五時間目のまどろみ
五時間目のはじまりを告げる予鈴は、いつも遠いところで鳴っているように聞こえた。
給食のあとの、あの陽の色をわたしはうまく言葉にできない。午前の光がまだ張りつめて、教室のすみずみまで隅々を切り分けていた朝とはちがう。昼を過ぎた光は、なにかを許すように、ゆるんでいる。窓ガラスを透かして机の木目のうえに落ちるその色は、蜜のようで、埃のようで、ひとの記憶のいちばん端のほうに似ていた。わたしの席は、窓ぎわの、うしろから二番目だった。一年のあいだ、この席にいた。だからわたしは、この季節の午後の光がどんなふうに教室を渡っていくのかを、たぶんクラスのだれよりもよく知っていた。
一
「――では、五十二ページを開いて」
先生の声がした。地理の、髪をきちんと七三に分けた男の先生で、名前をここに書くのはやめておく。書いてしまえば、その名前だけが妙にはっきりとして、あの午後のぜんたいがしぼんでしまいそうな気がするから。先生はチョークを手にとって、黒板に大きな字で「季節風」と書いた。カツ、カツ、と乾いた音がした。その音だけが、しばらくのあいだ、教室のなかでいちばん確かなものだった。
わたしは五十二ページを開いた。開いたけれど、活字はもう、水面に映った文字みたいに揺れていた。等高線のあいだを、赤い矢印が海から陸へと吹きつけている図があった。夏の風。湿った風。その矢印を目でたどっているうちに、わたしはいつのまにか、風のほうになっていた。海のうえを渡ってくる、あたたかくて重たい、名前のない風のほうに。
給食のパンが、まだおなかのなかでほのかにあたたかかった。牛乳の膜のような眠気が、まぶたのうらにゆっくりと張っていく。カーテンが、風もないのに、ときどき思い出したように膨らんだ。だれかが窓を一枚だけ開けていた。そこから入ってくる空気には、校庭の土のにおいと、遠くの給食室からまだ流れてくる出汁のにおいと、それから、六月のおわりの、雨になる前の草いきれのにおいが混じっていた。
先生の声が、少しずつ遠のいていった。
音そのものは聞こえている。「モンスーン」とか「偏西風」とか、そういう言葉が、たしかにそこにある。けれどその言葉たちは、意味の重さを手ばなして、ただの音になって、教室の天井のあたりを、ゆっくりと漂っていた。シャボン玉みたいに。ふれれば消えてしまいそうな。
眠気というのは、ふしぎなものだ。眠りに落ちるまでの、あの、境目のところ。まだ起きているのに、もう夢がはじまっている、あの薄氷のうえのような時間。あそこでは、時間が、ふだんとちがう速さで流れる。のびて、ちぢんで、ときには止まったようになる。先生が黒板に一文字書くあいだに、わたしは、何年ぶんもの記憶を、旅してしまうことがある。かと思えば、まばたきひとつのあいだに、一時間が過ぎていることもある。まどろみのなかでは、時計の針は、あてにならない。あてにならないから、こわいような、いっぽうで、なんだか、ゆるされているような、へんな気持ちになる。
わたしは、まぶたを、いちど、ぎゅっと閉じて、また開けた。教室が、うっすらとぼやけていた。前の席の男の子の、シャツの背中の白さが、光にとけて、ふちのところが、にじんでいた。だれかの鉛筆が、ノートのうえを、さらさらと走る音がした。だれかが、あくびを、かみころしていた。みんな、おなじだった。この五時間目という、午後のいちばん眠い時間のなかで、みんな、それぞれの、ちいさな眠りの入口に、立っていた。
わたしは頬づえをついた。窓の外を見た。
二
校庭には、だれもいなかった。
昼下がりの校庭というのは、不思議なものだ。あんなにひとを詰めこめる広さがあるのに、五時間目のいまは、ただの空白として、白く光っていた。ぽつんと立っているサッカーゴールが、地面に細長い影を落としている。その影だけが、じりじりと動いていた。時間が動いているという、たったひとつのしるしのように。
朝礼台のうえに、鳩が一羽いた。鳩は首をかしげて、なにもない地面をつついていた。なにを探しているのだろう、と思った。そして、そう思った瞬間に、わたしはもう鳩のことを考えていなかった。眠気のなかでは、ひとつの考えは、次の考えへとすべってしまう。指のあいだから水がこぼれるみたいに。とめようとすると、かえって速くこぼれていく。
わたしのふたつ前の席に、その子はいた。
