まどろみの桟橋
白い天井を、光の縞が横切っていた。ブラインドの隙間を通ってきた午後の陽が、そこにゆるやかな段々をつくり、風のたびに震えて、また戻る。祖母はその段々を、もう長いこと眺めていた。眺めているうちに、それがどこか遠い日の縁側の障子だったような、あるいは船の甲板に落ちた帆の影だったような気がしてきて、そうすると、いま自分がどこにいるのかが、やわらかく分からなくなっていくのだった。
「おばあちゃん、起きてる」
声がした。近いようで、水の底から聞こえるようでもあった。祖母はまばたきをした。まぶたの裏に残っていた光の粒が散って、それから、枕元の椅子に腰かけている孫娘の輪郭が、少しずつ像を結んでいった。
「ああ……美緒か」
「うん。ずっと寝てたよ。三十分くらい」
「そんなに」
「気持ちよさそうだったから、起こさなかった」
そう、と祖母はつぶやいた。三十分。けれども、そのあいだに自分がどれほど遠くまで行ってきたか、この子には分かるまい。まどろみのなかでは、時間はまるで飴のように伸びる。ほんの一瞬まぶたを閉じたつもりが、そのあいだに一年分の夏を歩いてきたりする。逆に、たっぷり眠ったと思っても、時計の針はほんの少ししか進んでいない。老いるということは、その飴のなかに半分溶けて暮らすことに似ていた。
窓の外では、六月の陽が傾きかけていた。まだ午後の早い時分だが、この病室に射し込む光は、いつも少しだけ黄ばんで見える。西向きの窓なのだと、看護師が言っていた。だからこの部屋は昼下がりがいちばん明るくて、いちばん眠い、と。
たしかに、この時刻のこの部屋には、独特の眠気が満ちていた。それは夜の眠りとはちがう。夜の眠りは、体を横たえて、意識をすっぱりと手放す、断ち切るような眠りだ。けれど昼下がりのまどろみは、そうではない。それはもっと、なだらかで、ずるずると引きずり込まれるような眠りだった。廊下を行く配膳車の音も、隣室のテレビの、くぐもった音も、みんな聞こえている。聞こえていながら、それらの音が、だんだんと、水にうすめられた墨のように、輪郭を失っていく。そうして気がつくと、いつのまにか、まぶたの裏の暗がりに、ぽつりと、遠い日の景色が浮かんでいる。そういう眠りだった。
祖母は、この頃、その眠りが、嫌いではなかった。むしろ、待ちわびるようになっていた。まどろみのなかでは、体が痛まない。曲がった指も、こわばった膝も、まどろみのなかでは、もとの、しなやかな娘のものに戻る。そして、いろいろな人に会える。もう長いこと会っていない人たちに。とうに亡くなった人たちに。まどろみは、あの世とこの世のあいだにかかった、細い、揺れる橋のようなものだった。
「お茶、飲む」
「いいえ、いいよ。喉は渇いてない」
美緒は手にしていた紙コップを、また床頭台に戻した。祖母はその手つきを、ぼんやりと目で追った。細くて、白くて、爪の先まできれいに整った手だった。自分にもかつてこんな手があった。そのことが、いまはひどく信じがたい。掛け布団の上に投げ出された自分の手を見ると、それは枯れた木の根のようで、甲には染みが浮き、指の関節はふくれて曲がっている。この手で、かつて何をつかみ、何を離してきたのだったか。
「おばあちゃん」
「なあに」
「なんだか、今日はいつもより顔色がいいね」
祖母は微かに笑った。そういうときは、たいてい逆なのだ。長く生きていると、体の言うことが分かるようになる。今日はよく晴れて、光がやわらかくて、痛みが遠い。遠いということは、いつもより体が自分から離れかけているということでもあった。けれどそれを、この子に言う必要はない。
「そうかい。それは、あんたが来てくれたからだよ」
「もう。すぐそういうこと言う」
美緒は少し照れて、窓の方を向いた。その横顔に、ブラインドの縞の光が落ちて、頬のあたりで揺れた。祖母はそれを見て、ふいに、胸の奥がしんと静かになるのを感じた。
似ている、と思った。誰に。ずっと昔の、誰かに。
まどろみは、また忍び寄ってきた。
抗おうとは思わなかった。この頃の祖母にとって、覚醒とまどろみのあいだには、もうはっきりした境目がなかった。目を開けていても半分は夢のなかにいるし、目を閉じていても、美緒の衣ずれの音や、廊下を行くワゴンの車輪の音は、ちゃんと聞こえている。二つの世界が、潮の満ち引きのように、ゆっくりと重なり合っては離れていく。
いまも、まぶたが重くなるにつれて、白い天井の光の段々が、だんだんと別の景色に変わっていった。
海だ。
夜の海。港の桟橋。潮の匂い。足の裏に伝わる、板の冷たさ。
祖母は――いや、そのときはまだ十九の娘だった――桟橋の端に立って、暗い水面を見下ろしていた。昭和の、ある夏の終わりのことだ。町には小さな港があって、夜になると、沖に出た漁り火が点々と灯った。娘はよく、寝つけない夜にそこまで歩いていった。家には、寝ていられない事情があった。
