指さした先には、商店街が続いている。どこから来たかは、わからない。
市原巡査は、迷子の対応を、何度かしたことがある。たいていは、すぐに親が探しに来る。子どもというのは、ちょっと目を離した隙に、面白いものを見つけて、するりといなくなる。親のほうも、必死になって探している。だから、あわてず、その場にとどまって、親が来るのを待つのがいい。動きまわると、かえって行き違いになる。
けれど、その女の子は、あんまり心細そうに泣くので、市原巡査は、何か、してやりたくなった。
「よし、じゃあ、お巡りさんと、ちょっと待っとこう。お母さん、きっと探しに来るから。それまで、交番のなかで待とうか」
彼は女の子を、交番のなかに入れた。丸椅子に座らせて、備え付けの、来客用の飴を一つ、渡してやった。黄色い、レモンの飴だった。女の子は、それを受け取って、少し泣きやんだ。
「アイス、落としちゃったな」
女の子は、こくりとうなずいた。
「また、買ってもらえばいい。お母さんに」
女の子は、また、こくりとうなずいた。それから、握りしめていたコーンを、ようやく、ぱっと放した。コーンは机の上に転がった。
市原巡査は、そのコーンを、ちり紙にくるんで、屑籠に捨てた。それから、窓の外を見た。まだ、母親らしい人は来ない。
女の子は、飴をなめながら、交番のなかを、きょろきょろ見ていた。その目が、窓ぎわの落とし物のところで、止まった。
「あれ」と女の子は言った。「てぶくろ」
「ああ、そうだ。手袋だ。よく知っとるな」
「ばあばの、てぶくろ、あるよ」
「ばあばの?」
「ばあば、しろい、てぶくろ、もってる」
市原巡査は、ふと、その白い手袋を手に取って、女の子に見せた。
「こんなの?」
女の子は、じっとそれを見た。それから、首をかしげた。
「ばあばの、じゃない」
「そうか。ばあばのじゃないか」
「ばあばの、もっと、おおきい」
そんな他愛のない話をしているうちに、交番の前を、一人の女が、血相を変えて走ってきた。
「あかね! あかねっ!」
女の子が、はじかれたように、丸椅子から立ち上がった。
「かあか!」
母親だった。二十七、八の、若い母親。息を切らして、交番に飛び込んでくると、女の子を抱きしめた。
「もう、どこ行っとったの。心配したんよ。ちょっと目ぇ離した隙に、おらんようになって」
「アイス、おっこどした」
「アイスなんか、どうでもいい。あんたがおらんようになったら、かあか、どうしよう思うたか」
母親は、女の子を抱きしめたまま、市原巡査のほうを見て、頭を下げた。
「すみません、お巡りさん。うちの子、お世話になって」
「いえ。飴を一つ、あげただけです。ちゃんと、お母さんを待っとりましたよ、この子」
「ほんとに、ありがとうございます」
母親は、何度も頭を下げて、女の子の手を引いて、帰っていった。女の子は、帰りぎわに、市原巡査のほうを振り返って、レモンの飴を、口のなかで転がしながら、小さく手を振った。市原巡査も、手を振り返した。
引き戸が閉まって、交番は、また静かになった。
市原巡査は、丸椅子を、もとの場所に戻した。それから、女の子が握りしめていた、あの溶けたアイスの染みが、通りに残っているのを、雑巾で拭きに出た。白い染みは、もう、乾きかけていた。拭くと、うっすらとした輪だけが残った。
拭きながら、彼は、女の子の言葉を思い出していた。ばあばの、しろい、てぶくろ。あの手袋も、誰かの、ばあばの手袋なのだろうか。それとも、かあかの手袋か。あるいは、もっと若い、娘さんの手袋か。
わからないことばかりだ、と彼は思った。町のお巡りさんの仕事は、わからないことばかりだ。落とし物の持ち主も、道を訊いた人がちゃんと着いたかも、迷子の子がその後どう暮らすかも、たいていは、わからないままだ。ほんの短いあいだ、その人の暮らしと交わって、それきり、別れてしまう。
けれど、その短いあいだに、ちゃんと、してやれることをする。それが、この仕事だ。
彼は、雑巾を洗って、干した。
