月光書房
未の刻 ・ 昼下がり ・ 第 九 話

縁側の日

夢野 睡子
マジックリアリズム ・ 約25頁

縁側の日は、蜜のようにゆっくりと流れる。

その午後、私は畳のうえで眠っていた。眠ろうと決めて眠ったのではない。障子ごしのやわらかな光と、庭のどこかで鳴きつづける鳩の声と、火鉢にかけたままの薬缶の、いつまでも沸ききらない小さなささやきが、いつのまにか私の背中を撫でおろし、瞼のうらへと私を運んでいったのだった。梅雨の晴れ間の、六月の未の刻。時刻でいえば、たぶん一時をいくらか過ぎたころ。けれど昼下がりのまどろみのなかでは、時刻というものは、あってないようなものになる。針は動いているのに、時間だけがどこかで立ちどまってしまう。そういう刻が、一日にひとつだけある。

私はもう七十を過ぎている。ひとりで、この古い家に住んでいる。子どもたちはそれぞれの町に出て、めったに帰らない。妻は――妻の話は、あとにしよう。この家には、私と、私の眠りと、庭の草木と、それから、たくさんの誰もいない部屋があるきりだ。誰もいない部屋というのは、不思議なもので、住むほどに増えていく。人が去るたびに、部屋がひとつずつ、そちらへ引っ越していく。いまでは家のほとんどが、そういう部屋になってしまった。障子をあけると、そこには、ただ、昔の光だけが、うっすらと残っている。誰も座らなくなった座布団のうえに、誰も触れなくなった鏡台のうえに、時間だけが、ほこりのように、静かに積もっていく。

年をとると、昼と夜の境が、だんだんあいまいになる。若いころは、昼はきっぱりと昼で、夜はきっぱりと夜だった。そのあいだに、まどろみなどというあいまいな刻の入りこむ余地は、なかった。けれど、いまはちがう。私の一日は、目ざめと眠りのあわいに、たくさんの、名前のつけようのない時間が挟まっている。うつらうつらと、まぶたのおもてで光がゆれ、耳のおくで庭の音がとおくなったり近くなったりする、あの時間が。その時間のなかでは、いろいろなものが、境を越えて、行き来する。生きているものと、そうでないものとが。いまあるものと、とうに過ぎ去ったものとが。

この年になって、私はようやく、まどろみというものが、ただの浅い眠りではないことを知った。それは、いわば、この世とあの世のあいだにかけわたされた、細い、ゆれる、木の橋のようなものだ。その橋のうえでなら、渡ってはならないはずの者も、少しのあいだ、こちら岸に足をかけることができる。そういう刻が、たしかに、一日にひとつだけある。昼下がりの、あの、蜜のような刻が。

その日、私はうたた寝のなかで、庭の音を聞いていた。眠っているのに、聞こえている。それがまどろみというものの奇妙なところで、私はたしかに眠っていながら、同時に、縁側の板の冷たさを背中に感じ、遠くの踏切の音を耳にとどめ、そして――誰かが庭の木戸をあけて入ってくる、その、閂のこすれる小さな音までを、はっきりと聞いていたのだった。

一

「ごめんください」

と、その声は言った。

私はうっすらと目をあけた。目をあけた、と思った。けれど、まどろみのなかで目をあけるというのは、ほんとうに目をあけることとはちがう。夢のなかにもう一枚、薄い障子があって、その障子だけがすうっと開く。すると縁側の向こう、庭の飛石のうえに、ひとりの女が立っていた。

日傘を差していた。白い、麻の。その傘の縁から、こもれ日が幾筋も洩れて、女の肩に、藤の花のような影を落としていた。

「よく寝ていらしたのに、起こしてしまいましたか」

女はそう言って、日傘をたたんだ。たたむときの、あのしゃらりという骨の音を、私はなぜか、この世でいちばん懐かしい音のように聞いた。

妻だった。

私はそれを、驚きもせずに受け入れた。まどろみのなかでは、そういうことが起こる。あってはならないことが、ごく当たり前の顔をしてやってくる。妻は――佐和子は、七年前の秋に死んだ。桜の落葉が縁側に吹きだまるころ、寝間の窓の外を見ながら、ゆっくりと息をひきとった。私はその手を握っていた。冷たくなっていく手を、いつまでも握っていた。

その佐和子が、いま、庭の飛石のうえに立っている。死んだときよりも、ずっと若い。私が三十のころ、はじめてこの家に嫁いできたころの、あの佐和子だ。桃色の絽の着物を着て、髪をうしろで結って、片方の手に、白い手袋をはめている。

片方だけ、だった。

もう片方の手は、素手だった。その素手のほうで、彼女は日傘の柄を握っていた。

「あがっても、よろしいですか」

私はうなずいた。声が、うまく出なかった。

佐和子は縁側の端に腰をおろした。着物の裾をきちんとそろえて、日傘を膝のわきに横たえて。そうしてしばらく、庭を眺めていた。私も、彼女の横顔を眺めていた。まどろみのなかの光は、現実の光よりもいくらか蜜色が濃くて、その光のなかで、佐和子の頬は、桃の実のようにやわらかく輝いていた。

