月光書房
未の刻 ・ 昼下がり ・ 第 六 話

瓶の底のビー玉

麦倉 夏彦
少年の夏・ノスタルジー ・ 約25頁

あの夏の午後は、いくら歩いても終わりに着かなかった。日ざしが白く道を灼き、蝉の声が空気そのものを鳴らしていて、時間はまるで、水あめのようにゆっくりと糸を引いていた。

いまでも目をつむれば、あの午後の匂いがよみがえる。焼けたアスファルトと、乾いた草と、どこかの家の縁の下でぬくもった土の匂い。そのなかを、麦わら帽子のつばの影を顔に落として、僕はいつまでも歩いていた。行き先はあった。けれど、着かなくてよかった。着いてしまえば、その先へまた歩き出さなければならないから。あの頃の僕は、道の途中にいることが、いちばん幸せだった。

一

祖母の家は、町の外れの、田んぼに囲まれた古い平屋だった。

夏休みになると、僕は毎年そこへ預けられた。両親は共働きで、都会のマンションで留守番をさせておくよりはと、田舎の祖母のもとへ送り出されるのだった。上りの電車を二本乗り継いで、最後は一両きりのディーゼルカーに揺られる。窓の外がだんだん緑になっていって、田んぼが海のように広がりはじめると、僕は座席の上で膝を立てて、鼻先をガラスに押しつけた。

ディーゼルカーの床は、油と鉄の匂いがした。座席は青いビニール張りで、夏の陽に灼かれて熱く、半ズボンの脚の裏にべたりと貼りついた。窓は下半分しか開かなくて、そこから入ってくる風は生ぬるかったけれど、それでも僕は、その風に顔をさらすのが好きだった。風のなかに、稲の匂いと、川の匂いと、遠くの牛小屋の匂いが混じっていた。都会には決してない匂いだった。それを吸いこむと、ああ夏が来た、と体のどこかがわかるのだった。

無人の小さな駅で降りると、祖母が改札の外に立っていた。日傘をさして、白い割烹着のようなものを着て、いつも同じところに立っていた。

「よう来た、よう来た」

祖母はそう言って、僕の頭に手をのせた。その手は乾いていて、少しざらついていて、けれどあたたかかった。僕はその手のことを、いまでもよく覚えている。

祖母の家には、時計がひとつしかなかった。柱にかかった、振り子のある古い時計。それがボーン、ボーンと時を打つのだけれど、いつも実際の時刻より少し遅れていたし、祖母もそれを直そうとはしなかった。だから僕は、その家にいるあいだ、正しい時間というものをほとんど忘れて過ごした。腹が減ったら昼になり、蝉が鳴きやんだら夕方になり、蚊が出てきたら夜になった。それでじゅうぶんだった。

その夏、僕は十歳だった。

祖母の家は、いつも薄暗くて、ひんやりとしていた。分厚い茅葺きの屋根と、深い軒とが、夏の陽ざしをさえぎっていた。土間には大きな水がめがあって、そのそばはいつも湿った石の匂いがした。奥の座敷には、色あせた掛け軸のかかった床の間があって、そこには決まって、季節の花が一輪、無造作に活けてあった。仏壇には、僕の顔も知らない祖父の写真があった。祖父は、僕が生まれる前に亡くなっていた。祖母は毎朝、その仏壇に手を合わせ、小さな鈴を、ちん、と鳴らした。その音が、家じゅうに、しずかに広がっていった。

夜、僕は祖母と並んで、蚊帳のなかで眠った。祖母は、僕の背中を、とん、とん、と、ゆっくり叩いてくれた。その手のリズムに合わせて、祖母は低い声で、あの子守唄を口ずさんだ。眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。その旋律を聞いていると、僕は、まぶたが自然と重くなった。蚊帳の外で、蚊が、ぷうんと鳴いていた。遠くで、蛙が鳴いていた。それらの音が、だんだん遠くなっていって、僕は、いつのまにか眠っていた。

朝、祖母は僕より早く起きて、畑に出ていた。目を覚ますと、家じゅうに味噌汁の匂いが漂っていて、縁側の障子が細くあいて、そこから白い光が斜めに射しこんでいた。畳のうえに、光の帯がまっすぐ伸びていて、そのなかを埃がきらきらと舞っていた。僕はしばらく、寝ころんだまま、その埃が浮いたり沈んだりするのを見ていた。ひとつぶひとつぶが、まるで小さな星のようだった。

「起きたんか」

台所から祖母の声がした。

僕は返事のかわりに、大きくのびをした。畳がひんやりとしていて、頬をつけると、井草の匂いがした。

その日も、暑くなるはずだった。まだ朝なのに、もう蝉が鳴きはじめていた。

二

朝ごはんのあと、僕は縁側で麦わら帽子をかぶった。

その帽子は、去年の夏、祖母が町の店で買ってくれたものだった。少しつばがへたって、汗のあとで内側が茶色くなっていたけれど、それが僕は気に入っていた。かぶると、去年の夏のことも一緒によみがえるような気がした。

