月光書房
亥の刻 ・ 夜 ・ 第 四 話

まだ存在しない国の地図

汐見 玻璃
ファンタジー・幻想 ・ 約26頁

海は、まだ名前を持たない国の岸を、夜ごと私の窓の下まで運んでくる。

エルナは羽根ペンの先を舐め、藍黒のインクが穂先にひとしずく溜まるのを待った。港町ヴェルダンの地図職人街では、夜更けまで蝋燭を灯すのは彼女くらいのものだった。同業の者たちは日の光で描く。羊皮紙の上の海岸線は、太陽のもとでこそ正しく引けると信じている。だがエルナは、海というものは夜にこそ本当の輪郭をあらわすのだと、若い頃から思っていた。昼の海は、誰の目にも同じ青をしている。けれど夜の海は、見る者の数だけ岸を変える。

仕事場の壁には、彼女がこれまでに写してきた海図の控えが、鱗のように重なって貼られていた。北の氷の縁取り。南の珊瑚の浅瀬。東の、いまだ船の帰らぬ海域。どれもエルナの手が、現実をなぞって紙の上に閉じ込めたものだ。地図職人の仕事とは、世界をなぞることである。世界を作ることではない。少なくとも、彼女はそう習った。羅針盤は嘘をつかず、緯度は数えられ、岸は測られて初めて引かれる。想像で引いた線は、いつか必ず船を沈める。

机のうえには、商売道具が几帳面に並んでいた。鵞鳥の羽根を削った大小のペン。鉄胆子と没食子から煮出した黒インク。ラピスを砕いて膠で溶いた青。羊皮紙の毛羽を均すための軽石。羅針盤の風配図を引くための、真鍮の分度器と糸の張った定規。どれも父から受け継いだもので、柄には父の手の脂が染み込み、彼女の手の脂がその上に重なっていた。道具は、人より長く生きる。地図もまた、描いた者より長く生きる。だからこそ、誤った線を引いてはならないのだと、父はいつも言った。

その夜、扉を叩く音がしたとき、エルナは最後の点を打ち終えたばかりだった。

修道院に納める巡礼路の図。聖堂から聖堂へ、信徒たちが膝を擦りむきながら辿る道のりを、彼女は赤い細線で結んでいた。最後の点は、丘の上の小さな礼拝堂だった。そこを打ち終えて、彼女が羽根ペンを置こうとしたとき、戸口で乾いた音が三つ、間を置いて鳴った。こんな刻限に客が来ることはまずない。エルナは耳を疑い、それからゆっくりと立ち上がった。

訪れたのは使いの少年で、依頼主の顔は知らないと言った。少年は油布に包まれた重い何かを卓に置き、それから革袋を添えた。袋の口を緩めると、銀貨が燭台の光をはじいて、まるで小さな魚の群れのように卓のうえで跳ねた。エルナはこれほどの前金を見たことがなかった。

少年は痩せて、年の頃は十二、三に見えた。けれど目だけが妙に静かで、子供の目ではなかった。外套は上質な羅紗で、けれどどこの紋章も付いていない。靴は濡れていなかった。今夜は宵から雨が降っていたのに、と彼女は思った。この子は、雨のなかを歩いてこなかった。それとも、雨の降らぬどこかから来たのか。

「ご主人さまは、地図を一葉、所望です」と少年は言った。「まだ存在しない国の、地図を」

エルナは銀貨から目を上げた。「聞き違いかしら」

「いいえ。まだ、存在しない国です」少年は暗記した言葉を繰り返す者の、まっすぐな目をしていた。「岸も、山も、川も、町の名も、すべて職人さまにお任せする、と。ただし──」少年は油布をほどいた。「この紙に描くこと。それが条件です」

油布のなかから現れたのは、一枚の羊皮紙だった。エルナは思わず息を呑んだ。子牛の皮ではない。もっと薄く、もっと白く、灯りに透かすと裏の手が透けて見えるほどだった。指で触れると、ひんやりと湿っていて、まるで今しがた海から引き上げられたかのようだった。端には金箔が一筋、波のように走っている。これほどの羊皮紙を、彼女は王の海図でしか見たことがなかった。いや、王の海図ですら、これには及ばない。

彼女は職人の習いで、紙を灯りに翳した。良い羊皮紙には、必ず作り手の癖がある。毛抜きの跡、石灰に漬けた斑、削りの濃淡。けれどこの紙には、何の癖もなかった。生まれたばかりの皮のように、過去のない白さだった。皮には毛根の点が散るものだが、それすらない。まるで、生き物から取ったのではなく、白さそのものから切り出したかのようだった。

「どこの国の品なの、これは」

「存じません」少年は首を振った。「ご主人さまは、満月の三日あとの夜に、お受け取りに上がります。それまでに、描き上げてくださいますように」

「もし、断ったら」

少年は少し首を傾げた。それは質問の意味が分からない、という仕草だった。「職人さまは、お断りになりません」と少年は言った。咎める調子でも、脅す調子でもなかった。ただ、すでに知っている事実を告げるような言い方だった。「この紙を、一度ご覧になったのですから」

