水の匂い
水を替えるところから、一日がはじまる。
まだ客のこない時刻、店の奥の流しで、和貴はバケツの水をあける。ゆうべ切り花を活けておいた水は、ひと晩でぬるみ、うっすらと青くさい匂いになっている。それを流して、蛇口をひねり、冷たいのを勢いよく満たす。指の先が痺れるほど冷たい水が、この商売のはじまりの合図だった。父がそうしていた。祖父もそうしていたのだろう。花屋の朝は、水の音でひらく。
六月のおわりの、昼前だった。梅雨の晴れ間で、路地には湿った石畳の匂いが立ちのぼり、そこへ店先の花の匂いが重なる。ガーベラの茎の青いような匂い、百合のむせるような甘さ、それから、切ったばかりの葉のみずみずしい苦さ。和貴はそれを、朝いちばんに胸いっぱいに吸うのが好きだった。花の匂いというのは、ひとつではない。何十種類もの匂いが、水の匂いの上で、めいめいに息をしている。
匂いには、季節がある。冬は水仙のあの、はっとするような冷たい香り。春は沈丁花に、フリージア。夏になると、匂いはいっそう濃くなる。百合、くちなし、それに向日葵の、あの青くさい太陽のような匂い。秋は菊が主役になって、店じゅうが、あの、少し薬めいた、けれど懐かしい匂いになる。目をつむっていても、いま何の季節か、花屋なら匂いでわかる。父は、そう言っていた。「花屋は、鼻で暦を読むんや」と。和貴は、その言葉を、いまでもおぼえている。
いまは、ちょうど、春の名残の花と、夏のはしりの花とが、店先で肩をならべている頃だった。デルフィニウムのまだ残っている青と、早咲きの向日葵の黄色と。季節の変わり目は、花の種類がいちばん多い。そのぶん、朝の水替えにも、いつもより手間がかかった。
「花岡生花店」――と、色の褪せた木の看板が軒に出ている。祖父の代からの、間口の狭い店だ。町の商店街のはずれ、豆腐屋と時計屋のあいだにはさまれて、ひっそりとある。和貴が店を継いで、まだ二年にならない。父が急に倒れて、そのまま逝ってしまってからのことだ。
看板の文字は、祖父が書いたものだと聞いている。角ばった、律義な字だった。もう半分ほど、塗料が剥げてしまっているのに、和貴はそれを塗りなおさずにいる。塗りなおしてしまえば、祖父の筆づかいが消えてしまうような気がして。店のなかも、多くは父のころのままだった。奥のガラス冷蔵庫。もう電球の切れかけた、ぶらさがりの裸電球。柱に貼られた、色あせた花のカレンダー。何ひとつ、新しくはできずにいた。それでいいのか、と自分でも思う。けれど、この店の古さが、なぜか、和貴には、ひとつの財産のように思えるのだった。ここには、時間がしみこんでいる。祖父の時間も、父の時間も。そして、いまは、和貴の時間も、少しずつ。
流しのわきの窓から、空が見えた。梅雨の晴れ間の、洗ったような淡い水色。和貴はふと手を止めて、その空に目を凝らした。東のほう、屋根の稜線のすぐ上に、蒼い一点が、消え残っている。ミラ彗星だった。夜のあいだ冴え冴えと尾を引いていたのが、朝の光に溶けて、いまはほとんど見えないほどに薄い。目を凝らして、やっと、そこにあるとわかる。明け方に見たときは、もっとはっきりしていた。水を汲みに表へ出たとき、東の空にまだ夜の色が残っていて、そこにあの星が、細い蒼をひいていた。
一度きりだ、と、だれかが言っていた。この彗星が空を横切るのは、何十年に一度、いや、人によっては、一生に一度きりだと。和貴も、こんなにはっきり見たのは、はじめてだった。子どものころに、一度だけ、父に肩車をされて、夜の空を見あげた記憶が、ぼんやりとある。あれも、この星だったのだろうか。父は、あのとき、何を言っていたか。もう、おぼえていない。ただ、父の肩の、あたたかさと、夜の、少し冷たい風の匂いだけを、おぼえている。星は、めぐる。人は、めぐらない。父は、もう、いない。けれど、星は、また、こうして、めぐってきた。それが、和貴には、少し、ふしぎで、そして、なぜか、なぐさめのようにも、思えるのだった。
「彗星も、じきに見えなくなるな」
和貴はひとりごちて、また水に手をもどした。
バケツの水を店先のブリキ缶に注ぎ分け、花を種類ごとに活けていく。これがまた、時間のかかる仕事だった。花には、それぞれの活け方がある。茎の太い百合は深く、繊細なスイートピーは浅く。切り口はいつも斜めに、水のなかで切りなおす。水切りといって、こうすると水の吸いあがりがいい。父に教わったとおりに、和貴は毎朝それをくりかえす。
