十三番目の周波数
深夜のラジオ局には、音という音がいったん死んで、それから生まれ直すための、ほんのわずかな隙間がある。私はその隙間を生業にしてきた男だった。
一
その局は、市の北のはずれの丘の上にあった。送信塔の赤い灯が、夜どおし、ゆっくりと点いては消えていた。下りの国道からは、それが闇のなかで脈打つ心臓のように見えると、誰かが言ったことがある。たしかに、そんなふうに見えた。点いて、消えて、点いて、消えて。何かが、まだ生きているのを確かめるように。
私は名前を、深澤という。深いに澤と書く。三十六になる年だった。妻はいない。正確に言えば、いたが、もういない。そのことについては、いずれ書くことになる。書かないわけにはいかないからだ。
夜勤の音響技師、というのが私の肩書きだった。ミキサー、と人は呼ぶ。卓の前に座り、つまみを上げ、フェーダーを下げ、人の声をいちばん聴きやすい場所に置いてやる。それが仕事だった。アナウンサーの声、ゲストの声、電話越しの、頼りない声。それらをすくい上げて、夜の空に放してやる。私の手のなかを通っていったすべての声は、いまごろどこの空をさまよっているのだろうと、ときどき思った。声というのは、放してしまえば、もう二度と戻らない。
その夜、私はいつものように、二十三時から卓についていた。番組は『ミッドナイト・カーニバル』という、いかにも八〇年代らしい名前の生放送だった。パーソナリティの矢吹さんが、ひとりでしゃべり、リスナーの葉書を読み、レコードをかける。盆を過ぎたばかりの、まだ蒸し暑い夜だった。スタジオの空調はよく効いていたが、調整室の私のところまでは、その冷気がうまく回ってこない。背中に薄く汗をかいていた。
「──というわけで、今夜もたくさんのお葉書、ありがとうございます。次の曲は、リクエストいただきました、えー、市内にお住まいの、ペンネーム・夜光虫さんから……」
矢吹さんの声は、私の左耳のモニターから、低く、なめらかに流れこんでくる。私はその声の輪郭を、指先で少しだけ撫でるように整える。彼の声には、長く深夜放送をやってきた人間特有の、夜に溶けこむような甘さがあった。けれど私はその甘さに、いつも少しだけ余分な芯を残しておく。眠ってしまわないように。聴いている誰かが、夜のいちばん深いところで、ひとりきりにならないように。
曲がかかると、矢吹さんはマイクを切り、ガラス越しにこちらへ、煙草を吸う仕草をして見せた。私は頷いた。彼はスタジオを出て、廊下の喫煙所のほうへ歩いていった。その三分のあいだ、調整室には私ひとりが残される。スピーカーからは、いま流れている曲──たしか古いシャンソンだった──が、薄く聞こえている。
私は卓の上の灰皿を引き寄せた。そこには、深い藍色のマッチ箱が置いてあった。三日月が、銀の箔押しで刻まれている。月光堂、と小さな文字があった。どこで手に入れたものか、もう思い出せない。気がつけば、私の手元にあった。市内にそんな名前の店があったかどうかも知らない。けれど私はその箱が気に入っていて、煙草に火を点けるときは、いつもそれを使った。
擦ると、燐の匂いがして、小さな炎が立った。その匂いを、私は嫌いではなかった。一瞬だけ、夜に穴があく。そんな匂いだった。
放送は、二時に終わる。それが、定刻だった。
二
放送終了後の局というのは、奇妙な場所だ。
二時ちょうど、矢吹さんが「それでは、また明日の夜。おやすみなさい」と言い、私が最後のジングルを送出し、そして時報のあと、放送は終わる。送信は止まる。本来なら、私たちの電波が乗っていた周波数には、もう何も乗らない。ただのノイズ。ホワイトノイズの海。砂嵐のような、雨のような、あの音。
矢吹さんは「お疲れさん」と言って帰っていく。アナウンサーも、当直のディレクターも、たいていは二時半までにはいなくなる。残るのは私ひとり。私は機材の電源を順番に落とし、ログをつけ、明日の準備をして、たいてい三時半か四時に局を出る。それが、私の夜だった。
その夜も、そうなるはずだった。
矢吹さんが帰り、ディレクターの三宅くんが「先、上がりますね」と言って帰り、私は調整室にひとりになった。電源を落とす前に、私はいつも、空き帯域のモニターをしばらく聴く癖があった。理由はない。ただ、放送が終わったあとの、あの何もない音を聴いていると、心が静かになった。砂嵐の音。海の音にも、雨の音にも、人の息にも似た音。
その夜、私は受信機のダイヤルを、いつものように、私たちの周波数の少し上へ回した。
砂嵐。
少し下へ。
砂嵐。
それから、私は知らない手つきで──いまでも、なぜそうしたのか分からない──ダイヤルを、ふだん回さないところまで、回した。私たちの局の番号を一として数えるなら、ずっと端の、何もないはずの場所。十三番目、とでも言えばいいだろうか。そこに、目盛りはなかった。ただの隙間だった。周波数表にも載っていない、帯と帯のあいだの、誰も使わない、使えないはずの隙間。
