月光書房
亥の刻 ・ 夜 ・ 第 一 話

灯を絶やすな

逢沢 灯子
SF・世代宇宙船 ・ 約26頁

灯はいつも、まだ届いていない誰かのために燃えている。

カナタが灯台区画の扉を開けると、いつもの匂いがした。冷えた金属と、わずかに焦げた絶縁体と、それから何百年も同じ空気を濾しつづけてきた循環装置の、かすかに甘い埃の匂い。〈とこしえ号〉の船尾は、人の暮らす居住環の喧噪から遠く、ここまで来るともう、足音さえ自分のものしか聞こえなかった。

灯台は船の最後尾にあった。前へ前へと進む船体の、いちばん後ろ。みなが向かう先ではなく、みなが置いてきた方角を見つめるための区画。カナタはそこの、三代目の番人だった。

扉の内側には、初代がねじで留めたという真鍮の銘板がまだ残っている。「ともしびを絶やすな」。文字の溝には、二百年ぶんの埃と手の脂が黒く溜まり、もう半ばは読めない。それでもカナタは毎朝、そこに指を滑らせてから仕事を始めた。祖父がそうしていたように、祖父の母がそうしていたように。

灯台の中心には、送光機があった。

それは塔ではなかった。回る光でもなかった。古い地球の海辺に立っていたという灯台を、誰も見たことがない。けれど名前だけが、星の海を渡る船にまで運ばれてきて、この区画に貼りついた。送光機は、ひとかかえほどの黒い筐体と、そこから船尾の観測窓へ伸びる導光路と、窓の外へ向けて据えられた発振器とでできている。発振器が放つのは、人の目には見えない波長の光だ。それを一定の符牒で明滅させ、ずっと後方を行く姉妹船――〈はるか号〉へ送る。

それが灯台守の仕事だった。後ろを行く船へ、光を送りつづけること。

カナタは制御席に座り、手のひらで盤面の埃を払った。緑がかった表示が、ゆっくりと目を覚ます。送光は自動でも続けられたが、初代の代から、灯台守は一日に一度、手ずから光を送ることになっていた。機械に任せきりにしないために。送るという行為を、肉体で覚えておくために。

「おはよう」と、カナタは誰にともなく言った。

声は、狭い区画にすぐ吸い込まれて消えた。

返事はない。けれどカナタは、毎朝そう言った。後ろの船へ向けて、というよりは、この区画のすべてへ向けて。送光機へ。導光路へ。観測窓へ。歴代の番人が触れて磨いた、すべての把手と盤面へ。おはよう、と。挨拶は、誰かがそこにいることを前提とする言葉だ。それを声に出すたびに、カナタは、この場所が、ただの機械の置き場ではなく、誰かの暮らした部屋なのだと、自分に思い出させていた。

灯台区画は、決して広くはない。制御席がひとつ、点検用の通路が一筋、それに、壁いっぱいの記録棚。天井は低く、配管がむきだしに走っている。配管のひとつには、結露がうっすらと溜まり、いちばん低いところに、小さな受け皿が置いてあった。誰が置いたのか、知らない。けれど水滴は、決まった間をおいて、その皿にぽつりと落ちた。カナタは、その音を、時計の代わりにしていた。

ぽつり。

ぽつり。

二百年、この皿には、同じ間をおいて水が落ちつづけてきたのだろう。カナタは、ときどき、その規則正しさが、たまらなく愛おしくなった。

〈とこしえ号〉が母星の軌道を離れたのは、三百二十一年前のことだ。

行き先は、肉眼ではただの一点にしか見えない遠い恒星。そこに、人の住めるかもしれない惑星がひとつある――という、ほとんど祈りに近い観測結果が、出発の理由だった。船は二隻、つくられた。〈とこしえ号〉と〈はるか号〉。互いに数光日ほどの間隔をあけ、前後になって同じ航路を進む。片方に致命的な不運が起きても、もう片方が記録と人とを運びつづけられるように。二隻は互いの保険であり、互いの証人だった。

光速には遠く及ばない速さで、星々のあいだは渡られていく。船の中で生まれ、船の中で老い、船の中で死ぬ。目的の星に立つのは、いま生きている誰でもない。八代か、九代か、それとも十代か先の、まだ名前もない子どもたちだ。だからこの航海では、誰もが途中だった。誰もが、自分の見ない夜明けのために働いていた。

灯台は、二隻をつなぐ糸だった。

前を行く〈とこしえ号〉が船尾から光を送り、後ろを行く〈はるか号〉が船首でそれを受ける。あちらも同じように、こちらへ光を返す。航路の微調整、観測の擦り合わせ、そして――生きているという、ただそれだけの報せ。光が往き、光が還る。その往還が、二隻が一対であることの証だった。

返信が途絶えたのは、カナタが生まれるよりずっと前のことだった。

祖父のことを、カナタはよく覚えている。

二代目の灯台守だった祖父は、背の高い、無口な人だった。手の甲に、若いころ配管の事故で負ったという火傷の痕があって、子どものカナタはそれをよく指でなぞらせてもらった。つるりとした、光を弾く皮膚。祖父はくすぐったそうに笑って、それから決まって灯台の話をした。

