水時計の番人
昔むかし、時間がまだ川のように流れていたころ、世界のいちばん高いところに、一つの詰所があった。
そこには大きな水時計が据えられていて、天の器から地の器へと、しずくが一つずつ落ちていた。しずくが一つ落ちるたびに、地上のどこかで、麦が一粒ふくらんだ。しずくが一つ落ちるたびに、赤ん坊が一つ息を吸い、老人が一つ息を吐いた。しずくが一つ落ちるたびに、世界はほんの少しだけ、いまよりも新しくなった。
その水時計の番をするのが、番人のつとめであった。
番人は年をとっていた。どれくらい年をとっているのか、番人自身にもわからない。なぜなら、番人はこの世界のいちばんはじめのしずくが落ちるより前から、ここに座っていたからである。番人は白い髪をしていて、白い眉をしていて、指の長い、やわらかな手をしていた。片方の手には、いつも古びた手袋をはめていた。もう片方は、素手だった。なぜ片方だけなのか、番人はもう覚えていなかった。ずっと昔、もう片方をどこかに落としてきたような気もするし、はじめから片方だけだったような気もした。
番人のつとめは、ただ一つ。
しずくが正しく落ちるのを、見守ること。
それだけであった。
天の器の水は、番人が汲むわけではない。夜のあいだに、どこからともなく満たされる。しずくが落ちる速さも、番人が決めるわけではない。それはこの世界がはじまったときから決まっている。番人はただ、しずくが一つ、また一つと落ちるのを、まばたきもせずに見つめていればよかった。
そんなつとめの、どこがむずかしいのだろう、とあなたは思うかもしれない。
ところが、これがむずかしいのである。
なぜなら、番人はまどろみがちだったからだ。
一日のなかで、いちばんまどろみやすいのは、昼下がりであった。
朝のうちは、まだよい。天の器の水は冷たく澄んでいて、しずくは硬い音を立てて落ちる。番人の目は冴えていて、一つ一つのしずくを、はっきりと数えることができた。
夕方も、まだよい。西の窓から差しこむ光が、しずくを金色に染めるので、番人はそれを見るのが好きだった。金色のしずくは、まるで小さな灯のようで、番人はうっとりとしながらも、目を離さずにいることができた。
夜は、いちばんよい。夜のあいだ、しずくはゆっくりと落ちるから、番人は星を数えるように、しずくを数えていればよかった。
けれども、昼下がりは、いけなかった。
昼下がりになると、天の器の水はぬるくなる。しずくは、とろりと落ちる。落ちる音も、やわらかくなる。西でもなく東でもない、真上に近いところから差す光が、詰所のなかに、あたたかな眠りの気配を運んでくる。窓のそとでは、遠い畑で麦がそよいでいる。どこかで、鳥が一羽、気だるそうに鳴いている。
そういうとき、番人のまぶたは、しずくのように、とろりと重くなるのだった。
いけない、と番人は思う。
まばたきをしてはいけない。まどろんではいけない。しずくから、目を離してはいけない。
けれども、昼下がりの光はやさしくて、しずくの落ちる音は子守唄のようで、番人の背もたれは、ちょうどよいぐあいにやわらかいのだった。
そして、番人はしばしば、まどろんだ。
番人がまどろむと、どうなるか。
世界の時間が、少しだけ、止まるのである。
しずくが落ちる。それを見守る目が、閉じる。すると、次のしずくが、落ちなくなる。天の器のふちに、しずくが一つ、ふくらんだまま、じっとしている。落ちようとして、落ちきれずに、そこで止まっている。
しずくが止まれば、麦は太らない。赤ん坊は息を吸ったきり、吐かない。老人は息を吐いたきり、吸わない。世界は、いまのままで、じっと止まる。
それは、たいへんなことだ、とあなたは思うだろう。
けれども、ふしぎなことに、世界の誰も、それに気づかないのである。
なぜなら、時間が止まっているあいだは、誰も、時間が経ったことを覚えていられないからだ。息を吸ったきりの赤ん坊は、吸ったところで止まっているのだから、苦しくもない。麦は、太らないのだから、太らないことを嘆きもしない。世界じゅうが、いっせいに、まばたきの途中で止まって、そのまばたきの途中を、永遠のように、けれども一瞬のように、過ごしている。
そして、番人がふと目を覚ますと、止まっていたしずくが、ぽとりと落ちる。
すると、世界はまた動きだす。赤ん坊は息を吐く。老人は息を吸う。麦は太る。誰も、たったいままで時間が止まっていたことなど、知らないままに。
だから、番人がまどろんでも、たいていは、何も起こらなかった。世界は少しだけ止まって、また少しだけ動きだす。それだけのことだった。
けれども、ときどき。
ほんとうに、ときどき。
止まった時間のなかで、番人だけが、目を覚ましてしまうことがあった。
そういえば、いちど、こんなことがあった、と番人は思い出す。
それは、ずいぶんと昔の、やはり眠い昼下がりのことだった。番人は、うっかりと、深くまどろんでしまった。そして、いつもより、ずっと長いあいだ、目を覚まさなかった。
どれくらい長いあいだ、まどろんでいたのか、番人にはわからない。止まった時間には、長いも、みじかいもないからだ。けれども、番人が目を覚ましたとき、詰所の窓のそとには、一羽の鳥が、止まっていた。羽ばたきの途中で、宙に浮いたまま。
番人は、しずくを落とそうとして、ふと、その鳥を見た。
すると、番人は、こんなことを、思ってしまったのである。