名前は、佐倉さんといった。佐倉さんのことを書こうとすると、いつもいちばん困る。あの子について書けることは、たくさんあるようで、ほんとうはひとつもない。同じクラスになって一年と少し。口をきいたのは、たぶん数えるほどしかない。プリントを後ろに回すとき、「はい」と言って渡してくれる、その手のこと。図書委員の当番が同じで、だれもいない放課後の図書室で、返却された本の背表紙をならべていたときのこと。それくらいだ。それくらいなのに、わたしはあの子の耳のかたちを、正確に思い出すことができる。
いま、佐倉さんは、ノートをとっていた。すこし前かがみになって、鉛筆を動かしている。窓からの光が、あの子の横顔にあたっていた。頬のやわらかな線に、まつ毛の影が落ちていた。耳のうしろに、髪をかけていた。その耳が、光をすかして、うすく赤く透けていた。
放課後の図書室での、あの日のことを、わたしは、よく思い出す。当番の日で、ふたりきりだった。返却された本を、書架に戻していく、それだけの、しずかな仕事だった。窓の外は、もう夕方で、教室のときとは、ちがう色の光がさしていた。佐倉さんは、背のびをして、いちばん上の棚に、一冊の本を戻そうとしていた。けれど、とどかなかった。わたしが、かわりに、それを、戻した。「ありがとう」と、あの子は言った。それだけだった。それだけのことを、わたしは、いまでも、そっくりそのまま、思い出せる。あの子の指が、本の背にふれていた、そのかたち。「ありがとう」の、すこし低い、しずかなこえ。夕方の光の、金いろ。あのとき、わたしは、なにか言いたかった。けれど、なにも言えなかった。言葉は、いつも、言うべきときには、出てこない。ずっとあとになって、まどろみのなかでだけ、するすると出てくる。
わたしは、いつもこの角度から、あの子を見ていた。うしろから二番目の窓ぎわ。ふたつ前。ななめ。この角度は、この一年間の、わたしだけの場所だった。ほかのだれも、この角度からあの子を見ていない。この光のなかの横顔は、わたしだけのものだ――と、そう思うことは、たぶん少しずるくて、少しさびしいことだった。だってそれは、あの子がわたしを見ていない、ということでもあったから。
先生がまた黒板に字を書いた。カツ、カツ。
季節風は、季節によって向きを変える風のことです、と先生が言った。夏は海から陸へ。冬は陸から海へ。同じ風が、季節がめぐると、まるきり反対のほうへ吹くのです。
同じ風が、反対のほうへ。
その言葉が、なぜだかわたしのなかに、ふわりと降りてきた。眠気のせいで、言葉が、ふだんとちがう入り口から入ってきたのだと思う。同じものが、季節がめぐると、ぜんぜんちがうものになる。わたしはそれを、なにか自分にかかわりのあることのように感じた。けれど、どうかかわりがあるのかは、わからなかった。わからないまま、その感じだけが、胸の底に沈んでいった。
三
机のうえに、傷があった。
わたしの机は、ずいぶん古い机だった。天板の木は、いくつもの学年の手であめ色にすり減って、あちこちに小さな傷や染みがあった。そのなかに、彫刻刀か、コンパスの針でつけたらしい、細い線の落書きがあった。わたしはいつも、退屈な時間になると、その落書きを指でなぞった。
それは、たぶん星だった。五つの角のある、へたくそな星。そのとなりに、なにか字が彫ってあった。もう半分はすり減って読めなかったけれど、「ミ」と、それから、たぶん「わたる」と読めた。だれが彫ったのだろう。何年前の、どの生徒が、この同じ窓ぎわの席で、同じような午後の眠気のなかで、これを彫ったのだろう。その子も、きっとだれかの横顔を見ていたのだろうか。
わたしは、その落書きに、いつのまにか、なかまのような親しみを、おぼえていた。会ったこともない、名前も知らない、もうとっくに大人になって、この学校のことなど、忘れてしまっているかもしれない、だれか。けれど、その子は、たしかに、この席にいた。この窓から、おなじ校庭を見て、おなじ光を浴びて、おなじ眠気とたたかって――そして、まけて、この星を彫った。彫るとき、その子の胸のなかには、なにがあったのだろう。だれかへの、言えない気持ちが、あったのだろうか。それとも、ただ、退屈を、まぎらわせたかっただけなのだろうか。わからない。わからないけれど、この、木に刻まれた、たった一つの星が、時間をこえて、いまのわたしの指の下に、のこっている。それだけで、わたしは、なぜだか、ひとりではない、という気がした。この窓ぎわの席は、代々の、まどろむ者たちの、席だったのだ。
指のはらで、その星の溝をなぞった。木のつめたさが、ゆびさきから伝わってきた。なぞっているうちに、わたしのまぶたは、とうとう半分閉じた。
先生の声は、もう波の音みたいだった。