「むかしはな、向こうから毎日のように光が還ってきた」

祖父はそう言った。

「わたしの祖母が――おまえの、ひいひいおばあさんが灯台守だったころだ。〈はるか号〉から、その日あったことが、短い符牒で送られてきた。あちらで子が生まれた。あちらで誰それが死んだ。畑の藻がよく育った。配管がまた詰まった。そういう、なんでもないことだ。なんでもないことを、光にして送ってきた」

カナタは尋ねた。いまは、と。

祖父はしばらく黙っていた。

「いまは、還ってこない」

それだけ言って、祖父は送光機の盤面に手を置いた。火傷の痕のある、その手で。

それから祖父は、決まって、灯台の作法をひとつずつカナタに教えた。盤面の埃の払いかた。導光路の継ぎ目に耳をあてて、漏れの音を聴きわけるやりかた。発振器の出力が落ちたとき、どこをどう調整すればいいか。祖父の手は大きく、節くれだっていたが、機械に触れるときだけは、ふしぎとやわらかくなった。まるで、眠っている子の頬に触れるように。

「灯台守はな」と、祖父は言った。「急いではいけない。光を送るとは、待つことだ」

その言葉を、カナタは長いあいだ、ただの言いまわしだと思っていた。

待つこと。何を。誰を。

幼いカナタには、わからなかった。祖父は、それ以上は説明しなかった。説明する人ではなかった。ただ、毎日、同じ時刻に灯台へ行き、同じ手つきで光を送り、同じ低い声で、あの子守唄を口ずさんだ。

眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。

祖父が死んだのは、カナタが二十歳になった年だった。眠るように、灯台の制御席で逝った。発見したのはカナタだった。祖父は、送光を終えたばかりの姿勢のまま、盤面にうつぶせていた。火傷の痕のある手が、まだ、送光のレバーに添えられていた。最後の私信が、その日の記録に残っていた。短い、ありふれた一文だった。

――今日も、変わりなし。みな、達者でやっている。

カナタは、その日から、三代目の灯台守になった。

カナタは送光の符牒を打ちはじめた。

決められた手順がある。まず、こちらの識別。〈とこしえ号〉灯台、第何航海日、現在の番人の代。次に、航路データの要約。それから、短い私信を一つ。私信を添えることは規則ではなかったが、慣わしだった。初代がそうしていた。だから、みながそうした。

カナタは少し考えて、こう打った。

――今日、居住環の桜が咲いた。三号だけ、今年も少し早い。

桜は、母星から運ばれてきた遺伝資源から育てられた、ほんものの木だった。居住環には三本ある。一号と二号は申し合わせたように同じころ花をつけるのに、三号だけはいつも、ほかより十日ほど早く咲いた。理由は誰も知らない。船の技師たちが何度調べても、わからなかった。ただ、毎年そうなる。それだけのことを、カナタは光にして、後ろの船へ送った。

送光のレバーは、古い、重い金属でできていた。引くと、機械の奥で、かちり、と乾いた音がする。それから、低い唸りが立ちのぼる。発振器が、目に見えない光を、闇へ放つ音だ。カナタは、そのレバーを引くたびに、手のひらに伝わる重みを感じた。光には重さなどないはずなのに、なぜか、この一引きには、重さがあった。代々の番人が、何万回となく引いてきた、その手の記憶の重さだったのかもしれない。

符牒は、点と線の組み合わせだった。古い、古い符号法。母星で、まだ電波も届かなかったころに使われていたという、いちばん原始的な伝達のかたち。短い明滅と、長い明滅。それを組み合わせて、言葉をつくる。カナタは、子どものころに、それを覚えた。覚えるのに、何年もかかった。けれどいまでは、指が勝手に動く。考えるより先に、手が符牒を打っている。

桜、と打つときの、指のはこび。早い、と打つときの、軽いはずみ。カナタの指は、もう、言葉を光に変えることを、肉体で覚えていた。

返事が還ってくるとは、思っていない。

光は、後方の闇へ放たれていく。〈はるか号〉のいるはずの方角へ。けれどその方角に、いま本当に船があるのかどうか、カナタは知らなかった。誰も知らなかった。光は、出ていったきり、還ってこない。何十年も。

それでも、送る。

灯台区画には、初代から積み重なった記録があった。

公式の航海日誌は、とうに船の中央記録庫へ移されている。けれど灯台には、灯台だけの覚え書きが残っていた。歴代の番人が、引き継ぎのために、あるいはただ書きたくて書いた、断片の集まり。物理的な綴じ込みもあれば、古い記憶媒体に眠っているものもあった。

その日、カナタは送光を終えたあと、いつものように記録を整理していた。

媒体は古く、半ばは読み出せなくなっていた。番人が代替わりするたびに、新しい器械に少しずつ移し替えてきたが、いちばん古い層――初代のころの記録は、もう何重もの移し替えを経て、ところどころ虫食いのように欠けていた。カナタはそれを、根気よく拾い読みするのが好きだった。死んだ人たちの声が、そこには沈んでいた。

