遠回りの午後
遠回りの午後
まぶたが落ちるとき、世界はいちど、ふっと軽くなる。
午後一時すぎの各駅停車は、車内のどこもかしこも陽であふれていて、窓ぎわの座席に腰をおろした瞬間から、わたしは自分の輪郭がすこしずつほどけていくのを感じていた。背もたれのつくりが古い。膝の上に置いた鞄が、電車が揺れるたびに重みを増していくようだった。となりの席は空いていて、そのまた向こうに、白いブラウスの女子高生がひとり、うつむいて携帯電話を眺めている。指がときおり、麦の穂を撫でるように画面をなぞる。それ以外に、この車両に人の気配はなかった。
まぶたが落ちるとき、世界はいちど、ふっと軽くなる。
それは、めまいに似ていた。あるいは、深い井戸に石を落として、その落ちていく音に耳をすませているような。眠っているのではない。まだ眠ってはいない。ただ、覚めていることをやめようとしている、そのぎりぎりの縁のところで、わたしはゆらゆらと揺れていた。
会議は長かった。三時間、ずっと同じ言葉が形を変えては繰り返された。「前向きに検討」「持ち帰って精査」「認識のすり合わせ」。だれかがそういう言葉を口にするたびに、わたしは自分の頭のなかで、その言葉を裏返しにしてみる癖がついていた。前向きに検討、というのは、たいてい後ろ向きに放置することだった。持ち帰る荷物など、はじめから存在しなかった。会議室の窓の外では、六月の終わりの陽が、ビルの硝子壁に跳ね返っていた。わたしはその反射をぼんやり見ながら、水を一口飲んだ。ぬるくなっていた。
三十七になっていた。入社したころは、こんな仕事をするつもりではなかった。何をするつもりだったのか、いまとなっては、それすらもうまく思い出せない。ただ、もっと別のものに、心を動かされていた気がする。空の色や、雨の匂いや、通りすがりの人の横顔に。いつのころからか、そういうものが、目に入らなくなった。手帳に書かれた予定と、着信の数と、締切までの日数。それだけが、わたしの世界のすべてになっていた。朝、家を出て、夜、帰る。そのあいだの十数時間を、わたしはほとんど、うつむいて過ごしていた。空を見あげたのが、いつが最後だったか、思い出せないほどに。
このごろ、眠りが浅かった。夜中に、何度も目が覚める。理由もなく、胸のあたりが騒いで、天井を見あげたまま、朝を待つ夜が続いていた。かといって、昼のあいだも、頭のどこかが、ずっと霞んでいた。眠っているのでも、起きているのでもない、宙づりの状態が、ずっと続いていた。ここ何年か、わたしはそうやって生きてきた。ちゃんと眠ることも、ちゃんと目覚めることも、できないまま。
会社を出たのが正午すぎ。取引先へ回るには早すぎ、昼を食べるには少し遅い、そんな半端な時刻だった。地下鉄に乗るつもりが、なぜか足はJRの改札のほうへ向いていた。理由はなかった。ただ、地上を走る電車に乗りたかった。陽の当たる席に座って、しばらく揺られていたかった。取引先の駅は五つ先。三時に着けばいい。それまでは、この揺れに身をあずけていよう。そう思っていた。そう思っていたはずだった。
まぶたが落ちるとき、世界はいちど、ふっと軽くなる。
電車が動きだす。
ゆっくりと、ためらうように、ホームがうしろへ流れていく。次に加速がついて、線路のつなぎ目を踏むたびに、車体が規則正しく揺れる。ことん、ことん。その音が、いつのまにか、遠い記憶のなかの何かと重なりはじめる。
わたしは目を閉じた。
閉じたつもりだったのに、まぶたの裏に、まだ陽が残っている。橙色の、あたたかい膜。その膜の向こうで、光がゆっくりと呼吸している。吸って、吐いて。電車の揺れに合わせて、明るくなり、暗くなる。人がまばらな午後の車内は、しんとしていて、それでいて、たくさんの小さな音でできていた。空調のかすかな唸り。だれかの鞄の留め金が軋む音。遠くの車両で、扉が開いて閉じる音。それらがすべて、綿のなかに包まれていくように、やわらかくなっていく。
膝の上の鞄が、いっそう重くなった。いや、鞄が重いのではない。わたしの腕が、その重さを支えることをやめようとしているのだ。指の力が、するするとほどけていく。手のひらが、開いていく。
――もうひと駅。
そんな声が、頭のどこかで聞こえた気がした。もうひと駅ぶんだけ、目を閉じていよう。次に停まったときに、目を開ければいい。そう自分に言い聞かせながら、わたしはその橙色の膜のなかへ、ゆっくりと沈んでいった。
沈む、というのは正しくないかもしれない。むしろ、浮かんでいくようだった。重力の向きが、いつのまにか裏返っている。膝の上の鞄も、疲れた肩も、朝からずっと詰めていた息も、すべてが下へではなく、上へと引かれていく。天井を突き抜けて、屋根を突き抜けて、六月の午後の空へ。
気がつくと、わたしは砂浜にいた。
