うるう日の恋人
うるう日の朝は、いつも雨上がりの匂いがする。
四年に一度しかめぐってこない日を、私は朝の光のなかで数えるようにして起きる。二月二十九日。カレンダーの末端に、忘れられたようにぽつんと置かれた一日。世界のほとんどの人にとっては、ただの平日にすぎないその日が、私にとっては一年でいちばん長く、そしていちばん短い日になる。
目覚まし時計を止める前に、私はいつも窓を細く開ける。三十階の角部屋。眼下に都心の交差点が、まだ薄暗いなかでゆっくりと血のめぐるように動きはじめている。信号が青に変わり、傘もささない人たちが横断歩道を渡っていく。誰もが、きょうがただの平日だと思っている。月の末尾にひっそりと足された、一日ぶんの余り。湿った空気が頬を撫でていく。雨は降っていないのに、どこかで降ったような匂いがするのは、たぶん私の記憶のせいだ。彼と最初に会ったうるう日も、こんなふうに雨上がりの匂いがしていた。
時間というものを、私はずっと、まっすぐな一本の道のように思っていた。生まれたところから死ぬところまで、ただ前へ前へと続いていく一本道。けれど彼に出会ってから、私の時間はそうではなくなった。私の時間は、四年ごとに結び目のある縄のようになった。三百六十五日が三回、それから三百六十六日が一回。その三百六十六日めの、いちばん端の一日に、私の人生のほんとうの目盛りがある。あいだの四年は、長い助走のようなものだ。次の一日へ向けて、私はただ、息を整えながら走りつづけている。
ベッドの脇の引き出しを開ける。奥のほうに、小さな深い藍色の箱がひとつ。三日月の刻印が、銀の糸のように浮かんでいる。月光堂のマッチ箱。中身はもう半分も残っていないけれど、私はそれを捨てられずにいる。手のひらにのせると、四年ぶんの重さがそこにあるような気がする。箱を耳もとで軽く振ると、残った軸木が、からからと乾いた音を立てる。その音を、私はこの四年のあいだ、何度聞いたかわからない。眠れない夜に、台所の暗がりで、あるいは出張先のホテルの、見知らぬ天井の下で。からから、からから。それは私にとって、世界でいちばんさびしくて、いちばん優しい音だ。
きょう、私は彼に会う。
四年ぶりに、彼に会う。
四年前の二月二十九日、私は会社を辞めようとしていた。
正確に言えば、辞めようとしていたのか、辞めさせられようとしていたのか、自分でもよくわからなかった。三十二歳の冬で、五年つきあった人と別れた直後で、担当していたプロジェクトが上司の判断ひとつで宙に浮いて、私の名前だけが責任の所在として残っていた。理不尽というほどはっきりした形を持たない、けれど確実に人をすり減らしていく種類の状況だった。
その夜、私はオフィス街のはずれにある小さなバーにいた。会社の人間が誰も来ない店、というだけの理由で選んだ場所だった。看板も出ていない、雑居ビルの地下の、五席ほどしかないカウンターだけの店。古いジャズが、音量をしぼって流れていた。マスターは無口で、注文以外のことはなにも聞かなかった。私はそういう店が必要だった。誰にも、なにも、聞かれたくなかった。
カウンターの隅で、私は二杯目のウイスキーを舐めるように飲んでいた。酔いたかったのに、酔えなかった。頭のどこかが醒めていて、その醒めた部分が、自分の人生をどこか他人事のように眺めていた。三十二歳。あと数年で、人生のいちばんいい時期は終わってしまうのだという、根拠のない焦りばかりが胸にあった。別れた人のことを思い出していた。最後に交わした言葉は、ひどく事務的なものだった。鍵をどちらが返すか。共同で買った家電を、どう分けるか。五年という歳月の終わりが、引っ越しの手続きのように片づけられていくのが、あのときはただ悲しかった。
「火、お借りできますか」
声がしたのは、そのときだった。
顔をあげると、隣の席に男の人が座っていた。いつ来たのか、まったく気づかなかった。三十代の半ばくらい。仕立てのいいコートを椅子の背にかけて、手元には火のついていない煙草が一本。私はライターを持っていなかった。煙草を吸わないから。けれど、なぜか私はカウンターの上に置かれていた小さな箱に手をのばしていた。誰かが置き忘れたのか、それとも店のものなのか、深い藍色のマッチ箱だった。