二
十時四十分。
日はますます高くなって、南の窓の光が、机の上いっぱいに広がっていた。市原巡査は、拾得物の受付簿を、もう一度ひらいて、手袋の欄を見た。まだ、取りに来る人はいない。
ふと、彼は、窓の外の空を見上げた。
梅雨の晴れ間の、薄い空。白っぽく霞んで、水を流したように、青がうすい。その空の、南のはずれのほうに、彼は、目を凝らした。
昨夜、彼は、当直明けの先輩から、妙な話を聞いていた。
「なあ市原、彗星が出てるらしいぞ。ミラ彗星っていうんだと。明け方、東の空に、青い尾を引いてるって、新聞に出てた」
「彗星ですか」
「おれは見てないがな。今朝、非番の連中が、川べりで見たって言ってた。青くて、きれいだったと」
市原巡査は、その明け方には、まだ寝ていた。だから、彗星は見ていない。けれど、いま、昼前の白い空を見上げて、彼は、ふと思った。あの青い一点は、まだ、あそこにあるのだろうか。
目を凝らした。
昼前の空は、明るすぎて、星など、見えるはずもない。太陽の光にかき消されて、彗星の青い尾なんか、とうに見えなくなっている。それは、わかっていた。
けれど、彼には、見えたような気がした。
南の空の、いちばん高いあたりに、ほんの、針の先ほどの、青い点。目を凝らして、まばたきをすると、消える。また目を凝らすと、あるような、ないような。それが、彗星なのか、目の錯覚なのか、あるいは、窓ガラスの染みが、そう見せているだけなのか。彼にはわからなかった。
わからないけれど、彼は、しばらく、その一点を見ていた。
明け方には、青い尾を引いて、はっきり見えたという。それが、いまは、こんなに、たよりない。太陽が昇れば、星は消える。あたりまえのことだ。けれど、消えたわけではない。見えなくなっただけで、あの青い彗星は、いまも、あの白い空の向こうを、ゆっくり、渡っている。
見えないものが、そこにある。
市原巡査は、そんなことを、ぼんやり考えた。落とし物の手袋の、もう片方も、どこかにある。迷子の女の子は、いまごろ、母親に、新しいアイスを買ってもらっているだろう。権蔵さんは、家に帰って、また、死んだ女房のことを、思い出しているだろう。町のあちこちに、見えない暮らしが、たくさんある。彼のいる、この小さな交番の窓からは、そのほんの一部しか見えない。
けれど、見えないだけで、そこに、ある。
彼は、窓から目を離して、手袋を、もう一度、手に取った。
十一時が近づくころ、引き戸が、そっと開いた。
入ってきたのは、年配の女だった。六十を、いくつか越えたくらいだろうか。白髪を、うしろで一つにまとめて、地味な紺の上着を着ている。手に、大きな布の買い物袋を提げていた。
「あの、すみません」と女は言った。声が、少し、遠慮がちだった。「落とし物、届いてないでしょうか」
市原巡査は、立ち上がった。
「どんな落とし物ですか」
「手袋なんです。白い、毛糸の手袋。片っぽだけ」
市原巡査の胸が、とん、と鳴った。
「片方だけ、ですか」
「はい。実は、もう片っぽは、ずいぶん前になくしてしまって。片っぽしか、残ってなかったんです。それを、今朝、鞄の隅に入れとったのが、どこかで落としたみたいで」
女は、袋を胸に抱えるようにして、言った。
「片っぽだけの手袋なんて、拾った人も、困りますよね。捨てられてても、しかたないんですけど。でも、もしかしたら、と思って、この辺の交番を、一つずつ、まわってて」
「ちょっと、待ってください」
市原巡査は、窓ぎわの棚から、白い手袋を取って、女に見せた。
「これ、ですか」
女の顔が、ぱっと、明るくなった。
「あ、それです。それ。よかった。ああ、よかった」
女は、両手で、その手袋を受け取った。受け取ると、しばらく、それを見ていた。指の付け根の、薄くなったところ。小指の、繕った跡。女は、その繕い跡を、指でそっと、なでた。
「ありがとうございます。ほんとに」
「いえ。乾物屋の富江さんが、店の前で拾ってくれたんです。おれは、預かってただけで」
