午後の塵
午後のひかりは、畳のうえに、蜜のようにたまっていた。
隼人は、それをしばらく眺めていた。障子を透いてきた光が、縁側から座敷の奥へと、ゆっくりと差しこんでくる。畳の目のあいだに、細かな塵がひとつぶひとつぶ、金の粉のように浮いて、上りもせず下りもせず、ただそこに漂っている。息をとめて見ていると、時間まで、その塵とともに宙にとまってしまうようだった。
八十をこえてから、午後というものが、ずいぶんと長くなった。若いころは、昼めしを食えばすぐに日が傾いたものだが、いまは一時をまわったあたりから三時までのあいだが、まるで一日の半分ほどもある。することがないからではない。時間そのものが、水飴のように、間延びしてしまったのだ。急ぐことが、なにもなくなったからかもしれなかった。
年をとるというのは、時間の目盛りが、粗くなっていくことなのだと、隼人はこのごろ思う。若いうちは、一日が、こまかい目盛りに区切られていた。何時に起きて、何時にどこへ行き、何時に誰と会う。一分一秒が、意味をもって、きちんと並んでいた。ところがいまは、その目盛りが、だんだんと消えて、朝と、昼と、夜と、ただそれだけになった。そのかわり、遠い昔のことが、やけにこまかく、はっきりと、目盛りを刻んでよみがえってくる。近いことは、ぼやけて、遠いことが、鮮やかになる。年寄りの記憶とは、そういう、逆さまの遠近法でできているらしかった。
古い柱時計が、ひとつ、間の抜けた音で鳴った。半を告げたのか、時を告げたのか、隼人はもう数えなかった。
妻の芳江が逝って、三年になる。子はふたりあるが、ひとりは名古屋、ひとりは仙台で、それぞれの暮らしがある。盆と正月にはやってくるし、電話もよこす。孫の声も聞こえる。けれど、日々のこの座敷には、いま隼人ひとりきりだった。ひとりというのは、静かだった。静かすぎて、かえって、いろいろな音が聞こえてくる。柱のきしむ音、天井裏で鼠が走る音、遠くの田で誰かが草を刈る機械の、蜂の羽音のような響き。それらは、生きている者の音というよりは、家そのものが呼吸している音のようだった。
この家は、もう百年になる。隼人の祖父が建て、父が継ぎ、隼人が継いだ。柱には、隼人の背丈をきざんだ、こどものころの刀傷がまだ残っている。芳江の背丈も、和夫の背丈も、そこにある。傷は、みな、同じ柱のうえに、いくつも重なって、いちばん高いのが、いちばん古い。年月というものは、下から上へ、伸びていくものらしかった。けれど、いまその柱を見上げる隼人の背は、また、すこしずつ、低くなりはじめている。人は、ある高さまで伸びて、それから、また縮んでいく。傷のいちばん高いところへ、もう、隼人の頭は、届かなくなっていた。
昼めしは、茶漬けですませた。梅干しをひとつ、湯をかけた飯にのせて、さらさらと。芳江がいたころは、こんな食事はさせてもらえなかった。もっと、ちゃんとしたものを。魚を焼き、汁をつけ、香のものを添えて。いまは、面倒で、つい、あるものですませてしまう。ひとりぶんの膳をととのえるのは、ふしぎと、億劫なものだった。人は、誰かのために、はじめて、きちんと生きられるのかもしれなかった。
隼人は、押入れをあけていた。
とくに用があったわけではない。夏物の座布団を出そうかと、そう思って襖に手をかけたのだが、あけてみると、いちばん下の段に、古い行李がひとつ、忘れられたように置いてあった。芳江が生きていたころは、こんなものがそこにあることさえ知らなかった。妻というものは、家じゅうのあらゆる隙間に、こまごまとしたものをしまいこんでおくものらしい。
行李の紐をほどくと、樟脳のにおいが、つんと立ちのぼった。そのにおいだけで、もう、なにか遠いところへ引き戻されるようだった。においというのは、時間をこえてくる。目は現在を見るが、鼻は過去をかぐ。
なかには、ふるい着物の端切れや、封筒の束や、こどもの成績表のようなものにまじって、一冊の分厚いものが入っていた。
アルバムだった。
黒い、厚紙の表紙。角がすりきれて、糸で綴じたあたりがほつれている。手にとると、ずしりと重い。表紙をひらくと、乾いた紙の、あの独特の音がした。ぱりぱりと、乾いた落葉を踏むような音。
隼人は、座布団をひとつ引きよせ、光のたまった畳のうえに座りなおした。
最初の一枚は、ひどく古い、褪せた写真だった。
セピア色というよりも、もう、茶がかった灰色に近い。ふちが波打っていて、なかば剥がれかけている。そこに写っているのは、まだ二十歳そこそこの、痩せた青年だった。着物のうえに学生服の上着をひっかけ、詰襟の釦をひとつだけあけて、こちらを、いくらか照れくさそうに睨んでいる。
隼人は、それが自分だと気づくのに、しばらくかかった。
そうだ。これはわたしだ。あの、写真館の。町にひとつしかなかった写真館の、渋田という主人が、頭から黒い布をかぶって、「はい、動かんように」と言った、あのときの。
