もう一度だけ灯る提灯
一
雨は、神田の屋根という屋根を撫でながら降りていた。
佐吉の店は、紺屋町の路地を二つ折れた奥にある。間口は狭く、油障子に「ちやうちん 佐」と片仮名まじりの古い字が透けて、夜になるとその字の裏側から、仕事場の灯がほのかに滲んだ。表に出した木札には何も書いていない。書かずとも、提灯の要る者はみな、この路地を知っていた。
晩秋であった。十月もなかばを過ぎると、江戸の空はいつ晴れたともしれぬまま、しとしとと雨ばかりを落とした。井戸端の柿の葉が黒く濡れて落ち、溝を流れ、どこかへ消えていった。雨樋を伝う水の音が、夜じゅう途切れることなく、佐吉の手もとの灯をかすかに揺らした。
こういう雨の晩は、提灯の注文が絶える。当たり前のことであった。雨の日に提灯を提げて出歩く者など、よほどの急用でもなければいない。傘屋と下駄屋がにわかに忙しくなるかわりに、提灯屋は手すきになる。佐吉はその手すきの時を、嫌わなかった。むしろ、雨の音にまぎれて、ひとり仕事に没頭できるのを、ひそかに好いていた。注文の提灯がないときは、売り物の提灯を張った。誰に頼まれるでもなく、ただ、竹を割り、紙を張った。手を動かしていないと、佐吉は、自分という人間が、しんと冷えていくような心地がした。
佐吉は四十をいくつか越えていた。痩せて、背が高く、口数の少ない男であった。女房を三年前に亡くしてから、いっそう口をきかなくなった。近所の者は、佐吉が一日のうちに発する言葉を、両の手の指で数えられると笑った。けれども、その手の仕事ぶりを悪く言う者は一人もいなかった。
竹を割り、薄く削ぎ、湯に通してしならせ、輪にする。糸でからげ、骨を組み、その上に紙を張る。糊を引き、刷毛をすべらせ、皺ひとつ寄らぬように紙を撫でつける。乾かし、また張り、文字を入れ、油を引く。提灯一張りには、数えきれぬほどの手間がかかった。佐吉はその一手間ごとに、息をひそめるようにして向きあった。急かされても、佐吉の手は速くならなかった。遅くもならなかった。ただ、一定の、雨垂れのような律で動きつづけた。
師匠が、生前よく言っていた。提灯は、灯を入れて、はじめて出来上がるのだと。骨を組み、紙を張り、文字を入れ――そこまではただの細工物だ。灯を入れて、その灯が紙を透かして、まるく、やわらかくにじんだとき、はじめて提灯は提灯になる。だから、灯を入れたときに恥ずかしくない仕事をしろ、と。佐吉は、その言葉を、二十年、守りつづけてきた。骨の一本、糸の一からげにも、手を抜かなかった。誰も見ていなくとも、灯が見ている。佐吉は、そう思って仕事をした。
その晩、佐吉は弓張提灯の骨を組んでいた。
竹ひごを指の腹で確かめながら、わずかな反りを矯めていく。仕事場の隅には、骨だけになった提灯がいくつも、白い肋のようにならんでいた。火鉢の炭は赤く熾り、その上で糊を溶いた小鍋が、ことことと低く鳴っていた。
戌の刻を過ぎたころであったろう。
油障子の向こうに、ふと、灯が立った。
提灯ではない。もっと淡い、青みを帯びた灯であった。雨に滲んで、障子の紙の上で、ぼうと一点、にじむように揺れた。
佐吉は手を止めた。
訪う声はなかった。けれども、人の気配がたしかに障子の外に立っていた。雨の音にまぎれて、ひどく静かに。
「……どなたで」
佐吉は珍しく、自分から声をかけた。
障子が、すうと開いた。
二
立っていたのは、年のころのわからぬ男であった。
蓑も笠も着けず、けれども髪の一筋も濡れていなかった。それが奇妙であった。表はあれほど降っているというのに。男の着物は鼠色で、ずいぶんと古びていたが、不思議と汚れた感じはしなかった。むしろ、長いあいだ大切に畳まれて、どこか乾いた箪笥の底に眠っていたような――そんな匂いを、佐吉はふとかいだ気がした。樟脳の、かすかな匂いを。
男は手に、小さな青い灯を提げていた。
それが、障子越しに見えていた灯であった。よく見れば、提げているのは古い豆提灯であった。けれど、火袋の紙はとうに破れ、骨もいくつか折れていた。それでも、なかの灯だけは、青白く、消えもせずに燃えていた。雨にも消えぬ灯であった。
「提灯を、一張り」
男は言った。声は低く、けれども澄んでいた。雨の音をくぐり抜けて、まっすぐ佐吉の耳に届いた。
「張っていただきたい」
佐吉は、その壊れた豆提灯から目を離せずにいた。
「……ご注文で」
「さよう」
男は土間に一歩、足を踏み入れた。雪駄の音もしなかった。
「もう一度だけ灯ればよい。たった一度、灯ればよいのです。それきり消えても構わぬ。長く保たずともよい。ただ、一度――きれいに、灯ってくれさえすれば」
佐吉は眉をひそめた。