そこに、声があった。
最初、私はそれをノイズの聞き違いだと思った。砂嵐のなかには、ときどき、人の声のようなものが混じることがある。脳が、無秩序のなかに意味を見つけようとするのだ。パレイドリア、というのだったか。だから私は、それを無視しようとした。
けれど、声は続いた。
「……リクエスト、いいですか」
若い女の声だった。砂嵐の向こうから、まるで深い水のなかから浮かびあがってくるように、ゆっくりと、たどたどしく。
「……あの、聞こえますか。……リクエスト、お願いしたくて」
私は、受信機ではなく、調整卓のほうを見た。電話のランプは点いていない。マイクは、すべて落としてある。スタジオは無人だ。誰も、何も、しゃべっていない。私の局からは、もう何も送られていない。
それなのに、声がする。
「……あの夜にかけてくれた曲を、もう一度。あなたなら、分かるでしょう」
私はダイヤルから手を離した。指先が、冷たくなっていた。空調のせいではない、と思った。
砂嵐の音だけが、また戻ってきた。
三
その夜のことを、私は誰にも言わなかった。
言えるはずがなかった。夜勤明けの男が、誰もいない局で、死んだ周波数から女の声を聞いた──そんなことを言えば、私はすぐにでも、医者のところへ連れていかれただろう。それに、はっきりとした確信もなかった。疲れていたのだ、と自分に言い聞かせた。盆だった。暑かった。私はあの夏、あまり眠れていなかった。
理由は、分かっていた。けれど、それについては、まだ書きたくない。
翌日の夜、私はいつものように卓についた。何ごともなく放送は流れ、矢吹さんは甘い声でしゃべり、私は声の輪郭を整えた。二時に放送は終わり、矢吹さんが帰り、三宅くんが帰り、私はひとりになった。
そして私は、また、あのダイヤルを回した。
回すまいと思っていた。電源を落として、帰ろうと思っていた。けれど私の手は、勝手に、あの隙間を探していた。十三番目。何もないはずの場所。
砂嵐。
それから、声。
その夜は、男の声だった。年老いた、しわがれた声。
「……『リンゴの唄』を、頼みます。女房がね、好きでした。終戦の年に、はじめて聞いて……ふたりで、よく口ずさんで……」
私は息を止めて、聴いていた。
「……あれを、もう一度、聞かせてくれませんか。この空のどこかで、女房も、聞いているかもしれないから」
声は、そこで途切れた。砂嵐が戻ってきた。
私は、長いあいだ、動けなかった。それから、ゆっくりと、立ち上がった。レコード棚のところへ行った。八〇年代の局に、終戦の年の流行歌のレコードがあるとは思えなかった。けれど、棚のいちばん端、古いSPやEPを仕舞ってある、誰も触らない段に、それはあった。色褪せたジャケット。『リンゴの唄』。
私は、それを盤に乗せた。
なぜそうしたのか、自分でも分からない。送信は止まっている。電波は出ていない。この曲は、どこにも届かない。スタジオの、誰もいない空気のなかに、ただ流れるだけだ。それでも私は、針を落とした。
赤いリンゴに、くちびる寄せて……
古い録音特有の、ざらついた、けれど不思議とあたたかい歌声が、無人のスタジオに流れた。私は調整室のガラス越しに、誰もいないスタジオを見ていた。マイクのスタンドが、ぽつんと立っている。空っぽの椅子。
曲が終わると、私は針を上げた。
そして、もう一度、ダイヤルを十三番目に回した。
砂嵐。
それから──私は確かに聞いた。砂嵐の向こうで、あの老人の声が、ほんのかすかに、こう言うのを。
「……ありがとう。これで、女房も、安心して眠れる」
私は、その夜、局を出ると、丘の上で、長いこと空を見ていた。送信塔の赤い灯が、点いては消えていた。私の電波はもう出ていないのに、灯だけは、規則正しく、点滅していた。何かが、まだ生きているのを確かめるように。
四
それから、私の夜は、二重になった。
二時までは、生きている人々のための放送だった。矢吹さんがしゃべり、リスナーが葉書を送り、私が声を整える、ふつうの夜。けれど二時を過ぎると、もうひとつの放送が始まった。誰にも知られない、私だけの放送。十三番目の周波数から、死んだ人々がリクエストを送ってくる。そして私は、彼らのために、曲をかける。
奇妙なことだが、私はそれを、義務のように感じはじめていた。
彼らのリクエストには、規則のようなものがあった。みな、自分が死んだあとに残してきた誰かのために、曲を頼むのだった。終戦の年の流行歌を頼んだ老人は、妻のために。ある夜、若い女が頼んだのは、自分の子供に毎晩歌ってやっていた、という童謡だった。ある夜の少年は、母親が好きだった歌謡曲を。みな、自分のためではなかった。残してきた者へ、最後の便りを送るように、彼らは曲を頼んだ。
そして私は、その曲を、誰もいないスタジオで、かける。送信されない電波に乗せて。どこにも届かないはずの曲を。
