月光書房
未の刻 ・ 昼下がり ・ 第 十一 話

燃え殻の匂い

芹沢 なつ
叙情 ・ 約26頁

燃え殻の匂い

祭りのあとの町は、脱ぎ捨てられた着物のように、そこにあった。

昼下がりの陽が、昨夜まで人であふれていた通りを、白くやわらかく照らしている。夕鈴は縁側に腰かけて、その通りを見ていた。というより、見るともなく見ていた。目のなかに映るものと、頭のなかで動いているものとが、うまくつながらない。昨夜のあの熱狂が、いまはどこにもない。まるで、あれははじめから、まどろみのなかの出来事だったのではないか――そんな気さえした。

風が来た。ぬるい、けだるい風だった。その風が、どこからか、焦げくさい匂いを運んでくる。花火の、燃え殻の匂いである。昨夜、あれほど夜空に咲いていた光の、そのなれの果ての匂いだった。夕鈴は鼻をひくつかせて、その匂いを吸った。甘いような、苦いような、なんとも言えない匂いだった。夏が、終わっていく匂いだと思った。

縁側の板は、陽に灼けて、あたたかかった。素足の裏に、その熱がじんわりと伝わってくる。庭の隅で、蝉が一匹、思い出したように鳴いた。ジー、と短く鳴いて、また黙った。まるで、鳴くことにも疲れてしまったかのようだった。夕鈴は、その蝉の声のあとに残る静けさを、耳のなかで数えるように聞いた。一、二、三。そのあいだ、世界はしんと止まっていた。

時間が、おかしなふうに、伸びたり、縮んだりした。さっき、母が麦茶を運んできてくれたのは、ついさっきのことのようにも思えるし、もう、ずっと昔のことのようにも思えた。縁側に置かれたそのコップのなかで、氷は、いつのまにか、すっかり溶けてしまっていた。溶けて、透きとおった水になって、ただ、そこに、じっとしていた。夕鈴は、その水を見ていると、自分もまた、この昼下がりのなかで、少しずつ、溶けていくような気がした。輪郭が、ぼやけていく。きのうと、きょうの、境目が、ぼやけていく。おきているのと、ねむっているのとの、境目までもが、やわらかく、にじんでいく。

こういう刻を、なんと呼ぶのだろう、と夕鈴は思った。昼でもなく、夕でもなく、朝でもない。ただ、陽が、いちばん高いところから、少しだけ、西へ傾きはじめた、その、あわいの刻。世界じゅうが、まぶたを半分だけ閉じたような、この刻。何もかもが、けだるく、あまく、そして、少しだけ、寂しい。

昨夜は、この町じゅうが起きていた。

昨夜のことを、夕鈴はもう何度も、頭のなかで繰り返している。

夕方から、町は色を変えはじめた。夕鈴が家の前の通りに出たとき、すでに提灯には灯がともりはじめていた。赤い、まるい灯が、ひとつ、またひとつと、暮れていく空の下にともっていく。それは、まるで町そのものが、そっと目をあけていくようだった。昼のあいだ眠っていた町が、夜のために、目をさましていく。

母は台所で、まだ何かをしていた。「先に行っていていいよ」と言った。「はぐれないようにね」とも言った。夕鈴は、うなずいて、家を出た。下駄の音が、かたん、かたん、と鳴った。その音が、いつもより高く、遠くまで響くような気がした。祭りの晩は、音の鳴りかたまで違うのだ、と夕鈴は思った。

通りには、屋台が並んでいた。りんご飴の、つやつやとした赤。金魚すくいの、水の張られた浅い桶。桶のなかで、赤や黒の金魚が、ひらひらと尾を動かしていた。綿菓子の、あの甘ったるい匂い。焼きとうもろこしの、醤油の焦げる匂い。それらの匂いが、いっぺんに押し寄せてきて、夕鈴の胸を、わけもなく高鳴らせた。

人が、たくさんいた。浴衣を着た人たちが、ゆっくりと、川の流れのように動いていく。その流れのなかに、夕鈴も入った。入ってしまえば、あとは、流れにまかせるだけだった。どこへ行くというあてもない。ただ、この光と匂いと人いきれのなかを、漂っていたかった。

屋台のあいだを、夕鈴は、ゆっくりと歩いた。歩きながら、あちこちに、目をやった。水飴を、割り箸に巻きつけて、くるくるとまわしている小さな子。金魚すくいの前で、真剣な顔をして、ポイを水にひたしている男の子。射的の屋台で、コルクの弾を、命中させて、はしゃいでいる若い二人連れ。みんな、それぞれの、小さな夜を、生きていた。夕鈴も、その、たくさんの小さな夜の、ひとつだった。

祭りというものは、と夕鈴は、歩きながら思った。ふしぎなものだ。ふだんは、灯りの消えている通りに、こんなにも、灯がともって。ふだんは、家のなかにいる人たちが、こんなにも、外に出てきて。ふだんは、静かな夜が、こんなにも、にぎやかになって。まるで、一年に一度だけ、町が、べつの町に、なるみたいだ。この一夜だけの、まぼろしの町に。

