砂のあたたかくなるころ
園庭の砂は、昼前になるとちょうどいい温さになる。
朝いちばんはまだ夜の冷たさを溜めていて、素足で踏むとひやりとする。それが陽に炙られて、九時をすぎ、十時をまわるころには、指のあいだにさらさらとこぼれる乾いた温もりになる。わたしはこの温さの砂を、この仕事について三年目にしてようやく、身体で覚えた。子どもたちはとうに知っている。だれに教わったわけでもなく、裸足になっていい時刻と、まだ靴を脱いではいけない時刻とを、足の裏で分けている。
「せんせい、ミミズ」
砂場のふちにしゃがんだ悠真が、細い枝の先で地面をつついている。掘り返した黒い土のなかで、桃色の紐みたいなものが身をよじっていた。
「ほんとだ。ミミズさん、朝ごはん食べてたのかな」
「ミミズ、なにたべるの」
「土のなかの、こまかいものを食べるんだって。土を食べて、きれいな土にして、ぷりって出すの」
「うんこするの」
「うんこするよ」
悠真は真剣な顔でうなずいて、それからミミズをそっと土のうえに戻した。枝の先で、埋めるでもなく、殺すでもなく、日陰になっている砂場の板のかげに、丁寧に押しやった。そういう手つきを見ていると、この子たちのなかには、まだ言葉になっていない親切がいくつも住んでいるのだとわかる。
「ミミズさん、あついとかわいそう」
「そうだね。日かげのほうが、すずしいもんね」
「せんせい、ミミズさんのおうち、どこ?」
「土のなかだよ。ふかいところに、おうちがあるの」
悠真は、しばらく土のうえをじっと見ていたけれど、やがて満足したように立ち上がって、スコップを取りに走っていった。二歳の子の関心は、風のように移っていく。さっきまで世界のいちばん大事だったことが、次の瞬間には、砂の山に変わっている。それでいいのだと、わたしは思う。子どもの心は、いつも、いまここにある。
わたしの名前は篠田あかり。二十四になったばかりの保育士だ。この「ひなたぼっこ保育園」で、二歳児クラス、ゆり組を主任の松尾先生と二人で受け持っている。園児は十二人。多いようで少ないようで、十時をまわるころにはちょうど手が足りなくなる人数だ。
昼前というのは、一日のうちでいちばん園庭がにぎやかになる。登園の慌ただしさは片づき、おやつのあとの散歩や外遊びの時間で、まだ昼寝の眠気は来ていない。歓声が、桜の枝越しの空に散らばっていく。だれかが泣けば、その泣き声さえも、にぎわいのなかにほどけていく。
けれど今朝は、そのにぎわいのなかで、ひとりだけ泣きやまない子がいた。
菜々ちゃんだ。
門のところで、母親の手を離すまいとして泣き、離れてからも泣き、砂場に連れてきても泣いている。もう三十分になる。二歳の泣き声というのは、はじめは全身をつかって上げるのだが、やがて体力が続かなくなって、しゃっくりみたいな、途切れとぎれのすすり泣きになる。菜々ちゃんはいま、その途切れとぎれの段階に入っていた。
「なーちゃん、おいで」
わたしが手を差し出すと、菜々ちゃんはいやいやと首をふって、園舎の壁ぎわに置かれた三輪車の陰に、もっと小さくうずくまった。
無理に抱き上げてはいけない。それは去年、松尾先生に教わった。泣いている子を早く泣きやませようとすると、その子は「泣くこと」そのものを取り上げられたと感じる。泣きたいときに泣けないと、二歳の子はもっと深いところで心細くなる。だから、待つ。そばにいて、待つ。
わたしは三輪車の陰に、菜々ちゃんと少し離れてしゃがんだ。無理に顔をのぞきこまず、同じ方向を向いて座る。菜々ちゃんの視線の先には、砂場と、鉄棒と、その向こうの低いブロック塀があった。
「なーちゃん、ママは、お仕事に行ったねえ」
しゃくり、と菜々ちゃんの肩が上下する。
「ママは、夕方お迎えに来るよ。ちゃんと来るよ」
「……こない」
はじめて言葉になった。
「来るよ。なーちゃんのママは、ぜったい来る」
「……きのう、きた」
「うん、来たね」
「……おとといも、きた」
「うん、来たねえ」
「……きょうは」
「今日も来るよ」
菜々ちゃんは、それでもまだ信じきれない顔をしていた。二歳の子にとって、「夕方」というのは気の遠くなるくらい先のことなのだ。朝、母と別れた瞬間に、その別れは永遠のように感じられる。時間の遠近感が、まだできあがっていない。夕方という言葉は、たぶん菜々ちゃんの耳には、月の裏側くらい遠くに響いている。
「あかり先生、菜々ちゃんは?」
砂場のほうから松尾先生が声をかけてきた。エプロンの裾を園児の一人にひっぱられながら、それでも余裕のある笑みを浮かべている。松尾先生は五十をいくつか超えていて、この仕事をわたしの生きてきた年数よりも長く続けている。
「まだ、ちょっと」
「そう。いいのよ、ゆっくりで。菜々ちゃんは、火曜がつらいのよね」
