月光書房
未の刻 ・ 昼下がり ・ 第 七 話

二度、跳ね返る光

都築 珈奈
恋愛・回想 ・ 約25頁

珈琲がぬるくなる速さで、人は歳をとるのだと思う。

窓際の席に腰をおろして、もう二時間になる。ひとつめの珈琲はとうに冷え、うすい膜が表面に張っている。それを飲む気にもなれず、かといって新しいものを頼む勇気もなく、わたしはただ、その琥珀色の水面を見つめている。斜めに射し込む午後の光が、そこに一枚の金の板を浮かべている。板は少しずつ位置を変えていく。陽が傾いているのだ。わたしのいるこの席の、木の卓の縁を、光がゆっくりと横切っていく。それを見ているあいだにも、世界はまどろみのなかへ沈んでいくようだった。

来なかった。

そう認めてしまえば楽になるのかもしれない。けれど、認めることと、席を立つことのあいだには、まだ長い距離がある。わたしはその距離を、珈琲の膜の厚みで測っている。

店のなかは、しずかだ。ほかに客は、奥のほうにひとり、新聞をひろげたきり動かない老人がいるだけで、その人がいることさえ、ときどき忘れる。柱時計が、ぼんやりと時を刻んでいる。けれど、その針を見ても、時刻はうまく頭に入ってこない。まどろみのなかでは、数字は意味を失う。一時が二時になり、二時が三時になっても、光の傾きだけが、ゆるやかに変わっていく。時間は、数えるものではなく、色として、匂いとして、光の角度として、ただそこにあるものになる。

待つということは、時間のなかに落ちてしまうことだ、とわたしは思う。ふつうに生きているとき、人は時間の上を、水すましのように滑って進んでいく。けれど待っているとき、人はその表面を破って、時間そのもののなかへ、ゆっくりと沈んでいく。沈んでいくと、そこには、過ぎ去ったはずのものが、まだ溶けきらずに漂っている。声が、匂いが、指の感触が。わたしは今、そのなかを漂っている。冷めていく珈琲の底のほうで。

この喫茶店は、駅の裏手の、日の当たらない路地の奥にある。「琥珀」という名前を、わたしはずっと、店の名だと思わずに、この店そのものの色だと思っていた。壁は煙草の脂で飴色に灼け、天井の梁も、椅子の背も、卓の表面も、みんな同じ色をしている。何十年もかけて、時間が塗り重ねてきた色だ。

窓は西向きで、午後になると、通りをはさんだ向かいの、閉ざされた仕舞屋の白壁に一度あたった光が、やわらかく反射して入ってくる。直射ではない、二度目の光。角の取れた、こまやかな光。それがこの店の午後を、ずっとまどろみのなかに置いている。

マスターは老いた人で、いつからここに立っているのか、常連の誰も知らない。ネルの布で豆を漉すあいだ、彼はほとんど何も言わない。湯を細く落とすその手つきだけが、この店で唯一、規則正しく動いているものだった。彼は客が長居しても、けっして急かさない。それどころか、客がそこにいることに気づいてさえいないように見える。だからこの店では、待つということが、いくらでも許された。

わたしたちは、この店で出会った。

正確には、出会ったのではない。同じ窓際の、隣り合った席に、たまたま座っていた。それだけのことだった。

七年前の、やはり午後だった。

わたしは仕事の合間に、この路地に迷い込んだ。得意先をひとつ回ったあと、次の約束まで一時間ほど間があいて、どこかで時間をつぶそうとして、なぜかまっすぐな大通りではなく、細い脇道を選んだ。人はときどき、明るい道より暗い道を選ぶ。理由もなく。その日のわたしがそうだった。

暖簾でも看板でもない、ただ木の扉に「琥珀」と彫られた小さな板が掛かっているだけの店を、わたしは押した。中は暗く、目が慣れるまで少しかかった。慣れてくると、窓際に一人、先客がいるのがわかった。

その人は、窓の外を見ていた。

いや、見ているのではなかった。窓の外の何かを見ているというより、窓ガラスそのものを、そこに映る自分の輪郭を、ぼんやりと見ているようだった。手もとには、飲み終えたらしい珈琲茶碗がひとつ。指がその縁を、意味もなくなぞっていた。

わたしは、その人の隣の席に座った。ほかにも席は空いていたのに、なぜそこを選んだのか、今でもわからない。窓際がよかった、という以上の理由を、わたしは持たなかった。

しばらく、二人とも黙って窓の外を見ていた。向かいの白壁と、そこに滲む午後の光を。

「この光、」と、その人が不意に言った。わたしにともなく、ひとりごとのように。「二回、跳ね返ってきた光なんですって。だから、こんなにやわらかい」

わたしは、その言葉を、今でも一字一句おぼえている。

「二回、跳ね返って」わたしは繰り返した。

「ええ。向かいの壁に一度あたって、それからこの窓に入ってくる。だから、まっすぐな光じゃない。角が取れているの。ぶつかって、ぶつかって、やわらかくなった光」

その人は、わたしのほうを見なかった。ずっと窓を見ていた。横顔だけが、そのやわらかい光を受けていた。睫毛の影が頬に落ちていた。わたしはその影の長さを、なぜか呼吸を止めて見つめた。