境内へと続く石段の下に、大きな鳥居があった。その鳥居をくぐると、急に、空気が変わった。境内のなかは、通りよりもさらに、人と光であふれていた。中央には櫓が組まれていて、その上で、太鼓が打たれていた。ドン、ドン、という低い音が、地面をつたって、足の裏から、腹のあたりまで響いてきた。その音に合わせて、人々が輪になって踊っていた。手を上げ、手を下ろし、くるりとまわる。同じ動きを、みんなが繰り返している。夕鈴は、その輪のそとに立って、しばらく、それを見ていた。

太鼓の音は、夕鈴の、体のなかにまで、入ってきた。心臓の鼓動と、その音とが、いつのまにか、ひとつに、なっていくようだった。踊る人々の影が、灯りに揺れて、地面に、長く、伸びたり、縮んだりしていた。その影の踊りを見ていると、夕鈴は、なんだか、ここではない、どこか遠いところに、連れていかれそうな気がした。とても、古い、とても、なつかしい、どこかへ。もしかしたら、生まれるより前の、どこかへ。

輪のなかに、知った顔があった。

同じ学年の、志乃だった。志乃は、水色の浴衣を着ていた。朝顔の模様の入った浴衣だった。志乃は踊りながら、夕鈴に気づいて、手を振った。夕鈴も手を振り返した。志乃が、輪から抜けて、こちらへ来た。

「来てたんだ」と志乃は言った。息が少しはずんでいた。頬が、灯のせいか、上気していた。

「うん」と夕鈴は言った。

それから二人は、屋台のならぶほうへ歩いた。歩きながら、いろんなことを話した。何を話したのか、いまとなっては、よく思い出せない。けれど、話しているあいだじゅう、なんだか楽しかったことだけは、はっきりと覚えている。志乃が、りんご飴を買った。夕鈴は、ラムネを買った。ラムネの瓶のなかで、ビー玉が、からんと鳴った。冷えた瓶を頬にあてると、ひんやりとして、気持ちがよかった。

その、ラムネを飲んでいるときだった。

夕鈴は、ふと、櫓のむこう、境内の隅のほうに、一人の男の子が立っているのに気づいた。夕鈴と同じくらいの年ごろに見えた。けれど、見たことのない顔だった。この町の子ではない、と夕鈴は思った。よその町から、祭りを見に来たのかもしれなかった。その子は、白い半袖のシャツを着て、片手に、何かを持っていた。手袋だった。片方だけの、白い手袋。

なぜ、夏の祭りの晩に、手袋なんかを、と夕鈴は思った。しかも、片方だけ。その子は、その手袋を、ずっと胸のあたりで握りしめていた。まるで、それがなくてはならないもののように。まるで、それが、この世でいちばん大切なもののように。

その子は、誰かを探しているように見えた。人ごみのなかを、きょろきょろと見まわしていた。けれど、そのわりに、その場から、動こうとはしなかった。ただ、そこに立って、探して、そして、待っていた。

祭りの、いちばん明るい光の、そのすぐそとで。踊りの輪の、そのいちばん外側で。まるで、その子だけが、この祭りとは、べつの時間を、生きているようだった。みんなが、笑って、踊って、はしゃいでいるなかで、その子だけが、しんと、静かだった。その静けさが、かえって、夕鈴の目を、引いた。にぎやかな絵のなかに、たった一箇所だけ、色を塗り忘れたような、そんな、白い、しずかな一点。それが、その子だった。

夕鈴は、その子から、目が離せなくなった。

なぜだか、放っておけない、と思った。声をかけたい、と思った。けれど、それは、勇気のいることだった。夕鈴は、ラムネの瓶を、ぎゅっと握った。瓶は、もう、ぬるくなりはじめていた。ビー玉が、瓶のなかで、また、からんと鳴った。その音が、まるで、夕鈴の背中を、押すようだった。

昼下がりの縁側で、夕鈴は、その男の子のことを思い出している。

いま思い返すと、あの子のことだけが、やけにくっきりと、記憶に残っていた。屋台のことも、志乃と話したことも、太鼓の音も、みんな、どこか夢のなかのようにぼんやりしているのに、あの子のことだけは、まるで、いましがた見てきたばかりのように、鮮やかだった。

なぜだろう、と夕鈴は思う。

きっと、と夕鈴は思った。きっと、あの子が、大切なものを、握りしめていたから。あの、片方だけの手袋を。あんなふうに、何かを大切に握りしめている人を、夕鈴は、これまで、見たことがなかった。あの手の、あの、握りしめかたには、何か、わけがあった。それを、夕鈴は、あのとき、まだ知らなかった。知らなかったけれど、その、わけのあるものを、握りしめている手の、そのけなげさが、夕鈴の、胸のどこかを、そっと、つかんで、離さなかったのだ。

蝉が、また鳴いた。今度は、少し長く鳴いた。ジージージー、と鳴いて、それから、ふっと途切れた。庭の百日紅の、赤い花が、風もないのに、ひとひら、落ちた。地面に落ちたその花は、乾いた土の上で、しばらく、赤いままでいた。

夕鈴は、その花を、見ていた。花は、枝についているときも、赤い。落ちても、しばらくは、赤い。けれど、やがて、乾いて、茶色くなって、土に、還っていくのだろう。祭りも、そうなのかもしれない、と夕鈴は思った。昨夜は、あんなに、あかあかと、燃えていた。けれど、いまは、こうして、静かに、乾いていく。そして、やがて、みんなの記憶のなかに、還っていく。落ちた花のように。落ちた、花火の燃え殻のように。