水は、暗かった。けれど、その暗さのなかに、沖の漁り火が、いくつも、金色にゆらいでいた。それが、水面にうつって、砕けて、また集まった。娘は、その火を見ていると、なぜだか、胸のあたりが締めつけられるような、けれど、決して不快ではない、妙な心持ちになった。あの火の下では、いま、男たちが、命がけで、網を引いている。海というのは、そういうものだった。うつくしくて、こわい。恵みをくれて、そして、奪う。父を奪ったのも、あの海だった。
背後で、足音がした。
板を踏む、たしかな足音だった。娘は、はっとして、身をこわばらせた。こんな時刻に、こんな場所に来る者など、ろくな者ではない。母の言葉が、頭をよぎった。娘は、逃げようとも思わず、ただ、暗い水を見つめたまま、じっとしていた。
「こんな時間に、女がひとりで危ないよ」
低い、けれど、おだやかな声だった。娘は、ゆっくりと、ふり返った。
ふり返ると、男が立っていた。
「おばあちゃん、また眠っちゃった」
美緒の声で、祖母は薄目を開けた。夢の桟橋が、するすると遠ざかっていく。惜しい、と思った。もう少しで、あの男の顔が見えるところだったのに。
「ごめんよ。年をとると、話の途中でも寝てしまう」
「ううん、いいの。無理しないで」
祖母はしばらく黙って、天井を見ていた。それから、ふと、言った。
「美緒。あんた、退屈じゃないかい。こんな婆さんのところに、毎週毎週」
「退屈じゃないよ。……ほんとに」
「うそをおつき」
「うそじゃないってば」
美緒は笑った。けれども、祖母には分かっていた。この子は、来なくてもいいときに来てくれている。仕事が忙しいのも、若い者にはこの病室の空気が重たいのも、みんな分かっている。それでも、この子は来る。誰に似たのだか。
「じゃあ、ひとつ、話をしてやろうか」
「話」
「うん。長い話だよ。昼寝のあいだにちょうどいい、退屈しのぎさ」
美緒は少し身を乗り出した。祖母がこんなふうに切り出すのは、珍しいことだった。この祖母は、昔から自分のことをあまり語らない人だった。夫のこと、子どものこと、苦労したはずの戦後のことも、聞けばぽつりぽつりと答えるが、自分から語り出すことは、ついぞなかった。
「聞きたい」
「そうかい」
祖母は目を細めた。窓の光が、ちょうど掛け布団のあたりまで下りてきていた。その明るみのなかで、彼女は少しのあいだ、記憶を手繰るように黙っていた。
「まだ、誰にも話したことのない話でね」
「……お母さんにも」
「あの子にもだよ。誰にもさ」
美緒は息を呑んだ。祖母の声には、いつもの、少しおどけたような響きがなかった。かわりに、遠くを見るような、静かな澄んだ調子があった。
「わたしがね、まだ、あんたくらいの齢だった頃の話だよ」
桟橋の男
わたしの生まれたのは、小さな港町だった。
海と山のあいだに、狭い平地がへばりつくようにしてある。そんな町だ。男はたいてい漁に出るか、山の材木を運ぶかで、女は網を繕ったり、干物をこしらえたりして暮らしていた。貧しくはあったけれど、飢えるほどではなかった。空はいつも青くて、潮の匂いがして、夜になると、沖に漁り火が灯った。
わたしの家は、その町で小さな旅籠をやっていた。旅籠といっても、行商人や、たまに来る役人を泊めるくらいの、小さな宿さ。父はわたしが幼いうちに海で死んだから、母がひとりで切り盛りしていた。わたしは長女で、下に弟が二人いた。だから、学校を出るとすぐ、母の手伝いをするようになった。膳を運び、床をのべ、朝の暗いうちから起きて、湯を沸かす。そういう暮らしだった。
不満はなかった。そういうものだと思っていたからね。
十九の、あの夏まではね。
その年の夏、うちの旅籠に、ひとりの若い男が泊まった。
名前を、聡といった。歳は、わたしより五つ上の、二十四。町の者ではなかった。どこか遠くの、都会の方から来たらしかった。何をしている人なのか、初めは分からなかった。荷物は少なくて、けれど、そのなかに、古い船具や、海図や、それから、たくさんの本があった。
聡さんは、船乗りだった。ただの漁師じゃない。もっと遠くの海を渡る、大きな船に乗る人だった。そのとき、船の修理だか何だかで、しばらくこの町に足止めを食っていたのさ。それで、うちの旅籠に、ひと月ばかり泊まることになった。
ひと月というのは、旅籠にしては長い。母は喜んだ。実入りがいいからね。けれどわたしは、初めのうち、あの人が少し怖かった。
日に焼けて、無口で、目だけがやたらと澄んでいた。膳を運んでいくと、たいてい本を読んでいた。わたしが襖を開けても、顔も上げないことが多かった。都会の人というのは、こんなふうに冷たいものかと思ったよ。