「疲れたものほど、やさしくなるのかもしれませんね」と、わたしは言った。自分でも思いがけない言葉だった。

その人は、はじめてこちらを見た。そして、少しだけ笑った。目もとに、こまかい皺が寄った。

「そういう考え方、好きです」

それが、始まりだった。

マスターが、わたしの前に珈琲を置いた。いつのまに注文を取ったのか、おぼえていない。深く、こまかい泡の消えた、黒い水面。ひとくち飲むと、苦さのなかに、かすかな甘さがあった。焦げる寸前まで、じっと火にかけられた豆の甘さだった。わたしは、その味に驚いた。こんな珈琲を、それまで飲んだことがなかった。

「おいしいでしょう」と、その人は、わたしの顔を見て言った。まるで、わたしの驚きを、あらかじめ知っていたように。

「ええ」とわたしは答えた。「はじめて、こんな」

「わたしも、はじめてここへ来た日、そう思った。この珈琲のために、通うようになったの」その人は、また窓のほうへ目を戻した。「けれど、ほんとうは、珈琲のためじゃないのかもしれない。この光のために、来ているのかもしれない。二回跳ね返った、この光のために」

その日、わたしたちは、それ以上ほとんど話さなかった。次の約束の時刻が近づいて、わたしは席を立った。立ちぎわに、名前も、素性も、何も尋ねなかった。ただ、「また」と言った。「また、ここで」と。

その人は、うなずいた。「ええ。また、ここで」

外に出て、路地を歩きながら、わたしは何度も振り返りたい衝動をおさえた。振り返れば、この午後が、ただの偶然の一杯の珈琲に変わってしまう気がした。振り返らなければ、それは、何か始まりかけたものとして、まだ胸のなかに残る。わたしは、振り返らなかった。そして、その日一日、あのやわらかい光と、睫毛の影の長さと、二回跳ね返るという言葉を、頭のどこかで、ずっと転がしていた。

冷めた珈琲の膜を、わたしはスプーンの先でそっと突いてみる。膜は破れ、皺を寄せて縮む。まるで薄い皮膚のようだ。破れた下から、まだかすかに温かい層が現れて、また冷えていく。

こういう仕草を、あの人はよく見ていた。わたしが無意識にやる、こまかな仕草を。

「あなたは、待つのが下手」と、あの人はいつか言った。「待つあいだ、必ず何かをいじっている。マッチ箱とか、スプーンとか、砂糖の袋とか。手が、待てないのね」

そのとおりだった。わたしは待つことが下手だった。だから、こうして待っていることそのものが、わたしにとっては、ひとつの罰のようなものかもしれなかった。

もう一度、腕時計を見る。約束の時刻から、二時間と、少し。

三時に、と、あの人は言った。三時に、あの店で。

けれど、どの三時だったのか。わたしは急に自信がなくなる。あれは、いつのことだったろう。昨日、電話で聞いた声だったろうか。それとも、もっとずっと前の、ある日の約束だったろうか。記憶が、午後の光のなかで、少しずつ溶けていく。輪郭がにじむ。二度跳ね返った光のように、まっすぐでなくなっていく。

二人で会うようになるまでに、時間はかからなかった。

同じ店に通っていれば、また会う。当たり前のことだった。わたしたちは、示し合わせたわけでもないのに、午後の同じ時刻に、同じ店の、同じ窓際にいるようになった。はじめは偶然を装い、やがて偶然を装うことさえやめた。

あの人のことを、わたしはほとんど何も知らなかった。何をしている人なのか、どこに住んでいるのか、家族があるのかどうか。尋ねれば答えてくれただろうが、わたしは尋ねなかった。尋ねないことが、この関係の作法のように思えた。わたしたちは、この店の窓際でだけ会う二人だった。ここを出れば、それぞれ別の人生に帰っていく。その境界を、二人とも大切に守っていた。

だから、話すのはいつも、どうでもいいことばかりだった。

光のこと。雨のこと。マスターの淹れる珈琲の、日によって微妙にちがう味のこと。向かいの仕舞屋に、いつか誰かが住むだろうかということ。路地に迷い込んでくる猫のこと。そういう、留めておく必要のない話ばかりを、わたしたちは飽きもせず交わした。

「留めておかないから、いいんです」と、あの人は言った。「留めておこうとすると、重くなる。重くなると、続かない。軽いままだから、こうして、いつまでも続けられる」

わたしは、その考えに賛成した。賛成しながら、心のどこかで、少しずつ、その軽さが耐えがたくなっていくのを感じていた。人は、大切なものほど、留めておきたくなる。留めておこうとして、こわしてしまう。