──けれど、本当に、届いていないのだろうか。
私は、しだいに、そうは思わなくなっていた。曲をかけたあと、ダイヤルを十三番目に戻すと、彼らはいつも、礼を言った。「ありがとう」と。「これで、あの子も眠れる」と。「これで、思い残すことはない」と。まるで、その曲が、本当に、生きている誰かの耳に届いたかのように。
私は、いつしか、それを信じるようになっていた。死んだ者の声は、生きた者には聞こえない。けれど、私を経由すれば──私が、彼らの声を聴き、彼らの曲をかければ──その音は、どこか、私には見えない場所で、生きた誰かの夢のなかに、子守唄のように、染みこんでいくのではないか。そんなふうに、思うようになっていた。
私は、死者と生者のあいだに立つ、ミキサーになっていた。
矢吹さんは、私の様子が少し変わったことに、気づいていたようだった。あるとき、放送の合間に、煙草を吸いながら、彼は言った。
「深澤さん、最近、帰るの遅いんだって? 守衛さんが言ってたよ。四時、五時まで局にいるって」
「機材の調子が、少し」と私は答えた。「いじっておきたいところがあって」
矢吹さんは、それ以上は訊かなかった。彼は煙を吐いて、ガラスの向こうの夜を見た。
「夜って、長いよなあ」と、彼は誰にともなく言った。「俺たちみたいな仕事をしてると、よけいに、そう思う。昼間の連中は、夜なんて、ただ寝てるだけの時間だと思ってる。けど、夜は、長い。いろんなものが、起きてる」
私は、彼の横顔を見た。彼は、何か知っているのだろうか、と思った。けれど、訊けなかった。
「あんたも、気をつけなよ」と、矢吹さんは、煙草を消しながら、言った。「夜に、長くいすぎると、夜のほうが、こっちを、覚えちまう。そうなると、もう、昼間には、戻れなくなる。俺なんか、もう、戻れない口だけどさ」
彼は、笑った。けれど、その笑いには、どこか、本気の翳りが、あった。私は、何も、言えなかった。私は、もう、戻れない口に、なりかけているのを、自分でも、知っていたから。
矢吹さんが、スタジオに戻り、放送が、再開した。私は、また、彼の声の輪郭を、整えた。けれど、その夜は、いつもより、少しだけ、彼の声に、芯を、強く残した。眠ってしまわないように。聴いている誰かが──そして、しゃべっている彼自身が──夜のいちばん深いところで、ひとりきりに、ならないように。
その夜も、二時に放送は終わり、私はひとりになった。そして、ダイヤルを回した。
五
彼らの声を聴くうちに、私は、ひとつのことに気づいた。
声には、それぞれ、固有のノイズがあった。
老人の声には、古いラジオの真空管が温まるような、低い唸りが混じっていた。若い女の声には、雨だれのような、ぽつ、ぽつ、という断続音があった。少年の声には、遠い踏切の警報のような、規則正しい高音が。私は、音を聴き分けることを仕事にしてきた男だ。だから、それぞれの声に固有のノイズがあることが、はっきりと分かった。
そして、私は思った。このノイズは、彼らが死んだ場所の音なのではないか、と。
老人は、たぶん、古いラジオのそばで死んだのだ。若い女は、雨の夜に。少年は、踏切の近くで。彼らの最後の瞬間に鳴っていた音が、声に、こびりついている。死というのは、たぶん、音が止まる瞬間ではなくて、ひとつの音が、永遠に鳴りつづける瞬間なのだ。私は、そんなふうに考えるようになった。
その考えは、私を、ある記憶へと、引きずっていった。
私の妻、佐和子のことだ。
佐和子は、二年前の、冬の夜に死んだ。交通事故だった。雪の降る、寒い夜だった。彼女は、私を迎えに来る途中だった。私がその夜、夜勤で、車が使えなかったから。彼女が、駅まで、迎えに来てくれるはずだった。けれど、彼女は来なかった。雪の坂道で、対向車が、スリップした。
私が病院に駆けつけたとき、彼女は、もう、ほとんど意識がなかった。けれど、一度だけ、目を開けて、私を見た。そして、何かを言おうとした。唇が動いた。けれど、声には、ならなかった。
私は、その、声にならなかった言葉を、ずっと、聞きたいと思っていた。
二年間、ずっと。
彼女が、最後に、私に、何を言おうとしたのか。
それを聞くためなら、私は、何だってした。霊媒師のところへも行った。墓の前で、夜どおし、話しかけたこともあった。けれど、彼女の声は、どこからも、返ってこなかった。
だから──十三番目の周波数を見つけたとき、私が本当に待っていたのは、知らない老人や、若い女や、少年のリクエストではなかった。私が待っていたのは、ただひとつ。佐和子の声だった。
私は、毎晩、ダイヤルを回した。知らない誰かの声を聴き、その曲をかけ、礼を言われ、そして、また、ダイヤルを回した。佐和子の声を、探して。