包装台の上を片づけた。リボンの巻き玉、はさみ、セロファンの束、ラッピングペーパー。そのすみに、青いマッチ箱がひとつ、置いてある。藍色の地に、細い三日月が銀で刻まれている。「月光堂」と、小さな字がある。父の遺したものだった。父は煙草を吸わなかったのに、なぜかこのマッチ箱を、いつもこの台のすみに置いていた。和貴は理由を知らない。ただ、それを動かす気になれなくて、そのまま置いてある。ときおり紐を結ぶとき、指がふれる。かさりと、乾いた音がする。中には、まだマッチがいっぱいに入っていた。
店をあけて、まだ客はない。昼前というのは、そういう時刻だ。朝いちばんの慌ただしさ――出勤前に一輪買っていく人や、店にひらく前に届ける注文――が引いて、昼のにぎわいにはまだ間がある。町がゆるやかに息をつく、あいまいな刻。和貴はその静けさが、嫌いではなかった。
だから、その時刻にやってくる客のことを、なんとなくおぼえてしまう。
いちばんの客は、いつもの婦人だった。
引き戸ががたりと鳴って、白髪をきれいに結った、小柄な老婦人が入ってきた。もう八十に近いだろう。背は丸いが、身なりはいつも整っている。ねずみ色の割烹着のような上っ張りに、小豆色のショールをかけて。
「おはようございます」
和貴が言うと、婦人は目もとだけでうっすら笑って、まっすぐに白い花のところへ行った。何を買うかは、和貴にはもうわかっている。この婦人は、名を言わない。何週間もかよってきて、和貴は一度も名を聞いたことがなかった。買うものはいつも同じ。白菊を三本と、りんどうを二本。それだけ。
「白菊、三本でよろしいですか」
婦人はうなずいた。和貴は缶から白菊を抜いて、丈をそろえる。りんどうの青紫が、白によく映える。
供花だ、と和貴は思っていた。だれかの、仏前の花だろう。毎週、同じ曜日の、同じ時刻に。同じ花を。それはきっと、忘れないための花なのだ。人は忘れてしまうから、こうして毎週、花を替えにいく。花が枯れるより早く、また新しいのを。
「今日は、いい天気になりましたね」
和貴が新聞紙で茎をくるみながら言うと、婦人はやっと口をひらいた。
「ええ。……明け方に、星が見えましたよ」
「星――ですか」
「彗星が。うちの、東の窓から。あのひとが好きだったんです、ああいうものが」
婦人はそれきり、また黙った。和貴は、あのひと、というのがだれのことか、聞かなかった。聞くものではない、という気がした。花を包み、いつもと同じ値段を告げる。婦人は小さな財布から、きっちり小銭をかぞえて出す。その指が、少し震えていた。
婦人は、ふと、包装台のほうに目をとめた。あの、青いマッチ箱に。
「あら」と、婦人が小さく言った。「月光堂の」
「ご存じですか」和貴は、少しおどろいた。
「ええ。……ずっと昔にね。あのひとが、よく、あすこで、マッチを買っていましたよ」婦人の目が、遠くを見るようになった。「夜にだけ、あく店があってね。彗星の見える晩に。路地の、いちばん奥に。あのひとは、そういう、ふしぎな店が好きだった。本を買ったり、マッチを買ったり。もう、ずいぶん、昔のことだけれど」
和貴は、そのマッチ箱を、あらためて見た。藍色の地に、銀の三日月。夜にだけあく店。彗星の見える晩に。そんな店のことは、和貴は知らなかった。けれど、父が、なぜ、このマッチ箱を、大事に台のすみに置いていたのか――その糸口が、いま、ほんの少しだけ、たぐりよせられたような気がした。
「ふしぎな店なんですね」
「ええ、ふしぎな店」婦人は、うっすら笑った。「もう、いまはないかもしれないけれど。……あの人がいなくなってから、わたしは、あの路地には、行っていないから」
「ありがとうございました」
婦人は花を胸に抱くようにして、また丸い背中で、路地を帰っていった。小豆色のショールが、昼前の光のなかで、ほのかに、あたたかい色に見えた。
和貴はその後ろ姿を、しばらく見ていた。彗星が好きだったひと。明け方の窓。毎週の白菊。夜にだけあく、ふしぎな店。そのひとつひとつが、和貴の知らない、長い長い物語の、ほんの端切れなのだろう。花屋というのは、そういう端切れを、毎日たくさん受けとる商売だった。人は花を買いにくるとき、ことばにしないたくさんのものを、いっしょに持ってくる。そのすべてを聞くことは、和貴にはできない。ただ、花を渡すことしか。けれど、それでいいのだ、とも思う。花が、その、聞かれなかったことばの、器になる。婦人が抱えていった白菊のなかに、和貴の知らない、長い歳月が、そっと包まれているのだった。
昼前の光が、少しずつ店の奥まで差してくる。石畳が乾いてきて、湿った匂いがうすれ、かわりに花の匂いが濃くなる。和貴は水を打った。柄杓で、店先の石畳に、しゃっ、しゃっと水をまく。花屋の店先は、いつも湿っていなければならない。花が乾かないように。そして、水を打った土間の匂いは、なぜか人の足を引きよせる。父がそう言っていた。「花屋の匂いは、半分は水の匂いや」と。
引き戸が、また鳴った。