裸足だった。足の裏に、砂の熱と、その下の湿った冷たさが同時に伝わってくる。目の前に海があった。ひどく静かな海で、波はほとんど立っていない。水平線のあたりだけが、白く光っている。その光がまぶしくて、わたしは目を細めた。
いつの海だろう、と思った。子どものころに行った、あの海だろうか。名前を思い出せない。父の運転する車で、何時間もかけて行った。着いたころにはもう夕方で、海は赤く染まっていた。あのときの海だろうか。それとも、もっと別の、いつかの海。
砂浜には、だれもいなかった。ただ、わたしのすこし先に、小さな足あとが点々と続いていた。子どもの足あとだ。裸足の。それが波打ちぎわのほうへ向かって、まっすぐに続いている。
わたしはその足あとを追った。
砂は、歩くたびに、足の指のあいだから逃げていった。踏みしめても、踏みしめても、地面が定まらない。夢のなかの足どりというのは、いつもそうだ。急いでいるのに、進まない。前へ出ようとするほど、砂が深くなる。それでもわたしは、その小さな足あとを、追いつづけた。あの足あとの持ち主が、だれなのか、知っている気がした。知っているのに、名前が出てこない。喉のあたりまで、その名前が出かかって、けれども、波の音にさらわれて、消えてしまう。
追いながら、これは夢だ、と、頭のどこか冷めた部分が言っていた。そうだ、これは夢だ。わたしは各駅停車に乗っていて、うとうとしているだけだ。次の駅で目を開けなければ。降りる駅を過ぎてしまう。取引先が待っている。三時。三時までに。
けれども足は止まらなかった。夢のなかの足は、夢のなかの砂浜を、いつまでも歩いていく。子どもの足あとは、やがて波打ちぎわで途切れていた。波が、その先を洗い流してしまったのだ。わたしは立ちどまって、海を見た。
そのとき、空を見上げた。
昼の空だった。まぶしいほどの青。それなのに、その青のいちばん高いところに、一筋の蒼い光が、すうっと尾を引いていた。星だった。昼の空に、星が見えるはずはない。それなのに、その光だけは、青の奥からはっきりと滲みでていた。蒼く、澄んで、けれどもどこか寂しげに。
――ミラだ。
そう思った。なぜそう思ったのか、わからない。けれども、その名前が、まるでずっと前から知っていたことのように、口をついて出た。ミラ。あの蒼い星の名前。彗星。海をわたっていく星。
その光を見ていると、胸のおくが、静かに痛んだ。なつかしさとも、後悔ともつかない、名前のない痛み。何かを忘れている、と、わたしは思った。とても大切な何かを、わたしはずっと前に、この砂浜のどこかに置いてきてしまったのではないか。
波が、足の甲を洗った。冷たかった。その冷たさで、砂浜がすこしずつ薄らいでいく。海の色が褪せていく。蒼い星だけが、いつまでも空に残っていた。
がたん、と大きく揺れて、わたしは目を開けた。
車内は、あいかわらず陽であふれていた。窓の外を、見おぼえのない景色が流れていく。田んぼだった。青い稲が、風になびいている。その向こうに、なだらかな山の稜線。
――田んぼ?
わたしは背筋を伸ばした。取引先の駅の周辺に、田んぼなどなかったはずだ。あのあたりは、雑居ビルとマンションがひしめく、ありふれた郊外の駅前だった。
まさか、と思って、扉の上の路線図を見上げた。けれども陽が反射して、うまく読めない。目をこすった。眠気がまだ、目の奥に膜のように残っていた。
となりの車両との連結部のあたりに、車掌の姿が見えた気がして、わたしは立ちあがりかけた。けれども、体が重い。膝に力が入らない。もう一度、座席に沈みこんだ。
いま何時だろう。腕時計を見ると、二時十分を指していた。眠っていたのは、せいぜい四十分ほどか。それにしては、ずいぶん遠くまで来てしまった気がする。四十分で、こんな田園地帯まで。取引先の駅は、とうに過ぎてしまったのだ。
胸のなかで、焦りが小さく火花を散らした。連絡しなければ。遅れる、と。あるいは、行けない、と。鞄から携帯電話を取りだそうとして、けれども、その手が途中で止まった。
なぜだろう。焦りは、たしかにそこにあった。それなのに、体は動かなかった。まるで、この午後の光のなかに、わたしをつなぎとめている何かがあるように。
窓の外で、稲がなびいている。青い、まだ若い稲が、風のかたちにあわせて、いっせいに身をかがめては起きあがる。その動きを見ていると、また、まぶたが重くなってきた。
いけない。もう眠ってはいけない。次の駅で降りて、引き返さなければ。
そう思いながら、わたしはもう一度、目を閉じていた。
こんどは、家のなかにいた。
古い日本家屋の、畳の部屋だった。障子越しに、午後の陽がさしこんでいる。障子の桟の影が、畳の上に、几帳面な格子模様を落としていた。その格子が、風で障子がわずかに揺れるたびに、ゆらり、ゆらりと動く。