意味のない、けれど心地のよい、寄せてはかえす音。教室の空気が、蜜のようにねばく、あたたかくなっていく。前の席の男の子の背中が、ゆらゆらとゆれて見えた。蛍光灯はついていなかった。だれもつけなかった。昼の光だけで、じゅうぶんに明るかったから。その光のなかで、埃が、ゆっくりと、上へ下へと舞っていた。ひとつぶ、ひとつぶが、金いろに光っていた。
わたしは、その埃のひとつぶを、目で追った。追っているうちに、それが星のように見えた。
そして、教室が、ゆっくりと、遠ざかっていった。
四
気がつくと、わたしは校庭にいた。
けれど、それはさっきの、白く光った空っぽの校庭ではなかった。空は、夕方の色をしていた。いや、夕方でもなかった。それは、いままで見たことのない色の空だった。藍と、群青と、それから、まだ夜になりきらない紫が、溶けあっていた。西のほうに、太陽ではないなにかが、うっすらと光っていた。
わたしはひとりで、校庭のまんなかに立っていた。校舎は、灯りがひとつもついていなくて、まっくらだった。窓という窓が、暗く、ただ空の色をうつしていた。それなのに、こわくはなかった。眠りのなかでは、たいていのことは、こわくない。ただ、しずかに、不思議なだけだ。
足もとの地面は、しめっていた。給食のあとの、あの校庭の土のにおいが、ここにもあった。けれど、それは、昼のにおいではなかった。もっと、ふるい、もっと、とおいにおいだった。うんとちいさいころ、夏の夜に、だれかに手をひかれて歩いた、どこかの縁日の、あの土のにおいに、すこし似ていた。そのだれかの手の、大きさも、あたたかさも、もう思い出せない。ただ、においだけが、こうして、まどろみのなかで、ふいに、よみがえってくる。においというのは、記憶のいちばん奥の、鍵のかかった部屋の、その鍵なのかもしれない。
風が吹いていた。あの、地理の教科書のなかの、海から陸へ吹く、あたたかくて湿った風だった。その風にのって、どこか遠くから、うたが聞こえてきた。だれかが口ずさんでいる、低い、やわらかなこえだった。
眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。
わたしはそのうたを知らなかった。知らないのに、なつかしかった。うんとちいさいころ、だれかがわたしのうえにかがみこんで、うたってくれたことがあるような。その顔は思い出せない。うたの旋律だけが、胸のいちばん奥の、鍵のかかった部屋から、そっとにじみ出てくるようだった。
空を見あげた。
そのとき、蒼い光が、空をよぎった。
それは、星ではなかった。星よりも、ゆっくりと動いていた。西の空から、東の空へ、細く長い尾を引きながら、蒼く、しずかに、渡っていった。その青は、この世のどんな青ともちがっていた。氷のいちばん深いところの青。海のいちばん底の青。あるいは、まだ生まれる前の、記憶のいちばん奥の青。
わたしは、口をあけて、それを見ていた。
ずっと昔、だれかが、あれを「ミラ」と呼んだ、という気がした。だれがそう言ったのか、どこで聞いたのか、わからない。けれど、あの蒼い星の名前は、ミラなのだと、わたしは眠りのなかで、たしかに知っていた。ミラ。海をわたる星。それは、机の落書きに彫られていた「ミ」の字と、「わたる」という字とに、しずかに重なった。ああ、あの子も見たのだ、と思った。何年も前の、この窓ぎわの席の子も、この同じまどろみのなかで、この蒼い星を見たのだ。だから彫ったのだ。忘れないように。
彗星の尾が、校舎のうえを、ゆっくりと過ぎていった。
その光のなかを、だれかが歩いていた。
五
その子は、校庭のむこうから、こちらへ歩いてきた。
顔は、逆光でよく見えなかった。けれど、歩きかたで、わたしにはわかった。すこし前かがみになる、あのくせ。佐倉さんだった。
佐倉さんは、片方の手に、白い手袋をひとつだけ持っていた。もう片方の手には、なにも持っていなかった。それが、なぜだか、とても大切なことのように思えた。片方だけの手袋。対になるはずの、もう片方が、どこかに失われている手袋。
「探してるの」と、佐倉さんは言った。そのこえは、じっさいのあの子のこえよりも、ずっと近くで聞こえた。まるで、耳のすぐそばで話しているみたいに。
「なにを」とわたしは訊いた。眠りのなかでは、こんなふうに、ふだんは言えないことも、すらすらと言えた。
「もう片方」と佐倉さんは言って、片方だけの手袋を、そっと持ちあげてみせた。「どこかに、落としたの。ずっと前に。この校庭のどこかだと思うんだけど」
わたしは校庭を見わたした。蒼い光のなかで、地面は、砂の一つぶまで、はっきりと見えた。けれど、手袋の片方は、どこにもなかった。
「いっしょに、探してくれる?」