――もし、いま、しずくを落とさなかったら、この鳥は、どうなるのだろう。
番人は、しずくを落とさなかった。
そして、ただ、その鳥を、見ていた。一日。あるいは、一年。あるいは、百年。止まった時間のなかでは、どれもおなじことだった。番人は、その鳥の、羽根の一枚一枚を、数えるほどに見た。翼のつけねの、やわらかな綿毛を見た。くちばしの先の、小さな光を見た。番人は、その鳥のことを、この世界の誰よりも、よく知る者になった。
けれども、あるとき、番人は、ふと、かなしくなった。
なぜなら、番人がどんなに長く見ていても、その鳥は、けっして、飛ばなかったからだ。羽ばたきの途中で止まった鳥は、いつまでも、羽ばたきの途中のままだった。飛ぼうとして、飛べずにいた。空を渡ろうとして、渡れずにいた。番人が、その鳥を美しいと思えば思うほど、その鳥が、ほんとうは、空を飛びたがっているのだということが、番人には、わかってしまうのだった。
番人は、しずくを落とした。
すると、鳥は、ひと羽ばたきして、ふた羽ばたきして、青い空を、すいと横切っていった。番人の見ていた、あの美しい鳥は、もう、どこにもいなかった。けれども、番人は、さびしくなかった。なぜなら、鳥は、いま、飛んでいたからだ。番人が、ずっと、飛ばせずにいた、その空を。
そのとき番人は、少しだけ、わかったような気がした。
美しいものを、止めておくことと、美しいものを、行かせてやること。そのどちらが、そのものにとって、やさしいことなのか。
けれども、そのわかりかけたことは、時間が動きだすと同時に、また、番人の胸の底のほうへ、しずくのように、とろりと沈んでいってしまうのだった。
止まった昼下がり
その日は、とりわけ眠い昼下がりだった。
天の器の水は、いつにも増してぬるかった。しずくは、飴のように、ゆっくりと垂れた。真上からの光は蜜のようにあたたかく、詰所のすみずみまで、金色の眠気で満たしていた。窓のそとの麦畑は、風もないのに、ゆらゆらと揺れているように見えた。それはたぶん、番人のまぶたが、もう半分閉じかけていたからだ。
いけない、と番人は思った。
いけない、いけない。
けれども、そう思うそばから、番人のあごは、少しずつ胸のほうへ落ちていった。長い白髪が、頬にかかった。手袋をはめた手が、膝の上で、ゆっくりとひらいた。
しずくが一つ、天の器のふちに、ふくらんだ。
落ちようとして――
番人は、まどろんだ。
しずくは、落ちなかった。
番人は、夢を見た。
夢のなかで、番人は若かった。若い、というのがどういうことなのか、ふだんの番人はもう忘れていたけれど、夢のなかでは、たしかに若かった。手はなめらかで、髪は黒く、そして――両手に、手袋をはめていた。片方だけではなく、両方に。
番人は、どこか高い丘の上に立っていた。夜だった。空には、数えきれないほどの星が出ていた。
その星々のなかを、一つの星が、ゆっくりと動いていた。
蒼い星だった。
尾を長く引いて、夜空を、東から西へと、しずくが落ちるようにゆっくりと、けれどもたしかに、渡っていく。
「ミラだ」と、夢のなかの誰かが言った。
番人は、その声を知っているような気がした。けれども、誰の声かはわからなかった。
「ミラ彗星だよ。あれは、ずっとずっと遠くから来て、ずっとずっと遠くへ行く。私たちが一生かかっても数えきれないほどの年月をかけて、ぐるりとひとまわりして、また帰ってくる。空でいちばん、気の長い星なんだ」
蒼い星は、番人の頭の上を、静かに渡っていった。
番人は、その星から、目を離せなかった。
なぜなら、その蒼い光は、番人の見守っている、あのしずくに、どこか似ていたからだ。落ちようとして、けれども決して急がない。ゆっくりと、ゆっくりと、けれども、けっして止まらずに、渡っていく――
そこで、番人は、目を覚ました。
目を覚まして、番人は、はっとした。
まどろんでしまった。
しずくを見なければ。番人はあわてて、天の器のほうを見た。
しずくは、ふちのところで、ふくらんだまま、止まっていた。
まだ落ちていない。ということは、まだ時間が止まっている、ということだ。番人は、ほっとしたような、それでいて、うろたえたような気持ちになった。ふつうなら、番人が目を覚ますと同時に、しずくが落ちて、世界は動きだすはずだった。けれども今日は、番人は目を覚ましたのに、しずくは落ちていない。
つまり、番人だけが、止まった時間のなかで、目を覚ましてしまったのだ。
こういうことは、めったにない。
けれども、まったくないわけではなかった。長い、長いつとめのあいだに、番人は何度か、こういう昼下がりを経験していた。止まった時間のなかで、たった一人、目を覚ましている昼下がりを。
番人は、椅子から立ちあがった。
止まった時間のなかでは、番人は、いつもより身が軽かった。まるで水のなかを歩くように、あるいは、水のそとを歩くように、番人の足は、床をふわりと踏んだ。関節は痛まなかった。腰も曲がらなかった。止まった時間のなかでは、番人もまた、年をとらないのだった。
番人は、窓のほうへ歩いていった。
窓のそとを見て、番人は、いつものように、少し胸を打たれた。
麦畑が、止まっていた。
一本の麦の穂が、風に吹かれて、ちょうど右へ倒れかけたところで、止まっていた。その隣の穂は、左へ。その隣は、また右へ。何万本という麦の穂が、それぞれの向きに、それぞれの角度で傾いたまま、じっと止まっていた。まるで、時間という大きな手が、麦畑の上に、そっと置かれているようだった。