わたしは畳に寝そべっていた。子どもだった。小学校の低学年くらいの。半袖のシャツから、細い腕が出ている。日焼けした腕。膝には、かさぶたがあった。
だれかが、うちわで扇いでくれている。
顔は見えなかった。けれども、それが祖母だということは、わかった。うちわの風には、祖母のにおいがした。線香と、古い簞笥と、それから、なんだろう、干した布団のような、あたたかいにおい。祖母は、わたしのかたわらに座って、ゆっくりとうちわを動かしていた。ぱた、ぱた、という、風の音とも、うちわの音ともつかない、やわらかな音がした。
祖母が、低い声で何かを口ずさんでいた。
眠れ、眠れ。
そう聞こえた。眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。
その旋律を、わたしは知っていた。知っているはずだった。けれども、思い出せない。祖母がいつも歌ってくれた、あの子守唄。眠れ、眠れ。その先の言葉が、口のなかまで出かかって、けれども形にならない。
夢のなかの子どものわたしは、眠っていた。祖母のうちわの風のなかで、すっかり眠りこんでいた。その眠っている子どもを、もうひとりのわたしが、部屋の隅から見ていた。
畳の縁が、陽に灼けて、白っぽくなっている。そのそばに、小さな箱が落ちていた。マッチ箱だった。藍色の。三日月の絵が刻んである、青いマッチ箱。祖母がいつも、仏壇の蠟燭に火をつけるのに使っていた、あの箱。
その箱を、祖母は、大切にしていた。どこで手に入れたものか、子どものわたしは知らなかった。ただ、祖母は、その青いマッチ箱で、毎朝、仏壇の蠟燭に火をともした。すっとマッチを擦ると、小さな炎が立ちあがって、線香の先に移る。細い煙が、朝の光のなかを、ゆらゆらとのぼっていく。その光景を、わたしは、いまでもおぼえていた。三日月の絵の刻まれた、藍色の箱。それを擦る、祖母の、しわだらけの指。
わたしはその箱に、手を伸ばそうとした。
けれども、手が届かない。夢のなかの手は、いくら伸ばしても、その箱にたどりつけなかった。マッチ箱は、畳の上で、静かに三日月の絵を上に向けたまま、動かなかった。伸ばした指の先が、あと少しで触れそうで、けれども、いつも、その少しが、埋まらなかった。まるで、その箱と、いまのわたしのあいだに、二十年以上の歳月が、透明な壁になって、横たわっているように。
――なにか、忘れている。
砂浜のときと、同じ思いが胸をよぎった。とても大切な何かを、わたしはこの部屋に置いてきてしまった。祖母のうちわの風のなかに。子守唄の、思い出せない続きのなかに。あの青いマッチ箱のなかに。
障子が、風でまた揺れた。格子の影が、ゆらりと動いた。その動きにあわせて、部屋の輪郭が、ゆっくりと溶けていった。
眠れ、眠れ。
祖母の声だけが、いつまでも残っていた。
がたん。
また揺れて、目が覚めた。
車内は、まだ陽であふれている。けれども、その陽は、さっきよりすこし、色が濃くなっていた。橙色が深くなり、影が長くなりはじめている。窓の外を、こんどは川が流れていた。ゆったりとした、大きな川。橋を渡っているのだ。鉄橋の桁が、規則的に窓を横切っていく。がたん、がたん、がたん、と、それまでとは違う、太い揺れが体に伝わってきた。
わたしはぼんやりと、その川を見ていた。
夢のことを、まだおぼえていた。砂浜のこと。蒼い星のこと。祖母のうちわのこと。青いマッチ箱のこと。それらが、まだ胸のなかで、あたたかく揺れていた。ふしぎだった。ふだんは、夢など、目が覚めた瞬間に、砂のように指のあいだから零れ落ちてしまうのに。この午後の夢だけは、こんなにもはっきりと、輪郭を保ったまま、胸のなかに居座っていた。
祖母のことを、わたしはずいぶん長いあいだ、思い出していなかった。
祖母が亡くなったのは、わたしが中学にあがった年だった。それからもう、二十年以上が経つ。母方の祖母で、夏になると、わたしは決まって祖母の家に預けられた。両親が共働きで、夏休みのあいだ、わたしを見る人がいなかったからだ。祖母の家は、海の近くの、古い町にあった。
――海の近く。
そこまで思い出して、わたしははっとした。
そうだ。あの砂浜は、祖母の家の近くの海だ。わたしは毎日のように、その砂浜へ行った。祖母に手を引かれて、あるいは、ひとりで。裸足で砂を踏んで、波打ちぎわを、いつまでも歩いた。子どもの足あとが、点々と続いていた、あの砂浜。
胸のおくで、何かが、ゆっくりと形をとりはじめていた。
祖母は、砂浜で、よくあの子守唄を歌った。眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。昼寝の時間になると、縁側に布団を敷いて、うちわで扇ぎながら、その歌を歌った。星が海をわたるまで。その「星」が何なのか、子どものわたしは、一度も尋ねなかった。ただ、その旋律のなかで、いつも眠りに落ちた。