提灯屋に二十年いて、こんな注文は聞いたことがなかった。提灯というものは、長く保つほどよい。風に強く、雨に強く、油を吸って煤けても、なお灯りつづけるほどに、職人の腕は誉められた。一度灯ればよいなどという提灯は、まるで使い捨ての、安手の品物のようではないか。
提灯にも、いろいろあった。商家の軒に吊るす大ぶりの看板提灯。祭りの夜をいろどる、絵入りの花提灯。武家の供先を照らす、定紋を入れた弓張り。婚礼の、葬礼の、夜詣での――提灯は、人の暮らしの、灯の要るところには、かならず在った。生まれた子の宮参りにも提灯を提げ、人の死んだ夜にも提灯を灯した。佐吉は、その、人の世のあらゆる節目を照らす灯を、二十年、張りつづけてきた。けれど、「もう一度だけ灯ればよい」という注文だけは、ついぞ、受けたことがなかった。
けれど、男の声には、安手を求める者の軽さがなかった。
むしろ、その逆であった。たった一度のために、何もかもを尽くしてくれという――そういう、切迫した重さが、低い声の底に沈んでいた。
「どのような提灯を」
佐吉は訊いた。
「弓張りで。小ぶりがよい。女子の手に、軽い方がよろしい」
女子、と男は言った。
佐吉は、ふと顔をあげた。男の目を見た。
男の目は、火袋の青い灯を映して、しずかに濡れていた。
「絵柄は」
「いりませぬ。何も。ただ……」
男は、しばし黙った。雨樋の水音だけが、二人のあいだを流れた。
「ただ、紙は、いちばん白いのを。月の光のように、白いのを」
佐吉は、うなずいた。
なぜ承知したのか、自分でもわからなかった。常ならば、佐吉は奇妙な客を嫌った。ことに、この三年というもの、佐吉は人とかかわるのを避けて生きてきた。けれど、この男の壊れた豆提灯の、消えぬ青い灯を見ているうちに、佐吉のなかの何かが、声をあげる前に、もう先に承知していた。
「代金は」
男は、懐から何かを取り出した。
土間に置かれたそれは、古びた小判一枚であった。
ずいぶん古い物であった。佐吉は商人ではないから金には詳しくないが、それでも、今の世に出回っている小判とは、色が違うのがわかった。赤みを帯びた、くすんだ黄金であった。縁が摩れ、表の墨書きはほとんど消えていた。何代もの手を渡ってきた、古い古い小判であった。
「これでは多すぎる」
佐吉は言った。提灯一張りに小判はありえない。
「足りませぬ」
と、男は言った。
「これでも、足りませぬ。けれど、これしか、持ってこられなんだ」
持ってこられなんだ、という言いように、佐吉は妙な引っかかりを覚えた。けれど、それを問うことはしなかった。
「いつ、お渡しすれば」
「三日のちの夜。雨の晴れた、星の出る晩に」
佐吉は、首をかしげた。この長雨が、三日で晴れるとは思えなかった。
「届け先は」
男は、ふっと笑ったようであった。口もとが、わずかにゆるんだ。
「月光書房と申す古本屋。神田明神下の、坂をのぼった先に。彗星の――箒星の出る晩にだけ、店を開けまする」
聞いたことのない店であった。佐吉は神田に長く住んでいる。明神下の坂は、目をつぶっても歩ける。けれど、そんな古本屋は、知らなかった。
「お分かりにならねば」と男は言った。「青い灯を提げて坂をのぼりなされ。灯が、おのずと道をえらびまする」
そう言って、男は土間に置いた壊れた豆提灯を、そっと佐吉のほうへ押した。
「これを。道しるべに」
そして男は、来たときと同じように、音もなく障子の外へ消えた。
佐吉が我にかえって障子を開けたときには、路地には誰の姿もなかった。
ただ、雨が降っていた。
土間に残された青い灯だけが、雨の闇のなかで、ぼうと、しずかに燃えていた。
三
その晩、佐吉は眠れなかった。
土間に置かれた壊れた豆提灯の灯は、夜が更けても消えなかった。佐吉は布団のなかから、幾度もその青い灯をうかがった。ふつうの油なら、とうに尽きる刻限であった。けれど、灯は痩せもせず、太りもせず、ただ一定の青さで燃えつづけた。
雨は降りやまなかった。
佐吉は、亡くした女房のことを思った。
おくみという名であった。
佐吉が無口なぶん、おくみはよく喋った。佐吉が一つ言葉を発すれば、おくみは十の言葉で応えた。佐吉はそれをわずらわしいとは思わなかった。むしろ、おくみの声が仕事場に満ちているあいだ、佐吉の手は軽やかに動いた。竹を割る音、糊を溶く音、おくみのささやかな笑い声。それらが綯い交ぜになって、佐吉の一日をかたちづくっていた。
おくみは、佐吉の張った提灯が好きであった。
「お前さんの提灯はね」とおくみはよく言った。「灯が、まるくなるんだよ。よその提灯は、灯がとんがってる。お前さんのは、まるい。やわらかい。見ているとね、あったかくなる」
佐吉には、その違いがわからなかった。けれど、おくみがそう言うのが、嬉しかった。