わたしはうなずいた。うなずいた瞬間に、なぜだか、胸がしめつけられるほど、うれしかった。それはたぶん、じっさいのわたしが、いちどもあの子にかけられたことのない言葉だったから。いっしょに。そのふたつの文字が、こんなにあたたかいものだとは、知らなかった。
わたしたちは、校庭にしゃがみこんで、地面を探した。蒼い星の光が、ふたりの手もとを照らしていた。土は、しっとりとつめたかった。わたしの指と、あの子の指が、いちど、地面のうえでふれた。ほんの一瞬。ふれた、というより、かすった、というくらいの。それでも、そのつめたい指先の感触は、いまでも思い出せる。
わたしたちは、なにも言わずに、探しつづけた。蒼い光のなかでは、時間が、どれくらい過ぎたのか、わからなかった。ひと呼吸のようでもあり、ひと晩のようでもあった。佐倉さんの髪が、風にゆれて、ときどき、わたしの頬に、ふれそうになった。あの子の息づかいが、すぐそばで、聞こえていた。しずかで、規則ただしい、ねむっているひとのような、息づかいだった。もしかしたら、この夢のなかで、あの子もまた、べつの夢を見ているのかもしれない、と、わたしは思った。夢のなかの夢。まどろみの、そのまた奥の、まどろみ。そこでは、いったい、なにを、探しているのだろう。
「ねえ」とわたしは言った。「きみは、どうして、その手袋を、そんなに探すの」
佐倉さんは、しばらく、こたえなかった。それから、片方だけの手袋を、そっと、頬に、あてた。
「これがあると」と、あの子は、ちいさなこえで言った。「もう片方が、どこかに、ちゃんと、あるって、わかるから。片方だけでも、持っていれば、いつか、もう片方に、会える気が、するから」
わたしは、その言葉を、胸のおくに、しまった。片方だけでも、持っていれば。それは、なにか、手袋よりも、ずっと大きなことを、言っているように、聞こえた。
「ねえ」と佐倉さんが言った。「もし、見つからなかったら、どうしよう」
「見つかるよ」とわたしは言った。
「でも、もし、見つからなかったら」
わたしは、なんと答えたらいいのか、わからなかった。眠りのなかのわたしは、佐倉さんに、こう言いたかった。片方だけでも、いいじゃないか。片方だけの手袋を、きみが持っている。それはそれで、ひとつの、うつくしいことだ。けれど、そんなことを言えば、あの子を傷つけてしまう気がして、言えなかった。
かわりに、わたしは、遠くの空を指さした。
「あれ、見て」
蒼い彗星が、いままさに、東の空のはてに沈もうとしていた。その尾が、だんだんと薄れて、空の藍に溶けていった。
「きれいだね」と佐倉さんが言った。「あれ、なんて名前?」
「ミラだよ」とわたしは答えた。「海をわたる星なんだって」
「だれが、そう言ったの」
わたしは、答えられなかった。だれが言ったのだろう。ほんとうに、だれかが言ったのだろうか。それとも、この机の落書きが、わたしにそう教えたのだろうか。それとも――と考えたところで、遠くのほうで、あのうたが、また聞こえてきた。
眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。
「このうた」と佐倉さんが言った。「知ってる」
「ぼくも」とわたしは言った。
「どこで聞いたんだろう」
「わからない」
わたしたちは、しばらく、うたを聞いていた。校庭のまんなかに、ふたりでしゃがんだまま。片方だけの手袋は、まだ見つからなかった。けれど、そのときのわたしは、それでもいい、と思っていた。この、蒼い光と、うたと、あの子のとなりにいるこの時間が、いつまでもつづけばいい、と。
けれど、まどろみのなかの時間は、いつまでもはつづかない。
六
「――さん。おい、そこの、窓ぎわ」
先生のこえが、いきなり、すぐそばで鳴った。
わたしは、はっと顔をあげた。頬づえをついていた腕が、しびれていた。口のはしから、よだれが垂れそうになっていて、あわてて手の甲でぬぐった。教室の、ふつうの午後の光が、いっぺんに戻ってきた。蒼い星も、うたも、校庭にしゃがむふたりも、いっしゅんで消えた。
「寝てたな」と先生が言った。けれど、そのこえは、思ったほど、きびしくなかった。むしろ、どこか、あきらめたような、なつかしむような、へんな声だった。「季節風は、どっちからどっちへ吹く。夏は」
「海から、陸へ」とわたしは、なかば無意識に答えた。
先生は、すこし目を見ひらいた。それから、ふっと笑った。
「そうだ」と先生は言った。「海から、陸へ、だ。……ちゃんと聞いてたのか、寝てたのか、わからんな」