あの写真館は、もう、とうになくなった。町が焼けたとき、いっしょに焼けた。渋田主人も、その夜に亡くなったと、あとで聞いた。撮る者は、逝った。撮られた者だけが、こうして、褪せた紙のうえに、残っている。写真というのは、ふしぎなものだ。それをこしらえた人も、そこに写った人も、みな、いなくなって、けれど、写真だけが、あとに残る。まるで、影のほうが、本体よりも、長生きするように。
見つめているうちに、写真のふちが、じわりとにじんだ。光のかげんだろうか。畳のうえの金の塵が、写真のうえにも降りているようだった。
――動かんように。
青年の隼人は、そう言われて、息をとめている。まばたきもできない。腋の下に汗がにじむ。渋田主人の、黒い布のなかで、ぽっと閃光がたかれる。硝煙のようなにおい。
「はい、けっこう」
その声で、ようやく息をつく。まぶしさのなかに、渋田主人の禿げた頭が、白くにじんで見える。
隼人は、まばたきをした。
座敷だった。午後の座敷。柱時計。畳の金の塵。手のなかには、アルバム。
いまのは、なんだったろう。ほんの一瞬、写真のなかに、入りこんでいたような。そんなはずはない。年寄りの、まどろみだ。目をあけたまま、うつらうつらと、夢を見はじめているのだ。近ごろ、よくあることだった。
けれど、と隼人は思う。腋の下が、じっとりと汗ばんでいる。あの写真館の暑さが、まだ、そこに残っているようだった。
頁をめくる。
紙と紙のあいだに、薄い薄い、蝉の羽のような紙が挟んである。それをそっとよけると、次の写真があらわれた。
海だった。
砂浜に、五人の若者が、肩を組んで並んでいる。みな、当時の海水着で、痩せた胸をそらせ、腕をあげて、笑っている。まんなかに立っているのが隼人で、その隣に、背の高い、頭ひとつ抜けた男がいる。
大隅だった。
その名を思い出したとたん、隼人の胸のおくで、なにかがことりと鳴った。長いあいだ、蓋をしていた箱の蓋が、ずれるような音。
大隅栄一。旧制中学からの友。数学ができて、泳ぎがうまくて、いつも大声で笑っていた男。あいつは、この写真を撮った日の、夏の――。
大隅とは、机を並べた仲だった。試験のたびに、大隅は一番、隼人は二番か三番。悔しくて、夜おそくまで勉強したが、どうしても、大隅には勝てなかった。けれど、大隅は、それをけっして、鼻にかけなかった。「隼人、おまえは、こつこつやる。おれは、要領でやる。要領でやる者は、いつか、ぼろを出す。こつこつやる者が、最後は勝つのさ」と、そんなことを言って、笑っていた。
いま思えば、それは、逆だったのかもしれない。要領のいい男が、早く死に、こつこつやった男が、こうして、長く生きて、ひとりで、褪せた写真を繰っている。最後に勝ったのは、どちらだったのか。生きのびることが、勝ちなら、隼人が勝ったことになる。けれど、隼人は、いくどとなく、思った。大隅とかわってやりたかった、と。あの、才気にあふれた男が、二十四で、海の底に沈み、才のとぼしい自分が、こうして、八十をこえて、生きている。世のことわりは、しばしば、あべこべだった。
海鳴りが、聞こえた。
隼人は、砂のうえに立っていた。足の裏に、熱い砂の感触。潮のにおい。目のまえには、まぶしすぎるほどの、真夏の海。波が、光の粒を無数にはじいて、寄せては返している。
「隼人ォ、なにをぼやぼやしとるか」
背の高い影が、こちらを振りかえって笑っている。日に焼けた顔。白い歯。大隅だ。大隅が、生きて、そこにいる。
「泳がんのか。この夏を逃したら、もう泳げんぞ」
もう泳げんぞ、と大隅は言った。あのとき、それはただの冗談のはずだった。夏が終わればまた来年がある。そう、誰もが思っていた。けれど大隅は、その冬に応召し、南の海で船とともに沈んだ。二十四だった。骨のひとつも、還ってはこなかった。
「大隅」
と、隼人は呼んだ。声が、風にちぎれた。
「大隅、おまえ――」
「なんだ、辛気くさい顔をして。それより見ろ、隼人。あの海のむこう」
大隅は、水平線を指さした。隼人は、その指のさきを追った。
真夏の、真昼の空だというのに、水平線のうえに、ひとすじの蒼い光が、うっすらと尾を引いていた。まるで、誰かが空に、青い絵の具を、指で撫でつけたような。
「あれは、なんだ」隼人は、目を細めた。
「彗星さ」と大隅は言った。あたりまえのように。「ミラ彗星というんだと。夜に見えるはずのものが、こんな真昼に見えるとは。おまえ、こいつは、なにかの前触れかもしれんぞ」
前触れ。なんの前触れだったのか。
蒼い光は、白昼の空に、しずかに滲んでいた。夏の光のなかで、そこだけが、ひやりと冷たいもののように。海鳴りが、遠く、近く、寄せてきた。
――隼人さん。
誰かが呼んだ。
――お茶がはいりましたよ。
隼人は、はっと顔をあげた。
座敷だった。柱時計。金の塵。手のなかのアルバム。海鳴りは、もうなかった。かわりに、遠くの田を刈る機械の音が、蜂の羽音のように、また聞こえていた。