「そうですか。乾物屋さん。あとで、お礼を言いに行かなきゃ」
女は、手袋を、大事そうに、袋のなかにしまった。それから、少し、迷うような顔をして、言った。
「これね、母の手袋なんです」
「お母さんの」
「ええ。母は、去年の暮れに、亡くなったんですけど。この手袋、母のもので。繕ってあるでしょう、ここ。これ、母が、自分で繕ったんです。目が、もう、あんまり見えなくなってたのに、手が覚えてるからって、言って。一針一針、時間をかけて」
市原巡査は、権蔵さんの言葉を、思い出した。目はもうよくないが、手が覚えとる人だ。
「母は、この手袋を、ずいぶん気に入ってて。何年も、繕いながら、使ってました。片っぽ、なくしてからも、残った片っぽを、捨てられなくて。私も、母が死んでから、この片っぽだけの手袋を、なんとなく、鞄に入れて、持ち歩いてたんです。お守りみたいにね」
女は、少し、笑った。さびしそうな、けれど、あたたかい笑いだった。
「馬鹿みたいでしょう。もう、片っぽしかないのに。それを、また、落として。今朝、鞄を開けて、ないってわかったとき、私、あわ てて。母を、もう一度、なくしたみたいな気がして」
「そうでしたか」
市原巡査は、それ以上、何も言えなかった。ただ、女が、袋のなかの手袋を、そっと、押さえているのを、見ていた。
「ほんとに、ありがとうございました」と女は、もう一度、頭を下げた。「拾ってくれた乾物屋さんにも、預かってくれた、お巡りさんにも。母が、また、私のところに、帰ってきてくれた気がします」
女は、帰ろうとして、ふと、窓の外を見た。
「いいお天気ですねえ。梅雨の晴れ間で」
「そうですね」
「今朝ね、彗星が見えたんですよ」と女は言った。「明け方、眠れなくて、窓を開けたら、東の空に、青い星が、尾を引いてて。ミラ彗星っていうんですって。母が生きてたら、見せてやりたかった。母は、星が、好きだったから」
市原巡査は、窓の外の、白い空を見た。あの、針の先ほどの、青い点。あるような、ないような。
「おれも、さっき、あそこに、見えたような気がしたんです」と彼は言った。「昼前だから、見えるはずないんですけど。でも、なんだか、あるような気がして」
女は、彼の指さすほうを見た。そして、少し、目を細めた。
「ありますよ、きっと」と女は言った。「見えなくても、あるんです。星も、手袋も」
女は、それだけ言うと、袋を提げて、出ていった。引き戸が、がらがらと閉まる。
女が帰ったあと、市原巡査は、しばらく、机の前に座っていた。
拾得物の受付簿を、ひらいて、手袋の欄に、「返還済み」と、書いた。日付、六月三十日。返還時刻、十時五十五分。受取人の名前を訊くのを、忘れていた、と気づいた。けれど、それでいい、と思った。名前を訊かなくても、あの手袋は、ちゃんと、帰るべきところに帰った。
窓の外は、白い空だった。日は、もう、真上に近い。
彼は、湯呑みを手に取った。茶は、すっかり冷めていた。冷めた茶を、一口、飲んだ。冷めた茶も、この刻には、悪くない。
十一時の柱時計が、通りの向こうで、鳴りはじめた。
一つ、二つ、三つ。市原巡査は、その音を、数えた。四つ、五つ。町の音が、その鐘の合間から、聞こえてくる。乾物屋の富江さんが、誰かと立ち話をしている声。自転車のベル。犬の鳴き声。六つ、七つ。子どもの、笑い声。八つ、九つ。豆腐屋のラッパ。十、十一。
鐘が鳴りやんだ。
昼前の刻が、そろそろ、終わろうとしていた。もうすぐ、昼だ。昼になれば、また、町は、少し忙しくなる。勤め帰りの人が、昼めしを食べに、通りに出てくる。市原巡査も、そろそろ、昼の巡回に出なければならない。
彼は、立ち上がった。制帽をかぶり直して、南の窓を、もう一度、見た。
青い一点は、もう、見えなかった。目を凝らしても、白い空が、広がっているだけだった。
けれど、彼は、微笑んだ。
見えなくても、あるんです。星も、手袋も。
女の言葉が、耳に残っていた。