夕鈴は、目を細めた。陽が、まぶしかった。まぶたのうらが、赤くなった。その赤のなかに、昨夜の、あの男の子の姿が、また浮かんできた。

昨夜、夕鈴は、思いきって、あの子に近づいた。

なぜ、そんなことをしたのか、自分でもわからない。ふだんの夕鈴なら、知らない子に声をかけるなんて、とてもできなかった。けれど、あの晩は、何かが違った。祭りの晩の、あの、たがのゆるんだような、ふわふわとした気分が、夕鈴を、いつもより大胆にしていたのかもしれない。あるいは、あの子の、あの、探して、待っている姿が、夕鈴の胸の、どこか奥のほうを、そっと押したのかもしれなかった。

「誰か、探してるの」と、夕鈴は言った。

自分の声が、思ったより小さくて、太鼓の音にかき消されそうになった。けれど、その子は、聞き取った。ふりむいて、夕鈴を見た。近くで見ると、その子の目は、少し、寂しそうだった。

「うん」と、その子は言った。「妹を」

妹を、と夕鈴は、心のなかで繰り返した。

「はぐれちゃって」と、その子は言った。「人が、多くて」

「そう」と夕鈴は言った。それから、その子の手のなかの、白い手袋を見た。「それ、妹の」

その子は、自分の手のなかのものを、はじめて思い出したように、見た。それから、うなずいた。

「片方、なくしたって、泣いてたんだ。だから、片方だけ、持ってて」

その子の言うことは、少し、要領を得なかった。片方だけの手袋を、なぜ持っているのか。妹がなくしたのは、この片方なのか、それとも、もう片方なのか。夕鈴には、よくわからなかった。けれど、なんとなく、わかったような気もした。妹が大事にしていた手袋の、片方が失われて、残った片方を、この子が、こうして持っている。それだけのことなのかもしれなかった。それだけのことが、夕鈴の胸を、なぜか、きゅっとさせた。

その手袋は、白い、毛糸の手袋だった。夏には、まるで、似合わなかった。ふわふわとした、冬の手袋。それを、あの子は、汗ばんだ手で、握りしめていた。夕鈴は、ふと、思った。あの手袋は、いま、あたたかいのだろうか、それとも、冷たいのだろうか。冬のものなのに、夏の手のなかにあって。その手袋は、いったい、どんな気持ちで、そこに、あるのだろう。そんな、答えのない問いが、夕鈴の頭を、よぎった。

「一緒に、探そうか」と、夕鈴は言った。

昼下がりの陽が、少し、傾いてきた。

縁側の影が、さっきより、長くなっている。夕鈴は、まだ、そこに座っていた。もう、どれくらい、そうしていただろう。時間の感覚が、うまくつかめなかった。まどろむような、この昼下がりのなかでは、一刻が一瞬のようにも、また、永遠のようにも感じられた。

母が、家の奥から出てきた。「あんた、まだそんなとこに」と言った。「昼寝でもしたら。ゆうべ、遅かったんだから」

「うん」と夕鈴は言った。けれど、動かなかった。

母は、夕鈴の隣に来て、庭を見た。「静かねえ」と、ひとりごとのように言った。「ゆうべが、嘘みたい」

「うん」と夕鈴は、また言った。

母は、しばらく、そこに立っていた。母もまた、庭を見ながら、何か、遠いことを、考えているようだった。「お母さんもね」と、母が、ふいに言った。「子どものころ、この祭り、行ったのよ。毎年ね。楽しかったなあ」母の声は、なつかしそうだった。「祭りのあとは、いつも、こうやって、ぼんやりしてたわ。なんだか、力が抜けちゃってね」

夕鈴は、母の顔を、見上げた。母にも、そういう時があったのだ、と思った。夕鈴と同じくらいの年ごろに。この、同じ縁側で。この、同じ庭を見ながら。そう思うと、なんだか、ふしぎな気がした。時間というものが、ぐるりと、一巡りして、いま、また、同じ場所に、戻ってきたような。母が見ていた昼下がりと、夕鈴が見ている昼下がりとが、どこかで、そっと、重なっているような。

「お母さんも、彗星、見た?」と、夕鈴は、訊いてみた。「ゆうべの、空の」

母は、少し、首をかしげた。「彗星?」と言った。「見なかったわねえ。そんなの、出てた?」

「うん」と夕鈴は言った。「蒼い、星が。長い、尾を引いて」

「あら」と母は言った。「気がつかなかった。ゆうべは、片づけで、それどころじゃなかったから」母は、笑った。「あんた、よく、そんなの、見てたわねえ」

夕鈴は、答えなかった。母が、あの星を見ていないと知って、少し、寂しかった。けれど、同時に、少しだけ、うれしくもあった。あの星は、夕鈴と、あの子だけが、見たものなのだ。この町じゅうで、たった二人だけが。そう思うと、あの、一夜の記憶が、いっそう、大切なものに、思えた。

