星の渡る畳
一
未の刻の陽は、畳の上をゆっくりと這うものだと、この部屋にかよいはじめて知った。
午後一時をまわると、南の窓から入る光は縁側の板を離れ、祖母の寝床のふちまで届く。そこからは、まるで時間そのものが眠たくなったように、光の歩みが遅くなる。三時ごろまでの二時間ばかり、光は畳一枚をようやく渡りきる。私はその歩みのそばに座って、祖母の午睡を見ている。
祖母は、眠っているのか起きているのか、境目のわからない顔をしている。目を閉じているのに睫毛がかすかに動き、口もとがなにかを言いかけては、また平らになる。呼吸は浅く、規則正しく、けれどときおり、思い出したように深く吸って、長く吐く。その長い息のあとに、決まって祖母は言葉をこぼす。
昼下がりというのは、ふしぎな時刻だと思う。午前には、まだ一日がまっすぐに立っている。やるべきことがあり、時計の針が、それをせかしている。けれど、正午をこえて、陽が少し西へかたむきはじめると、時間の背骨が、ふっと、ゆるむ。世界じゅうが、いちど、大きく息を吐く。人も、犬も、庭の草も、みんな、まぶたが重くなる。そういう時刻に、祖母の部屋だけは、いっそう深く、まどろみに沈んでいく。まるで、この部屋が、昼下がりという時間の、いちばん底にあるみたいに。
私は、その底で、祖母のそばに座っている。畳のうえの光が、蜜のように濃くなって、部屋の空気を、とろりと満たす。蟬の声が、遠くで、糸を引いている。そういうなかにいると、私自身の輪郭も、だんだん、ぼやけてくる。いま何時なのか、きょうが何曜日なのか、そういうことが、どうでもよくなってくる。祖母の時間が、私のなかにも、しみ入ってくるのだ。
「あなた、そこにいるの」
はじめてそう呼ばれたとき、私は答えられなかった。あなた、というのは私のことではないと、すぐにわかったからだ。祖母の目は、私を通り抜けて、私の背後の、六十年ほど昔の夏に向けられていた。
私は孫だ。名前を悠里という。母方の祖母のこの家に、週に三度、午後の時間だけ手伝いに来ている。祖母は八十六になり、去年の秋から、時間というものをうまく数えられなくなった。医者はやわらかい言い方をした。過去と現在が、ときどき手をつないでしまうのだ、と。
はじめのころ、家族は狼狽した。母は電話口で泣いた。伯父は施設の資料を集めた。けれど祖母自身は、少しも困っていないように見えた。むしろ、なにか長いあいだ手のとどかなかった場所に、ようやく帰ってきたような、そういう安らいだ顔をすることが増えた。
母は、こう言った。おばあちゃんは、だんだん、遠くへ行ってしまう、と。悠里、あんたは、いまのおばあちゃんを、ほんとうのおばあちゃんだと思わないでね。あれは、病気なんだから。ほんとうのおばあちゃんは、もう、いないんだから。母は、そう言って、また、泣いた。
けれど、私には、そうは思えなかった。遠くへ行ってしまう、というのが、どうにも、しっくりこなかった。むしろ、祖母は、近づいているように見えた。なにか、遠いところにあった、いちばん大切なものに。私が、まだ生まれるずっと前の、祖母だけが知っている、どこかへ。病気が、祖母から、なにかを奪っているのだとしても、その奪われたあとの、がらんとした場所に、かわりに、なにか、とても古くて、とても大切なものが、静かに、満ちてきているように見えた。
だから、私は、母のように泣くことが、できなかった。祖母のそばに座っていると、悲しみよりも先に、いつも、ふしぎな安らぎが、やってくるのだった。
「あなた、そこにいるの」
私は、二度目からは答えるようにした。
「いるよ」
嘘ではないと思った。誰かがそこにいてほしい、という祖母の願いの前では、私が悠里であるか、祖母の亡くなった夫であるかは、たぶんそれほど大きな問題ではなかった。祖母は、六十年前の夏を、いまここで生きていた。そしてその夏には、あなた、と呼ばれる人がいた。私はその人の椅子に、しばらくのあいだ座らせてもらうことにした。
祖母の部屋は、簞笥と鏡台と、寝床だけで、ほとんどいっぱいになる。
昔ながらの桐の簞笥は、私の背より高く、把手の金具が飴色に光っている。祖母はこの簞笥を、嫁いできたときに持ってきたのだと、以前、まだ時間がまっすぐだったころに話してくれたことがある。母親が――つまり私の曾祖母が――夜なべして誂えた着物が、いちばん下の段に眠っているのだと。
鏡台は、簞笥よりも、さらに古いものらしかった。三面の鏡は、うっすらと曇り、ふちの塗りが、ところどころ剥げている。子どものころ、私は、この鏡台の前に座るのが、少しこわかった。三つの鏡が、私を、三人にうつす。その三人が、みんな、少しずつちがう顔をしているような気がして。いまは、その鏡に、祖母の寝姿と、そのそばに座る私とが、ぼんやりとうつっている。曇った鏡のなかでは、私たちも、なんだか、遠い昔の人のように見えた。まるで、この部屋そのものが、過去のなかへ、ゆっくりと、沈んでいくようだった。