それでも、あの季節のわたしたちは、まだ軽かった。

季節が、いくつか巡った。夏には、店の窓を開け放って、路地を通り抜けるぬるい風のなかで、二人ともほとんど何も話さず、ただ扇子で首すじをあおいでいた。汗ばんだガラスのコップに、麦茶の氷が、かたん、と崩れる音。その音のたびに、あの人は、少しだけ目を細めた。秋には、店の前の路地に、どこから来たのか、一枚だけ、真っ赤な楓の葉が落ちていて、あの人がそれを拾って、飲みかけの珈琲の受け皿に置いた。「迷子ね」と言って。冬には、窓が白く曇り、あの人はその曇りに、指で小さな三日月を描いた。描いてから、恥ずかしそうに、手のひらで消した。

わたしは、それらの、なんでもない午後の一つひとつを、宝物のように、こっそり数えていた。あの人は、留めておかないと言った。けれど、わたしはひそかに留めていた。あの人に気づかれないように、心の底のほうに、こまかい貝殻を拾うように、一つひとつ、しまいこんでいた。

あるとき、あの人が言った。「あなた、何を数えているの」

「え」

「ときどき、遠い目をするでしょう。何かを、数えているような目」

わたしは、答えられなかった。数えているのは、あなたとの午後だ、とは、言えなかった。言えば、それは重くなる。重くなれば、続かなくなる。

「星でも、数えているのかもしれません」と、わたしは、はぐらかした。「昼間の空の、見えない星を」

あの人は、笑った。「昼間にも、星はあるものね。見えないだけで」

「見えないだけで、あるんです」とわたしは言った。「たしかに、そこに」

その言葉が、なぜか、そのあと長いあいだ、二人のあいだの合言葉のようになった。見えないだけで、ある。昼間の星のように。留めていないふりをして、留めているもののように。

砂糖壺のかたわらに、青いマッチ箱が置いてある。

それはわたしのものではない。この店の備品でもない。誰かが置き忘れていったものが、いつからか、この窓際の卓の隅に、当たり前の顔をして居ついている。藍色の紙に、三日月の型押しがある。「月光堂」という、小さな文字。マッチ箱としては上等すぎる、どこか儀式めいた美しさのあるものだった。

わたしは、そのマッチ箱を手に取る。待つあいだ、手が待てないから。

藍色の紙は、指の脂で、角のところが、少し黒ずんでいる。七年のあいだ、何度、この箱を手に取ったことか。三日月の型押しを、親指の腹でなぞる。凹んだ月の輪郭が、指に、かすかな抵抗を返す。この小さな三日月を、あの人は、いつか、曇った窓ガラスに指で描いた。描いてから、恥ずかしそうに、手のひらで消した。あの三日月と、この三日月が、まどろみのなかで、ひとつに溶ける。

箱を振ると、なかで軸木がかすかに鳴る。まだ、いくらか残っている。わたしは引き出しをそっと開けて、赤い頭の並んだ軸木を見る。そのうちの一本を、なぜか、あの夜のことを思い出さずにはいられない。

あれは、彗星の見えた夜だった。

昼下がりの店で会うだけだったわたしたちが、たった一度、夜に会ったことがある。

「今夜、彗星が見えるんですって」と、あの人は、その日の午後、めずらしく身を乗り出して言った。「ミラ彗星。何十年かに一度、空を横切るの。今夜が、いちばんよく見える夜だそうです」

「見に行きますか」と、わたしは言った。

言ってから、自分の言葉に驚いた。それは、この関係の境界を越える言葉だった。昼の店を出て、夜に、外で会う。それは、留めておくことを意味した。重くなることを、続かなくなることを意味した。

あの人は、少しのあいだ黙っていた。窓の外の、傾いた光を見ていた。

「ええ」と、やがて言った。「見に行きましょう」

その声の低さを、わたしは今でもおぼえている。何かを覚悟したような、何かを手放したような、そういう声だった。

夜の海辺で、わたしたちは彗星を待った。

街の光の届かない、防波堤の突端。潮の匂いと、規則正しい波の音。空は、昼に見るのとは別の空だった。無数の星が、こまかい砂のように散っていた。

「あそこ」と、あの人が指さした。

低く、水平線の少し上に、それはあった。ほかの星とは、あきらかにちがっていた。蒼かった。青白いというのでもなく、深い蒼だった。そして、尾を引いていた。ながい、かすかな尾。凍りついた息のような。

「きれい」と、あの人はつぶやいた。声が、少し震えていた。

わたしたちは、防波堤のコンクリートに並んで腰をおろし、その蒼い星を見上げた。寒い夜だった。あの人は、片方の手袋をなくしたと言った。「片方だけ、どこかに落としてきてしまった」と。だから、片方だけ手袋をして、もう片方の手を、コートのポケットに入れていた。