ときどき、私は、受信機に向かって、自分から、話しかけた。「佐和子」と。「聞こえてるなら、返事をしてくれ」と。「リクエストでも、何でもいい。一言だけでいいから」と。けれど、砂嵐は、私の声を、ただ、のみこむだけだった。死者は、こちらから呼んでも、答えない。彼らは、彼らの、用意ができたときにしか、口を、開かない。私は、しだいに、そのことを、悟っていった。私にできるのは、ただ、待つこと。卓の前に座り、ダイヤルを、十三番目に合わせたまま、夜が、明けるまで、待つこと。それだけだった。
ある夜などは、私は、空が白むまで、調整室に、いた。守衛の老人が、見回りに来て、調整室の明かりが、ついているのを、不審に思い、ドアを、ノックした。私は、慌てて、受信機の電源を、落とした。「機材の、調整です」と、私は言った。老人は、私の顔を、しばらく、見ていた。それから、「あんた、顔色が、悪いよ」と、言った。「家に、帰りなさい。生きてる人間は、夜は、寝るもんだ」と。
生きてる人間は、夜は、寝るもんだ。
その言葉が、なぜか、長く、私の耳に、残った。
けれど、彼女は、来なかった。
夜が、いくつも、過ぎていった。
六
秋が来た。
丘の上の局から見える木々が、少しずつ色を変えていった。夜は長くなり、空気は澄んでいった。リクエストは、相変わらず、毎晩のように届いた。私は、もう、それを怖いとは思わなくなっていた。むしろ、それは、私の夜の、いちばん静かで、いちばん神聖な時間になっていた。
ある夜、私は、奇妙なリクエストを受け取った。
それまでの声は、みな、自分の死んだあとに残してきた、生きている誰かのために、曲を頼んだ。けれど、その夜の声は、違った。
幼い女の子の声だった。
「……あのね」と、その子は言った。たどたどしく、けれど、はっきりと。「うたを、おねがいしたいの」
「眠れ、眠れ、星が海をわたるまで……っていう、うた」
私は、息を止めた。
その子守唄を、私は知っていた。
佐和子が、よく口ずさんでいた歌だった。私たちには、子供がいなかった。けれど、佐和子は、いつか生まれてくるかもしれない子のために、と言って、その歌を覚えていた。古い、誰が作ったのかも分からない子守唄。「眠れ、眠れ、星が海をわたるまで」。佐和子は、夜、眠れないとき、私の隣で、小さな声で、それを口ずさんだ。私は、その声を聞きながら、いつも、眠りに落ちた。
「……どうして、その歌を?」と、私は、思わず、声に出して訊いた。受信機に向かって。砂嵐の向こうの、幼い声に向かって。
「だって」と、その子は言った。「ママが、いつも、うたってくれるって、いってたから。でも、まだ、うたってもらってないの。だから、ここで、まってるの」
私は、卓の上で、両手を握りしめた。
「ママは、どこにいるの?」と、私は訊いた。
「まだ、こっちにこないの」と、その子は言った。「ママは、まだ、そっちにいるの。パパのところに、いるの。だから、わたし、ここで、ひとりで、まってるの」
砂嵐が、ふいに、大きくなった。
「うたって?」と、その子は言った。「パパ」
そして、声は、途切れた。
私は、調整室のなかで、立ち尽くしていた。
パパ、と、その子は言った。
私には、子供は、いなかった。
いなかった、はずだった。
七
私は、佐和子のことを、思い返していた。
彼女が死んだ、あの冬の夜。雪の坂道。私を迎えに来る途中だった。
そういえば──と、私は、ずっと、考えないようにしてきたことを、考えた。
佐和子は、あの少し前から、体調を崩していた。朝、気分が悪いと言うことが、増えていた。私は、疲れているのだろう、と思っていた。彼女は、病院に行く、と言っていた。あの、事故の日に。そう、あの日、彼女は、病院の帰りだったのだ。私を迎えに来る前に、病院に寄った、と、後で、義母から聞いた。
彼女が、何のために、病院に行ったのか。私は、訊かなかった。訊けなかった。彼女は、もう、いなかったから。
けれど、いま、私は、分かってしまった。
あの幼い声の意味が。
「ママは、いつも、うたってくれるって、いってたから。でも、まだ、うたってもらってないの」
その子は、生まれて、こなかった。母親が死んだから。けれど、母親が、その子のために、子守唄を覚えていたから──いつか歌ってやろうと、楽しみにしていたから──その子は、どこか、生と死のあいだの、誰もいない隙間で、まだ、待っているのだ。一度も歌ってもらえなかった、その子守唄を。
私は、震える手で、レコード棚を探した。けれど、その子守唄のレコードは、どこにもなかった。当然だった。それは、レコードになどなっていない、佐和子の声だけの歌だったのだから。誰が作ったのかも分からない、佐和子が、どこかで覚えてきた、ふたりだけの歌。
私は、マイクの前に、座った。
スタジオに入り、空っぽの椅子に座り、誰もいないマイクの前で、私は、ヘッドフォンをつけた。調整卓は、無人だった。録音のランプは、点いていない。送信は、止まっている。それでも、私は、フェーダーを上げる人間が、誰もいないことを知りながら、マイクのスイッチを、入れた。
そして、私は、歌った。