「どこ行くんな」

「基地」

僕はそれだけ言って、サンダルをつっかけた。

祖母は笑って、「気ぃつけてな」と言った。それから、「これ、持っていき」と、水筒を差し出した。麦茶が入っていた。冷たくて、外側にびっしりと水滴がついていた。

家を出ると、日ざしが一気に僕を包んだ。白い光が頭の上から降ってきて、地面がじりじりと足の裏を焼いた。田んぼの上を、熱でゆらいだ空気がのぼっていた。稲はまだ青くて、風が渡ると、いっせいに同じ方向へ傾いた。

僕には、その夏の相棒がいた。

タカシといった。祖母の家から、あぜ道を五分ほど行った先の農家の子で、僕が夏に来るたびに、どこからともなく現れた。同い年で、僕より背が低くて、いつも日に焼けて真っ黒だった。前歯が一本欠けていて、笑うとそこから風が漏れるみたいな音がした。どこで欠けたのかと聞くと、「木から落ちた」と、まるで自慢するみたいに言った。タカシは、なんでも知っていた。どの木にどんな虫がいるか、どの淵にどんな魚がいるか、どの草を噛むと甘いか。僕が都会から持ってくる知識――テレビの話や、ゲームの話や、遠い外国の話――に、タカシは目を輝かせて聞き入ったけれど、こと夏の野山のことになると、僕はまるで、赤ん坊のようにタカシに教わるばかりだった。

タカシには、名字があったはずだけれど、僕はそれを一度も呼んだことがなかった。ただ「タカシ」で、それでよかった。彼も僕を、下の名前で呼んだ。夏のあいだだけの、名字のいらない友達。田んぼの向こうから、「おーい」と呼べば、必ずどこかから「おーう」と返ってくる、そういう友達だった。

その日も、村の外れの大きな楠のところまで行くと、タカシがすでに待っていた。

「おそいわ」

「起きたばっかや」

「もう昼になるで」

まだ昼ではなかった。けれど僕たちは、そういう時間の言い方をよくした。もう昼になる、まだ昼や、昼過ぎたで――僕たちにとって、一日は「昼」を中心に回っていた。朝はまだ本番ではなく、夕方はもう終わりの気配で、いちばん濃くて、いちばん長いのが、昼だった。

僕たちの秘密基地は、その楠のさらに奥、使われなくなった水車小屋の裏手にあった。

川の流れが変わったせいで、水車はもう回らなくなっていた。半分崩れかけた小屋の裏に、雑木が生い茂っていて、そのなかに、誰も知らない空き地があった。ほんとうは誰かの土地だったのかもしれないけれど、僕たちはそこを自分たちの国だと思っていた。

タカシと僕とで、二年がかりでつくった基地だった。倒れた木を組んで壁にして、拾ってきたトタン板を屋根にのせて、地面には板を敷いた。入口には、どこかで拾ってきた古いのれんをかけた。中に入ると、外の白い光が嘘のように、ひんやりと薄暗かった。木の葉のあいだから射しこむ光が、床の上でちらちらと揺れていた。

基地のなかには、僕たちの宝物が置いてあった。錆びた空き缶に入れた、きれいな石ころ。鳥の羽根。蝉の抜け殻をいくつも刺した木の枝。誰かが捨てた、文字盤の割れた腕時計。ビー玉。めんこ。それから、拾ってきた本が一冊――表紙のとれた、ぼろぼろの冒険小説で、僕たちはそれを、雨の日に交代で読んだ。ページのところどころが水でふやけて、字が読めなくなっていたけれど、読めないところは、僕たちが勝手に話をつくって埋めた。だから、その本の物語は、読むたびに少しずつ違った。それが、僕たちには面白かった。

基地は、僕たちだけの国だった。大人は誰も来なかった。ここでは、宿題のことも、親のことも、来年のことも、何も考えなくてよかった。ただ、いまだけがあった。蝉の声と、木漏れ日と、ふたりの少年と、いまという、終わらない時間だけが。

「暑いのう」

タカシが、板の上に大の字になって言った。

「暑いのう」

僕もその横に寝ころんだ。

僕たちは、しばらく何もしなかった。ただ寝ころんで、天井のトタン板の隙間から見える空を見ていた。蝉が鳴いていた。近くの木でも、遠くの木でも鳴いていて、その声が幾重にも重なって、まるで空気が振動しているみたいだった。目をつむると、その振動が体の中まで入ってきて、自分の骨が鳴っているような気がした。

「なあ」とタカシが言った。

「なんや」

「この夏、終わったらどうなるんやろ」

僕は少し考えた。「終わったら、僕は帰る。都会に」

「ほんで、また来年来るんか」

「来る」

「約束か」

「約束や」

僕たちは、指切りをした。基地の薄暗がりのなかで、小さな指を絡めて、げんまんげんまん、と歌った。タカシの指は、僕の指より節くれだっていて、少しべたついていた。

その約束を、僕たちは何度も交わした。その夏、たぶん十回は交わしたと思う。げんまんげんまん、と歌うたびに、来年もこの基地で会えるのだと、僕は本気で信じていた。

三

昼になると、僕たちはいったん基地を出て、駄菓子屋へ向かった。

村に一軒だけある店で、「よろずや」という看板がかかっていたけれど、みんなは「ばあちゃんの店」と呼んでいた。店番のおばあさんが、いつも店先の椅子に座って、団扇であおいでいた。タカシの家の遠い親戚だとかで、タカシが顔を出すと、おばあさんはいつも「おや、来たかい」と言った。

