月光書房
未の刻 ・ 昼下がり ・ 第 四 話

蝉時雨のあとで

亀山 睡蓮
SF寓話・時間 ・ 約26頁

蝉時雨のあとで

昼下がりの光は、蜜のように濃い。

村外れの、名も知らぬ木の下で、勘助はいつのまにか眠っていた。眠るつもりなど、これっぽっちもなかったのだ。田の草取りに疲れて、ほんの一服のあいだ腰を下ろしただけだった。手拭いを畳んで、それを枕にして、ただ空を仰いだだけだった。空は、白く濁った青をしていた。夏のはじめの、まだ梅雨の名残を含んだ、あの重たい青だ。頭上では蝉が鳴いていた。じいじい、じいじい、と、まるで熱そのものが声を持ったように鳴いていた。その声が、耳の奥で、だんだんと遠くなっていった。

遠くなっていく、ということに、勘助は気づいていた。気づいていながら、それを引き止める気がなかった。まぶたが、上から下へ、ゆっくりと降りてくる。降りきってしまえば、そこはもう、蜜のなかだった。

昼寝というものを、勘助は、そう好んではいなかった。若いころは、寝ているのがもったいない、と思っていた。日が高いうちは、体を動かして働くのが、百姓の性分というものだった。だが、この年になって、体が言うことを聞かなくなってから、勘助は、昼下がりのまどろみの、あの甘さを、少しずつ知るようになった。働きづめの一日のなかに、ぽっかりと開いた、時のない穴。そこへ落ちていくときの、あの、体がほどけていくような心地よさ。それは、たしかに、生きているうちの、数少ない楽しみのひとつだった。だが、まさか、この楽しみが、こんなものへ通じているとは、そのとき、勘助は、思いもよらなかった。

蜜のなかでは、時間がとろけている。

夢を見たのか、見なかったのか、それは勘助にもわからない。ただ、まどろみのなかで、蒼い一点だけが見えていたことは覚えている。空の高いところに、それはあった。昼だというのに、星が見えていた。まさか、と思いながらも、勘助はそれを見ていた。青白く、尾を引いて、ゆっくりと空を渡っていく星だった。祖父が昔、これを彗星だと教えてくれた。ミラ彗星、というのだと。「あれはな、勘助。何十年かに一度、こうして帰ってくるんだ。海の向こうから、空をわたって、また海の向こうへ行ってしまう。人の一生に、二度も見られりゃ、上等な星だ」。祖父はそう言って、煙管の煙をふうと吐いた。

その煙が、蝉の声に溶けていく。溶けていって、なにもかもが、ぼんやりとした白いものになっていった。

目が覚めたとき、蝉は鳴いていなかった。

それがまず、おかしかった。あれほど鳴いていた蝉が、ぴたりと止んでいる。かわりに、耳を澄ますと、風の音がした。木の葉が、さらさらと鳴っていた。その葉の音が、なんだか、さっきまでとは違っていた。もっと乾いて、もっと高いところから降ってくるような音だった。

勘助は身を起こした。起こそうとして、体がひどく強張っていることに気づいた。膝が痛い。腰が、まるで錆びついた蝶番のように、みしみしと鳴った。ずいぶん長く寝てしまったらしい、と勘助は思った。日はもう、だいぶ傾いている。西の空が、うっすらと橙に染まりはじめていた。

半日も寝ちまったか。

そう思って、勘助は苦笑した。女房に叱られる、と思った。田の草はまだ半分も取れていない。立ち上がろうとして、勘助はふと、自分の手を見た。

手が、違っていた。

甲に、いくつもの染みが浮いていた。皮膚は薄く、皺が寄って、乾いた柿の皮のようだった。青く浮いた血管が、皮膚の下を這っている。爪は白く濁って、根元のあたりが割れていた。勘助は、その手をまじまじと見つめた。これは、老人の手だった。何十年も土を掘り、鍬を握り、そうして年老いた者の手だった。

勘助はまだ、四十を少し出たばかりのはずだった。年こそ食っていたが、まだ髪は黒々としていた。腕には力があった。田を一枚、半日で耕せるだけの力が、たしかに、あったはずだった。それが、今、この手を見るかぎり、勘助は、七十か、八十か、あるいは、それ以上の、老いさらばえた男に、なり果てていた。

わけがわからなかった。勘助はもう一方の手も見た。同じだった。両手とも、老人の手をしていた。それから、恐る恐る、自分の顔に触れてみた。頬に触れた指先が、こわばった皺の感触を伝えてきた。顎には、伸びた髭があった。その髭を、指でつまんで、目の前に持ってきた。

白かった。真っ白だった。一本の黒い毛も、混じっていなかった。

勘助は立ち上がった。立ち上がるのに、ずいぶん骨が折れた。よろよろと二三歩あるいて、木の幹に手をついた。息が切れた。心の臓が、痛いほどに打っていた。

田を見た。

田は、なかった。

いや、田だったところは、あった。だが、そこにはもう水が張られていなかった。稲もなかった。かわりに、丈の高い雑草が、一面に生い茂っていた。あぜ道も、崩れて、どこがどこやらわからなくなっていた。勘助が朝、確かに草を取っていた、あの田は、荒れ果てた野原になっていた。