所帯をもって、十五年になった。子はできなかった。佐吉はそれを淋しいと思ったこともあったが、おくみは、けろりとしていた。「二人で、十分じゃないか」と、おくみは笑った。「お前さんとわたしと、それから、お前さんの提灯たち。にぎやかなものさ」骨だけの提灯のならぶ仕事場を、おくみは、そう言って、家族のように見まわした。佐吉は、その言いようが、好きだった。
おくみは、流行り病であっけなく逝った。
夏の盛りであった。三日寝込んで、四日めの朝に、おくみは静かに息を引き取った。最期まで、おくみは喋っていた。熱に浮かされながら、とりとめもないことを、ずっと。佐吉はその枕もとで、ただ手を握っていた。何を言ってやればよいのか、わからなかった。いつものように、おくみの言葉に、一つだけ短く応える――それしか、佐吉にはできなかった。
「お前さん」と、おくみは、最期の朝に言った。声は、もう、糸のように細かった。「提灯をね……まるい灯のを、一つ……」そこで、おくみの言葉は、途切れた。何を言いかけたのか、佐吉には、わからなかった。まるい灯の提灯を、どうしてほしかったのか。張ってほしかったのか。どこかへ提げていきたかったのか。佐吉は、それを、訊けなかった。訊くより先に、おくみの手は、佐吉の手のなかで、しずかに力を失った。その、最期の、言いさした言葉が、それから三年、佐吉の胸の奥で、消えぬ熾火のように、くすぶりつづけた。
おくみが死んだ晩、佐吉は店じゅうの提灯に火を入れた。
なぜそうしたのか、わからなかった。ただ、暗くしておきたくなかった。骨だけの提灯も、張りかけの提灯も、売り物も、仕損じも、あるかぎりの提灯に火を入れて、佐吉は仕事場の真ん中に座っていた。
灯はみな、まるかった。
おくみの言ったとおり、佐吉の張った提灯の灯は、まるく、やわらかであった。けれど、おくみはもう、それを見なかった。
それから三年、佐吉は喪に服したまま生きてきた。再縁の話もあったが、すべて断った。仕事だけをした。言葉を、いよいよ惜しんだ。
その佐吉が、なぜあの奇妙な客の注文を承知したのか。
布団のなかで、佐吉はようやく、その理由に思い当たった。
あの男もまた、誰かを亡くしているのだ。
たった一度だけ灯ればよい提灯――それは、生きている者のための提灯ではない。
佐吉は、起き上がった。
土間の青い灯のそばに座り、佐吉はそれを、長いことながめていた。
四
翌朝も、雨であった。
佐吉は、いつもより早く起きて、竹を選びはじめた。
「いちばん白い紙を」と男は言った。「月の光のように、白いのを」
佐吉は、奥の棚から、めったに使わぬ紙を取り出した。
それは、おくみが生きていたころに仕入れた、上等の越前紙であった。薄く、けれども強く、灯を透かすと、まるで内側から発光するような白さを持っていた。値が張るので、佐吉はこれを、よほどの注文のときにしか使わなかった。
おくみは、この紙が好きであった。
「これでわたしの提灯を張っておくれよ」とおくみは戯れに言ったことがあった。「いつか、お祭りのときにさ」
けれど、佐吉はとうとう、おくみの提灯を、この紙で張ってやらなかった。いつでもできると思っていた。来年でも、再来年でも、おくみが望むときに張ってやればよいと。
その「いつか」は、来なかった。
佐吉は、越前紙を撫でた。指の腹に、紙の繊維のかすかな起伏が触れた。
竹を割った。
二十年やっていても、竹を割る瞬間は、いつも息をつめた。竹には目がある。その目に逆らえば、竹は裂け、ささくれ、使いものにならない。竹の言うとおりに刃を入れれば、竹は気持ちよく割れた。すうと、まっすぐに。佐吉は、竹の目を読んだ。雨の湿りを吸った竹は、いつもよりしなやかであった。
割った竹を、薄く削いでいく。
ひごの太さは、提灯の命であった。太すぎれば武骨になり、細すぎれば力がない。佐吉は、男の言葉を思い出した。女子の手に、軽い方がよい。佐吉は、ふだんより細く、けれどしなやかに弾むように、ひごを削いだ。削りかすが、刃のしたから、白くまるく巻いて落ちた。
削りながら、佐吉は、あの男の手のことを思った。土間に小判を置いた、あの手。やせて、節くれだって、けれど、爪のあいだに、ほのかに竹の青みが染みついていたような気がした。あれは、提灯売りの手であった。いや――提灯売りなら、ひごを削りはすまい。けれど、佐吉には、わかった。あの男は、提灯というものを、心の底から大切に思う者の手をしていた。灯を商う者の手であった。だからこそ、男は、佐吉のもとへ来たのだ。この世の、まことの名工に、女房への灯を、頼みに。佐吉は、ひごを一本削るたびに、その思いに、応えようとした。
湯を沸かし、ひごを通した。
熱い湯に通すと、竹は柔らかくなり、自在にしなった。佐吉は、それを型に巻きつけ、輪をつくった。一つ、また一つ。小ぶりの弓張提灯にふさわしい、小さな輪が、いくつもできた。
その日は、それで暮れた。
雨は、なお降っていた。