けれどある晩、わたしが桟橋に立っていたら、その人が来た。
わたしは、その夜、寝つけなかった。弟が熱を出して、母がつきっきりで看病していて、家のなかがざわついていた。それに、そのころのわたしには、ひとつ、決めなければならないことがあった。
縁談さ。
隣町の、造り酒屋の次男坊との縁談が持ち上がっていた。堅い、いい家だった。母は、それはもう乗り気だった。うちのような貧乏所帯に、あんないい話が来るなんて、と。相手の男も、悪い人ではなかった。真面目で、穏やかで、わたしを大事にしてくれそうだった。断る理由なんて、どこにもなかった。
なのに、わたしは、返事を渋っていた。
なぜだか、自分でも分からなかった。ただ、あの造り酒屋に嫁いで、そこで一生を終えるのだと思うと、胸のあたりが、水を含んだ綿のように重くなった。それがどういう感情なのか、そのときのわたしには名前がつけられなかった。
それで、その晩、寝つけなくて、桟橋まで歩いていったんだよ。
祖母は、そこで少し言葉を切った。
美緒は、身じろぎもせずに聞いていた。窓の外で、鳥が一羽、鳴いて過ぎた。
「桟橋で、聡さんに会ったのさ」祖母は続けた。「こんな時間に、女がひとりで危ないよ、って。そう言われてね」
「それで」
「それで、二人で、しばらく海を見ていた。何を話すでもなくね。ただ、暗い水を見ていた。沖に、漁り火がいくつも灯っていた。それが、水にうつって、揺れていた」
祖母の目が、天井の光を見ているようで、見ていなかった。もっと遠いものを見ていた。
「あの人はね、ぽつりと言ったんだよ。あの火はきれいだけれど、あんなに近くにいたら、きっと熱くて、煙くて、たまらないだろうな、って。遠くから見るから、きれいなんだ、って」
「……なんだか、寂しい人だね」
「そうだねえ。寂しい人だった。でもね、わたしは、そのとき、初めてこの人の声を、ちゃんと聞いた気がしたんだよ」
星の話
それから、わたしと聡さんは、夜になると、桟橋で会うようになった。
約束したわけじゃない。ただ、どちらからともなく、そこへ行くと、もう片方がいた。そういうふうになっていった。
昼のあいだは、それまでと変わらなかった。わたしは膳を運び、あの人は本を読む。母や弟の前では、目も合わさない。けれど夜になると、二人だけの海があった。
あの人は、いろいろな話をしてくれた。行ったことのある港のこと。嵐のこと。氷の浮かぶ海のこと。南の、椰子の茂る島のこと。わたしは、この町から一度も出たことがなかったから、その話は、まるでおとぎ話のようだった。あの人の言葉で、わたしは世界じゅうの海を旅した。
あの人が、たくさんの本を持っていたことは、言ったね。その本を、あの人は、どこで手に入れたと思う。ふつうの本屋じゃないんだよ。あの人は、こう言ったんだ。
港町にはね、と、あの人は言った。夜になると、ふっと現れる、古本屋があるんだ、と。月光書房、という名の店でね。昼のあいだは、どこを探しても、ない。けれど、月の出た晩に、いつのまにか、路地の奥に、あかりが灯っている。扉を開けると、天井まで、古い本がびっしりと積まれていて、どこか遠くの海の匂いがする。店の主人は、ひどく年寄りで、けれど、目だけは、若い者のように澄んでいる。そこで一冊選んで買うと、朝には、もう店ごと、消えてなくなっている。……そういう店なんだ、と。
わたしは、笑ったよ。まさか、そんな店があるものか、って。おとぎ話でしょう、って。
そうしたら、あの人は、真顔で、こう言った。あるんだよ、と。俺は、いろんな港で、何度も、あの店に入った、と。そして、懐から、小さなものを取り出して、見せてくれた。
青いマッチ箱だった。
月光堂、と、白い字で刷ってあってね。その古本屋で、本を買うと、おまけに、この青いマッチ箱をくれるんだ、と、あの人は言った。中には、ちゃんと、マッチが入っていた。あの人は、その一本を擦って、わたしに、見せてくれた。海の風のなかで、その小さな火が、ぽっと灯って、あの人の顔を、下から、照らした。青いマッチ箱から生まれた、その火は、ほかの火より、少しだけ、青みがかっているように、わたしには、見えた。
わたしは、そのとき、思ったよ。この人は、わたしの知らない世界を、たくさん、知っている。夜の海の向こうに、わたしの知らない、不思議な町や、不思議な店が、いくつもある。そして、この人は、その全部を、この目で、見てきたんだ、って。
そして、あの人は、星のことをよく知っていた。
船乗りは、星を読むんだよ。羅針盤がなくても、星さえ見えれば、船がいまどこにいて、どっちへ進めばいいか、分かるんだそうだ。あの人は、暗い空を指さして、あれが何座で、あれが何という星で、と教えてくれた。わたしは、それを、ひとつも覚えられなかったけれど、あの人が空を指す、その指の先を見ているのが、好きだった。