こんどは若い男だった。二十歳そこそこだろう。細身で、髪をきちんとなでつけているのに、その顔がひどく強張っている。スーツではないが、いちばんいい服を着てきた、というのが見てとれる、そういう身なりだった。男は店に入るなり、ぎこちなく立ちどまって、花たちを見わたした。目が泳いでいる。
和貴には、もうわかった。花屋を二年やっていれば、わかるようになる。
「いらっしゃいませ。何か、お探しですか」
男はびくりとして、それから、思いきったように言った。
「あの……花束を。その、贈りものの」
「かしこまりました。どなたに贈られますか」
男は一瞬、口ごもった。頬がうっすら赤らむ。
「……女性、です」
「お誕生日か何かで」
「いえ」男は目を伏せた。「その……大事な、話があって。それで」
大事な話。和貴は微笑をこらえた。この年ごろの男が、いちばんいい服を着て、震える手で花屋に入ってきて、大事な話がある、と言う。それがどういう話か、わからないほど、和貴も朴念仁ではなかった。
「では、華やかなものがよろしいですね。お相手の、好きな色などはご存じですか」
「色……」男は考えこんだ。ずいぶん長く考えこんだ。「よく、青いのを着てます。淡い、青いのを」
「では、青を効かせましょう。デルフィニウムに、白い薔薇を合わせて。トルコキキョウの、うす紫も入れると、やさしい感じになります」
和貴は缶から花を抜きはじめた。青いデルフィニウムの、すっと立った穂。白い薔薇のかたい蕾。それにトルコキキョウ。花を手にとると、男の目が、少しずつ、その花のほうに吸いよせられていくのがわかった。花には、そういう力がある。人の緊張を、いつのまにか、ほどいてしまう。
「……あの」男が、遠慮がちに言った。「花って、こういうとき、意味とかあるんですか。花ことば、とか」
「ありますよ」和貴は薔薇を一輪、光にかざした。「でも、僕は、あんまり花ことばで選びません」
「そうなんですか」
「花ことばは、あとから人がつけたものですから。それより――」和貴は白い薔薇を、青い穂のあいだに、そっと差した。「この花を見て、そのひとが、どう思うか。きれいだな、と思ってくれるか。それだけです。きれいだと思ってもらえたら、それがいちばんの意味です」
男は、その花束を見つめた。組みあがっていく色を。青と、白と、うす紫。まだ半分もできていないのに、もう、その花束は美しかった。男の強張った顔から、すこしずつ、力が抜けていくのが見えた。
「……きれいです」男が、ぽつりと言った。「すごく」
「よかった」和貴は笑った。「じゃあ、彼女もきっと、そう思います」
彼女、ということばに、男はまた頬を染めたが、こんどは否定しなかった。
和貴は花束を組んでいく。花屋の手というのは、たぶん、傍から見ると魔法のように見える。ばらばらの花が、みるみるうちに、ひとつのまとまりになっていく。けれど魔法ではない。すべては手の癖と、目の見当と、何百、何千と組んできた記憶の集積だった。どの花を、どの高さに。どこに空間をあけ、どこを密にするか。父の手を、和貴はいまでもおぼえている。父の手は、和貴の手より、ずっと大きくて、節くれだっていた。それでいて、花を扱うときだけは、おどろくほどやさしかった。
花束を組むとき、和貴は、いつも、螺旋にする。茎を、少しずつ、同じ向きに傾けて、束ねていく。スパイラル、と父は言っていた。こうすると、茎が水を、まんべんなく吸える。花が、いちばん、長もちする。それに、螺旋に組んだ花束は、上から見ると、まるで花が、ひとつの小さな渦を巻いているように見えて、美しい。和貴は、この、螺旋に組む手つきが、いちばん好きだった。ばらばらだったものが、ひとつの方向を得て、まとまっていく、その手ごたえが。まるで、ちらばっていた思いが、ひとつの言葉に、まとまっていくように。
「その、渦みたいなの、きれいですね」若者が、感心したように言った。
「これでね、花が長もちするんです」和貴は、茎を傾けながら言った。「一週間は、もちます。水を替えて、茎を、少しずつ切りもどしてやれば、もっと」
「一週間……」若者は、その言葉を、大事そうに、口のなかでくりかえした。きっと、贈った相手が、この花を、一週間、そばに置いてくれる――そのことを、想像していたのだろう。和貴には、それが、なんとなく、わかった。
「花屋さんに、なるのは、大変ですか」
男が、緊張をまぎらわすように言った。
「大変です」和貴は正直に答えた。「朝が早くて、水が冷たくて、力仕事も多い。それに、花はすぐ枯れますから。今日きれいな花が、三日で駄目になる。売れ残った花を捨てるのが、いちばんつらいです」
「捨てるんですか」