店の中は薄暗くて、蚊取り線香の匂いがした。天井には裸電球がぶら下がっていて、その光が、駄菓子の並んだ棚を照らしていた。棚には、いろんなものがあった。麩菓子、きなこ棒、酢だこさきいか、ラムネ、当たりつきのガム。僕たちは、祖母や親からもらったわずかな小遣いを握りしめて、その前で長いこと悩んだ。

「これにするわ」

タカシが選んだのは、たいてい、当たりつきのものだった。当たれば、もう一本もらえる。タカシは博打が好きだった。僕は臆病だったから、確実に食べられるものを選んだ。麩菓子とか、きなこ棒とか。

店の奥には、くじ引きの箱があった。一回十円で、糸を引くと、景品が当たる。たいていは、小さな飴玉ひとつだったけれど、いちばん奥の棚には、金色に光る、大きなおもちゃの宝箱が飾ってあった。一等の景品だった。僕たちは、その宝箱を、いつか当てるのだと言っていた。けれど、一度も当たったことはなかった。おばあさんは、「あれはなあ、もう十年も、そこに飾ってあるんよ」と笑った。十年、誰も当てられなかった宝箱。それはもう、当たるための景品ではなく、ただの、店の守り神のようなものだった。

冷蔵ケースには、瓶のラムネと、氷菓が入っていた。おばあさんが、ぎいと音を立てて蓋をあけると、白い冷気がふわりと立ちのぼった。その冷気に手を突っこむのが、たまらなく気持ちよかった。夏の昼下がりの、うだるような暑さのなかで、その一瞬の冷たさは、まるで魔法のように思えた。僕は、いつまでもそこに手を入れていたくて、おばあさんに、「早う閉めるで、冷気が逃げるやろ」と叱られた。

僕たちはラムネを一本ずつ買って、店先の縁台に座って飲んだ。ビー玉を押しこむと、しゅわっと音がして、泡があふれた。冷たい炭酸が喉を通ると、体じゅうの熱が一瞬だけ引いた。

「あー、生き返るわ」

タカシが、そう言って足をぶらぶらさせた。

僕は、瓶の底のビー玉を、光にかざして見た。ラムネの瓶に閉じこめられたビー玉。あれをどうやって取り出すのか、僕たちはいつも議論した。瓶を割るしかないのか、それとも何か秘密の方法があるのか。結局、答えは出なかった。ビー玉は、いつまでも瓶の底で、青く光っていた。

いま思えば、あの午後そのものが、瓶の底のビー玉のようなものだった。手を伸ばせば見える。けれど、決して取り出せない。ガラスの向こうで、いつまでも青く光っている。

四

午後になると、日ざしはますます強くなった。

けれど、不思議なもので、いちばん暑い時間ほど、僕たちは動かなくなった。基地に戻って、また寝ころんだ。じっとしているのがいちばんだった。蝉の声が、遠くなったり近くなったりした。

そのうち、僕はうとうとした。

半分眠っていて、半分起きていた。蝉の声が、子守唄のように聞こえた。そういえば、祖母がときどき口ずさむ歌があった。「眠れ、眠れ、星が海をわたるまで」――そんな歌だった。どこの子守唄だか知らない。祖母は、僕が小さい頃、膝の上でその歌を歌ってくれたのだという。僕は覚えていないけれど、体のどこかがその旋律を覚えていて、うとうとするたびに、それが浮かんでくるのだった。

眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。

僕はまどろみのなかで、その歌を聞いていた。誰が歌っているのだろう。祖母だろうか。それとも、蝉だろうか。それとも、この夏そのものが、僕に歌っているのだろうか。

眠りと目覚めの境で、時間はぐにゃりとゆがんだ。ついさっきラムネを飲んだのが、遠い昔のことのように感じた。かと思うと、去年の夏が、つい昨日のことのように近く感じた。過去と現在が、水あめのなかで溶けあって、どちらがどちらだかわからなくなった。

「なあ」

タカシの声で、僕は目をあけた。

「なんや」

「空、見てみ」

僕は寝ころんだまま、トタン板の隙間から空を見た。

昼の空だった。白っぽく、まぶしく、雲ひとつなかった。けれど、その青のいちばん深いところに、僕は一瞬、蒼い光の筋を見た気がした。星のような、けれど星よりも長く尾を引いた、細い蒼い光。昼の空に、そんなものが見えるはずがなかった。それでも、たしかに見えたのだ。まどろみの名残のなかで、その蒼い光は、空をすうっと横切って、消えた。

「なんや、あれ」と僕は言った。

「彗星や」とタカシが言った。

「昼に彗星なんか見えるかい」

「見えるときは見えるんや。ミラ彗星ゆうねん。うちのじいちゃんが言うとった。百年に一ぺんだけ、昼でも見えることがあるって。見たもんは、しあわせになるって」

僕は、もう一度空を見た。けれど、もうそこには白い光しかなかった。蒼い光の筋は、消えていた。ほんとうに見たのか、それとも、まどろみが見せた夢だったのか、僕にはわからなかった。