そうだった。菜々ちゃんの母親は、火曜だけ朝が早い。他の曜日はもう少しゆっくり別れられるのに、火曜は職場の朝礼だとかで、慌ただしく門で別れる。子どもというのは、そういう曜日のちがいを、カレンダーではなく身体で覚えているらしい。菜々ちゃんは火曜の朝の空気を、たぶん皮膚で知っている。
「あのね、なーちゃん」
わたしは砂を一つかみ手にとって、菜々ちゃんの前でさらさらと落としてみせた。
「この砂、あったかいよ。さわってみる?」
菜々ちゃんは、うずくまったまま、目だけをこちらに向けた。泣きすぎて、まつげが濡れて、束になっている。
「あったかいの?」
「うん。朝はつめたかったけど、いまはあったかい。おひさまが、あっためてくれたの」
わたしは菜々ちゃんの手を取らず、ただ自分の手のひらに砂をのせて、差し出した。菜々ちゃんは、しばらくためらってから、人差し指を一本、そろりと伸ばした。指の先が砂に触れる。
「……あったかい」
「でしょう」
その「あったかい」のひとことで、菜々ちゃんの肩から、すこしだけ力が抜けたのがわかった。泣くことと、あったかいことは、同じ心のなかに同時にあっていい。二歳の子はそれをまだ、頭では知らない。でも指先で、いま覚えたのかもしれなかった。
わたしは、砂をもう一つかみ、菜々ちゃんの前で落としてみせた。さらさら、と音もなくこぼれていく砂を、菜々ちゃんは、じっと見ていた。
「なーちゃんも、やってみる?」
菜々ちゃんは、首をふった。まだ、右手を胸のほうに引き寄せている。左手だけを、そろりと差し出して、わたしが落とす砂を、手のひらで受けた。指のあいだから、砂がこぼれる。そのくすぐったさに、菜々ちゃんの口もとが、ほんのわずか、ゆるんだ。
砂というのは、不思議なものだ。にぎろうとすると、指のあいだからこぼれてしまう。強くにぎればにぎるほど、こぼれていく。でも、手のひらをひらいて、ただのせておくと、いつまでもそこにある。子どもの心を受けとめるのも、たぶん、それと似ている。にぎりしめようとすると、逃げていく。ひらいて、待つ。そうすると、いつのまにか、そこにいる。
砂場のほうで、小さな諍いが起きていた。
「それ、ぼくの!」
「ちがう、わたしの!」
蒼太と、ひなの、二人だ。取り合っているのは、黄色いプラスチックのスコップだった。園には同じスコップが六本あるはずなのだが、子どもというのは不思議なもので、ほかに五本転がっていても、いま相手が持っているその一本でなければならなくなる。
わたしが行く前に、松尾先生が動いた。けれど松尾先生は、二人を引き離さなかった。ただそばに膝をついて、二人の顔を交互に見た。
「蒼太くんは、これで、なにを作りたかったの?」
「……おやま」
「ひなちゃんは?」
「……プリン」
「おやまと、プリンかあ。どっちも、いいねえ」
松尾先生は、取り合っているスコップには手を触れなかった。二人が、そのスコップを両側から握りしめたまま、少しずつ、握る力をゆるめていくのを、ただ待っていた。
「あのね、松尾先生、いいこと思いついちゃった。おやまを作って、そのてっぺんに、プリンをのせるっていうのは、どう?」
蒼太が、まばたきをした。
「おやまのうえに、プリン」
「そう。おやまプリン」
「おやまプリン!」
ひなのが笑った。二人はスコップを取り合っていたことなど忘れたみたいに、いっしょに砂を盛りはじめた。もう一本のスコップは、ひなのが自分で拾いにいった。あんなに「そのひとつ」でなければならなかったのに。
わたしは、まだそういう魔法を持っていない。松尾先生の膝のつきかた、声の落としかた、待つ間合いのすべてが、長い年月のなかで身についたものなのだと思う。わたしは、菜々ちゃんの隣にしゃがみながら、それを横目で見て、いつか自分もああなれるだろうかと考えていた。
明け方の話
菜々ちゃんは、砂の温さを指先で確かめてから、少しずつ、三輪車の陰から出てきた。まだ抱っこを求めはしない。でも、わたしの膝に、背中をあずけるようにして座った。二歳の子の背中は、思いのほか熱い。眠っているときも、泣いたあとも、この背中はいつも小さなストーブみたいだ。
「なーちゃん、今朝、おほしさま見た?」
わたしがそう聞いたのは、なんとなくだった。菜々ちゃんの気をそらしたかったのもあるし、それに、今朝わたし自身が見たものを、だれかに話したかったのもある。
「おほしさま?」
「うん。あのね、先生、今朝ね、まだ暗いうちに起きたの。それで、空を見たら、青いお星さまが、ぽつんとひとつ、まだ残ってたの」
菜々ちゃんは、空を見上げた。昼前の空は、もう青く晴れて、雲がひとつふたつ流れているだけだった。
「いまは、見えないねえ。おひさまが出ちゃったから。でもね、明け方には、いたの。まだ暗いところに、ひとつだけ、青いのが」