寝床は、いつも、南の窓のそばに敷いてある。祖母は、日の当たるところが好きだった。若いころから、日向ぼっこが好きだったのだと、母が言っていた。畑仕事のあいまに、縁側で、猫といっしょに、うたた寝をするのが、なによりの楽しみだったと。いまの祖母も、日向のなかで、うたた寝をしている。ただ、その眠りが、六十年の時間を、たやすく飛びこえてしまう、というだけで。
いまの祖母は、簞笥の中身をよく覚えていない。けれど、ときどき、なにかを探すように手を伸ばす。
その日も、光が畳の三分の一を渡ったころ、祖母はふいに身を起こそうとした。私はあわてて背に手を添えた。祖母の背中は、乾いた紙のように軽く、あたたかい。
「どうしたの」
「手袋」と祖母は言った。「手袋を、しまったでしょう」
「手袋」
「そう。あなたが、なくしたって言うから」
私は、その言葉のなかに、私の知らない誰かの記憶が畳まれているのを感じた。あなた、がなくした手袋。それを、祖母がしまった。いつの、どの手袋のことだろう。
「探そうか」と私は言った。
祖母はうなずいた。うなずいたきり、また目を閉じて、糸の切れたように眠りに落ちた。まどろみは、祖母のところへ、潮のように寄せては引く。いま起きていたと思うと、次の瞬間には、深いところへ沈んでいる。そしてまた、思い出したように浮かんでくる。
私は、祖母が眠っているあいだに、簞笥のいちばん上の、浅い抽斗をそっと開けてみた。
抽斗のなかは、こまごまとしたものでいっぱいだった。
古い診察券。輪ゴムでとめた葉書の束。小豆色のがま口。使いかけの、糸のからんだ裁縫箱。そういうもののあいだから、私は、ひとつの箱をみつけた。
小さな、青いマッチ箱だった。
ずいぶん古いもので、角がすり切れ、印刷の色も褪せている。けれど、その青だけは、妙にあざやかに残っていた。夜明けまえの、空のいちばん深いところのような青。箱の表には、細い金色の文字で、月光堂、と刷ってある。
私はその箱を、指のあいだで転がした。ふると、なかで軸木が乾いた音を立てた。まだいくらか、残っているらしい。月光堂という名に、聞き覚えはなかった。この町のどこかの、もうとうにない店だろうか。
「それは」
声がして、私は手をとめた。祖母が、いつのまにか目を開けて、私を見ていた。いや――私の手の中の、青い箱を見ていた。
「それは、火をつけちゃだめよ」と祖母は言った。「あなた、そのマッチはね、彗星の晩に、もらったものだから」
「彗星」と私はくりかえした。
「そう」祖母の目が、遠くなった。「星が、尾をひいてね。あの晩は、ほんとうに、きれいだった」
祖母の語る「あの晩」は、その日から、少しずつ、私の前で組み立てられていった。
まどろみのなかの祖母は、時間を順番には語らない。ある日は真ん中から、ある日は終わりから、ある日はまったく別のところから、記憶の断片を差し出す。私はそれを、こぼれた豆を拾うように、ひとつひとつ拾って、心の中でならべていった。すると、ぼんやりと、ひとつの夏の輪郭が見えてきた。
祖母が十九か二十のころの、ある夏の話だった。
二
「あの年はね、暑かったのよ」と、ある午後、祖母は言った。
光は、その日も畳をゆっくり渡っていた。祖母は寝床に半身を起こし、私の膝にもたせかけるようにして、窓の外を見ていた。庭の百日紅が、赤い花をつけている。
「田んぼの水が、ぬるくなるくらい暑くて。あなたは、その水を見に、毎晩、出ていったでしょう」
「行ったね」と私は合わせた。
「嘘。あなた、ほんとうは水なんか見に行ってなかった」祖母は、少女のように笑った。「橋のところで、待っていたんでしょう。わたしを」
私は返す言葉を持たなかったので、ただ、祖母の白い髪を、そっと撫でた。
「橋のたもとに、月光堂という古本屋があってね」
祖母は、目を細めた。
「妙な店だったのよ。昼間はないの。夜になると、いつのまにか、そこにある。古い本ばかり置いていて、行灯みたいな灯りがついていて。朝になると、また、ないの。まるで、夜のあいだだけ、どこかから流れてくる店みたいだった」
「夜だけの、古本屋」
「そう。誰も、変だと思わなかった。夏の夜は、みんな、少し夢を見ているようなものだったから」
祖母は、そこで、少し笑った。