クラスのみんなが、すこし笑った。わたしも、ぎこちなく笑った。佐倉さんは――ふたつ前の、あの子は、こちらを振りかえらなかった。ただ、まっすぐに、ノートをとりつづけていた。あの子は、わたしの夢のなかで、いっしょに手袋を探してくれたことを、なにも知らない。片方だけの手袋のことも、蒼い星のことも、なにも。
ふしぎだった。ついさっきまで、わたしは、あの子のとなりに、しゃがんでいたのに。あの子の息づかいを、すぐそばで、聞いていたのに。あの子は、頬に手袋をあてて、「片方だけでも、持っていれば」と、言ったのに。それは、たった、いま、あったことだった。それなのに、それは、どこにも、なかった。夢というのは、そういうものだ。あんなに、たしかに、あったのに。目がさめれば、ひとかけらの、証拠もない。手のなかに、なにも、のこらない。わたしは、そっと、自分の指先を、見た。あの子の指が、かすった、はずの、その指先を。もちろん、そこには、なにも、なかった。ただ、頬づえのあとが、うっすらと、赤く、のこっているだけだった。
けれど、と、わたしは思った。夢のなかで、あの子が言った、あの言葉だけは、たしかに、いま、わたしのなかにある。それは、夢がのこした、たったひとつの、わすれものだった。証拠にはならない。だれにも、見せられない。それでも、たしかに、ある。まどろみが、目ざめのなかに、こっそりと、置いていった、ちいさな、片方だけの、なにか。
わたしは、机の落書きに、目を落とした。
星と、「ミ」と、「わたる」。指で、そっとなぞった。木は、あいかわらず、つめたかった。
夢のなかで、あの子は「探してるの」と言った。もう片方の手袋を、と。けれど、いま、こうして目がさめてみると、探しているのは、わたしのほうなのだと気づいた。わたしはずっと、なにかを探していた。それがなんなのか、はっきりとはわからない。けれど、それは、この午後の光に似ていた。この、蜜のような、埃のような、記憶の端のような光に。手をのばせば、指のあいだからこぼれてしまう、この光に。
片方だけでも、持っていれば、もう片方に会える気がする、と、夢のなかのあの子は言った。わたしは、それを、なんども、こころのなかで、くりかえした。わたしが持っている、片方は、なんだろう。この、窓ぎわの席の角度だろうか。この、ななめ前の横顔だろうか。この、放課後の図書室の「ありがとう」だろうか。それは、たしかに、片方だった。対になる、もう片方は、まだ、どこにもなかった。あの子が、わたしを、おなじように見ること。おなじように、思うこと。その、もう片方の手袋は、たぶん、一生、見つからないのだろう。
それでも、わたしは、片方を、持っていた。それだけは、たしかだった。そして、その片方を、こうして、ぎゅっと、握っていれば――いつか、というのは、来ないのかもしれないけれど――それでも、なにかが、どこかで、対になって待っている、という気だけは、していられた。まどろみは、そういう、ありもしない「いつか」を、ほんのすこし、信じさせてくれる。目がさめてしまえば消える、やわらかな、うそを。
先生が、また黒板に向かった。カツ、カツ。
チョークの音が、ふしぎと、胸にしみた。
七
授業のおわりまで、あと二十分ほどあった。
わたしはもう、眠らなかった。眠るには、胸のなかが、すこしさわがしすぎた。夢の名残が、まだ、指先にのこっていた。あの子のつめたい指の感触。片方だけの手袋の白さ。蒼い星の、ありえない青。それらは、目がさめたあとのほうが、かえって、くっきりとしていた。
わたしは、窓の外を見た。
校庭は、あいかわらず、白く光っていた。サッカーゴールの影が、さっきよりも、すこしだけ、のびていた。鳩は、もういなかった。時間は、たしかに、動いていた。この午後も、この季節も、そしてこの一年も、指のあいだの光のように、こぼれ落ちていくのだ。
三年生になれば、席替えがある。クラスも変わるかもしれない。この、うしろから二番目の窓ぎわの席から、ななめ前の、あの子の横顔を見る、というこの角度は、もう二度と、手に入らないかもしれない。この光のなかの横顔は、この季節だけの、この一年だけの、たった一度きりのものなのだ。
季節風は、季節がめぐると、反対のほうへ吹く、と先生は言った。同じ風なのに。いまのわたしには、その言葉の意味が、すこしだけ、わかる気がした。いまは、夏の風だ。海から、陸へ。この、あたたかくて、湿った、眠気をはこんでくる風。けれど、季節がめぐれば、この風は、反対をむく。陸から、海へ。つめたく、かわいた、べつの風になる。そのとき、わたしは、もう、この席には、いないのだ。この横顔を、この角度から、見ることも、ないのだ。同じわたしが、季節がめぐると、まるでべつのだれかのように、べつのことを、思っている。いまの、この、胸のいたみさえ、そのころには、もう、忘れているのかもしれない。それが、いちばん、こわいことだった。忘れてしまう、ということが。この午後を、この光を、この横顔を、いつか、きれいに、忘れてしまう、ということが。