その日、見慣れない索引にぶつかった。

ほかの記録とは別の場所に、ひとまとめにして隠すように置かれた一群。索引には名前がなく、ただ日付だけがあった。初代の番人の、最晩年の日付だった。

カナタは少し迷ってから、それを開いた。

最初の数枚は、ありふれた覚え書きだった。

発振器の出力が、わずかに落ちてきている。導光路の継ぎ目から、微量の漏れがある。後任への申し送り――灯台守は急いではならない。光を送るとは、待つことだ。

その一行を、カナタは二度読んだ。光を送るとは、待つことだ。祖父が、まったく同じ言葉を、口にしていた。祖父はそれを、シオリの記録から受け継いだのだ。二百年前の言葉が、祖父の口を借りて、幼いカナタの耳に届いていた。そうとは知らずに、カナタは、死んだ初代の声を聞いていたことになる。

カナタの背に、かすかな震えが走った。記録というのは、こういうものなのだ、と思った。死んだ人の声が、生きた人の口を借りて、時を渡っていく。灯台が後ろへ送る光のように、記録は、前へ――未来へと、声を送りつづけている。

カナタは祖父の手つきを思い出しながら、それを読み進めた。

やがて、文章の調子が変わった。

それは申し送りではなかった。誰かに読ませるための言葉ですらなかった。初代の番人が、ただ自分のために書きつけた、私的な言葉だった。

――今日も、還らなかった。

そう書いてあった。

――三千二百日、還らない。わたしはもう、数えるのをやめようと思う。けれど、やめられない。指が勝手に数えてしまう。あの人たちは、まだあそこにいるのだろうか。光が遅れているだけなのか。それとも、もう。

文は、そこで途切れていた。

カナタは盤面から手を離した。

灯台区画は静かだった。送光機が、低く、規則正しい音を立てている。後ろへ、後ろへと、光を送りつづける音。その音を、カナタは生まれてからずっと聞いてきた。子守唄のように。

初代の番人――名を、シオリといった。

それくらいのことは、カナタも知っていた。船の系譜記録に、名前だけは残っている。〈とこしえ号〉が母星を発ったとき、シオリはまだ若い技師で、灯台区画を任されたのだという。二隻が互いの空に光を交わしていた、いちばん最初の時代。光が往き、すぐに光が還ってきた、あの時代の人だ。

その人が、晩年に、こんな言葉を残していた。

カナタは、隠された記録のつづきを読んだ。

――わたしがこの船に乗ると決めたのは、妹のためだった。

そう、書いてあった。

――妹は〈はるか号〉に乗った。二隻に分かれて乗るのが、決まりだった。家族でも、誰かは前の船、誰かは後ろの船。そうやって、もし片方が失われても、家のだれかは残るように。わたしは前に、妹は後ろになった。出発の日、わたしたちは握手の代わりに、片方ずつ手袋を交換した。冬の母星で編んだ、対の手袋。妹がわたしの右手のぶんを、わたしが妹の左手のぶんを持った。いつかまた、向こうの星で会えたら、合わせよう、と。

カナタは、息を詰めて読んだ。

――だからわたしは、灯台守になった。妹のいる船へ、光を送るために。あの子はあちらの灯台で、わたしの光を受けてくれる。わたしの符牒を読んで、笑ってくれる。そう思って、わたしは光を送った。何十年も。

――けれど、いつからか、還ってこなくなった。

カナタは記録を閉じ、立ち上がった。

観測窓の前まで歩いていく。船尾の窓だ。前を行く船首の窓が未来を映すなら、ここは過去を映す。けれど窓の外には、過去も未来もなかった。ただ星があった。動かない、冷たい、おびただしい数の星。そのどこかに、あるはずの〈はるか号〉。けれど船は、肉眼では見えない。あまりに遠く、あまりに小さい。

カナタは、自分の手を窓ガラスに当てた。冷たかった。

シオリは、妹に光を送りつづけた。妹がそれを受けていると信じて。けれど、いつからか、還らなくなった。それは何を意味するのか――シオリは、ほんとうは気づいていたのではないか。気づいていて、なお、書かなかったのではないか。

カナタは、隠された記録に、まだ続きがあることを知っていた。

けれどその日は、それ以上読まなかった。

灯台守の暮らしは、単調だった。

朝、扉を開け、銘板に触れ、送光する。出力を測り、導光路を点検し、記録をつける。それから居住環へ戻り、共同の食堂で簡素な食事をとる。船の人口は、出発のときから少しずつ減っていた。事故。病。そして、生まれてくる子が、年々少なくなっていた。理由は、たぶん希望の問題だった。誰も口には出さなかったが、みな薄々わかっていた。目的の星は、まだ遠い。何代も先だ。その遠さに、人の心がすこしずつ疲れていく。

カナタには、家族がなかった。

伴侶を持たなかった。子もない。灯台守は、必ずしも血で継がれるわけではない。けれどカナタの家系は、初代から数えてずっと、灯台を守ってきた。祖父が死んだとき、カナタは迷わずその席に座った。ほかにやりたいことがなかったわけではない。ただ、後ろを向いて光を送る仕事を、ほかの誰かに渡したくなかった。それがどうしてなのか、自分でもよくわからなかった。