空には、鳥が一羽、止まっていた。
翼をひろげて、羽ばたきの途中で、宙に浮いたまま止まっていた。鳥は、落ちなかった。飛びもしなかった。ただ、青い空を背に、翼をひろげて、静止していた。その翼の一枚一枚の羽根まで、番人にははっきりと見えた。ふだんなら、鳥はあまりに速く飛ぶので、こんなふうに羽根の一枚一枚を見ることなど、できなかった。
止まった時間のなかで、番人ははじめて、その鳥がどんなに美しいかを知るのだった。
番人は、いつも思う。
時間が動いているとき、世界はあまりに速すぎて、その美しさに、誰も気づかない。麦の穂が倒れるのも、鳥が羽ばたくのも、あまりに速くて、ただ流れていってしまう。けれども、止まった時間のなかでは、そのすべてが、はっきりと見える。一本の麦。一枚の羽根。それらが、どんなにていねいに作られているか。どんなに美しいか。
だから番人は、まどろむことを、心の底では、そんなに悪いことだとは思っていなかった。
もちろん、つとめはつとめだ。しずくは落とさなければならない。時間は進めなければならない。それが番人のつとめだ。
けれども、こうしてときどき、止まった時間のなかで一人になって、世界の美しさを、ゆっくりと見つめること――それもまた、番人にとっては、何か大切なことのように思われるのだった。
番人は、詰所の扉をあけて、そとへ出た。
止まった時間のなかを歩くのは、いつでも、ふしぎな心持ちだった。空気は、動かなかった。風は、吹きかけたまま止まっていた。番人が歩くと、その止まった空気を、番人の体が、そっと分けていくような気がした。まるで、澄んだ水のなかを、音もなく歩いていくように。
番人は、麦畑のほうへ、下りていった。
近くで見ると、麦畑は、なおのこと美しかった。一本の穂に、番人はそっと顔を近づけた。穂の先には、朝のあいだに置かれた露が、まだ一つぶ、残っていた。その露のなかに、止まった空が、まるごと映っていた。青い空と、止まった一羽の鳥まで、小さな露のなかに、逆さまに、そっくり閉じこめられていた。
番人は、その露に、指を触れようとして、やめた。
触れたら、こわれてしまいそうだった。この、止まった一つぶのなかにある、小さな世界が。
番人は、麦の穂のあいだを、しばらく歩いた。
穂と穂のあいだには、いろいろなものが、止まっていた。飛びかけて止まった一匹の蝶。糸をつむぎかけて止まった一匹の蜘蛛。その蜘蛛の巣に、朝日が、斜めに差しこんで、糸の一本一本を、銀色に光らせていた。蜘蛛は、次の一歩を、宙に浮かせたまま、止まっていた。番人は、その蜘蛛のそばに、しゃがみこんだ。
「おまえも」と、番人は、小さな声で言った。「いそがしいのだね」
蜘蛛は、こたえなかった。もちろん、こたえるはずもなかった。けれども、番人には、その蜘蛛が、たいそう熱心に、まじめに、自分の巣を編んでいるところなのが、よくわかった。時間が動きだせば、この蜘蛛は、また、いそがしく糸をつむぐだろう。そして、いつか、一匹の蝶を捕らえるだろう。あの、飛びかけて止まっている、蝶を。
番人は、蝶のほうを見た。それから、蜘蛛のほうを見た。
進む時間のなかでは、この蝶と蜘蛛は、いつか、出会うのだろう。そして、片方が、片方を、食べるのだろう。それは、かなしいことのようにも思えた。けれども、それもまた、時間が進むということだった。麦が太り、赤ん坊が育ち、蝶が飛び、蜘蛛が糸をつむぐ――そのすべてが、進む時間のなかで、起こることだった。
番人は、立ちあがった。
止まった時間のなかでは、蝶は、まだ、捕らわれていない。蜘蛛は、まだ、待っている。二つのものは、まだ、出会わずにいる。
これはこれで、やさしい時間だ、と番人は思った。誰も、誰も食べず、誰も、誰にも別れない。けれども――と、番人は、また思うのだった。この止まった時間のなかで、蝶が永遠に飛べないでいることは、はたして、蝶にとって、しあわせなことなのだろうか。
番人には、こたえがわからなかった。
番人は、露に映った空を、もう一度だけ見て、それから、詰所へ帰っていった。
時の書
番人には、詰所のなかで、一つだけ、たのしみにしていることがあった。
それは、本を読むことだった。
詰所の棚には、一冊の本があった。分厚い、革の表紙の本で、背には金色で、なにやら文字が書いてあった。けれども、その文字は番人には読めなかった。ふしぎなことに、その文字は、見るたびにちがう文字に見えた。あるときは花のような文字に、あるときは星のような文字に、あるときは、しずくが落ちるような文字に見えた。
その本を、番人は「時の書」と呼んでいた。
「時の書」は、番人のものではなかった。
それは、ずっと昔、番人が一度だけ訪れた、ある古書店から借りたものだった。
その古書店のことを、番人はときどき思い出す。それは、月光書房という名前の店だった。夜にだけ現れ、朝には消えてしまう、ふしぎな店だった。番人がそこを訪れたのは、まだ番人が若かったころ――いや、番人はもうずっと昔から年をとっているので、若かったころなどないのかもしれないけれど――とにかく、ずっとずっと昔のことだった。