けれど、いまでもあの蒼い光のことを、僕は忘れられない。あれが夢だったにしても、僕はたしかに、あの午後、昼の空を横切る蒼い星を見たのだ。それだけは、確かなことのように思える。まどろみのなかで見たものだからこそ、かえって確かなのかもしれない。

「見たな」とタカシが言った。

「見た」と僕は答えた。

「ほな、しあわせになるな」

「なるな」

僕たちは、少し笑った。それから、また寝ころんで、空を見ていた。蝉が鳴いていた。時間は、また、水あめのようにゆっくりと糸を引いていた。

五

その夏、僕たちはいろんなことをした。

川で魚を捕った。タカシが素手でつかまえるのを、僕は感心して見ていた。タカシは、川の石の下に、そっと手を差し入れて、じっと待って、いきなり掴む。すると、手のなかで、銀色の小魚が跳ねている。僕も真似をしたけれど、いつも逃げられた。「気配を消すんや」とタカシは言った。「川と、おんなじになるんや」。僕には、その意味がよくわからなかったけれど、タカシがそう言うと、なんだかそういうものかと思えた。捕れた小魚を、バケツに入れて、基地の隅に置いた。次の日には、たいてい死んでいた。僕たちはそれを、基地の裏に埋めて、木の枝で小さな墓を立てた。手を合わせると、タカシは決まって、「南無阿弥陀仏」と、祖母がやるように唱えた。

蝉を捕った。虫取り網を持って、木から木へと歩きまわった。アブラゼミは、いくらでも捕れた。けれど、僕たちが狙っていたのは、クマゼミだった。クマゼミは、高いところにいて、警戒心が強くて、なかなか捕れなかった。ある日、タカシが、とうとう一匹、大きなクマゼミを捕った。手のなかで、それは、ジジジ、と激しく鳴いて、羽をばたつかせた。僕たちは、しばらくそれを、代わるがわる手に持って、その重みと、力強さを味わった。それから、どちらからともなく、「逃がそか」と言って、空へ放した。クマゼミは、まっすぐ、夏の空へ飛んでいった。それを見送りながら、なぜだか僕たちは、少し誇らしいような気持ちになった。

夜には、庭で花火をした。祖母が縁側に座って、それを見ていた。祖母は、月光堂という店で買ったのだという、青いマッチ箱を持っていた。藍色の紙に、三日月がひとつ刻まれた、小さなマッチ箱。祖母はそれを、大事そうに使った。しゅっと擦ると、小さな火が灯って、暗闇のなかに、祖母の皺だらけの手と、静かな笑顔を、ほんの一瞬、照らし出した。その火で、僕たちはろうそくに火をつけ、花火に火を移した。手持ち花火の火が、パチパチと音を立てて、火花を散らした。線香花火をするときは、みんな黙った。最後の玉が、ぽとりと落ちる瞬間を、息をつめて見守った。落ちると、あーあ、と声が漏れた。

僕は、その青いマッチ箱が、なぜだか気に入っていた。「ばあちゃん、それどこで買うたん」と聞くと、祖母は、「月光堂ゆう店やで。あんたは知らんやろ。夜にしか開いとらん、ふしぎな店や」と言って、笑った。僕は、その店のことを、想像した。夜にしか開かない店。三日月の刻まれたマッチ。それは、まるでおとぎ話のなかの店のようだった。祖母は、そのマッチ箱を、いつも割烹着のポケットに入れていた。だから祖母のそばには、いつも、かすかに硫黄の匂いがした。その匂いを、僕はいまも、祖母の匂いとして覚えている。

雨の日には、基地の屋根のトタンを、雨粒が叩いた。その音を、僕たちは寝ころんで聞いていた。雨は、基地の隙間から少し漏れて、床の板を濡らした。それでも僕たちは、外へ出ようとしなかった。雨の日の基地には、雨の日の基地のよさがあった。トタンを叩く雨の音は、はじめはぱらぱらと、やがてざあざあと、まるで音の壁のように僕たちを包んだ。その音のなかにいると、世界にはこの基地しかなくて、外にはもう何もないような、ふしぎな安心があった。僕たちは、あの水でふやけた冒険小説を、交代で声に出して読んだ。読めないページに来ると、「ここはな」と言って、勝手に話をつくった。竜が出てきたり、宝の島が出てきたり、話はどんどん脱線した。雨がやむ頃には、主人公は、はじめとはまるで別の場所にいた。それでも、なぜだか話は、いつも同じ場所に帰ってきた。「そして、二人は、家へ帰りましたとさ」。タカシは、どんな話も、決まってその一文で締めくくった。家へ帰る。それが、タカシにとっての、いちばんの結末だった。

ある日、タカシが、片方だけの軍手を持ってきた。

「これ、やるわ」

「なんや、片っぽだけか」

「片っぽしかないんや。もう片っぽ、どっかで失くしてもうた」

灰色の、ごわごわした軍手だった。指先が少しほつれていた。僕は、それをはめてみた。大人用だったから、僕の手には大きすぎて、ぶかぶかだった。

「なんに使うんや、こんなん」

「基地の道具や。何か持つときとかに、あったら便利やろ」

たしかに、便利だった。とげのある木を持つときとか、熱くなったトタンを触るときとか、片方だけの軍手は、意外と役に立った。僕たちは、それを交代ではめた。左手にしかはめられなかったから、右手はいつも素手だった。