いまのは、芳江の声だったろうか。お茶がはいりましたよ、と。けれど、卓のうえには、なにもなかった。芳江はもう、三年まえに逝った。誰も、お茶など、いれてはいない。
隼人は、しばらく、動けなかった。
写真のなかの大隅は、あいかわらず、白い歯を見せて笑っていた。腕をあげ、痩せた胸をそらせて。二十四のまま。永遠に、二十四のまま。
そして――と、隼人は写真の隅に、目をとめた。
写真の、空の隅。若者たちの頭のうえ、水平線のあたりに、ごく淡く、うっすらとした、光のすじのようなものが写っていた。写真の傷か、現像の染みか。そう思って、老眼鏡をかけなおし、目を近づけた。
それは、彗星だった。
夢のなかで大隅が指さした、あの蒼い光。それが、たしかに、この一枚の写真の、空の隅に、写り込んでいた。むろん、褪せた写真だから、蒼くは見えない。灰色の、かすかな尾。けれど、それだった。まちがいなく、あの日の、あの光だった。
隼人は、ふしぎな心もちがした。夢が、写真から生まれたのか。写真が、夢を思い出させたのか。それとも、あの夏、ほんとうに、真昼の空に彗星が出ていたのか。
もう、確かめるすべはない。あの夏を、覚えている者は、隼人のほかに、ひとりもいないのだから。
隼人は、大隅の写真から、なかなか、目を離せなかった。
頁をめくれば、もう、大隅は、いなくなる。この一枚を、閉じてしまえば、大隅は、また、暗い箱のなかに、しまわれてしまう。そんな気が、した。ばかばかしい、と自分でも思う。写真は、写真だ。頁をめくったからといって、大隅が、二度死ぬわけではない。けれど、年寄りは、そういう、たわいのないことに、こだわるものだった。
隼人自身も、兵にとられた。大隅より、半年おくれて。けれど、隼人は、南の海へは、送られなかった。内地の、部隊に配属され、来る日も来る日も、竹槍で藁の人形を突く訓練ばかりを、させられた。実戦は、なかった。空襲のとき、逃げまどい、防空壕で、いくたびか、死ぬかと思った。けれど、生きのびた。
戦争が終わったとき、隼人は、なにも、感じなかった。うれしくもなく、くやしくもなく。ただ、ひどく、疲れていた。ラジオの、雑音まじりの玉音を、部隊のみなと、頭をたれて聞いた。誰も、口をきかなかった。空だけが、ばかばかしいほど、青かった。
町へ帰ると、家は、半分ほど焼けて残っていた。父は、その前の年に、病で亡くなっていた。母は、隼人の顔を見ると、ひとことも言わずに、ただ、泣いた。生きて帰った者を、迎える涙。けれど、その涙の底には、生きて帰らなかった者たちへの、うしろめたさが、まじっていた。隼人は、それを、母の背中を見ながら、感じていた。
大隅の家にも、行った。大隅の母親は、隼人の顔を見て、「栄一と、いっしょに、行ってくれたのですね」と、言った。それは、まちがいだった。隼人は、大隅と、いっしょには、行っていない。けれど、隼人は、その言葉を、訂正できなかった。ただ、うつむいて、畳に、額をつけた。
「栄一は、あなたのことを、いつも、よく言っておりました」と、大隅の母親は言った。「隼人は、ばか正直な男だが、あいつは、信じられる。世界じゅうが嘘つきになっても、あいつだけは、嘘をつかん。そう、申しておりました」
隼人は、その言葉を、生涯、忘れなかった。大隅が、自分を、そんなふうに、見ていてくれたことを。そして、その大隅は、もう、この世に、いないことを。
戦後の日々は、苦しかった。食うものが、なかった。仕事も、なかった。焼け跡に立って、これから、どうやって生きていくのか、途方に暮れた。あのころ、夜、眠れずに、町を歩いた。歩いても歩いても、行く先などなかった。ただ、じっとしていられなかったのだ。じっとしていると、死んだ者たちのことが、押し寄せてくるようで。
そのころ、あの、月光書房に、出くわしたのだった。けれど、そのことは、まだ、あとの頁に、待っていた。
二
頁をめくる手が、すこし震えていた。
年をとると、指のさきの感覚が鈍くなる。うすい紙が、なかなかつまめない。何度か、指のはらで頁を撫でて、ようやく一枚をめくる。そのたびに、樟脳のにおいが、あたらしく立ちのぼる。
次の頁には、写真が三枚、並べて貼ってあった。
一枚は、桜の下の写真。若い女が、傘をさして、こちらを見ている。花びらが、肩に、髪に、降りかかっている。
芳江だった。
まだ嫁ぐまえの、芳江。二十一か、二十二か。丸髷ではなく、ひっつめた髪に、大きな花の飾りをつけて。目もとが涼しくて、口もとに、笑いをこらえているような、いたずらな影がある。
隼人と芳江は、見合いだった。恋愛ではない。当時、そういうものは、ほとんどなかった。仲人に連れられて、料亭の一室で、はじめて顔をあわせた。芳江は、うつむいて、ほとんど口をきかなかった。隼人も、緊張して、茶碗の茶ばかり飲んでいた。
けれど、帰りぎわ。玄関で、芳江が、ふと顔をあげて、こちらを見た。そして、ほんの一瞬、笑った。口もとだけで。あの、いたずらな影のある笑いで。