それは、ほんとうだった。
このところ、新聞にもテレビにも出ている。「ミラ彗星」というのだそうだ。何十年に一度、地球のそばを通る星で、この時季、明け方の東の空に、ほんのりと青い尾をひいて見える。わたしは天文のことはよく知らないけれど、今朝、洗濯物を干そうとベランダに出たとき、ふと空を見上げて、それに気づいた。まだ夜の名残の濃い群青のなかに、青い一点が、にじむように光っていた。
淡い光だった。目を凝らさなければ見えないほどの、遠慮がちな青。けれど、たしかにそこにいた。何十年もかけて、暗いところをずっと旅してきて、いまこの町の上を、静かに通り過ぎていく。
わたしは、そのとき、なぜか胸がしんとした。この星が前にこの町を通ったのは、わたしが生まれるより、ずっと前だ。次に通るときには、わたしはもう、ずいぶんな年寄りになっているか、あるいは、もういないかもしれない。それでも星は、変わらずに、おなじ道を通っていく。人ひとりの一生など、この青い光にとっては、まばたきの一つにも満たないのだろう。そう思うと、なぜだか、心細いというより、少し安心するような気持ちになった。わたしが忘れられても、消えても、この星はまた来る。その律儀さが、なんだか、ありがたかった。
「せんせいのおほしさま?」
「ううん、先生のじゃないよ。みんなのお星さま。なーちゃんのママも、いま、お仕事に行く電車のなかから、もしかしたら見てるかもしれないよ」
菜々ちゃんは、じっと考えているようだった。
「ママも、みてる?」
「見てるかもしれない。おなじお星さまを、なーちゃんも、ママも、見られるんだよ。はなれてても」
わたしは、自分がなにを言っているのか、途中でわからなくなった。二歳の子に、「はなれていても同じ星を見られる」という話が通じるはずもない。でも菜々ちゃんは、なぜかその話を、身体のどこかで受けとめたようだった。もう、泣いていなかった。
十時半になると、園庭に、近所のパン屋の匂いが流れてくる。
「月と麦」という小さな店で、園の塀の向こう、細い路地を一本入ったところにある。ちょうどこの時刻に、昼の焼き上がりがある。バターの焦げるにおいと、あんこの甘いにおいが、風に乗って園庭までとどく。子どもたちは、この匂いをおやつの前ぶれのように嗅ぐ。じっさいには、園のおやつはもう終わっているのだけれど。
「せんせい、いいにおい」
悠真が鼻をひくひくさせた。
「パン屋さんだね。あんぱん焼いてるのかな」
「あんぱん、たべたい」
「おうちに帰ったら、ママに言ってごらん。買ってくれるかもよ」
その匂いのなかを、園庭の砂ぼこりと、子どもたちの汗と、桜の若葉のにおいが混ざって流れていく。わたしはこの匂いが好きだ。この保育園の昼前は、いつもこの匂いがしている。何年たっても、たぶんこの匂いを嗅ぐたびに、わたしはこの園庭を思い出すのだろう。
菜々ちゃんも、鼻をうごかしていた。
「なーちゃんも、いいにおいする?」
「……あんこ」
「あんこの匂いだね。よくわかったねえ」
菜々ちゃんが、はじめて、ほんの少しだけ笑った。泣いたあとの、しゃっくりの残る、頼りない笑いだったけれど、たしかに笑った。わたしはその笑いを、宝物みたいに見た。
「月と麦」のおかみさんは、ときどき、売れ残ったパンの耳を、園の柵ごしに分けてくれる。ふっくらとした四十がらみの人で、いつも小麦粉の白い匂いをさせている。この町の言葉で、「今日はよう焼けたわ、持ってきよ」と言って、ざるいっぱいのパンの耳を差し入れてくれる。子どもたちは、それをおやつに、砂糖をまぶして揚げてもらうのが好きだ。今朝も、たぶん、そのパンの耳を持ってきてくれるだろう。この町の昼前は、そういう、たれかれとない親切でできている。値切るでもなく、恩に着せるでもなく、あまったものを、あたりまえに分け合う。それが、この古い町の、昼前のやりかたなのだ。
片方の手袋
そのとき、わたしは菜々ちゃんの右手が、ずっとにぎりしめられていることに気づいた。
「なーちゃん、手、なに持ってるの?」
菜々ちゃんは、にぎった手を、胸のほうへ引き寄せた。見せたくないのだ。
「見せて、じゃないよ。持ってるんだね、大事なもの」
わたしがそう言うと、菜々ちゃんは、ためらいながら、指をひらいた。
手のなかにあったのは、片方だけの、小さな手袋だった。
赤い毛糸の、二歳児サイズの手袋。もう夏に近いこの時季には、まるで似合わない。片方だけで、もう片方はない。ずいぶん使いこまれていて、指先の毛玉ができて、手首のところのゴムが伸びていた。
「これ、なーちゃんの手袋?」
菜々ちゃんは、こくりとうなずいた。
「もう片方は?」
「……ない」
「なくしちゃったの?」