「捨てます。でも――」和貴はリボンを巻きながら言った。「花は、枯れるから、いいんだと思います。ずっと咲いてたら、たぶん、こんなに人は、花を大事にしない。散るとわかってるから、いま、きれいだと思う。人が花を買うのは、たぶん、そういうことなんです」
言ってから、和貴は少し照れた。花屋のくせに、と自分でも思う。けれど男は、まじめな顔でうなずいていた。
「散るから、きれい」
「ええ」
「……なんか、勇気、出ました」
和貴は手を止めて、男を見た。男の目は、もう泳いでいなかった。まっすぐに、組みあがった花束を見ていた。青いデルフィニウムの穂が、光にすいて、まるでうすい空の色のようだった。
包装台で、リボンを結ぶ。和貴の指が、あの青いマッチ箱にふれた。かさり、と乾いた音がした。ふと、この花束が、うまくいくといい、と和貴は思った。この男の大事な話が。青い服を着た、名も知らないだれかに、この青い花が、きれいだと思ってもらえるといい。
「はい、どうぞ。うまくいくといいですね」
男は花束を、両手で、こわれものみたいに受けとった。値段を払い、何度も頭をさげて、そして、路地の光のなかへ出ていった。花束の青が、店先のあかるさにまぎれて、一瞬、空の色とみわけがつかなくなった。
戸口で、男は、いちど、ふりかえった。何か言いたそうに、口をひらきかけて、けれど、けっきょく、「ありがとうございました」と、それだけを、もういちど、深く頭をさげて、言った。そうして、意を決したように、まっすぐ前を向いて、歩いていった。その背中は、店に入ってきたときとは、まるで、べつの人のようだった。花束ひとつで、人は、あんなに、変わる。和貴は、それを、いつも、ふしぎに思う。花には、人の背中を、そっと、押す力がある。ことばにできない、その一歩を。和貴は、男の姿が、路地の角を曲がって見えなくなるまで、見送っていた。うまくいくといい、と、もういちど、心のなかで、つぶやきながら。
昼前の店に、また静けさがもどった。
和貴は流しで、はさみを洗った。花の脂で、刃がぬめる。それを丁寧にぬぐいながら、和貴は、今日会ったふたりの客のことを、なんとなく思っていた。名を言わない婦人と、名を言えない若者。ひとりは、もういない人のために花を買い、ひとりは、これから伝えたい人のために花を買う。花屋の台の上を、そういう情が、毎日いくつも通りすぎていく。
花屋というのは、妙な商売だと和貴は思う。ものを売っているようで、たぶん、売っているのはものではない。人は花に、ことばにできないものを託しにくる。悲しみとか、うしろめたさとか、ためらいとか、まだ言えていない好きだという気持ちとか。それを、和貴は花にかえして、相手に渡す。花が、そのことばの、かわりになる。だから花屋の店先には、いつも、たくさんの、言えなかったことばが、匂いのように漂っている。
父も、そんなふうに思っていたのだろうか。和貴は父と、そういう話をしたことがなかった。父はあまり、ものを言わない人だった。花のことも、店のことも、多くを語らずに、ただ黙々と、水を替え、花を活け、束を組んでいた。継げとも、継ぐなとも、言われなかった。だから和貴が店を継いだのは、なかば成りゆきだった。ほかにやりたいことも、これといってなかった。父が倒れて、店をたたむか、と親戚が言ったとき、和貴は、なぜか、いやだ、と思った。この店が、朝の水の匂いが、なくなってしまうのが。
うまく言えないその気持ちを、いまも、和貴は持てあましている。継いだはいいが、父のようには、まだできない。花の見立ても、束の組み方も、客のさばき方も。ときどき、この道でよかったのか、と思うこともある。若い友人たちは、みな会社勤めをして、休みには遊びにいく。和貴には、休みはあってないようなものだ。花は待ってくれない。水は毎朝、替えなければならない。
父が倒れたのは、ちょうど、こんな昼前だった。店先で水を打っていて、柄杓を持ったまま、崩れるように倒れたのだと、近所の時計屋の親父が教えてくれた。運ばれた病院で、父は、二日だけ、生きた。意識は、もどらなかった。和貴が病室でずっと握っていた父の手は、あんなに大きくて、節くれだって、花を扱うときだけやさしかった、あの手は、日に日に、冷たくなっていった。花のように、と和貴は、あのとき、ふと思った。人も、花のように、しおれていくのだ、と。
父が逝ったあと、和貴は、店の鍵をあけるのが、しばらく、こわかった。父のいない店。父の水替えのない、朝。けれど、あけてみると、店には、まだ、父の気配が、いっぱいに残っていた。父の巻いたリボンの、巻き玉。父の使っていた、柄のすり減ったはさみ。そして、あの、青いマッチ箱。和貴は、そのひとつひとつに、父を見た。そして、水を汲んだ。冷たい水が、指を痺れさせたとき、和貴は、はじめて、泣いた。父の葬式でも泣かなかったのに、その、水の冷たさで、こらえていたものが、いっぺんに、あふれた。花屋の朝は、水の音でひらく。その音のなかに、父が、まだ、いるような気がした。