その夜、番人は、なぜだか眠れなくて、詰所を抜け出した。しずくは夜のあいだ、ゆっくりと落ちるから、少しのあいだなら、目を離しても大丈夫だった。番人は、坂をくだって、ふもとの町まで歩いていった。すると、いつもなら何もない街角に、ぽつんと、灯りのともった店があった。
月光書房、と看板には書いてあった。
番人が扉を押すと、鈴が鳴った。なかには、古い本が、天井まで積みあがっていた。奥に、店主がいた。番人には、店主の顔がよく見えなかった。ただ、店主が青いマッチ箱を持っていたことだけを、番人は覚えている。月光堂、と、そのマッチ箱には書いてあった。店主は、そのマッチで、蝋燭に火をつけた。
「時間を見張るお方だね」と、店主は言った。
番人は、どうして店主がそれを知っているのか、ふしぎに思った。
「あなたには、これがいい」
店主は、一冊の本を、番人に手渡した。それが「時の書」だった。
「これは、時間についての本だ。読めば、時間というものが、少しはわかるかもしれない。読み終えたら、返しにおいで。もっとも――」
店主は、そこで、少し笑ったようだった。
「この本を読み終える者は、めったにいないがね」
番人は、その本を借りて、詰所に帰った。
それから、ずいぶんと長い年月が経った。番人は、まだ、その本を読み終えていない。
止まった時間のなかで、番人は、棚から「時の書」を取り出した。
止まった時間のなかで読むと、この本は、ふしぎとよく読めた。ふだんは花のようだったり星のようだったりする文字が、止まった時間のなかでは、番人にも読める文字になるのだった。
番人は、椅子に腰かけ、膝の上に本をひろげた。
前に読んだところの、続きから読みはじめた。
まず、そのページには、一つの、みじかい話が書いてあった。それは、いつも本のはじめに書いてあるような、寓話のたぐいだった。番人は、そういう話が好きだった。
「あるところに、砂時計の国があった」と、本は語りはじめた。
「その国では、人はみな、生まれると同時に、一つの砂時計をわたされた。その砂時計の砂が、上の器から下の器へと、ぜんぶ落ちきったとき、その人の一生は、終わるのだった」
「だから、その国の人々は、みな、砂を落とすまいとして、暮らしていた。走れば、息がはずんで、砂が速く落ちる。だから、走らなかった。笑えば、心がはずんで、砂が速く落ちる。だから、笑わなかった。恋をすれば、胸が高鳴って、砂が速く落ちる。だから、恋もしなかった。人々は、じっと、動かずに、息をひそめて暮らした。そうすれば、砂は、ゆっくりと落ちた。人々は、長く、長く、生きた」
「けれども、あるとき、一人の娘が、砂時計をわって、そとへ捨ててしまった」
「みなは、おどろいて言った。おまえは、どうなってもいいのか、と。砂時計がなければ、いつ砂が落ちきるか、わからないではないか、と」
「娘は、こたえた。わからないから、いいのです、と。いつ終わるかわからないから、わたしは、走ります。笑います。恋をします。砂が速く落ちることを、こわがりません。なぜなら、わたしは、もう、砂を数えていないのですから」
「娘は、走った。笑った。恋をした。そして、砂時計を持った人々よりも、みじかく生きて、けれども、誰よりも、たくさんのものを見て、死んだ」
「さて」と、本は問うていた。「娘の一生は、みじかかったのだろうか。それとも、長かったのだろうか」
番人は、そこで、少し、考えこんだ。
みじかかったのだろうか。長かったのだろうか。番人には、すぐには、こたえられなかった。けれども、番人は、その娘のことを、なんだか、好きだと思った。砂を数えるのをやめた娘。落ちる砂の音を、こわがらなかった娘。
番人は、天の器のふちで止まっている、あのしずくを、ちらりと見た。
自分は、しずくを数える者だ、と番人は思った。あの娘とは、あべこべの者だ。けれども――と、番人は思うのだった。自分もまた、しずくを数えながら、心のどこかで、あの娘のように、ただ、しずくの美しさを見ていたいと願っている。数えるためではなく、ただ、見るために。
番人は、ページをめくった。
次のページには、こう書いてあった。
「時間には、二つの顔がある」
「一つは、進む時間。もう一つは、留まる時間だ」
「進む時間は、川のように流れる。ひとところにとどまらず、うしろをふりかえらず、ただ前へ、前へと流れていく。進む時間のなかでは、すべてが変わる。子どもは大人になり、大人は老人になり、老人は土に還る。花は咲き、そして散る。会えば、いつか別れる。進む時間は、なにもかもを、運び去ってしまう」
「けれども」と、本は続けていた。
「留まる時間もまた、たしかにある」
「留まる時間は、湖のように静かだ。それは流れない。過ぎ去らない。ひとところにとどまって、じっと、そこにある。留まる時間のなかでは、なにも失われない。散った花は、散ったままで美しく、別れた者は、別れたその一瞬のなかに、いつまでも一緒にいる」
「進む時間は、世界を新しくする」
「留まる時間は、世界を、そのままに、とどめておく」
「どちらがよいか、とあなたは問うだろう」
「けれども、それは、問いのたてかたがまちがっている」
番人は、そこで、ページから目をあげた。
問いのたてかたがまちがっている。
どういうことだろう、と番人は思った。
番人は、ずっと、こう思っていた。自分のつとめは、時間を進めることだ、と。しずくを落とし、世界を前へ進めること。まどろんで時間を止めてしまうのは、つとめをおこたることだ、と。