少年が去ったあと、エルナは長いこと、その白い羊皮紙を見つめていた。

まだ存在しない国。

馬鹿げた依頼だ、と職人としての彼女は思った。地図とは現実を写すものであって、現実を欺くものではない。存在しない岸を描けば、それを信じて舵を切る船乗りが現れる。海図の一本の線が、何隻の船の運命を握っているか、彼女は知っている。父もまた地図職人だった。父の引いた一本の浅瀬の線が、ある冬、商船を座礁から救った。その船には、母の弟が乗っていた。線は人を生かし、線は人を殺す。だからこそ、職人は決して、見たことのないものを引いてはならない。

けれど──と、彼女のなかのもう一人の声が囁いた。指が、その白い余白を撫でている。これほどの紙に、ただ既にある岸を写すなど、もったいないとは思わないか。この紙は、まだどこにもない海岸を待っているのではないか。

その夜、エルナは何も描かなかった。羊皮紙を布で覆い、棚の奥にしまい、蝋燭を消した。だが眠りのなかで、彼女はずっと、白い岸を歩いていた。砂は冷たく、波は音もなく寄せていた。ふり返ると、自分の足跡が砂に残っていた。けれど、その足跡は、彼女の歩いてきた方向とは逆を向いていた。誰かが、先に、その岸を歩いていたかのように。

三日のあいだ、エルナは他の仕事をした。隣町の修道院に納める巡礼路の図。漁師組合に頼まれた漁場の更新。どれも見知った仕事で、手は勝手に動いた。けれど目の端には、いつもあの布の塊があった。棚の奥で、白く、湿って、待っている。

漁師組合の図を描いていたとき、彼女は一度、手を止めた。鰊の群れが回遊する海域を、彼女は緑がかった薄墨で塗っていた。それは老漁師たちの証言と、何代もの記録を突き合わせて定めた、確かな海域だった。見たことのない海ではない。網がそこで満ちることを、無数の漁師が証してきた海だ。これこそが地図だ、と彼女は思った。誰かが見たもの、誰かが確かめたもの、それだけを引く。想像の入り込む余地はどこにもない。それなのに、彼女の手は、その緑の海域の縁を、いつもより少しだけ大胆に引いていた。誰も証していない方へ、ほんの少しだけ。彼女は慌てて軽石でそれを削り、引き直した。

四日めの夜、雨が降った。

港の灯が雨にぼやけ、運河の水が石段を二段、三段と這い上がってくるような夜だった。エルナは仕事を早く切り上げ、火に手をかざしていたが、結局、立ち上がって棚の奥に手を伸ばした。自分でも、なぜそうしたのか分からない。布を払うと、羊皮紙はあの夜のままそこにあった。けれど、どこか違って見えた。湿り気が、前より深いような気がした。指を触れると、皮膚の下で何かが脈打っているような、かすかな温もりさえあった。

エルナは羽根ペンを取った。

最初の一本を、彼女は北東の隅に引いた。

それは岬だった。なぜそこに岬を引いたのか、理由はない。手が、そう引きたがった。細く尖った岬が、北の海へと突き出していく。その先端で、彼女のペンは自然に小さな円を描いた。岬の灯台。引きながら、彼女には灯台守の顔まで見えるような気がした。年老いた男で、左手の小指が欠けている。海図には決して描かれない事実だ。けれど、確かにそこにいる。男は毎晩、欠けた小指で灯心の煤を払い、油を継ぎ足す。男には妻がいたが、もう亡い。妻の墓は、灯台の裏手の、風の当たらぬ斜面にある。男はそこに、月見草を植えている。

エルナは手を止めた。心臓が速くなっていた。

「ばかげている」と声に出して言った。雨の音が答えた。

それでも彼女は描き続けた。岬から南へ、海岸線がうねりながら降りていく。湾が二つ、深く切れ込む。その奥に町があるはずだ──と思った瞬間、彼女のペンはもう町の輪郭を描き始めていた。城壁、塔、桟橋。湾の名は何だろう。「真珠の湾」と、彼女は余白に小さく書きつけた。書いた途端、その名がずっと前から決まっていたかのように、しっくりと馴染んだ。

夜が更けるにつれ、国は形を持ち始めた。

中央には背骨のような山脈が走り、その西側はなだらかな葡萄の丘陵、東側は乾いた赤土の高原。三本の川が山から海へ下り、それぞれの河口に町があった。北の岬の漁村、真珠の湾の港町、南の塩田の集落。エルナはそれらを、思い出すように描いた。創るのではなく、思い出す。その感覚が、彼女を恐れさせ、同時にどうしようもなく惹きつけた。地図職人は、自分の描く土地を歩いたことはない。けれどいま彼女は、自分が描いている国を、足の裏で覚えているような気がした。真珠の湾の桟橋の、潮で滑る板の感触。葡萄の丘の、夕暮れに鳴く虫の声。塩田の、白く灼ける昼の照り返し。すべてを、彼女は知っていた。一度も行ったことのない国の、すべてを。

夜明け前、彼女はペンを置いた。羊皮紙の半分が、まだ存在しない国で埋まっていた。

そのとき、彼女は奇妙なことに気づいた。

指先が、潮の匂いがした。

彼女は手を洗った。何度も洗った。けれど潮の匂いは消えなかった。それは、彼女の指から立ち上っているのではなかった。彼女が描いた、その海から、立ち上っているのだった。