いまでも、和貴は、水を汲むとき、ときどき、父を思う。この冷たさを、父も、毎朝、指に受けていた。祖父も。そう思うと、この冷たさが、なぜか、和貴には、ありがたかった。
正午にはまだ間のある、昼前の光のなかで、三人めの客がきた。
こんどは、中年の男だった。恰幅がよく、仕立てのいいスーツを着て、腕には高そうな時計をしている。せかせかとした足どりで店に入ってくると、時計に目をやりながら言った。
「悪いね、急いでるんだ。供花を。それなりのやつを、見つくろってくれ。予算はいくらでもいい」
「かしこまりました。ご葬儀の、お供えでしょうか」
「うん。まあ、そんなところだ。取引先の、なんとかってやつの親父が死んだとかで」男はまた時計を見た。「顔も知らんのだがね。付き合いってやつだ。名前だけ、これで」
男は名刺を一枚、台に置いた。会社名と、立派な肩書きが刷ってある。
和貴は、少しのあいだ、その名刺を見ていた。それから、菊の缶のほうへ行った。この客が求めているのは、花ではない。義理だった。義理を果たすための、しるしとしての花。それはそれで、この世に必要なものだ、と和貴は思う。人は、義理のためにも、花を買う。付き合いのためにも、体裁のためにも。それを、和貴が悪く言うことはできない。
けれど。
和貴の手は、いつのまにか、いつもより少し、丁寧になっていた。菊を選ぶとき、いちばん花もちのいい、しっかりしたのを選んでいた。義理の花だとしても――いや、義理の花だからこそ、と和貴は思った。買う人が顔も知らない相手でも、その花を受けとる人は、たぶん、心から悲しんでいる。名も知らない、だれかの親を亡くした人が。その人にとっては、この一対の花が、たくさんの弔いの花のなかの、ひとつになる。義理で贈られたことなど、受けとる人にはわからない。ただ、白い菊がそこにある。それだけだ。
だから和貴は、義理の花も、心をこめて組んだ。組みながら、ふと、父を亡くしたときのことを思いだした。あのとき、店には、たくさんの花が届いた。取引のある問屋から。近所の店から。名も知らない、父の古い知り合いから。そのなかには、きっと、義理の花もあったろう。付き合いの花も。けれど、和貴は、そのどれもが、ありがたかった。ひとつひとつの白い花が、父が生きて、だれかと関わってきた、その証のように見えた。義理であろうと、なかろうと、花はそこにあった。それで、じゅうぶんだった。
ひとつ、忘れられない花があった。父の葬儀の日、いちばん最後に、ひっそりと届いた、名札のない花だった。白い、小さな花だけの、地味な、けれど、丁寧に組まれた花束。だれからのものか、とうとうわからなかった。けれど、その花束の組み方が――あの、螺旋の、まとまり方が、あんまり見事だったので、和貴は、それを組んだのが、きっと、父とおなじように、長く花に触れてきた、だれかの手だと、思った。花を組む手には、ひとりひとりの、癖がある。字の筆づかいのように。あの名もない花束の主は、いまも、和貴には、わからない。けれど、あの花束のことを思うと、和貴は、いつも、胸の奥が、あたたかくなる。ことばのない、けれど、たしかな、弔いがそこにあった。だから、和貴は、信じている。義理の花にも、心のこもった花にも、受けとる人には、たぶん、ちゃんと、何かが、届くのだと。花は、正直だから。組んだ手の、その心が、花には、そのまま、あらわれてしまうのだ。
組みながら、和貴は、この男にも、きっと、和貴の知らない事情があるのだろう、と思った。義理だ、付き合いだ、と、そっけなく言うけれど、この年まで働いてきて、こういう義理を、いくつも、果たしてきたのだろう。顔も知らない相手の親のために、こうして、貴重な昼前の時間を割いて、花屋に寄る。それだって、ひとつの、誠実さだった。世の中は、こういう、名もない義理で、まわっている。だれかの葬式に、顔も知らない人から、花が届く。そのことが、遺された人を、ほんの少し、支えることがある。和貴は、この、時計ばかり気にする男のことも、悪くは思えなかった。
「お待たせしました」
和貴は、立派な供花を差しだした。男は、ろくに見もせずに受けとって、金を払った。釣りを財布にしまいながら、ふと、言った。
「あんた、若いのに、この商売やってんの」
「ええ」
「大変だろう。まあ、しっかりな」
その言い方は、ぞんざいだったが、悪気はなかった。男はそう言うと、また時計を見て、せかせかと出ていった。和貴は、その後ろ姿にも、丁寧に頭をさげた。義理の客にも、名を言わない客にも、震えながら告白の花を買う客にも、頭をさげる。それが花屋だった。