「ママが、みつけてくれる、って」
わたしは、はっとした。
菜々ちゃんの母親は、たぶん、いつか見つけると約束したのだ。なくした片方を、いつか見つけてあげると。そしてその「見つけてくれる」という約束を、菜々ちゃんは、母がかならず帰ってくることの、たった一つの証拠のようにして、握りしめている。片方だけの手袋。片方がないから、もう片方を探しにきてくれる。だから、ママは来る。
わたしは胸のあたりが、きゅうっとなった。
二歳の子は、まだ「約束」という言葉を知らない。でも、約束のかたちを、身体で持っている。片方だけの手袋を、こんなに大事に握って。もう片方がこの世のどこかにあるかぎり、それを探しにきてくれる人が、この世にいるかぎり、菜々ちゃんは独りではない。
「大事なものだね」
わたしは、菜々ちゃんの手袋には触れなかった。触れてはいけない気がした。ただ、菜々ちゃんが握りやすいように、その小さな手のうえに、わたしの手を、そっと屋根のようにかざした。
「これ、なーちゃんが持ってて。夕方、ママが来たらね、いっしょに、もう片方さがそうねって、言えばいいよ」
「……さがす?」
「うん。先生も手伝うよ。園のなかに、落ちてないか、みんなでさがそう」
菜々ちゃんの目が、すこし、明るくなった。探すという言葉に、希望のかたちがあったのだと思う。なくしたものは、さがせる。さがせば、みつかるかもしれない。それは二歳の子にも、わかることだった。
「あかり先生」
松尾先生が、園舎のほうから手招きしていた。おやまプリンを完成させた蒼太とひなのが、今度は水を汲みたいと言い出して、蛇口の取り合いになりそうなのだ。わたしは菜々ちゃんに「先生、ちょっとだけ行ってくるね。すぐ戻る」と言って立ち上がった。
菜々ちゃんは、一瞬、また泣きそうな顔をした。けれど、握った手袋を見て、それから、砂場のほうを見て、思い直したように、砂の温さのなかに小さな手を差し入れた。
わたしは、蛇口のところへ行った。
「はい、じゅんばんこ。蒼太くんが先ね、そのつぎ、ひなちゃん。おやまプリンに、お水のトンネル掘るんでしょう」
「トンネル!」
子どもというのは、順番を守るのが苦手なようでいて、じつは、順番があると安心する。「つぎはきみ」と決まっていることが、争いよりも心地よいのだと、この仕事をして知った。争いは疲れる。二歳の子だって、ほんとうは争いたくない。ただ、ゆずりかたを知らないだけなのだ。
蛇口から出る水は、まだ少し冷たかった。それでも、蒼太もひなのも、指先を水にひたして、きゃっきゃと笑った。水の冷たさと、砂の温さ。この園庭は、その両方でできている。
子守唄のこと
昼寝の前に、わたしはいつも子守唄をうたう。
正確には、松尾先生から教わった唄だ。松尾先生が、そのまた先輩から教わったのだという。この園に、いつからあるのかわからない、古い子守唄。
眠れ 眠れ
星が海をわたるまで
眠れ 眠れ
母さん帰る朝までを
短い唄だ。メロディーはとても素朴で、どこか物悲しい。けれど不思議と、この唄をうたうと、どんなに騒いでいた子も、少しずつまぶたが重くなる。
わたしがこの唄をはじめて聞いたのは、去年の春、まだ研修中だったころだ。松尾先生が、熱を出して早退できずにぐずっていた子を、抱っこして、この唄をうたっていた。「星が海をわたるまで」というところで、その子はもう眠っていた。
わたしは松尾先生に聞いた。この唄、どこの唄ですか、と。
松尾先生は、少し考えて、こう言った。
「さあ、どこの唄でしょうねえ。わたしもね、若いころ、この園の先輩に教わったの。その先輩も、そのまた先輩に教わったって。だから、ずいぶん古い唄なんだと思う。でもね、あかりちゃん、こういう唄はね、どこの唄でもないの。うたう人の唄なのよ。あなたがうたえば、あなたの唄になる」
そのとき、わたしにはその意味がよくわからなかった。でも、今日、菜々ちゃんの背中を抱いて、この唄をうたうことになって、少しだけわかった気がする。
十一時が近づくと、園庭にいた子どもたちが、一人、また一人と、園舎のなかへ戻りはじめる。手を洗い、靴をそろえ、お昼ごはんの支度だ。にぎやかだった園庭が、しだいに静かになっていく。桜の枝で、ちいさな鳥が鳴いている。
菜々ちゃんは、最後まで園庭にいた。
砂のなかに手を差し入れたまま、じっとしていた。片方の手袋は、いつのまにか、上着のポケットにしまってあった。なくさないように、深く、深く。
「なーちゃん、そろそろお部屋に入ろうか。ごはんだよ」
菜々ちゃんは、うなずいた。もう、泣いていなかった。立ち上がって、わたしの手を、自分から握った。小さな、あたたかい手だった。まだ砂の粒がついている手。その手を、わたしは強すぎず、弱すぎず、握り返した。