村を見た。

村も、なかった。

遠くに見えていたはずの藁葺きの屋根が、ひとつも見えなかった。かわりに、見たこともない建物が、ぽつぽつと立っていた。四角い、平べったい、灰色の箱のような家だった。その屋根の上には、細い棒のようなものが何本も立っていて、風のなかで、くるくると銀色に回っていた。それがなんなのか、勘助には見当もつかなかった。

「おうい」

勘助は声を出した。出したつもりだった。だが、喉から出てきたのは、ひび割れた、しわがれた声だった。自分の声とは思えなかった。

「おうい、誰か。誰か、おらんか」

返事は、なかった。ただ風だけが、乾いた田の草を、さわさわと撫でていった。

勘助は、あたりを見まわした。見まわせば見まわすほど、それは、勘助の知る土地の、なれの果てだった。あの、山の稜線だけは、変わっていなかった。東に、なだらかな尾根が、ふたつ並んでいる。その形だけは、たしかに、勘助が朝な夕なに見ていた、あの山だった。だが、その山のふもとから、こちらまで――そのあいだにあったはずのものは、なにもかもが、消えていた。畦道も、地蔵も、水を分ける堰も、松の並木も。人が、幾代もかけて、この土地に刻みつけてきたものが、跡形もなく、拭い去られていた。まるで、誰かが、大きな手で、地面を、いちど、まっさらに撫でつけてしまったかのようだった。

勘助は、ぞっとした。山だけが同じで、あとはなにもかもが違う、ということが、なによりも恐ろしかった。それは、悪い夢のなかの、あの、見覚えのある場所が、少しずつずれていく、あの感じに、よく似ていた。だが、これは、夢ではなかった。頬を伝う涙も、膝の痛みも、乾いた喉の渇きも、なにもかもが、たしかに、覚めている者のものだった。

勘助は、村のほうへと歩きだした。歩くというより、地を這うようにして進んだ。膝が笑って、幾度も転びそうになった。そのたびに、荒れた田のあぜに手をついて、体を支えた。あぜの土は、乾いて、ぱさぱさとしていた。勘助が知っている、あの黒く湿った肥えた土とは、まるで違っていた。

やっとの思いで、灰色の家の一軒にたどり着いた。近くで見ると、それは石でできているようだった。だが、その石は、どこか妙にのっぺりとしていて、継ぎ目がなかった。窓には、水のように透きとおったものが張られていた。硝子か、と勘助は思った。だが、村の庄屋の家にすら、硝子窓なぞなかった。それが、こんな粗末な家の窓に、ふんだんに使われている。

勘助は、その窓から、なかを覗きこもうとした。覗きこんで、思わず後ずさった。窓に、老人が映っていたのだ。白髪の、痩せこけた、腰の曲がった老人だった。その老人が、こちらを見ていた。勘助が動くと、老人も動いた。勘助が手を上げると、老人も手を上げた。

それが、自分だった。

勘助は、窓の前にへたりこんだ。声もなかった。ただ、その老いた顔を、いつまでも見つめていた。目尻に、涙が浮いた。その涙が、皺を伝って、乾いた頬に落ちた。

「なんだ、これは」と、勘助はつぶやいた。「なんだって、こんな」

家のなかから、物音がした。誰かがいるらしかった。やがて、戸が開いた。戸は、横に、するすると滑って開いた。勘助はそんな戸を見たことがなかった。

出てきたのは、若い女だった。

女は、勘助を見て、驚いたように立ちすくんだ。それから、恐る恐る、声をかけてきた。その言葉は、勘助の知っている言葉のようでいて、どこか違っていた。訛りが違うのか、それとも言葉そのものが変わってしまったのか。勘助には、半分ほどしか聞き取れなかった。

「あの、どうかなさいましたか。お加減が、悪いのですか」

そういう意味のことを、女は言っているらしかった。勘助は、震える声で、答えた。

「わしは、勘助という者だ。この村の、田を持つ者だ。今朝、田の草を取っておって、木陰でうたた寝をして――目が覚めたら、こんなことに、なっておった」

女は、けげんそうな顔をした。

「この村、と、おっしゃいますと」

「この村だ。ここは、なんという村だ」

女は、村の名を言った。勘助の知らない名だった。勘助の村の名を告げると、女は、しばらく考えて、それから、遠慮がちに言った。

「その村の名は――聞いたことがございます。ずっと昔に、この土地の一帯を、そう呼んでいたと。祖母が、そんな話をしておりました。けれど、それは、もう」

女は言いよどんだ。

「もう、百年も、昔のことだと」

百年。

その言葉が、勘助の胸に、ゆっくりと沈んでいった。石が、深い井戸の底へ落ちていくように、ゆっくりと、ゆっくりと沈んでいった。

百年。

わしは、百年、眠っておったのか。

そんなはずはない、と勘助は思った。ほんの、ひとねむりだったのだ。蝉の声を聞きながら、まぶたを閉じて、蒼い星をひとつ見て、それから――それだけだったのだ。半日も経ってはいまい、と思っていた。それが、百年。