彼は、交番の鍵を、腰に下げた。それから、机の上を、きちんと片づけた。湯呑みを洗い、受付簿を引き出しにしまい、丸椅子を、壁ぎわに寄せた。窓ぎわの落とし物を、見た。傘が三本。子どもの水筒が一つ。髪留めと、鍵。手袋のあったところは、空いていた。その空いたところに、南の窓の白い光が、さしていた。
明日も、誰かが、何かを、落とすだろう。誰かが、道を訊くだろう。誰かが、迷子になるだろう。権蔵さんは、また、水を飲みに来るだろう。それが、この町の、日常だった。小さな事件にもならない、ありふれた、日々。
その日々の、ひとつひとつに、ちゃんと、してやれることをする。
それが、町のお巡りさんの、ささやかな、矜持だった。
三
昼の巡回から戻ったのは、一時をまわったころだった。
市原巡査は、交番の引き戸を開けて、なかに入った。南の窓の光は、もう、机の端のほうに、移っていた。昼を過ぎて、日が、西へまわりはじめている。
彼は、制帽を脱いで、机の上に置いた。それから、湯呑みに、新しい茶を、注いだ。今度は、あたたかい茶だ。あたたかい茶を、一口飲んで、彼は、椅子に座った。
巡回のあいだにも、いろいろなことがあった。魚屋の前で、猫が、二匹、けんかをしていた。文房具屋のおかみさんが、店先の鉢植えに、水をやっていた。小学校の裏の、空き地で、老人が、一人、ゲートボールの素振りをしていた。誰も、彼に、用はなかった。ただ、通りを歩く彼に、何人かが、会釈をした。市原巡査も、会釈を返した。
町のお巡りさんの巡回というのは、そういうものだ。何も起こらない。何も起こらないのが、いちばんいい。何も起こらない町を、ただ、歩いて、見て、まわる。町の人が、安心して、暮らせるように。それが、仕事だ。
彼は、茶を飲みながら、午前中のことを、思い返した。
白い、片方だけの手袋。あれは、あの女の、母親の手袋だった。母親が、目の見えなくなった手で、一針一針、繕った手袋。片方をなくしても、捨てられなかった手袋。娘が、母を亡くしたあとも、お守りのように、持ち歩いていた手袋。
それが、今朝、乾物屋の前に、落ちていた。富江さんが、拾った。彼が、預かった。そして、女が、取りに来て、帰っていった。
たったそれだけの、ことだった。事件でも、なんでもない。落とし物が、持ち主のところに、帰った。ただ、それだけ。
けれど、彼には、その「それだけ」が、なんだか、とても、大きなことのように、思えた。
片方だけの手袋というのは、さびしいものだ、と、朝、彼は思った。もう片方が、どこかにあるはずだ、という気持ちにさせられる、と。けれど、あの手袋は、もう、片方だけで、よかったのだ。もう片方は、ずっと前に、なくなっていた。それでも、あの手袋は、片方だけで、ちゃんと、意味があった。母親の、手の記憶が、そこに、繕い跡として、残っていた。片方だけでも、その手袋は、母親そのものだった。
見えなくても、あるんです。星も、手袋も。
もう片方の手袋は、見えない。けれど、それは、あの女の心のなかに、たしかに、ある。母親も、亡くなって、もう、見えない。けれど、片方だけの手袋のなかに、たしかに、いる。
彗星も、そうだ。昼前の白い空に、彗星は、見えない。けれど、あの青い一点は、いまも、空の向こうを、渡っている。見えないだけで、そこに、ある。
市原巡査は、窓の外を見た。午後の空は、少し、雲が出てきていた。白い雲が、ゆっくり、流れていた。彗星は、もう、どこにあるのか、彼には、わからなかった。けれど、あるのだ、と、彼は思った。見えなくても、ある。
夕方近く、権蔵さんが、また、やってきた。
「よう、お巡りさん」
「権蔵さん。今日は、二度目ですね」
「そうさ。散歩のついでにな。喉が渇いた」
市原巡査は、また、コップに水を注いでやった。権蔵さんは、うまそうに、それを飲んだ。
「そういえば、お巡りさん」と権蔵さんは言った。「あの手袋は、どうなった。片っぽの、白いやつ」
「持ち主が、取りに来ましたよ」
「ほう。来たか」