「町の人はね、月光書房と呼ぶ人もいたし、月光堂と呼ぶ人もいたの。看板が、二つあるみたいな、変な店だった。表の暖簾には月光堂と染めてあるのに、なかの本には、月光書房の、青い蔵書印が捺してあってね。どっちがほんとうの名前なのか、店の人に聞いても、どちらも同じことです、なんて言うの。夜のうちだけの店だから、名前も、ふたつあっても、かまわないのよ、って」
「同じこと」
「そう。夜のあいだは、いろんなものが、ひとつに溶けあうから、って。店の人は、そんなことを言っていた。ふしぎな人だった。年をとっているのか、若いのか、それも、よくわからないような人。いつも、青い前掛けをして、本の背を、そっと、撫でていたわ」
祖母の話しぶりは、まどろみそのものだった。ほんとうにあったことと、夢に見たことの境目が、やわらかく溶けていた。けれど私は、その溶けた場所こそが、祖母のいちばん大切にしている時間なのだと、だんだんわかってきた。
「その古本屋で、あなたと、よく会ったの」
「そうだった」
「あなたは、いつも、いちばん奥の棚のところにいた。天文の本ばかり見ていた。星の本」祖母は、笑った。「わたしが声をかけても、返事もしないで。星のことばかり」
「悪かったね」
「いいのよ。あなたは、そういう人だったから」
祖母は、そう言って、しばらく黙った。その沈黙のなかで、私は、あなた、と呼ばれる青年の姿を思い描いた。星の本ばかり読んでいた、無口な人。夜だけ現れる古本屋の、いちばん奥の棚のところに立っている、若い、私の祖父の姿を。
私は、祖父を知らない。祖父は、母がまだ小さいころに亡くなったと聞いている。写真でしか見たことがない。硬い表情で、こちらを見ている、痩せた人。その人が、星の本ばかり読んでいたとは、母からも聞いたことがなかった。
母にとっての祖父は、たぶん、そういう硬い写真の人でしかなかったのだ。母は、父親の顔を、ほとんど覚えていないと言っていた。三つか四つのころに、亡くなったから。だから、母のなかの祖父は、いつも、写真のなかで、動かない。星の本を読むこともなければ、彗星の話をすることもない。ただ、こちらを、硬い顔で、見ているだけ。
けれど、まどろみのなかの祖母は、その写真とはまるでちがう祖父を、私に見せてくれた。星の本ばかり読んでいた、無口な青年。夜だけの古本屋の、奥の棚のところで、声をかけても返事もしない、少しばかり不器用な人。それは、写真の人よりも、ずっと、生き生きとしていた。ずっと、あたたかかった。
まどろみのなかの祖母は、私の知らない祖父を、私に渡そうとしていた。母も、伯父も、誰も知らない祖父を。時間がまっすぐだったころには、けっして語られなかった、いちばん若い日の祖父を。まるで、混濁した時間だけが通れる、細い抜け道があって、その道の奥に、六十年前の夏が、手つかずのまま、しまわれていたかのように。
「彗星の話をして」と、私は言ってみた。
祖母は、しばらく、私を見た。それから、うなずいた。
「彗星はね」と祖母は言った。「あの夏の、いちばん暑い晩に、出たの」
光が、畳の半分を渡っていた。部屋のなかは、蜜のような色をしていた。
「新聞に、出ていたのよ。ミラという星が、この夏、尾をひいて見えるって。ミラ、というのは、不思議な星なんですって。ふだんは見えないの。何百日かに一度、ふうっと明るくなって、また、消えていく。息をするみたいに、明るくなったり、暗くなったりする星なんだって。あなたが、教えてくれた」
「ミラ」と私は、その名を口の中でころがした。
「そう。ふしぎな名前でしょう。あなたはね、その星に、彗星がかかるんだって、言ったの。ミラのそばを、青い尾をひいた彗星が、通っていくって。何十年に一度の、めったにないことなんだって」
祖母の目は、いま、六十年前の夜空を見ていた。
「あの晩、あなたが、わたしを、橋のところへ呼び出したの。夜中にね。母に見つからないように、そっと家を抜け出して。橋のたもとに、あなたが立っていた。月光堂の灯りが、あなたの背中を照らしていた」
私は、息をひそめて、聞いていた。
「あなたは、空を指さして、あそこだ、って言った。わたしには、はじめ、わからなかった。星がたくさんあって、どれがどれだか。でも、あなたが、あそこ、あそこ、って言って。それで、やっと、見えたの」
祖母の、皺の寄った手が、ゆっくりと持ち上がった。庭の空を指した。
「青い星。尾をひいた、青い星。ミラのそばを、ゆっくり、渡っていくの。海を、星が、渡っていくみたいに」
その手が、震えていた。
「わたし、あんまりきれいで、泣いてしまったの。そうしたら、あなたが、月光堂で、マッチをもらってきてくれた。青いマッチ箱。これで、蠟燭に火をつけて、二人で見ようって。橋のうえに、蠟燭を立てて。青い彗星を、蠟燭の火で、見送ったの」
祖母は、そこで、目を閉じた。