「嘘だ」と勘助は言った。「そんな、馬鹿な話が」

だが、この手が。この白髪が。あの荒れた田が。この見たこともない家が。それらのすべてが、女の言葉を、静かに裏づけていた。勘助が信じようと信じまいと、時は、確かに、勘助を置き去りにして、流れ去っていったのだった。

勘助は、女房のことを思った。おふさ、という名の女房だった。あれは今朝、勘助に握り飯を持たせて、田へ送り出してくれた。「日が高くなったら、木陰でひとやすみしなさいよ」と、そう言った。まさに、そのとおりにしたのだ。木陰でひとやすみをした。それが、こんなことになろうとは。

おふさは、どうなったのだろう。

問うまでもなかった。百年である。おふさは、とうに死んでいる。勘助の帰りを、どれほど待ったことだろう。田で倒れているのではないか、川に落ちたのではないか、あるいは、女でもこしらえて逃げたのではないか。村じゅうを探しまわったに違いない。そうして、見つからず、見つからず、やがて、諦めて――老いて、死んだ。子はなかった。おふさは、ひとりで、死んでいったのだ。

勘助は、地に額をつけて、泣いた。老人の、しわがれた声で、獣のように泣いた。

女は、勘助を家のなかに入れてくれた。

女の名は、みねといった。この家に、ひとりで住んでいるらしかった。夫は、遠くの町へ働きに出ていて、めったに帰らないのだと、みねは言った。家のなかは、勘助の知る家とは、なにもかもが違っていた。床は板ではなく、なにか柔らかいもので覆われていた。天井には、火も使わぬのに、白い光を放つものがぶら下がっていた。みねが壁の小さな出っ張りを押すと、その光が、ぱっと点いたり、消えたりした。勘助は、それを見て、腰を抜かした。

「なんの、まじないだ、これは」

「まじないでは、ございません」とみねは笑った。「電気、と申します。今は、どこの家にも、あるものでございます」

勘助には、わからなかった。わからないことが、多すぎた。

みねは、勘助に、白い椀に入った飲み物をくれた。温かく、茶のような、けれど茶ではない、甘い香りのするものだった。勘助はそれを、両手で包むようにして、少しずつ飲んだ。温かさが、腹に沁みた。その温かさだけが、勘助にとって、確かなものだった。

家のなかには、ほかにも、勘助の知らぬものが、たくさんあった。壁ぎわに、黒く四角い、大きな箱があった。みねが、手のひらほどの板を操ると、その箱の面が、ぱっと明るくなって、そこに、人が映った。人が、動いて、しゃべった。勘助は、また、腰を抜かした。箱のなかに、小さな人が、閉じこめられているのだと思った。だが、みねは、笑って、そうではないのだと言った。遠くの町の出来事が、この箱に、映って見えるのだと。勘助には、やはり、わからなかった。

「わしの若いころは」と勘助は言った。「隣村へ行くにも、半日かかったものだ。それが、今では、遠くの町の出来事が、家におりながら、見えるという。世の中は、ずいぶんと、狭くなったのだな」

「狭くなった、と申しますか」とみねは、少し考えて言った。「近くなった、とでも、申しましょうか。遠くのものは、近くなりました。けれど、そのぶん、近くのものが、遠くなったような気も、いたします。となりに住む人の顔さえ、知らぬのですから」

勘助は、その言葉を、しばらく噛みしめていた。近くのものが、遠くなる。それは、なんだか、時のことにも、似ている、と思った。過ぎたばかりの昨日は、もう遠く、遠い遠い昔のことは、なぜか、近い。世の中も、時も、遠近が、ひっくり返っているのだ。

「あなたさまは」とみねが言った。「本当に、百年、眠っておられたのですか」

「わしにも、わからん」と勘助は答えた。「わしには、ほんの、ひとねむりだったのだ。蝉が鳴いておった。まだ、鳴いておるはずなのだ。それが――」

勘助は、言葉に詰まった。窓の外を見た。西の空が、赤く燃えていた。

「それが、こんなことに、なっておった」

みねは、勘助に、いろいろなことを話してくれた。この百年のあいだに、世の中が、どれほど変わったかということを。

村は、なくなったのだと、みねは言った。若い者は、みな町へ出ていった。田を耕す者はいなくなり、田は、荒れるにまかせて、野に還った。勘助が寝ていた、あの木のあたりは、今では、ほとんど人の来ない、忘れられた場所になっているのだと。

「あの木は」とみねは言った。「村の年寄りたちが、祟りの木だと言って、近づかなかったのです。あの木の下で、昔、ひとりの男が消えたのだと。田仕事の途中で、ふっと消えて、二度と戻らなかった。神隠しにあったのだろうと、そう言い伝えられておりました。だから、誰も、あの木には近づかなかった」