その一瞬で、隼人は、決めたのだった。
「芳江」
と、隼人は、写真に向かって、呼んでみた。声が、座敷の静けさのなかに、吸いこまれていく。
桜が、散っていた。
隼人は、桜の下に立っていた。花びらが、雪のように、ふりしきっている。目のまえに、傘をさした芳江が、こちらを見て、笑っている。あの、いたずらな影のある笑い。
「なにを、そんなに見ておいでですか」
芳江が言った。若い声。まだ、しわのひとつもない、なめらかな頬。
「いや」と隼人は言った。「おまえが、あまりにも――」
言いかけて、言葉につまった。若いころから、口のうまい男ではなかった。
「あまりにも、なんですの」
芳江は、傘をかしげて、覗きこむようにした。花びらが、傘のふちから、はらはらとこぼれた。
「あまりにも、きれいなものだから」
言ってしまってから、隼人は、耳のあたりが熱くなるのを感じた。芳江は、目をまるくして、それから、こらえきれずに、笑いだした。
「まあ。あなたが、そんなことをおっしゃるなんて」
その笑い声が、桜の花びらといっしょに、風に舞った。
隼人は、その笑い声を、もっと聞いていたかった。もっと、もっと。この午後が、永遠につづけばいい。桜が散りつづけ、芳江が笑いつづけ、時間が、この一瞬に、とまってしまえばいい。
けれど、風がやむと、花びらは地に落ち、芳江の笑い声も、しだいに遠のいていった。傘のむこうの顔が、ぼやけて、光にとけていく。
「芳江」隼人は、手をのばした。「行くな。まだ、行くな」
指のさきが、なにか、やわらかいものに触れた。
はっと見ると、それは、畳のうえに落ちた、桜の花びらではなく――手袋だった。
女ものの、片方だけの手袋。うすい、生成りの布の。
隼人は、それを、手にとった。芳江のものだ。いつのものだったか。若いころ、芳江がしていた手袋。対の片方が、いつのまにか、なくなって。芳江は、片方だけになった手袋を、なぜか、捨てずに、とっておいた。「片方だけでも、あるうちは」と、そう言って。
これも、この行李に、入っていたのだ。アルバムの、頁のあいだに、挟まれて。
隼人は、その片方だけの手袋を、しばらく、手のひらにのせていた。ちいさな、やわらかな、なんの役にもたたない布きれ。けれど、そこには、たしかに、若い芳江の手の、かたちが残っているようだった。
座敷は、しずかだった。桜は、もう、散っていなかった。ただ、午後の光が、あいかわらず、畳のうえに、蜜のようにたまっているばかりだった。
隼人は、手袋を、そっと膝のうえに置き、また、頁に目をもどした。
桜の写真の隣に、婚礼の写真があった。紋付袴の隼人と、白無垢の芳江。ふたりとも、こわばった顔をして、まっすぐにこちらを見ている。若い。まぶしいほどに若い。この日から、五十年ちかくを、この二人は、ともに歩くことになる。むろん、写真のなかの二人は、それを知らない。
結婚してからの日々のことを、隼人は、思い返した。
けっして、楽な暮らしではなかった。隼人は、役場に勤め、安い俸給で、家族を養った。芳江は、家を守り、畑をつくり、鶏を飼い、少しでも、家計の足しにと、内職をした。夜なべで、針仕事をする芳江の、うつむいた横顔を、隼人は、いまでも、はっきりと、思い出せる。ランプの、ゆらぐ灯りのなかで、芳江の指が、規則正しく、動いていた。
夫婦げんかも、した。若いころは、ずいぶんと、した。些細なことで、口をきかなくなり、幾日も、にらみあった。芳江は、負けん気の強い女だった。あの、いたずらな影のある笑いの奥に、芯の、つよいものを、もっていた。隼人が、理不尽なことを言えば、けっして、黙っては、いなかった。「あなたは、まちがっています」と、まっすぐに、言った。隼人は、それが、腹立たしくもあり、頼もしくも、あった。
けれど、どんなに、けんかをしても、朝になれば、芳江は、いつもどおりの、飯を炊いた。そして、夜になれば、いつもどおりの、床をのべた。それが、芳江の、けんかの終わらせかただった。言葉で、あやまるのではなく。ただ、いつもどおりの、暮らしを、つづけることで。隼人は、その、芳江の、しずかな強さに、いくども、救われた。
三枚めは、こどもを抱いた芳江の写真だった。長男の、和夫が生まれたときの。芳江は、疲れた顔をしていたが、その目は、これまで見たことのないほど、やわらかかった。
隼人は、その頃のことを、思いだそうとした。けれど、ふしぎと、こまかいことは思いだせない。夜泣きに、二人して往生したこと。おむつを干した縁側。芳江が、低い声で歌っていた、子守唄。
――眠れ、眠れ。
その旋律が、どこからか、聞こえてくるようだった。
――星が海をわたるまで。
芳江が、和夫を抱いて、縁側で、ゆっくりと体をゆすりながら、歌っていた。低い、やさしい声で。眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。何度も、何度も。和夫が眠るまで。そして、隼人までが、その声に、うとうとと、眠くなったものだった。