食堂で、カナタはときどき、若い技師たちの話を耳にした。

「灯台なんて、もう要らないんじゃないか」

そう言う声があった。悪気はなかった。ただ、合理の声だった。

「〈はるか号〉からは、もう何十年も返信がない。観測でも、後方に船らしき航跡は捉えられていない。あの船は、たぶん失われた。事故か、故障か、わからないが、もういない。それなのに、灯台はまだ電力と人手を食っている。あの電力を、前向きの観測に回せたら――」

もっともだ、とカナタは思った。

その技師は、何も間違ったことを言っていない。

合理は、いつも正しい。閉ざされた船のなかでは、とりわけそうだった。電力は限られている。空気も、水も、人手も、すべては有限の循環のなかにある。一滴の水も、一ワットの電力も、無駄にはできない。船は、巨大な、精密な、生きものだった。そのなかで、後ろを向いて、いない船へ光を送りつづける灯台は――たしかに、合理の目から見れば、奇妙な臓器だった。心臓でも、肺でもない。何かを生み出すわけでもない。ただ、過去へ向かって、灯をともしつづけている。

その夜、食堂を出たあと、カナタは、ひとりの老人とすれちがった。

居住環でいちばんの年寄りで、もう百歳に近いという。船の歴史を、まるで自分の記憶のように語る人だった。すれちがいざま、老人はカナタの灯台守の章をみとめて、足を止めた。

「灯台の人かね」と、老人は言った。

「はい」と、カナタは答えた。

老人は、しわだらけの顔を、ゆっくりとほころばせた。

「わたしの母が、よく言っていた」と、老人は言った。「灯台の光が消えた夜は、船が死ぬ夜だ、と。母は、灯台の光をじかに見たことはない。誰も見られない。けれど、母は信じていた。あの光があるかぎり、後ろの船は、わたしたちを見失わない、と」

老人は、それだけ言って、また、ゆっくりと歩いていった。

カナタは、その後ろ姿を、長いあいだ見送っていた。

その夜、カナタは灯台区画へ戻った。

規則では、夜の送光は自動に任せてよかった。けれどカナタは、もう一度、手で光を送りたかった。盤面の前に座り、識別の符牒を打つ。〈とこしえ号〉灯台、第何航海日――。

打ちながら、カナタは隠された記録のことを考えていた。

シオリは、妹に光を送りつづけた。妹がもういないかもしれないと、心のどこかで知りながら。それは愚かなことだったのだろうか。届かない光を、誰もいない闇へ送りつづけること。それは、ただの未練だったのか。

カナタは、記録の続きを開いた。

晩年のシオリの言葉は、しだいに乱れていった。文字は震え、文は途切れがちになった。けれど、ある一枚に、はっきりとした言葉があった。

――観測班が、後方の塵雲のことで来た。

そう書いてあった。

――〈はるか号〉のいるはずの航路上に、塵の濃い領域がある。船がそこを通ったのは、もう四十年も前だ。観測班は言った。あの濃さの塵雲を、減速もせずに突っ切ったなら、船体は無事ではすまなかっただろう、と。けれど確かなことはわからない。〈はるか号〉が事前に避けたのかもしれない。あるいは。

――あるいは、と観測班は言葉を濁した。

――わたしには、わかってしまった。

カナタは、ゆっくりと息を吐いた。

シオリは、知っていた。妹の船が、おそらく四十年前に失われたことを。それでも、シオリは死ぬまで灯台守だった。死ぬまで、後ろへ光を送りつづけた。失われた船へ。いない妹へ。

カナタは、長いあいだ盤面の前に座っていた。

送光機が、低く唸っている。いまこの瞬間にも、光は船尾から放たれ、闇を渡っていく。誰も受け取らない光が。

カナタは、初めて、自分の仕事の意味を見失った。

灯台守は、後ろを行く船のために光を送る。それが灯台の理由だ。けれど後ろに船がいないなら――もう四十年も、いや、もしかしたらそれよりもっと前から、いないのだとしたら――この光は、何のためのものなのか。

カナタは、シオリの記録の、いちばん最後の一枚を開いた。

そこには、もう乱れた文字はなかった。

落ち着いた、整った字で、こう書いてあった。

――わたしは、もう還りを待たない。

――けれど、光は送りつづける。

――なぜなら、と、ここで一度、シオリは筆を止めたらしかった。インクの濃さが変わっている。時間が空いたのだ。それから、続きが書かれていた。

――なぜなら、光は、届く先のためだけのものではないから。

カナタは、その一文を、何度も読んだ。

翌朝、カナタは少し早く灯台へ行った。

銘板に触れる。「ともしびを絶やすな」。指の下で、文字の溝が、いつもより深く感じられた。

送光の準備をしながら、カナタはシオリの最後の言葉を思い返していた。光は、届く先のためだけのものではない。それはどういう意味だろう。届かないとわかっていて送る光に、いったい何の意味があるのか。

カナタは識別の符牒を打ち、航路データを添え、それから私信の段になった。

いつもなら、桜のことや、配管のことや、その日のなんでもないことを打つ。後ろの船の、いるかもしれない誰かへ向けて。

けれどその日、カナタは手を止めた。

そして、規則にはない言葉を打った。

――あなたは、まだそこにいますか。

打ってから、カナタは少し笑った。馬鹿げている。返事は還らない。それはわかっていた。けれど、打たずにいられなかった。

光は、闇へ出ていった。

その日から、カナタは記録を遡りはじめた。

シオリのものだけではない。二代目の祖父の記録、その前の番人たちの記録。何重にも移し替えられ、欠け、かすれた、二百年の声。カナタはそれを、一枚ずつ拾い読みしていった。