私の、ひどい音痴の声で。佐和子が、いつも笑った、私の下手な歌で。
眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。
眠れ、眠れ、波が空に還るまで。
私は、佐和子の声を、思い出しながら、歌った。彼女が、夜、私の隣で、小さく口ずさんだ、あの声を。私は、もう、彼女の歌い方を、はっきりとは思い出せなかった。二年も経っていた。記憶は、薄れていた。けれど、歌っているうちに、ふしぎと、メロディが、戻ってきた。彼女の声の、上がり下がりが。彼女が、どこで息を吸って、どこで、声を、優しく落としたか。
私は、誰もいないスタジオで、生まれてこなかった、私の子供のために、子守唄を歌った。
歌い終わると、スタジオは、しんと、静まりかえっていた。
私は、ヘッドフォンを通して、自分の息の音だけを、聞いていた。
それから、私は、調整室に戻った。そして、ダイヤルを、十三番目に、回した。
砂嵐。
それから──ほんの、かすかに。
「……ありがとう、パパ」と、その子は言った。眠そうな、満ち足りた声で。「もう、ねむれる」
そして、声は、消えた。
その夜は、もう、何も、聞こえなかった。砂嵐だけが、いつまでも、続いた。
私は、卓に突っ伏して、長いあいだ、泣いた。音を立てずに。声にならない声で。私の泣き声は、誰にも、届かなかった。送信は、止まっていたから。
八
それから、しばらく、リクエストは、来なかった。
毎晩、私はダイヤルを十三番目に回したが、聞こえるのは、砂嵐だけだった。私は、少し、ほっとしていた。同時に、寂しくもあった。あの夜の出来事が、私に、何かを終わらせ、同時に、何かを、まだ、終わらせていないような気がしていた。
私は、佐和子の声を、まだ、聞いていなかった。
生まれてこなかった子の声は、聞いた。けれど、佐和子自身の声は、まだ、来ていなかった。彼女が、最後に、私に、言おうとしたこと。声にならなかった、あの言葉。それを、私は、まだ、聞いていなかった。
私は、待った。
冬が来た。
最初の雪が降った夜のことだった。二年前の、あの夜と、よく似た夜だった。窓の外を、雪が、静かに、斜めに、降っていた。送信塔の赤い灯が、雪のなかで、にじんでいた。点いては、消えて。
その夜、放送が終わり、矢吹さんが帰り、三宅くんが帰り、私は、ひとりになった。
そして、ダイヤルを、回した。
砂嵐。
それから、声があった。
その声を、私は、聞き間違えるはずが、なかった。
「……深澤さん」
佐和子の、声だった。
私は、椅子から、立ち上がりかけて、また、座った。膝が、震えていた。受信機の、緑色のランプが、砂嵐のなかで、点いては、消えていた。
「……聞こえてる?」と、佐和子は言った。「深澤さん。聞こえてる?」
彼女は、私のことを、いつも、苗字で呼んだ。結婚してからも、ずっと。私が、何度、名前で呼んでくれと言っても、彼女は、笑って、深澤さん、と呼んだ。それが、彼女の癖だった。
「聞こえてる」と、私は言った。受信機に向かって。「聞こえてるよ、佐和子」
砂嵐が、少し、和らいだ。彼女の声の背後に、私は、雨だれのような、いや、雪のような、しんしんとした、固有のノイズを聞いた。彼女が、最後に、聞いた音。雪の、降る音。
「リクエスト、いいですか」と、佐和子は言った。少し、いたずらっぽく。生きていたころと、同じように。
「いいよ」と、私は言った。「何でも、かけるよ。何が、いい?」
佐和子は、しばらく、黙っていた。砂嵐のなかで、雪の音だけが、続いた。
それから、彼女は、言った。
「……あの子に、歌ってくれて、ありがとう」
私は、息を、のんだ。
「あの子、ずっと、待ってたの」と、佐和子は言った。「わたしが、歌ってあげるって、約束したから。でも、わたし、歌ってあげられなかった。だから、あの子、こっちにも来られなくて、ずっと、あの隙間で、ひとりで、待ってたの。あなたが、歌ってくれるまで」
「……知らなかった」と、私は言った。声が、震えた。「俺、知らなかったんだ。君が、あの日、病院に行ったこと。子供が……俺たちに、子供が、できてたこと。俺、何も、知らなかった」
「ごめんね」と、佐和子は言った。「あの日、帰ったら、言うつもりだったの。あなたを、迎えに行って、車のなかで、言おうって。だから、急いでたの。雪が、降ってたのに、急いで、坂を、下りて……」
砂嵐が、ふいに、強くなった。私は、ダイヤルを、慎重に、調整した。彼女の声を、いちばん聴きやすい場所に、置いてやるように。これが、私の仕事だった。声を、いちばん、優しい場所に、置いてやること。
「俺の、せいだ」と、私は言った。「俺が、夜勤じゃなかったら。俺が、迎えに来てくれなんて、言わなかったら。君は、あんな雪の夜に、坂道を……」
「やめて」と、佐和子は、静かに、言った。「あなたのせいじゃない。誰のせいでもないの。雪が、降っただけ。坂が、凍ってただけ。それだけ」