夜、佐吉は土間の青い灯のそばで、糸をからげる仕事をした。輪と輪を糸で繋ぎ、骨の間隔をそろえていく。気の遠くなるような、細かい仕事であった。けれど、佐吉の手は、迷わなかった。男の言葉が、佐吉の手を導いた。たった一度、きれいに灯ってくれさえすれば――。
佐吉は思った。一度きりだからこそ、その一度に、すべてを尽くさねばならぬ。長く保つ提灯なら、多少の粗があっても、使ううちに馴染んでいく。けれど、一度きりの提灯には、馴染む時がない。最初の一度が、すべてである。最初の一度で、完璧でなければならぬ。
それは、おそろしいほど、純粋な仕事であった。
提灯というものは、いつもどこかで、まやかしを許した。長く使ううちには、客の目も馴れる。多少の歪みも、煤けてしまえば、見えなくなる。職人とは、どこかで、その「馴れ」に甘えて生きている。佐吉ですら、そうであった。けれど、一度きりの提灯には、その甘えが、ひとかけらも許されなかった。たった一度の灯。その一瞬に、二十年のすべてが、裸で問われる。佐吉は、そのおそろしさの前に、背筋を、しゃんと伸ばした。久しく忘れていた緊張であった。けれど、それは、苦しい緊張ではなかった。むしろ――生きている、という手ごたえであった。
佐吉は、いつしか、夢中になっていた。
三年のあいだ、佐吉はただ義務として提灯を張ってきた。注文があるから張る。暮らしのために張る。けれど、この一張りは、違った。佐吉は、自分のなかの何かが、久しく忘れていた熱を、しずかに取り戻していくのを感じた。
おくみが死んでから、はじめてのことであった。
五
二日めも、雨であった。
佐吉は、骨に紙を張った。
これが、いちばんむずかしい。骨の凹凸に逆らわず、皺ひとつ寄せず、紙をぴたりと張る。糊の濃さ、刷毛の運び、紙の湿り――どれか一つでも狂えば、紙は撓み、灯は歪む。
佐吉は、息をつめた。
火鉢で糊を溶き、刷毛にふくませ、骨の一本一本に、薄く、均等に引いていく。そして、越前紙を、そっと押し当てた。指の腹で、中心から外へ、外へと撫でていく。空気を逃がし、皺を逃がし、紙を骨に馴染ませていく。
紙は、生きものであった。
急かせば、紙は逃げた。撫ですぎれば、紙は破れた。佐吉は、紙の機嫌をうかがいながら、ゆっくりと、けれど淀みなく、刷毛と指を運んだ。
雨の湿りは、紙張りには、よくなかった。湿った紙は、糊を吸いすぎ、乾いたときに撓みやすい。けれど、佐吉は、その湿りすら、味方につけた。火鉢に近づけて紙の湿りを加減し、糊の濃さを、いつもよりわずかに薄く溶いた。手のひらで紙の乾き具合をはかり、骨に当てる呼吸を、雨の音に合わせた。長雨の晩に、最良の白い提灯を張る――それは、佐吉の二十年が、はじめて試される仕事のようであった。指先が、紙の声を、聞いていた。ここだ、いまだ、と。佐吉は、その声に、ただ、従った。
一面を張り終えるたびに、佐吉は手をとめ、灯にかざして透かしてみた。
越前紙は、灯を透かすと、ほのかに発光した。月の光のように、と男は言った。まことに、その白さは、雨夜の月のようであった。雲の向こうに、ぼうと滲む、あの白さ。
佐吉は、ふと、土間の青い灯を見た。
壊れた豆提灯の、消えぬ灯。
佐吉は、その灯にも、新しい提灯をかざしてみた。
青い灯が、越前紙を透かして、まるくにじんだ。
――まるい。
佐吉は、息をのんだ。
灯が、まるかった。おくみの言った、あのまるさで。やわらかく、あたたかく、見ているうちに、胸の奥がじんと熱くなる、あのまるさで。
佐吉の目に、不意に、熱いものがこみあげた。
おくみ、と佐吉は心のなかで呼んだ。
見ているか。お前の好きな紙で、お前の好きなまるい灯が、灯っているよ。
雨が、降っていた。
佐吉は、しばらく、その灯を見ていた。それから、袖で目もとをぬぐい、ふたたび刷毛を取った。
その晩、佐吉は提灯を張り上げた。
小ぶりの、白い、弓張提灯であった。絵柄もなく、文字もなく、ただ白い。けれど、その白さには、なんともいえぬ品があった。佐吉は、自分の張ったものながら、しばし見惚れた。
仕上げに、佐吉は油を引いた。
油は、紙を強くし、灯を守る。けれど、引きすぎれば、白さが濁る。佐吉は、ぎりぎりの薄さで、油を引いた。白さを損なわぬよう、けれど、灯の熱に紙が焦げぬよう。たった一度、きれいに灯るために。
提灯は、出来上がった。
佐吉は、それを軒に吊るし、しばし眺めた。
完璧であった。二十年の腕の、すべてを尽くした一張りであった。
けれど、佐吉はまだ、灯を入れていなかった。
灯を入れるのは、男に渡すときである。たった一度の灯。それを、ここで無駄にするわけにはいかなかった。
佐吉は、土間の青い灯を見た。
「明日、晴れるかね」
佐吉は、灯に話しかけた。誰もいない仕事場で、佐吉が声を出すなど、稀なことであった。