けれども、この本は言う。進む時間と、留まる時間と、どちらがよいかを問うのは、まちがいだ、と。
では、なにが正しい問いなのだろう。
番人は、続きを読もうとした。
けれども、次のページには、なにも書いていなかった。
真っ白だった。
番人が「時の書」を読み進められるのは、いつも、ここまでだった。この先を読もうとすると、いつも、ページが白くなってしまうのだ。まるで、この先は、番人がまだ知るべきときではない、とでもいうように。
番人は、ため息をついて、本を閉じた。
訪ねてくる者
番人が本を閉じたとき、詰所の扉が、こつ、こつ、と鳴った。
番人は、はっとした。
止まった時間のなかで、誰かが扉を叩くなど、ありえないことだった。なぜなら、止まった時間のなかで動けるのは、番人だけのはずだったからだ。
番人は、扉を開けた。
そこに、小さな女の子が立っていた。
女の子は、七つか、八つくらいに見えた。麻の服を着て、はだしだった。片手に、手袋をはめていた。片方だけ、右手にだけ。もう片方は、素手だった。
番人は、その手袋を見て、はっとした。それは、番人が片方だけはめている手袋と、そっくりだったからだ。いや、そっくりというより――番人の手袋が右手のもので、女の子の手袋が左手のものなら、二つあわせて、ちょうど一組になりそうだった。
「こんにちは」と、女の子は言った。
「こんにちは」と、番人も言った。
「あなたは、時間の番人さん?」
「そうだよ」
「時間が、止まってるの」と、女の子は言った。「あたし、歩いてたら、みんな止まっちゃったの。お母さんも、お父さんも、鳥さんも、みんな。あたしだけ、止まらないの。どうして?」
番人は、少し考えた。
止まった時間のなかで、女の子だけが目を覚ましている。それは、番人だけが目を覚ましているのと、同じことだった。けれども、なぜ、この女の子が。
番人は、女の子の、はだしの足を見た。それから、片方だけの手袋を見た。
「きみは」と、番人は言った。「もしかして、まどろんでいたね?」
女の子は、こくりとうなずいた。
「うん。あたし、麦畑で、お昼寝してたの。あったかくて、気持ちよくて、つい、寝ちゃった。そしたら、目が覚めたら、みんな止まってたの」
番人は、なるほど、と思った。
まどろんでいた者は、止まった時間のなかで、目を覚ますことがある。番人がそうであるように、この女の子もまた、まどろみのなかから、止まった時間のなかへ、目を覚ましてしまったのだ。
「こわい?」と、番人は尋ねた。
女の子は、少し考えて、首をふった。
「ううん。きれいだなって思った。鳥さんが、空に浮かんでるの。羽根が、ぜんぶ見えるの。あんなにきれいだって、知らなかった」
番人は、微笑んだ。
この子は、わかっている、と思った。止まった時間の、美しさを。
「なかに、お入り」と、番人は言った。「もうすぐ、時間が動きだす。そうしたら、きみは、お母さんとお父さんのところへ帰れるよ。それまで、ここで待っているといい」
女の子は、詰所のなかに入った。
詰所のなかを、女の子は、めずらしそうに見まわした。
古い机。古い椅子。棚には、「時の書」が一冊。窓のそばには、番人のいつも座る、背もたれのやわらかな椅子。そして、部屋のまんなかに、大きな水時計。天の器から地の器へと、しずくが、いまにも落ちようとして、止まっている。
「ここに、ずっと、一人でいるの?」と、女の子は尋ねた。
「そうだよ」と、番人は言った。
「さびしくない?」
番人は、少し、考えた。
「さびしくない、と言えば、うそになる」と、番人は言った。「けれども、私には、しずくがある。しずくを見守っていると、さびしさを、忘れていられる。それに、しずくが一つ落ちるたびに、遠いどこかで、麦が太り、赤ん坊が息をする。私は、その麦や、その赤ん坊に、会うことはない。けれども、私が見守っているから、あの子たちは、育っていける。そう思うと、私は、一人ではないような気がするんだ」
女の子は、うなずいたような、うなずかないような、ふしぎな顔をした。まだ、その言葉が、よくわからないようだった。けれども、女の子は、それ以上、たずねなかった。ただ、番人のそばに、ちょこんと、腰かけた。
「あのね」と、女の子は言った。「あたし、お昼寝するの、すきなの」
「そうかい」
「でもね、お母さんは、あんまり寝てちゃだめだよ、って言うの。日が暮れちゃうよ、って。せっかくのお昼が、もったいないよ、って」
番人は、微笑んだ。
「お母さんの言うとおりだ」と、番人は言った。「けれども、ときどきなら、いいと思うよ。ときどき、お昼寝をして、こういう、止まった時間のなかで、ふだんは見えないものを、ゆっくり見ること。それは、きっと、もったいないことじゃない」
「番人さんも、お昼寝、すき?」
「ないしょだよ」と、番人は、小さな声で言った。「私は、お昼寝を、してはいけないことになっているんだ。しずくを、見守らなくちゃいけないからね。けれども――ときどき、してしまうんだ。そして、こうして、きみみたいな子に、会えることがある」
女の子は、うれしそうに、笑った。
女の子は、水時計を見て、目をまるくした。
「これが、時間?」
「そうだよ」と、番人は言った。「このしずくが、一つ落ちるたびに、世界は少しだけ、新しくなる。麦が太る。赤ん坊が息をする。花が咲く。しずくが、時間なんだ」
女の子は、天の器のふちで止まっている、あのしずくを見つめた。