「変わりませんね、この庭は」と佐和子が言った。

「手入れが、ゆきとどかなくてね」と私は言った。ようやく声が出た。「あなたがいたころは、もっと――もっと、きれいだった」

「いいえ」佐和子は首を振った。「荒れているところが、いいのです。人の手が入りすぎた庭は、息がつまります。ほら、あそこ。石のあいだから蕗が出ている。あなたが刈らなかったから、出られたのですよ」

私は石のあいだを見た。たしかに、蕗の若い葉が、ひとつ、ふたつ、みずみずしく開いていた。私はそれを、これまで一度も見たことがなかったような気がした。七年間、毎日この縁側に座っていたのに。

「あなたのおかげで、この庭は、生きています」と佐和子は言った。「刈られなかった草。抜かれなかった苔。放っておかれたものたちが、みんな、勝手に生きている。人は、なにかを大切にするというと、すぐに手を入れたがるでしょう。でも、いちばんの大切は、ときには、放っておくことなのですよ。そのままにしておくこと。あるがままに、任せておくこと」

私は、その言葉を、庭のことだけでなく、私自身のことのようにも聞いた。この七年、私は、私という庭を、ずいぶん荒れるにまかせてきた。髭も剃らず、髪も梳らず、部屋も片づけず、ただ、佐和子のいなくなった時間のなかを、草のように、苔のように、放っておかれて生きてきた。それを、彼女は、責めなかった。むしろ、それでいい、と言うように、庭の荒れたところを、いとおしそうに眺めていた。

「あなたは」と私は言った。「私を、心配して来てくれたのか」

「いいえ」と佐和子は、また首を振った。「心配など、していません。あなたは、大丈夫。荒れていても、ちゃんと、生きている。ただ――」彼女は、少し言いよどんだ。「ただ、会いたかったのです。それだけです。理由なんて、それだけで、じゅうぶんでしょう」

二

薬缶が、まだ沸かない。

不思議だった。私が眠りに落ちる前から、火にかけていたはずなのに。まどろみのなかでは、火も、湯も、待つことをやめてしまうらしい。ずっと同じ小さなささやきを立てているきりで、いつまでも沸騰にはたどりつかない。そのおかげで、この午後はどこまでも続くように思われた。

「お茶を、淹れましょうか」と佐和子が言った。

「いや」と私は言った。「湯が、まだ沸かないんだ」

「いいのです」と佐和子は言って、立ちあがった。「淹れるまねを、しますから」

彼女は台所へ立った。まどろみのなかの台所は、記憶のなかの台所と、少しずつちがっていた。棚の位置が、いつのまにか昔の場所に戻っていた。私が何年か前に、腰が痛いからと低いところに付け替えた棚が、また高いところに戻って、佐和子はそこへ、なんの造作もなく手をのばした。彼女にとっては、そこが正しい場所なのだった。死者は、生きていたころの家のかたちを、そのまま持ち歩いているのかもしれない。

急須の蓋をあける音。茶葉を量る、さらさらという音。それから、湯を注ぐ――はずのない湯を注ぐ、その、まねごとの、けれど確かに聞こえる、注ぐ音。私は縁側から、その一部始終を聞いていた。目をつむって、聞いていた。七年間、この家では聞かれなかった音だった。

やがて佐和子が、盆に湯呑をふたつのせて戻ってきた。湯気が立っていた。空の湯呑から、たしかに、白い湯気が立っていた。

「どうぞ」

私は湯呑を受けとった。あたたかかった。手のひらに、たしかなぬくもりがあった。口をつけると、番茶の、少し焦げた、なつかしい味がした。まねごとのはずの茶が、味を持っていた。

「うまい」と私は言った。

「あなたはいつも、そうおっしゃった」と佐和子は笑った。「熱いだの、渋いだの、文句ばかりの人だったのに、飲みおわると、きまって、うまい、と」

そうだったろうか。私は覚えていない。三十年、いや四十年、この人と暮らして、そのあいだに交わした何万杯もの茶のことを、私はほとんど覚えていない。覚えているのは、最後の日々の、飲めなくなった茶のことばかりだ。喉を通らなくなって、湿らせた脱脂綿で唇を濡らすだけになった、あのころのことばかりだ。うまい茶のことを、私はすっかり忘れてしまっていた。

「――あなたは」と私は言いかけて、言葉を探した。「あなたは、どこから来たんだ」

佐和子は、湯呑のふちを見つめたまま、しばらく黙っていた。

「さあ」と、やがて言った。「どこから、でしょうね。気がついたら、庭の木戸の前に立っていました。木戸をあけたら、あなたが縁側で眠っていた。それだけです。来る道のことは、覚えていません」