「これ、どうぞ」
箱を開けて、マッチを一本すった。ちいさな火が立ちあがって、彼の煙草の先を赤くした。火明かりのなかで、彼の目がこちらを見た。疲れているのに、その疲れを律儀に隠そうとしている目だった。私は自分の目もきっと同じように見えるだろうと思った。
「ありがとう」と彼は言った。「妙な火ですね。なんだか、青い」
たしかに、そのマッチの炎は、ふつうより少し青みを帯びていた。硫黄の匂いのなかに、かすかに潮の香りが混じっているような気がした。気のせいだったのかもしれない。
「店のものじゃないみたいです」と私は箱を裏返した。三日月の刻印の下に、小さく「月光堂」と読めた。「誰かの忘れ物かな」
「月光堂」と彼は繰り返した。「聞いたことがあるな。彗星の見える夜にだけ出る古本屋だとか。朝には消えているって。──まあ、ただの噂ですが」
私は笑った。その夜、はじめて笑った気がした。
それから私たちは、どちらからともなく話しはじめた。彼は名前を名乗らなかったし、私も名乗らなかった。たぶん、名乗らないことが、その夜には正しいことのように思えたのだ。お互いの仕事のことも、家のことも、年齢すらも、ほとんど話さなかった。話したのは、もっと取るに足らないことばかりだった。子どものころに飼っていた金魚の名前。雨の日にだけ通りたくなる道。海辺の町で過ごした、ある夏のこと。観覧車のいちばん高いところで、世界が止まったように見えた瞬間のこと。眠れない夜に思い出す、母が歌っていた古い子守唄の一節。
名前を知らない相手にだけ、人はほんとうのことを話せるのかもしれない、と私はそのとき思った。利害も、過去も、明日もない相手だからこそ、私は自分の柔らかいところを、ためらいなく差しだすことができた。彼の言葉も、おなじように飾りがなかった。私たちは、見知らぬ者どうしの、けれど奇妙にむきだしの会話を続けた。グラスが空になっても、私たちはそれに気づかないふりをした。この夜が終わってほしくない、とどちらもが思っているのが、言葉にしなくてもわかった。
「眠れ、眠れ、星が海をわたるまで──」と、彼は低い声で口ずさんだ。「うちの母も、そう歌っていました。なぜか、その先を覚えていない」
「私も同じです」と私は言った。本当だった。私の母も、その一節だけを歌って、いつも続きを歌わなかった。あるいは、続きがなかったのかもしれない。
気がつくと、店の窓の外が白みかけていた。私たちは一晩じゅう、そこに座っていた。なにも始めず、なにも約束せず、ただ言葉と沈黙を分け合っていた。沈黙さえも、彼とのあいだでは、不思議と気づまりではなかった。話すことが尽きると、私たちはしばらく黙って、おなじグラスの底を見つめていた。その沈黙のなかに、言葉よりも多くのものが流れているような気がした。けれど、その夜のなにかが、私のすり減った心の縁を、ほんの少しだけなめらかにしていた。辞めるかどうか、別れた人のこと、宙に浮いた私の名前──そういうものが、まだそこにあるのに、急にそれほど致命的ではないように思えた。
人は、誰かにまるごと理解してもらおうとして、たいてい失敗する。けれど、ほんの一晩、見知らぬ誰かと心の柔らかいところで触れあうだけで、人はまた、明日を生きていけるのかもしれない。あの夜、私はそれを知った。理解ではなく、ただ、束の間そばにいてくれること。それだけで、人は救われることがある。
「もう行かないと」と彼は言った。コートを羽織りながら、彼はふと、カウンターのマッチ箱を見た。「これ、半分こにしませんか」
「半分こ?」
彼はマッチ箱を開けて、中身を半分ほど自分の掌に移し、残りを箱ごと私のほうへ押した。
「四年後の、おなじ日に」と彼は言った。「うるう日に。もしまた、おたがいこの箱を持っていたら、ここで会いましょう。同じ時間に。──ばかげた約束だと思いますか」