昼前の陽が、いよいよ高くなってきた。店先の水も、そろそろ乾く。和貴は、また柄杓をとって、石畳に水を打った。しゃっ、しゃっ、と水がはねる。湿った土間の匂いが立つ。近所の時計屋の親父が、店先を通りかかって、「精が出るね」と声をかけた。和貴は、「おかげさまで」と返す。豆腐屋のラッパが、遠くで、ぷう、と鳴った。
水を打っていると、ひとりの女の客が、店の前で、ふと足をとめた。三十がらみの、事務員ふうの女だった。片手に、うすい手袋を、片方だけ持っている。もう片方は、なくしたのだろう。女は、その片方の手袋を、ぼんやりと握ったまま、店先の花を見ていた。
「いらっしゃいませ」
和貴が声をかけると、女は、はっと我にかえったように、あいまいに微笑んだ。
「あ……いえ。ただ、見ていただけで。すみません」
「どうぞ、ごゆっくり」
女は、それでも、しばらく、花を見ていた。とりわけ、白いスイートピーのところで、じっと立ちどまっていた。何か、思いだしているような目だった。買うでもなく、立ち去るでもなく。和貴は、水を打ちながら、その横顔を、なんとなく見ていた。
やがて女は、小さくため息をついて、「また来ます」とだけ言うと、片方だけの手袋を握ったまま、路地を歩いていった。買わない客もいる。花を見るだけで、何かをなぐさめて帰る客も。それも、花屋には、めずらしくなかった。花は、買わなくても、そこにあるだけで、だれかの、何かに、そっと触れることがある。和貴は、その女が、また来てくれるといい、と思った。そのときは、白いスイートピーが、まだ、あるといい。
豆腐屋のラッパが、また、ぷう、と鳴った。
こういう、なんでもない朝が、和貴は好きだった。特別なことは、何も起こらない。ただ、水を替え、花を活け、客がきて、花を包み、頭をさげる。それのくりかえし。けれど、そのくりかえしのなかに、和貴は、たしかな手ごたえのようなものを感じていた。名を言わない婦人の、震える指。青い花を組んでもらって、勇気が出た、と言った若者。義理でも、心をこめて組んだ、白い菊。そのひとつひとつが、和貴の一日を、たしかに、意味のあるものにしていた。
流しの窓から、また空が見えた。もう、彗星は見えなかった。昼前の光が、すっかりその蒼をのみこんでしまっていた。けれど、和貴は知っている。見えないだけで、そこにあることを。明け方には、また、あの蒼い一点が、東の窓に、細い尾をひくのだろう。名を言わない婦人の家の、東の窓にも。青い服を着た、だれかの窓にも。
昼近くなって、四人めの客がきた。
小学生くらいの、女の子だった。ひとりで、店の引き戸を、よいしょ、とあけて入ってきた。手に、しわくちゃになった百円玉を、ぎゅっと握っている。
「いらっしゃい」
和貴が言うと、女の子は、少しおどおどしながら、店のなかを見まわした。それから、決心したように言った。
「あのね、おかあさんのおたんじょうびなの。おはな、かいたいの」
「そうか。おかあさんの、誕生日か」和貴はしゃがんで、女の子と目の高さをあわせた。「いくら、持ってきたの」
女の子は、握っていた手を、こわごわひらいた。汗ばんだ手のひらに、百円玉が一枚。それきりだった。女の子は、その百円玉と、まわりの花たちを、心配そうに見くらべた。花には、たいてい、百円では買えないものが多い。女の子も、それがなんとなく、わかっているようだった。目に、みるみる、不安の色がひろがった。
和貴は、少しのあいだ考えた。それから、立ちあがって、店のすみへ行った。今朝、束から抜けてしまった、少し短い花や、明日には売れなくなりそうな花を、いつも、別のバケツにまとめてある。そこから、和貴は、まだじゅうぶんきれいなガーベラを一輪、かすみ草を少し、それに、小さなスプレー薔薇を選んだ。
「これでね、ちょうど百円になる、特別なやつがあるんだ」
和貴は、女の子に見えないように、値札のことは言わずに、そう言った。女の子の顔が、ぱっとかがやいた。
「ほんと?」
「ほんと。かわいいの、作ってあげる。おかあさん、何色が好き」
「ピンク。ピンクがすき」
「よし、ピンクだな」
和貴は、包装台で、その小さな花束を組んだ。ピンクのガーベラを真ん中に、まわりをかすみ草の白でふんわりと囲んで、スプレー薔薇の淡い紅を添える。ふだん、何万円もの花束を組むのと、まったく同じ手つきで、和貴は、その百円の花束を組んだ。むしろ、いつもより、丁寧だったかもしれない。女の子は、包装台のふちに、あごをのせるようにして、その手もとを、まばたきもせずに見ていた。