「帰る道は」

「それも」佐和子は少し首をかしげた。「わかりません。でも、たぶん、あなたが目をおさましになるまでは、ここにいられるのだと思います」

私は湯呑を、両手で包んだ。目を、さますものか、と思った。この午後を、いつまでも続かせてやる。薬缶が沸かないように、私も目をさまさない。そう思った。けれど、まどろみというのは、こちらの思うようにはならないものだ。眠りは、いつも私たちの意志のほんの少し先で、勝手にことを運んでしまう。それを私は、経験から知っていた。だから、湯呑を包む手に、力がこもった。

三

「あなた」と佐和子が言った。「空を、ごらんなさい」

私は空を見た。梅雨の晴れ間の、青い、それでいてどこか白っぽい、六月の午後の空。その空の、ちょうど庭のさるすべりの梢のうえあたりに――蒼い星が、ひとつ、光っていた。

昼の空に、星。

それはありえないことだった。けれど、まどろみのなかでは、ありえないことのほうが、むしろ静かに正しい。その星は、ほかのどんな星ともちがう、深い、澄んだ、蒼をしていた。まるで空のいちばん深いところに開いた、小さな穴のようだった。そしてその蒼には、かすかに、尾のようなものがひかれていた。ひとすじの、光の刷毛あと。

「あれは」と私は言った。

「彗星ですよ」と佐和子は言った。「ミラ彗星。ずっと昔に、一度だけ、あなたと見たでしょう。覚えていませんか」

覚えていた。とつぜん、覚えていた。

まだ子どもができる前の、若い夫婦だったころ。ある夜、佐和子が私を叩き起こして、外へ連れ出した。寝間着のうえに丹前を羽織って、ふたりで裏の丘にのぼった。冬の、凍えるような夜だった。丘のうえの空に、蒼い星が、尾をひいて懸かっていた。何百年に一度しかめぐってこない星なのだと、佐和子は言った。どこでそんなことを知ったのか、彼女はいつも、私の知らないことをたくさん知っていた。

「わたしたちが死んだあとも、あの星はまためぐってくるのね」と、あのとき佐和子は言った。「そのとき、わたしたちはもう、この世にいない。でも、あの星は、わたしたちがここにいたことを、覚えていてくれる気がするの」

寒さのあまり、私は早く帰ろうと言った。佐和子は、もう少し、もう少しと言って、なかなか丘をおりようとしなかった。片方の手袋を、私に握らせて。――そうだ、あのときも、手袋は片方だけだった。もう片方を、彼女はどこかで落としてきていた。私が握らされたその手袋の、指のかたちに残ったぬくもりを、私はいまでもてのひらに覚えている気がする。

あのころ、私たちは若く、貧しかった。手袋ひとつ、なくしても、すぐには買いかえられなかった。だから佐和子は、片方だけになった手袋を、それでも大事に持っていた。いつか、もう片方が、どこかからひょっこり見つかるような気がする、と彼女は言った。落としたものは、なくなったのではない。ただ、いまはまだ、見つかっていないだけ。世界のどこかに、ちゃんと在って、こちらへ戻ってくる日を待っている。――そんなふうに、彼女は、ものごとを考える人だった。失われたものを、ほんとうに失われたとは、決して思わない人だった。

いま思えば、それは、手袋のことだけではなかったのかもしれない。彼女は、たぶん、命についても、同じように考えていたのだ。死んだ者は、なくなったのではない。ただ、いまはまだ、見つかっていないだけ。世界のどこかの、まどろみの縁側のような場所で、こちらへ戻ってくる日を、静かに待っている。――そう考えれば、いまこうして、私の縁側に佐和子が座っていることも、少しも不思議ではないように思われた。彼女は、なくなってなど、いなかったのだ。ただ、七年のあいだ、見つからなかっただけなのだ。

「昼にも、見えるものなのか」と私は、いまの空の星を見あげて言った。

「昼には、見えません」と佐和子は言った。「ふつうは。でも、いまは、まどろみのなかですから。まどろみのなかでは、夜も昼も、混じり合っているのです。だから、昼の空にも、夜の星が浮かんでくる。あなたのなかの、いろんな時刻が、いまここに、いちどきに集まっているのですよ」

私は、佐和子のその言葉を、うまく理解できなかった。けれど、理解できないまま、それが正しいことだと感じた。まどろみのなかでは、理解よりも先に、納得がやってくる。

蒼い星は、さるすべりの梢のうえで、静かに燃えていた。

四

「あなたに、謝らなければならないことがあります」と、しばらくして佐和子が言った。

私は湯呑から目をあげた。

「最後の日々のことです」と佐和子は言った。「わたしは、あなたに、ずいぶん、つらくあたりました。痛みのせいだと、あなたは思ってくださっていたでしょう。でも、痛みだけではなかった。わたしは、こわかったのです。こわくて、いらだって、いちばん近くにいるあなたに、それをぶつけていた。すまなかったと、ずっと、思っていました」