園舎に入るとき、菜々ちゃんが、ふと立ち止まって、空を見上げた。
「せんせい」
「なあに」
「おほしさま、まだいる?」
わたしも、空を見上げた。昼前の、青く晴れた空。もちろん、星は見えない。おひさまが、すべての星を光のなかにかくしてしまっている。
でも、わたしはこう言った。
「いるよ。見えないけど、いる。おひさまのむこうに、ちゃんといる。青いお星さまは、暗くなったら、また出てくるよ」
「よるになったら?」
「うん。よるになったら。でもね、なーちゃんは、そのまえに、おうちに帰ってるよ。ママといっしょに」
菜々ちゃんは、それで納得したようだった。見えなくても、いる。それは、菜々ちゃんが今朝からずっと確かめたかったことと、たぶん同じことだった。ママは、見えなくても、いる。夕方には来る。片方の手袋を、いっしょに探してくれる。
見えないものを信じるというのは、大人には難しい。でも二歳の子は、それを、ごく自然にやってのける。むしろ、大人になるにつれて、わたしたちはそれを忘れていくのかもしれない。
お昼のしたく
お部屋に入ると、給食の匂いがしていた。
今日はカレーの日だ。子どもたちは、カレーの匂いを嗅ぐと、それだけで機嫌がよくなる。エプロンをつけ、手を洗い、小さな椅子にちょこんと座る。十二人のゆり組が、それぞれの席についていく。
菜々ちゃんも、自分の席についた。今朝はあんなに泣いていたのに、いまは、隣の悠真となにか話している。二歳の子の切り替えの早さには、いつも驚かされる。大人なら一日引きずるようなことを、この子たちは、砂の温さや、あんこの匂いや、カレーの匂いで、するりと乗り越えていく。
「いただきますの、ごあいさつ」
松尾先生が、両手を合わせる。
「いただきます」
十二の、小さな声がそろう。ばらばらのようでいて、どこかそろっている、二歳の子の声。わたしは、その声を聞くのが好きだ。この声を聞くために、朝、眠い目をこすって起きているようなものだ。
カレーを食べる菜々ちゃんの、口のまわりが、みるみる黄色くなっていく。上着のポケットには、片方の手袋がある。それを、菜々ちゃんは、食べながらも、ときどきポケットのうえから、そっと押さえていた。あるかどうか、確かめるように。
わたしは、その手つきを見ながら、松尾先生の言葉を思い出していた。うたう人の唄なのよ、と。
きっと、この片方の手袋も、菜々ちゃんの手袋なのだ。もう片方がどこにあろうと、いつ見つかろうと、それは関係ない。菜々ちゃんが握るから、菜々ちゃんの手袋になる。菜々ちゃんが、そこに母の約束を見るから、それは約束になる。
物は、それ自体には意味がない。意味を持たせるのは、いつも、それを握る人の心なのだ。
給食のあと、絵本を読んでから、昼寝の時間になる。
布団を敷き、カーテンを引き、部屋を少し暗くする。子どもたちは、それぞれの布団にもぐりこむ。まだ眠くない子は、ごろごろと寝返りをうつ。松尾先生が、ひとりずつ、背中をとんとんとしていく。
菜々ちゃんの布団のそばに、わたしは座った。
菜々ちゃんは、目をぱっちりと開けていた。眠れないのだ。今朝あんなに泣いて、疲れているはずなのに。片方の手袋を、布団のなかで、しっかりと握っている。
「なーちゃん、ねむれない?」
こくり、とうなずく。
「そっか。じゃあ、先生が、おうたうたってあげる」
わたしは、菜々ちゃんの背中に、そっと手をあてた。そして、あの子守唄をうたいはじめた。
眠れ 眠れ
星が海をわたるまで
小さな声で。菜々ちゃんの耳にだけ届くように。
眠れ 眠れ
母さん帰る朝までを
菜々ちゃんのまぶたが、少しずつ、重くなっていく。「母さん帰る」というところで、菜々ちゃんの手が、手袋を握ったまま、ふっとゆるんだ。眠りに落ちる、その瞬間だった。
わたしは、もう一度、小さくうたった。
眠れ 眠れ
星が海をわたるまで
菜々ちゃんは、眠っていた。
寝顔は、あんなに泣いていたことが嘘みたいに、おだやかだった。手のなかの片方の手袋が、寝息に合わせて、かすかに上下している。わたしは、その手袋が布団からこぼれ落ちないように、菜々ちゃんの手を、布団のなかへ、そっと戻した。
松尾先生の手袋
「よく眠ったわね」
いつのまにか、松尾先生が隣に来ていた。ほかの子はみな寝入って、部屋のなかは、寝息だけが満ちている。カーテンの隙間から、昼前の光の名残が、細く差しこんでいる。
「菜々ちゃん、今朝はほんとうに大変で。でも、あの片方の手袋を、ずっと握ってました」
「あの手袋ね」
松尾先生は、菜々ちゃんの寝顔を見ながら、少し声をひそめた。
「お母さんがね、いつか見つけてあげるって、約束したんですって。菜々ちゃん、それをよりどころにしてるんです」
「そうなの」
松尾先生は、しばらく黙っていた。それから、思い出したように言った。