翌朝、満月の三日あとの夜が来ても、依頼主は現れなかった。

エルナは安堵し、同時に落胆した。安堵したのは、まだあの羊皮紙を手放さずにすむからだった。落胆したのは──その理由を、彼女は自分に認めたくなかった。彼女はもう、その国を手放したくなくなっていた。

その夜も、彼女は描いた。

葡萄の丘陵に、村をひとつ加えた。村には鐘楼があり、鐘の音は谷を渡って隣の村まで届く。彼女は鐘の音まで聞こえる気がした。低い、ひびの入ったような音だ。鐘は古く、一度落ちて、鋳直されたのだ。そのことを、彼女は知っていた。塩田の集落の沖に、岩礁を散らした。そこを通る船は、満潮の刻を待たねばならない。彼女は岩礁の位置を慎重に定めた。一つでも置き場所を誤れば、船が沈むと、なぜか確信していた。存在しない国の、存在しない岩礁が、存在しない船を沈める。そんなことを彼女は本気で恐れていた。

岩礁を一つ、彼女は迷った末に、消した。軽石でそっと削った。そこを通る船を、通してやりたかった。削ったあとの羊皮紙は、ほんの少し薄くなり、そこだけ光を透かした。まるで、浅い瀬のように。彼女ははっとした。岩礁を消したその場所が、いまや本当の浅瀬になっていた。消すこともまた、描くことなのだ。何も引かぬ余白すら、この紙の上では、一つの地形なのだ。

そして、それは始まった。

ある朝、市場でエルナは、見知らぬ果実を見た。葡萄色の皮をした、握りこぶしほどの果実だ。果物売りに名を尋ねると、女は不思議そうに「ロウマの実ですよ、奥さん。西の丘陵から来た荷です」と答えた。エルナは凍りついた。西の丘陵。彼女が三日前、葡萄の村を描いた、あの丘陵。

「西の丘陵って、どこの」

「さあ。荷主が言うには、ずっと内陸の方だとか。今年から急に荷が来るようになってねえ。それまでは聞いたこともない土地でしたよ」女は果実を一つ、手のなかで転がした。「妙な話でしょう。去年まで、こんな実、誰も見たことがなかったんですよ。それが今年は、市場じゅうに溢れてる。みんな、昔からあったような顔をして買っていくんだけどねえ」

エルナはロウマの実を一つ買った。家に帰り、震える手でそれを割った。なかは深い紅色をして、種が三つ、星のように並んでいた。口に含むと、塩気のある甘さが舌に広がった。塩田の集落。彼女はその味に、自分が描いた塩田を思い出した。海から汲んだ水を、何段もの浅い池に張り、日に晒して塩を採る。その塩が、内陸の丘の葡萄の根を養い、こんな実を結ばせるのだ。彼女は、そんな土地の理を、誰にも習わずに知っていた。なぜなら、その理ごと、彼女がその国を描いたから。

それから、にじみ出しは止まらなくなった。

港に、見慣れぬ帆の船が入るようになった。船首には、彼女が真珠の湾の港町の紋章として描いた、三日月と錨の意匠が彫られていた。船乗りたちは聞いたことのない訛りで話し、聞いたことのない港の名を口にした。「真珠の湾から来た」と彼らは言った。エルナは桟橋の影に隠れて、彼らが荷を下ろすのを見ていた。樽から、塩と、葡萄酒と、乾いた赤土の匂いがした。

一人の船乗りが、艫綱を結びながら、低い声で何かを口ずさんでいた。エルナは耳を澄ました。聞き取れぬ訛りの歌だったが、その旋律には、覚えがあった。胸の奥が、ことりと鳴った。けれど、それが何の歌なのか、その時の彼女には分からなかった。彼女はただ、その旋律を、なぜか泣きたいような気持ちで聞いていた。

夜、彼女は仕事場の壁に貼られた現実の海図を見上げた。北の氷、南の珊瑚、東の帰らぬ海域。それらのどこにも、彼女の国はなかった。けれど、その国から船が来る。その国の果実が市場に並ぶ。地図のうえで生まれた国が、現実の海に、そっと岸を浸し始めている。

エルナは怖くなった。けれど、ペンを置けなかった。むしろ、加速した。

彼女は毎夜、その国に何かを加えた。橋を架けた。街道を通した。井戸を掘った。墓地を定めた。加えるたびに、現実の港に、その変化が滲み出た。橋を架けた翌日、船乗りたちは新しい交易路の話をした。墓地を定めた夜、彼女は夢のなかで、自分の知らぬ誰かの葬列を見た。彼女は神になりかけていた。そして、神になることの恐ろしさを、まだ本当には知らなかった。

依頼主が二度めに使いを寄越したのは、それから半月後だった。

同じ少年が、また油布を持って現れた。今度はそれを開かず、ただ卓に置いた。「ご主人さまは、お喜びです」と少年は言った。「国がよく育っている、と。さらに、お願いがあると」