私は首を振った。強く、振った。

「謝ることなんか、なにもない」と私は言った。「つらくあたられた覚えなんか、私にはひとつもない。私が覚えているのは――」

私は言葉に詰まった。私が覚えているのは。なんだろう。私が覚えているのは、なんだったろう。

「私が覚えているのは」と私はもう一度言った。「あなたが、窓の外を見ていたことだ。最後の日、あなたはずっと、窓の外の桜を見ていた。落葉した桜を。もう花もない、葉もない、裸の枝を、あなたはじっと見ていた。なにを見ているのかと訊いたら、あなたは、来年の花を見ているのだと言った。もう来年を見ることはできないのに、あなたは、来年の花を、見ていた」

佐和子は、うつむいた。

「見えたのですよ」と、小さな声で言った。「ほんとうに、見えたのです。裸の枝のさきに、来年の、そのまた来年の、ずっとさきの花まで、みんな見えた。人はね、あなた、死ぬまえには、いろんなものが見えるようになるのです。過ぎたことも、これから来ることも、みんな、いちどきに。ちょうど、まどろみのようにね」

薬缶が、ささやいていた。まだ、沸かない。

「あのとき」と佐和子は続けた。「見えたもののなかに、いまのこの午後もありました。あなたが縁側で眠っていて、わたしがそこへ訪ねてくる、この昼下がりが。だから、わたしは知っていたのです。またあなたに会えると。だから、こわくなかった。ほんとうは、こわくなかったのです。あなたにあたったのは――ただ、あなたに、覚えていてほしかったから。わたしのことを、きれいなことばかりでなく、みっともないことまで、ぜんぶ覚えていてほしかったから」

私は、なにも言えなかった。目のおくが、熱くなった。まどろみのなかでも、人は泣くのだと、私はそのとき知った。

五

しばらく、私たちは、なにも話さなかった。

話さなくても、よかった。夫婦というのは、長く連れ添うと、沈黙のなかにも、たくさんの言葉が流れているものだ。私たちは、庭を眺めながら、その沈黙を、いっしょに飲んでいた。番茶のように。少し焦げた、なつかしい味のする沈黙を。

やがて、佐和子が、ぽつりと言った。

「あの旅を、覚えていますか」

「どの旅だ」と私は言った。私たちは、貧しいなりに、何度か旅をした。新婚のころ、子どもが生まれる前、そして子どもたちが巣立ったあと。

「北の海の」と佐和子は言った。「あなたが、道をまちがえて、日が暮れてしまった、あの旅です」

私は、思いだした。ずいぶん昔のことだ。子どもたちがまだ小さかったころ、私たちは、北の海辺の温泉へ出かけた。私が地図を読みまちがえて、宿までの道を、ひとつ、ふたつ、乗りすごした。気がつくと、あたりはすっかり暗くなって、私たちは、見知らぬ海辺の道を、四人で、とぼとぼと歩いていた。上の子は泣きだし、下の子は、佐和子の背中で眠っていた。

「あなたは、あのとき、ずいぶん、しょげていましたね」と佐和子は笑った。「もう申しわけない、申しわけないと、そればかり言って。でも、わたしは、ちっとも困っていませんでした。だって、あの夜の海が、それはそれは、きれいだったのですもの」

そうだった。道にまよって、途方にくれて、けれど、ふと海のほうを見ると、暗い水平線のうえに、月がのぼっていた。まんまるな、大きな月だった。その月の光が、黒い海のうえに、一本の、金色の道をひいていた。まるで、その道をたどっていけば、どこかへ行けるかのように。上の子が、泣きやんで、その月の道を指さした。おかあさん、あれは、なに。あれは、月の道よ、と佐和子は言った。あの道をわたっていくと、星の海に出るのよ。

「あなたは、そのとき、あの子に、子守唄を歌ってやったろう」と私は言った。

「ええ」と佐和子はうなずいた。「歩きながら、歌いました。眠れ、眠れ、星が海をわたるまで、と。上の子は、それを聞きながら、いつのまにか、わたしの手をにぎって、歩きながら、半分、眠っていました」

けっきょく、その夜、私たちは、たいそう回り道をして、真夜中近くに、ようやく宿にたどりついた。宿の女将は、心配して、外まで出て待っていてくれた。冷えたでしょう、と、熱い甘酒を出してくれた。私は、道をまちがえた自分を、まだ責めていた。けれど、いま、こうして思いかえしてみると、あの旅でいちばん覚えているのは、まちがえずにたどりついた宿のことではなく、まちがえたおかげで見た、あの、月の道のことなのだった。

「まちがいも、悪いものではありませんね」と佐和子は言った。私の心を読んだように。「まちがえたから、見えたものが、あるのですから。まっすぐに、正しく生きていたら、けっして見られなかったものが。あなたは、道をまちがえてくれて、わたしたちに、あの海を、見せてくれたのですよ」