私は箱を見た。三日月の刻印が、夜明けの光のなかで鈍く光っていた。
「いいえ」と私は言った。「いいえ、ぜんぜん」
彼は微笑んで、店を出ていった。私はマッチ箱を握りしめて、しばらくそこに座っていた。彼の名前も、連絡先も、知らなかった。SNSも、電話番号も、何ひとつ交換しなかった。それなのに、私は確信していた。四年後、私はここに来る。そして、たぶん、彼も来る。
理由は、いまでもうまく説明できない。
最初の四年間は、長かった。
私は会社を辞めなかった。あの夜のあと、なぜか辞める気が失せていた。宙に浮いた私の名前は、半年ほどして、別のもっと大きな問題のなかに埋もれていった。世界はそういうふうにできている。致命的に思えたものが、時間のなかでただの一行に縮んでいく。私は新しいプロジェクトを任され、それは前のものより少しましだった。
その四年のあいだ、私はときどき、あの夜のことを思い出した。とくに眠れない夜に。引き出しの奥のマッチ箱を取りだして、手のひらにのせて、三日月の刻印を指でなぞった。あれは本当にあったことなのだろうか、と何度も思った。名前も知らない男と、一晩じゅう、なにを話したのだったか。覚えているのは断片だけだった。金魚の名前。雨の日の道。続きのない子守唄。青いマッチの炎。
仕事は、少しずつ私を作りかえていった。新しいプロジェクトでは、私はそれまでより少し強くなった。会議で意見を通すこともできるようになった。後輩が私を頼るようになった。週末には、ひとりで美術館に行ったり、川沿いを長く歩いたりした。表向き、私の人生は、まっとうに前へ進んでいた。誰が見ても、立ち直った女の、健やかな日々だった。
けれど、私のいちばん深いところには、いつもあの夜の灯りがともっていた。それは、誰にも見せない、私だけの部屋だった。その部屋には、名前を知らない男がひとり座っていて、青いマッチの火を見つめている。私は日々のあいだに、ときどきその部屋の扉を開けて、彼がまだそこにいることを確かめた。いる。彼は、まだそこにいる。それだけで、私はなぜか、安心した。
私はその四年のあいだに、一度だけ、別の人とつきあった。やさしい人だった。私を大切にしてくれた。記念日を覚えていて、私の好きな花を、理由もなく買ってきてくれるような人だった。結婚の話も出た。両親に会わせる段取りまで、半分は進んでいた。けれど、二月が近づくたびに、私のなかでなにかがそわそわと身じろぎした。そして、その人は気づいてしまった。私が、どこか遠くを見ていることに。
「きみは、たまにここにいないみたいだ」とその人は言った。怒ってはいなかった。ただ、悲しそうだった。「いっしょにいても、きみの一部が、いつもどこか遠くに行っている。それがどこなのか、ぼくには聞けない。聞いても、きみは教えてくれないだろう。──いつか、ちゃんと、ここにいてくれる人を探すよ」
私はなにも言えなかった。彼の言うとおりだったからだ。私は、ここにいなかった。私のいちばん大切な部分は、四年に一度しか開かない、あの店の扉の向こうにあった。やさしいその人に、私はそれを差しだすことができなかった。差しださずにいることが、私にとってはどうしても必要だった。それがどれほど身勝手なことか、わかっていながら。
私たちは別れた。私のせいだった。名前も知らない男との、ばかげた約束のせいだった。そんなものは、たぶん相手はもう覚えてもいないだろうに。別れた夜、私は泣いた。やさしいその人を傷つけたことが、ほんとうに申し訳なかった。けれど、心のどこかで、私はほっとしてもいた。これで、私はまた、ひとりであの店に行ける。その安堵が、私はいちばん許せなかった。
それでも、私はマッチ箱を捨てなかった。
二度目のうるう日、私はあの店に行った。
胸が痛いほど高鳴っていた。来ないかもしれない、と何度も自分に言い聞かせた。あんなのは、酔った夜の戯れにすぎなかったのだ、と。けれど、店の扉を押したとき、彼はそこにいた。