「育っている」エルナはその言葉を繰り返した。「あなたのご主人は、知っているの。あの地図が、本物になりつつあることを」

少年は答えなかった。代わりに油布を開いた。なかには一枚の書付があり、几帳面な、けれどどこか古めかしい筆跡で、こう記されていた。

「国に、都を。都に、王を。王に、名を。」

エルナは書付を持つ手が冷たくなるのを感じた。

「これは、できない」と彼女は言った。「岸や山なら描ける。けれど、人は描けない。王を描けば、王が生まれる。あなたのご主人は、それを望んでいるの。地図で人を作ることを」

「ご主人さまは」と少年は、やはり暗記した言葉の調子で言った。「こう仰せです。職人さまは、もうとうに、人を描いておられる、と。岬の灯台守を覚えておいでですか。左手の小指の欠けた、年老いた男を」

エルナの背筋を、冷たいものが走った。あれは、心のなかで思い描いただけだ。一度も紙に描いてはいない。なのに、なぜ。

「あの男は、いま、岬で灯を守っております」少年は静かに言った。「あなたが思い描いた、そのままに。妻の墓には、月見草が咲いております。あなたが、そう思っただけの花が」

エルナは椅子の背を掴んだ。膝から力が抜けそうだった。「どうして、それを」

「国は、職人さまの心を写すのです」少年は言った。「紙に引かれた線だけではなく。職人さまが、思い描いたこと、迷って消したこと、引かずにおいたこと──そのすべてを、国は受け取ります。職人さまは、もう、ただの地図を描いているのではありません。世界を、夢みておいでなのです」

少年が帰ったあと、エルナは長いこと動けなかった。

やがて彼女は、初めて、その国の地図を、職人の目ではなく、神の目で見た。自分が引いた一本の海岸線が、いまどこかで波に洗われている。自分が打った一つの点が、いまどこかで鐘を鳴らしている。自分が思い描いただけの灯台守が、いまどこかで、欠けた小指で灯心を整えている。

創るとは、こういうことだったのか。

彼女は父の言葉を思い出した。線は人を生かし、線は人を殺す。父はそれを、戒めとして言った。けれど、父は知らなかったのだ。本当の地図職人にとって、それは戒めではなく、ただの事実なのだということを。

その夜、エルナは羊皮紙の前に座り、ペンを取り、そして──描かなかった。

都を描けば、王が生まれる。王が生まれれば、王に従う者が生まれ、王に逆らう者が生まれ、王のために死ぬ者が生まれる。彼女が一本の城壁を引けば、その城壁の内と外で、人の運命が分かれる。彼女には、その重さを引き受ける資格があるのか。

一晩中、彼女は白い都の予定地を見つめていた。山脈の南、三本の川が一度交わる、肥沃な盆地。そこに都があるべきだと、国そのものが囁いているのが分かった。けれど彼女はペンを持たなかった。盆地の白さが、彼女を見つめ返していた。生まれたがっている、と彼女は感じた。この白さは、何かが生まれるのを、痛いほど待っている。

朝が来て、彼女は決めた。依頼主に会わなければならない、と。顔も知らぬこの主人が、いったい何を企んでいるのか。なぜ、まだ存在しない国を、現実に呼び寄せようとするのか。それを確かめなければ、もう一本の線も引けない。

エルナは少年のあとを尾けることにした。

次に少年が来たのは、それから十日後だった。今度は手ぶらで、ただ「ご主人さまは、お待ちです」とだけ言って帰っていった。エルナは外套を羽織り、距離を置いて少年を追った。

少年は港の方へ下りていった。地図職人街の坂道を抜け、革なめし職人の通りを過ぎ、香辛料商の倉庫が並ぶ運河沿いに出る。エルナの知らぬ路地ではなかった。彼女はこの町の地図を、誰よりもよく知っている。自分の手で測量し、歩幅で距離を測り、塔の影で方位を確かめてきた。この町は、彼女の手の内にある。けれど少年が曲がった角の先に、彼女の知らない小路があった。

それは、運河と運河のあいだの、細い裂け目のような路地だった。エルナは足を止めた。この町を、彼女は隅々まで測量し、写してきた。この場所に、こんな路地はない。断じてない。彼女は記憶のなかの地図を広げた。香辛料商の倉庫は、この運河沿いに、隙間なく軒を連ねているはずだ。倉庫と倉庫のあいだに、人ひとり通れる隙間などないはずだ。けれど、少年はそこへ消えた。

彼女は意を決して、路地に踏み込んだ。

両側を古い石壁に挟まれた、肩幅ほどの道だった。足元の石畳は擦り減って、夜の雨の名残で濡れていた。妙なことに、運河の喧噪が、ここでは聞こえなかった。荷を上げ下ろしする男たちの声も、滑車の軋みも、水を打つ櫂の音も、すべてが遠ざかっていた。代わりに、どこか高いところで、かすかに鐘の音がした。低い、ひびの入ったような音。葡萄の丘の鐘楼の鐘だ、と彼女は思った。そんなはずはないのに。

奥に、ひとつだけ灯りがあった。小さな店の窓だ。近づくと、それは古書店だった。色褪せた木の看板に、消えかけた金文字でこう記されていた──「月光書房」。

窓の内には、天井まで届く書架があり、羊皮紙と革と、古い紙の匂いがした。扉の上の小さな硝子窓に、三日月が描かれていた。エルナはその店を知らなかった。この町に、こんな書店はない。彼女の地図のどこにも、記されていない。