「わたしもね、あかりちゃん。むかし、片方だけの手袋を、大事にしてた時期があったの」
「先生が?」
「ええ。もうずいぶんむかし。わたしが、まだあなたくらいの若さで、この仕事をはじめたばかりのころ。ちょっと、つらいことがあってね。うまく子どもとかかわれなくて、辞めようかと思ってた時期があったの」
わたしは、驚いた。松尾先生にも、そんな時期があったのか。いまの松尾先生からは、想像もできない。
「そのころね、受け持ってた子が一人、片方の手袋をなくしてね。わたし、園じゅう探したんだけど、どうしても見つからなくて。その子、毎日泣くのよ。ママが編んでくれた手袋だったの。それでわたし、家に帰ってから、なくした片方に似せて、自分で編んだの。夜なべして」
「編んだんですか」
「ええ。下手くそでね。色もちょっとちがってた。でも、その子に渡したら、大喜びしてね。『みつかった!』って。ほんとうは、見つかってなんかいないのに」
松尾先生は、小さく笑った。
「でもね、そのときわたし、思ったの。ああ、この仕事は、なくしたものを、ときどき、こっそり、また作ってあげる仕事なんだって。ほんとうのものは戻ってこなくても、その子が信じられるものを、そっと差し出す仕事。それで、辞めるのをやめたの」
わたしは、菜々ちゃんの寝顔を見た。手のなかの、片方の手袋を。
「じゃあ、菜々ちゃんの手袋も」
「見つかったら、それがいちばんいいわね。でも、もし見つからなくても」
松尾先生は、そっと言った。
「お母さんが、ちゃんと約束を覚えているかぎり、あの手袋は、片方でも、菜々ちゃんの宝物なのよ。片方だけでも、ちゃんと、ぬくもりがある。むしろ、片方だけだからこそ、探す人がいる。探す人がいるっていうことは、待っていてくれる人がいるっていうことだから」
わたしは、その言葉を、胸のなかで繰り返した。片方だけだからこそ、探す人がいる。
昼寝の時間、わたしは窓ぎわに立って、外を見ていた。
園庭は、しんとしている。さっきまでの歓声が嘘のように、砂場も、鉄棒も、三輪車も、昼前の光のなかで静まっている。だれもいない園庭には、子どもたちの足あとだけが、いくつも残っていた。おやまプリンの、崩れかけた砂の山も、そのままだ。
空を見上げた。
昼前の空は、もう淡い水色になって、朝の群青は、すっかり溶けてしまっている。ミラ彗星は、もう見えない。でも、あそこにいる。おひさまの光のむこう、青い一点になって、いまも旅を続けている。何十年もかけて暗いところを渡ってきて、この町の空を、ほんの数日だけ通り過ぎて、また暗いところへ帰っていく。
そして、次にこの町の上を通るときには、いま眠っている菜々ちゃんは、もう大人になっている。もしかしたら、母親になって、自分の子に「あのお星さま、むかし見たよ」と話しているかもしれない。片方の手袋の話は、もう忘れているだろうか。それとも、覚えているだろうか。
目が覚めて
一時間ほどして、子どもたちが目を覚ましはじめた。
昼寝から覚める瞬間の子どもの顔は、この世でいちばん無防備で、いちばんかわいい。まだ夢のなかにいるような、とろんとした目で、身体を起こし、あたりを見まわす。だれかを探すように。たいていは、母を探している。母がいないことを思い出して、もう一度、少しだけ心細くなる。でも、そのころにはもう、夕方がすぐそこまで来ている。
菜々ちゃんも、目を覚ました。
まず、手のなかを確かめた。片方の手袋が、そこにあるかどうか。あった。菜々ちゃんは、ほっとした顔をして、それから、部屋のなかを見まわした。
「せんせい」
わたしを、見つけた。
「なーちゃん、おはよう。よく寝たね」
菜々ちゃんは、布団から起き上がって、わたしのところへ、とことこと歩いてきた。そして、片方の手袋を、わたしに差し出した。
「せんせい」
「なあに?」
「これ、いっしょに、さがして」
わたしは、菜々ちゃんの手から、その手袋を受け取った。今度は、触れてもいい気がした。菜々ちゃんが、自分から差し出したから。
赤い毛糸の、片方だけの、小さな手袋。手のひらにのせると、思いのほか軽くて、けれど、ずっしりと重かった。この軽いものが、二歳の子の心を、朝からずっと支えてきたのだ。
「うん。いっしょにさがそう。ママが来る前に、先生と、園のなか、ぜんぶ探してみようか」
菜々ちゃんが、大きくうなずいた。
わたしたちは、園のなかを探した。
下駄箱の下も。ロッカーのなかも。絵本の棚のうしろも。給食室の入り口も。園庭の砂場も。三輪車の陰も。もちろん、片方の手袋は、どこにもなかった。なくしたのは、この園ではないのかもしれない。おうちなのかもしれない。あるいは、もう、この世のどこかで、だれにも知られずに、雨に濡れているのかもしれない。