四年前と同じカウンターの隅に、四年ぶんだけ歳をとった彼が座っていた。私を見て、彼は驚いたような、それでいて、どこかほっとしたような顔をした。彼のコートのポケットから、深い藍色のマッチ箱がのぞいていた。
「来てくれたんですね」と彼は言った。
「あなたも」と私は言った。
その夜、私たちはまた一晩じゅう話した。四年ぶんの話があった。彼の四年と、私の四年。彼は転職をしていた。前の会社で、自分の信じたことを通そうとして、結局、居場所を失ったのだと、彼は淡々と話した。私はプロジェクトのことを話した。後輩を持ったこと。少しだけ強くなったこと。彼の父親が亡くなったことを聞いた。最後まで、わかりあえない父親だったと、彼は窓の外を見ながら言った。「父が死んで、はじめて、父のことを考えるようになりました。生きているうちは、考えないようにしていたのに」。私が一度誰かとつきあって別れたことも話した。私のせいで別れたのだと、正直に話した。彼は静かに聞いていた。咎めもせず、慰めもせず、ただ、聞いていた。
「あなたのせいだと、思わなくていいんじゃないですか」と、ずいぶんあとで、彼はぽつりと言った。「人は、自分の手のなかにあるものより、手の届かないもののほうを、大切にしてしまうことがある。それは、罪ではないと思う。──ただ、かなしいことだとは、思いますが」
私は彼の横顔を見た。その言葉が、私のことを言っているのか、彼自身のことを言っているのか、わからなかった。たぶん、両方だったのだろう。
そして、その夜、私たちはようやく、おたがいの名前を知った。
彼の名前は深瀬透(ふかせとおる)といった。私は自分の名前を言った。それだけのことが、なぜか四年ぶんの重さを持っていた。
「どうして、最初の夜、名前を言わなかったんですか」と私は聞いた。
「言ったら」と彼は少し笑った。「会えなくなる気がしたんです。──連絡先を交換していたら、たぶん、最初の何ヶ月かは連絡を取り合って、それからだんだん間遠になって、いつのまにか消えていた。そういうのを、何度も見てきたから」
私にはわかる気がした。日常のなかに置かれた関係は、日常の重さで磨り減っていく。けれど、四年に一度しか会わない関係は、磨り減らない。会わない時間が、かえってそれを澄ませていく。
「ずるいですね」と私は言った。「いちばん都合のいいときだけ会って」
「ずるいです」と彼は認めた。「でも、ぼくは、四年に一度、この日にあなたに会うことだけを、本気で待っているんです。これは、ぼくの人生のなかで、たぶん、いちばん本気のことなんです」
私はなにも言えなかった。窓の外で、夜明けが近づいていた。
別れぎわ、彼はまた言った。「四年後に」と。
「四年後に」と私も言った。
その日から、私の人生は、四年を一単位として刻まれるようになった。
ふつうの人は一年を単位にして生きている。誕生日、正月、季節のめぐり。けれど私は、二月二十九日から次の二月二十九日までの四年間を、ひとつの長い章のように生きるようになった。会わない四年間にも、人生はちゃんとあった。むしろ、四年間のほうにこそ、人生の大半があった。
三度目のうるう日までの四年で、私は部署を異動になり、はじめて部下を持った。仕事を覚えるのは早かったけれど、人を育てるのは下手だった。自分にできることが、なぜ相手にはできないのか、私には長いあいだわからなかった。ひとり、私のもとで潰れかけた子がいて、その子が休職する前の日、私のところに来て、「課長は、私のことを、人間だと思っていましたか」と聞いた。私はなにも答えられなかった。私はそのとき初めて、自分が誰かにとっての「理不尽な上司」になりうるのだと知った。四年前、私を磨り減らした上司も、もしかしたら悪意があったわけではなかったのかもしれない、と思った。ただ、相手の柔らかいところが見えていなかっただけなのかもしれない。そう思えるようになったのは、私が歳をとったからだ。歳をとるというのは、自分が誰かを傷つけてきたことに、少しずつ気づいていくことなのかもしれない。