「落ちてない」と、女の子は言った。
「そう。私がまどろんだから、しずくが止まっているんだ。私が、ちゃんと目を覚まして、しずくを見守れば、しずくは落ちて、時間は動きだす」
「じゃあ、はやく見守ってあげて」と、女の子は言った。「お母さんが、待ってるもの」
番人は、うなずいた。そのとおりだった。番人は、しずくを見守り、時間を進めなければならない。それが、つとめだった。
けれども、番人は、しずくを見つめながら、なぜだか、すぐには目をこらさなかった。
なぜだろう。
番人は、この止まった時間を、もう少しだけ、続けていたいような気がしたのだった。
なぜなら、この女の子と、こうして話しているこの時間――それは、時間が動きだせば、終わってしまう。しずくが落ちれば、女の子はお母さんのところへ帰り、番人はまた、一人になる。そして、次に番人がまどろむまで――それはずいぶん先のことかもしれない――番人は、また、たった一人で、しずくを見守り続けるのだ。
留まる時間のなかでは、なにも失われない、と「時の書」は言っていた。
この女の子との、この時間も。留まる時間のなかにいるかぎり、失われない。
けれども。
「番人さん」と、女の子が、しずくを見つめたまま言った。「あのしずく、落ちるとき、どんな音がするの?」
番人は、少し、おどろいた。そんなことを、たずねられたのは、はじめてだった。
「音かい」と、番人は言った。「そうだね……朝のしずくは、硬い音がする。こつん、と。氷が割れるような音だ。夜のしずくは、やわらかい音がする。ぽとん、と。眠っている赤ん坊の、寝息のような音だ。そして、昼下がりのしずくは――」
番人は、言葉を切った。
「昼下がりのしずくは?」
「いちばん、しずかな音がする」と、番人は言った。「ほとんど、音がしないくらいだ。とろん、と。まるで、しずく自身も、眠たがっているみたいにね。だから、昼下がりは、私も、眠くなってしまうのかもしれない」
女の子は、くすくすと笑った。
「じゃあ、いま、あのしずくが落ちたら、とろん、って鳴るのね」
「そうだね」
「あたし、その音、聞いてみたい」
番人は、女の子の顔を見た。
その、まっすぐな目を見て、番人は、ふと、思った。この子は、しずくが落ちることを、こわがっていない。しずくが落ちれば、この、止まった時間は終わる。この子と話す時間も、終わる。それでも、この子は、しずくの落ちる音を、聞きたいと言う。
あの、砂時計をわった娘のようだ、と番人は思った。落ちる音を、こわがらない子だ。
「聞かせてあげよう」と、番人は言った。「もう少ししたら、ね」
けれども、番人は、なぜだか、まだ、しずくに目をこらさなかった。
もう少しだけ。もう少しだけ、この子と、話していたい。番人は、そう思ってしまう自分を、少し、うしろめたく思った。しずくを止めておくことは、麦畑で子どもを待つ母を、待たせておくことだ。それは、わかっていた。わかっていて、なお、番人は、この時間を、手放したくなかった。
しずくのゆくえ
「番人さん」と、女の子が言った。「どうして、片方だけ手袋してるの?」
番人は、自分の手を見た。右手の、古びた手袋を。
「わからないんだ」と、番人は言った。「ずっと昔に、もう片方を、どこかに落としてきたような気がする。でも、はじめから片方だけだったような気もする。もう、覚えていないんだよ」
「あたしのと、あわせてみて」と、女の子は言った。
女の子は、左手の手袋を、番人のほうへ差し出した。
番人は、右手の手袋をはめたまま、女の子の左手を、そっと握った。
すると――
番人の右手の手袋と、女の子の左手の手袋が、ぴたりと、一組になった。
そして、番人は、思い出した。
ずっと、ずっと昔のこと。
番人にも、まだ番人になる前の時があった。番人にも、母がいた。番人はまだ小さくて、母は、番人に子守唄を歌ってくれた。眠れ、眠れ、星が海をわたるまで――そう歌ってくれた。母は、番人の手に、手袋をはめてくれた。両手に。寒くないように、と。
そして、ある夜。
番人は、母と手をつないで、丘の上に立っていた。空には、蒼い星が渡っていた。ミラ彗星だった。母は言った。「あれは、ずっとずっと遠くから来て、ずっとずっと遠くへ行く。空でいちばん、気の長い星だよ」
そして、その夜、番人は、番人になった。
どうして番人になったのか、その先のことは、思い出せなかった。ただ、番人は、片方の手袋を、母に握らせたまま、ここへ来たのだった。もう片方だけを、はめたまま。
母の手のなかに残った、片方の手袋。
それが、いま、女の子の手にある左の手袋なのだろうか。それとも、これはただ、よく似た、別の手袋なのだろうか。
番人には、わからなかった。
けれども、女の子の左手を握ったとき、番人は、遠い日の、母のぬくもりを、たしかに思い出したのだった。
「番人さん、泣いてるの?」と、女の子が言った。
番人は、頬に手をあてた。ぬれていた。
「いや」と、番人は言った。「思い出したんだ。遠い、昔のことを。私にも、お母さんがいたことを。子守唄を歌ってもらったことを」
「どんな子守唄?」
番人は、少し考えて、そして、小さな声で歌った。
眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。
眠れ、眠れ、しずくが落ちて、朝が来るまで。