嘘みたい、というその言葉が、夕鈴の胸に、しみた。ほんとうに、嘘みたいだった。あの熱狂は、あの光は、あの音は、みんな、どこへ行ってしまったのだろう。まるで、この町が、昨夜だけ、いつもとは違う町になっていて、朝がきて、もとの町に、戻ってしまったかのようだった。

夕鈴は、ふと、あの古い言い伝えを思い出した。祖母が、小さいころに話してくれた話だった。

――夜になると、どこかに、古い書物の店があらわれるのだという。月光書房、という名の店だった。ふだんは、どこにあるのか、誰も知らない。けれど、祭りの晩や、月のきれいな晩には、町のどこか、路地の奥や、境内の裏手に、ぽつりと灯りをともして、あらわれるのだという。そして、朝がくると、消えてしまう。その店には、この世のありとあらゆる書物が、置いてあるのだそうだ。夢の話も、遠い星の話も、まだ生まれていない子どもの話も。

子どものころは、その話が、こわかった。けれど、いまは、なぜか、なつかしかった。もし、ほんとうに、そんな店があるのなら、昨夜のことも、あの子のことも、どこかの書物に、書いてあるのだろうか。そんなことを、夕鈴は、ぼんやりと思った。

そして、もし、その店に、入ることができたなら、と夕鈴は、まどろむように、考えた。あの子の、名前の書いてある書物を、探すのに。あの子が、どこの町の、なんという名前の子なのか。あの子の妹の、みおちゃんが、どんな子だったのか。りんご飴が好きで、金魚すくいが好きで、白い手袋を、大切にしていた、あの子の妹の話が。そのぜんぶが、その、月光書房の、どこかの棚の、古い一冊のなかに、書いてあるのだろうか。もし、書いてあるのなら、夕鈴は、その一冊を、読みたかった。夜どおし、朝が来るまで、読みつづけたかった。店が、消えてしまう前に。

けれど、そんな店は、夢のなかにしか、ないのだった。祖母の話のなかにしか。そして、この、まどろむような昼下がりの、ぼんやりとした頭のなかにしか。夕鈴は、少し、笑った。自分の考えていることが、おかしかった。夜になると本屋があらわれるなんて。そんなこと、あるはずがない。けれど――と、夕鈴は思った。けれど、昨夜、空を彗星がわたっていったことだって、あるはずのないことのようだった。それなのに、それは、ほんとうに、あったのだ。だとしたら、月光書房だって、どこかに、ほんとうに、あるのかもしれない。夜の、路地の、いちばん奥に。

昨夜、夕鈴とあの子は、妹を探して、境内を歩いた。

人ごみのなかを、縫うように歩いた。あの子は、背が高くて、人の頭ごしに、遠くまで見わたすことができた。夕鈴は、その隣を、離れないように、歩いた。

「名前は」と、夕鈴は歩きながら訊いた。

「え」

「妹の、名前」

「ああ」と、その子は言った。「みお、っていうんだ」

「みおちゃん」と、夕鈴は言った。「いくつ」

「六つ」

六つ、と夕鈴は思った。それは、迷子になったら、さぞ心細かろう、と思った。この、人と光の洪水のなかで、たった六つの子が、たった一人。

「大丈夫だよ」と、夕鈴は言った。誰にともなく、言った。「きっと、見つかるよ」

その子は、返事をしなかった。ただ、歩きつづけた。手袋を、握りしめたまま。

二人は、屋台の裏を通った。金魚すくいの桶のわきを通った。射的の屋台の前を通った。太鼓の櫓を、ぐるりとまわった。どこにも、みおちゃんは、いなかった。人はたくさんいたけれど、そのなかに、六つの女の子は、いなかった。

歩きながら、夕鈴は、少しずつ、あせってきた。もし、見つからなかったら、どうしよう。もし、この子の妹が、ほんとうに、どこかへ行ってしまったら。そう思うと、胸の奥が、冷たくなった。

けれど、あの子は、あせっていないように見えた。淡々と、探しつづけていた。まるで、探すこと、それ自体に、慣れているかのように。

いま、思えば――と、昼下がりの夕鈴は、思う。いま、思えば、あの子が、あせっていなかったのは、あたりまえのことだった。あの子は、妹が、この境内の、どこかに、いると、思って、探していたのではなかった。あの子は、もう、どこにもいない妹を、探していたのだ。だから、あせりようが、なかったのだ。見つからないことを、あの子は、はじめから、知っていたのだから。それでも、探さずには、いられなかったのだ。探すことだけが、妹と一緒にいられる、たった一つの方法だったのだから。

そのことを、あのときの夕鈴は、まだ、知らなかった。夕鈴は、ほんとうに、みおちゃんという、六つの女の子が、この境内のどこかで、泣いているのだと、信じていた。だから、必死に、探した。あの子のために。会ったこともない、みおちゃんのために。

風が、また来た。

昼下がりの縁側に、その風が、燃え殻の匂いを、また運んできた。夕鈴は、その匂いを、深く吸った。吸うたびに、昨夜が、少しずつ、遠くなっていくような気がした。匂いは、記憶の、いちばん最後まで残るものだと、誰かが言っていた。この、燃え殻の匂いが消えるころには、昨夜のことも、みんな、消えてしまうのだろうか。