僕は、その軍手が気に入った。片方しかないというのが、かえってよかった。世界にひとつだけの、僕たちの基地の道具。もう片方は、どこかで失くしてしまった。けれど、そのどこかで失くした片方も、いつかどこかで、誰かの役に立っているかもしれない。そんなことを、僕は考えた。

夏の終わりに、僕はその軍手を、都会へ持って帰った。ずっと持っていた。片方だけの、灰色の軍手を。

ある昼下がり、僕たちは、大きな入道雲を見た。

基地の裏の空き地に寝ころんで、空を見上げていると、田んぼの向こうの山の上に、真っ白な雲が、むくむくと湧き上がっていた。見ているうちに、それはどんどん大きくなって、天まで届くかと思うほどに、そびえ立った。青い空に、白い雲。そのあまりのまぶしさに、僕は目を細めた。

「あの雲の上に、なにがあるんやろな」とタカシが言った。

「なにも、ないやろ」と僕は言った。「ただの水や。雲は、水でできとるんや」

「ちがうわ」とタカシは言った。「あの上には、な、天国があるんや。死んだ人が、みんなおるんや。おれのじいちゃんも、おまえのじいちゃんも、あの上におるんや」

僕は、その言葉を、笑わなかった。ただ、その白い雲を、じっと見上げた。あの上に、会ったことのない祖父がいるのだろうか。あの雲の、まぶしい白さの向こうに。もしそうなら、それは、悪くないことのように思えた。

雲は、やがて、かたちを変えていった。竜のようになり、船のようになり、大きな手のようになった。僕たちは、それを見ながら、いろんなことを話した。大きくなったら何になるか。タカシは、「魚捕りになる」と言った。魚捕りという職業があるのかどうか、僕にはわからなかったけれど、タカシは本気だった。僕は、何になりたいか、うまく言えなかった。ただ、「毎年、夏にはここに来たい」と言った。「大人になっても、ずっと」。

「ええな」とタカシは言った。「大人になっても、夏には、ここで会おうな」

「会おう」

僕たちは、雲を見上げたまま、また、指切りをした。

けれど、いま思えば――大人になっても夏にはここで会おうという、あの約束が、いちばん、果たされなかった約束だった。

六

八月も半ばを過ぎると、夕方の空気に、かすかに秋の匂いが混じりはじめた。

まだじゅうぶんに暑かったけれど、蝉の声に、少しだけ寂しさが混じるようになった。ひぐらしが鳴きはじめると、僕はなんだか胸のあたりが締めつけられるような気持ちになった。かなかなかな、という声が、夕暮れの田んぼの上を渡っていくと、この夏が終わりに近づいていることを、いやでも思い知らされた。

「もうすぐ帰るんか」

ある夕方、基地で、タカシが言った。

「あと一週間くらい」

「そうか」

タカシは、それきり黙った。僕も黙った。

僕たちは、基地の入口ののれんの隙間から、外を見ていた。夕日が、田んぼの向こうに沈もうとしていた。空が、赤とオレンジと紫に染まって、稲の穂が、逆光で黒く光っていた。トンボが、たくさん飛んでいた。

「なあ」とタカシが言った。「来年も来るんやろな」

「来る。約束したやろ」

「約束したな」

「げんまんもした」

「したした」

僕たちは、もう一度、指切りをした。夕暮れの光のなかで、小さな指を絡めて、げんまんげんまん、と歌った。その声が、なんだか少しだけ、震えていた。

いま思えば、あのとき、僕たちは、うっすらと知っていたのかもしれない。この夏が、二度と戻らないものだということを。子どもは、大人が思うよりずっと多くのことを、体のどこかで知っている。ただ、言葉にしないだけだ。言葉にしてしまえば、それがほんとうになってしまうから。

だから僕たちは、何度も約束を交わした。来年も来る、来年も会える、と。まるで、そう言えば言うほど、それがほんとうになるとでもいうように。

その夏の最後の日、僕は基地の板の上に、小さなものを埋めた。

ラムネの瓶の底の、ビー玉だった。飲み終えた瓶を割って、なかからビー玉を取り出したのだ。あれほど取り出せないと思っていたビー玉を、僕は最後の日に、思いきって取り出した。青く光る、小さなガラスの玉。それを、基地の板の下に埋めた。