星が、海をわたる。
――ミラだ。
夢のなかで、そう思った。あの蒼い星。祖母の子守唄の「星」は、あの星だったのだ。ずっと昔、祖母がわたしにそう教えてくれたのではなかったか。ほら、あれがミラだよ、と。海をわたっていく、蒼い星。あれが海の向こうに沈むまで、眠っていていいんだよ、と。
思い出せそうで、思い出せない。記憶の水面のすぐ下に、それは沈んでいて、手を伸ばすと、波紋になって散ってしまう。
橋を渡りきった電車が、また田園のなかを走りだした。陽が、いっそう傾いている。窓ガラスに映る自分の顔が、疲れて見えた。目の下に、うっすらと隈がある。頬が、こけている。いつのまに、こんな顔になったのだろう。
わたしは携帯電話を取りだした。取引先に、連絡しなければ。けれども画面を見ると、圏外になっていた。アンテナのマークが、一本も立っていない。山あいに入ったのだ。
ふしぎと、焦りはなかった。むしろ、どこかで、ほっとしていた。圏外であることに。連絡できないことに。だれからも呼ばれず、だれにも呼びかけられない、この宙づりの時間に。
考えてみれば、こんなふうに、なにものにも呼ばれない時間を過ごすのは、いつぶりだろう。携帯電話が鳴らない。メールが届かない。予定表が、真っ白になる。この十数年、わたしは一度も、そういう時間を持ったことがなかった気がした。休みの日でさえ、頭のどこかは、いつも仕事につながっていた。眠っているあいだも、明日の会議のことを考えていた。だから、眠りが浅かったのかもしれない。ほんとうの意味で、眠ったことなど、もう長いあいだ、なかったのかもしれない。
この電車のなかだけが、ちがった。ここでは、時間が、いつもとちがう速さで流れていた。伸びたり、縮んだりしていた。夢のなかの四十分が、まるで幼い夏のひとつぶんの長さを持っていた。窓の外の景色が、現実のものなのか、まだ夢の続きなのか、境目が、曖昧になっていた。青い稲と、夢のなかの海。傾いた陽と、縁側の午後。それらが、溶けあって、ひとつの、やわらかな午後になっていた。
もうひと駅、と、また思った。もうひと駅ぶんだけ。
わたしは携帯電話を鞄にしまい、座席に深くもたれた。網棚に、鞄をあげようかとも思ったが、その気力もなかった。ふと網棚を見上げると、そこに、片方だけの手袋が残されていた。
灰色の、毛糸の手袋だった。
女ものだろうか、それとも子どものものか。小ぶりで、指先のあたりが、すこし擦りきれている。右手のものらしかった。それが、網棚の隅に、ぽつんと置き去りにされていた。持ち主は、もう片方をどこへやったのだろう。そもそも、この手袋を落としていったのは、いつのことだろう。六月の午後に、毛糸の手袋。季節はずれの忘れものだった。
わたしはその手袋を、しばらく見あげていた。
なぜだか、目が離せなかった。片方だけの手袋。対になるはずのものが、ここには片方しかない。もう片方は、どこか遠くにある。あるいは、もう、どこにもないのかもしれない。
その手袋を見ていると、また、胸のおくが痛んだ。夢のなかで、蒼い星を見あげたときと、同じ痛み。青いマッチ箱に手が届かなかったときと、同じ痛み。何かを忘れている。とても大切な何かを。
祖母のことを、また思った。
祖母は、編みものが得意だった。冬になると、わたしのために、いつも手袋やマフラーを編んでくれた。毛糸を選ぶのは、わたしの役目だった。祖母は、わたしを近所の手芸屋へ連れていって、好きな色を選ばせてくれた。わたしはいつも、なかなか決められなかった。あの色にしようか、この色にしようか。祖母は急かさず、隣でにこにこ笑いながら、待っていてくれた。
編むのは、いつも縁側でだった。夕方の、陽の傾いた縁側で、祖母は膝の上に毛糸玉をのせて、竹の編み棒を、かちかちと鳴らした。その音を、わたしはいまでもおぼえていた。かち、かち、かち、という、規則正しい、小さな音。その音を聞きながら、わたしは縁側に寝そべって、うとうとした。編み棒の音は、祖母の子守唄と、いつも同じ場所にあった。眠れ、眠れ。かち、かち。星が海をわたるまで。かち、かち。
手袋を編むとき、祖母は、必ず、片方ずつ編んだ。右を編んで、それから左を編む。「こうやって、片っぽずつ、おそろいにしていくんだよ」と、祖母は言った。「片っぽだけじゃ、手袋にならないからね」。子どものわたしは、その言葉を、ただ聞き流していた。いま、網棚の片方だけの手袋を見あげながら、その言葉が、二十年以上の時をこえて、胸によみがえってきた。片っぽだけじゃ、手袋にならない。それなのに、いま、わたしの目の前には、片方だけの手袋が、置き去りにされている。
あの手袋は、どこへいったのだろう。