ふと、彼女は思い出した。三日前の夜、自分の描いたあの国の地図、その真珠の湾の港町の片隅に、彼女は無意識に、小さな書店の印を打っていなかったか。月の印を添えて。あれは、確か──

窓越しに、店の奥が見えた。一人の老人が、書架の前に立ち、一冊の本を開いていた。けれど顔は影になって見えない。卓のうえに、深い藍色の小さな箱が置かれていた。三日月の刻印された、マッチ箱だった。老人は一本のマッチを擦り、消えかけた燭台に火を移した。火が揺れて、一瞬、書架の背表紙が光った。そのどれもが、エルナには読めぬ言葉で記されていた。けれど一冊だけ、背に金文字で、彼女に読める言葉が記された本があった。

それは、彼女の名だった。エルナ、と。

彼女は扉を見た。けれど、押す前に、それを開けたなら、二度と元の世界には戻れないような気がした。あの本を開けば、自分の知りたくないことが、すべて記されている。そんな予感がした。彼女は扉に手をかけ──そして、引いた。指が、把手の冷たさを覚えていた。次の朝、もう一度この路地を確かめよう。月光書房が、まだそこにあるのかどうかを。あの本が、本当にあるのかどうかを。

翌朝、その路地はなかった。

運河と運河のあいだに、エルナの知らぬ裂け目などなかった。香辛料商の倉庫の壁が、隙間なく続いているだけだった。彼女は何度も行き来し、壁を手で撫でた。石は乾いて、温く、昨夜の雨の名残もなかった。倉庫の番人に尋ねると、男は怪訝な顔をした。「書店? この辺りにそんなものはありませんよ、奥さん。本を商うなら、大聖堂の裏でしょう」

月光書房は、消えていた。

エルナは仕事場に戻り、あの国の地図を広げた。真珠の湾の港町。その片隅。彼女は目を凝らした。そこには確かに、小さな書店の印があった。三日月を添えた、月光書房の印が。彼女が、いつ描いたのか覚えのない印が。地図のうえに、それは記されていた。現れて、消える書店。地図のなかにだけ、それは確かに存在していた。

彼女は理解し始めていた。

依頼主など、いないのではないか。あの白い羊皮紙こそが、依頼主なのではないか。それは、生まれたがっている国だった。まだどこにもない国が、生まれる場所を求めて、彼女の手を選んだのだ。地図職人の手を。世界をなぞる手ではなく、世界を生む手を。

少年の言葉が甦った。職人さまは、もうとうに、人を描いておられる。国は、職人さまの心を写すのです。

エルナは、自分が選ばれた理由を悟った。彼女は夜の海を信じていた。見る者の数だけ岸を変える海を。昼の海しか信じない職人には、この国は生めなかった。彼女だけが、まだ見ぬ岸を、本当にあるものとして引くことができたのだ。父は世界をなぞることを教えた。けれど、彼女のなかには、父の教えに収まりきらない何かが、ずっと眠っていた。漁場の縁を、誰も証していない方へ引きたがる手。緑の海域の外へ、ほんの少しだけ滲み出したがる心。それを、彼女はずっと軽石で削ってきた。けれど、この国は、その削られたものから生まれていたのだ。

その夜、エルナは都の予定地の前に、再びペンを構えた。

けれど、彼女はそれでも、都を描かなかった。

代わりに、彼女は海図の余白を見つめていた。羊皮紙の北の隅、陸も海もない、ただ羅針盤の風配図だけが描かれた空白。海図職人は、そこに装飾を施す。風の神の顔。鯨。船。あるいは、星。父も、その余白を埋めるのが好きだった。父の海図の隅には、いつも小さな船が一艘、帆を張って描かれていた。それは父自身だ、と母は言っていた。世界の縁を、いつまでも旅している、父の魂なのだと。

エルナは、その余白に、一つの星を描いた。

長い尾を引く、蒼白い星だった。なぜそれを描いたのか、また理由はなかった。手が、そう望んだ。尾は北東から南西へ、夜空を斜めに横切るように伸びていた。彼女はその尾の縁を、ごく薄い藍で何度も重ねて、まるで本当に光が滲んでいるかのように仕上げた。ラピスの青を、膠で薄く溶き、筆の腹で掃くように、幾層も。尾は紙の上で、淡く発光しているように見えた。描きながら、彼女のなかに、ひとつの旋律が浮かんできた。母が、幼い彼女に歌った子守唄だ。あの、港で船乗りが口ずさんでいた歌。聞き取れなかったのに、胸を鳴らした、あの旋律。

──眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。

彼女は手を止めた。なぜ今、この歌を。母はもう長く亡い。けれどその一節は、潮の引いたあとの砂のように、心の底に残っていた。眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。母はいつ、この歌を歌ってくれたのだったか。思い出そうとすると、いつも一つの情景が浮かんだ。冬の海。揺れる船。冷たい風。そして、母ではない誰かの、笑い声。