「あのマッチが、あの、青いマッチ箱よ。だから、火をつけちゃ、だめ。あれには、あの晩の火が、まだ、残っているんだから」
私は、簞笥の抽斗にしまった、青いマッチ箱のことを思った。
月光堂。夜だけ現れる古本屋。ミラという、息をする星。そのそばを渡っていった、青い彗星。橋のうえの、二本の蠟燭。
それが、祖母の、いちばん大切な夜だった。
私は、その夜のことを、これまで一度も聞いたことがなかった。母も、たぶん、知らない。祖父が星の本を読んでいたことも、彗星の晩に祖母を呼び出したことも、青いマッチ箱のことも。それは、祖母の記憶の、いちばん奥の抽斗に、六十年、しまわれていた。
そして、いま、時間がやわらかくほどけて、その抽斗が、ひとりでに開いたのだ。
私は、その日、家に帰ってから、母に、彗星の話をしてみた。おばあちゃんが、若いころ、青い彗星を見たって言ってた、月光堂で青いマッチをもらったって、と。母は、けげんな顔をした。そんな話、聞いたことがない、と母は言った。おばあちゃんは、そういう、夢みたいなことを言う人じゃなかった、と。堅実で、口数の少ない、しっかり者だった、と。母の知っている祖母と、私が午後の部屋で出会う祖母とは、まるで、別の人のようだった。
けれど、私は、思った。母の知っている祖母が、ほんとうの祖母で、私の会う祖母が、病気のつくりだした幻だ、とは、どうしても思えなかった。むしろ、逆かもしれない、と。長いあいだ、しっかり者として生きてきた祖母の、そのいちばん奥に、こんなにも夢みたいな、こんなにも美しい夜を、たったひとつ、しまいこんでいた。そちらのほうが、ほんとうの祖母なのではないか。しっかり者の仮面の下に、六十年、青い彗星を、隠し持っていた人。
私は、祖母が、あなた、と私を呼ぶことを、もう、訂正しようとは思わなくなった。訂正することは、その抽斗を、また閉じてしまうことだった。私は、あなた、の椅子に座って、六十年前の橋のうえに、いっしょに立ちたかった。
三
けれど、まどろみの時間は、いつも、やさしいばかりではなかった。
ある日、祖母は、急に不安げな顔をした。光が、まだ畳のはじめのあたりにいる、早い時刻だった。
「手袋が、ないの」と祖母は言った。「片方、ないの。どうしよう。あなたに、叱られる」
「叱らないよ」と私は言った。
「叱るわ。あれは、あなたが、買ってくれたものだもの。わたし、大事にしていたのに、片方、なくしてしまった」
祖母は、寝床のうえで、あたりを探しはじめた。掛け布団をめくり、枕の下をさぐり、畳を撫でた。その手つきは、切実だった。まるで、その片方の手袋をみつけないと、なにか、とりかえしのつかないことになる、というように。
「いっしょに、探そう」と私は言った。
私は、簞笥の抽斗を、ひとつずつ開けていった。祖母は、寝床から、私の手もとを、じっと見ていた。
いちばん下の、深い抽斗を開けたとき、私は、それをみつけた。
古い、着物の下に。薄い紙に包まれて。
片方だけの、手袋だった。
女ものの、白い、木綿の手袋。ずいぶん古いもので、指のさきが、少しほつれている。けれど、大切にされてきたことが、ひと目でわかった。何度も、ていねいに畳みなおされた跡があった。
「あった」と私は言った。「おばあちゃん、あったよ」
祖母は、その手袋を、両手で受けとった。そして、頬に、押しあてた。
「あった」と祖母も言った。「よかった。よかった」
祖母の目から、涙がこぼれた。
「片方だけね」と祖母は、涙のなかで、笑った。「もう片方は、あなたが、持っていったんだった。そうよ。忘れていた。あなたが、持っていったの」
「持っていった」
「そう。あの、寒い日に」
祖母の目が、また、遠くなった。けれど、こんどは、彗星の夏ではなかった。もっと、あとの、冬の記憶のようだった。
「あなたは、片方だけ、持っていったの。もう片方は、わたしが持っているって。そうすれば、いつか、また、二つ、そろうからって」
私は、その言葉の意味を、しばらく、はかりかねた。
やがて、わかった。それは、たぶん、別れの日の話だった。祖父が、亡くなる日の。片方の手袋を持っていって、もう片方を残す。いつか、また、そろうように。それは、あの世とこの世に分かれた二人が、いつか、また出会うための、約束の、しるしだった。
祖母は、六十年、その片方を、簞笥の奥に、しまっていた。
もう片方は、いま、どこにあるのだろう。祖父といっしょに、焼かれてしまったのだろうか。それとも、どこかの、暗い抽斗のなかで、いまも、対になる相手を、待っているのだろうか。
「ねえ」と、祖母は、手袋を頬にあてたまま、言った。「あなた、もう、行ってしまうの」
私は、どきりとした。
「行かないよ」