祖母が編んでくれた、たくさんの手袋。赤いのや、紺色のや、縞模様のや。それらは、いつのまにか、わたしの手もとから消えてしまっていた。引っ越しのたびに、少しずつ。就職して、家を出て、いくつか町を移るあいだに。いつのまにか、祖母が編んでくれたものは、ひとつも、わたしの手もとには残っていなかった。
――片方だけ。
網棚の手袋を見あげながら、わたしは思った。もし、あの祖母の手袋が、ひとつでも、片方だけでも残っていたなら。わたしはそれを、どうしただろう。捨てただろうか。それとも、簞笥の奥に、大切にしまっただろうか。
わからなかった。わからないことが、悲しかった。
電車が、また速度をゆるめた。駅に近づいているのだ。わたしは窓の外を見た。小さな、無人駅らしいホームが、ゆっくりと近づいてくる。屋根も、待合室も、木でできた、古い駅だった。ホームには、だれもいなかった。
ここで降りようか、と思った。ここで降りて、引き返そう。もうずいぶん、遠くまで来てしまった。取引先には、明日、あらためて連絡すればいい。今日はもう、いい。
けれども電車は、その駅を通りすぎた。
速度をゆるめただけで、停まらなかった。各駅停車のはずなのに。おかしい、と思ったが、うまく考えがまとまらない。眠気が、また、綿のように頭を包みはじめていた。ホームが、うしろへ流れていく。木の屋根が、待合室が、だれもいないベンチが。
眠れ、眠れ。
どこからか、祖母の声が聞こえた気がした。
わたしは、もう抗わなかった。
三たび、夢のなかへ落ちていった。
こんどは、縁側だった。祖母の家の、あの縁側。夏の午後だった。庭には、蟬の声が満ちている。じいじいと、耳を圧するほどの蟬しぐれ。それなのに、なぜだろう、その音のなかは、しんと静かだった。
わたしは縁側に腰かけて、足をぶらぶらさせていた。子どもの足を。祖母が、そのとなりに座っていた。こんどは、顔が見えた。祖母の顔。皺の深い、日に灼けた顔。細い目が、笑うと、いっそう細くなる。
祖母が、わたしに何か話しかけていた。
けれども、その声は、蟬の声にまぎれて、うまく聞きとれない。わたしは耳をすませた。祖母の唇が動いている。何か、大切なことを言っている。それは、わかった。けれども、言葉にならない。
――ばあちゃん。
わたしは呼びかけた。子どもの声で。ばあちゃん、なんて言ったの。
祖母は、ただ笑っていた。それから、わたしの頭に、しわだらけの手をのせた。あたたかい手だった。その手の重みを、わたしはたしかに感じた。夢のなかなのに。二十年以上も前の、あの手の重みを。
祖母が、庭の空を指さした。
わたしは、その指の先を見あげた。
夏の、青い空だった。蟬しぐれのなかの、まぶしいほどの青。その青の、いちばん高いところに、蒼い星が、ひとつ、尾を引いていた。ミラだ。昼の空の、蒼い彗星。祖母が、その星を指さしている。
「ほら」
こんどは、はっきりと聞こえた。祖母の声。
「ほら、ミラだよ」
わたしは、その星を見あげた。子どもの目で。まばゆい昼の空に、たった一筋、蒼く滲む光。
「あの星はね」と祖母が言った。「海をわたっていくんだよ。ずうっと、ずうっと遠くの海を。だれかが、あの星を見つけて、名前をつけたんだって。ずうっと昔にね。それでも、あの星は、まだわたってる。おまえが大きくなっても、ばあちゃんがいなくなっても、あの星は、ずうっと、海をわたってるよ」
ばあちゃんがいなくなっても。
その言葉が、子どものわたしの胸に、小さな棘のように刺さった。ばあちゃんがいなくなる。そんなこと、考えたこともなかった。祖母は、ずっとそこにいるものだと、思っていた。この縁側に、この蟬しぐれのなかに、ずっと。
「ばあちゃん、いなくなるの」
わたしは訊いた。
祖母は、また笑った。細い目を、いっそう細くして。
「いつかはね。でも、そのときは、あの星を見あげればいい。あの星が海をわたってるかぎり、ばあちゃんも、どこかで、おまえのそばにいるよ」
蟬しぐれが、いっそう高くなった。祖母の声を、そのなかに溶かしていくように。庭の緑が、陽に灼けて、白く光っていた。縁側の板が、あたたかかった。祖母の手が、まだ、わたしの頭にのっていた。
――そうだ。
夢のなかで、わたしは思い出した。
わたしは、忘れていたのだ。この約束を。祖母との、この約束を。あの星を見あげれば、祖母がそばにいる、という。それなのに、わたしは、二十年以上のあいだ、一度も、あの星を見あげなかった。空を見あげることさえ、しなくなっていた。仕事に追われ、言葉の裏を読むことに疲れ、うつむいて、足もとばかり見て歩いていた。
祖母が亡くなった夜のことを、わたしは思い出した。
その夜、わたしは病院にいた。
祖母は、もう長くなかった。母に連れられて、病室へ入った。祖母は、ベッドに横たわって、目を閉じていた。小さくなっていた。夏のあいだ、うちわで扇いでくれた、あの祖母が、こんなにも小さくなってしまうものかと、子ども心に、わたしは思った。