青い灯は、答えなかった。ただ、しずかに燃えていた。
六
三日めの夜――雨は、あがった。
夕暮れどきから、雲がにわかに切れはじめた。西の空に、久しぶりの茜がさし、それが消えると、東から、藍がしずかに広がってきた。雨に洗われた空は、澄みきっていた。
そして、星が出た。
佐吉は、軒先に立って、その空を見上げた。
三日ぶりの星空であった。雨に閉ざされていたぶん、星はいっそう冴え冴えと光った。佐吉は、しばらく、その星々をながめていた。
と、そのときであった。
東の空の低いところに、ひとすじの、青白い光が、ながく尾を引いていた。
箒星であった。
佐吉は、息をのんだ。
それは、ふつうの星ではなかった。蒼白い、長い尾を引いて、しずかに、ゆっくりと、中天をめざして横切っていた。淡く、けれども、いちど目にとめれば、二度と忘れられぬような光であった。古い、ひどく古い光のような気がした。長いあいだ忘れられていた何かが、また巡ってきた――そんな気配を、その星はまとっていた。
佐吉は、子供のころに、年寄りから聞いた話を思い出した。
何十年かに一度、空に箒星のかかる晩がある。その晩は、この世とあの世の境が、ふと薄くなる。亡くなった者が、しばし、こちらへ戻ってこられる――そういう晩なのだと。
「ミラ、というそうだよ」と、その年寄りは言った。佐吉がまだ、ほんの洟垂れの小僧だったころのことだ。「とおい異国の言葉でな。不思議な、という意味だと、ものの本にあるそうな。長いこと消えていて、忘れたころに、また巡ってくる。お前が大人になって、年をとって、もうあの星のことなんざ忘れちまったころに――ひょいと、また、空にかかる。そういう星だよ」幼い佐吉は、その話を、半分も解せぬまま聞いていた。けれど、いま、四十を越えて、雨上がりの空にその尾を見たとき、佐吉は、あの年寄りの声を、ありありと思い出した。忘れたころに、また巡ってくる。まさに、いまが、その晩であった。
佐吉は、土間をふりかえった。
青い灯が、いつもより、わずかに明るく燃えていた。まるで、星に呼応するように。
「……お前さんも、見えているのかい」
佐吉は、灯に言った。
灯は、ぽうと、ひとつ、ゆれた。
佐吉は、心をきめた。
軒の提灯を取りはずし、それを抱えた。そして、土間の青い灯――壊れた豆提灯を、提げた。男が言ったとおりに。これを道しるべに、と。
佐吉は、雨上がりの路地へ出た。
濡れた地面が、星明かりを返して、ほのかに光っていた。
佐吉は、明神下へ向かって、歩きだした。
七
神田明神下の坂は、佐吉の知った道であった。
けれど、その夜の坂は、どこか違って見えた。
雨上がりの夜気は澄み、星明かりが、町の輪郭を青く縁取っていた。人通りはなかった。戌の刻を過ぎて、家々の灯はあらかた落ち、町は、しんと静まりかえっていた。佐吉の足音と、提げた豆提灯の、かすかな油の燃える音だけが、坂をのぼった。
坂の半ばで、佐吉は立ちどまった。
青い灯が、ふいに、ゆれた。
それまでまっすぐ前を照らしていた灯が、不意に、右の路地のほうへ、ながく尾を引いた。まるで、そちらへ行け、と指し示すように。
佐吉の知るかぎり、そこは行き止まりの路地であった。古い板塀がつづき、その奥には、何もないはずであった。
けれど、灯は、たしかにそちらを指していた。
佐吉は、灯の言うとおりに、路地へ折れた。
板塀のあいだの、細い道であった。星明かりも届かぬ闇のなかを、青い灯だけが照らした。佐吉は、灯を頼りに、一歩ずつ進んだ。
やがて、闇のなかに、ぼうと、灯がともった。
軒行灯であった。
「月光書房」
と、その行灯には、墨書きされていた。
古い、けれども品のよい字であった。佐吉は、その下の格子戸を見た。なかから、あたたかな灯がもれていた。書物の、ふるい紙と墨の匂いが、戸のすきまから、ほのかに漂ってきた。
格子の脇に、ちいさな台があり、その上に、藍色のマッチ箱が、ひとつ、置かれていた。三日月が、白く刻まれていた。月光堂、と読めた。佐吉は、火打ち石より新しいその品を、こんな路地の奥で見たことを、ふと、奇妙に思った。けれど、それも、一瞬のことであった。手を伸ばそうとして、佐吉は、やめた。なぜか、触れてはならぬような気がしたのだ。藍色のマッチ箱は、三日月の刻印を、雨上がりの星明かりに、しずかに光らせていた。
佐吉は、こんな店を、知らなかった。
二十年、神田に住んでいて、明神下の坂は数えきれぬほど通った。けれど、こんな路地の奥に、こんな古本屋があったとは、ついぞ知らなかった。
佐吉は、格子戸の前に立った。
そして、声をかけようとして――ふと、土間に目をとめた。
戸口の土間に、片方だけの手甲が、落ちていた。
女物の、小さな手甲であった。藍の地に、白く、小さな兎の模様が染め抜かれていた。雨に濡れて、けれど、まだ新しいものに見えた。