波の音が、規則正しく、闇のなかから寄せては返した。遠くで、灯台の光が、ゆっくりと海面を撫でていた。それ以外に、光はなかった。街の灯りは、防波堤の付け根の、ずっと後ろのほうに、まばらに散っているだけだった。だから、空の星が、ふだんの何倍も濃く見えた。天の川さえ、うっすらと帯になって、頭の真上を横切っていた。

「こんなにたくさんの星、はじめて見た」と、あの人は言った。首を、ずっと後ろに反らして。「昼間の星も、ぜんぶ、ほんとうは、こうしてそこにあったのね。見えなかっただけで」

「見えないだけで、あるんです」とわたしは言った。二人の合言葉を。

あの人は、こちらを見て、少し笑った。暗くて、その顔はよく見えなかったけれど、笑ったのが、気配でわかった。

わたしは、そのポケットに入ったほうの手を、外に出させた。そして、自分の手で包んだ。あの人の手は、冷えきっていた。

「星が、海をわたっていくみたい」と、あの人が言った。

その蒼い光は、水平線のうえを、ほんとうに、ゆっくりと動いているように見えた。むろん、そんなに速く動くはずはない。彗星は、何日もかけて空を横切る。一夜のうちに、目に見えるほど動くものではない。けれど、その夜のわたしたちには、たしかに、それは動いて見えた。海のうえを、蒼い舟のように、こちらの岸から、向こうの岸へ。まどろみのなかの舟のように。

「あの星が、向こうの岸に着いたら、」と、あの人は言った。「わたしたちの、この夜も、終わるのね」

「終わらせなければ、いいんです」とわたしは言った。「星が、着かなければ」

「星は、着くわ。かならず。どんなに祈っても」あの人は、蒼い光を見つめたまま言った。「だから、きれいなの。着いてしまうから。二度と、こんなふうには、めぐってこないから」

そして、小さな声で、歌うともつかず、口ずさんだ。

眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。

「子守唄?」とわたしは訊いた。

「母が、よく歌ってくれた。眠れ、眠れ、星が海をわたるまで――って。子どものころ、この歌を聞くと、いつのまにか眠ってしまった。星が海をわたるまで、って、ずいぶん長いことのように聞こえて。それだけの時間、そばにいてくれるんだって、安心して」

わたしは、あの人の手を、少し強く握った。

「星が海をわたるまで、そばにいます」と、わたしは言った。

言ってしまってから、それがどんなに軽率な言葉か、わかった。彗星は、あと数刻で沈む。星は、じきに海をわたってしまう。それだけの時間の約束を、わたしは口にしたのだ。あるいは、そういう意味ではないと、心のどこかで思いたかったのかもしれない。もっと長い、もっと重い約束を。

あの人は、答えなかった。ただ、握られた手を、握り返した。それが答えだった。

そのとき、あの人が、コートのポケットからマッチ箱を取り出した。

青いマッチ箱だった。月光堂の。今、この店の卓の隅に置いてあるものと、同じもの。

「煙草?」とわたしは訊いた。あの人が煙草を吸うのを、見たことがなかった。

「ちがう」と、あの人は笑った。「火が見たいの。こんなに寒いと、火が見たくなる」

そして、軸木を一本すって、その小さな炎を、二人のあいだにかざした。

風のない夜だった。炎は、まっすぐに立った。橙色の、ちいさな、けれど確かな熱。その光のなかで、あの人の顔が浮かんだ。頬が、その火に照らされて、うっすらと赤らんでいた。目のなかに、炎が映っていた。そして、その目のずっと奥に、あの蒼い彗星も、小さく映っているような気がした。

「火は、」と、あの人は言った。炎を見つめながら。「消える前が、いちばんきれい」

軸木が燃えつきる寸前、炎はふっと大きくなり、それから、消えた。

暗闇が戻った。目が慣れるまで、しばらく、蒼い彗星さえ見えなくなった。

冷めた珈琲の水面で、光の板が、また少し動いた。

わたしは、青いマッチ箱を卓に置き、腕時計を見る。二時間半。陽は、ずいぶん傾いた。向かいの白壁にあたる光の角度が変わり、店内に射し込む反射光が、赤みを帯びはじめている。夕暮れが、そろそろ、この午後を終わらせにきている。

マスターが、湯を沸かす音がする。しゅう、という、遠い、やわらかな音。それを聞いていると、まぶたが重くなる。眠気が、潮のように満ちてくる。この店の午後は、いつもこうだ。待っているうちに、まどろんでしまう。まどろみのなかで、時間が伸びたり縮んだりする。

わたしは、まどろみに身を任せる。抗わない。抗っても、この店の午後には勝てない。

まぶたを閉じると、あの蒼い星が、まぶたの裏に浮かぶ。防波堤の夜が。冷えた手が。まっすぐに立った炎が。

眠れ、眠れ、と、どこかで声がする。あの人の声だ。星が海をわたるまで。

彗星の夜のあと、わたしたちは、少し変わった。

留めておかないはずだった関係が、留められはじめた。境界が、崩れはじめた。わたしたちは、昼の店だけでなく、外でも会うようになった。夜の街を歩いた。雨の日には、ひとつの傘に入った。あの人の暮らしのことを、わたしは少しずつ知るようになった。知れば知るほど、重くなった。重くなればなるほど、続けることが難しくなった。