でも、探すことが、大事だった。
菜々ちゃんは、真剣な顔で、あちこちを覗きこんだ。ときどき、「あ!」と声をあげて、赤いなにかを見つけては、それがただの落ち葉や、だれかのクレヨンだったりして、がっかりした。そのがっかりする顔さえ、わたしには愛おしかった。
「みつからないねえ」
「うん。みつからないね」
「……ママ、みつけてくれるかな」
「みつけてくれるよ。ママは、約束したんでしょう」
「……やくそく」
菜々ちゃんが、その言葉を、はじめて口にした。約束。もう片方は、ママが見つけてくれる。それは、約束。菜々ちゃんは、その言葉を、大事そうに、もう一度つぶやいた。
「やくそく」
迎えの刻
窓の外の光が、少しずつ、傾きはじめる。
昼前が、昼になり、午後になり、やがて夕方になる。一日は、こうして流れていく。子どもたちの声が、また園庭に散らばり、おやつの時間になり、そして、お迎えの時間になる。
でも、その前に。
わたしは、菜々ちゃんと、もう一度、園庭に出た。まだ昼過ぎで、夕方には早い。でも、菜々ちゃんが、どうしても、と言うので。菜々ちゃんは、片方の手袋を握って、砂場のふちに座った。
「せんせい」
「なあに」
「よるになったら、おほしさま、でる?」
「出るよ。青いお星さま、また出るよ」
「なーちゃん、みれる?」
わたしは、少し考えた。夜になったら、菜々ちゃんはもう、おうちにいる。ママといっしょに、夕ごはんを食べて、お風呂に入って、眠っている。ミラ彗星が明け方の空に出るころには、菜々ちゃんはたぶん、夢のなかだ。
でも、わたしはこう言った。
「みれるよ。あのね、なーちゃん。今夜、ママにお願いしてごらん。『あさ、おほしさま、いっしょにみようね』って。そしたら、ママが、まだ暗いうちに、なーちゃんを起こしてくれるよ。それで、二人で、ベランダから、青いお星さまを見るの」
「ママと?」
「うん。ママと。おなじお星さまを、二人で見るの。今朝、先生が見たのと、おなじお星さま」
菜々ちゃんの目が、きらきらした。それは、朝、あんなに泣いていた子とは、まるで別の子のようだった。
「それでね」
わたしは、続けた。
「その青いお星さまが、また暗いところに帰っていくころには、なーちゃんの手袋も、きっと、どこかで見つかるよ。ママが探してくれる。先生も、ずっと探すよ。だから、なーちゃんは、それまで、その片方を、大事に持っててね」
菜々ちゃんは、握った手袋を、胸に押しあてた。
「うん」
しっかりとした、うなずきだった。今朝、門のところで泣いていた子は、もう、どこにもいなかった。
夕方、菜々ちゃんの母親が、迎えに来た。
火曜の朝は慌ただしく別れた母親も、夕方は、少しゆっくりしていた。門のところで、菜々ちゃんは、母親に飛びついた。母親は、菜々ちゃんを抱き上げて、頬をよせた。
「なーちゃん、いい子にしてた?」
菜々ちゃんは、こくりとうなずいて、それから、握っていた片方の手袋を、母親に見せた。
「ママ、これ、さがそう」
母親は、一瞬、はっとした顔をして、それから、やわらかく笑った。
「そうだね。もう片方、さがそうね。ママ、おうちに帰ったら、いっしょにさがそう」
わたしは、少し離れたところから、その様子を見ていた。母親が、わたしのほうを見て、会釈をした。わたしも、会釈を返した。言葉は交わさなかった。でも、たぶん、母親には伝わっていた。菜々ちゃんが今日、どんなふうにこの一日を過ごしたか。片方の手袋が、この子にとってどんなに大事なものだったか。
菜々ちゃんが、門を出るとき、ふりかえって、手をふった。
「せんせい、ばいばい」
「ばいばい、なーちゃん。あした、また来てね」
「あした、くる」
「うん。あした」
菜々ちゃんは、母親に手をひかれて、夕暮れの路地を歩いていった。片方の手袋を、しっかりと握って。母親の手のぬくもりのなかで。
あくる朝
翌朝、わたしはいつもより早く、園に着いた。
まだ子どもたちは来ていない。園庭は、朝の冷たさを溜めた砂で、しんとしている。わたしは、なんとなく、空を見上げた。
明け方の名残の、群青の空。その東のはしに、まだ、青い一点が、にじむように光っていた。ミラ彗星は、まだいた。何十年もかけて渡ってきた星が、この町の上を、もう少しだけ、通り過ぎようとしていた。
そのとき、門のところで、声がした。
「せんせい!」
菜々ちゃんだった。母親と手をつないで、いつもより、ずっと早く来ていた。菜々ちゃんの頬が、朝の冷たさで、赤くなっている。
「なーちゃん、はやいね。おはよう」
菜々ちゃんは、わたしのところへ駆けてきて、そして、両手を、ぱっと開いてみせた。
その手のなかに、赤い手袋が、二つ、あった。
「みつかった!」
菜々ちゃんが、叫んだ。