病室は、消毒液のにおいがした。窓には、うすいカーテンが引かれていて、夕方の光が、そのカーテン越しに、ぼんやりとさしこんでいた。祖母の手が、白い布団の上に、力なく置かれていた。その手を、わたしは、握ることができなかった。こわかったのだ。その手が、あまりに冷たいのではないかと。あまりに軽いのではないかと。だから、わたしは、ただ、離れたところから、その手を見ていた。
祖母は、いちど、目を開けた。わたしを見て、かすかに笑ったように見えた。それから、何か言おうとした。唇が動いた。けれども、声にならなかった。わたしは、その唇を、じっと見ていた。何を言おうとしているのか、わからなかった。
いま思えば、あのとき、わたしは、祖母の手を握るべきだった。こわがらずに、あの冷たくなりかけた手を、両手で包んで、あたためるべきだった。そして、耳を、祖母の口もとに近づけて、その声を、聞きとろうとするべきだった。けれども、わたしは、そうしなかった。十三の子どもには、それが、できなかった。死んでいく人を前にして、どうふるまえばいいのか、わからなかった。だから、わたしは、ただ、突っ立っていた。祖母の最後の言葉を、聞きとれないまま。
――星。
そう言ったのかもしれない、と、いまになって思う。あの子守唄の続きを、歌おうとしたのかもしれない。眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。それとも、あの約束を、もう一度、わたしに言おうとしたのかもしれない。あの星を見あげれば、そばにいる、と。
けれども、そのとき、わたしは、それを聞きとれなかった。
その夜、病院からの帰り道、空には、蒼い星が出ていた。ミラだった。母が、それを見あげて、何か言った。祖母が好きだった星だ、というようなことを。けれども、わたしは、うつむいたまま、その星を見あげなかった。祖母が死ぬかもしれない、ということが、こわくて。悲しくて。星どころではなかった。
祖母は、その三日後に、亡くなった。
わたしは、あの星を見あげなかった。祖母が亡くなる前も、亡くなったあとも。約束を、忘れたわけではなかった。ただ、忘れたことにしていたのだ。あの約束を思い出すことは、祖母がもういない、ということを、あらためて突きつけられることだったから。だから、わたしは、空を見あげなくなった。うつむいて、足もとばかり見て、生きてきた。
二十年以上。
夢のなかで、大人のわたしは、縁側に立っていた。子どものわたしと、祖母を、すこし離れたところから見ていた。祖母が、子どものわたしの頭を撫でている。蒼い星が、空に尾を引いている。
「ばあちゃん」
わたしは呼びかけた。大人の声で。
祖母は、ゆっくりと、こちらを振りむいた。細い目で、わたしを見た。それから、笑った。あの、いっそう細くなる笑いかたで。
「見あげてくれたんだね」
祖母が、そう言ったように聞こえた。蟬しぐれのなかで。
「ずっと、待ってたよ」
わたしの目から、涙が零れた。夢のなかなのに。あたたかい涙だった。縁側の板を、ぽたぽたと濡らした。
「ごめんね、ばあちゃん」
わたしは言った。「ずっと、見あげなくて。ごめんね」
祖母は、首を横に振った。それから、空を指さした。蒼い星を。海をわたっていく、あの星を。
蟬しぐれが、遠のいていった。庭の緑が、溶けていった。祖母の姿も、子どものわたしの姿も、ゆっくりと、光のなかに溶けていった。最後まで残ったのは、あの蒼い星だけだった。まぶしい昼の空に、たった一筋。
眠れ、眠れ。
こんどは、その続きが、はっきりと聞こえた。
眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。眠れ、眠れ、母さんが帰るまで。星は海をわたっても、母さんはきっと帰ってくる。眠れ、眠れ、わたしのこども。
――そうだ、こういう歌だった。
わたしは、その旋律のなかで、静かに目を覚ました。
電車は、停まっていた。
わたしは、しばらく、自分がどこにいるのか、わからなかった。頬が濡れていた。手でぬぐうと、指が、しめった。ほんとうに、泣いていたのだ。眠りながら。
車内は、しんとしていた。陽の色が、また変わっていた。橙色が、いっそう深くなり、金色を帯びはじめている。夕方が近い。窓の外を見ると、電車は、小さな駅のホームに停まっていた。
「終点です」
だれかの声がした。車掌だった。連結部のところに立って、車内を見わたしている。「終点です。お客さん、終点ですよ」
わたしは、そのとき、はじめて気づいた。車内には、もう、わたしのほかにだれもいなかった。あの女子高生も、いつのまにか、いなくなっていた。がらんとした車両に、傾いた陽だけが、満ちていた。
「終点」