歴代の灯台守は、みな知っていた。

驚いたことに、〈はるか号〉の喪失は、灯台のなかでは早くから知られていたらしかった。シオリが気づき、それを記録に残し、後任に引き継いだ。けれど、それは公式には決して認められなかった。船の中央は、いまも〈はるか号〉を「通信途絶」として扱っている。「喪失」とは記していない。確たる証拠がないから――というのは、たてまえだろう、とカナタは思った。

ほんとうは、認めたくなかったのだ。

二隻でひとつ。それが、この航海の魂だった。片方を失ったと認めることは、自分たちもまた、いつ失われてもおかしくない、ただ一隻の孤独な船にすぎないと認めることだった。だから誰も、それを言葉にしなかった。灯台だけが、その重さを引き受けていた。

代々の番人は、いない船へ光を送りつづけた。

なぜか。記録のあちこちに、その問いと、それぞれの答えがあった。

ある番人は書いていた。「送るのをやめたら、わたしたちは、ほんとうにひとりになる」。

ある番人は書いていた。「光を送るとは、向こうを照らすことではない。こちらが、まだ生きていると、自分に言いきかせることだ」。

またある番人は、ただこう書いていた。「シオリさんが送ったから、わたしも送る」。

カナタは、その素朴な一行を、いちばん長く見つめた。

理由になっていない、とも言える。けれど、それがすべてだ、とも言えた。シオリが送ったから、次の者が送り、その者が送ったから、また次の者が送る。光は、後ろの船へ届かなくても、番人から番人へは、たしかに届いていた。二百年、絶えることなく。一本の、見えない糸として。

カナタは、ふと、おそろしいことに気づいた。

灯台の本当の役目は、もしかしたら、後ろの船へ光を送ることではなかったのかもしれない。それは、もうずっと前から、別のことになっていた。光を送りつづけるという行為そのものを、絶やさずに、次の世代へ手渡していくこと。その繰り返しのなかでだけ、〈はるか号〉は、そこにいた人たちは、まだ存在しつづけていた。忘れられずに。

灯台は、墓ではなかった。

灯台は、記憶が生きつづけるための、ひとつの器だった。

記録のいちばん新しい層――祖父のすぐ前の番人の覚え書きに、こんな一行があった。カナタは、それを読んで、しばらく動けなかった。

――わたしたちは、消えた人たちのために光を送っているのではない。わたしたちが、その人たちを消さないために、光を送っているのだ。

居住環で、カナタは桜の下に立った。

三号の桜だ。今年も、ほかより早く咲いた。淡い花びらが、人工の微風に揺れている。船の照明が、母星の昼を真似て、白く明るい。けれど花びらの影は、ほんものの太陽のそれとは、どこか違った。やわらかすぎる。輪郭が、すこし曖昧だった。

カナタは、ふと、子どものころに祖父が口ずさんでいた歌を思い出した。

眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。

そういう、古い子守唄だった。誰が作ったのかも、どこから来たのかも知らない。祖父が、夜の灯台でよく口ずさんでいた。低い、かすれた声で。送光機の音にまぎれて、ほとんど聞こえないくらいの声で。眠れ、眠れ、と。

あとになって、カナタは知った。あの子守唄を最初に歌っていたのは、シオリだったのだと。記録のどこかに、そう書いてあった。シオリが灯台で歌い、二代目が覚え、三代目へ伝わった。歌詞は、たぶん少しずつ変わっている。けれど、最初の一節だけは、変わらずに残っていた。

眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。

それは、誰のための子守唄だったのだろう。

カナタは、花びらを一枚、手のひらに受けた。

そして、初めて、こう思った。シオリは、灯台で、子守唄を歌いながら、光を送っていたのではないか。後ろの船で眠る妹に、聞こえるはずもない歌を、それでも歌いながら。眠れ、眠れ、と。子守唄は、眠る者のためのものだ。けれど、ほんとうは、歌う者のためのものでもある。歌うことで、歌う者の胸のなかにも、夜が、しずかに降りてくる。

カナタは、桜の下で、小さく口ずさんでみた。

眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。

声は、人工の微風に、すぐにさらわれていった。けれど、歌っているあいだ、カナタの胸のなかに、たしかに、誰かがいた。シオリが。祖父が。名もない番人たちが。後ろの船で眠る、見知らぬ人たちが。みな、その歌のなかに、そっと集まってきた。

歌い終えて、カナタは、しばらく目を閉じていた。

居住環の照明が、まぶたを通して、ぼんやりと赤い。母星の昼を真似た、人工の光。けれど、その赤の向こうに、カナタは、見たこともない母星の夕暮れを、なぜか思い描くことができた。ほんものの太陽が、ほんものの海に沈んでいく。星が、海を、わたっていく。誰も見たことのない、けれど、みなが心のどこかで覚えている、ふるさとの夜を。

その夜、カナタは灯台で、ひとつの決心をした。

記録を、整理しようと思った。シオリから始まる、灯台の隠された記録のすべてを。欠けたところを補い、かすれたところを読み直し、二百年の声を、ひとつの綴じ込みにまとめる。それを、後任のために残そう。