「亡くなったお母さんの、手袋だったそうです。目の見えなくなった手で、お母さんが、自分で繕った手袋で」
権蔵さんは、しばらく、黙っていた。それから、水のコップを、両手で包むようにして、言った。
「そうか。母親のか。……わしのばあさんも、縫い物が、上手でな」
「その話、朝も、聞きましたよ」
「そうだったか」
権蔵さんは、はにかむように、笑った。
「歳をとると、同じ話ばかり、してしまう。すまんな」
「いえ。何度でも、聞きますよ」
市原巡査は、そう言った。本当に、そう思っていた。権蔵さんの、同じ話を、何度でも、聞く。それも、町のお巡りさんの、仕事のうちだ、と、彼は思っていた。いや、仕事、というより、それは、もっと、あたたかい、何かだった。
権蔵さんは、水を飲みおえて、コップを、机の上に置いた。
「お巡りさん」と権蔵さんは言った。「あんた、いい、お巡りさんに、なったな」
市原巡査は、少し、驚いた。
「そう、ですか」
「うん。来たばかりのころは、頼りなくて、見とられんかったが。近ごろは、なかなか、様になっとる。町の連中も、みんな、言うとるぞ。若いお巡りさんは、いい、って」
市原巡査は、なんと言っていいか、わからなかった。ただ、顔が、少し、熱くなった。
「内田さんの、跡を継ぐんだ。しっかり、やってくれよ」
「はい」
権蔵さんは、丸椅子から、立ち上がった。少し、よろけて、机に手をついた。それから、笑って、言った。
「また、来る。水を、飲みに」
「はい。いつでも、どうぞ」
権蔵さんは、引き戸を開けて、出ていった。夕方の光が、開いた戸の隙間から、さっと、差し込んで、また、閉まった。
日が暮れて、街灯がともるころ、市原巡査の勤務は、終わった。
交代の巡査が、やってきた。夜勤の、田口という、彼より少し年上の男だ。
「市原、お疲れ。何か、あったか」
「いえ。特に、事件は。落とし物が、一件、返還されたくらいで」
「そうか。平和で、けっこう」
市原巡査は、引き継ぎの、簡単な書類を書いて、田口巡査に渡した。それから、制帽をかぶり、荷物を、まとめた。
交番を出る前に、彼は、もう一度、南の窓を、見た。
夜の空だった。街灯の光で、星は、あまり見えない。けれど、彼は、目を凝らした。あの、青い一点。彗星は、いま、どこにあるのだろう。夜になれば、また、見えるのだろうか。
「田口さん」と彼は言った。「今夜、彗星、見えますかね。ミラ彗星」
「ああ、聞いたな、その話。さあ、どうだろう。町なかだと、街灯が、明るいからな。川べりまで行けば、見えるかもしれん」
「そうですか」
市原巡査は、窓から、目を離した。
「じゃあ、田口さん。お先に」
「おう。お疲れ」
彼は、交番を出た。
外は、夜だった。
昼前の、白い空とは、まるで違う、藍色の空。街灯の下を、勤め帰りの人が、歩いていく。商店街の店は、半分ほど、閉まりかけている。乾物屋の富江さんの店も、もう、暗かった。染物屋の、権蔵さんの息子の店には、まだ、明かりがついていた。
市原巡査は、家に帰る道を、歩いた。
歩きながら、彼は、川べりのほうへ、少し、遠回りをした。彗星を、見てみようか、と思ったのだ。明け方に見えたという、あの青い彗星を、今夜こそ、この目で。
川べりに出ると、街灯が、少なくなって、空が、暗くなった。彼は、立ち止まって、空を見上げた。
星が、いくつか、見えた。けれど、彗星が、どれなのか、彼には、わからなかった。青い尾を引いた星は、どこにも、見あたらなかった。あるいは、もう、時刻が違うのかもしれない。明け方に見えて、夜には見えないのかもしれない。
彼は、しばらく、空を見上げていた。
見えなくても、あるんです。
女の言葉を、思い出した。
見えなくても、あの彗星は、いまも、空の向こうを、渡っている。ゆっくり、ゆっくり、この町の上を、通り過ぎていく。何百年も、何千年も、かけて。この町の、小さな出来事を、たくさん、その下に見ながら。落とし物が、持ち主に帰るのを。迷子が、母親に、抱きしめられるのを。老人が、水を飲みに、交番に来るのを。そして、若いお巡りさんが、少しずつ、町のお巡りさんに、なっていくのを。