組みながら、和貴は、なんとなく、口のなかで、小さく、歌をくちずさんでいた。手を動かしているときの、癖だった。眠れ、眠れ、星が海をわたるまで――。そんな一節だった。むかし、だれに教わったのだろう。祖母だったか、母だったか。もう、おぼえていない。ただ、手が花を組むと、なぜか、その歌が、ひとりでに、口をついて出る。
「その歌、なあに」女の子が、目をあげて、聞いた。
「ん?」和貴は、自分が歌っていたことに、はじめて気づいた。「ああ……子守唄だよ。ちいさいころ、だれかに、うたってもらった気がするな。星が、海をわたるまで、眠れ、って」
「星が、海を、わたるの?」
「わたるらしいよ。ゆっくり、ゆっくりね」和貴は、笑った。「今朝も、東の空に、星がひとつ、出てたよ。青いの。あれが、海を、わたっていくのかもしれないな」
女の子は、ふうん、と、ふしぎそうに、店の外の、あかるい空を見あげた。もう、そこには、星は見えなかったけれど。
「わあ……」
花束ができあがると、女の子は、ため息のような声をあげた。ピンクと白の、小さな、けれど、ちゃんとした花束だった。和貴は、それに、うすいピンクのリボンをかけた。リボンを結ぶとき、また、あの青いマッチ箱に、指がふれた。かさり、と鳴った。
「はい、どうぞ」
女の子は、握っていた百円玉を、そうっと台に置いた。ぬくもった、汗の匂いのする百円玉だった。和貴は、それを、たいせつに受けとった。この店で受けとった、どの一万円札より、たいせつなお金のような気がした。
「おかあさん、きっと、よろこぶよ」
「うん!」女の子は、花束を、両手で、たからものみたいに抱えた。「ありがとう、おはなやさん!」
そう言って、女の子は、ぱたぱたと、路地の光のなかへ駆けだしていった。小さなピンクの花束が、その手のなかで、ゆれていた。角のところで、女の子は、いちど、ふりかえって、手をふった。和貴も、手をふりかえした。それから、女の子は、また、駆けていった。おかあさんのところへ。誕生日の、花を持って。その小さな背中が、あんまり一生けんめいだったので、和貴は、しばらく、笑みが、消えなかった。
きっと、あの母親は、花の値段のことなど、思いもしないだろう。ただ、子どもが、じぶんの誕生日をおぼえていて、なけなしの小遣いを握って、花屋まで走った――そのことに、胸を打たれるだろう。花は、百円だ。けれど、その花にこもった気持ちは、値のつけようがない。花屋は、そういう、値のつけようのないものを、百円で、包む。それが、いちばん、いい仕事だ、と和貴は思った。
和貴は、しばらく、その百円玉を、手のひらにのせて見ていた。
なんということもない、一枚の百円玉だった。けれど、その汗のぬくもりが、まだ残っていた。あの子は、これを、ずっと握りしめて、店まで歩いてきたのだろう。おかあさんの誕生日に、花を買おうと決めて。ためた小遣いだったのかもしれない。それとも、おこづかいの、ぜんぶだったのかもしれない。
和貴は、その百円玉を、レジには入れずに、包装台のすみに、そっと置いた。あの青いマッチ箱の、となりに。ふたつ並べると、なんだか、それが似合っているように見えた。父が、なぜ、あのマッチ箱をここに置いていたのか、和貴には、まだわからない。けれど、いま、なんとなく、わかるような気がした。父も、きっと、たくさんの、こういうものを、受けとってきたのだろう。ことばにならない、小さな、けれど、たいせつなものを。そういうものを、忘れないために、何かを、台のすみに、置いておきたくなる。それが、父にとっては、あのマッチ箱だったのかもしれない。
あの名を言わない婦人が言っていた。夜にだけあく、ふしぎな店。彗星の見える晩に、路地の奥にあらわれる、月光堂。父は、あすこで、このマッチを買ったのだろうか。夜に、彗星を見あげながら、路地のいちばん奥まで歩いていって。どんな顔をして、父は、あの店の戸をあけたのだろう。和貴には、想像もつかなかった。父の、和貴の知らない時間。花を組む手をやすめて、夜の路地を歩く、父の背中。そういう、父の物語を、和貴は、何ひとつ、聞かないままに、送ってしまった。けれど、このマッチ箱が、そのひとかけらを、いまも、卓のすみで、静かに、持っている。かさり、と鳴るたびに、和貴は、父の、その夜のことを、思う。いつか、和貴も、彗星の見える晩に、あの路地のいちばん奥を、のぞいてみたいと思った。父の歩いた道を。
和貴は、ふと、思いだした。あの女の子が、あんまり、あの名を言わない婦人の、若いころに、似ているような気がしたのだ。もちろん、そんなはずはない。けれど、白菊を買う婦人も、かつては、あの子のように、汗ばんだ手で、百円玉を握って、だれかのために、花を買いにきた子どもだったのかもしれない。人は、みな、そうやって、だれかのために、花を買う。子どものときも、年老いてからも。喜びのときも、悲しみのときも。