夕鈴は、目を閉じた。

まぶたのうらに、昨夜の空が、よみがえった。

太鼓の音の、いちばん高まったときだった。夕鈴とあの子が、境内のはずれの、少し暗い木立のあたりまで来たときだった。あの子が、ふと、空を見上げた。「あ」と、小さく言った。

夕鈴も、つられて、見上げた。

夜空だった。祭りの灯りのせいで、いつもより、星は少なかった。けれど、その少ない星のなかに、ひとつ、見たことのない星が、あった。ほかの星とは、違っていた。それは、蒼かった。淡く、蒼く、光っていた。そして、その星は、長い尾を、引いていた。剣の切先のような、細く、長い尾を。夜空を、ゆっくりと、横切っていくように見えた。

「彗星だ」と、あの子が言った。

「すいせい」と、夕鈴は繰り返した。

「ミラ彗星、っていうんだって」と、あの子は言った。「ゆうべ、みおと、図鑑で見たんだ。何十年に一度しか、見えないんだって」

ミラ彗星、と夕鈴は、心のなかで、その名を、そっと唱えた。蒼い、その星の名を。

二人は、しばらく、その星を見ていた。太鼓の音も、人のざわめきも、遠くなった。ただ、その蒼い一点だけが、夜空に、静かに懸かっていた。夕鈴は、なぜだか、涙が出そうになった。理由は、わからなかった。ただ、その星が、あまりに遠く、あまりに静かで、そして、あまりに、うつくしかったからかもしれない。

「みお、これ、見てるかな」と、あの子が、つぶやいた。

夕鈴は、その言葉に、はっとした。あの子は、ずっと、妹のことを、考えていたのだ。こんなに、うつくしい星を見上げているときでさえ。いや、こんなにうつくしい星だからこそ、あの子は、それを妹と、一緒に見たかったのだ。

「見てるよ、きっと」と、夕鈴は言った。「みおちゃんも、どこかで、これ、見てるよ」

あの子は、夕鈴のほうを、見た。何か、言いたそうな顔をした。けれど、何も言わなかった。ただ、少しだけ、うなずいた。そして、また、空を見上げた。あの、蒼い星を。

その、あの子の横顔を、夕鈴は、いまも、覚えている。灯りの、いちばん届かない、境内のはずれで。夜空の、蒼い光を、うつして、あの子の頬が、かすかに、蒼く見えた。まるで、あの子自身が、あの星の、ひとかけらでできているような。あの子は、まばたきも、せずに、その星を見ていた。まるで、その星のなかに、何か、大切なものが、あるかのように。まるで、その星が、どこか遠くへ、連れていってしまった、何かを、見ているかのように。

その星は、ほんとうに、うつくしかった。何十年に一度しか見えない、と、あの子は言った。ミラ彗星。その名を、夕鈴は、いまも、忘れていない。忘れるはずが、なかった。あれは、夕鈴が、生まれてはじめて見た、そして、たぶん、二度と見ることのない、たった一度きりの星だったのだから。あの子と、二人で見た、たった一度きりの星だったのだから。

「夕鈴」と、母の声がした。

夕鈴は、目をあけた。縁側だった。昼下がりの、庭だった。母は、もう、家の奥へ引っ込んでいた。夕鈴を呼んだのは、気のせいだったのか、それとも、少し、うとうとしていたのか。

うとうとしていたのかもしれない、と夕鈴は思った。

まどろみのなかで、昨夜が、あんなにも、はっきりと、よみがえっていた。あの蒼い星が、まぶたのうらに、まだ、残っているような気がした。手を伸ばせば、届きそうな気がした。けれど、目をあけると、そこには、ただ、夏の午後の、白い光があるだけだった。星は、どこにもなかった。夜まで、待たなければ、見えないのだった。

いや――と、夕鈴は思った。今夜、あの星は、もう、見えるだろうか。彗星は、また、何十年も、来ないのだと、あの子は言った。だとしたら、昨夜見たあの星を、夕鈴は、もう二度と、見ることはないのかもしれない。何十年も、あとにならなければ。そのころ、夕鈴は、いくつになっているだろう。母のような、大人になっているだろうか。それとも、祖母のような、おばあさんになっているだろうか。

そのころ、夕鈴は、昨夜のことを、覚えているだろうか。

この、燃え殻の匂いを。あの、蒼い星を。あの子の、寂しそうな目を。片方だけの、白い手袋を。

覚えていたい、と夕鈴は、強く思った。

昨夜、彗星を見たあと、二人は、また、妹を探しはじめた。

けれど、探しても、探しても、みおちゃんは、見つからなかった。時間だけが、過ぎていった。太鼓の音が、いつのまにか、やんでいた。踊りの輪も、少しずつ、ほどけはじめていた。祭りが、終わりに近づいていた。屋台のいくつかは、もう、店じまいをはじめていた。

「どうしよう」と、夕鈴は言った。ついに、言ってしまった。「見つからないね」

あの子は、答えなかった。ただ、立ち止まって、手袋を、見つめていた。その横顔が、灯りの影で、暗かった。

「あのね」と、そのとき、あの子が、言った。

「うん」

「ほんとは」と、あの子は言った。声が、少し、震えていた。「ほんとは、みおは」

そこまで言って、あの子は、口をつぐんだ。

夕鈴は、待った。あの子が、次の言葉を、言うのを。けれど、あの子は、なかなか、言わなかった。長い、沈黙があった。そのあいだ、遠くで、片づけをする屋台の、鉄の音が、かんかんと鳴っていた。