「これ、宝物や」と僕は言った。「来年、掘り返そう」

「ええな」とタカシは言った。「来年な」

僕たちは、その場所に、木の枝で小さな印をつけた。

七

祖母の家を発つ朝、僕は駅まで、祖母に送られた。

祖母は、いつもの日傘をさして、僕の隣を歩いた。あぜ道を歩きながら、祖母はあまり喋らなかった。ただときどき、「また来年な」と言った。「うん」と僕は答えた。

無人駅のホームで、ディーゼルカーを待った。蝉が鳴いていた。もう夏の終わりの蝉だから、その声には、どこか力がなかった。

「ばあちゃん」

「なんや」

「昼に彗星が見えたら、しあわせになるんやって。ほんまか」

祖母は、少し笑った。「さあ、どうやろな。でも、見えたんなら、ええことがあるんとちゃうか」

「見えたんや。この夏、基地で」

「そうか。ほな、ええことがあるな」

ディーゼルカーが来た。僕は乗りこんで、窓から祖母に手を振った。祖母も手を振った。日傘の影のなかで、祖母が笑っていた。その笑顔が、だんだん小さくなって、田んぼの緑のなかに消えた。

僕は座席にもたれて、窓の外を見た。田んぼが、後ろへ後ろへと流れていった。緑の海が、だんだん遠ざかっていった。

麦わら帽子を膝の上に置いて、僕はその夏のことを思い返した。基地のこと、ラムネのこと、片方だけの軍手のこと、そして、昼の空を横切った蒼い星のこと。あれは、ほんとうに見たのだろうか。それとも、まどろみの夢だったのだろうか。いまとなっては、どちらでもいいような気がした。夢でも、まことでも、あの蒼い光は、たしかに僕のなかにあった。

電車が長いトンネルに入って、窓の外が真っ暗になった。ガラスに、麦わら帽子をかぶった僕の顔が映った。その顔を見ているうちに、僕はまた、うとうとした。

まどろみのなかで、僕はもう一度、あの午後にいた。基地の薄暗がりで、タカシと寝ころんで、空を見上げていた。蝉が鳴いていた。時間は、水あめのように、いつまでも糸を引いていた。終わらない午後。着かない道。取り出せないビー玉。げんまんげんまん、と歌う声。

眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。

トンネルを抜けると、外はまだ明るかった。僕は目を覚ました。窓の外は、もう見知らぬ町だった。夏は、後ろに残されていた。

八

翌年、僕は祖母の家へ行かなかった。

その冬、祖母が病気になったのだ。町の病院に入って、それきり家には戻らなかった。祖母の家は、しばらく空き家になり、やがて、親戚の誰かに売られた。僕が、あの田舎町へ行く理由は、なくなってしまった。

タカシとは、それきりになった。子どもだったから、手紙を書くという知恵もなかったし、電話番号も知らなかった。ただ、来年も会おうと約束しただけだった。げんまんまでしたのに。僕は、その約束を、果たせなかった。

いや、正確には、一度だけ、手紙を書こうとしたことがある。祖母が入院したと聞いた、あの冬。僕は、机に向かって、便箋を広げた。「タカシへ」と書いた。けれど、その先が、書けなかった。宛先を知らなかったのだ。ただ「田舎の、タカシ」しか、僕は知らなかった。名字も、住所も、何も。あぜ道を五分歩いた先の農家、としか、僕は知らなかった。それは、手紙の宛先には、なりようがなかった。僕は、便箋を、くしゃくしゃに丸めて、捨てた。名字のいらない友達というのは、つまり、二度と会えなくなったら、探しようのない友達ということでもあったのだ。あのとき、僕は、はじめてそのことに気づいた。そして、たまらなく、心細くなった。

基地は、どうなっただろう。埋めたビー玉は、どうなっただろう。誰かが掘り返しただろうか。それとも、いまも、あの板の下で、青く光っているだろうか。タカシは、あの夏のあと、ひとりで基地へ行っただろうか。のれんの隙間から、ひとりで夕日を見ただろうか。

僕は、それを知らない。知るすべもない。

大人になるにつれて、僕はあの夏のことを、だんだん思い出さなくなった。都会での暮らしは忙しくて、田舎の夏のことなど、思い出す暇もなかった。麦わら帽子は、いつのまにか失くしてしまった。片方だけの軍手も、引っ越しのどさくさで、どこかへ行ってしまった。

けれど、片方だけの軍手は、失くしたあとになって、ときどき、僕の夢に出てきた。灰色の、ごわごわした、指先のほつれた軍手。夢のなかで、僕はそれをはめて、基地の道具を握っていた。もう片方は、どこにあるのだろう。あの夏の、どこかにあるのだろうか。

九

先日、仕事で、あの町の近くを通った。

もう三十年以上も昔のことだ。僕は五十に近くなっていた。出張の帰り、乗り換えの都合で、たまたまあの町の駅で、一時間ほど時間ができた。

僕は、その一時間を、町を歩いて過ごすことにした。

駅は、すっかり変わっていた。無人駅ではなくなって、小さいながらも駅舎が建て替えられ、自動改札まであった。けれど、駅を出ると、そこには、あの頃と変わらない田んぼが広がっていた。稲は青くて、風が渡ると、いっせいに同じ方向へ傾いた。

ちょうど、昼下がりだった。

日ざしが白く道を灼いていた。蝉が鳴いていた。近くの木でも、遠くの木でも鳴いていて、その声が幾重にも重なって、空気そのものを鳴らしていた。その音を聞いたとたん、僕のなかで、何かがぐらりと揺れた。三十年の歳月が、一瞬でめくれあがった。