けれど、それだけではなかった。

カナタは、もうひとつ、考えていた。

灯台の光を、〈はるか号〉へ送るだけでなく――船の前方へも、送れないだろうか。

ばかげた考えだ、とカナタは思った。前を行く船は、〈とこしえ号〉しかない。〈とこしえ号〉の前には、誰もいない。光を送る相手がいない。

けれど、本当にそうだろうか。

目的の星には、いつか〈とこしえ号〉の子孫が降り立つ。八代か、九代か先の。彼らは、自分たちがどこから来たのか、なぜ来たのかを、いつか忘れるかもしれない。船の中で生まれ、船の中で死ぬことを、当たり前だと思うようになるかもしれない。後ろを向いて光を送るという、奇妙な仕事の意味を、誰も覚えていないかもしれない。

そのとき、何かが――この灯台の記憶が――前方へ、未来へ届いていたら。

カナタは、長いあいだ、その考えを温めた。

数か月が過ぎた。

カナタは、灯台の記録の整理を、少しずつ進めていた。シオリの言葉。祖父の言葉。名もない番人たちの言葉。それらを読み、書き写し、ひとつの流れにまとめていく。作業をしながら、カナタはしばしば、自分が二百年分の声に囲まれているように感じた。みな、後ろを向いて光を送った人たちだ。みな、還らない光を、それでも送りつづけた人たちだ。

ある夜、カナタは導光路の点検をしていた。

発振器の出力が、また落ちていた。シオリの代から、ゆっくりと、けれど確実に。部品はもう、船にある分しか替えがきかない。やがて、送光機は止まるだろう。何代か先の番人の手で、あるいは、もっと早く。

カナタは、発振器の小さな点検灯を見つめた。

そのとき、ふと、棚の奥に、古い箱があるのに気づいた。

灯台にあるとは知らなかった箱だ。記録の整理で棚を片づけているうちに、奥から出てきたらしい。手のひらに乗るほどの、小さな箱。深い藍色をしている。

カナタは、それを取り上げた。

表面に、三日月が刻まれていた。すり減って、半ば消えかかっているが、たしかに三日月の形だ。横に、小さく文字がある。古い字体で、「月光堂」と読めた。

それは、マッチ箱だった。

ずいぶん古い。母星から運ばれてきたものだろう。なぜこんなものが灯台にあるのか、カナタにはわからなかった。火など、船の中では厳重に管理されている。マッチが使われることなど、まずない。

カナタは、箱を振ってみた。かすかに、乾いた音がした。中に、まだ何本か、残っているらしかった。

カナタは、そのマッチ箱を、しばらく手のひらで弄んでいた。

藍色の地に、三日月。それを見ているうちに、カナタはなぜか、シオリのことを思った。シオリも、この箱を手にしたことがあったのだろうか。出発の日、冬の母星で。妹と手袋を交換した、あの日に。

記録のどこにも、マッチ箱のことは書かれていなかった。

けれどカナタは、なぜか、これがシオリのものだったような気がした。理由はない。ただ、そう感じた。後ろを向いて光を送った最初の人が、火を点すための小さな道具を、ひとつ、灯台に残していった。光を送る区画に、もうひとつの、小さな光の種を。

カナタは、マッチ箱を、送光機のそばの棚に置いた。

ちょうど、銘板の真下に。「ともしびを絶やすな」の、すぐ下に。

それから、その夜の送光を始めた。

私信の段になって、カナタは打った。

――今日、古いマッチ箱を見つけました。三日月の印のある、藍色の箱。きっと、誰かの忘れもの。

打ってから、カナタは少し、おかしくなった。これはもう、後ろの船への報せではない。誰にも届かない言葉だ。けれど、それでよかった。光は、届く先のためだけのものではない。シオリが、そう書いていた。

カナタは、その意味が、すこしずつわかりかけてきた気がした。

光を送るという行為は、そのまま、誰かを覚えているという行為だった。

シオリが妹を覚えていた。祖父がシオリを覚えていた。カナタが、祖父を、シオリを、名もない番人たちを覚えている。光を送るたびに、その人たちが、いまここにいた。送光機の音が、その人たちの息づかいだった。

たとえ〈はるか号〉が失われていても――いや、失われているからこそ――この光は、その船を、その人たちを、覚えているための光だった。忘れないための光だった。

カナタは、闇へ放たれていく光を、見えない光を、長いあいだ見送っていた。

季節が、何度かめぐった。

居住環の桜が、咲いては散った。三号だけは、相変わらず早く咲いた。カナタは少し歳をとり、髪に白いものが混じりはじめた。灯台の記録の整理は、ほとんど終わりに近づいていた。シオリの声も、祖父の声も、みな、ひとつの綴じ込みのなかに収まった。

カナタは、その綴じ込みの最後に、自分の言葉を書き加えようとしていた。

何を書こうか、と迷った。

後任への申し送りなら、技術的なことを書けばいい。けれど、シオリがそうしたように、ここには、自分のためだけの言葉も残しておきたかった。いつか、誰かが読むかもしれない言葉を。