「……君が、最後に」と、私は言った。これだけは、訊かずには、いられなかった。二年間、ずっと、私を、苦しめてきた、たったひとつのこと。「君が、最後に、目を開けて、何か、言おうとした。でも、声に、ならなかった。あれは──あれは、何だったんだ? 君は、何を、言おうとしたんだ?」
砂嵐が、また、静かになった。
長い、沈黙があった。
私は、その沈黙を、聞いていた。音響技師として、私は、沈黙の種類を、聞き分けることができる。気まずい沈黙。怒りの沈黙。何かを言いあぐねている沈黙。けれど、その夜、佐和子の沈黙は、そのどれでも、なかった。それは、優しい、満ち足りた、微笑むような沈黙だった。
「ねえ、深澤さん」と、やがて、彼女は言った。私の問いには、答えずに。「窓の外を、見て」
私は、調整室の、小さな窓のほうを、向いた。
雪は、いつのまにか、やんでいた。雲が、切れていた。澄んだ、冬の夜空が、広がっていた。
そして、その空を、横切るものが、あった。
蒼白い、長い尾を引く、ひとすじの光。
彗星だった。
私は、その名前を、知らなかった。ただ、それが、とても古い星であることだけは、なぜか、分かった。長く、忘れられていた星が、ながい旅を終えて、また、この空に、巡ってきたのだ。蒼白い尾は、雪のあとの夜空に、音もなく、ゆっくりと、伸びていた。
「きれいね」と、佐和子は言った。「あの星、わたしが、子供のころにも、一度だけ、見たの。おばあちゃんが、教えてくれた。あの星が見える夜は、遠くに行った人たちが、いちばん、近くに来る夜なんだって。だから、子守唄を歌うと、ちゃんと、届くんだって」
私は、彗星を、見つめていた。
「あの星が、海をわたるまで」と、佐和子は、歌うように、言った。「眠れ、眠れ。あの歌の、星って、あの星のことだったのかもしれないね。わたしも、子供のころ、おばあちゃんに、あの歌を、歌ってもらった。だから、わたしも、あの子に、歌ってあげたかった」
「佐和子」と、私は言った。
「もう、行かなきゃ」と、彼女は言った。「あの子が、待ってるの。今度は、わたしが、ちゃんと、そばにいてあげる。ふたりで、行くの。星が、海を、わたるところを、見に」
「待ってくれ」と、私は言った。「まだ、訊いてない。君が、最後に、言おうとしたことを──」
「深澤さん」と、佐和子は言った。とても、優しい声で。「あなたは、ずっと、それを、聞きたがってた。でも、ねえ。あなたは、もう、知ってるのよ」
砂嵐が、戻ってきた。
「あなたが、あの子に、歌ってあげた、あの夜」と、彼女の声は、遠ざかりながら、言った。「あなたが、誰もいないスタジオで、下手な声で、子守唄を歌った、あの夜。わたし、聞いてたの。すぐ、そばで。そして、思ったの。ああ、この人は、もう、わたしの最後の言葉を、知ってるんだって」
「……佐和子」
「だって、あなたが、あの歌で、あの子に、伝えたことと」と、彼女は言った。「わたしが、最後に、あなたに、言いたかったことは──おなじ、ことだもの」
声は、砂嵐に、溶けていった。
「ありがとう」と、最後に、彼女は言った。「眠れ、眠れ。深澤さん。あなたも、もう、眠っていいのよ」
そして、声は、消えた。
砂嵐だけが、残った。
九
私は、窓の外の、彗星を、見ていた。
蒼白い尾は、ゆっくりと、空を、横切っていった。やがて、それは、丘の向こうへ、沈んでいった。長く、忘れられていた星は、また、ながい旅へと、帰っていった。次に、それが、この空に、巡ってくるのは、いつのことだろう。私は、もう、生きていないかもしれない。けれど、それでも、いいと思った。そのときには、私も、彼女たちと、同じ場所に、いるのかもしれないのだから。
私は、佐和子の、最後の言葉を、考えた。
声にならなかった、あの言葉。二年間、私を、苦しめてきた、あの言葉。
彼女は、最後まで、それを、口にしなかった。けれど、彼女は言った。私は、もう、それを、知っている、と。あの子に、子守唄を歌った、あの夜に、私は、もう、それを、知ってしまったのだ、と。
私が、あの歌で、生まれてこなかった子に、伝えたこと。
それは、たぶん、こういうことだった。
──おまえのことを、愛している。会えなかったけれど。一度も、抱いてやれなかったけれど。それでも、おまえのことを、ずっと、愛している。だから、安心して、眠りなさい。
佐和子が、最後に、私に、言いたかったことも、きっと、同じだった。
──あなたのことを、愛している。もう、会えないけれど。でも、ずっと、愛している。だから、あなたも、もう、苦しまないで。安心して、生きなさい。
声に、ならなくても。
言葉に、しなくても。
それは、もう、私のなかに、届いていた。
私は、卓の上の、藍色のマッチ箱を、手に取った。三日月の、銀の箔押し。月光堂。私は、煙草に、火を点けようとして──やめた。代わりに、私は、ただ、そのマッチを、一本、擦った。