勘助は、その話を聞いて、しんとした気持ちになった。

その男は、わしだ、と思った。

わしは、神隠しにあった男として、この土地の言い伝えのなかに、生きていたのだ。田仕事の途中で、ふっと消えた男。二度と戻らなかった男。その男が、百年たって、こうして、戻ってきた。だが、戻ってきたところで、待っている者は、誰もいなかった。勘助を知る者は、もう、ひとりもいなかった。おふさも、庄屋も、隣の百姓も、みな死んだ。勘助を覚えている者は、この世に、ひとりもいない。ただ、祟りの木という言い伝えのなかに、名も知られぬまま、生き残っていただけだった。

「わしは」と勘助はつぶやいた。「わしは、もう、どこにも、おらんのだな」

その夜、勘助は、みねの家に泊めてもらった。

みねが、寝床を用意してくれた。柔らかい、白い布団だった。勘助はそこに横になった。横になっても、眠れなかった。眠るのが、恐ろしかった。また眠って、目が覚めたら、今度は、みねさえも死んでいるのではないか。そう思うと、まぶたを閉じることが、できなかった。

天井の白い光は、みねが消してくれていた。かわりに、窓から、月の光が差しこんでいた。その月の光のなかで、勘助は、遠い日のことを思い出していた。

子供のころのことだった。

夏の夜だった。祖父が、縁側に勘助を座らせて、空を指さした。「あれを見ろ、勘助」。祖父が指さした先に、蒼い星があった。青白く、尾を引いて、ゆっくりと空を渡っていく星だった。

「あれが、ミラ彗星だ」と祖父は言った。「何十年かに一度、ああして帰ってくる。海の向こうから、空をわたって、また海の向こうへ行ってしまう。次に帰ってくるころには、わしは、もうおらんだろうな」

「じいさま、どこへ行くんだ」と幼い勘助は聞いた。

祖父は笑った。「どこへだろうな。彗星の行く先と、同じところかもしれん」

そのとき、祖父は、勘助に、子守唄を歌ってくれた。低い、しわがれた声で、ゆっくりと歌った。

眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。
眠れ、眠れ、朝が戸を叩くまで。

その唄を、勘助は、今でも覚えていた。覚えているどころか、その唄の音のひとつひとつが、たった今、耳もとで鳴っているかのように、鮮やかだった。祖父の声。煙管の匂い。縁側の板の、ひんやりとした感触。夏の夜の、草いきれ。それらすべてが、百年の彼方から、勘助のもとへ、押し寄せてきた。

不思議なことだった。つい昨日のことは、もう霞んでいくというのに、遠い遠い、子供のころのことは、こうして、少しも色褪せずに、残っている。まるで、時というものが、近いところほど薄く、遠いところほど濃く、塗り重ねられているかのようだった。勘助は、まどろみのなかで、その塗り重ねられた時の層を、下へ下へと、降りていくような気がした。田仕事の記憶。祝言の夜の記憶。父を送った記憶。母を送った記憶。そうして、いちばん底に、祖父の子守唄が、ひっそりと、沈んでいた。

おふさと、はじめて会った日のことも、思い出した。となり村の、盆踊りだった。おふさは、赤い襷をかけて、踊りの輪のなかにいた。その手が、月の光を受けて、白く光っていた。勘助は、その手から、目が離せなかった。踊りが終わって、人がまばらになったころ、勘助は、思いきって、おふさに声をかけた。なにを話したかは、もう覚えていない。ただ、おふさが、恥ずかしそうに笑って、うつむいたこと。そのうつむいた首すじの、白さだけを、覚えている。

その、若かったおふさの姿と、書物のなかで読んだ、老いて死んでいったおふさの姿とが、勘助のなかで、ひとつに重なった。重なって、たまらなくなった。勘助は、布団のなかで、声を殺して、泣いた。

その百年が、勘助には、ほんの一夜のようにも思えた。そうして、その一夜が、百年よりも、長いようにも思えた。

明くる日、勘助は、みねに連れられて、村だったところを歩いてみた。

歩いても、歩いても、勘助の知っている風景は、なにひとつなかった。庄屋の屋敷があったあたりには、灰色の建物が立っていた。鎮守の森があったあたりは、切り開かれて、ただの野原になっていた。勘助が女房と暮らした家があったあたりには、なにもなかった。ただ、雑草が、風に揺れているだけだった。

ひとつだけ、勘助が覚えているものがあった。

村の入り口の、道祖神である。石でできた、小さな道祖神だった。それが、雑草に埋もれて、なかば土に沈みかけながらも、まだそこにあった。勘助は、その道祖神の前に、しゃがみこんだ。苔むした石の顔を、そっと撫でた。この道祖神だけが、勘助の知る、ただひとつのものだった。この石だけが、勘助と、失われた百年とを、繋いでいた。