ある晩のことだよ。
その晩は、月のない、真っ暗な夜でね。星が、それはもう、こぼれるほどに出ていた。
あの人が、ふいに、空の一点を指さして、言ったんだ。
「あれを、見てごらん」
わたしは、あの人の指の先を見た。ほかの星にまじって、ひとつ、蒼い星があった。ほんのりと、けれど、たしかに、ほかの白い星とはちがう、青みがかった光を放っている星だった。
「あれはね」とあの人は言った。「ミラという星だ。ずっと昔から、船乗りのあいだで、そう呼ばれてきた。彗星さ。ふだんは見えない。何十年に一度、思い出したように、ああして空に戻ってくる。年に一度でも、月に一度でもない。何十年に、たった一度だ」
「何十年に、一度」
「ああ。だから、あれを見られるのは、幸運なんだよ。人が一生のうちに、あれを見られるのは、せいぜい一度か二度きりだ。この次にあれが戻ってくるころには、いまここにいる俺たちは、もう爺さんと婆さんになっているか、あるいは、この世にいないかもしれない」
わたしは、その蒼い星を、じっと見つめた。何十年に一度、思い出したように戻ってくる星。そう思って見ると、その光は、なんだか、ひどく寂しく、けれど、ひどくやさしいものに思えた。
「あの星はね」とあの人は、少し声を落として言った。「船乗りには、こういう言い伝えがあるんだ。ミラが空に出ているあいだに、心に決めたことは、遠い海を渡っても消えない、ってね」
わたしは、あの人の顔を見た。あの人は、星を見ていた。その横顔に、星あかりが落ちていた。
「聡さんは」とわたしは訊いた。「なにか、決めたの」
あの人は、しばらく黙っていた。それから、こう言った。
「もう、決めたよ」
祖母は、そこでまた、言葉を切った。
美緒は、じっと、その先を待った。けれど祖母は、なかなか続けなかった。かわりに、掛け布団の上の、自分の手を見ていた。枯れた木の根のような、その手を。
「おばあちゃん」
「ああ、ごめんよ。……どこまで話したかね」
「ミラっていう星の話。決めたよ、って、聡さんが言ったところ」
「そうだった、そうだった」
祖母は、微かに笑った。けれどその笑いは、どこか痛みをこらえるような笑いだった。
「あの人はね、その晩、わたしに言ったんだよ。船が直ったら、また海に出る。次はうんと遠くの、氷の海のほうへ行く。長い航海だ。何年、帰ってこられるか分からない。もしかしたら、帰ってこられないかもしれない。……それでも、俺と、一緒に来てくれないか、って」
美緒は、息を止めた。
「一緒にって……船に」
「いいや。船には女は乗せられない。そういう決まりだった。あの人が言ったのは、こうだよ。この町を出て、船の出る大きな港のある町へ、一緒に行こう、って。そこで、わたしはあの人の帰りを待つ。あの人は海に出て、また帰ってくる。そういう暮らしをしないか、って」
「それは……つまり」
「ああ。求婚さ」
祖母は、そう言って、ふうっと、長い息を吐いた。それは、六十年以上前の空気を、いまここに吐き出したような、深い息だった。
選ばなかった道
わたしは、迷ったよ。
それはもう、迷った。
一方には、造り酒屋の縁談があった。堅い、確かな道さ。あそこへ嫁げば、母は喜ぶ。弟たちも安心する。わたしは、雨風のしのげる大きな家で、何不自由なく暮らせる。子を産み、育て、年をとる。この町で、みんなの見ている、まっとうな道の上でね。
もう一方には、聡さんがいた。
けれど、そっちの道の先には、何があるのか、まるで分からなかった。見も知らぬ町で、いつ帰るとも知れない人を、ただ待つ暮らし。あの人は、帰ってこられないかもしれない、と言った。氷の海だ。船乗りが海で死ぬのは、めずらしいことじゃない。わたしの父も、そうやって海に呑まれた。
母に言えば、どやされるに決まっていた。どこの馬の骨とも知れない流れ者の船乗りに、大事な娘をやれるものか、と。それは、そのとおりだった。あの人のことを、わたしは、ほんの少ししか知らなかった。ひと月のあいだ、夜の桟橋で聞いた話のほかは、何も。
わたしは、幾晩も、眠れずに、考えたよ。
昼のあいだ、膳を運びながら、あの人の顔を、盗み見た。あの人は、いつものように、本を読んでいた。何ごともないような、静かな顔でね。けれど、その静かさの奥に、わたしと同じ、あの、桟橋の夜の顔が、隠れているのを、わたしは、もう知っていた。二人だけの秘密が、昼の光のなかに、ひっそりと沈んでいる。そのことが、わたしには、たまらなく甘く、そして、こわかった。