あの人には、帰る場所があった。それを、わたしははっきりと知ったわけではない。けれど、時計を気にする仕草や、ある時刻になると急に立ち上がる背中や、電話の呼び出し音に一瞬こわばる肩から、わたしは、それを察していた。察していて、尋ねなかった。尋ねれば、それは言葉になり、言葉になれば、消せなくなる。わたしたちは、二人とも、それを言葉にしないことで、かろうじて、この関係を保っていた。

けれど、留めてしまった心は、言葉にしないことでは、もう静まらなかった。

わたしは、あの人が立ち上がる時刻が、少しずつ、恨めしくなった。あの人が、時計を見るたびに、胸のどこかが、きしんだ。そして、その恨みや、きしみを、あの人に悟られまいとすればするほど、わたしの笑い方は、ぎこちなくなった。あの人は、それに気づいていた。気づいていて、やはり、何も言わなかった。

一度だけ、雨の午後、ひとつの傘のなかで、あの人が、ふと言った。

「わたしたち、無理をしはじめているのかもしれない」

雨の音が、傘のうえで、こまかく鳴っていた。

「無理を」とわたしは繰り返した。

「軽いままでいる、という無理を、しなくなった。そのかわりに、重いものを、軽いふりで持ちあげる、という無理を、しはじめている。そういう無理は、長くは続かないの。腕が、いつか、痺れてしまう」

わたしは、傘の柄を握る手に、少し力をこめた。あの人の肩が、雨を避けて、わたしの肩に、わずかに触れていた。その温もりが、あまりに近くて、あまりに遠かった。

「痺れても、いいです」とわたしは言った。「痺れるまで、持っています」

あの人は、答えなかった。ただ、傘のなかで、少しだけ、わたしのほうに寄った。それが、そのときの、精いっぱいの答えだったのだと、今ならわかる。

あの人は正しかった。留めておくと、重くなる。重くなると、続かない。

けれど、わたしは留めておきたかった。それが人というものだと、わたしは思う。軽いままでいられるほど、わたしは強くなかった。あの人は、たぶん、わたしよりずっと強かった。あるいは、ずっと臆病だった。強さと臆病は、ときどき、見分けがつかない。

「わたしたち、あの光みたいだったのに」と、あるとき、あの人は言った。「二回跳ね返って、やわらかくなった光。まっすぐじゃないから、やさしかった。まっすぐになろうとしたら、まぶしすぎて、見ていられない」

わたしは、その言葉の意味を、痛いほどよくわかった。わかったからこそ、認めたくなかった。

別れは、いつだったのか。

それも、この午後のまどろみのなかでは、はっきりしない。

はっきりした別れの言葉が、あっただろうか。それとも、ただ、少しずつ、間遠になっていっただけだろうか。会う回数が減り、外で会わなくなり、やがて、昼の店でも会わなくなった。境界の内側だけの関係に戻ろうとして、けれど、一度崩れた境界は、もう元には戻らなかった。留めてしまったものは、軽くは戻らない。

最後に会ったのは、やはり、この窓際だった。

あの日も、午後の光がやわらかかった。二回跳ね返った光。わたしたちは、いつものように、どうでもいい話をしようとして、うまくできなかった。どうでもいい話ができなくなったとき、関係は終わる。留まってしまったものは、もう、軽く扱えない。

「わたし、しばらく、遠くに行きます」と、あの人は言った。

「しばらく、というのは」とわたしは訊いた。

あの人は、答えなかった。窓の外を見ていた。傾いた光を。二回跳ね返って、やわらかくなった、まっすぐでない光を。

そして、青いマッチ箱を、卓の隅に置いた。あの、彗星の夜のマッチ箱だった。

「あなたに」と、あの人は言った。「火が見たくなったら、すってください。消える前が、いちばんきれいだから」

わたしは、そのマッチ箱を受け取らなかった。受け取れば、それが最後になる気がした。受け取らなければ、まだ続く気がした。だから、卓の上に置かれたまま、わたしはそれに手を触れなかった。

あの人は、少し待った。わたしが手を伸ばすのを、待っていたのかもしれない。けれど、わたしは伸ばさなかった。

やがて、あの人は立ち上がった。片方だけの手袋を、片手にはめて。もう片方の手は、素手のまま。あの夜と同じだった。片方だけの手袋。対になるはずのものが、片方だけ。

「さようなら」とは、言わなかった。あの人は。

ただ、扉のところで、一度だけ振り返って、少しだけ笑った。目もとに、こまかい皺が寄った。はじめて会った日と、同じ笑い方だった。

そして、出ていった。路地の光のなかへ。

青いマッチ箱だけが、卓の隅に残された。

そのあとの七年を、どう語ればいいのだろう。

まどろみのなかでは、七年が、一日のように思える。あの別れの午後から、今日のこの午後まで、あいだには、何もなかったような気さえする。けれど、たしかに、七年は過ぎた。