私は、なんだか、救われたような気がした。私は、この長い人生で、たくさんの道をまちがえた。仕事でも、人づきあいでも、この人との暮らしのなかでも。数えきれないほどの、まちがいを重ねてきた。そのひとつひとつを、私は、ずっと悔いていた。けれど、佐和子は、そのまちがいのなかにも、見えたものがあったろう、と言ってくれる。まちがいの数だけ、私は、まちがえなければ見られなかったものを、見てきたのだと。

「上の子は」と私は言った。「いま、あの北の海の、そう遠くない町に、住んでいる」

「知っています」と佐和子は言った。

「あの子は、覚えているだろうか。あの月の道を」

「覚えていますよ」と佐和子は、静かに言った。「忘れたつもりでいても、覚えているのです。人は、大切なものを、心のいちばん深い引き出しに、しまいこむのです。そうして、鍵をかけて、忘れたふりをする。でも、ある日、ふとしたはずみに、その引き出しが、ひとりでにあく。子どもが生まれたときとか、親を送ったときとか。あるいは、こういう、昼下がりの、まどろみのなかで。そうして、しまいこんだものが、みんな、いちどきに、こぼれてくる。あの子も、いつか、そうなります。そのとき、あの子は、月の道を、思いだすでしょう。そして、わたしの子守唄も」

まどろみの縁側に、風が、ひとすじ、吹きぬけた。庭のさるすべりが、さわさわと鳴った。その音は、遠い、北の海の、波の音のようにも聞こえた。

六

日が、少し傾いた。

まどろみのなかの日は、ふだんよりずっとゆっくり動くけれど、それでも、まったく止まっているわけではなかった。縁側に落ちる障子の桟の影が、いつのまにか、指の幅ひとつぶんだけ、東へずれていた。私はその影のずれを見て、この午後にも、やがて終わりが来るのだということを、はじめて意識した。

「そろそろ」と佐和子が言った。私の心を読んだように。

「まだだ」と私は言った。「まだ、いい。もう少し」

「あの夜の、あなたのようですね」と佐和子は笑った。「丘のうえで、もう少し、もう少しと言ったのは、あのときはわたしのほうでしたけれど」

「代わってやりたいよ」と私は言った。「あのとき、あなたを寒い丘に長く立たせて、悪かった。いま思えば、いくらでも、立っていればよかった。何時間でも、あなたの隣で、あの星を見ていればよかった」

「もう、見ていますよ」と佐和子は、空を見あげて言った。「いま、こうして」

蒼い星は、まだそこにあった。さるすべりの梢のうえに。昼の光のなかで、少しも褪せずに。

佐和子は、膝のうえの、片方だけの白い手袋に目を落とした。それから、その手袋を、ゆっくりと外した――いや、外したのではない。素手だったほうの手で、手袋をはめたほうの手を、そっと包んだ。そうして、はめていたほうの手袋を、指さきから、一本ずつ、抜いていった。

抜きおわると、彼女は、その片方だけの手袋を、縁側の板のうえに、そっと置いた。私と彼女のあいだに。

「これを」と佐和子は言った。「置いていきます」

「なぜ」と私は訊いた。

「あの夜、あなたに握らせた手袋を、覚えていますか」と佐和子は言った。「あれは、右のほうでした。左は、丘へのぼる途中で、どこかへ落としてしまった。だから、うちには、右の手袋だけが残った。あなたは、それをずっと、簞笥のいちばん下の引き出しに、しまっておいてくださいましたね。わたしが死んだあとも」

私は、うなずいた。しまってあった。いまも、しまってある。片方だけの、右の手袋。何度、捨てようとしたか知れない。片方では、なんの役にも立たないのに。けれど、どうしても、捨てられなかった。

「これは、左です」と佐和子は言った。板のうえの手袋を指して。「落としたほうの、左です。ずっと、探していたのでしょう、あなたは。だから、返しにきました。これで、対になる。ふたつ、そろう」

私は、板のうえの手袋を見た。たしかに、左手のかたちをしていた。指のならびが、簞笥のなかのものと、ちょうど鏡のように、逆になっていた。

「これで」と佐和子は、静かに言った。「わたしは、もう、なにも、この世に落としてはいません。ぜんぶ、そろえて、あなたに返しました。だから、あなたも、もう、探さなくていい。片方だけのものを、抱えて、生きていかなくていいのです」

七

子守唄が、聞こえてきた。

どこからか。庭の奥からか。それとも、家のなかの、誰もいない部屋のひとつからか。あるいは、佐和子の口からか。私にはわからなかった。けれど、たしかにその旋律は、まどろみの縁側に、静かに流れこんできた。

眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。

それは、佐和子が、子どもたちに歌ってやった唄だった。上の子にも、下の子にも。夜、なかなか寝つかない子を、膝にのせて、背中を叩きながら、彼女は低く、この唄を歌った。眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。眠れ、眠れ、母さんはここにいる。私は、隣の部屋で、その唄を聞きながら、いつも先に眠ってしまうのだった。子どもよりも先に、父親の私のほうが、その子守唄に、眠らされてしまうのだった。