「よう、生きておったな」と勘助は、道祖神に語りかけた。「わしは、帰ってきたぞ。誰も、待ってはおらんかったが、それでも、帰ってきたぞ」

道祖神は、なにも答えなかった。ただ、苔むした顔で、百年前と変わらぬ微笑みを、たたえていた。

勘助は、道祖神のかたわらに、腰を下ろした。しばらく、そうしていた。みねは、少し離れたところで、勘助を、そっと見守っていた。急かすでもなく、憐れむでもなく、ただ、静かに、待っていてくれた。それが、勘助には、ありがたかった。

「みねさん」と勘助は、道祖神を撫でながら、言った。「わしはな、この道祖神に、幾度も、手を合わせたものだ。田へ行くときも、田から帰るときも。子ができますように、と。おふさと、わしとのあいだに、子ができますように、と。だが、子は、できなんだ。とうとう、できなんだ。それが、心残りでな。子さえおれば、おふさも、あんなに、寂しい思いは、せずにすんだろうに」

みねは、なにも言わなかった。ただ、うなずいた。

「今にして思えば」と勘助はつづけた。「子ができなんだのは、こうなることが、あらかじめ、決まっておったからかもしれん。わしが、時のあわいに落ちて、おふさを、置き去りにする。そのことが、決まっておったから、天が、子を、授けなんだのかもしれん。子までも、置き去りにされては、あんまりだ、と。――そう思うと、なんだか、救われるような気も、するのだ」

道祖神は、ただ、微笑んでいた。

その帰り道のことだった。

勘助は、みねに聞いた。「みねさん。この村に、いや、この土地に、古い書物を扱う店は、ないだろうか」

「書物、でございますか」とみねは、けげんそうにした。「なぜ、そのようなものを」

「昔」と勘助は言った。「わしの祖父が、話しておったのだ。この土地には、夜になると現れて、朝になると消える、古い書物の店があると。月光書房、というのだと。そこには、この世のありとあらゆる書物が、あるのだと。過ぎ去ったことも、これから来ることも、みな、そこに書いてあるのだと」

みねは、しばらく黙っていた。それから、静かに言った。

「不思議なことを、おっしゃいます。実は、わたくしも、聞いたことがございます。祖母が、そんな話を。夜、村の外れに、青い灯りのともった店が現れる。そこには、白髪の店主がいて、望みの本を出してくれる。けれど、朝になると、店も、店主も、跡形もなく消えている。――ただの、言い伝えでございましょう」

「言い伝えでは、ないかもしれん」と勘助は言った。「わしのような者が、こうして、おるのだから」

みねは、なにも言わなかった。だが、その目には、勘助の言葉を、頭から否むことのできぬ色があった。

その夜、勘助は、みねの家を抜け出した。

みねには、悪いと思った。だが、勘助は、あの木のところへ、もう一度、行ってみたかったのだ。自分が眠っていた、あの木の下へ。そこへ行けば、なにかが、わかるような気がした。あるいは、もう一度眠れば、元の時へ、帰れるのではないか。そんな、あてのないことを、思っていた。

夜道を、勘助は歩いた。膝は痛んだが、不思議と、足取りは軽かった。月が、明るかった。その月の光を頼りに、勘助は、荒れた田のあいだの道を、あの木のほうへと、たどっていった。

やがて、木が見えてきた。

勘助が眠っていた、あの木だった。百年たっても、その木は、そこにあった。いや、百年たったからこそ、その木は、いっそう大きく、いっそう黒々と、夜空に枝を広げていた。祟りの木。神隠しの木。勘助を、百年のあいだ、抱いていた木だった。

その木の下に、青い灯りが、ともっていた。

勘助は、息をのんだ。

木の下に、店があった。昨日までは、なにもなかったはずのところに、小さな、古い店が立っていた。軒には、青い灯りのともった提灯が、ひとつ、下がっていた。その灯りが、ぼんやりと、あたりを照らしていた。店の戸は、開いていた。なかには、天井まで届くほどの棚が、ぎっしりと並んでいて、その棚には、古い書物が、うずたかく積まれていた。

月光書房、と、勘助は思った。

これが、祖父の言っていた、月光書房か。

勘助は、恐る恐る、店のなかへ入った。入ると、古い紙の匂いがした。黴と、埃と、それから、なにか甘い、蜜のような匂いだった。奥の、帳場のところに、ひとりの老人が座っていた。白髪の、痩せた老人だった。その老人が、勘助を見て、静かに、微笑んだ。

「お待ちしておりました」と老人は言った。

「わしを、知っておるのか」と勘助は聞いた。

「存じております」と老人は答えた。「あなたさまは、百年前、あの木の下で、眠りにつかれた。そうして、今宵、目を覚まされた。そういう方は、たまに、いらっしゃる。時のあわいに、うっかりと落ちてしまう方が」

老人は、帳場から立ち上がった。棚のあいだを、するすると歩いていった。そうして、ある一冊の書物を、取り出した。古い、革の表紙の、分厚い書物だった。それを、勘助のところへ、持ってきた。

「これを」と老人は言った。「お読みになりますか」

勘助は、その書物を受け取った。受け取って、開いた。

なかには、細かい文字が、びっしりと書き連ねてあった。勘助は、字がろくに読めなかった。田を耕す百姓に、学などなかった。だが、不思議なことに、その書物の文字は、読もうとせずとも、勘助の頭のなかに、直に流れこんできた。