わたしは、母親のほうを見た。母親は、少し照れたように、笑っていた。その笑いかたで、わたしには、すべてがわかった。もう片方は、見つかったのではない。松尾先生が、むかしそうしたように。母親が、夜なべして、編んだのだ。なくした片方に似せて。色は、ほんの少しだけ、ちがっていた。
でも、菜々ちゃんは、気づいていない。菜々ちゃんにとっては、それは、見つかった手袋だった。ママが、約束どおりに、見つけてくれた手袋。
「みつかったねえ。よかったねえ、なーちゃん」
わたしは、菜々ちゃんの手のなかの、二つの手袋を見た。片方は、古くて、指先に毛玉ができている。もう片方は、新しくて、まだ毛糸のにおいがしそうな。二つ並んで、菜々ちゃんの小さな手のなかにある。
母親は、わたしのそばに来ると、小さな声で、言った。
「ゆうべ、なかなか寝つかなくて。手袋のこと、ずっと言うんです。夕方、先生と探したって。それで……なんだか、わたし、放っておけなくて」
母親の指先には、毛糸のけばが、まだ少しだけついていた。夜なべの跡だった。目のふちが、少し赤い。眠っていないのだろう。
「色、ちょっとちがうでしょう。おなじ赤い毛糸が、家になくて」
「わかりませんよ、菜々ちゃんには」
わたしがそう言うと、母親は、ふっと肩の力を抜いて、笑った。それから、少しだけ、泣きそうな顔になった。
「わたし、火曜の朝が、いつもつらくて。早く行かなきゃって、この子の手を、ふりほどくみたいにして。ずっと、気になってたんです。あの子、火曜だけ、よけいに泣くから」
「菜々ちゃん、わかってますよ。火曜の朝は、ママが急いでるって。だから、よりどころが、ほしかったんだと思います。片方の手袋が、その、よりどころだったんです」
母親は、菜々ちゃんの後ろ姿を見た。二つの手袋を、両手にはめて、うれしそうに手をひらいたり閉じたりしている菜々ちゃんを。
そのとき、菜々ちゃんが、空を見上げた。
「せんせい、おほしさま、いた!」
「え?」
「けさ、ママと、みた。青いおほしさま。ベランダで」
菜々ちゃんは、母親を見上げて、それから、わたしを見た。その目は、朝の光を映して、きらきらとしていた。
「ママと、みた」
わたしは、胸のおくが、あたたかくなった。
菜々ちゃんは、昨日わたしが言ったことを、覚えていた。そして、母親にお願いして、まだ暗いうちに起こしてもらって、二人で、青い星を見たのだ。今朝、わたしが一人で見上げたのと、おなじ星を。はなれていても、おなじ星を。
昼前になった。
園庭の砂が、ちょうどいい温さになるころ。子どもたちの歓声が、桜の若葉ごしの空に、散らばっていく。菜々ちゃんは、今日は泣いていない。砂場で、悠真といっしょに、おやまを作っている。二つの手袋は、上着のポケットのなかに、大事にしまってある。
わたしは、砂場のふちにしゃがんで、その様子を見ていた。
昼前というのは、なんでもない時刻だ。大きな事件も起きない。ただ、砂が温くなって、パン屋の匂いが流れてきて、子どもたちが遊んで、だれかが泣いて、だれかが笑って、片方の手袋が、二つになったりする。そういう、ちいさなことが、いくつも重なっていくだけの時刻だ。
でも、わたしは思う。この、なんでもない昼前のなかにこそ、いちばん大事なものがあるのだと。
なくしたものを、そっと、また作ってあげること。片方だけのものを、大事に握っている手を、無理にひらかせないこと。泣きたいときに、そばにいて、待つこと。おなじ星を、はなれていても見られると、教えること。
わたしは、まだ松尾先生のようにはなれない。でも、いつか、わたしがこの園を去るころには、だれかに、あの子守唄を教えているだろう。うたう人の唄なのよ、と。そして、なくしたものを、こっそり、また作ってあげる仕事のことを、話しているだろう。
砂場から、菜々ちゃんの声がした。
「せんせい、みて! おやま、できた!」
「わあ、じょうずだねえ。てっぺんに、プリンのせる?」
「のせる!」
菜々ちゃんが、笑った。今朝の、あの青い星のことを、もう忘れたみたいに。でも、忘れていない。ポケットのなかの、二つの手袋が、それを覚えている。
わたしは、立ち上がって、空を見上げた。
昼前の空は、もう淡い水色に晴れて、青い星は、どこにも見えなかった。でも、いる。おひさまのむこうに、ちゃんといる。何十年もかけて、暗いところを渡って、また暗いところへ帰っていく。次にこの町を通るとき、この園庭で遊んでいるのは、どんな子どもたちだろう。菜々ちゃんは、そのころ、どこで、なにをしているだろう。
砂は、あたたかかった。
指のあいだから、さらさらとこぼれていく、乾いた温もり。この温もりを、わたしは、たぶん一生、忘れないだろう。昼前の園庭の、なんでもない、けれど、かけがえのない、この温もりを。