彼女は星を描き終え、その下に、ごく小さく、見えるか見えぬかの文字で書きつけた。「いつか、一度だけ巡る星」と。

それから三日のあいだ、エルナは地図に触れなかった。

四日めの夜、彼女は窓を開けた。雨はやみ、空は洗われたように澄んでいた。港の灯が、運河の水に映って揺れていた。彼女は何の気なしに、夜空を見上げた。

そして、見た。

北東から南西へ、夜空を斜めに横切る、蒼白い長い尾を引く星を。

エルナの手から、燭台が滑り落ちそうになった。それは、彼女が余白に描いた、まさにその星だった。同じ角度、同じ蒼さ、同じ長さの尾。星は急ぐでもなく、急がぬでもなく、ただ静かに天を渡っていた。まるで、長く忘れられていた何かが、また巡ってきたかのように。港のあちこちで、人々が立ち止まり、空を指さしているのが見えた。年老いた船乗りが、隣の若者に何か言っている。きっと、伝説の星の名を教えているのだろう。窓の下の路地で、母親が幼子を抱き上げ、空を見せていた。そして、低い声で歌い始めた。眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。エルナは息を呑んだ。それは、まさにあの子守唄だった。彼女だけの記憶だと思っていた歌が、この町の、見知らぬ母親の口から、ごく当たり前のように流れ出ていた。

エルナは知っていた。その星の名を。誰に習ったわけでもないのに、知っていた。

ミラ彗星。

何百年に一度だけ、空を渡る星。長く忘れられ、また巡ってくる星。彼女が余白に描いたその星が、いま、本物の空を横切っている。地図が、空をも生み始めたのだ。もはや国の岸だけではない。彼女の引いた線は、天にまで届いていた。彼女は思った──私は、海を描き、国を描き、人を描き、いまや星を描いた。次に描くものは、何だろう。神を、だろうか。それとも、私自身を、だろうか。

その夜、エルナは決して眠れなかった。星が海をわたるまで、彼女は窓辺に座り、子守唄を口ずさんでいた。眠れ、眠れ。誰に向けてでもなく。あるいは、まだ生まれぬ国に向けて。あるいは、自分自身に向けて。

依頼主が、最後の使いを寄越したのは、彗星が空から消えた翌朝だった。

少年は、これまでと違って見えた。少し背が伸び、声が低くなっていた。歳月が、彼の上を流れたかのようだった。けれどエルナには、それがほんの数十日のことだとは、もう信じられなかった。あの国の時間と、この町の時間は、別の速さで流れているのかもしれない。少年の頬には、うっすらと髭の影があった。来るたびに、この子は大人になっていく。まるで、彼女が地図を描く速さに合わせて、その人生を早送りされているかのように。

「ご主人さまは」と少年は言った。「最後のお願いを、と」

エルナは身構えた。「都を描けと。王を生めと。そう言うのね」

「いいえ」少年は首を振った。意外な答えだった。「ご主人さまは、こう仰せです。職人さまの、お心のままに、と。描いても、描かなくても、よい。ただ、これだけは、お伝えするように、と」

少年は、ひとつの小さなものを、卓に置いた。

それは、片方だけの手袋だった。

子供用の、小さな毛糸の手袋。右手のものだ。藍色に染められ、手首のところに、白い糸で三日月が編み込まれていた。古びて、毛羽立って、けれど大切にされてきたことの分かる手袋だった。エルナはそれを見て、胸を突かれた。なぜか、ひどく懐かしかった。指が、勝手にそれへ伸びていた。

「これは」と彼女は言った。声が、自分のものでないように聞こえた。

「ご主人さまが、職人さまにお返しするように、と」少年は静かに言った。「もう片方は、ずっと前に、海に落とされたそうです。けれど、片方だけは、ずっと取ってあった、と」

エルナの記憶の、ずっと底の方で、何かが動いた。氷の張った記憶が、ゆっくりと割れていく音がした。

幼い日。父の船に乗せられた、たった一度の航海。冬の海。母の弟──叔父の操る商船。エルナは舳先で、片方の手袋を海に落とした。藍色の、三日月の編み込まれた手袋を。母が編んでくれたものだった。彼女は泣いた。叔父が笑って言った。あの、笑い声。子守唄のなかで、いつも聞こえていた、あの笑い声だ。「心配するな、エルナ。片方は取っておけ。いつか、海の向こうの国で、もう片方が見つかるさ。まだ誰も行ったことのない、地図にも載っていない国でな」

そして叔父は、舵を取りながら、歌っていた。眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。子守唄は、母の歌ではなかった。叔父の歌だったのだ。あの冬の海で、泣きじゃくる彼女をあやすために、叔父が歌った歌。彼女はそれを、母の歌だと思い込んでいた。記憶は、優しい嘘をつく。

エルナは、その手袋を、震える手で取った。

それは、確かに、彼女のものだった。半世紀近く前に、半分を海に失った、彼女自身の手袋だった。毛糸の編み目の癖まで、覚えていた。母の編んだ、少し不揃いな三日月。

「あなたのご主人は」と彼女は、かすれた声で言った。「いったい、誰なの」

少年は、初めて、暗記した言葉ではない言葉で、ほほえんだ。

「ご主人さまは、まだ存在しない国でございます」

少年が去ったあと、エルナは長いこと、片方だけの手袋を握りしめていた。

彼女は理解した。あの国は、ずっと、彼女を待っていたのだ。幼い日に手袋を落としたあの冬の海の、ずっと向こう。叔父が言った、まだ誰も行ったことのない国。地図にも載っていない国。それは、これから彼女が生む国だった。彼女が手袋の片方を落としたとき、もう片方は、まだ存在しない国の岸に流れ着いていたのだ。時の順序を超えて。海は、未来の岸へ、その失せ物を運んだ。そして国は、その手袋を抱いて、半世紀のあいだ、彼女が大人になり、職人になり、夜の海を信じる者になるのを、待っていた。