カナタは、長いあいだ、白い面を見つめていた。

それから、こう書いた。

――わたしは、三代目の灯台守、カナタ。

――わたしは、後ろの船が、たぶんもういないことを知っている。シオリさんが知っていたように。祖父が知っていたように。それでも、わたしは光を送る。

そこまで書いて、カナタは手を止めた。

そのとき――。

観測窓の外を、何かが横切った。

カナタは顔を上げた。

最初は、目の錯覚かと思った。船尾の窓の外は、いつも変わらない。動かない星々。冷たい闇。けれど、その夜は、違った。星々のあいだを、一筋の、蒼白い光が、ゆっくりと横切っていく。

長い、尾を引いていた。

淡く、蒼く、燐光のように。それは星ではなかった。流れる、というには、あまりに静かだった。けれど、たしかに動いていた。星々を背景に、ゆっくりと、ゆっくりと、闇の海をわたっていく。

彗星だ、とカナタは気づいた。

カナタは、ほとんど反射的に、観測記録を呼び出した。古い、古いデータベース。母星でつくられ、船とともに運ばれてきた、星の地図。そこに、その彗星の名前があった。

ミラ彗星。

長い、長い周期で、銀河のこの一帯をめぐる星。記録によれば、母星の空にも、かつて一度だけ姿を見せたという。それきり、忘れられていた星だった。誰も、もう一度それを見るとは思っていなかった。

それが、いま、〈とこしえ号〉の船尾の窓を、横切っていく。

長く忘れられていた星が、また、巡ってきた。

カナタは、ふと、子どものころに祖父から聞いた、ひとつの言い伝えを思い出した。

彗星の見える夜には、船のどこかに、ひと晩だけ、古い書房が現れるのだという。月光書房、という名の古書店。誰も場所を知らない。けれど、彗星が空を渡る夜にだけ、船のどこかの、ふだんは何もない区画の隅に、ひっそりと、その店の灯がともる。そこには、母星から運ばれたはずのない本がならび、まだ生まれていない者の書いた言葉まである、という。そして、朝が来ると、店は消えている。あとには、何も残らない。

ただの、子どもだましの言い伝えだ。祖父も、笑いながら話していた。けれど、その夜、彗星の蒼い光を見ていると、カナタは、なぜか、それがほんとうのことのように思えてきた。

光が巡るのなら、言葉も巡るのかもしれない。失われたはずのものが、ひと晩だけ、また現れるのかもしれない。シオリの声が、二百年を渡って、カナタに届いたように。

カナタは、窓に近づいた。

蒼白い尾が、ゆっくりと、視界を渡っていく。それは美しかった。けれど、それだけではなかった。カナタは、その光に、なぜか、深く胸を打たれた。

この星もまた、光を送っていた。

ミラ彗星は、何百年も、何千年もかけて、闇の海をめぐる。そのあいだ、ずっと、太陽の光を受けて、長い尾を燃やしている。誰のためでもなく。誰も見ていなくても。ただ、めぐり、ただ、光る。長く忘れられ、それでも、また巡ってくる。

カナタは、自分の手を、また窓に当てた。

ガラスの向こうで、彗星の尾が、ゆっくりと流れていく。

ふと、カナタの口から、ひとりでに、あの歌がこぼれた。

眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。

シオリが歌い、祖父が歌い、カナタが受け継いだ子守唄。その意味を、カナタは初めて、ほんとうにわかった気がした。星が海をわたるまで。それは、この彗星のことだったのかもしれない。あるいは、闇を渡るすべての光のこと。あるいは、後ろを向いて光を送りつづける、すべての者たちのこと。

眠れ、眠れ、と、カナタは小さな声で歌った。

彗星は、答えなかった。

けれど、その蒼白い光が、ゆっくりと、窓を渡りきるまで、カナタはそこに立っていた。

そのあいだに、カナタの胸のなかで、ながいあいだ凍りついていた問いが、ゆっくりと、ほどけていった。

意味があるのか、と、カナタはずっと問うていた。いない船へ、還らない光を送りつづけることに。けれど、その問いは、たぶん、立てかたが間違っていたのだ。意味は、相手が受け取ることで生まれるのではない。意味は、送る者の側に、はじめからある。シオリが妹を思って光を送ったとき、その光は、すでに、妹への愛を為していた。妹がそれを受けようと受けまいと。愛は、届くことで完成するのではない。愛することそのものが、完成なのだ。

ミラ彗星が、誰に見られなくても光るように。

カナタは、窓ガラスに映る、自分の顔を見た。白いものの混じりはじめた髪。皺の刻まれはじめた目もと。その向こうを、蒼い彗星が、ゆっくりと渡っていく。一瞬、ふたつの光が――彗星の蒼い尾と、カナタ自身の輪郭とが、ガラスのうえで重なった。

彗星が去ったあと、灯台区画には、また、いつもの静けさが戻った。

送光機が、低く唸っている。後ろへ、後ろへと、光を送りつづける音。

カナタは、制御席に戻った。

書きかけの言葉が、そこにあった。「それでも、わたしは光を送る」。カナタは、その続きを書こうとした。けれど、言葉が出てこなかった。さっき見たものが、まだ胸のなかで、蒼く燃えていた。