「みおは」と、あの子は、やっと、言った。「去年の、夏に」

夕鈴の胸が、とくん、と鳴った。

「病気で」と、あの子は言った。とても、静かな声だった。「いなくなったんだ」

その言葉は、まるで、遠いところから、聞こえてきたようだった。あんなに、近くにいたのに。あの子の声は、まるで、あの、蒼い星のむこうから、届いてきたようだった。夕鈴は、太鼓の音が、やんでいることに、あらためて、気づいた。世界が、しんと、静かだった。ただ、遠くで、屋台を片づける、鉄の音だけが、かんかんと、鳴っていた。その音が、いやに、大きく、聞こえた。

昼下がりの陽が、雲に、隠れた。

庭が、ふっと、暗くなった。蝉も、鳴きやんでいた。世界が、少しのあいだ、色を失った。夕鈴は、その、色のない庭を、見ていた。

去年の夏に、いなくなった。

あの子の、あの言葉が、いま、また、耳のなかで、よみがえっていた。あのとき、夕鈴は、何も言えなかった。何を言えばいいのか、わからなかった。ただ、あの子の顔を、見ていた。あの子は、泣いていなかった。泣いていなかったけれど、その目は、あの蒼い星よりも、ずっと、寂しそうだった。

「毎年」と、あの子は、そのあと、言った。「この祭りに、みおと、来てたんだ。二人で。りんご飴、買って。金魚、すくって。だから」

だから、と夕鈴は、心のなかで、繰り返した。

「だから、今年も、来たんだ。みおと」と、あの子は言った。「この手袋を、持って。みおが、いちばん、気に入ってた手袋。片方、どっかで、なくしちゃったやつ。残ったほうの、片方を、持って。そしたら、みおも、一緒に、来られるかなって」

夕鈴は、そのとき、やっと、わかった。あの子が、探していたのは、迷子になった妹では、なかったのだ。あの子は、もう、どこにもいない妹を、この祭りのなかに、探していたのだ。人ごみのなかに。屋台の光のなかに。太鼓の音のなかに。あの、蒼い星のなかに。あの子は、ずっと、妹を、探していた。去年の夏から、ずっと。

「ごめんね」と、あの子は、夕鈴に言った。「嘘、ついて。迷子だなんて」

夕鈴は、首を、横に振った。何度も、横に振った。声が、出なかった。ただ、涙が、あふれてきた。とめようとしても、とまらなかった。夕鈴は、あの子の妹のことを、何も知らなかった。会ったことも、なかった。それなのに、涙が、とまらなかった。

雲が、流れた。

陽が、また、庭に、戻ってきた。百日紅の赤い花が、ふたたび、光のなかで、燃えるように、赤くなった。夕鈴は、頬を、拭った。いつのまにか、また、泣いていた。昼下がりの縁側で、たった一人、昨夜のことを思い出して、泣いていた。

けれど、それは、悲しいだけの涙では、なかった。

昨夜、あの子は、最後に、笑ったのだ。

泣いていた夕鈴を見て、あの子は、少し、困ったような顔をして、それから、笑ったのだ。「なんで、きみが泣くの」と、言った。その声は、もう、震えていなかった。「変なの」と、言って、笑った。その笑顔は、寂しかったけれど、けれど、どこか、あたたかかった。まるで、長いあいだ、胸のなかに、しまいこんでいたものを、やっと、誰かに、話せたときのような、そんな笑顔だった。

「一緒に、探してくれて、ありがとう」と、あの子は言った。「みお、きっと、喜んでる。今年も、来られたって」

そして、あの子は、空を、見上げた。あの、蒼い星を。

「みお」と、あの子は、小さく、呼んだ。「見えた? 彗星。きれいだったね」

夕鈴も、空を見上げた。蒼い星は、もう、木立のむこうに、傾きかけていた。けれど、まだ、そこに、あった。淡く、蒼く、光っていた。長い尾を引いて。まるで、その星が、あの子の妹の、返事のように、瞬いた。

昼下がりの町は、まだ、静かだった。

通りのむこうで、大人たちが、提灯を、片づけていた。竿から、赤いまるい提灯を、ひとつ、またひとつと、はずしていく。ゆうべ、あんなに、あかあかと灯っていた提灯が、いまは、灯を消して、ただの、しぼんだ紙の玉になって、はずされていく。それを、大人たちは、木の箱に、しまっていく。来年まで、その箱のなかで、眠るのだろう。

夕鈴は、その様子を、縁側から、見ていた。

祭りは、終わったのだ。ほんとうに、終わったのだ。あの熱狂も、あの光も、あの音も、みんな、片づけられて、箱のなかに、しまわれていく。そして、また、来年まで、眠るのだ。

来年、また、祭りは、来る。りんご飴も、金魚すくいも、太鼓も、また、来る。けれど、昨夜の、あの一夜は、二度と、戻ってはこない。あの、蒼い星も、あの子も、あの子の妹の話も。それは、この一夜かぎりの、まぼろしのようなものだった。