僕は、記憶をたどって、歩いた。

あぜ道は、舗装されていた。祖母の家があったあたりには、見知らぬ家が建っていた。駄菓子屋は、もうなかった。「よろずや」の看板も、団扇であおぐおばあさんも、蚊取り線香の匂いも、みんな消えていた。かわりに、自動販売機が一台、そこに立っていた。

けれど、僕の足は、自然と、あの方向へ向かっていた。楠のほうへ。水車小屋のほうへ。基地のほうへ。

楠は、まだあった。三十年前よりも、ずっと大きくなって、そこに立っていた。木陰に入ると、ひんやりとした。僕は、その幹に手をあてた。ざらついた樹皮が、手のひらに、祖母の手のことを思い出させた。

水車小屋は、跡形もなくなっていた。かわりに、雑木が生い茂っていた。僕は、その雑木のなかへ分け入った。汗が噴き出した。蜘蛛の巣が顔にかかった。それでも、僕は進んだ。あの空き地を、探した。

十

空き地は、あった。

三十年分の草に埋もれて、けれど、たしかに、そこにあった。倒れた木も、トタン板も、板の床も、みんな朽ちて、土に還りかけていた。基地は、ほとんど原形をとどめていなかった。それでも、僕には、ここがあの基地だと、すぐにわかった。木の葉のあいだから射しこむ光が、床のあったあたりで、ちらちらと揺れていた。あの頃と、まったく同じように。

僕は、そこにしゃがみこんだ。

しばらく、動けなかった。蝉が鳴いていた。汗が、顎からしたたり落ちた。僕は、朽ちた板の残骸を、そっと手でどけた。土が、湿っていた。

そして、僕は、掘った。

素手で、土を掘った。爪のあいだに土が入った。それでも、僕は掘りつづけた。あの日、印をつけたあたりを。ビー玉を埋めたあたりを。

どれくらい掘っただろう。指先が、何か硬いものにあたった。

僕は、それを、土のなかから、そっと取り出した。

ビー玉だった。

三十年間、土のなかで眠っていた、青いビー玉。表面には土がこびりついていたけれど、僕がそれを手のひらで拭うと、なかから、あの青い光が、よみがえった。木漏れ日にかざすと、それは、あの夏とまったく同じように、青く光った。

僕は、それを、長いこと、見ていた。

そのとき、僕は、はじめて泣いた。大人になってから、そんなふうに泣いたのは、はじめてだった。ビー玉を握りしめて、朽ちた基地の跡で、僕は、子どものように泣いた。蝉が鳴いていた。あの夏と、まったく同じように。

タカシは、どうしているだろう。あの前歯の欠けた、日に焼けた少年は、いま、どこで、何をしているだろう。彼も、五十近くになっているはずだ。彼は、この基地のことを、覚えているだろうか。埋めたビー玉のことを、覚えているだろうか。それとも、とっくに忘れて、大人になって、この町を出ていっただろうか。

僕には、それを知るすべがない。

けれど、ひとつだけ、確かなことがあった。この青いビー玉は、三十年間、ここで、僕を待っていたのだ。誰も掘り返さなかった。タカシも、掘り返さなかったのだろう。僕たちは、来年掘り返そうと約束して、その約束を、二人とも果たせなかった。けれど、ビー玉は、待っていた。ずっと、ずっと、青く光りながら、土のなかで待っていた。

十一

僕は、しゃがんだまま、空を見上げた。

基地の跡には、もう屋根はなかった。だから、空が、まっすぐに見えた。昼下がりの、白っぽい、まぶしい空。雲ひとつない、夏の空。

その青のいちばん深いところを、僕は、じっと見つめた。

見えるだろうか、と思った。あの蒼い星が。ミラ彗星が。百年に一度、昼でも見えるという、あの蒼い光の筋が。

けれど、そこには、白い光しかなかった。蒼い星は、見えなかった。

当たり前だ、と僕は思った。あれは、まどろみの夢だったのだ。子どもの頃の、午睡の見せた、まぼろしだったのだ。大人になった僕の目には、もう、あんなものは見えない。

僕は、目をつむった。

すると、まぶたの裏に、あの蒼い光が、よみがえった。昼の空を、すうっと横切る、細い蒼い光。まどろみのなかで見た、あの星。

そうだ。あれは、目で見るものではなかったのだ。まどろみのなかで、記憶のなかで、まぶたを閉じたその裏に、見るものだったのだ。だから、いまも、こうして目をつむれば、見える。三十年前のあの午後と、まったく同じように。蒼い光は、いまも、僕のなかの空を、横切っている。

眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。

どこからか、あの子守唄が聞こえた気がした。祖母の声だったろうか。それとも、蝉の声だったろうか。それとも、あの夏そのものが、いまも、僕に歌っているのだろうか。

僕は、ビー玉を、ハンカチに包んで、ポケットにしまった。それから、立ち上がって、朽ちた基地を、もう一度見わたした。

「またな」と、僕は、小さくつぶやいた。

誰にともなく。あの夏に。タカシに。祖母に。片方だけの軍手に。取り出せなかったはずのビー玉に。終わらないと思っていた、あの長い長い午後に。

十二

町を出る前、僕は、駅前の小さな路地を歩いた。

一時間の、残りの時間を、そこで潰そうと思ったのだ。路地は、細くて、両側に古い家が並んでいた。昼下がりの、気だるい静けさが、そこに沈んでいた。

その路地のいちばん奥に、一軒の店があった。

古い、木造の店だった。「月光書房」と、色あせた看板に書いてあった。古書店らしかった。窓の奥に、うずたかく積まれた本が見えた。けれど、扉には鍵がかかっていて、なかは薄暗く、人の気配はなかった。