眠れ、眠れ。
隼人は、いつのまにか、まぶたが重くなっているのに気づいた。午後の光。樟脳のにおい。子守唄。柱時計の、間の抜けた音。それらが、みな、混ざりあって、意識の縁が、ゆっくりと、ほどけていく。
いけない、と隼人は思った。こんなところで、眠っては。畳のうえで眠ると、風邪をひく。芳江が、いつも、そう言っていた。座敷で寝るなら、ちゃんと布団を敷いて――。
けれど、まぶたは、もう、あがらなかった。
三
気がつくと、隼人は、畳のうえに、横になっていた。
アルバムは、胸のうえに、ひらいたまま乗っていた。片方だけの手袋が、そのわきに、落ちている。
どれほど、眠っていたのか。障子の光は、さっきよりも、いくぶん、赤みを帯びていた。午後が、傾きはじめている。けれど、まだ、夕方ではない。あの、いちばん眠い、昼下がりの時刻。
隼人は、体を起こそうとして、やめた。まだ、起きたくなかった。この、まどろみの縁に、もうしばらく、いたかった。ここでは、時間が、やわらかい。過去と現在の境目が、水にとけた墨のように、にじんで、混ざりあっている。
胸のうえのアルバムを、寝たまま、また、めくった。
次の頁には、戦後の写真が、貼ってあった。
焼け跡の、バラック。防空頭巾をかぶった人々。配給の列。そういう写真にまじって、一枚、隼人が知らない写真があった。
夜の写真だった。
暗い路地の奥に、ぽつりと、灯りがともっている。木の看板が、かすかに読める。「月光書房」と。
隼人は、その写真に、見おぼえがなかった。誰が撮ったものか。いつのものか。まったく、記憶にない。けれど――と、隼人は目を細めた。空の隅に、また、あの蒼い光が、うっすらと尾を引いていた。
ミラ彗星。
そういえば、と隼人は思った。戦後の、ひどく苦しかった時分。あれは、いつのことだったか。夜、眠れずに、町を歩いていたことがあった。あのとき、路地の奥に、見たことのない、古本屋があった。ふらりと入って、一冊の本を、手にとった。店の主人は、顔のよく見えない、静かな人だった。
――どうぞ、お持ちください。
と、その人は言った。金は、いらないと。
――いつか、返してくだされば。
隼人は、その本のことを、思い出そうとした。けれど、どんな本だったか、どうしても、思い出せない。ただ、その本を読んだ夜、はじめて、ぐっすりと眠れたことだけを、おぼえていた。
いや――と、隼人は、目を閉じた。まぶたのうらに、ぼんやりと、その夜が、よみがえってくる。
古本屋の、うすぐらい店のなか。天井まで届く、本の棚。棚には、見たこともないような、古い書物が、びっしりと、詰まっていた。ろうそくが、一本、燃えていて、その炎は、青みがかっていた。そう、あの、青い炎だ。あの、青いマッチの炎と、同じ色の。
主人は、隼人が、なにを探しているのかを、たずねなかった。ただ、静かに、一冊の本を、棚から抜いて、差しだした。「これを、どうぞ」と。隼人は、その本の題も見ずに、受けとった。表紙が、しっとりと、手になじんだ。
「お代は」と隼人が言うと、主人は、首を振った。
「この店の本は、売り物では、ないのです。ただ、お貸しするだけ。いつか、あなたが、その物語を、もう、必要としなくなったとき、返してくだされば」
「いつか、とは」
「さあ」と、主人は、かすかに、笑ったようだった。「それは、あなたが、いちばん、よくご存じでしょう」
隼人は、その本を、抱いて、家に帰った。そして、ランプの下で、一晩、読みふけった。どんな物語だったのか、いまは、もう、まったく、思い出せない。けれど、読み終えたとき、隼人の胸のなかの、なにか、こわばっていたものが、ふっと、ほどけたのを、おぼえている。死んだ者たちのことも、生きのこったうしろめたさも、その夜だけは、隼人を、苦しめなかった。隼人は、その本を、枕もとに置いて、ひさしぶりに、こどものように、眠った。
あの本は、返しただろうか。返していない気がする。返そうとして、あの路地を、もう一度たずねたが、そんな古本屋は、どこにも、なかった。あるいは、あの物語を、隼人は、まだ、心のどこかで、必要としているのかもしれなかった。だから、店は、あらわれないのだ。返すべきときが、まだ、来ていないから。
夢だったのだろうか。あれも。
隼人は、写真のなかの、月光書房の灯りを、じっと見つめた。灯りは、あたたかく、けれど、どこか、この世のものでないような、ひそやかな光をたたえていた。
頁のあいだから、なにか、かたいものが、すべり落ちた。
隼人は、それを、指さぐりで拾った。
ちいさな、箱だった。
藍色の、マッチ箱。表に、三日月が、金色で、刻んである。「月光堂」と、小さな字で。
隼人は、それを、手のひらにのせて、しばらく眺めていた。
これも、覚えがなかった。どこで手に入れたものか。けれど、たしかに、見おぼえがあるような気もした。あの、月光書房の、卓の隅に、こんなマッチ箱が、置いてなかったか。それとも、芳江が、どこかで――。