母のことも、考えた。母は、父が死んでから、女手ひとつで、わたしたちを育ててくれた。朝の暗いうちから、夜のふけるまで、働きどおしでね。手は、あかぎれで、いつも荒れていた。その母が、わたしの縁談を、どんなに、心待ちにしていたか。あそこへ嫁げば、うちの暮らしも、少しは楽になる。母は、そう思っていた。娘が、まっとうな家に嫁いで、しあわせになる。それだけが、母の、たったひとつの、望みだった。
弟たちのことも、考えた。まだ幼い、二人の弟。上の子は、体が弱くてね。しょっちゅう、熱を出した。わたしは、その子の額に、幾度、濡れ手ぬぐいを、あててやったことか。あの子たちを置いて、わたしは、行けるだろうか。何も言わずに、夜のうちに、消えるように。
それでも、と、わたしは思った。それでも、わたしは、あの人と、行きたい。
でもね、美緒。
わたしはね、あの造り酒屋の縁談のことを考えると、胸が綿のように重くなったのに、あの人と、見も知らぬ町へ行くことを考えると、なぜだか、体が軽くなるんだよ。あの、蒼い星を見たときみたいに。寂しくて、けれど、やさしい、あの気持ちで、胸がいっぱいになるんだ。
だから、わたしは、決めた。
あの人と、行こう、と。
「行ったの」
美緒の声が、かすれていた。
祖母は、ゆっくりと、首を横に振った。
「行かなかった」
「……どうして」
祖母は、しばらく、答えなかった。窓の光が、また少し傾いて、掛け布団の縞が、動いた。
「あの人が船に戻る、その前の晩にね」祖母は、静かに言った。「わたしは、荷物を、ひそかにまとめたんだよ。ほんの少しの着物と、母から黙って借りた……いや、盗んだ、いくらかのお金と。それを、風呂敷に包んで、桟橋で、あの人と落ち合う約束をした。夜の明ける前に、二人で、乗合の船に乗る。そういう手はずだった」
「じゃあ」
「うちを出る、その支度をして、わたしは、いったん、寝床に入った。夜明け前に、そっと抜け出すつもりでね。けれど、目がさえて、眠れやしない。それで、ふと、隣の部屋を見にいったんだよ。母と、弟たちの寝ている、部屋をね」
祖母の声が、少しずつ、細くなっていった。
「弟の熱は、下がっていた。母が、その枕元で、うたた寝をしていてね。看病で、疲れきっていたんだろう。畳に突っ伏すようにして、眠っていた。……母は、そのとき、小さな声で、歌をうたっていたんだよ。寝ぼけて、うわごとみたいに」
「歌」
「子守唄さ。わたしが小さいころ、母が、いつも、うたってくれた子守唄。……眠れ、眠れ、星が海をわたるまで、ってね。そういう、子守唄だった」
祖母は、そっと、その歌の一節を口ずさんだ。しわがれた、けれど、たしかな節回しで。
「眠れ、眠れ、星が海をわたるまで……」
美緒は、その歌を、初めて聞いた。けれど、なぜだろう。どこかで、聞いたことがあるような気がした。ずっと昔、自分がまだ言葉も知らない、赤ん坊のころに。
「その歌を聞いたら」と祖母は続けた。「わたしは、動けなくなってしまった。母が、疲れきって、眠りながら、わたしの弟のために、その歌をうたっている。……その姿を見たら、まとめた風呂敷が、急に、ひどく重たいものに思えてね。わたしは、この人たちを置いて、行こうとしている。何も言わずに、夜逃げのように。この、貧しい、けれど、わたしを育ててくれた家を、捨てて」
「おばあちゃん……」
「わたしは、部屋に戻って、風呂敷を、ほどいたよ。着物を、たんすに戻して、お金を、母の財布に返した。そして、夜の明けるまで、寝床のなかで、じっとしていた」
夜明けの桟橋
夜が明けて。
わたしは、桟橋には、行かなかった。
行けなかったんだよ。あの人が、そこで、わたしを待っているのは、分かっていた。夜明けの、冷たい桟橋で。けれど、わたしは、家の板の間に座って、ただ、膝を抱えていた。
日が高くなって、あの人の乗る船が出る、その時刻になった。
わたしは、板の間で、じっとしていた。障子の隙間から、朝の光が、少しずつ、明るくなっていくのが、分かった。あの人は、待っている。冷たい桟橋で、ひとり、わたしを、待っている。そう思うと、胸が、張り裂けそうだった。けれど、足が、動かなかった。まるで、板の間に、根が生えたように。母の子守唄が、まだ、耳の奥で、鳴っていた。眠れ、眠れ、星が海をわたるまで――その歌が、わたしの足を、この家に、縫いとめていた。
わたしは、とうとう、家を飛び出した。桟橋まで、走ったよ。せめて、ひと目、顔を見て、詫びようと思ってね。行けない、ごめんなさい、あなたのことは忘れない、と。そう言おうと思って。
道は、朝の光で、白く光っていた。わたしは、はだしのまま、走った。石ころが、足の裏に食い込んだけれど、痛みなんて、感じなかった。ただ、間に合ってくれ、間に合ってくれ、と、それだけを、念じて、走った。あの人の顔が、見たかった。もう一度だけ。たとえ、一緒に行けなくても、あの、澄んだ目を、もう一度だけ、見たかった。
けれど、桟橋に着いたときには、もう、船は出たあとだった。