片方だけ。
対になるはずのもう片方は、どこにもなかった。
佐吉は、なぜか、それを拾えなかった。ただ、しばらく、その小さな手甲を見ていた。
胸の奥が、しんと、痛んだ。
八
格子戸が、内から開いた。
「お待ちしておりました」
立っていたのは、白髪の、品のよい老人であった。書物商の主人であろう。痩せて、背が高く――そのたたずまいが、どこか、佐吉自身に似ていた。
「提灯を、お持ちくだされたか」
老人は言った。
佐吉は、うなずいた。抱えてきた白い提灯を、そっと差し出した。
老人は、それを受け取り、灯にかざして眺めた。
「……これは」
老人は、しばし言葉を失った。
「これは、見事な。月の光のような……」
老人の声が、かすかに震えた。
「あの晩、たしかに、こう申されたのでしょうな。いちばん白い紙を、月の光のように、と」
佐吉は、はっとした。
「あの晩――客のことを、ご存じで」
老人は、佐吉を、しずかに見た。それから、店のなかへ、佐吉をいざなった。
「お入りなされ。話は、なかで」
佐吉は、敷居をまたいだ。
店のなかは、思いのほか広かった。天井まで、書物が積まれていた。古い和綴じの本、巻物、写本。それらが、棚に、床に、うずたかく積まれ、けれども不思議と、雑然とはしていなかった。むしろ、深い静けさが、店じゅうに満ちていた。
老人は、佐吉に床几をすすめ、茶を淹れた。
火鉢のそばに、佐吉は腰を下ろした。
「あの客は」と老人は言った。「もう、この世の者では、ございませぬ」
佐吉は、息をのんだ。けれど、心のどこかで、それを、すでに知っていた気がした。
「半年ほど前のことです」と老人は語りはじめた。「この町に、若い夫婦が住んでおりました。提灯売りの、行商の男と、その女房。男は気のやさしい、けれど少し体の弱い男でした。女房は、明るい、よく笑う女子でした」
佐吉は、あの男の手のことを、ふたたび思った。爪のあいだに染みた、竹の青み。やはり、あれは、灯を商う者の手であった。
老人は、茶をひとくち含んだ。
「夏のはじめ、女房が、身ごもりました。男は、それは喜びましてな。生まれてくる子のために、あれを買おう、これを揃えようと、貧しいなりに、せっせと働きました」
佐吉は、だまって聞いていた。
「ところが――秋の長雨のころ。女房が、産で、亡くなりました。子も、ともに」
火鉢の炭が、ぱちりと、はぜた。
「男は、半狂乱になりました。女房の亡骸にすがって、幾日も、幾日も。やがて、男は、ある夜、川へ身を投げました。後を追うたのです」
佐吉は、目を閉じた。
雨の音が、まだ、耳の奥に残っていた。
「むごい話で」と、佐吉は、ようやく、それだけ言った。
「むごうございます」と老人はうなずいた。「けれど――佐吉どのも、ご存じでありましょう。連れ合いに、先立たれるということが、どういうことか」
佐吉は、はっと、老人を見た。
老人は、佐吉の三年を、すべて見透かしているような目をしていた。けれど、その目には、咎める色も、憐れむ色も、なかった。ただ、しずかな、いたわりだけがあった。
「人は」と老人は言った。「あとに遺された者ほど、つらいものです。逝った者は、もう、苦しまぬ。けれど、遺された者は――その者の好きだったものを見るたびに、その者の声を思い出すたびに、何度でも、失いつづける。佐吉どのも、そうでありましょう」
佐吉は、答えられなかった。
ただ、膝のうえで、こぶしを、かたく握った。
九
「その男が」と老人はつづけた。「死ぬ前に、わたしのところへ参りましてな」
「ここへ」
「さよう。月光書房は、箒星のかかる晩にだけ、店を開けまする。あの晩も、箒星が出ておりました。男は、女房の好きだった本を一冊、買い求めに来たのです」
老人は、棚から、一冊の古い本を取り出した。
子供向けの、絵草紙であった。色とりどりの、けれど、ずいぶん古びた絵草紙。
「女房は、これが好きだったそうです。子供のころに、母親に読んでもらった本だと。生まれてくる子にも、これを読んでやりたい、と。そう言うていたそうで」
佐吉は、その絵草紙を見た。
表紙には、星空の絵が描かれていた。星のながれる空の下で、母親が、子をあやしている絵であった。その空の隅に、ながい尾を引く、ひとすじの星が、淡く刷かれていた。箒星であった。絵師は、いつの世にこの絵を描いたのであろう。佐吉には、わからなかった。けれど、その淡い星の尾は、いまし方、神田の坂の上で佐吉が見上げた、あの蒼白い尾と、寸分たがわぬように見えた。古い、ひどく古い絵草紙のなかに、おなじ星が、いまも、ながれていた。
「男は、これを買い求めて、女房の墓前に供えました。そして、その晩、川へ」
老人は、絵草紙を、そっと閉じた。
「けれど――心残りが、あったのでしょうな」
「心残り」