箱を、そっと、振ってみた。かさり、と、乾いた音がした。まだ、なかに、マッチが残っているらしい。
隼人は、ふと、いたずら心がわいて、その箱をあけ、一本、マッチを取りだした。もう、何十年も前のものだろう。とっくに、湿気て、火などつくまい。そう思いながら、箱の横で、しゅっと、擦ってみた。
つい、と、青い炎が、たった。
隼人は、目をみはった。
こんな古いマッチが、つくはずが。けれど、炎は、たしかに、隼人の指のさきで、ゆらいでいた。青みがかった、澄んだ炎。ろうそくの火のような、あたたかさではなく、もっと、ひやりとした、けれど、なぜか、なつかしい光。
その炎のなかに――
芳江がいた。
年老いた芳江。逝くまえの、病んで痩せた芳江ではなく、五十がらみの、まだ、頬にはりのあった頃の芳江。台所に立って、こちらに背をむけて、なにか、煮物をしている。鍋から、湯気がたっている。芳江が、鼻歌をうたっている。眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。
「芳江」と、隼人は呼んだ。
芳江が、振りかえった。
「あら、お目ざめですか」と、芳江は言った。あきれたような、けれど、やさしい声で。「またそんなところで、うたた寝をして。風邪をひきますよ」
「うたた寝を、していたか」
「ずいぶんと、よく眠っておいででした。よほど、いい夢でも、ごらんになっていたのでしょう」
芳江は、そう言って、笑った。あの、口もとだけの、いたずらな影のある笑い。若いころと、すこしも、変わらない笑い。
「芳江」隼人は言った。「わたしは、いま、夢を見ているのか」
芳江は、答えなかった。ただ、こちらを見て、やわらかく、微笑んでいた。
「おまえは、逝ってしまったはずだ。三年まえに。わたしは、おまえを、送った。この手で、骨を、拾った」
「そうですか」と芳江は言った。まるで、他人ごとのように。「それは、おさびしかったでしょう」
「さびしかった」隼人は、正直に言った。「毎日が、さびしかった。この座敷で、ひとりで、めしを食うのが。おまえの声が、聞こえないのが。おまえの、いない家に、帰るのが」
言っているうちに、隼人の目のふちが、熱くなった。年をとると、涙もろくなる。ちいさなことで、すぐに、目がうるむ。
芳江は、しばらく、だまっていた。それから、ゆっくりと、言った。
「でも、あなた。わたしは、ちゃんと、ここにおりますよ」
「ここに」
「そうです。あなたが、思い出してくださるかぎり。わたしは、いなくなったりは、しません。あの桜の下にも、この台所にも、その、アルバムの一枚一枚にも。あなたが、頁をめくるたびに、わたしは、そこで、笑ったり、歌ったり、しておりますでしょう」
隼人は、手のなかの、青いマッチの炎を、見つめた。炎は、まだ、消えずに、ゆらいでいた。
「けれど、この火が、消えたら」と、隼人は言った。「わたしが、いなくなったら。誰が、おまえを、思い出す」
芳江は、こまったように、笑った。
「そのときは、そのときで、よいのですよ。すべてのものは、いつか、忘れられます。忘れられて、また、あの古本屋の、棚のどこかに、しまわれるのです。誰かが、また、いつか、頁をひらくまで」
「芳江」と、隼人は言った。ずっと、言いたくて、言えずにいたことが、この、まどろみのなかでなら、言えるような気がした。「わたしは、おまえに、たくさん、苦労をかけた。若いころは、口ばかりで、なにもできなかった。役場の、しがない小役人で、いい着物のひとつも、買ってやれなかった。旅行にも、ろくに、連れていってやれなかった。おまえが、病んでからも、わたしは、なにも、してやれなかった。ただ、おろおろと、するばかりで」
「そんなことは」と芳江は言った。「もう、よろしいではありませんか」
「よくない」隼人は、首を振った。「おまえが、逝ってから、わたしは、そればかりを、考えている。もっと、してやれたはずだ。もっと、やさしくできたはずだ。もっと、ありがとうと、言えたはずだ。けれど、わたしは、言わなかった。あたりまえに、おまえが、そこにいると、思っていたから」
芳江は、しばらく、だまっていた。それから、ゆっくりと、鍋の火を、とめた。そして、こちらを、振りむいた。
「あなた」と芳江は言った。「わたしは、いちども、苦労だなんて、思ったことは、ありませんよ」
「そんなはずは」
「ほんとうです。あなたは、口下手で、不器用な人でした。ありがとうも、すきだとも、めったに、おっしゃらない。けれど、わたしは、ちゃんと、知っておりました。あなたが、毎朝、いちばんに起きて、井戸の水を、汲んでくださったこと。冬の、寒い朝に、わたしが起きるまえに、火鉢に、炭を、おこしておいてくださったこと。わたしが、風邪をひいたとき、慣れない手つきで、おかゆを、炊いてくださったこと。あんなに、まずいおかゆは、後にも先にも、ありませんでしたけれどね」