沖に、小さくなっていく船の影が、見えた。わたしは、桟橋の端に立って、その影が、水平線に呑まれて、見えなくなるまで、見ていた。ずっと、見ていた。
あの人は、最後まで、桟橋にいたのだと思う。夜明けから、船の出るまで、ずっと。わたしが来るのを、待って。
だってね、美緒。
桟橋の、板の上に、片方だけの手袋が、落ちていたんだよ。
あの人の、手袋さ。船乗りの、分厚い、革の手袋だった。それが、片方だけ、桟橋に、ぽつんと、置かれていた。まるで、忘れ物のように。……いいや、忘れ物なんかじゃない。あれは、わざと、置いていったんだ。わたしのために。もう片方を、自分で持って。
わたしには、分かった。あの人は、こう言いたかったんだ。片方は、俺が持っていく。もう片方は、おまえが持っていろ。いつか、どこかで、この二つが、また揃うことがあれば、と。……そういう、あの人なりの、別れの言葉だったんだよ。
祖母は、そこまで話すと、そっと、目を閉じた。
病室は、しんと静まりかえっていた。窓の外の、遠い車の音だけが、かすかに聞こえた。午後の光は、いよいよ黄ばんで、床頭台のうえの、紙コップの影を、長く伸ばしていた。
美緒は、しばらく、何も言えなかった。
「その手袋は」と、ようやく、彼女は訊いた。「どうしたの」
祖母は、目を閉じたまま、ふっと、笑った。
「ずっと、持っていたよ。六十何年、ずっとね」
「いまも」
「いまもさ」
祖母は、そう言って、枕の下に、細くふるえる手を、そっと差し入れた。そして、そこから、何かを、取り出した。
古い、片方だけの、革の手袋だった。
もとは、しっかりとした色をしていたのだろう。けれど、いまは、すっかり色が褪せて、革はひび割れ、指の先は、すり切れていた。それでも、それは、たしかに、手袋だった。船乗りの、分厚い、革の手袋の、右手のほう。
美緒は、それを、見つめた。祖母が、六十年以上、枕の下に忍ばせてきた、その手袋を。嫁ぐときも、子を産むときも、夫を看取るときも、ずっと、誰にも知られずに、持ちつづけてきた、その片方を。
「おばあちゃん、これ……」
「造り酒屋には、嫁がなかったよ」と祖母は言った。「あの縁談は、断った。母には、ずいぶん、怒られてね。でも、どうしても、嫁ぐ気には、なれなかった。かわりに、わたしは、隣町の、あんたのおじいさんのところへ、嫁いだんだ。おじいさんは、いい人だった。まじめで、やさしくて、わたしを、大事にしてくれた。わたしは、あの人と、しあわせに暮らしたよ。うそじゃない。ほんとうに、しあわせだった」
祖母は、そこで、手のなかの手袋を、そっと、撫でた。
「でもね。ときどき、あの、蒼い星のことを、思い出すんだよ。ミラっていう、あの、寂しくて、やさしい星のことを。あの人が言った、あの言葉を。ミラが出ているあいだに決めたことは、遠い海を渡っても、消えない、ってね」
昼下がりの時間
「あの人はね」と祖母は続けた。声は、いよいよ、まどろみに近づいていた。「氷の海へ行った。それきり、便りは、一度もなかった。だから、無事に、どこかで、生きていたのか。それとも、あの、冷たい海に、呑まれてしまったのか。わたしは、知らない。ずっと、知らずに、きたんだよ」
美緒は、祖母の、手袋を撫でる手を、見ていた。
「知りたいと、思わなかったの」
「思ったさ。何べんも」祖母は、目を閉じたまま、微かに笑った。「でもね、知らないほうが、いいような気も、したんだよ。知ってしまえば、あの人は、生きているか、死んでいるか、どちらかに、決まってしまう。……知らずにいれば、あの人は、いつまでも、あの夜の桟橋で、星を指さしている、二十四の、若い船乗りの、ままでいられるだろう」
窓の外の光が、ふいに、翳った。雲が、日を隠したのだ。病室が、いっとき、薄暗くなった。そして、また、明るくなった。
「それにね」と祖母は言った。「わたしは、あの晩、桟橋へ行かなかったことを、後悔しては、いないんだよ。行かなかったから、あんたのおじいさんに会えた。あんたのお母さんが生まれて、あんたが、生まれた。そうだろう。もし、あのとき、あの人と行っていたら、いま、ここに、あんたは、いない」
美緒は、うなずいた。目のふちが、熱くなっていた。
「でも」祖母の声は、いよいよ、細く、遠くなっていった。「選ばなかった道のことは、ときどき、思い出すのさ。歩かなかった道の、その先には、どんな景色が、あったんだろうって。……氷の海の見える町で、あの人の帰りを、待つ暮らし。それは、それで、ひとつの、人生だったろう。歩かなかったけれど、たしかに、そこに、あった道だ」
祖母は、そこで、長い、長い、息を吐いた。