「女房は、佐吉どのの張った提灯が、好きだったそうで」
佐吉は、顔をあげた。
「……わたしの」
「さよう。生前、女房はよく言うていたそうです。神田の佐吉という提灯屋の灯は、まるいのだと。あの灯のしたで、いつか、子を寝かしつけたい、と。けれど――その願いは、かないませなんだ」
佐吉の胸が、しめつけられた。
おくみと、同じであった。
灯が、まるい。あの灯のしたで――。
「男は」と老人は言った。「女房に、せめて、まるい灯を、たむけてやりたかったのでしょう。あの世への、道を照らす灯を。女房と、生まれることのなかった子の、ふたりのために」
たった一度だけ灯ればよい提灯。
佐吉は、ようやく、すべてを解した。
それは、弔いの灯であった。あの世へ旅立つ者の、足もとを照らす、ただ一度きりの灯。
「あの古い小判は」と佐吉は訊いた。
「あれは」と老人は、しずかに笑った。「冥銭でございましょう。三途の渡し賃。あの男が、女房のために、握りしめていたもの……それを、佐吉どのに」
佐吉は、懐から、あの古い小判を取り出した。
赤みを帯びた、くすんだ黄金。縁が摩れ、墨書きの消えた、古い古い小判。
それは、たしかに、この世の貨幣の手ざわりではなかった。
十
「では」と佐吉は言った。「あの男は、この提灯を、女房のために――」
「さよう。けれど、男一人では、提灯を張ることはできませなんだ。だから、この世の名工に、頼んだのです。たった一度でよい、けれど、女房のために、まことに美しい灯を、と」
佐吉は、白い提灯を見た。
老人の膝のうえに置かれた、その白い弓張提灯を。
「灯を、入れてやってくだされ」と老人は言った。「佐吉どのの手で。あの女子と、子のために」
佐吉は、うなずいた。
懐から、火打ち石を取り出そうとして――ふと、手をとめた。
そして、土間に置いた、壊れた豆提灯を見た。男が遺した、あの消えぬ青い灯を。
「この灯で」と佐吉は言った。「移してやりましょう。この、消えぬ灯から」
老人は、しずかに、うなずいた。
佐吉は、壊れた豆提灯を引きよせた。
そして、白い提灯の口を開き、なかに据えた小さな蝋燭の芯を、青い灯に、そっと近づけた。
青い灯が、芯に、うつった。
ぽっ、と。
白い提灯のなかに、灯が、ともった。
その瞬間――佐吉は、息をのんだ。
灯は、青くなかった。
あたたかな、橙色の灯であった。けれど、その灯は、越前紙を透かして、まるく、やわらかく、にじんだ。佐吉が、これまで張ったどの提灯よりも、まるい灯であった。
月の光のように、白い紙。
そのなかで、灯が、まるく、燃えていた。
灯は、息をしているようであった。ゆれもせぬのに、紙のうえで、ふくらんだり、しずんだりするように見えた。橙色の芯のまわりに、淡い金色の暈がにじみ、その外を、月のような白がつつんでいた。佐吉は、生涯に幾千の提灯を張ってきたが、これほどまるい灯を、見たことがなかった。それは、まるで、灯そのものが、母の胸のなかで、安らかに眠っている――そんな灯であった。
「ああ」
と、老人が、ちいさく声をもらした。
「これは……これは、まことに、まるい灯じゃ」
佐吉の目から、涙が、ひとすじ、こぼれた。
おくみ、と佐吉は思った。
これは、お前の灯だ。お前の好きだった、まるい灯だ。お前に張ってやれなかった提灯を、わたしは今、別の女子のために、張った。けれど、これは、お前への、たむけでもあるのだよ。
雨は、あがっていた。
格子戸の向こうの空に、箒星が、なお、ながく尾を引いていた。
十一
そのときであった。
店の奥から、かすかに、唄が聞こえてきた。
女の声であった。やわらかな、けれど、どこか遠い声。子守唄であった。
眠れ、眠れ、
星が海をわたるまで……
佐吉は、はっとして、奥を見た。
書物の積まれた、暗がりのなかに――ぼうと、人の影が、立っていた。
若い女であった。
腕に、何かを抱いていた。襁褓に包まれた、ちいさな、ちいさな、嬰児であった。
女は、その子をあやしながら、子守唄を、しずかに、唄っていた。
眠れ、眠れ、
星が海をわたるまで……
女の足もとに、もう一人、男の影が、寄り添っていた。あの夜の客であった。鼠色の着物の、あの男。
男は、佐吉のほうを見て、しずかに、頭をさげた。
そして、女の手に、佐吉の張った白い提灯を、そっと、持たせた。
女が、提灯を受けとった。
まるい灯が、女の顔を、やわらかく照らした。
女は、笑っていた。
満ち足りた、しあわせそうな顔で。
佐吉は、その顔を見て――胸が、いっぱいになった。
女が、ふと、佐吉のほうを見た。
そして、口を、わずかに動かした。
声は、聞こえなかった。けれど、佐吉には、わかった。
――ありがとう。
女は、提灯を高くかかげた。
まるい灯が、暗い書房を、あたたかく、満たした。
そして、男と、女と、嬰児の影は、その灯のなかへ、しずかに、溶けていった。