そう思ったとき、胸のおくが、しくりと痛んだ。それは、かなしいような、いとおしいような、どちらともつかない痛みだった。まだ失っていないのに、もう、失うことがわかっている。その予感の痛み。青春というのは、たぶん、こういう痛みのことを言うのだろう。まだだれも、そう教えてくれなかったけれど。
わたしは、もういちど、机の星をなぞった。
そして、思いきって、筆箱から、コンパスをとりだした。
だれにも見つからないように、机のはしに、小さな星を、ひとつ、彫った。へたくそな、五つの角のある星を。何年もまえの、あの子が彫ったであろう星の、すぐとなりに。ふたつの星が、ならんだ。
それから、そのとなりに、こう彫ろうとした。「わたしは、ここにいた」と。
けれど、彫らなかった。
かわりに、なにも彫らなかった。名前も、日付も、なにも。ただ、星をひとつ。それでいい、と思った。いつか、何年もあとの、どこかの午後の、眠気のなかの、だれかが、この星を見つけて、指でなぞってくれるかもしれない。そして、その子も、蒼い夢を見るかもしれない。片方だけの手袋を探す、だれかの夢を。それで、じゅうぶんだった。
名前を彫れば、それは、わたしの星になる。日付を彫れば、それは、この日の星になる。けれど、なにも彫らなければ、それは、だれの星でもない、いつの星でもない、ただの星になる。ただの星のほうが、きっと、とおくまで、渡っていける。この、木の天板のなかを、何年も、何十年も、机が捨てられて、燃やされて、灰になるまで。あるいは、灰になってからも、どこかを。海をわたる星のように。名前も、日付も、持たないままで。
わたしは、コンパスを、そっと、筆箱に、しまった。そして、彫ったばかりの、あたらしい星を、ふるい星のとなりの、その、あたらしい星を、指で、なぞった。木の、けずったばかりのところは、まわりより、ほんのすこし、白かった。けれど、それも、いつか、まわりと、おなじ、あめ色に、すり減っていくのだろう。どちらが、ふるい星で、どちらが、あたらしい星か、わからなくなるくらいに。そのころには、わたしも、ここには、いない。それでいい、と、もういちど、思った。
八
授業のおわりの予鈴が鳴った。
その音も、やっぱり、遠いところで鳴っているように聞こえた。けれど、朝の予鈴とはちがって、それは、なにかがおわる音だった。この五時間目という、ちいさな午後が、ひとつ、おわる音。
先生が、チョークを置いた。「今日はここまで」と言った。「次までに、五十四ページまで読んでおくこと」
クラスが、いっせいにざわめいた。眠っていた空気が、いっぺんに、ほどけた。だれかが伸びをして、だれかが笑い、だれかが次の時間の教科書をとりだした。まどろみは、もう、どこにもなかった。あんなにたしかにあった蒼い光も、うたも、まるで、はじめから存在しなかったみたいに。
佐倉さんが、立ちあがった。
そして、ノートを閉じるとき、あの子は、はじめて、うしろを――わたしのほうを、ちらりと見た。
目が、あった。
ほんの、一瞬だった。まばたきひとつぶんの。けれど、そのとき、わたしは、ばかみたいな考えにとらわれた。もしかしたら、あの子も、おなじ夢を見ていたのではないか、と。おなじ校庭で、おなじ蒼い星を見あげて、おなじうたを聞いていたのではないか、と。だから、いま、うしろを見たのではないか、と。
そんなことは、ありえない。夢は、ひとりのものだ。だれとも分けあえない。それは、わかっていた。
けれど、佐倉さんは、ほんのすこし、口もとを、うごかした。それが、笑ったのか、なにか言おうとしたのか、それとも、ただの気のせいだったのか、わたしにはわからなかった。あの子は、すぐに前を向いて、ノートを鞄にしまい、教室を出ていった。
わたしは、そのうしろすがたを、見おくった。
九
放課後、わたしは、ひとりで教室にのこっていた。
図書委員の当番だったから、というのは、半分は口実だった。ほんとうは、まだ、あの午後の光のなかにいたかったのだと思う。みんなが帰ってしまった教室は、しんとしていて、カーテンだけが、あいかわらず、ときどき膨らんでいた。
夕方には、まだ間があった。けれど、光は、もう昼下がりのものではなかった。すこしずつ、色が濃くなって、金いろに近づいていた。机という机が、長い影を、床のうえにのばしていた。