「あなたにも、歌いましたね」と佐和子が言った。唄をつづけながら。「最後の年に。あなたが、眠れないと言った夜に。覚えていますか」

覚えていた。あれは、佐和子が死ぬ、半年ほど前のことだった。彼女はもう、ずいぶん弱っていた。夜、私がなかなか寝つけずにいると、彼女は、痩せた腕を私のほうへのばして、私の背中を、とん、とん、と、弱々しく叩いた。そうして、あの子守唄を、かすれた声で歌った。眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。私は五十をとうに過ぎた男だったのに、その唄に、赤ん坊のように眠らされた。それが、私が佐和子に子守唄を歌ってもらった、最初で最後の夜だった。

「今日も、歌いますよ」と佐和子は言った。「さあ、お眠りなさい」

「眠ったら」と私は、あわてて言った。「眠ったら、あなたは消えてしまう」

「いいえ」と佐和子は、首を振った。「眠ったのは、もう、とうに、あなたのほうです。目をさましたら、わたしが消えるのです。だから、眠っていてくださるあいだは、わたしは、ここにいます」

それは、奇妙な言葉だった。眠っているあいだは、いる。目をさましたら、いない。ふつうとは、逆だった。けれど、まどろみのなかでは、それが正しかった。眠りこそが、私たちが会える場所だった。目ざめは、別れだった。

だから私は、眠ろうとした。もう眠っているのに、そのうえで、さらに深く眠ろうとした。まどろみの底の、いちばん深いところへ。そこでなら、いつまでも佐和子といられるような気がして。

八

けれど、目ざめは、いつも、こちらの都合を聞いてはくれない。

薬缶が、沸いた。

まどろみのなかで、あれほど沸かなかった薬缶が、とつぜん、しゅんしゅんと、けたたましく沸きたった。湯気が、勢いよく噴きあがった。その音が、私を、まどろみの底から、ぐいと引きあげた。

私は、はっと目をあけた。

こんどこそ、ほんとうに、目をあけた。夢のなかのもう一枚の障子ではなく、現実の私の瞼が、ひらいた。

縁側には、私ひとりだった。

日は、たしかに傾いていた。障子の桟の影が、東へずれていた。庭のさるすべりの梢のうえの空には、もう、なんの星もなかった。青い、白っぽい、六月の午後の、ただの空があるきりだった。台所では、薬缶が、湯気をあげて鳴っていた。私は立って、火を止めにいこうとした。膝が、痛んだ。七十を過ぎた、私の膝が。

けれど、私は、動けなかった。

縁側の板のうえに、片方だけの、白い手袋が、置いてあったからだ。

左手の、白い麻の手袋が。指のならびが、簞笥のなかのものと、ちょうど鏡のように逆になった、その手袋が。まどろみのなかで、佐和子が、私と彼女のあいだに置いた、あの手袋が。

私は、それを、しばらく見つめていた。薬缶が鳴りつづけていた。鳩が鳴いていた。踏切の音が、遠くで聞こえた。ぜんぶ、現実の音だった。まぎれもなく、目ざめた世界の音だった。その現実の縁側に、まどろみのなかの手袋が、たったひとつ、残されていた。

私は、震える手で、それを取った。

あたたかかった。手のひらに、たしかなぬくもりがあった。まねごとの茶が、味を持っていたように、まどろみの手袋は、ぬくもりを持っていた。そのぬくもりは、佐和子の手の、あのぬくもりだった。冷たくなっていく手を、いつまでも握っていた、あの日の――そのずっと前の、若かったころの、あたたかい手の。

九

私は、その手袋を持って、家のなかへ入った。

いくつもの、誰もいない部屋を通りぬけて、寝間へ行った。簞笥のいちばん下の引き出しを、あけた。そこには、右手の、白い手袋が、七年間、たったひとりで、眠っていた。片方だけの、いつまでも対になる相手を待っていた、右の手袋が。

私は、まどろみから持ちかえった左の手袋を、その隣に、そっと置いた。

ふたつ、そろった。

右と、左。鏡のように、向かい合って。長いあいだ離ればなれだった片方どうしが、ようやく、ひとつの引き出しのなかで、再会した。それは、なんということもない、白い麻の手袋が二つ、並んでいるだけの光景だった。けれど私は、その引き出しのなかを、いつまでも、見おろしていた。

もう、探さなくていい、と佐和子は言った。片方だけのものを、抱えて、生きていかなくていい、と。

私は、引き出しを、静かに閉めた。

それから、縁側に戻った。薬缶の火は、いつのまにか消えていた。私が消したのだったか、それとも、ひとりでに消えたのだったか。湯呑がひとつ、縁側の板のうえに、転がっていた。空の、私の湯呑が。佐和子の湯呑は、どこにもなかった。はじめから、ひとつしか、なかったのかもしれない。