国は、彼女に岸を求めた。彼女に、生まれる手助けを求めた。なぜなら、その国には、初めから、彼女の失せ物が流れ着いていたから。彼女とその国は、ずっと前から、対になっていたのだ。片方だけの手袋のように。一方が欠ければ、もう一方も、永遠に対を待ち続ける。

叔父は、その航海から帰らなかった。彼女が手袋を落とした、あの冬。商船は、父の引いた浅瀬の線によって座礁を免れ、けれど別の海で、嵐に遭った。叔父の船は、東の、いまだ船の帰らぬ海域へ消えた。壁に貼られた、あの海図の余白へ。エルナは、ずっとそれを知らずにいた。母が、決して語らなかったから。子守唄だけが、残った。歌った人を失って、歌だけが、彼女のなかで生き続けた。

そして今、その歌の主が、まだ存在しない国の岸から、手袋を返してきた。

エルナは、地図の前に座った。

未完成の国。半分だけ埋まった羊皮紙。都の予定地は、まだ白いままだった。彼女はそこに、王を描くこともできた。都を描くこともできた。そうすれば、国は完成し、現実ににじみ出し、やがてこの世界の海の、確かな一部となるだろう。市場には果実が並び、港には船が入り、空には星が巡る。彼女は、世界を一つ、生むことができる。そして──もしかしたら、その国のどこかに、叔父を描くこともできるかもしれない。帰らなかった叔父を。あの笑い声を。生かすことが、できるかもしれない。

それは、地図職人にとって、最も甘美な誘惑だった。死者すら、描けば、岸に立つ。

エルナの手は、ペンへ伸びた。都の盆地が、白く、彼女を呼んでいた。ここに叔父の家を描け、と国が囁いた。窓辺に椅子を置き、そこに老いた叔父を座らせよ。彼は海を見て、笑っている。お前を待っている。さあ、線を一本、引くだけでいい。

エルナは、ペンを握った。穂先が、白い盆地に触れる、その寸前で──

彼女は、手を止めた。

彼女は、都の予定地に、一本の線も引かなかった。

なぜなら、彼女は悟ったから。もし叔父を描けば、それは叔父ではない。彼女が思い描いた叔父であり、彼女の記憶が作った叔父であり、彼女の寂しさが求めた叔父だ。本物の叔父は、東の海で、すでに自分の生を生き切った。それを、紙の上に呼び戻すことは、彼を弔うことではなく、彼を奪うことだ。死者を地図に閉じ込めることは、愛ではなく、支配だ。

そして、もし叔父を描けるなら、彼女は何でも描けてしまう。亡き母を。亡き父を。失った何もかもを。彼女は、自分の悲しみを埋めるために、世界を一つ、人質に取ることになる。その国の人々は、彼女の寂しさを慰めるためだけに、生まれ、生き、死ぬことになる。岬の灯台守も、葡萄の村の鐘撞きも、塩田の娘たちも。彼女が一本の城壁を引けば、その内と外で、人の生死が分かれる。彼女が一人の王を描けば、その王のために死ぬ者が生まれる。それは、創造ではなく、簒奪だ。神の誘惑だ。

エルナは、ペンを置いた。静かに、机のうえに。

まだ存在しない国は、まだ存在しないからこそ、美しいのだ。

それは、すべての可能性を孕んだまま、生まれることを待っている。生まれてしまえば、可能性は一つに閉じる。生まれぬままなら、無限の都が、無限の王が、無限の運命が、その白い盆地に眠り続ける。眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。あの子守唄は、まさにこのことを歌っていたのだ。眠っているものを、起こすな。星が海をわたるまで、すなわち、永遠に。

エルナは、最後の決断をした。

彼女は地図の余白に、新しい文字を書きつけた。羊皮紙の南の隅、彗星を描いた風配図の下に。彼女は、こう記した。

「この国は、まだ存在しない。されば、永遠に存在する。」

それから彼女は、地図を巻いた。完成させぬまま。半分だけ埋まったまま。彼女はそれを、深い藍色の布で包んだ。包みながら、彼女は不思議と穏やかだった。彼女は、世界を一つ生む力を手にし、そして、それを使わぬことを選んだ。地図職人として、それが、彼女の最も誇る仕事になった。引いた線ではなく、引かなかった線。描いた岸ではなく、描かなかった盆地。

包みの結び目に、彼女は片方だけの手袋を、そっと差し込んだ。

夜が明ける前に、エルナはその包みを抱え、坂を下りた。

彼女は、あの細い路地を探した。運河と運河のあいだ、月光書房のあった裂け目を。けれど、何度探しても、路地はなかった。彼女は知っていた。月光書房は、彗星の見える夜にだけ現れ、朝には消える。そして、彗星は、もう空から去っていた。次に巡ってくるのは、また何百年も先のことだ。だから、あの店も、もうここにはない。彼女の名を背に記したあの本も、別の夜の、別の誰かを待っている。