唄だけが、しばらく、店のなかに、残った。
眠れ、眠れ、
星が海をわたるまで……
やがて、それも、消えた。
十二
気がつくと、佐吉は、坂の途中に、立っていた。
月光書房は、どこにもなかった。
板塀のつづく、行き止まりの路地。その奥には、男の言ったとおり、何もなかった。古本屋の軒行灯も、格子戸も、あの老人も――何ひとつ、なかった。
ただ、佐吉の足もとに、片方だけの手甲が、落ちていた。
藍の地に、白い兎の模様の、ちいさな手甲。
佐吉は、それを、そっと拾いあげた。
冷たくはなかった。むしろ、ほのかに、あたたかかった。
佐吉は、空を見上げた。
箒星は、もう、中天を越えていた。蒼白い尾を引きながら、西へ、しずかに、傾きはじめていた。次にこの星が巡ってくるのは、佐吉が、もうこの世にいないころであろう。
佐吉は、その星を、長いこと、見ていた。
そして、手のなかの、ちいさな手甲を、握りしめた。
これは、あの子のものだろうか。それとも、生まれることのなかった、もう一人の子のものだろうか。対になるはずの、もう片方は、どこへ行ったのだろう。きっと、あの女子が、あの世へ持っていったのだ。片方を、こちらへ遺して。生きている者への、ささやかな、しるしとして。
佐吉は、その手甲を、懐に、そっとしまった。
懐のなかには、もう、あの古い小判は、なかった。
いつのまにか、消えていた。三途の渡し賃は、渡しきったのだ。
佐吉は、坂を、ゆっくりと、下りはじめた。
雨上がりの夜気が、頬に、つめたかった。けれど、佐吉の胸の奥は、あたたかかった。
不思議と、淋しくはなかった。三年のあいだ、佐吉の胸を凍らせていた、あの底冷えのするような淋しさが、いつのまにか、消えていた。かわりに、しずかな、ほのあたたかいものが、そこに灯っていた。それは、ちょうど、佐吉の張った提灯の灯に、似ていた。まるく、やわらかく、けっして燃えさかりはせぬが、けっして消えもしない――そういう灯であった。あの男も、あの女子も、もう、淋しくはあるまい。まるい灯が、二人の――いや、三人の足もとを、あの世まで、照らしていくのだから。そう思うと、佐吉の胸の灯も、ひとつ、あたたかく、ゆれた。
三年ぶりに、佐吉は、思った。
明日、おくみの墓へ行こう。
そして、おくみの好きだった越前紙で、もう一張り、提灯を張ろう。まるい灯の、やわらかな提灯を。墓前に、たむけてやろう。
「いつか」などと、言うまい。
「いつか」は、来ないのだから。
佐吉は、坂を下りきった。
ふりかえると、明神下の坂の上に、なお、箒星が、ながく、ながく、尾を引いていた。
それは、まるで、提灯の灯のように、まるく、やわらかく――そして、しずかに、燃えていた。
十三
それから、いく年かが過ぎた。
佐吉は、なお、神田の路地の奥で、提灯を張っていた。あいかわらず、口数は少なかった。けれど、女房を亡くしたあのころの、凍りついたような無口さは、いつしか、消えていた。
近所の子供らは、佐吉の店を、好いた。
佐吉は、子供らが店をのぞきにくると、竹のきれっぱしで、小さな玩具を作ってやった。竹とんぼや、笛や、水鉄砲を。子供らは、それを喜んで、また来た。佐吉は、ほとんど喋らなかったが、子供らは、佐吉のそばにいるのを、なぜか、心地よさそうにした。
ある雨の晩のことであった。
晩秋の、しとしとと降る、長雨のころ。
佐吉が、ひとり、仕事場で骨を組んでいると、ふと、油障子の向こうに、灯が立った。
提灯ではない。淡い、青みを帯びた灯であった。
佐吉は、手を、とめた。
胸が、しずかに、高鳴った。
「……どなたで」
佐吉は、声をかけた。
障子が、すうと、開いた。
立っていたのは、年老いた女であった。腰のまがった、貧しい身なりの、けれど、おだやかな顔の、老婆であった。
「提灯を、一張り」と老婆は言った。「張っておくんなさい」
佐吉は、その老婆の手もとを見た。
老婆は、壊れた、古い豆提灯を、提げていた。
火袋は破れ、骨は折れ――けれど、なかの灯だけが、青白く、消えもせずに、燃えていた。
佐吉は、しずかに、うなずいた。
「どのような、提灯を」
「もう一度だけ、灯ればよいのです」と老婆は言った。「たった一度。それきり、消えても構わぬ。ただ……」
老婆の目が、青い灯を映して、しずかに濡れた。
「ただ、まるい灯の、提灯を。あの世へ旅立つ者の、足もとを、照らす……」
佐吉は、奥の棚から、越前紙を取り出した。
雨が、降っていた。
神田の屋根という屋根を撫でながら、しずかに、しずかに、降っていた。
そして、どこか遠くで――聞こえるか聞こえぬかの、かすかな声で、子守唄が、流れていた。
眠れ、眠れ、
星が海をわたるまで……
佐吉は、竹を割った。
すうと、まっすぐに、竹の目に沿って。
灯を継ぐ者の、しずかな手つきで。