わたしは、変わらず働いた。得意先を回り、書類をつくり、人と会い、別れ、また会った。表向きには、何ごともない日々だった。誰も、わたしのなかに、あの窓際があることを知らなかった。わたし自身も、忙しい平日のあいだは、それを忘れていられた。

けれど、月に一度か、二月に一度、わたしは、あの路地へ足を向けた。

はじめの一年は、まだ、あの人が来るかもしれないと、本気で思っていた。だから、行くたびに、扉を押すとき、胸が高鳴った。窓際に、あの人の横顔があるのではないかと。けれど、いつも、窓際は空いていた。わたしは、その空いた席に座り、珈琲を頼み、それが冷めるのを見つめ、日が傾くのを待って、帰った。

二年めには、もう、来るとは思わなくなった。それでも、行くのをやめなかった。来るとは思わないのに、行く。その矛盾を、わたしは、自分でも説明できなかった。ただ、あの窓際に座っているあいだだけ、時間が、あの午後のところで止まってくれる気がした。ほかのどこにいても、時間は前へ流れていくのに、あの窓際でだけ、時間は、七年前の、あのやわらかい午後に、留まっていてくれた。

三年、四年、と過ぎるうちに、それは、習慣というより、儀式のようになった。あるいは、墓参りのようなものだったのかもしれない。あの人が死んだわけではない。どこかで、生きている。生きているのに、二度と会わない。それは、死よりも、しずかな喪失だった。片方だけの手袋のような。対になるはずのものが、どこかにあるのに、けっして、対にならない。

マスターは、そのあいだ、何も言わなかった。ただ、わたしが扉を押すと、うなずいて、いつもの珈琲を淹れた。ネルの布で豆を漉し、湯を細く落とす、あの規則正しい手つきで。彼だけが、わたしの儀式の、ただひとりの立会人だった。

一度だけ、五年めのある午後、帰りぎわに、マスターが、ぽつりと言ったことがある。会計をすませて、扉に手をかけたわたしの背に。

「あの席は、」と、彼は言った。「待つ人の席、ですな。昔から」

わたしは、振り返った。

「あなたの前にも、あの窓際で、来ない人を待った客が、幾人もいました。何十年も、この店をやっておりますとね。同じ席に、同じ影が、代わるがわる座る。座って、待って、そして、いつか、来なくなる」マスターは、ネルの布を、しずかに絞りながら言った。わたしのほうは、見ていなかった。「待つ人は、みな、あの席を選ぶ。西日の入る、あの席を。不思議なものです」

わたしは、何も答えられなかった。ただ、うなずいて、店を出た。あの窓際が、わたしひとりの席ではなかったことを、そのとき、はじめて知った。あの二回跳ね返った光は、わたしの前にも、いくたりもの待つ人を、やわらかく照らしてきたのだ。そして、わたしのあとにも、きっと。

そして、今日。

なぜ今日だったのか、わからない。ふつうの日だった。ふつうの、昼下がりだった。仕事の合間に、次の約束まで、少し間があいて、わたしは、なぜか、あの路地へ足を向けた。七年前と、同じように。まっすぐな大通りではなく、細い脇道を。

扉を押すと、窓際は、いつものように空いていた。わたしは、いつものように、そこに座った。そして、いつものように、珈琲を頼み、それが冷めるのを見つめはじめた。

けれど、今日は、なぜか、心のどこかが、こう囁いた。今日は、三時に、あの人が来る。三時に、この店で――と。

その声が、記憶なのか、願いなのか、まどろみが見せた幻なのか、わたしには、わからなかった。わからないまま、わたしは、待ちはじめた。

わたしは、その青いマッチ箱を、手に取る。

今、この午後、七年前と同じ窓際で。

七年のあいだ、わたしは何度、この席に座っただろう。何度、来ない人を待っただろう。約束などなかった。あの人は、また会おうとも、いつ来るとも、言わなかった。それでも、わたしはこの窓際に座り、珈琲が冷めるのを見つめ、青いマッチ箱を手に取り、そして、まどろんだ。

待つ相手のない待ちごとを、わたしはずっと続けてきた。

三時に、と、たしかに、誰かが言った気がする。けれど、それは記憶のなかの声だったかもしれない。まどろみのなかで、わたしが作り出した声だったかもしれない。この午後、わたしがここにいるのは、ほんとうに約束があったからだろうか。それとも、ただ、七年前の午後を、繰り返しているだけなのだろうか。