花屋は、それを、ずっと、見ている。
昼前が、おわろうとしていた。
空の、あの蒼い一点は、もう、すっかり見えなくなっていた。かわりに、真昼のあかるい光が、店先の花を、いっそう色あざやかに照らしていた。ガーベラの赤、百合の白、デルフィニウムの青。水を打った石畳が、その光を、きらきらとはねかえしていた。
和貴は、また、流しへ行った。午前中に切った花の、切りくずを片づけ、はさみを洗い、手を洗う。冷たい水が、指を洗う。ゆびさきに残っていた、あの子の百円玉の、ぬくもりが、水に流れていく。それでいい、と和貴は思った。ぬくもりは流れても、おぼえていることは、消えない。
引き戸のむこうを、また、だれかが通りすぎていく。学校帰りの子どもか、買い物のおかみさんか。豆腐屋のラッパが、また、遠くで鳴った。町は、昼前のゆるやかな時間を抜けて、そろそろ、真昼のにぎわいへと、動きはじめようとしていた。
ふと、和貴は、あの若者のことを、また思った。いまごろ、あの青い花束は、どうしているだろう。もう、渡したろうか。まだ、渡せずに、どこかで、震える手で、握りしめているだろうか。青い服を着た、名も知らないだれかは、その花を見て、きれいだ、と思ってくれただろうか。和貴には、その結末を、知るすべはない。花を渡したあとのことは、花屋の手を、離れる。それでいい。けれど、和貴は、ときどき、こう思う。あの花束が、そのあと、どんな話につながっていくのか――それを、いちばん知りたいのは、たぶん、花を組んだ、自分なのだ、と。花屋は、いつも、物語のはじまりだけを、受けもっている。つづきは、花を持って帰った人が、それぞれに、書いていく。
和貴は、店先に出て、花たちを、もう一度、見わたした。今日も、いろんな人が、この花を、持って帰る。名を言わない婦人が。青い花を選んだ若者が。義理の供花を買った男が。汗ばんだ百円玉の、あの子が。それぞれが、それぞれの事情と、それぞれの情を抱えて、花を選んでいく。悲しみも、よろこびも、ためらいも、勇気も。花屋の台の上を、そのすべてが、毎日、静かに通りすぎていく。
和貴は、また、バケツに水を汲んだ。冷たい水が、指を痺れさせた。花は、待ってくれない。水は、毎朝、そして、日に何度も、替えなければならない。けれど、それでいい、と和貴は思った。この、水の匂いのする、なんでもない一日を、和貴は、たしかに、生きている。父が生きたように。祖父が生きたように。
この道でよかったのか、と、朝には、まだ思っていた。けれど、いまは、そんなことは、どうでもよくなっていた。今日、和貴は、たしかに、いくつもの、たいせつなものに、触れた。名を言わない婦人の、震える指に。青い花に勇気をもらった、若者の横顔に。名もない義理の、ひそかな誠実さに。そして、汗ばんだ百円玉の、あのぬくもりに。そのどれも、会社勤めをしていたら、たぶん、和貴は、触れることが、なかった。花屋だから、この、間口の狭い、古い店の、包装台の内側に立っているから、和貴は、それに触れられた。人の、いちばん、やわらかいところに。それは、たぶん、ほかの何ものにも、代えがたいことなのだった。
父は、それを、知っていたのだろう。だから、多くを語らず、ただ、黙々と、水を替え、花を活け、束を組んでいた。継げとも、継ぐなとも、言わなかったのは、たぶん、和貴が、いつか、自分で、それに気づくのを、待っていたからだ。そんな気が、いま、ふと、した。
明け方には、また、東の空に、あの蒼い星がのぼるだろう。そのとき、名を言わない婦人は、東の窓から、それを見るのだろうか。あのひとが好きだった、と言って。そして、明日の昼前も、また、店の引き戸が、がたりと鳴るのだろう。
和貴は、汲んだ水を、店先の花に、そっと注いだ。花たちが、その冷たい水を、静かに、静かに、吸いあげていくのが、見えるような気がした。まるで、渇いていた喉が、うるおっていくように。花は、水を、けっして、急いでは吸わない。ゆっくり、ゆっくり、時間をかけて。そのゆっくりさが、和貴には、いとおしかった。せかせかと生きる世の中で、花だけが、こうして、自分の時間で、生きている。花屋も、その、花の時間に、あわせて生きる。だから、花屋の一日は、どこか、世間とは、少し、ちがう速さで、流れているような気がした。
包装台のすみで、青いマッチ箱と、汗ばんだ百円玉とが、ならんで、昼前の光を受けていた。三日月の銀が、ほのかに光った。かたわらで、和貴は、また、あの子守唄を、口のなかで、ひとりくちずさんでいた。眠れ、眠れ、星が海をわたるまで――。手が、ひとりでに、次の花束のための、緑の葉を、えらびはじめていた。
一輪の花が、水を吸って、少しだけ、首をもたげた。
昼前の光の、そのなかで。