わたしは、窓ぎわの、自分の席にすわった。
そして、鞄のなかから、一冊の本をとりだした。それは、けさ、家を出るときに、げたばこのうえに置いてあった本だった。だれのものか、わからなかった。表紙には、なにも書いていなかった。ただ、藍色の、うすい本だった。ひらいてみると、どのページにも、なにも、印刷されていなかった。まっしろだった。
へんな本だ、と思って、けさは、そのまま鞄に入れてきたのだった。
いま、その本を、もういちど、ひらいてみた。
やっぱり、まっしろだった。けれど、いちばんうしろの、見返しのところに、鉛筆で、小さく、こう書いてあった。うすくて、消えかけていて、あやうく見おとすところだった。
「月光書房 蔵書」
わたしは、その字を、しばらく、見つめていた。
月光書房。聞いたことのない名前だった。けれど、なぜだか、その名前を見たとき、わたしのなかで、なにかが、しずかに、つながった。夢のなかの蒼い星。うた。片方だけの手袋。それらが、この、まっしろな本の、藍色の表紙のなかに、ぜんぶ、しまわれているような気がした。
ふと、机のうえに、なにかが置いてあることに気づいた。
それは、青いマッチ箱だった。
いつからそこにあったのか、わからなかった。三日月のかたちが、藍色の紙のうえに、刷ってあった。手にとってみると、かるく、乾いた音がした。まだ、なかにマッチが入っているらしかった。わたしのものではなかった。だれかが、ここに、置いていったのだ。この、わたしの席に。
だれが。
わたしは、あたりを見まわした。教室には、だれもいなかった。カーテンだけが、風もないのに、ゆっくりと膨らんで、しぼんだ。
十
わたしは、そのマッチ箱を、そっと、ひらいた。
なかには、軸のあかい、ふつうのマッチが、何本か、並んでいた。わたしは、一本、とりだした。そして、箱のはしで、火を、すった。
ちいさな炎が、ぽっと、灯った。
その炎を、まっしろな本の、いちばん最初のページに、近づけてみた。なぜ、そんなことをしたのか、自分でもわからない。ただ、そうしなければいけない、という気が、したのだった。夢のなかで、遠くから聞こえてきた、あのうたの声が、そうしろと言っているような気が。
火の光が、まっしろなページを、ほのかに、照らした。
すると――気のせいだったのかもしれない。あかりのかげんだったのかもしれない。けれど、そのまっしろなページのうえに、ほんの一瞬、字が、うかびあがったように見えた。うすい、蒼い字で。
それは、こう読めた。
「眠れ、眠れ、星が海をわたるまで」
わたしは、息を、のんだ。
炎が、ゆらいだ。カーテンが、大きく膨らんだ。そして、風が、ページを、めくった。
火は、指のところまで燃えてきて、わたしは、あわてて、それを、吹き消した。ちいさな、白い煙が、たちのぼった。あとには、こげたような、なつかしいような、においが、のこった。
ページを見なおすと、字は、もう、なかった。ただの、まっしろなページに、戻っていた。
わたしは、その本と、青いマッチ箱を、そっと、鞄にしまった。窓の外では、光が、いよいよ金いろに濃くなって、やがて、夕方になろうとしていた。校庭のむこうの空に、いちばん星が、まだ出るには早い時刻の、ほのかに白い空に、わたしは、目を、こらした。
あの、蒼い星は、いなかった。
夢のなかにしか、いなかった。
けれど、わたしは、知っていた。今夜、この教室のカーテンがすっかり暗くなったころ、この町のどこかの路地のいちばん奥に、ぽつりと、灯りがともるのだ、ということを。そこには、藍色の本のならんだ、ちいさな古書店があって、朝になれば、消えてしまうのだ、ということを。だれに教わったわけでもないのに、わたしは、それを、知っていた。まるで、うんとちいさいころ、だれかにうたってもらった、あのうたのように。
十一
わたしは、鞄をかついで、教室を出た。
廊下は、しんとしていた。げたばこで、うわばきを、ぬいだ。そのとき、ふと、げたばこのすみに、なにかが、落ちているのが、目にとまった。
しゃがんで、拾ってみた。
それは、手袋だった。
白い、片方だけの、手袋だった。
わたしは、それを、手のひらのうえに、のせて、しばらく、見ていた。夢のなかで、佐倉さんが探していた、あの、もう片方だ、と思った。ばかげた考えだった。夢は夢だ。手袋は、ただ、だれかが落としたものだ。落とし物として、職員室に、届けるべきものだ。
わかっていた。わかっていたけれど、わたしは、その手袋を、鞄の、いちばん奥に、そっと、しまった。青い本と、青いマッチ箱の、となりに。
いつか。