芳江は、そう言って、くすりと、笑った。
「言葉に、しなくても。わたしは、ちゃんと、受けとっておりました。あなたの、やさしさを。だから、なにも、悔やむことは、ないのですよ」
隼人の目から、涙が、ひとすじ、こぼれた。年寄りの、乾いた頬を、それは、ゆっくりと、つたって落ちた。
炎が、指のさきを、ちりと灼いた。
隼人は、われにかえって、マッチを、振って消した。青い炎は、ふっと、消えた。うすい煙が、ひとすじ、立ちのぼって、午後の光のなかに、とけていった。
芳江は、いなかった。
台所も、鍋の湯気も、鼻歌も、なかった。ただ、座敷の、傾いた光と、柱時計の音と、胸のうえのアルバムと、指のさきの、ちいさな灼けあとだけが、あった。
隼人は、体を起こした。
指のさきが、ほんのりと、赤くなっていた。たしかに、火に、触れたのだ。夢ではなかった、というのだろうか。それとも、夢のなかで、ほんとうに、火傷をすることも、あるのだろうか。
隼人は、青いマッチ箱を、そっと、もとの頁のあいだに、はさみもどした。月光書房の写真の、すぐ隣に。まるで、そうあるべき場所に、おさまるように。
四
障子の光は、いよいよ、赤みを増していた。
三時に近いのだろう。昼下がりの、いちばん深いところ。眠りと目覚めの、ちょうど中間。この世と、あの世の、境目のあたり。
隼人は、アルバムの、のこりの頁を、めくっていった。
こどもたちが、育っていく写真。運動会。入学式。旅行の記念。芳江の、髪に、白いものがまじっていく。隼人の、背が、すこしずつ、丸くなっていく。年月が、一枚、また一枚と、めくられていく。
そして、最後の頁に、たどりついた。
そこには、一枚だけ、写真が貼ってあった。
縁側の写真だった。この座敷の、この縁側。夏の日らしく、簾がかかっている。縁側に、隼人と芳江が、並んで腰かけている。ふたりとも、もう、すっかり、年老いていた。芳江の髪は、真っ白で、隼人の顔にも、深い皺が刻まれている。
けれど、二人は、笑っていた。
芳江が、なにか言ったのだろう。隼人が、それに、答えて笑っている。そういう、なにげない、一瞬の写真。誰が、撮ったものか。おそらく、孫の誰かが、たまたま、写したものだろう。
隼人は、その写真を、じっと、見つめた。
いつの夏だったろう。思い出せない。けれど、それは、たしかに、あった。この縁側で、芳江と並んで、笑いあった、なんでもない午後。特別なことは、なにも、なかった。ただ、二人で、簾ごしの光を眺めて、なにか、たわいのないことを、話していた。
そういう午後が、いくつも、いくつも、あったのだ。
芳江が、縁側で、繕いものをしている。隼人が、そのわきで、新聞を読んでいる。庭の百日紅に、蝉がとまって鳴いている。風鈴が、たまに、ちりんと鳴る。ことばは、ほとんど、交わさない。ただ、二人が、そこにいる。それだけの、午後。日が、ゆっくりと傾いて、簾の影が、畳のうえを、少しずつ、移っていく。芳江が、ふと、顔をあげて、「もう、こんな時分ですねえ」と、言う。隼人が、「ああ」と、答える。それだけ。それだけの、会話。
そういう午後を、隼人は、いくつ、過ごしたのだろう。数えきれない。あまりに、ありふれていて、ひとつひとつを、覚えてなど、いない。けれど、いま思えば、それが、しあわせ、というものだったのだ。しあわせとは、覚えていられないほど、ありふれた午後の、その積みかさねのことだったのだ。
隼人は、いまになって、それが、どれほど、かけがえのないものだったかを、思う。特別な日ではなく。なんでもない、無数の午後。芳江が、そこにいた、無数の午後。あたりまえに、そこにあると思っていた、無数の午後。
失って、はじめて、わかる。人は、いつも、そうだ。手のなかにあるうちは、その重みが、わからない。手から、こぼれ落ちて、はじめて、それが、どんなに、あたたかいものだったかを、知る。けれど、そのときには、もう、拾いあげることは、できない。ただ、こうして、褪せた写真のうえに、その名残を、たどることしか。
その一枚の、空の隅に――
隼人は、また、あの蒼い光を、探した。
けれど、そこには、なかった。ただ、簾と、夏の空と、二人の老人だけが、写っていた。彗星は、いなかった。
隼人は、すこし、さびしいような、けれど、ほっとしたような、ふしぎな心もちがした。
彗星は、遠い日にだけ、現れる。若い日の、海辺にだけ。あるいは、眠れぬ夜の、路地の奥にだけ。けれど、この、老いた二人の午後には、彗星は、いらなかったのだ。特別なしるしなど、なくても。ただ、二人が、そこにいた。それだけで、じゅうぶんだった。
隼人は、アルバムを、そっと、とじた。
膝のうえには、片方だけの手袋が、まだ、のっていた。
隼人は、それを、手にとった。生成りの、うすい布。若い芳江の手の、かたちが、そこに残っている。
対の、もう片方は、どこへ、いったのだろう。芳江は、なぜ、片方だけを、捨てずに、とっておいたのだろう。