夕鈴は、あの子の名前を、聞かなかったことに、いま、気づいた。

あんなに、長いあいだ、一緒に歩いたのに。あんなに、大事な話を、聞いたのに。夕鈴は、あの子の名前を、聞かなかった。あの子も、夕鈴の名前を、聞かなかった。祭りが終わって、人ごみが、ほどけていくなかで、二人は、ただ、「じゃあ」と言って、別れたのだった。「じゃあ」と。それだけで。あの子は、人ごみのなかに、消えていった。片方だけの、白い手袋を、握りしめて。

夕鈴は、あの子が、どこの町の子なのかも、知らない。もう、二度と、会うことは、ないのかもしれなかった。

けれど――と、夕鈴は思った。

けれど、と縁側で、傾きはじめた陽を見ながら、夕鈴は思った。

あの子は、来年も、来るだろう。この祭りに。妹と一緒に。あの、片方だけの手袋を、持って。だとしたら、来年も、夕鈴は、あの子に、会えるかもしれない。会って、また、一緒に、探すことが、できるかもしれない。会えたら、今度こそ、名前を、聞こう。夕鈴は、そう思った。そして、自分の名前も、言おう。「わたしは、夕鈴」と。

そして――と、夕鈴は思った。もし、来年、あの、蒼い星が、もう見えなくても。ミラ彗星が、また、何十年も、来なくても。それでも、あの一夜のことを、夕鈴は、覚えているだろう。あの子と、あの子の妹と、あの蒼い星のことを。この、燃え殻の匂いとともに。

夕鈴は、立ち上がった。

そして、境内へ、行ってみようと、思った。祭りのあとの、境内を、見てみたかった。あの子と歩いた、あの場所を。

境内は、がらんとしていた。

昨夜の、あの人と光の洪水が、嘘のようだった。櫓は、まだ、組まれたまま残っていたけれど、太鼓は、もう、はずされていた。屋台は、一つ残らず、消えていた。ただ、地面のあちこちに、昨夜の名残が、落ちていた。割り箸。紙くず。踏みつぶされた、綿菓子の、袋。そして、落ちた花火の、燃え殻。黒く、焦げた、その燃え殻を、夕鈴は、拾い上げた。指先が、少し、黒く汚れた。それは、まだ、かすかに、あの匂いを、放っていた。

夕鈴は、境内を、歩いた。

昨夜、あの子と歩いた道を、たどるように、歩いた。金魚すくいの、あったあたり。射的の、あったあたり。そして、あの、木立のはずれ。あの、蒼い星を、見上げた場所。

そこに、来たとき。

夕鈴は、地面に、白いものが、落ちているのに、気づいた。

しゃがんで、拾い上げた。

それは、手袋だった。片方だけの、白い、子どもの手袋。小さな、六つの子の手に、ちょうど合いそうな、小さな手袋だった。

夕鈴の、胸が、鳴った。

これは――と、夕鈴は思った。これは、あの子が、持っていた手袋、だろうか。あの子が、握りしめていた、あの手袋。妹の、みおちゃんの、片方だけの手袋。あの子は、これを、落として、いってしまったのだろうか。あんなに、大事にしていたのに。

いや、と夕鈴は思った。そうではない、かもしれない。あの子が、握りしめていたのは、片方だけの手袋だった。みおちゃんが、片方を、なくしたのだと、あの子は、言っていた。だとしたら――だとしたら、これは、その、なくしたほうの、片方なのだろうか。ずっと、みつからなかった、もう片方が、こんなところに、落ちていたのだろうか。

夕鈴は、その手袋を、じっと、見つめた。

陽が、また、傾いた。

境内に、夕鈴の影が、長く、伸びた。夕鈴は、その、片方だけの手袋を、胸に、抱きしめた。あの子が、そうしていたように。

そのとき、夕鈴の耳の奥に、ふいに、ある調べが、よみがえった。

それは、子守唄だった。小さいころ、祖母が、うたってくれた、子守唄。

――眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。

そんな、歌だった。星が、海を、わたるまで。夕鈴は、その歌の意味を、子どものころは、わからなかった。星が、どうやって、海をわたるのだろう、と。けれど、いま、なんとなく、わかったような気がした。あの、蒼い星。長い尾を引いて、夜空を、ゆっくりと、横切っていった、あの星。あれは、きっと、空という海を、わたっていたのだ。ゆっくりと、ゆっくりと。何十年も、かけて。そして、また、遠くへ、去っていくのだ。

みおちゃんも、と夕鈴は思った。みおちゃんも、あの星のように、遠くへ、去っていったのかもしれない。けれど、あの子が、こうして、片方だけの手袋を、握りしめているかぎり。そして、夕鈴が、こうして、もう片方を、拾い上げたかぎり。みおちゃんは、まだ、どこにも、行っていないのかもしれなかった。まだ、この祭りのなかに。この町のなかに。あの、蒼い星のなかに。

夕鈴は、その手袋を、大事に、持って帰ろう、と思った。

来年、あの子に、会えたら、渡すのだ。「みつけたよ」と。「もう片方、みつけたよ」と。そうしたら、片方だけだった手袋は、両方、そろう。みおちゃんの、手袋が、そろうのだ。そのとき、あの子は、どんな顔を、するだろう。また、笑うだろうか。あの、寂しくて、あたたかい笑顔で。