いつか、佐倉さんに、これを、渡せる日が、くるかもしれない。「これ、きみの、探してた、もう片方じゃない?」と。そして、あの子は、きょとんとして、「わたし、手袋なんて、探してないよ」と言うのだろう。それでもいい、と思った。渡せなくても、いい。この手袋を、鞄の奥に、しまっておく、ということだけで、わたしのなかの、なにかが、救われるような気が、した。
外に出ると、風が、吹いていた。
夏の、海から陸へ吹く、あたたかくて、湿った風だった。その風は、わたしの前髪を、そっと、なでていった。校門のところで、わたしは、いちど、校舎を、ふりかえった。
わたしの、うしろから二番目の、窓ぎわの席のあたりの窓に、まだ、金いろの光が、あたっていた。あの窓のむこうの席で、わたしは、蒼い星を見たのだ。片方だけの手袋を、いっしょに探したのだ。うたを聞いたのだ。それは、たった、五時間目の、あいだのできごとだった。まどろみの、ほんの、みじかいあいだの。
けれど、それは、たしかに、あった。
わたしのなかで、それは、この午後の光そのものと、おなじくらい、たしかに、あった。
十二
何年も、たった。
いまでも、給食のあとの、あの、蜜のような光の午後になると、わたしは、ときどき、あの教室を、思い出す。うしろから二番目の、窓ぎわの席を。ななめ前の、佐倉さんの横顔を。机に彫った、ふたつのならんだ星を。
あの本と、青いマッチ箱と、片方だけの手袋は、いまでも、わたしの、机のひきだしの、いちばん奥にある。本は、あいかわらず、まっしろなままだ。何度、火を灯してみても、あのうたの文字は、二度と、うかびあがってこない。あれは、あの、まどろみの午後の、たった一度きりの、まぼろしだったのかもしれない。
佐倉さんが、いまどこで、なにをしているのか、わたしは、知らない。三年生になって、クラスは、別々になった。席替えで、あの角度は、失われた。卒業してからは、いちども、会っていない。あの子の、うすく赤く透けた耳のかたちを、いまでも思い出せる、ということだけが、わたしに、のこされたぜんぶだった。
わたしは、あのころ、こわがっていた。この午後を、忘れてしまうことを。けれど、いまになって、わかる。わたしは、忘れなかった。忘れられなかった、というほうが、ただしいのかもしれない。ほかの、たくさんのことは、忘れた。試験の点数も、部活の帰り道も、けんかしたことも、笑ったことも、ほとんど、忘れてしまった。それなのに、この、五時間目の、たった一度の、まどろみだけは、忘れなかった。
なぜだろう、と、ときどき思う。たぶん、それは、なにも、起こらなかったからだ。わたしは、あの子に、なにも言わなかった。あの子は、わたしを、なにも知らなかった。手袋は、渡さなかった。夢は、分けあえなかった。なにも、起こらなかった。だからこそ、それは、ずっと、あのままの、まどろみのなかの、蒼い光のままで、わたしのなかに、のこったのだ。起こってしまったことは、いつか、色あせる。けれど、起こらなかったことは、いつまでも、あのときの色のまま、まどろみのなかに、しずかに、光りつづける。
いま、わたしのいる部屋にも、給食のあとのような、昼下がりの光が、さしている。大人になった、わたしの部屋。もう、教室では、ない。それでも、この、蜜のような、埃のような、記憶の端のような光は、あのころと、すこしも、変わらない。この光だけが、あの午後と、いまとを、ひとすじに、つないでいる。この光のなかにいると、わたしは、いつでも、あの、うしろから二番目の、窓ぎわの席に、戻ることができる。
それでも、と、わたしは思う。
もし、いつか、どこかの午後、あの子も、ふと、まどろむことがあったなら。そして、そのまどろみのなかを、あの、蒼い星が、ゆっくりと、渡っていったなら。あの子は、思い出すだろうか。だれかと、いっしょに、片方だけの手袋を、探したことを。だれかが、となりで、「ミラだよ、海をわたる星なんだ」と、言ったことを。
たぶん、思い出さない。あれは、わたしの夢だったから。わたしだけの。
けれど、それでも、いいのだ。
夢は、ひとりのものだ。だれとも、分けあえない。分けあえないからこそ、それは、いつまでも、あの午後の光のように、蜜のように、埃のように、記憶の端のように、消えずに、わたしのなかに、のこりつづける。
窓の外を、いま、ひとすじの光が、よぎった気がして、わたしは、顔をあげる。けれど、それは、車のヘッドライトの、うつろいだった。蒼い星は、もう、いない。昼下がりのまどろみの、あのなかにしか、いない。
――それでもわたしは、五時間目のはじまりを告げる予鈴が、いつまでも、遠いところで鳴りつづけているのを、聞いている。