「ほんとう」
「ほんとうだよ。ここにいる」
祖母は、安心したように、目を閉じた。手袋を、胸のうえに置いて。
「よかった。まだ、行かないでね。もう少し、いっしょにいて。星が、海をわたるまで」
その言葉に、私は、記憶をゆさぶられた。星が、海をわたるまで。それは、彗星の話のときにも、祖母が言った言葉だった。海を、星が、渡っていくみたいに。
「おばあちゃん」と、私は、思わず、そう呼んでしまった。
けれど、祖母は、もう眠りに落ちていて、その呼びかけは、届かなかった。まどろみが、また、潮のように、祖母をさらっていった。
私は、眠る祖母のそばで、片方だけの手袋を、そっと、もとの薄紙に包みなおした。指のさきの、ほつれたところを、指で、なぞった。
六十年。この片方は、六十年、もう片方を待っていた。
私は、その手袋を、しばらく、手のなかで、あたためていた。木綿の生地は、時間のなかで、すっかり薄くなって、光にすかすと、向こうがわが、ぼんやりと見えた。指のさきのほつれから、白い糸が、一本、垂れていた。私は、その糸を、指のさきで、そっと、なかへ押しこんだ。まるで、そうすれば、六十年の待ちくたびれを、少しでも、なぐさめてやれるかのように。
祖母は、この手袋を、片方だけ、簞笥の奥に置いて、どんな気持ちで、六十年を過ごしたのだろう。母を育て、伯父を育て、家を守り、しっかり者の仮面をかぶって。その仮面の下で、いつも、この片方の手袋のことを、思っていたのだろうか。それとも、ふだんは、すっかり忘れていて、ときどき、ふとした拍子に、思い出しては、また、忘れていたのだろうか。
わからなかった。けれど、いま、まどろみのなかの祖母は、その手袋のことだけを、はっきりと、覚えていた。ほかのことは、すべて、あいまいに溶けてしまったのに。娘の名前も、孫の顔も、きょうが何日かも。それなのに、六十年前の、片方の手袋のことだけは、ゆるがなかった。忘れることが、いちばん奥の、いちばん大切なものを、いちばん最後まで、守っているようだった。
四
その日から、私は、祖母の子守唄を、聞くようになった。
まどろみのいちばん深いところで、祖母は、ときどき、歌をうたった。息のような、かすかな声で。ほとんど言葉にならない、旋律だけの歌。けれど、耳をすませると、切れ切れに、詞が聞きとれた。
眠れ、眠れ。
星が、海を、わたるまで。
それは、古い子守唄だった。私も、小さいころ、この祖母に、歌ってもらったような気がした。けれど、はっきりとは、思い出せない。旋律は覚えているのに、いつ、どこで聞いたのか、その記憶だけが、もやのなかにあった。
「その歌、おばあちゃんが、教えてくれたの」と、私は、あるとき、目を覚ました祖母に、たずねてみた。
祖母は、ふしぎそうな顔をした。あなた、が、そんなことを聞くのが、意外だ、というように。
「あなた、知ってるでしょう」と祖母は言った。「あの晩、わたしが、うたったのよ。橋のうえで。彗星を見送りながら」
「橋のうえで」
「そう。あなたが、うたってくれって、言ったの。星が海をわたるから、送る歌を、うたってくれって。だから、わたし、うたったの。小さいころ、母が、うたってくれた歌を」
祖母は、そっと、その一節を、口ずさんだ。
眠れ、眠れ。星が、海を、わたるまで。
「あなたはね」と祖母は言った。「その歌を、覚えて、いつか、自分の子どもにも、うたうんだって、言ったの。うちの子が生まれたら、この歌を、うたおうって。彗星の夜の、この歌を」
私は、胸を、つかれた。
祖父は、その歌を、母にうたっただろうか。母は、その歌を、私にうたっただろうか。私が、旋律だけを覚えていて、詞を思い出せないのは――それが、こうして、彗星の夜から、四代の眠りをわたって、私のところまで、届いていたからではないか。
母が、私に、うたってくれた。母は、祖母から、教わった。祖母は、彗星の夜に、祖父に、うたった。そして、祖母は、それを、自分の母から、教わった。
その歌は、簞笥の奥の、片方の手袋のように、対になる相手を探しながら、時間のなかを、わたってきた。
私は、その日から、祖母のそばで、その旋律に、耳をすませるようになった。まどろみのいちばん深いところで、祖母がその歌をうたいはじめると、私は、息をひそめて、聞いた。すると、ふしぎなことに、聞いているうちに、私のなかにも、忘れていたはずの詞が、少しずつ、よみがえってきた。眠れ、眠れ。次の一行が、どうしても出てこなかったのに、祖母がうたうと、あとを追うように、口が、勝手に動いた。星が、海を、わたるまで。まるで、その歌が、私のからだのどこかに、ずっと眠っていて、祖母の声に、呼び起こされたようだった。