彼は、微笑んだ。
そして、ふと、ある歌を、思い出した。
子どものころ、母が、歌ってくれた、子守唄だった。
眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。
そんな歌詞の、子守唄。ずいぶん、忘れていた。けれど、川べりで、星を見上げていると、なぜだか、その歌が、口をついて出た。
眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。
彼は、小さな声で、それを、口ずさんだ。誰も、聞いていなかった。川の水の音だけが、さらさらと、答えるように、聞こえた。
星が、海を、わたるまで。彗星が、この空を、わたりきるまで。それには、きっと、途方もない、時間がかかる。人の一生などより、ずっと、長い時間が。その長い時間のなかで、人は、生まれて、暮らして、死んでいく。手袋を、繕って。片方を、なくして。それでも、大事に、持ちつづけて。そして、いつか、それを、誰かに、遺していく。
小さな、暮らし。
彗星から見れば、針の先ほどにも、ならない、小さな、小さな暮らし。
けれど、その小さな暮らしの、ひとつひとつが、たしかに、そこに、ある。見えなくても、ある。
市原巡査は、川べりから、家路につくために、歩きだした。
歩きながら、彼は、明日のことを、少し、考えた。
明日も、昼前になれば、あの交番の、南の窓が、白く、光るだろう。ぬるい茶を飲みながら、通りをゆく、下駄の音を、数えるだろう。誰かが、落とし物を、届けにくるだろう。誰かが、道を訊くだろう。権蔵さんが、水を飲みに、来るだろう。
そういう、ありふれた、日々。
小さな事件にもならない、日々の連なりが、また、はじまる。
けれど、彼は、もう、それを、退屈だとは、思わなかった。むしろ、その、ありふれた日々のなかに、宝物のような一齣が、ときどき、まぎれこんでいることを、彼は、今日、知った。片方だけの、白い手袋のような。目の見えない手で繕われた、繕い跡のような。見えないけれど、たしかにある、彗星のような。
それを、見逃さないように。
それを、ちゃんと、拾い上げられるように。
そういう、お巡りさんに、なりたい、と、彼は思った。
道を訊かれたら、途中の目印を、一つ、入れて、教える。迷子には、飴を、一つ、あげる。酔い覚めの老人には、水を、一杯、注ぐ。同じ話を、何度でも、聞く。落とし物を、大事に、預かって、持ち主が来るのを、待つ。
たったそれだけの、ことを、ていねいに。
それが、この町の、お巡りさんの、仕事だった。
家に着くと、彼は、玄関の戸を開けた。
小さな、借家だった。一人暮らしの、質素な部屋。台所の窓から、月が、少し、見えた。
彼は、制服を脱いで、洗面所で、顔を洗った。冷たい水が、気持ちよかった。それから、台所で、湯を沸かして、茶を、いれた。今度は、あたたかい、自分のための茶だ。
茶を飲みながら、彼は、ふと、あの女のことを、思った。
あの女は、いまごろ、家で、あの、片方だけの手袋を、また、鞄にしまっているだろうか。それとも、今度は、なくさないように、どこか、大事なところに、しまっているだろうか。母親の、繕い跡のある、白い手袋。
母が、また、私のところに、帰ってきてくれた気がします。
女の言葉を、思い出した。
落とし物が、持ち主に帰る。ただ、それだけのことが、ときどき、こんなにも、大きな意味を、持つことがある。彼は、今日、それを、知った。
窓の外の、月を見た。月の光が、台所の、小さな机を、青白く、照らしていた。
その光のなかで、彼は、ふと、思い出した。今朝、当直明けの先輩が、言っていた。夜のうちに、町のどこかに、古い本屋が、出るという、噂を。