私は、その空の湯呑を拾って、番茶を淹れた。こんどは、ほんものの湯で。ほんものの茶葉で。そうして、縁側に座って、ひとりで、それを飲んだ。

少し、焦げた味がした。渋くて、熱かった。

「うまい」と、私は、声に出して言った。

誰もいない縁側に、私の声が、ひとつ、落ちた。庭のさるすべりが、風に揺れた。その梢のうえの空を、私はもう一度、見あげた。星は、なかった。あたりまえだ。昼なのだから。けれど私は、その空のいちばん深いところに、目には見えない蒼い星が、たしかにひとつ、懸かっているのを、知っていた。何百年に一度めぐってくる、あの星が。私たちがここにいたことを、覚えていてくれる、あの星が。

十

その夜のことを、少し書いておきたい。

眠れなくて、私は夜中に起きた。老人は、よく眠れない。昼にまどろむぶん、夜が浅くなる。私は寝間着のうえに丹前を羽織って、庭に出た。あの日、佐和子と丘にのぼった夜のように。

雲のない、よく晴れた夜だった。空には、星がたくさん出ていた。そのなかに、ひとつだけ、蒼い星があった。昼のまどろみのなかで見た、あの星が。夜には、いっそう冴えて、はっきりと、尾をひいていた。ミラ彗星。何百年に一度の。

私は、その星を、長いこと見あげていた。もう少し、もう少し、と、あの夜の佐和子のように、なかなか家に戻ろうとしなかった。膝が痛んでも、夜気が冷たくても、私は縁側の柱に寄りかかって、その星を見ていた。

すると、路地のほうから、ほのかな灯りが洩れてきた。

私は、木戸をあけて、路地をのぞいた。すると、いつもは行き止まりのはずの路地の、そのいちばん奥に――見たことのない、古い店が、一軒、灯りをともしていた。軒に、小さな木の看板がかかっていた。「月光書房」と、そこには書いてあった。

私は、なかば夢のような心もちで、その店に近づいた。硝子戸ごしに、古い本が、天井まで、うずたかく積まれているのが見えた。帳場には、白髪の、小柄な店主が、一冊の本をひらいて座っていた。私が硝子戸に手をかけると、店主は顔をあげて、私を見た。そうして、なにも言わずに、ただ、うなずいた。まるで、私が来ることを、ずっと待っていたかのように。

けれど、私が硝子戸をひらこうとしたとき、店主は、そっと片手をあげて、私をとめた。そうして、帳場のわきの、小さな台のうえを、指さした。そこには、藍色の、小さな箱が、ひとつ置いてあった。三日月の刻まれた、マッチ箱だった。店主は、そのマッチ箱を手にとり、一本、火をともしてみせた。小さな、けれど、たしかな、あかりだった。そのあかりに照らされて、帳場のうえに積まれた本の背が、ほんの一瞬、金色に、うかびあがった。

私には、その意味が、わかるような気がした。目ざめている者は、この店に入ってはいけない。けれど、その火が――あの青いマッチ箱の、小さなひとつの火が、あなたの大切な場面を、いまも、どこかで照らしているのだ、と。店主は、そう言っているように思われた。まどろみの縁側で、私と佐和子が過ごした、あの午後を。その火が、消えずに、照らしつづけているのだ、と。

私は、店主に、深く、頭をさげた。店主も、頭をさげた。そうして、マッチの火を、そっと、吹き消した。あかりが消えると、店も、路地も、もとの闇に沈んだ。

私は、店に入らなかった。なぜだか、入ってはいけないような気がした。あの店は、私のような、目ざめている者のための店ではない。あそこは、まどろみと、まどろみのあいだの、あわいにある店だ。いつか、私が、まどろみから目ざめなくなる日が来たら――そのときは、あの店の硝子戸を、ひらいてもいいのかもしれない。そんなことを、ぼんやりと思いながら、私は、木戸を閉めた。

戻って、もう一度、空を見あげた。蒼い星は、まだそこにあった。私は、小さな声で、あの子守唄を口ずさんでみた。

眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。

うまく歌えなかった。佐和子のようには、歌えなかった。それでも、私は、繰りかえし、口ずさんだ。星が海をわたるまで。母さんはここにいる。歌っているうちに、いつのまにか、私は、また眠くなってきた。夜なのに。星を見あげながら、私は、眠くなってきた。

まどろみが、また、私を迎えにきていた。

十一

それからというもの、私は、昼のまどろみを、心待ちにするようになった。

毎日、未の刻になると、私は縁側に横になる。薬缶を火にかけて、障子を少しあけて、庭の音を聞きながら、目をつむる。すると、いつも、というわけではないけれど、ときどき、木戸の閂のこすれる音が聞こえる。ごめんください、という声が聞こえる。そうして、庭の飛石のうえに、佐和子が立っている。若い、桃色の絽の着物の、あの佐和子が。