わからない。まどろみのなかでは、何もかもがやわらかく、輪郭がにじむ。

まぶたが、また重くなる。

しゅう、と、湯の沸く音。マスターの、湯を落とす、細い、規則正しい音。斜めの光。冷めた珈琲。手のなかの、青いマッチ箱。

わたしは、まどろむ。

まどろみのなかで、あの防波堤の夜がよみがえる。蒼い彗星。凍りついた息のような尾。星が海をわたっていく。冷えたあの人の手。まっすぐに立った炎。消える前の、いちばんきれいな火。

そして、子守唄。

眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。

歌っているのは、あの人だ。いや、わたしだ。いや、母だ。誰の声かわからない。まどろみのなかで、声は溶け合う。過去と現在が溶け合う。あの防波堤と、この窓際が、溶け合う。

わたしは、あの人の隣に座っている。防波堤の突端に。同時に、この窓際に、ひとりで座っている。二つの午後、二つの夜が、まぶたの裏で重なっている。あの人の横顔が、そこにある。睫毛の影。二回跳ね返った光。やわらかく、まっすぐでない光。

「星が海をわたるまで、そばにいます」と、わたしは言う。まどろみのなかで。

あの人は、答えない。ただ、握られた手を、握り返す。

けれど、握り返す手は、そこにない。まどろみのなかの手は、握れない。わたしは、自分の指が、青いマッチ箱の角をなぞっているのに気づく。それだけが、たしかな感触だった。

わたしは、マッチ箱の引き出しを開ける。

赤い頭の軸木が、まだいくらか残っている。あの人が置いていったマッチ。七年のあいだ、わたしは一本も、すらなかった。すってしまえば、いつか、なくなる。なくなってしまえば、あの人の残していったものが、この世から消える。だから、わたしはずっと、すらずにいた。火が見たくても、すらずにいた。

けれど、今日、わたしは一本を、指でつまむ。

なぜ、今日なのか。わからない。ただ、この午後の、この傾いた光のなかで、火が見たくなった。あの人が言ったように。消える前が、いちばんきれいな、その火が。

わたしは、軸木を箱の側面にあてる。そして、すった。

しゅ、と、小さな音。

炎が、立った。

橙色の、ちいさな、けれど確かな熱。窓際の、うすぐらい光のなかで、その炎だけが、鮮やかだった。わたしは、その火を、目の高さにかざす。あの夜、あの人がそうしたように。

火のなかに、あの人の顔が浮かぶ気がする。頬が、その火に照らされて、うっすらと赤らんでいる。目のなかに、炎が映っている。そして、その目のずっと奥に、あの蒼い彗星が、小さく映っている。

眠れ、眠れ、と、どこかで声がする。

軸木が、燃えつきていく。炎が、指のほうへと降りてくる。熱が、指先に届く。それでも、わたしは、火を見つめている。

消える寸前、炎は、ふっと大きくなった。

そして、消えた。

暗闇が戻った。いや、暗闇ではない。ただ、火が消えただけだ。店内の、うすぐらい午後の光が、また戻ってきただけだ。

わたしは、焦げた軸木を、灰皿のふちに置く。細い煙が、一筋、まっすぐに立ちのぼり、それから、ゆらいで、消えた。

窓の外を見る。陽は、もう、ずいぶん低い。向かいの白壁は、赤みを帯びている。夕暮れが、この午後を、終わらせにきている。

来なかった。

今度は、はっきりと、そう思えた。来なかったのだ。約束があったのかどうかさえ、もうどうでもよかった。七年間、あの人は来なかった。今日も、来なかった。そして、たぶん、これからも、来ない。

それでも、わたしは、待った。待つことが、あの人とわたしを繋ぐ、最後の糸だった。待っているあいだだけ、あの人は、まだこの世界のどこかにいて、いつか、この扉を押すかもしれなかった。待つのをやめれば、その可能性も、消える。だから、わたしは待った。待つことが下手なわたしが、七年ものあいだ、待ちつづけた。

けれど、今日、火をすった。

あの人の残したマッチを。すってしまえば、いつか、なくなるマッチを。わたしは、その一本を、消してしまった。

それは、たぶん、待つのをやめる、ということだった。

わたしは、冷めきった珈琲を、はじめて口にする。

ぬるく、苦く、けれど、どこか甘い。二時間半、待つあいだに、この珈琲は、待つことそのものの味になっていた。わたしは、それを、ゆっくりと飲み干す。

飲み干して、卓に茶碗を置く。かたん、と、小さな音。

マスターが、こちらを見た。はじめて、わたしがそこにいることに気づいたように。彼は、何も言わなかった。ただ、うなずいた。ごく小さく。すべてを見ていた人の、うなずきだった。この窓際で、七年間、来ない人を待つ客を、彼はずっと見ていたのだ。何も言わずに。急かさずに。この店が、待つことをいくらでも許したように。

わたしは、青いマッチ箱を、卓の隅に置く。

七年前、あの人が置いていった、その同じ場所に。

わたしは、それを、持って帰らないことにした。あの人がそうしたように、卓の隅に置いていく。いつか、誰かが、この窓際に座るだろう。来ない人を待つ、別の誰かが。その人が、待つあいだに、手が待てなくて、このマッチ箱を手に取るだろう。そして、火が見たくなったら、すってくれるだろう。消える前が、いちばんきれいな、その火を。