燐の匂いがして、小さな炎が、立った。
一瞬だけ、夜に、穴があいた。
私は、その小さな炎を、見つめていた。それは、すぐに、私の指先まで、燃えてきて、私は、それを、灰皿のなかで、消した。煙が、ひとすじ、立ちのぼって、消えた。
スタジオは、しんと、静まりかえっていた。
私は、機材の電源を、ひとつずつ、落としていった。受信機の、緑のランプが、消えた。卓の、無数の、小さな灯が、消えていった。最後に、私は、調整室の、明かりを、消した。
局を出ると、空は、すっかり、晴れていた。雪は、やんでいた。星が、たくさん、出ていた。けれど、あの蒼白い尾を引く星は、もう、どこにも、見えなかった。
送信塔の、赤い灯だけが、夜のなかで、点いては、消えていた。
点いて、消えて、点いて、消えて。
何かが、まだ、生きているのを、確かめるように。
十
それから、私は、もう、ダイヤルを、十三番目に、回さなかった。
回す必要が、なくなったのだ。私が、聞きたかった声は、もう、聞いた。私が、しなければならなかったことは、もう、した。生まれてこなかった子に、子守唄を歌った。佐和子の、最後の言葉を、受け取った。それで、もう、十分だった。
私は、相変わらず、夜勤の、音響技師を、続けた。矢吹さんが、甘い声で、しゃべり、リスナーが、葉書を送り、私が、声の輪郭を、整える。二時に、放送は終わり、私は、機材の電源を、落とし、ログをつけ、局を出る。ふつうの、夜だった。
けれど、私は、ときどき、思った。あの、十三番目の周波数には、いまも、誰かの声が、届いているのだろうか、と。生きている誰かのために、最後の便りを、送ろうとする、死んだ人々の声が。砂嵐の、向こうから、聞こえますか、と、たどたどしく、呼びかける声が。
きっと、届いているのだろう、と、私は思った。
ただ、それを、聴く者が、いないだけだ。
ある夜、私が、局を出ようとしたとき、丘を下りる道の、途中に、見慣れない、小さな店が、あるのに、気づいた。古書店のようだった。藍色の、暖簾が、かかっていた。窓のなかに、ぼんやりと、明かりが、灯っていた。こんなところに、店など、あっただろうか、と、私は、いぶかしんだ。私は、この道を、何百回も、通ってきた。けれど、こんな店を、見た記憶は、なかった。
私は、足を止めた。窓のなかには、古い本が、うずたかく、積まれていた。奥のほうに、小さな明かりが、灯っていて、誰か、人の、気配が、あった。
入ってみようか、と、思った。
けれど、なぜか、入れなかった。その店は、私が、まだ、足を、踏み入れてはいけない場所のような、気がした。たぶん、彗星の見える、夜にだけ、開く店なのだ。そして、朝には、消えてしまう。今夜、たまたま、ひらいているだけ。
私は、その店の、窓の明かりを、しばらく、見ていた。
それから、私は、ふと、自分の、コートの、ポケットに、手を入れた。
そこに、片方だけの、手袋が、あった。
佐和子の、手袋だった。彼女が、死んだ、あの夜、私が、病院で、握りしめていた、彼女の、片方だけの手袋。もう片方は、どこにも、なかった。事故の、現場で、なくしたのか、あるいは、最初から、片方しか、なかったのか。私は、その、片方だけの手袋を、二年間、コートのポケットに、入れて、持ち歩いていた。
私は、それを、取り出して、見た。
毛糸の、白い手袋。少し、毛羽立っていた。指先のところが、ほんの少し、ほつれていた。彼女の、手の、かたち。
私は、その手袋を、しばらく、見つめてから──そっと、古書店の、入り口の、暖簾の前に、置いた。
なぜ、そうしたのか、自分でも、分からない。ただ、もう、それを、持ち歩く必要は、ないのだ、という気が、した。彼女は、もう、寒くない場所に、いる。あの子と、一緒に。星が、海をわたるのを、見に、行ったのだから。
私は、暖簾の前に、片方だけの手袋を、置いて、立ち上がった。
そして、丘を、下りていった。
うしろを、振り返ると、もう、店の明かりは、消えていた。暖簾も、なかった。ただ、暗い、空き地が、あるだけだった。そして、その空き地の、隅に、白いものが、ぽつんと、見えた。片方だけの、手袋。それだけが、夜のなかに、置き去りに、されていた。
いや──と、私は思った。
置き去りに、されたのは、私のほうかもしれない。
十一
その後のことを、少しだけ、書いておきたい。
私は、その局を、翌年の春に、辞めた。理由は、いくつか、あった。局の、経営が、傾いていたこと。深夜放送の、時代が、終わりかけていたこと。けれど、いちばんの理由は、私自身が、もう、夜の、いちばん深いところに、留まりつづける必要を、感じなくなったこと、だった。
私は、別の街へ、移った。そこで、小さなレコード店を、開いた。古い、レコードばかりを、扱う店だった。客は、あまり、来なかった。けれど、それで、よかった。私は、一日じゅう、古いレコードを、聴いて、過ごした。終戦の年の流行歌。古い童謡。誰が作ったのかも分からない、子守唄。