それは、おふさのことが、書いてある書物だった。

勘助が消えたあと、おふさが、どう生きたかということが、そこに書いてあった。おふさは、勘助を、探しに探した。三年のあいだ、毎日、あの木の下へ通った。木の下に立って、「勘助さん、勘助さん」と、呼びつづけた。返事はなかった。それでも、おふさは、通いつづけた。村の者は、おふさを憐れんだ。再縁を勧める者もあった。だが、おふさは、首を横に振った。「あの人は、きっと帰ってきます。あの人は、わたしを置いて、どこかへ行くような人じゃありません」と、そう言って。

おふさは、勘助を待ちつづけて、老いた。老いて、寝たきりになった。死ぬ間際に、おふさは、こう言ったという。

「勘助さん。わたしは、あなたを恨みません。あなたは、きっと、帰りたくても、帰れなかったのでしょう。神隠しにあったのでしょう。どこか、遠い、遠いところで、あなたも、わたしを、待っているのでしょう。――そちらへ行ったら、また、いっしょに、田を耕しましょうね」

書物には、ほかにも、こまごまとしたことが、書いてあった。おふさが、勘助のために、毎年、勘助の消えた日に、あの木の下へ、握り飯を供えにいったこと。その握り飯を、いつも、烏が食べていったこと。おふさが、それを見て、「勘助さんが、食べてくれたのだ」と、自分に言い聞かせていたこと。おふさが、勘助の着物を、死ぬまで、簞笥のなかに、たたんでしまっておいたこと。ときおり、それを取り出しては、匂いを嗅いでいたこと。だが、年月がたつうちに、その着物から、勘助の匂いは、消えていったこと。匂いが消えたとき、おふさが、はじめて、声をあげて泣いたということ。

勘助は、その一行を読んで、胸が、張り裂けそうになった。匂いが消えるまで、おふさは、泣かなかったのだ。三年、あの木の下へ通ったときも、村の者に憐れまれたときも、寝たきりになったときも、おふさは、泣かなかった。ただ、着物から、勘助の匂いが消えたとき――そのときだけ、おふさは、泣いたのだ。それが、おふさにとっての、ほんとうの別れだったのだろう。勘助が消えた日ではなく、勘助の匂いが、この世から消えた、その日が。

勘助は、その書物を、閉じることができなかった。涙が、次から次へと、老いた頬を伝って、書物の上に落ちた。落ちた涙が、文字を、にじませていった。

「なあ」と勘助は、老人に聞いた。「なあ、店主どの。わしは、どうしたらいい。わしは、百年を、失った。おふさも死んだ。村もなくなった。わしを知る者は、もう、おらん。わしは、これから、どうやって、生きていけばいい」

老人は、しばらく黙っていた。それから、静かに言った。

「失った、とおっしゃいますな」

「失ったのだ」と勘助は言った。「わしは、百年を、まるまる失った。ひとねむりのあいだに、なにもかもを、失ったのだ」

「では、お聞きしますが」と老人は言った。「その百年のあいだ、あなたさまは、苦しみましたか。飢えましたか。病みましたか。おふささまが、あなたさまを探して、泣き暮らした、その三年のあいだ、あなたさまは、その苦しみを、味わいましたか」

勘助は、答えられなかった。

「味わって、おりませぬな」と老人は言った。「あなたさまは、ただ、眠っておられた。あの木の下で、蝉の声を聞きながら、蒼い星をひとつ見て、それから、ずっと、眠っておられた。苦しみも、悲しみも、老いていく体の痛みも、なにひとつ、味わわずに。あなたさまが失ったのは、百年の歳月ではございませぬ。あなたさまは、百年の歳月から、ただ、免れておられた。それだけのことでございます」

老人の言葉が、勘助の胸に、しずかに沁みていった。

「おふささまは」と老人はつづけた。「三年、あなたさまを待って、それから、諦めるまいと決めて、生涯、待ちつづけました。長い、長い歳月でございます。その歳月のなかで、おふささまは、幾度も、あなたさまを恨んだことでしょう。幾度も、泣いたことでしょう。老いて、体が動かなくなり、それでも、あなたさまを待ちつづけた。それが、おふささまの生きた、百年に近い歳月でございます。――さて、あなたさまと、おふささまと、どちらが、多くを失ったのでございましょうな」

勘助は、うなだれた。

「わしは」と勘助はつぶやいた。「わしは、なにも、失っておらん。おふさが、失ったのだ。おふさが、わしのために、その一生を、待って過ごしたのだ。わしは――わしは、なんと、罪深いことか」

「罪では、ございません」と老人は言った。「あなたさまが、望んでしたことでは、ないのですから。時のあわいに落ちるのは、誰にでも起こりうること。ただ、覚えておおきなさい。時とは、残酷なものです。人を、置き去りにして、流れ去っていく。けれど、時とは、やさしいものでもあります。あなたさまを、百年のあいだ、苦しみから守ってくれた。おふささまの、待ちつづけた歳月を、ひとつも無駄にはせず、こうして、書物のなかに、留めておいてくれた。あなたさまは、おふささまが、あなたさまを恨まなかったことを、知ることができた。それは、時が、あなたさまに残した、やさしさでございます」