それでいい、と思った。

立ち上がると、まどろみが、まだ体のなかに残っていた。

足もとが、少しだけ、おぼつかない。長く座りすぎたせいだ。長く、まどろみすぎたせいだ。わたしは、椅子の背に手をついて、体を支える。

そのとき、ふと、窓ガラスに映る自分の顔が見えた。

七年、歳をとった顔だった。目もとに、こまかい皺が寄っていた。あの人が、笑うと寄せた、あの皺と、同じような皺だった。いつのまにか、わたしは、あの人に似てきていた。長く待つあいだに、待つ相手の顔に、似てきていた。それとも、これは、まどろみが見せた、幻だろうか。ガラスの向こうに、あの蒼い彗星が、一瞬、よぎった気がした。まっすぐでなく、やわらかく、二回跳ね返った光のように。

わたしは、扉のほうへ歩く。

扉のところで、一度だけ、振り返った。あの人が、七年前、そうしたように。

窓際の席。斜めの光。冷めた珈琲の茶碗。そして、卓の隅の、青いマッチ箱。すべてが、あの日のままだった。あの日と、今日が、まどろみのなかで、溶け合っていた。どちらが過去で、どちらが現在なのか、もう、わからなかった。

わたしは、少しだけ笑った。目もとに、こまかい皺を寄せて。

そして、扉を押した。

外に出ると、路地には、夕暮れの光が満ちていた。

昼下がりの、二回跳ね返った、やわらかい光ではなかった。まっすぐな、傾いた、赤い光だった。まぶしくて、わたしは目を細めた。まっすぐな光は、まぶしすぎて、見ていられない。あの人の言ったとおりだった。

けれど、目を細めながら、わたしは歩きはじめた。

まどろみは、終わった。午後は、終わった。回想は、終わった。あの蒼い星は、もう、海をわたってしまった。星が海をわたるまで、そばにいる、と、わたしは言った。星は、もう、わたってしまった。だから、わたしの約束も、果たされたのだ。あるいは、これで、ようやく解かれたのだ。

路地の角を曲がるとき、わたしは、もう一度だけ、あの窓を見た。

うすぐらい店のなか、窓際の席に、誰もいなかった。当たり前だった。けれど、その空いた席に、一瞬、二人の人影が見えた気がした。並んで、窓の外を見ている、二人の。やわらかい光を受けて。まだ、留めておかなくてもよかったころの、軽やかな、二人の。

まばたきをすると、それは消えた。

まどろみの、最後のひとかけらだった。

けれど、消えぎわに、わたしは、たしかに聞いた。あの窓のなかから、ごくかすかに、あの旋律が漏れてくるのを。眠れ、眠れ、星が海をわたるまで――と。それが、マスターの口ずさむ声だったのか、それとも、ただ、湯の沸くしゅうという音が、そう聞こえただけなのか、わたしにはわからなかった。わからないまま、わたしは、その旋律を、背中で受けとめた。あの人が、はじめてわたしに歌ってくれた、あの夜の子守唄を。星が海をわたるまで、そばにいる、という約束を。星は、もう、わたってしまった。だから、この子守唄も、これで、聞きおさめなのだと思った。

珈琲がぬるくなる速さで、人は歳をとるのだと、わたしは思う。

けれど、ぬるくなった珈琲を飲み干す速さで、人は、また歩きだせるのだとも、思う。

わたしは、路地を出て、大通りの、まっすぐな光のなかへ歩いていく。まぶしくても。まっすぐでも。二度と、あのやわらかい午後は、戻ってこないとしても。

背中のうしろで、路地が、ゆっくりと、夕暮れのなかに沈んでいく。あの店も、あの窓も、あの席も。そして、卓の隅の、青いマッチ箱も。

いつか、彗星の見える夜に、あの路地の奥に、月光書房という古い古書店が現れると、誰かが言っていた。朝には消えている、まぼろしの店。もしかしたら、あの喫茶店も、そういう店だったのかもしれない。待つ人だけに現れて、待つのをやめると、消えてしまう店。わたしがもう一度あの路地を訪ねても、「琥珀」という板の掛かった扉は、どこにも見つからないのかもしれない。

それでもいい、と思った。

わたしは、七年ぶんの午後を、ひとつのまどろみとして、あの店に置いてきた。冷めた珈琲と、燃えつきた一本の軸木と、青いマッチ箱とともに。

そして、消える前の火が、いちばんきれいだったことを、わたしは、これから先の、どんなに長い夜にも、おぼえているだろう。

この物語にひそむ符牒

ほかの物語と、ひそかに分かち合っているもの:

  • ミラ彗星
  • 月光堂のマッチ
  • 子守唄
  • 月光書房
  • 片方の手袋

十二をつなぐ符牒について →

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