ときどき、私は、思い出す。あの、十三番目の周波数のことを。
あれは、本当に、あったことなのだろうか、と、いまでは、思うことも、ある。疲れていたのだ。妻を、失って、子を、知らずに、失って、私は、夜の、いちばん深いところで、幻を、聞いていただけなのかもしれない。死んだ人々からの、リクエストなど、あるはずが、ない。砂嵐のなかに、人の声を、聞いただけ。脳が、無秩序のなかに、意味を、見つけようとしただけ。
そう、思おうとした。
けれど、思いきれなかった。
なぜなら、私は、いまでも、覚えているからだ。あの、佐和子の声の、背後に、聞こえた、しんしんとした、雪の音を。あの、固有のノイズを。あれは、私が、想像で、作り出せるような、音では、なかった。あれは、彼女が、最後に、聞いた、本物の、雪の音だった。
それに──と、私は思う。
たとえ、あれが、幻だったとしても。
私は、あの夜、たしかに、誰もいないスタジオで、子守唄を、歌った。生まれてこなかった、私の子のために。そして、その歌は、たしかに、どこか、私には見えない場所で、ちいさな、満ち足りた声に、なって、返ってきた。
「ありがとう、パパ。もう、ねむれる」
あれが、幻だったとしても。
私は、あの言葉を、聞いた。この、耳で。
それで、十分だった。
私の、店には、ときどき、奇妙な客が、来る。閉店間際の、いちばん遅い時間に、ふらりと、入ってくる。たいてい、年配の、ひとり客だ。彼らは、棚を、しばらく、眺めて、それから、私に、訊く。
「ある曲を、探しているんですが」
「どんな曲でしょう」と、私は、訊き返す。
すると、彼らは、たいてい、こう言うのだ。
「終戦の年の、『リンゴの唄』を」とか、「子供が、好きだった、童謡を」とか、「女房が、よく口ずさんでいた、歌謡曲を」とか。
そして、私は、思う。ああ、この人も、誰かのために、最後の便りを、送ろうとしているのだな、と。生きている、誰かのために。あるいは──もう、死んでしまった、誰かのために。
私は、その曲を、探して、かけてやる。
針を、落とすと、古い録音特有の、ざらついた、けれど、あたたかい音が、店に、流れる。客は、目を閉じて、それを、聴く。そして、曲が、終わると、彼らは、たいてい、こう言って、店を、出ていく。
「ありがとう。これで、安心して、眠れます」
私は、その背中を、見送りながら、思う。
私は、いまも、ミキサーなのだ、と。死者と、生者の、あいだに、立つ、ミキサー。声を、いちばん、優しい場所に、置いてやるのが、私の、仕事。それは、あの、夜勤の局を、辞めても、変わらなかった。たぶん、私は、死ぬまで、それを、やめないのだろう。
十二
最後に、もう一度だけ、あの、子守唄のことを、書いておこう。
眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。
眠れ、眠れ、波が空に還るまで。
私は、いまでも、夜、眠れないとき、それを、口ずさむ。佐和子の声を、思い出しながら。生まれてこなかった、私の子の、声を、思い出しながら。下手な、私の声で。
そして、私は、ときどき、思うのだ。あの歌の、「星」とは、あの、蒼白い尾を引く、彗星のことだったのではないか、と。長く、忘れられていた、けれど、また、巡ってくる星。何十年に、一度だけ、夜空を、横切る星。
あの星が、ふたたび、この空に、巡ってくるとき。
私は、もう、生きていないかもしれない。
けれど、そのときには、私も、彼女たちと、同じ場所に、いるのだろう。そして、私たちは、三人で、手を、つないで、見るのだ。あの、蒼白い星が、夜の海を、ゆっくりと、わたっていくのを。
眠れ、眠れ。
星が、海を、わたるまで。
そのとき、はじめて、私は、佐和子の、最後の言葉を、彼女の口から、じかに、聞くのだろう。声に、なった言葉として。けれど、もう、その必要は、ないのかもしれない。なぜなら、私は、もう、それを、知っているのだから。あの、雪の夜に、声に、ならなかった言葉を。あの、十三番目の周波数の、砂嵐の、向こうから、届いた、ひとすじの声を。
私たちは、結局、いちばん大切な言葉を、声に、しないまま、別れていく。
けれど、それは、届いている。
きっと、どこか、私たちには、見えない場所で、子守唄のように、染みこんでいく。
放してしまった声は、もう、二度と、戻らない、と、私は、かつて、思っていた。
けれど、いまは、こう思う。声は、戻らない。けれど、消えも、しない。それは、夜の、いちばん深いところを、いつまでも、旅しつづけている。あの、彗星のように。長く、忘れられても、いつか、また、巡ってくる。
聞こえますか、と、いまも、誰かが、呼んでいる。
砂嵐の、向こうから。
リクエスト、いいですか、と。
そして、私は、いつでも、答えるだろう。
いいよ、と。何でも、かけるよ、と。
──眠れ、眠れ。あなたも、もう、眠っていいのよ。