「人はね、美緒。生きているあいだに、たくさんの道の、たった一本しか、歩けない。ほかの道は、みんな、置いてくる。置いてきた道のことを、忘れるのが、上手な人もいる。忘れられない人も、いる。……わたしは、どうやら、忘れられない性分だったんだね。だから、この手袋を、六十何年も、枕の下に、隠して、きたんだよ」
美緒は、しばらく、黙っていた。それから、そっと、訊いた。
「おじいちゃんは……このこと、知ってたの」
祖母は、目を閉じたまま、ゆっくりと、首を横に振った。
「知らなかったろうね。言わなかったから。……でも、あの人は、かしこい人だったから、うすうす、気づいていたかもしれない。わたしが、ときどき、遠い目をして、海のほうを、見ていたのを。何も、訊かなかったけれどね。あの人は、そういう、やさしさを、持った人だったよ」
祖母は、そこで、微かに、笑った。
「わたしはね、美緒。あの、おじいさんのことも、ちゃんと、愛していたんだよ。うそじゃない。四十年、連れ添った。喧嘩もしたし、笑いもした。あの人の、最期を、看取ったのも、わたしだ。あの人がいなければ、わたしの人生は、ずいぶん、寂しいものだったろう。……ただね、心のなかに、ひとつだけ、あの人にも、子どもにも、渡さなかった、小さな部屋が、あったのさ。その部屋のなかに、あの、蒼い星と、片方の手袋を、しまって、ずっと、鍵を、かけてきた。今日まで、ね」
祖母は、そこで、うっすらと、目を、開けた。そして、美緒を、見た。
「その部屋の、鍵をね。今日、あんたに、渡すよ」
美緒は、その言葉の意味を、はかりかねて、祖母の顔を、見つめた。祖母は、ただ、おだやかに、笑っていた。
「なぜ、わたしに」
「さあ、なぜだろうね」祖母は、また、目を閉じた。「あんたの、その横顔がね。ときどき、あの、桟橋の夜の、わたし自身に、似て見えるんだよ。……あんたにも、あるんじゃないかい。まだ、歩いていない道が。選ばなくちゃ、ならない、分かれ道が」
美緒は、はっとした。
じつは、あった。誰にも言っていない、ひとつの決断が。遠い町での、新しい仕事の話。それを受ければ、いまの暮らしを、みんな、置いていくことになる。慣れた町も、親しい人も、みんな。受けるべきか、断るべきか。もう何ヶ月も、決めかねていた。そのことを、祖母には、ひとことも、話していなかった。なのに。
「……どうして、分かるの」
「ふふ。長く生きていると、顔を見れば、分かるのさ」祖母の声は、いよいよ、まどろみに、溶けていった。「いいかい、美緒。どっちを選んでも、いいんだよ。ただね、置いてくる道のことは、忘れなくていい。忘れなくて、いいんだよ。……それだけ、覚えておおき」
祖母は、そこで、言葉を、切った。
そして、まぶたを、いっそう、深く、閉じた。
「おばあちゃん」と、美緒は、そっと、呼んだ。「疲れた」
「ああ……少しね」
「休んで。もう、しゃべらなくていいから」
「うん……」
祖母は、手のなかの手袋を、胸のうえに、そっと、抱いた。そして、そのまま、まどろみに、沈んでいった。
美緒は、その寝顔を、見ていた。
しわの刻まれた、小さな顔。うすい、白い髪。けれど、その寝顔は、どこか、少女のように、あどけなかった。いま、この人は、どんな夢を見ているのだろう。あの、夜の桟橋の夢を、見ているのだろうか。蒼い星の下で、若い船乗りと、海を見ている、十九の娘の夢を。
美緒は、ふと、思った。
いま自分が座っている、この病室の椅子と、祖母のいる、あの夜の桟橋とは、六十年以上の時を、隔てている。けれど、この昼下がりの、やわらかな光のなかでは、その六十年が、なんだか、ほんの、ひとまたぎで、越えられそうな気がした。祖母のまどろみと、自分の覚醒とが、潮のように、重なり合って、そのあいだに、時間が、飴のように、やわらかく、溶けていくようだった。
眠れ、眠れ
どのくらい、そうしていただろう。
祖母は、まどろみの、いちばん深いところにいた。
そこには、もう、病室の白い天井も、ブラインドの光の段々も、なかった。かわりに、夜の海が、あった。潮の匂いが、した。足の裏に、桟橋の板の、冷たさが、あった。
娘は――十九の、あの娘は――桟橋の端に、立っていた。
隣に、あの人が、いた。聡さんが。日に焼けた、無口な、目だけが澄んだ、あの、若い船乗りが。
「あれを、見てごらん」と、あの人が、言った。
娘は、あの人の、指の先を、見た。
ほかの星に、まじって、ひとつ、蒼い星が、あった。ほんのりと、けれど、たしかに、青みがかった光を、放っている、星だった。
「ミラだよ」と、あの人が、言った。「何十年に、一度、思い出したように、戻ってくる。あれを見られるのは、幸運なんだ。人が一生のうちに、あれを見られるのは、せいぜい、一度か、二度、きりだ」
娘は、その、蒼い星を、じっと、見つめた。
寂しくて、けれど、やさしい、その光を。
「聡さん」と、娘は、言った。「わたしね」