カナタは、しばらく考えてから、こう書いた。

――今夜、ミラ彗星を見た。長く忘れられていた星が、また巡ってきた。

――あの星は、誰のためでもなく光っていた。それでも、わたしは、あの光に救われた。

――だから、たぶん、光を送ることに、相手がいるかどうかは、ほんとうは関係ないのだ。

――光は、送られた、というそのことで、すでに何かを為している。

カナタは、筆を止めた。

それから、もうひとつ、書き加えた。

――いつか、この船が目的の星に着いたら。そのとき、灯台はもう、要らなくなるかもしれない。後ろを向いて光を送る者は、いなくなるかもしれない。

――けれど、覚えていてほしい。

――わたしたちは、ずっと、後ろを向いていた。前へ進む船の、いちばん後ろで、置いてきたもののために、光を送りつづけた。それは、無駄なことではなかった。

――忘れられた者を、忘れずにいること。還らない光を、それでも送ること。それが、わたしたちが、人であることの、ひとつのかたちだった。

その夜、カナタは、もうひとつのことをした。

灯台の記録を、整理しおえた綴じ込みを、二つ、つくった。ひとつは、後任のために灯台に残す。もうひとつは――。

カナタは、それを、船の中央記録庫へ送ることにした。前方の、未来の人々のために。八代か、九代か先の、まだ名前もない子どもたちのために。彼らがいつか、目的の星に降り立ったとき、自分たちがどこから来たのかを、忘れずにいられるように。

後ろへ送る光と、前へ送る記憶。

カナタは、灯台が、その両方を担えることに、いま初めて気づいた。後ろの船は、たぶんもういない。けれど灯台は、まだ、誰かのために光を送れる。まだ生まれていない、前方の誰かのために。

カナタは、綴じ込みの表紙に、短い言葉を記した。

灯台より。

何年かののち、カナタも歳をとった。

灯台守の仕事は、しだいに、若い後任へ移っていった。新しい番人は、カナタの遠縁の、まだ若い者だった。灯台のことを、ほとんど何も知らない子だった。カナタは、その子に、灯台の作法を教えた。

朝、扉を開け、銘板に触れること。一日に一度、手で光を送ること。私信を、ひとつ添えること。

「誰に送るんですか」と、その子は尋ねた。「後ろの船は、もういないんでしょう」

カナタは、少し笑った。

「いないかもしれない」と、カナタは言った。「でも、光を送るとき、おまえは、後ろの船のことを思い出す。後ろの船に乗っていた人たちのことを。その人たちが乗ると決めたときの気持ちを。送るたびに、その人たちが、いまここにいる」

その子は、よくわからない、という顔をした。

カナタは、それでよかった。いつか、わかる日が来る。あるいは、来ないかもしれない。けれど、光を送りつづけてさえいれば、いつか、誰かが、わかる。シオリの言葉が、二百年を渡って、カナタに届いたように。

カナタは、棚の上の、藍色のマッチ箱を、その子に見せた。

「これは、たぶん、初代の灯台守の忘れもの」と、カナタは言った。「三日月の印がある。ここに置いておく。けっして、使わなくていい。ただ、置いておくんだ」

その子は、不思議そうに、マッチ箱を見た。

「火を点すためじゃない」と、カナタは言った。「忘れないためのものだ」

カナタが最後に灯台で光を送ったのは、よく晴れた――船の中に晴れも曇りもないけれど、心の晴れた――静かな夜だった。

識別の符牒を打ち、航路データを添え、それから、私信の段になった。

カナタは、長いあいだ、盤面の前に座っていた。

最後に、何を送ろうか。後ろの、いないかもしれない船へ。けれど、いるかもしれない誰かへ。シオリの妹へ。シオリへ。祖父へ。名もない番人たちへ。そして、まだ見ぬ、前方の子どもたちへ。

カナタは、ゆっくりと、打った。

――眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。

それから、もうひとつ。

――わたしたちは、ここにいました。あなたを、忘れませんでした。

光は、闇へ放たれていった。後ろへ、後ろへ。蒼白い彗星が渡っていった、あの闇の海へ。

カナタは、立ち上がり、銘板に、最後に一度、指を滑らせた。「ともしびを絶やすな」。文字の溝が、指の下で、あたたかく感じられた。

それから、扉を閉めた。

〈とこしえ号〉は、いまも、星の海を渡っている。

船尾の灯台では、いまも、誰かが光を送りつづけている。後ろを行く、もういないかもしれない船へ。けれど、いるかもしれない誰かへ。

光は、出ていったきり、還ってこない。

それでも、灯はともる。まだ届いていない誰かのために。あるいは、もう届かなくなった誰かのために。送るという、ただそのことのために。

夜ごと、灯台守は、低い声で歌う。

眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。

そして光は、闇を渡っていく。届くとも知れず、還るとも知れず。けれど、たしかに、送られて。

灯はいつも、まだ届いていない誰かのために燃えている。そして、その灯を見つめる者がいるかぎり、誰も、ほんとうには、ひとりではない。

この物語にひそむ符牒

ほかの物語と、ひそかに分かち合っているもの:

  • ミラ彗星
  • 月光堂のマッチ
  • 子守唄
  • 月光書房
  • 片方の手袋

十二をつなぐ符牒について →

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