歌は、記憶よりも、深いところに、しまわれているのかもしれない、と思った。頭が忘れても、からだが覚えている。祖母が、娘の名を忘れても、この歌だけは、うたえるように。私が、いつ教わったかを忘れても、この旋律だけは、口が覚えているように。歌は、まどろみのなかを、いちばん深いところを、通ってくる。
そして、いま、まどろみの祖母の口から、また、こぼれ出ている。
私は、その旋律を、心のなかで、追いかけた。
彗星の夜から、四代。曾祖母から、祖母へ。祖母から、母へ。母から、私へ。数えてみると、その歌は、百年ちかい年月を、わたってきたことになる。そのあいだに、うたった人の何人かは、もう、この世にいない。曾祖母の顔を、私は知らない。祖父の声を、私は聞いたことがない。それでも、その人たちのうたった歌は、消えずに、いま、私のなかで、鳴っている。人は死んでも、歌は死なない。片方だけの手袋のように、対になる相手を、探しながら、時間をわたっていく。
すると、ふしぎなことに、私自身が、まどろんできた。
未の刻の陽は、あたたかい。畳のうえの光は、まだ、半分ほどのところにいる。祖母の寝息と、遠い蟬の声と、庭の百日紅の赤とが、ひとつに溶けて、私の瞼を、重くした。
私は、いつのまにか、祖母の枕もとで、うつらうつらと、眠っていた。
そして、夢を見た。
夢のなかで、私は、橋のうえに立っていた。
夏の、夜だった。空気が、ぬるく、湿っていた。田んぼの水が、ぬるくなるくらいの、暑い晩。橋のたもとに、行灯のような灯りがひとつ、ともっていた。月光堂の、灯りだった。夜だけ現れる、古本屋の。
私のとなりに、若い女が、立っていた。
祖母だった。けれど、十九か二十の、若い祖母だった。白い、木綿の手袋を、両手に、はめていた。頬が、月の光で、青白かった。
その女が、空を、指さした。
「あそこ」
私は、その指のさきを、追った。
星が、たくさん、あった。夏の、濃い天の川が、空をよぎっていた。そのなかに、ひとつ、ふだんは見えない星が、ふうっと、明るくなっていた。息をするように、脈をうつように。ミラだった。
そして、そのミラのそばを、青い星が、尾をひいて、ゆっくりと、渡っていった。
青い彗星だった。
ほんとうに、海を、星が、わたっていくようだった。青い尾が、天の川のうえを、すべっていく。しずかに、ゆっくりと、けれど、たしかに、遠ざかっていく。二度と、戻ってこない道を。
その青は、簞笥の抽斗にしまった、あのマッチ箱の青と、同じだった。夜明けまえの、空のいちばん深いところの青。橋のうえに立っていると、その青い光が、川の水面にも、うつっていた。水のうえを、もうひとつの彗星が、ゆらゆらと、わたっていった。空と水と、二つの彗星が、上下に、対になって、渡っていく。まるで、片方だけの手袋が、水鏡のなかで、もう片方と、そろったように。
私は、あんまりきれいで、涙が出そうになった。
となりの女が――若い祖母が――低い声で、うたいはじめた。
眠れ、眠れ。星が、海を、わたるまで。
その声は、まどろみのなかの祖母の声と、同じだった。六十年を、へだてていない、ひとつの声だった。
私は、橋のうえの、蠟燭に、火をつけたいと思った。青いマッチ箱の、マッチで。けれど、手が、動かなかった。
夢のなかで、私は、あなた、だった。星の本ばかり読んでいた、無口な青年。祖母の、亡くなった夫。私は、その人の目で、青い彗星と、若い祖母と、月光堂の灯りを、見ていた。
そして、ふいに、わかった。
あなた、が、この夜を、どんなに大切に思っていたか。この一夜のために、あとの、みじかい生涯を、生きたのだということが。片方の手袋を持っていくとき、あなたが、なにを思っていたか。いつか、また、二つ、そろうように。星が、また、めぐって、海をわたるように。
「うたって」と、私は、夢のなかで、言った。あなたの声で。「もう一度、うたって。星が、まだ、渡っている」
若い祖母が、ほほえんで、また、うたった。
眠れ、眠れ。
星が、海を、わたるまで。
五
目が覚めると、光は、畳の、いちばんはしまで、渡りきっていた。
三時が、近かった。未の刻が、終わろうとしていた。私は、祖母の枕もとで、ずいぶん長いあいだ、眠っていたらしい。首すじが、こわばっていた。夢の、青い彗星の尾が、まだ、瞼のうらに、残っていた。
祖母は、目を覚まして、私を見ていた。
その目は、いつもと、少し、ちがっていた。まどろみの、もやが、晴れていた。祖母は、まっすぐに、私を見ていた。
「悠里」
祖母が、私の名を、呼んだ。
私は、息をのんだ。ずいぶん、久しぶりに、私は、悠里だった。あなた、ではなかった。
「悠里ね」と祖母は、たしかめるように、言った。「あんた、こんなところで、眠ってしまって。風邪をひくよ」