奇妙なことに、その店のことを、僕は覚えていなかった。子どもの頃、この町を隅々まで歩きまわったはずなのに、こんな店があった記憶はなかった。ずっと昔からそこにあるようにも見えたし、たったいま、そこに現れたようにも見えた。

僕は、なんとなく、その店の窓を、のぞきこんだ。

薄暗い店内に、一冊の本が、卓の上に置かれていた。開かれたページに、栞のように、青いマッチ箱が挟んであった。藍色の、三日月を刻んだ、小さなマッチ箱。それが、窓から射しこむわずかな光を受けて、卓の隅で、ひっそりと光っていた。

なぜだか、僕は、そのマッチ箱から、目が離せなかった。あの青。ビー玉の青。ミラ彗星の青。あの夏の、いちばん深いところにあった、あの蒼い色。

僕は、扉を叩いてみようかと思った。けれど、やめた。なかには、誰もいなかったし、それに――なぜだか、この店は、そういう店ではないような気がしたのだ。訪ねてはいけない店。ただ、通りすがりに、一度だけ、のぞきこむ店。

僕は、店に背を向けて、駅へ向かって歩き出した。

蝉が鳴いていた。日ざしが、白く、道を灼いていた。ポケットのなかで、青いビー玉が、僕の足取りに合わせて、かすかに揺れていた。

十三

帰りの電車に乗って、僕は、窓の外を見た。

田んぼが、後ろへ後ろへと流れていった。緑の海が、だんだん遠ざかっていった。あの夏と、まったく同じように。ただ、あのときは膝の上に麦わら帽子があったけれど、いまはなかった。かわりに、ポケットのなかに、青いビー玉があった。

僕は、それを取り出して、窓の光にかざした。

青いビー玉は、夕方の光を受けて、青く光った。そのなかに、三十年前の夏が、閉じこめられていた。基地の薄暗がりが。ラムネの炭酸が。片方だけの軍手が。げんまんげんまん、と歌う声が。そして、昼の空を横切った、蒼い星が。ぜんぶ、そのなかに、閉じこめられていた。取り出せないと思っていたものが、いまは、僕の手のなかにあった。

けれど、と僕は思った。

ビー玉は、手に入った。けれど、あの夏そのものは、戻ってこない。あの終わらないと思えた午後は、二度と戻らない。着かないと思えた道の、その途中には、もう立てない。タカシにも、祖母にも、もう会えない。麦わら帽子も、片方の軍手も、どこかへ行ってしまった。

大人になるというのは、たぶん、そういうことなのだ。あの夏が、二度と戻らないものだったと、知ること。終わらないと思えたものに、終わりがあったと、知ること。

でも、と僕は、ビー玉を握りしめて、思った。

戻らないからこそ、あの午後は、いまも僕のなかで、青く光りつづけているのだ。もし、あの夏がいつまでも続いていたら、それはただの、ありふれた日々になっていただろう。終わったからこそ、失くしたからこそ、あの午後は、瓶の底のビー玉のように、いつまでも青く、まぶしく、僕のなかで光っている。

手を伸ばせば見える。けれど、決して取り出せない。ガラスの向こうで、いつまでも青く光っている。それでいいのだと、いまの僕には、わかる。あの夏は、失われたのではない。ただ、手の届かないところで、永遠になったのだ。

僕は、目をつむった。

電車が、長いトンネルに入った。窓の外が、真っ暗になった。ガラスに、僕の顔が映った。もう、麦わら帽子はかぶっていない。かわりに、五十に近い、疲れた大人の顔が、そこにあった。

けれど、その顔を見ているうちに、僕はまた、うとうとした。まどろみのなかで、僕はもう一度、あの午後にいた。基地の薄暗がりで、タカシと寝ころんで、空を見上げていた。蝉が鳴いていた。時間は、水あめのように、いつまでも糸を引いていた。

「なあ」とタカシが言った。「空、見てみ」

僕は、空を見た。昼の空の、いちばん深いところを、蒼い光の筋が、すうっと横切っていった。

「見たな」とタカシが言った。

「見た」と僕は答えた。

「ほな、しあわせになるな」

「なるな」

眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。

トンネルを抜けても、僕は、目を覚まさなかった。あの午後の、終わらないまどろみのなかに、僕は、もう少しだけ、いさせてもらうことにした。

いくら歩いても終わりに着かなかった、あの夏の午後の道を、僕はいまも、ポケットのなかの青い光を握りしめて、麦わら帽子のつばの影を顔に落として、いつまでも、いつまでも、歩いている。

この物語にひそむ符牒

ほかの物語と、ひそかに分かち合っているもの:

  • ミラ彗星
  • 月光堂のマッチ
  • 子守唄
  • 月光書房

十二をつなぐ符牒について →

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