「うん」
「わたし、あなたと、一緒に、行くわ」
あの人が、こちらを、向いた。星あかりのなかで、あの人が、笑ったのが、見えた。娘が、ついぞ、この世では、見ることのなかった、その笑顔が。
「ああ」と、あの人が、言った。「行こう」
そして、二人は、手を、つないだ。
あの人の手には、片方だけ、手袋が、なかった。剥き出しの、その手は、あたたかかった。もう片方の手袋は、きっと、桟橋の、どこかに、置いてきたのだろう。娘の、ために。
どこか、遠くから、歌が、聞こえてきた。
眠れ、眠れ、星が海をわたるまで――
母の、うたっていた、あの子守唄だった。けれど、それは、もう、悲しい歌では、なかった。夜の海を、蒼い星が、ゆっくりと、渡っていく。その光に、送られて、二人の乗った、小さな船が、沖へ、沖へと、進んでいく。
眠れ、眠れ、星が海をわたるまで――
「おばあちゃん」
美緒の声が、遠くで、した。
けれど、祖母は、もう、目を、開けなかった。
残された時間
三日後の、やはり、昼下がりのことだった。
祖母は、静かに、息を引き取った。
眠るように、逝ったのだと、看護師は言った。苦しんだ様子は、まるで、なかった、と。まるで、いい夢の、いちばん、いいところで、そのまま、まどろみの向こうへ、渡っていったようだった、と。
美緒は、その、しらせを聞いて、病院へ、駆けつけた。
祖母は、あの、窓辺のベッドで、目を閉じて、横たわっていた。もう、光の段々を、眺めることも、まどろむことも、ない、静かな顔だった。けれど、その表情は、おだやかで、どこか、微かに、笑っているようにも、見えた。
美緒は、祖母の、枕元に、座った。
そして、ふと、気づいた。
祖母の、胸のうえに、あの、片方だけの、手袋が、置かれていた。褪せた、ひび割れた、すり切れた、船乗りの、革の手袋。祖母が、六十何年、枕の下に、隠しつづけてきた、その、片方が。看護師が、そこに、置いたのだろうか。それとも、祖母が、最期の力で、自分で、胸のうえに、抱いたのだろうか。
美緒には、分からなかった。
けれど、その、手袋を見たとき、美緒は、思ったのだ。
いまごろ、おばあちゃんは、あの、夜の桟橋に、いるのかもしれない、と。十九の、若い娘に、戻って。蒼い星の下で、あの、若い船乗りと、手を、つないで。そして、二人で、乗合の船に、乗って、今度こそ、氷の海の見える、あの、遠い町へ、向かっているのかもしれない、と。
置いてきた、あの道を。歩かなかった、あの道を。
いまごろ、おばあちゃんは、まどろみの、いちばん、深いところで、ようやく、歩いているのかもしれない。
美緒は、そっと、その手袋を、手に、取った。
軽かった。おどろくほど、軽かった。まるで、なかに、六十年分の、ある夏の、潮の匂いと、蒼い星の光と、それから、うたわれなかった、子守唄の、続きが、詰まっているような、そんな、軽さだった。
美緒は、その手袋を、頬に、あてた。
すると、どこからか、あの、歌が、聞こえてくるような気が、した。祖母が、あの日、しわがれた声で、口ずさんだ、あの、子守唄が。
眠れ、眠れ、星が海をわたるまで――
窓の外では、午後の陽が、いよいよ、傾いて、西の空を、ほのかに、染めはじめていた。あと、幾時間かすれば、日は、暮れる。そして、夜が、来る。星が、出る。そのなかに、もしかしたら、あの、蒼い星も、まじっているのかもしれない。何十年に、一度、思い出したように、戻ってくる、あの、ミラという星が。
美緒は、手袋を、そっと、握りしめた。
この手袋を、わたしが、預かろう、と、思った。おばあちゃんが、六十何年、そうしてきたように。いつか、あの、もう片方が、この世の、どこかで、ふいに、あらわれる、その日まで。あるいは、あらわれない、まま、でも。
置いてきた道のことを、忘れられない、というのは、悲しいことでは、ないのだと、美緒は、思った。それは、たしかに、そこに、あった道を、生涯、大切に、抱きつづける、ということだ。歩かなかった、けれど、たしかに、そこに、ひらけていた、もうひとつの、人生を。
窓辺のベッドは、もう、空だった。
けれど、その、白いシーツのうえには、まだ、あの、まどろみの、やわらかな時間が、うっすらと、残っているようだった。現在と、過去の、まじりあう、あの、昼下がりの、光のなかに。
美緒は、しばらく、そこに、座っていた。
やがて、彼女は、立ちあがり、手袋を、そっと、胸の、内ポケットに、しまった。そして、窓辺に、歩みよって、傾きかけた、午後の陽を、見た。
眠れ、眠れ、と、彼女は、心のなかで、つぶやいた。星が、海を、わたるまで。
そうして、彼女は、静かに、その部屋を、あとにした。祖母の、まどろみを、そのまま、あの、蒼い星の、渡っていく海に、そっと、送りだすように。