女の子は、目を閉じて、それを聞いていた。
歌いおわると、女の子は言った。
「それ、あたしのお母さんも、歌ってくれる」
番人は、微笑んだ。
そうか、と思った。この子守唄は、番人の母から番人へ、そして、いまも、母から子へと、歌い継がれているのか。番人が、ここでしずくを見守っているあいだにも。世界の時間が、川のように流れているあいだにも。
その子守唄だけは、ずっと、変わらずに。
進む時間のなかにあっても、なぜか、失われずに。
そのとき、番人は、「時の書」の、あの白いページの続きが、少しだけ、わかったような気がした。
目覚めのとき
「番人さん」と、女の子が言った。「そろそろ、しずくを落としてあげて。お母さんが、待ってるから」
番人は、うなずいた。
そうだ、と思った。
留まる時間は、美しい。この、女の子と過ごすひとときも、遠い母の思い出も、留まる時間のなかにあるかぎり、失われない。
けれども、番人は、いま、わかった。
留まる時間のなかにとどまり続けるということは、この女の子を、お母さんのところへ帰さない、ということだ。お母さんが、麦畑で、子どもの帰りを待っている。その待つ時間を、永遠に、待たせたままにする、ということだ。
留まる時間は、美しい。けれども、それは、誰かが、誰かを待っている時間を、止めてしまうことでもある。
進む時間は、なにもかもを運び去る。会えば、いつか別れる。けれども、進む時間があるからこそ、待っている者は、待っている相手に、ふたたび会える。しずくが落ちるからこそ、麦畑で子どもの帰りを待つ母は、子どもを抱きしめることができる。
進む時間と、留まる時間と、どちらがよいか。
その問いは、まちがっていた。
なぜなら――と、番人は思った。
留まる時間のなかで見た美しさを、覚えていられるのは、進む時間があるからだ。止まった鳥の、羽根の一枚一枚の美しさ。遠い母の、子守唄。それを、心にとどめたまま、また前へ進んでいけること。留まる時間で見たものを、進む時間へと持ち帰ること。
それが、たぶん、正しいのだ。
まどろむことは、悪いことではない。ときどき立ち止まって、世界の美しさを、ゆっくりと見つめること。けれども、立ち止まったままでいてはいけない。見つめたものを胸に抱いて、また、しずくを落とすこと。時間を、前へ進めること。
「うん」と、番人は言った。「しずくを、落とそう」
番人は、椅子にすわり、天の器を見つめた。
ふちのところで、しずくが、ふくらんだまま、待っていた。
番人は、その、蒼く光るしずくを見つめた。
蒼く――
そういえば、と番人は思った。しずくは、あの蒼い星に、似ている。ずっと昔、母と見た、あの、ミラ彗星に。落ちようとして、けれども決して急がず、ゆっくりと、ゆっくりと、けれども、けっして止まらずに、渡っていった、あの星に。
番人は、まばたきをした。
そして、目をひらいた。
しずくが、ぽとりと、落ちた。
世界が、動きだした。
窓のそとで、右へ倒れかけていた麦の穂が、右へ倒れきった。左へ傾いていた穂が、左へ揺れた。麦畑が、いっせいに、風にそよぎはじめた。
空で、翼をひろげて止まっていた鳥が、羽ばたいた。ひと羽ばたきして、ふた羽ばたきして、青い空を、すいと横切っていった。
そして、番人がふりかえると――
女の子は、いなかった。
詰所のなかは、番人一人だった。
時間が動きだすと同時に、女の子は、自分の時間のなかへ、帰っていったのだ。麦畑の、お昼寝から、目を覚まして。お母さんの、待っているところへ。
番人は、少しさびしいような気がした。
けれども、番人の右手には、手袋がはめられたままだった。相変わらず、片方だけ。
ふしぎなことに、番人は、もう、さびしくなかった。
なぜなら、番人は、もう片方の手袋が、どこにあるかを、知っていたからだ。
それは、遠い、遠い麦畑の、あの女の子の手のなかにある。あるいは、そのまた昔の、番人の母の手のなかにある。あるいは、これからずっと先の、まだ生まれてもいない、誰かの手のなかに。片方だけの手袋は、いつか、どこかで、もう片方と出会う。進む時間の、どこかで。
番人は、そう思うと、片方だけの手袋が、もう、さびしいものには思えなくなった。
それは、いつか、どこかで、対になるための、片方なのだった。
白いページ
その夜、番人は、久しぶりに、詰所を抜け出した。
夜のあいだ、しずくはゆっくりと落ちるから、少しのあいだなら、目を離しても大丈夫だった。
番人は、坂をくだって、ふもとの町まで歩いていった。すると、いつもなら何もない街角に、ぽつんと、灯りのともった店があった。
月光書房、と、看板には書いてあった。
番人が扉を押すと、鈴が鳴った。
なかには、古い本が、天井まで積みあがっていた。奥に、店主がいた。番人には、店主の顔が、やはりよく見えなかった。ただ、店主が、青いマッチ箱を持っていたことだけを、番人は見た。月光堂、と、そのマッチ箱には書いてあった。店主は、そのマッチで、蝋燭に火をつけた。
「時間を見張るお方だね」と、店主は言った。
「本を、返しに来ました」と、番人は言った。「読み終えたので」
店主は、少し、おどろいたようだった。
「読み終えた? この本を?」
「はい」
「あの、白いページの、続きを?」
番人は、うなずいた。
「白いページには、なにが書いてありましたか」と、店主は尋ねた。
番人は、少し考えて、そして、答えた。