夕鈴は、境内を、あとにした。

石段を、おりた。かたん、かたん、と下駄が鳴った。その音は、昨夜のような、高く、遠くまで響く音では、なかった。ただ、静かな、いつもの音だった。祭りは、終わったのだ。もう、いつもの町に、戻ったのだ。

けれど、夕鈴の胸には、あの一夜が、まだ、生きていた。あの光が。あの音が。あの、蒼い星が。あの子の、寂しそうな目が。そして、いま、胸に抱いた、この、片方だけの、白い手袋が。

家に帰ると、母が、「どこ行ってたの」と言った。

「境内」と夕鈴は言った。「祭りのあと、見てきた」

「なんにも、なかったでしょう」と母は、笑って言った。

「うん」と夕鈴は言った。「なんにも、なかった」

なんにも、なかった。けれど、夕鈴の手のなかには、たしかに、それが、あった。夕鈴は、それを、母には、見せなかった。自分の部屋に行って、机の、いちばん上の引き出しに、そっと、しまった。来年まで。あの子に、会えるまで。

引き出しを閉めると、夕鈴は、また、縁側に、戻った。

陽は、もう、だいぶ、傾いていた。昼下がりが、終わろうとしていた。もうすぐ、夕方が来る。そして、夜が来る。夜が来れば、また、あの星が、見えるだろうか。あの、蒼い星が。夕鈴は、夜を、待った。空を、見上げて、待った。

まどろむような、長い、昼下がりだった。

いつのまにか、夕鈴は、縁側で、うとうとと、していた。夢のなかで、夕鈴は、また、あの祭りの、境内にいた。太鼓が、鳴っていた。提灯が、あかあかと、灯っていた。そして、あの子が、いた。あの子は、笑っていた。その隣に、小さな女の子が、いた。六つくらいの、女の子。両手に、白い手袋を、はめて。両方、そろった、白い手袋を。女の子は、りんご飴を、持って、笑っていた。あの子と、手をつないで。

「ありがとう」と、あの子が、言った。夢のなかで。「みつけてくれて、ありがとう」

そして、二人は、空を、見上げた。夕鈴も、見上げた。

夜空を、あの、蒼い星が、わたっていった。長い尾を引いて。海をわたる、船のように。ゆっくりと、ゆっくりと。

――眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。

どこかで、その歌が、聞こえた。祖母の声のような。母の声のような。あるいは、夕鈴自身の、声のような。

「夕鈴」と、母の声が、した。

夕鈴は、目を、あけた。

縁側だった。空は、もう、暮れかかっていた。西の空が、赤く、染まっていた。昼下がりは、終わっていた。夕鈴は、ずいぶん、長いあいだ、眠っていたらしかった。頬に、板の跡が、ついていた。

「風邪、ひくよ」と、母が言った。「そんなとこで、寝てたら」

「うん」と、夕鈴は言った。

夕鈴は、起き上がって、空を見た。西の空の、赤のむこう。東のほうの、暮れかけた空に、もう、ひとつふたつ、星が、またたきはじめていた。けれど、あの、蒼い星は、見あたらなかった。もう、この町の空を、去ってしまったのかもしれなかった。あの、まどろみの夢のなかで、海をわたっていったように。

それでいい、と夕鈴は、思った。

星は、去っても、いい。祭りは、終わっても、いい。夏は、過ぎても、いい。なぜなら、大事なものは、もう、夕鈴の、引き出しのなかに、しまってあるのだから。片方だけの、白い手袋が。そして、あの一夜の、記憶が。燃え殻の匂いとともに、夕鈴の胸の、いちばん奥に、しまってあるのだから。

夕鈴は、もう一度、燃え殻の匂いを、探すように、鼻を、ひくつかせた。けれど、もう、その匂いは、しなかった。夏の夕暮れの、涼しい風が、匂いを、どこかへ、運び去っていた。それでも、夕鈴は、知っていた。目を閉じれば、いつでも、あの匂いが、よみがえることを。そして、あの匂いとともに、あの一夜の、すべてが、よみがえることを。

夕鈴は、目を閉じた。

すると、まぶたのうらに、また、あの星が、浮かんだ。蒼く、淡く、長い尾を引いて。まどろみの底から、ゆっくりと、のぼってくるように。その星は、夕鈴の記憶のなかで、これから何十年も、消えることなく、懸かりつづけるのだろう。ほんとうの空からは、去ってしまっても。夕鈴の胸の空には、いつまでも。あの子の胸の空にも、きっと、いつまでも。

祭りのあとの町は、脱ぎ捨てられた着物のように、そこにあった。けれど、その着物の、いちばん奥のポケットに、夕鈴は、小さな宝物を、そっと、しまったのだった。誰にも、見せない、たった一つの、片方だけの、宝物を。そうして、夏が、また一つ、静かに、終わっていった。

この物語にひそむ符牒

ほかの物語と、ひそかに分かち合っているもの:

  • ミラ彗星
  • 子守唄
  • 月光書房
  • 片方の手袋

十二をつなぐ符牒について →

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