「おばあちゃん」
「なにを、そんな、泣きそうな顔をして」
私は、泣きそうな顔をしていたらしい。夢の、青い彗星が、まだ、胸のなかで、尾をひいていた。
「おばあちゃん、わたし、夢を見たの」と、私は言った。「橋のうえで、彗星を見る夢。青い彗星が、海を、わたっていく夢」
祖母は、しばらく、私を見ていた。それから、とても、しずかな顔をした。
「そう」と、祖母は言った。「あんたも、見たのね」
「あんたも」
「わたしも、いま、見ていたの。同じ夢を。橋のうえで、あの人と、彗星を見る夢を」祖母は、胸のうえの、片方の手袋に、手をおいた。「あんた、あの人の椅子に、座ってくれていたんでしょう。ずっと。わたしが、あなた、あなたって、呼ぶあいだ」
私は、驚いて、祖母を見た。
祖母は、わかっていたのだ。まどろみのなかで、私を、あなた、と呼びながら。それが、悠里だと、どこかで、わかっていた。わかったうえで、あなた、と呼んでいた。あるいは――時間が、やわらかくほどけた、あの場所では、私が悠里であることと、あなたであることは、ほんとうに、ひとつだったのかもしれない。
「ごめんね」と祖母は言った。「あんたに、あの人の、椅子に、座らせて」
「ううん」と私は、首をふった。「わたし、うれしかった」
「うれしかった」
「うん。おばあちゃんの、いちばん大切な夜に、いっしょに、いられて」
祖母は、目を、細めた。皺のなかに、若い日の、あの、少女のような笑みが、ひらいた。
「その手袋、片方だけ、あったよ」と、私は言った。「簞笥の、いちばん下の抽斗に。着物の、下に」
「知ってるわ」と祖母は言った。「わたしが、しまったんだもの」
「もう片方は」
祖母は、しばらく、黙った。
「もう片方は」と、やがて、祖母は言った。「あの人が、持っていった。棺のなかに、入れたの。いつか、また、二つ、そろうようにって。あの人が、彗星みたいに、めぐって、帰ってくるまで。わたしは、片方を、ここで、持って、待っているの」
祖母は、手袋を、また、頬にあてた。
「もう、六十年になるかしらね。長いこと、待たせたわ」
「待たせた」
「そう。でも、もう、そんなに、長くないと思うの」祖母は、しずかに、笑った。「近いうちに、星が、また、めぐってくる。青い彗星が。そうしたら、わたしも、もう片方の手袋を、持って、あの人のところへ、行くの。二つ、そろえに」
私は、なにも、言えなかった。
その言葉は、悲しいはずなのに、少しも、悲しく響かなかった。祖母の声は、あんまり、おだやかで、しあわせそうだった。まるで、長い午睡から、ようやく、覚めるのを待っている人のようだった。
まどろみは、祖母にとって、待つ時間だった。彗星が、また、めぐってくるのを。星が、また、海をわたるのを。もう片方の手袋が、そろう日を。その日まで、祖母は、過去と現在の混じり合った、やわらかな時間のなかで、まどろみながら、待っていた。
未の刻が、終わった。
光は、畳を渡りきって、部屋の、西のはしから、少しずつ、退いていった。夕方が、近づいていた。もうすぐ、母が、交代に来る時刻だった。
「そろそろ、行くの」と祖母が言った。こんどは、悠里に、言っていた。
「うん。また、あさって、来るよ」
「そう」
私は、立ちあがりかけて、それから、思いなおして、簞笥の、いちばん上の抽斗を、開けた。
青いマッチ箱を、とりだした。月光堂の。彗星の晩の、火が、残っているという。
「これ」と、私は言った。「おばあちゃんの、枕もとに、置いておくね」
祖母は、その青い箱を、見た。そして、うなずいた。
「そうしてちょうだい」と祖母は言った。「その火はね、あの晩の、火なの。青い彗星を、見送った、火。まだ、消えていないの。だから、大事に、しておくれ」
私は、青いマッチ箱を、祖母の枕もとに、そっと、置いた。片方の手袋の、すぐそばに。夜明けまえの空のような、深い青が、蜜色の光のなかで、しずかに、ともっているように見えた。
祖母は、その二つを、枕もとに置いて、また、目を閉じた。
「悠里」と、眠りに落ちかけながら、祖母は言った。「あんたも、いつか、あの歌を、うたっておやり。あんたの、子どもに。星が、海をわたるまで、っていう、あの歌を」
「うたうよ」と、私は言った。
「そう。そうすれば、彗星は、また、めぐってくるから。何度でも。星が、海をわたるかぎり、この歌も、渡っていくから」
祖母は、それきり、しずかな寝息を、立てはじめた。
まどろみが、また、潮のように、寄せてきて、祖母を、やわらかく、さらっていった。けれど、こんどの、まどろみは、迷子の時間ではなかった。あなた、と、私を呼ぶ、混濁の時間でもなかった。それは、彗星を待つ、しずかな、澄んだ、まどろみだった。