会うたびに、私たちは、いろんな話をした。子どもたちのこと。むかしの旅のこと。喧嘩したことも、仲直りしたことも。忘れていたはずのことが、まどろみのなかでは、つぎつぎとよみがえった。まるで、簞笥の引き出しを、ひとつずつあけていくように。過ぎた日々が、色あせもせず、そこにしまわれていた。

あるまどろみでは、私たちは、はじめて出会った日のことを話した。私が、まだ二十代のはじめのころ、雨の降る停留所で、傘を持たずに立っていた佐和子に、私は、自分の傘を差しかけたのだった。彼女は、そのとき、片方だけの手袋をはめていた。もう片方は、どこにもなかった。私は、その片方だけの手袋を、なぜだか、いまでも、はっきりと覚えている。あの人は、出会ったときから、片方だけのものを、身につけていた。まるで、いつか、私が、もう片方を見つけてやることになるのを、あらかじめ知っていたかのように。

またあるまどろみでは、私たちは、なにも話さずに、ただ、いっしょに、庭のさるすべりが散るのを見ていた。桃色の花が、はらはらと、飛石のうえに散った。佐和子は、その花を、一枚、拾いあげて、手のひらにのせた。「きれいですね」と、それだけ言った。私も、「きれいだね」と、それだけ言った。それで、じゅうぶんだった。夫婦というのは、いっしょに「きれいだね」と言える相手が、この世にひとりいる、ということなのかもしれない。そのひとりが、いなくなったあとも、こうして、まどろみのなかで、また、いっしょに「きれいだね」と言える。それが、どれほど、ありがたいことか。

またあるまどろみでは、私は、佐和子に、この七年のあいだにあった、いろいろなことを話した。孫が生まれたこと。上の子の家に、犬が来たこと。私が、去年、大きな病気をして、ひと月ほど入院したこと。佐和子は、それを、ぜんぶ、うなずきながら聞いていた。「知っています」と、ときどき、言った。「ずっと、見ていましたから」と。彼女は、死んだあとも、私たちのことを、ずっと、どこかから、見ていたのだった。見ていて、けれど、声をかけられずにいた。まどろみという橋が、かかるまでは。

けれど、佐和子は、もう、手袋を置いていくことはなかった。あれは、一度きりだった。対になるものは、もう、そろってしまったから。

あるとき、私は訊いた。

「あなたは、いつまで、来てくれるんだろう」

佐和子は、少し寂しそうに笑った。

「あなたが、まどろむあいだは」と彼女は言った。「でも、あなた。いつか、あなたが、まどろみから目をさまさなくなる日が来ます。眠ったまま、目ざめなくなる日が。そのときは――」

「そのときは」と私は、あとを引きとった。「私は、あなたのいる、そちらへ行くんだね」

「ええ」と佐和子はうなずいた。「そのときは、わたしが、木戸まで、迎えにまいります。日傘を差して。手袋を、両方はめて。あなたを、丘へ連れていってあげます。もう、寒くない丘へ。何時間でも、いっしょに、あの星を見ていられる丘へ」

私は、その日を、こわいとは思わなかった。まどろみのなかで、私はもう、ずっと前から、半分は、そちらの世界に足を踏みいれているような気がしていたから。目ざめと眠りの境は、年をとるほどに、薄く、あいまいになっていく。いつか、その境が、すっかり溶けてなくなる日が来る。そのとき私は、まどろみのなかへ、そのまま、歩いていくのだろう。佐和子の待つ、庭の飛石のほうへ。

十二

きょうも、未の刻だ。

私は、縁側に横になっている。薬缶が、火のうえで、小さくささやいている。庭では、鳩が鳴いている。障子ごしの光が、蜜のように、私の背中を撫でおろす。私の瞼が、だんだん、重くなる。

まどろみが、やってくる。

縁側の日は、蜜のようにゆっくりと流れる。そのゆっくりとした流れのなかで、私は、木戸の閂の音を、待っている。ごめんください、という声を、待っている。庭の飛石のうえに立つ、若い佐和子の姿を。白い日傘を。片方だけの――いや、いまはもう、両方そろっているのかもしれない、あの白い手袋を。

簞笥のいちばん下の引き出しには、いまも、二つの手袋が、並んで眠っている。右と、左。もう、片方だけではない。私は、それを、もう探さなくていい。

まどろみのなかへ、私は、静かに沈んでいく。庭の音が、遠ざかる。薬缶のささやきが、子守唄に変わる。眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。昼の空のいちばん深いところで、目には見えない蒼い星が、ひとつ、静かに燃えはじめる。

もう、目をさまさなくてもいい、と、どこかで、あたたかい声がする。

その声のほうへ、私は、手袋をはめていない素手を、そっと、のばす。

縁側の日は、いつまでも、蜜のように流れて、もう、どこにも、片方だけのものは、なかった。

この物語にひそむ符牒

ほかの物語と、ひそかに分かち合っているもの:

  • ミラ彗星
  • 月光堂のマッチ
  • 子守唄
  • 月光書房
  • 片方の手袋

十二をつなぐ符牒について →

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