「片方だけでも、あるうちは」
芳江の声が、また、聞こえたような気がした。
片方だけでも、あるうちは――なにを、待っていたのか。いつか、もう片方が、見つかることを。あるいは、片方だけになっても、それを、捨てられないような、そういう気もちを。失われたものを、それでも、手放せない、そういう心を。
隼人は、いまなら、わかるような気がした。
芳江が、逝ってから、隼人自身が、片方だけの手袋になったのだ。対の、もう片方を、失って。それでも、生きている。片方だけで。誰かに、思い出されるあいだは。
夫婦というのは、ふしぎなものだ、と隼人は思う。五十年ちかく、ともに暮らすうちに、二人は、いつのまにか、対の手袋のように、なっていた。右と左。おなじかたちで、けれど、けっして、かさなりあわない。かたほうが、こわばっていれば、もうかたほうが、やわらかくなる。かたほうが、寒がっていれば、もうかたほうが、そっと、包む。どちらが欠けても、もう、手袋としては、はたらかない。ただの、布きれに、なってしまう。
けれど、と隼人は思う。ただの布きれに、なってしまっても。捨てられない。捨てられるものか。そこには、たしかに、あった、ぬくもりの、かたちが、残っているのだから。芳江が、片方だけの手袋を、とっておいたように。隼人も、片方だけになった、この身を、まだ、抱えて、生きている。もう、対には、ならないと知りながら。それでも、あるうちは。あるうちは――。
隼人は、その手袋を、胸のポケットに、そっと、しまった。
これからは、これを、持っていよう。芳江の、手の、かたち。片方だけの、けれど、たしかに、そこにあった、ぬくもりのかたち。
五
隼人は、ゆっくりと、立ちあがった。
膝が、ぎしりと鳴った。長いあいだ、座っていたので、足が、しびれていた。柱に手をついて、しびれが、ひくのを、待つ。
障子をあけると、縁側の、むこうに、庭が見えた。
夏の午後の、庭。芳江が、丹精した、小さな庭。もう、隼人には、手入れがゆきとどかず、雑草も、いくらか、生えている。けれど、芳江の植えた、百日紅が、いまを盛りと、紅い花を、咲かせていた。
その花のうえに、午後の光が、たっぷりと、そそいでいた。
隼人は、縁側に、腰をおろした。あの写真の、あの場所に。すぐ隣に、芳江が、いるような気が、した。真っ白な髪の、芳江が。なにか、たわいのないことを、言おうとしている、芳江が。
けれど、そこには、もう、誰も、いなかった。
隼人は、それでも、いい、と思った。
いなくても。姿が、なくても。芳江は、ここに、いる。隼人が、思い出すかぎり。この、アルバムの、一枚一枚に。この庭の、百日紅に。この縁側の、光のなかに。
風が、ひとつ、吹いた。
簾が、かたりと鳴った。百日紅の花が、ふたつ、みっつ、散った。庭のすみで、蝉が、ひとしきり鳴いて、また、やんだ。
隼人は、目を、とじた。
まぶたのうらに、いろいろな光が、よぎった。写真館の閃光。真夏の海の、まぶしさ。桜の、白い花びら。台所の、青いマッチの炎。そして、遠い日の、真昼の空を、しずかに横切った、あの蒼い彗星。
それらは、みな、混ざりあって、ひとつの、あたたかな光に、なった。
眠れ、眠れ。
どこからか、また、子守唄が、聞こえてきた。芳江の、低い、やさしい声で。眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。
隼人は、その声に、身をゆだねた。
昼下がりの、まどろみのなかで、時間は、もう、過去も現在も、なかった。若い隼人も、老いた隼人も、生きている芳江も、逝った芳江も、みな、同じ午後の光のなかに、いた。海鳴りと、桜と、鍋の湯気と、百日紅の花が、ひとつの、やわらかな空間に、かさなりあっていた。
それは、さびしい、まどろみでは、なかった。
むしろ、しずかな、みちたりた、まどろみだった。失われたものは、たしかに、失われた。けれど、失われたものは、なくなったのでは、ない。ただ、あの古本屋の、棚のどこかに、しまわれただけなのだ。いつか、誰かが、また、頁をひらくまで。
柱時計が、三つ、鳴った。
三時だった。
隼人は、縁側で、うつらうつらと、まどろんでいた。膝のうえには、とじたアルバム。胸のポケットには、片方だけの手袋。ちいさな、青いマッチ箱は、アルバムの頁のあいだで、また、静かに、次にひらかれる日を、待っていた。
午後のひかりは、いつのまにか、縁側のうえまで、のびてきていた。蜜のような、金色の光が、まどろむ老人の、丸まった背を、そっと、つつんでいた。
その背は、しあわせそうだった。
散った百日紅の花びらが、一枚、風にのって、縁側にあがり、隼人の、膝のうえの、アルバムの表紙に、ふわりと、とまった。まるで、誰かの、そっと置いた、手のように。
隼人は、それに、気づかなかった。ただ、ふかい、しずかな午睡のなかで、遠い蒼い星が海をわたっていくのを、ひとり、いつまでも、見送っていた。