勘助は、長いあいだ、その場に座っていた。

やがて、勘助は、顔を上げた。目には、まだ涙が残っていたが、その顔は、どこか、晴れやかだった。

「店主どの」と勘助は言った。「わしは、決めた。わしは、この時代で、生きてみようと思う。おふさが、待ってくれた、その歳月を、無駄にはせん。わしが、百年ののちに、こうして目を覚ましたのには、なにか、わけがあるのかもしれん。そのわけを、探しながら、生きてみようと思う」

老人は、微笑んだ。

「よい、お心持ちでございます」

「それにな」と勘助は言った。「わしには、道しるべがある。あの、蒼い星だ。ミラ彗星だ。あれは、百年前も、今も、変わらず、空を巡っておる。わしが眠る前も、覚めた後も、あの星だけは、変わらずにおる。あれが、わしの、道しるべだ。あれを見上げているかぎり、わしは、迷わずに、いられる気がするのだ」

「そのとおりでございます」と老人は言った。「星は、変わりませぬ。人の世が、どれほど移ろおうとも、あの星だけは、海をわたり、空をわたり、また海の向こうへ帰っていく。何十年かに一度、必ず、帰ってくる。あなたさまが、次に、あの星を見上げるとき、あなたさまは、もう、迷ってはおられぬでしょう」

勘助は、書物を、老人に返した。

「これは、わしが持っていても、よいものだろうか」

「いいえ」と老人は言った。「これは、この店の、書物でございます。朝になれば、この店とともに、消えてしまいます。けれど、あなたさまは、もう、読まれました。おふささまの、生きた歳月を、読まれました。それは、あなたさまの、胸のなかに、残ります。それで、十分でございましょう」

勘助は、うなずいた。

「ひとつ、聞いてもよいか」と勘助は言った。「店主どの。あんたは、いったい、何者なのだ。この店は、いったい、なんなのだ」

老人は、ただ、微笑むばかりだった。しばらくして、こう言った。

「わたくしは、留める者でございます。時が、流し去っていくものを、この店に、留めておく者。忘れられたもの、失われたもの、置き去りにされたもの――それらを、書物にして、この棚に、しまっておく。そうして、あなたさまのような方が、いつか、それを読みにいらっしゃるのを、待っている。それだけの、者でございます」

「では、あんたも」と勘助は言った。「あんたも、時のあわいに、おるのだな」

「さようでございます」と老人は言った。「わたくしも、あなたさまと、同じでございます」

勘助は、店を出た。

外は、まだ、夜だった。青い提灯の灯りが、ぼんやりと、あたりを照らしていた。勘助は、空を見上げた。

蒼い星が、そこにあった。

青白く、尾を引いて、ゆっくりと空を渡っていく星だった。百年前と、変わらぬ星だった。祖父が指さした星。おふさと、いっしょに見た星。勘助が、眠る前に、最後に見た星。その星が、今も、変わらずに、そこにあった。

勘助は、その星に向かって、手を合わせた。

「おふさ」と勘助はつぶやいた。「見ておるか。あの星が、また、帰ってきたぞ。おまえと、いっしょに見た、あの星だ。わしは、これから、あの星を、道しるべにして、生きていく。おまえが、待ってくれた歳月を、無駄にはせん。いつか、わしも、そちらへ行く。そのときは――そのときは、また、いっしょに、田を耕そうな」

風が、吹いた。乾いた田の草が、さわさわと鳴った。その音が、勘助には、おふさの、やさしい返事のように、聞こえた。

明くる朝、みねが、勘助を探しに来た。

みねは、あの木の下に、勘助が座っているのを見つけた。勘助は、木の幹に背をあずけて、目を閉じていた。まるで、眠っているようだった。みねは、そっと、勘助の肩に触れた。

勘助は、目を覚まさなかった。

その顔は、おだやかだった。苦しみも、悲しみも、なにひとつ、なかった。ただ、深い、深い、安らぎだけが、その顔にはあった。まるで、ようやく、たどり着くべきところへ、たどり着いたかのようだった。

みねは、勘助のかたわらに、一冊の書物が落ちているのを見つけた。古い、革の表紙の書物だった。みねは、それを拾い上げた。開いてみると、なかには、なにも書かれていなかった。ただ、真っ白な紙が、綴じられているだけだった。

みねは、その白い紙を、しばらく見つめていた。それから、そっと、書物を閉じた。

村の外れの、忘れられた木の下に、勘助は葬られた。

墓標は、なかった。ただ、みねが、あの古い道祖神のかたわらに、小さな石を、ひとつ、置いただけだった。その石には、なにも刻まれていなかった。名も、なかった。だが、みねは、その石の前に立つたびに、心のなかで、こう唱えた。