私は、部屋を出るまえに、もう一度、ふりかえった。
未の刻の、最後の光が、祖母の白い髪と、片方の手袋と、青いマッチ箱を、金色に、ふちどっていた。
私は、小さな声で、うたってみた。祖母の、子守唄を。
眠れ、眠れ。
星が、海を、わたるまで。
旋律は、心のなかから、するすると、ほどけて出た。詞も、もう、思い出せた。彗星の夜から、四代の眠りをわたって、私のところまで、届いていた歌。母から、祖母から、その母から、そして、青い彗星の下で、あなた、から祖母へ。
歌いおえて、私は、そっと、障子を、閉めた。
そのとき、ふと、思った。夜になったら、あの橋のたもとに、月光堂は、また、現れるだろうか。夜だけ現れて、朝には消える、あの古本屋は。星の本ばかりが並んだ、いちばん奥の棚に、若い、無口な青年が、いまも、立っているだろうか。彗星の話をするために。片方の手袋を、渡すために。
私には、わからなかった。けれど、わからないまま、それでいいのだと、思った。
まどろみのなかでは、あったことと、夢に見たことの、境目はない。六十年前の夏と、いまの、この昼下がりの、境目もない。祖母は、その溶けあった時間のなかで、いちばん大切な夜を、くりかえし、生きている。橋のうえで、青い彗星を、見送りながら。
玄関で、靴をはいていると、母が、帰ってきた。
「おばあちゃん、どう」と母は言った。
「眠ってる」と私は答えた。「彗星の、夢を見ながら」
母は、ふしぎそうな顔をした。
「彗星」
「うん。ミラっていう、星のそばを、青い彗星が、通っていく夢。おばあちゃんの、若いころの話」
母は、しばらく、私を見て、それから、なにかを、思い出そうとするように、目を伏せた。
「そういえば」と母は、ゆっくりと言った。「わたし、小さいころ、おばあちゃんに、歌をうたってもらったのを、覚えてる。眠れ、眠れ、っていう。星が、海を、わたるまで、っていう」
「わたしにも、うたってくれたよ」と私は言った。「お母さんが」
「そうだった」母は、おどろいたように、私を見た。「わたし、あんたにも、うたったのね。忘れていたわ」
私たちは、しばらく、玄関の、うすぐらがりのなかで、立っていた。四代を、わたってきた歌が、いま、母と、私のあいだで、そっと、対に、そろったような気がした。
「お母さん」と、私は言った。「おばあちゃんは、遠くへ行ってしまうんじゃないよ」
母は、私を見た。
「近づいているんだと思う。いちばん大切な、遠い夜に。わたしね、そこに、いっしょに座らせてもらってるの。おばあちゃんの、まどろみの、なかに」
母は、なにも言わなかった。けれど、その目に、はじめて見る色があった。母は、たぶん、自分の父親の顔を、忘れてしまったことを、ずっと、うしろめたく思ってきたのだ。それを、いま、私が、拾いなおしている。星の本を読んでいた、若い父親を。彗星の夜に、母親を呼び出した、不器用な人を。母は、しばらく、うつむいていた。それから、小さく、うなずいた。
私は、家を出た。
夏の、夕方の、光のなかを、歩いた。まだ、少し、まどろみが、残っていた。夢の、青い彗星の尾が、瞼のうらで、ゆっくりと、海を渡っていた。
私は、いつか、と思った。いつか、私にも、子どもができたら、あの歌を、うたおう。彗星の夜の、あの歌を。星が、海をわたるまで、っていう、あの歌を。
そうすれば、青い彗星は、また、めぐってくる。何度でも。星が、海をわたるかぎり、この歌も、この片方の手袋も、この青いマッチ箱の、消えない火も、時間のなかを、わたっていく。対になる相手を、探しながら。いつか、また、二つ、そろう日を、待ちながら。
祖母は、いまごろ、まどろみのなかで、橋のうえに立っているだろう。若い姿で。白い手袋を、両手にはめて。となりには、無口な青年が、空を指さして、あそこ、あそこ、と言っているだろう。
そして、二人は、青い彗星が、海を、わたっていくのを、見送っているだろう。しずかに、いつまでも。まどろみが、その一夜を、何度でも、くりかえし、二人に、返してくれるかぎり。
昼下がりの光は、いつも、ゆっくりと畳を渡る。そのゆるやかな歩みのそばで、祖母は、待っている。星が、また、めぐってくるのを。もう片方の手袋が、そろう日を。そのときまで、私は、あなた、の椅子に、いつでも、座ろうと思う。祖母の、まどろみの時間が、私に、いちばん大切な夜を、そっと、手渡してくれたことへの、せめてもの、返礼として。
星が、海をわたるまで、と祖母は言った。けれど、私には、もう、わかっていた。星は、いつも、わたっているのだ。まどろみのなかを、記憶のなかを、四代の眠りのなかを、青い尾をひいて、しずかに、いつまでも。