わたしは、その言葉を、口のなかで繰りかえした。
腕時計を見ると、三時をまわっていた。取引先の約束の時刻は、とうに過ぎていた。けれども、ふしぎと、心は静かだった。焦りも、後悔も、なかった。ただ、胸のおくが、あたたかかった。夢のなかでこぼした涙の、あたたかさが、まだ残っていた。
わたしは立ちあがった。膝が、まだ少し重かった。鞄を持って、それから、ふと、網棚を見あげた。
片方だけの手袋が、まだそこにあった。灰色の、毛糸の手袋。指先の擦りきれた。それは、あいかわらず、網棚の隅に、置き去りにされていた。
わたしは、その手袋を、手に取った。
なぜだか、そうしなければいけない気がした。片方だけの手袋。対になるはずのものを失った、小さな忘れもの。それを、このまま、置いていくことができなかった。わたしは、その手袋を、鞄のなかに、そっとしまった。祖母の手袋ではない。だれのものかも、わからない。それでも、わたしは、それを持っていくことにした。
ホームに降りると、風が吹いていた。
山あいの、小さな無人駅だった。木造の、古い駅舎。屋根の瓦が、傾いた陽を受けて、鈍く光っていた。ホームには、わたしのほかに、だれもいなかった。改札を出ると、駅前には、小さなロータリーと、一軒の、しまった店があるきりだった。あとは、山と、田んぼと、空。
駅名標を、わたしは見あげた。ひらがなで書かれた、聞いたこともない駅の名前。左右の矢印の先にも、知らない地名が並んでいた。どこなのか、まるで見当もつかなかった。会社からも、家からも、取引先からも、ずいぶん遠いところまで来てしまったのだ。それなのに、なぜだろう、はじめて来たはずのこの場所が、どこか、なつかしかった。木の駅舎のにおいも、田んぼをわたってくる風も、傾いた陽の色も。祖母の家の近くの、あの駅に、どこか似ていた。あるいは、まどろみのなかで、わたしは、ほんとうに、あの町へ帰ってきたのかもしれなかった。
わたしは、駅前に立って、空を見あげた。
二十年以上ぶりに、わたしは、ちゃんと空を見あげた。
橙色と、金色と、その奥の、まだ残る青。夕方のはじまりの空だった。傾いた陽が、山の稜線に、ゆっくりと近づいていた。その光のなかを、鳥が数羽、群れをなして飛んでいった。
星は、見えなかった。まだ、昼の名残の明るさが、空に満ちていたから。けれども、わたしにはわかった。あの蒼い星は、いまも、どこかで、海をわたっている。この空の、まだ見えない奥のほうで。ずっと、ずっと遠くの海を。祖母が言ったとおりに。
わたしは、鞄から携帯電話を取りだした。アンテナのマークが、一本、立っていた。圏内に戻ったのだ。取引先の番号を呼びだして、けれども、かけるのをやめた。かわりに、母に、電話をかけた。
母は、すぐに出た。
「どうしたの、こんな時間に」
わたしは、しばらく、言葉が出なかった。それから、言った。
「ばあちゃんの家の近くの海の名前、なんだったっけ」
母は、電話の向こうで、すこし黙った。それから、その海の名前を、教えてくれた。わたしは、その名前を、口のなかで繰りかえした。そうだ、その名前だった。あの砂浜の。子どもの足あとが、点々と続いていた、あの海の。
「どうしたの、急に」と母が言った。
「なんでもない」とわたしは言った。「ただ、思い出したくて」
電話を切ると、風が、また吹いた。田んぼの稲が、いっせいに、身をかがめた。青い、まだ若い稲が。その動きが、夢のなかで見た、海の波に似ていた。
わたしは、しばらく、そこに立っていた。
会社に戻る電車は、しばらく来ないだろう。この無人駅から、次の上りは、いつ出るのか。時刻表を見にいく気力も、まだ湧かなかった。ただ、この、傾いた陽のなかに、もうしばらく、立っていたかった。
鞄のなかで、あの片方だけの手袋が、静かに眠っていた。だれのものかもわからない、季節はずれの手袋。けれども、わたしは、いつか、その対になるもう片方を、どこかで見つけるような気がした。あるいは、見つからなくても、それでよかった。片方だけでも、それを持っていることに、意味があるような気がした。
失われたものを、忘れたことにして生きるより、失われたものを、片方だけでも抱えて生きるほうが、きっと、いい。
わたしは、空を見あげた。
もう一度。
もう二度と、見あげることを、やめないために。
わたしは、駅前の、しまった店の軒下に、ひとつ、忘れられたような貼り紙を見つけた。色の褪せた紙に、手書きの文字で、こうあった。「本、あります」。矢印が、路地の奥のほうを指している。ふらりと、その路地へ入ってみた。夕方の光が、細い路地に、金色の帯を落としていた。