「勘助さん。あなたは、帰ってきましたね。ちゃんと、帰ってきましたね」

みねは、あの木のことを、もう、祟りの木とは呼ばなかった。かわりに、こう呼んだ。まどろみの木、と。

その木の下で、人は、時のあわいに落ちる。落ちて、百年を、ひとねむりのあいだに過ごす。そうして、目を覚まし、失ったものを知り、けれど、それが失われたのではないと知って、安らかに、眠りにつく。まどろみの木。それは、時が、人にくれる、最後のやさしさの、木だった。

それから、幾年かが過ぎた。

みねは、年老いた。夫は、とうに死んだ。子はなかった。みねは、ひとりで、あの灰色の家に、住みつづけた。夜になると、みねは、よく、縁側に出て、空を見上げた。

ある夜のことだった。

みねは、空に、蒼い星を見た。

青白く、尾を引いて、ゆっくりと空を渡っていく星だった。みねは、その星を、じっと見つめた。ミラ彗星。何十年かに一度、帰ってくる星。勘助が、道しるべにした星。

みねは、その星を見ながら、いつのまにか、うたた寝をしていた。

まどろみのなかで、みねは、ひとつの唄を聞いた。低い、しわがれた声で、ゆっくりと歌う、子守唄だった。

眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。
眠れ、眠れ、朝が戸を叩くまで。

その唄を、みねは、どこかで聞いたことがあるような気がした。ずっと昔、まだ幼かったころ、祖母が歌ってくれたような気もした。あるいは、もっと昔、まだ生まれる前から、聞いていたような気もした。

みねは、その唄に、身をゆだねた。まぶたが、上から下へ、ゆっくりと降りてきた。降りきってしまえば、そこはもう、蜜のなかだった。

蜜のなかでは、時間がとろけている。

みねは、まどろみのなかで、蒼い星を見ていた。その星が、ゆっくりと、空を渡っていく。海の向こうから、また海の向こうへ。何十年かに一度、必ず、帰ってくる星。

その星のかたわらに、みねは、ひとつの、青い灯りを見た。

木の下に、ともった、青い灯り。夜に現れて、朝には消える、古い書物の店。月光書房。その戸口に、白髪の老人が立っていた。老人は、みねに向かって、静かに、微笑んだ。そうして、こう言った。

「お待ちしておりました」

みねは、その店へと、歩いていった。歩きながら、みねは、思った。ああ、わたしも、留められるのだな、と。時が、流し去っていくものとして、あの棚の、一冊の書物のなかに、しまわれるのだな、と。そうして、いつか、誰かが、わたしを、読みにくるのだ。わたしの、生きた歳月を。わたしが、勘助という男を、まどろみの木の下に葬った、その物語を。

みねは、それを、悲しいとは、思わなかった。

むしろ、やすらかだった。時が、残酷であればあるほど、その残酷さの底には、やさしさが、沈んでいる。流し去られるものは、けっして、消えはしない。どこかに、留められる。青い灯りの、ともる店に。蒼い星の、めぐる空に。まどろみの木の下の、白い書物のなかに。

昼下がりの光は、蜜のように濃い。

その光のなかで、ひとりの女が、木の下で、うたた寝をしている。ほんの、ひとねむりのつもりだった。だが、その女が目を覚ますとき、世界は、また、変わっているだろう。何十年かが、過ぎているだろう。荒れた田は、さらに荒れ、灰色の家は、崩れ、あるいは、また新しいものが、建っているだろう。

けれど、空を見上げれば、そこには、変わらぬ星がある。

青白く、尾を引いて、ゆっくりと空を渡っていく星。ミラ彗星。何十年かに一度、海の向こうから、帰ってくる星。眠る前も、覚めた後も、変わらず空を巡る、ただひとつの、道しるべ。

その星だけが、知っている。木の下で眠る者たちの、失われた歳月の、ほんとうの意味を。失ったのではなく、ただ、留められたのだということを。時が、残酷でありながら、やさしくもあるということを。

人は、みな、いつかは、時に置き去りにされる。老いて、死んで、あとに残る者に、忘れられていく。それは、まどろみの木の下で眠らずとも、誰にでも、起こることだ。ただ、勘助や、みねのような者は、それを、いちどきに、味わったにすぎない。百年を、ひとねむりのあいだに。ゆっくりと訪れるはずの別れを、ひといきに。だからこそ、彼らは、知ることができた。ふつうの人が、生きているあいだには、けっして知ることのできない、あのことを。――失われたものは、消えたのではない。ただ、どこかに、留められただけなのだ、と。

蝉が、鳴きはじめる。じいじい、じいじい、と、まるで熱そのものが声を持ったように。その声が、だんだんと、遠くなっていく。まぶたが、上から下へ、ゆっくりと降りてくる。降りきってしまえば、そこはもう、蜜のなかだった。

眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。

この物語にひそむ符牒

ほかの物語と、ひそかに分かち合っているもの:

  • ミラ彗星
  • 子守唄
  • 月光書房

十二をつなぐ符牒について →

← 『まどろみの物語』目次へ