「知っとるか、市原。この町に、夜だけ出る、本屋が、あるんだと。月光書房、っていう、古本屋だ。夜のうちに、どこからともなく現れて、朝になると、消えとる。誰も、場所を、知らん。会えるのは、探しとらん人だけ、だそうだ」
「まさか。そんな、本屋、あるわけ」
「おれも、見たこと、ないがな。けど、川向こうの、じいさんが、若いころ、一度だけ、入ったことが、あるって、言っとった。青い、マッチ箱を、もらったそうだ。月光堂の、青いマッチ箱。それが、証拠だ、って」
市原巡査は、その話を、半分、笑って、聞いていた。夜だけ出る、本屋。そんなもの、あるはずがない。けれど、いま、月の光を見ていると、ふと、そんな本屋が、この町の、どこかの路地に、ほんとうに、あるような気が、してくるのだった。
見えなくても、あるんです。
女の言葉が、また、耳に残った。
見えないだけで、そこに、ある。夜の本屋も、彗星も、亡くなった母親も。それから、片方だけの、白い手袋の、もう片方も。どこかに、たしかに、ある。
市原巡査は、茶を飲みおえて、湯呑みを、洗った。
それから、床に就いた。
眠りにつく前に、彼は、また、あの子守唄を、思い出した。
眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。
母が、歌ってくれた、子守唄。その母も、いまは、遠い田舎で、年老いている。今度、休みが取れたら、帰ってみようか、と、彼は思った。帰って、母の顔を、見よう。母が、生きているうちに。手袋の、あの女のように、なくしてしまってから、後悔しないように。
眠れ、眠れ。
彼は、目を閉じた。
翌朝。
市原巡査は、また、あの交番に、出勤した。
朝のうちは、東の窓が、明るかった。通勤の自転車の群れ、駅へ急ぐ革靴の音、子どもらの、上履き袋を揺らす、小走り。朝の、慌ただしい波。
そして、九時をまわると、その波が、ひいた。
日が、まわって、南の窓が、白く、光りはじめた。
市原巡査は、その、白い光のなかに座って、湯呑みに、茶を注いだ。ぬるくなるのを、待つように、しばらく、置いておく。通りを、下駄の音が、通り過ぎた。買い物籠を提げた、奥さん。犬を連れた、隠居。乳母車の、軋み。
町が、ひと息ついて、のんびりと、動きはじめる、刻。
彼は、南の窓の外の、白い空を、見上げた。
昨日と、同じ、白い空。目を凝らすと、南のはずれに、針の先ほどの、青い点が、あるような、ないような。彗星は、まだ、あそこを、渡っているのだろうか。
彼は、微笑んだ。
そのとき、引き戸が、がらりと、開いた。
「お巡りさん、いる?」
顔を出したのは、乾物屋の、富江さんだった。前掛けをしたまま、片手に、何か、提げている。
「いますよ、富江さん。どうしました」
「これね、うちの店の前に、落ちてたんよ」
富江さんが、差し出したのは、今日は、子どもの、赤い長靴だった。片方だけ。
市原巡査は、笑って、それを、受け取った。
「また、片っぽですか」
「そうなんよ。なんでか、うちの店の前は、片っぽの、落とし物が、よう落ちる。ふしぎな店やねえ」
「そうですねえ」
市原巡査は、その、赤い長靴を、窓ぎわの棚に、置いた。傘が、三本。子どもの、水筒が、一つ。髪留めと、鍵。そして、今日は、赤い長靴が、一つ。
彼は、拾得物の受付簿を、ひらいて、日付を、書いた。七月一日。時刻、九時二十五分。品名、子ども用長靴、赤、片方。
書きながら、彼は、思った。この長靴の、もう片方も、どこかに、ある。持ち主の子どもも、どこかに、いる。きっと、片方だけの長靴を、履きそこねて、困っているだろう。あるいは、母親が、なくした片方を、探しているだろう。
いつか、取りに来るだろうか。来ないかもしれない。けれど、来るまで、彼は、預かる。窓ぎわの、白い光のなかで、その、赤い長靴を、大事に。
それが、町の、お巡りさんの、ありふれた、けれど、かけがえのない、一日の、はじまりだった。
南の窓の外に、昼前の、白い空が、広がっていた。その空の、どこか高いところを、青い彗星が、誰にも見えないまま、静かに、渡っていった。