それでも彼女は、運河沿いの石壁の、ある一点で足を止めた。理由は分からない。けれど、そこだと、確信があった。前に立つと、石壁が、わずかに、潮の匂いをまとっていた。耳を澄ますと、壁の向こうから、ごくかすかに、低いひびの入った鐘の音が聞こえる気がした。葡萄の丘の、鐘楼の鐘。彼女が描いた、その鐘。壁の向こうには、まだ存在しない国の、まだ存在しない朝が、息づいているのだった。

彼女は、地図の包みを、その石壁の根方に、そっと置いた。

「ここで待っているといい」と彼女は、まだ存在しない国に向けて、囁いた。「次の星が巡るまで。次の、まだ見ぬ手が、君を見つけるまで。その手が、君を完成させるか、私のように、君を未完のまま愛するか──それは、その者が決めればいい。私には、君を閉じる権利はなかった。けれど、君を開く権利も、なかったのだ」

そして彼女は、包みの結び目から、片方だけの手袋を、外した。

藍色の、三日月の編み込まれた、子供の手袋を。片方だけの。彼女はそれを、しばらく頬に当てていた。半世紀ぶりに対の片方に近づいた、その毛糸の温もりを。対になる片方は、まだ存在しない国の岸で、いまも誰かを待っている。叔父が拾って、取っておいてくれた、もう片方を。

エルナは、その手袋を、包みのうえに置いた。地図とともに。海とともに。星とともに。

「叔父さん」と彼女は、ごく小さな声で言った。「片方は、取っておいたわ。あなたの言ったとおりに。けれど私は、もう片方を、探しには行かない。探さないことが、見つけることだと、ようやく分かったから」

風が、運河の方から吹いてきた。潮の匂いがした。それは、現実の港の匂いか、まだ存在しない国の岸の匂いか、もう彼女には区別がつかなかった。区別する必要も、なかった。

エルナは、その後も長く、地図を描いて生きた。

見知った海岸線を、見知った川を、見知った町を、彼女は丹念に写し続けた。世界をなぞる手として。世界を生む手としてではなく。けれど、彼女の海図には、いつからか、一つの癖が現れた。風配図の余白に、いつも、長い尾を引く小さな星を、薄い藍で描き添えるのだ。一度だけ巡る星を。それを見た船乗りたちは、縁起がよいと喜んだ。エルナは、ただ微笑んで、何も言わなかった。

それは、彼女の署名だった。世界を生むことのできた手が、それを選ばなかったという、ただ一人の自分にだけ分かる署名。あるいは、東の海へ消えた叔父への、消えぬ灯火だった。あなたを描かなかった。けれど、忘れもしなかった。星は、描けば呼び戻せた。けれど私は、ただ空に巡るままにした。それが、いちばんあなたらしいから。

港にはその後も、聞いたことのない訛りの船乗りが、ときおり荷を下ろしに来た。三日月と錨の紋章を彫った船が。けれど、その数は年ごとに減り、やがて、誰も真珠の湾の名を口にしなくなった。市場のロウマの実も、いつしか消えた。国は、にじみ出すのをやめ、ゆっくりと、白い羊皮紙のなかへ、岸を引いていった。生まれぬまま、永遠に生まれうるものとして。眠りについたのだ。星が海をわたるまで。

晩年、弟子の一人が、師に尋ねたことがある。「先生は、これまでに描いた地図のうち、どれが一番の傑作だとお思いですか」

エルナは、しばらく窓の外の海を見ていた。それから、こう答えた。

「描かなかった一葉だよ」

弟子には、その意味が分からなかった。エルナも、それ以上は語らなかった。ただ、その手は無意識に、首にかけた小さな袋に触れていた。なかには、藍色の毛糸の手袋が一つ、入っていた──と弟子は後年、葬いの折に初めて知った。けれど、それも語り草にはならなかった。ただの古い手袋だ、と人々は思った。

彼女が亡くなった夜、町の古老たちは、空に蒼白い長い尾を引く星を見た、と言い伝えた。けれど暦のうえでは、その年に彗星が巡るはずはなかった。だから、それはただの言い伝えだ、と人々は笑った。

ただ、運河沿いの石壁の根方で、片方だけの手袋を拾った子供が一人いたという。藍色の、三日月の編み込まれた、古い古い手袋を。手袋のそばには、藍色の布に包まれた、巻いた羊皮紙が一葉、置かれていたとも。子供がそれを拾い上げたとき、隣の石壁の裂け目に、見たこともない古書店の灯りが、ひとつだけ灯っていた。看板には、消えかけた金文字で、こう記されていた。月光書房、と。

そして、その路地は、朝には消えていた。海が、まだ名前を持たない国の岸を、その子の窓の下まで、運び始めていた。

この物語にひそむ符牒

ほかの物語と、ひそかに分かち合っているもの:

  • ミラ彗星
  • 月光堂のマッチ
  • 子守唄
  • 月光書房
  • 片方の手袋

十二をつなぐ符牒について →

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