「なにも、書いてありませんでした」
「ほう」
「けれど、それでよかったのです」と、番人は言った。「あの白いページは、私が、自分で書きこむための、ページだったのです。時間について、私が自分で見つけたことを。留まる時間のなかで美しいものを見つけて、それを胸に抱いて、また進む時間へ帰ってくること。それを、あの白いページに、私は書きこみました。心のなかで」
店主は、しばらく、黙っていた。
それから、静かに言った。
「そのとおりだ」
店主は、番人から「時の書」を受け取った。そして、それを、天井まで積みあがった本のなかの、どこかへ、そっと戻した。
「あなたは、いい番人だ」と、店主は言った。「時間を進めることと、留めることの、両方を知っている番人だ。世界は、あなたのような番人を持てて、しあわせだよ」
番人は、少し、照れたように笑った。
「ときどき、まどろんでしまうのですが」
「いいんだよ」と、店主は言った。「ときどき、まどろむといい。まどろんで、止まった時間のなかで、世界の美しさを、ゆっくりと見るといい。そして、また、目を覚まして、しずくを落とすといい。それが、番人のつとめだ」
番人は、うなずいた。
番人が店を出ようとすると、店主が、呼びとめた。
「これを」
店主は、番人に、一冊の本を差し出した。新しい本だった。革の表紙の、分厚い本だった。背には、金色で、なにやら文字が書いてあった。その文字は、見るたびにちがう文字に見えた。あるときは花のような文字に、あるときは星のような文字に、あるときは、しずくが落ちるような文字に。
「新しい、時の書だ」と、店主は言った。「読み終えたら、また返しにおいで」
「この本も、白いページがありますか」と、番人は尋ねた。
店主は、笑ったようだった。
「もちろん。どの時の書にも、白いページがある。そして、それを埋めるのは、いつも、読む者自身だ」
番人は、その本を受け取り、大切に胸に抱いて、店を出た。
扉の鈴が、ちりんと鳴った。
星が海をわたるまで
坂をのぼって、詰所へ帰る道すがら、番人は、ふと、空を見あげた。
夜空には、数えきれないほどの星が出ていた。
その星々のなかを――
番人は、目をこらした。
一つの星が、ゆっくりと、動いていた。
蒼い星だった。
尾を長く引いて、東から西へと、しずくが落ちるようにゆっくりと、けれどもたしかに、渡っていく。
ミラ彗星だった。
ずっとずっと遠くから来て、ずっとずっと遠くへ行く。番人が一生かかっても数えきれないほどの年月をかけて、ぐるりとひとまわりして、また帰ってくる。空でいちばん、気の長い星。
番人は、しばらく、その星を見つめていた。
止まった時間のなかでは、麦の穂も、鳥の羽根も、すべてが止まっていた。けれども、あの蒼い星だけは、いつでも、動いていた。止まった時間のなかでも、進む時間のなかでも、ミラ彗星だけは、ゆっくりと、けれども、けっして止まらずに、渡り続けている。
あの星は、と番人は思った。
進む時間と、留まる時間の、両方を、いっぺんに生きているのかもしれない。あんなにゆっくりと動くから、まるで止まっているように見える。けれども、たしかに、進んでいる。留まっているようでいて、進んでいる。進んでいるようでいて、あんまりゆっくりだから、まるで、留まっているよう。
それは、番人のつとめと、どこか似ていた。
しずくを、一つずつ落とすこと。急がず、けれども、止まらず。留まる美しさを胸に抱きながら、それでも、前へ、進んでいくこと。
番人は、蒼い星に向かって、小さく、頭をさげた。
それから、詰所へ帰っていった。
詰所に着くと、番人は、椅子にすわった。
天の器を見あげると、しずくが一つ、ふちに、ふくらんでいた。
落ちようとして――
けれども、番人は、まどろまなかった。
番人は、しずくを見つめた。
しずくが、ぽとりと、落ちた。
どこか遠くで、麦が一粒、ふくらんだ。赤ん坊が一つ、息を吸った。老人が一つ、息を吐いた。世界は、ほんの少しだけ、新しくなった。
そして、また、次のしずくが、ふくらみはじめた。
番人は、膝の上に、新しい「時の書」を置いた。まだ、開かなかった。いつか、また、うっかりまどろんで、止まった時間のなかで一人になったときに、その本を、ひらこうと思った。そのときにこそ、白いページの続きを、また、少しずつ、書きこんでいこうと思った。
昼下がりが来れば、番人は、また、まどろむだろう。
天の器の水はぬるくなり、しずくはとろりと垂れ、真上からの光が、詰所を金色の眠気で満たすだろう。番人のまぶたは、しずくのように、とろりと重くなるだろう。
いけない、と番人は思うだろう。まどろんではいけない、と。
けれども、もし、まどろんでしまったら。
そのときは、止まった時間のなかで、また、世界の美しさを、ゆっくりと見よう。止まった麦の穂を。止まった鳥の羽根を。もしかしたら、また、片方だけの手袋をはめた、誰かが、扉を叩くかもしれない。
そして、目を覚ましたら、また、しずくを落とそう。
急がず、けれども、止まらずに。
あの、蒼い星のように。
しずくが、ぽとりと、落ちた。
世界は、また、ほんの少しだけ、新しくなった。
眠れ、眠れ、星が海をわたるまで――と、番人は、小さな声で、口ずさんだ。しずくが落ちて、朝が来るまで。番人の声は、天の器の、ぬるくやわらかな水面に、しずくの落ちる音とともに、いつまでも、静かにひろがっていった。