けれども、路地の奥には、なにもなかった。板塀と、雑草の生えた空き地があるきりだった。本屋らしきものは、どこにもなかった。ただ、空き地の隅に、木の看板が一枚、倒れて転がっていた。文字は消えかかっていて、読めなかった。かろうじて、月、という字と、光、という字が、読みとれた気がした。それから、書、という字も。わたしは、その看板を、しばらく見おろしていた。夜になれば、ここに、なにかが灯るのかもしれない。そんな、根拠のない予感がした。けれども、いまはまだ、昼の名残の明るさが、路地に満ちていた。わたしは、路地を出て、駅前へ戻った。
その夜、わたしは、その町の、小さな旅館に泊まった。
会社には、電話を一本かけて、急に休むことにした、とだけ伝えた。理由は言わなかった。上司は、めずらしいこともあるものだ、というような声で、わかった、とだけ言った。取引先には、詫びのメールを送った。日をあらためて、と。返事は、まだ来ない。けれども、それも、どうでもよかった。
旅館は、家族でやっている、小さな宿だった。夕食に、山菜の天ぷらと、川魚の塩焼きが出た。女将さんが、わたしが遠くから来たことを知ると、「こんな何もないところに、よく来なさったね」と、笑った。わたしは、道に迷ってしまって、と答えた。嘘ではなかった。ほんとうに、道に迷ったのだ。降りるはずの駅を、いくつも過ぎて。それでも、その迷い道の果てに、わたしは、たどりつくべき場所へ、たどりついたような気がしていた。
食事のあと、風呂に入った。古い、木の湯船だった。湯につかりながら、わたしは、久しぶりに、自分の体の重さを、感じた。肩や、背中や、腰に、いつのまにか溜まっていた疲れが、湯のなかで、ゆっくりとほどけていく。まどろみが、また、まぶたのふちに、しのびよってきた。けれども、こんどは、抗わなかった。抗う必要が、もう、なかった。
旅館の窓から、山あいの空が見えた。すっかり暮れて、星が出ていた。夏の星座が、山の稜線の上に、ちりばめられている。わたしは、窓辺に立って、その星々を、ひとつひとつ、眺めた。子どものころ、祖母と縁側で見た、あの夏の空を思い出した。祖母は、星の名前を、いくつも知っていた。あれは何座、あれは何座、と、指さして教えてくれた。わたしは、そのほとんどを、忘れてしまっていた。けれども、ひとつだけ、忘れずにいたものがあった。海をわたる、蒼い星の名前を。
蒼い星は、見えなかった。ミラは、この夜には、めぐってこないのかもしれない。彗星は、いつも空にあるわけではない。長い長い周期のなかで、たまに、ふっと空を横切っていくだけだ。だから、めぐりあえるとはかぎらない。
けれども、それでいい、とわたしは思った。
見えなくても、あの星は、どこかを、わたっている。祖母が言ったとおりに。そして、わたしが、あの星を思い出しているかぎり、祖母も、どこかで、わたしのそばにいる。二十年以上、忘れたことにしていた約束を、わたしは、この午後、思い出した。うとうとと居眠りをして、降りるはずの駅を過ぎて、見知らぬ終点まで運ばれて、はじめて。
まどろみが、わたしを、ここまで連れてきた。
わたしは、旅館の、古い畳のにおいのする布団に横たわった。障子越しに、月の光が、ほのかにさしこんでいた。その光の格子が、畳の上に、几帳面な模様を落としていた。夢で見た、あの祖母の家の障子と、同じように。
眠りに落ちる前に、わたしは、あの子守唄を、口ずさんでみた。小さな声で。二十年以上、忘れていたはずの旋律が、ふしぎと、するすると、口をついて出た。
眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。
歌いながら、わたしは、鞄のなかから、あの片方だけの手袋を取りだして、枕もとに置いた。灰色の、毛糸の手袋。指先の、擦りきれた。だれのものかもわからない、その小さなものを、わたしは、まるでお守りのように、かたわらに置いた。
明日になったら、と、わたしは思った。明日になったら、祖母の家の近くの、あの海へ、行ってみよう。もう、祖母の家は、とうに取り壊されて、ないかもしれない。あの砂浜も、変わってしまっているかもしれない。それでも、海は、まだそこにあるはずだ。子どもの足あとの続いていた、あの波打ちぎわは。わたしは、そこへ行って、裸足になって、砂を踏んでみよう。そして、空を見あげよう。昼の空に、蒼い星が見えなくても、かまわない。ただ、見あげることを、もう、やめないために。祖母との、あの約束を、ちゃんと守るために。
まぶたが落ちるとき、世界はいちど、ふっと軽くなった。
けれども、こんどは、失われていくのではなかった。むしろ、何かが、静かに、戻ってきていた。長いあいだ、置き去りにしていた、大切な何かが。まどろみの、いちばん深いところから。海をわたる、蒼い星のほうから。
眠れ、眠れ。
わたしは、その旋律のなかで、目を閉じた。
遠回りをした午後だった。けれども、たぶん、いちばん近い道だった。忘れていた場所へ帰るための、いちばん近い、遠回りの道。