その子は、結局、会社を辞めた。辞める前の最後の日、私は廊下で呼びとめて、「ごめんなさい」と言った。たったそれだけのことを言うのに、私は何週間もかかった。その子は少し驚いた顔をして、それから、小さく頭をさげて、去っていった。私はそのうしろ姿を見送りながら、深瀬透のことを思った。彼ならどうしただろう、と。会わない四年のあいだも、私はいつのまにか、彼を心の物差しにするようになっていた。
その四年で、私の母が病気になった。大きな病気ではなかったけれど、退院してからの母は、少し小さくなった。実家に帰る回数が増えた。ある夜、母の寝室から、あの子守唄が聞こえてきた。「眠れ、眠れ、星が海をわたるまで」。私は廊下で立ちどまって、続きを待った。けれど、母はやっぱり、その先を歌わなかった。
「お母さん」と私は部屋に入って聞いた。「あの子守唄、続きはないの?」
母は布団のなかで、少し笑った。「さあ。私もね、自分の母から、その一節だけしか聞かなかったの。続きはなかったのか、忘れたのか、わからない。でも、海をわたったあと、星がどこへ行くのか──それは、自分で決めていいんじゃないかしらね」
私はその言葉を、長いあいだ忘れなかった。
深瀬透のことを、私は誰にも話さなかった。話せなかった。四年に一度しか会わない男のことを、どう説明すればいいのだろう。恋人とも呼べない。友人とも違う。私たちは手を握ったこともなければ、口づけを交わしたこともなかった。それなのに、私の人生のもっとも深い場所に、彼は静かに住んでいた。世の中のどんな関係の名前も、私たちには当てはまらなかった。あるいは、名前のない関係だからこそ、それは磨り減らずにすんだのかもしれない。
会わない四年のあいだも、私はときどき彼に話しかけた。今日こんなことがあったよ、と。電車のなかで、雨の窓を見ながら。仕事の帰り、橋の上で、川面に映る街の灯りを見ながら。彼には届かない言葉を、私は心のなかで積みあげていった。手紙にして送ることもできない。電話をかけることもできない。ただ、心のなかの引き出しに、言葉を一枚ずつしまっていく。そして四年に一度、その積みあげた言葉を、一晩で彼に渡すのだ。
おかしなことに、その四年は、ちっとも空っぽではなかった。むしろ、彼を待つということが、私の四年を、密度のあるものにしていた。毎日のなかで起こる小さなこと──きれいな夕焼け、おいしいコーヒー、誰かの優しさ、理不尽な悲しみ──そのひとつひとつを、私は「いつか彼に話すこと」として、丁寧に拾いあげるようになった。待つということは、ただ受け身に時間をやりすごすことではなかった。待つことで、私はかえって、自分の人生を、一日も無駄にすまいとするようになった。彼に話せるような毎日を生きたい。その思いが、私を、少しずつ、ましな人間にしていった気がする。
三度目のうるう日、彼は来なかった。
私は店で、一晩じゅう待った。扉が開くたびに顔をあげた。けれど、来たのは知らない客ばかりだった。閉店間際、マスターが申し訳なさそうに「そろそろ」と言った。私はマッチ箱を握りしめて、店を出た。
雪が降っていた。
私は信じられなかった。来ないなんて。約束を破るような人ではなかった。なにかあったのだ、と思った。事故か、病気か、あるいは──もう、私のことなど、どうでもよくなったのか。連絡先を知らないということが、はじめて呪いのように思えた。私には、彼を探すすべがなにもなかった。深瀬透という名前だけ。それも、本名かどうかすら、私は確かめていなかった。
その夜、私は雪の街を、あてもなく歩いた。涙は出なかった。涙が出るほど、私は彼のことを「知って」いなかった。四年に一度、一晩。それが私たちのすべてだった。私が知っているのは、彼の人生のほんの薄片だけだった。それなのに、なぜこんなに胸が痛むのか。
歩いているうちに、見覚えのない路地に入りこんだ。古い建物のあいだの、細い道。その奥に、ぽつんと灯りがともっていた。小さな看板に「月光書房」とあった。
私は足を止めた。彗星の見える夜にだけ出る古本屋。朝には消えている──いつか、彼がそう言った店。私は半ば夢のような心地で、その扉を押した。
なかは、本の匂いで満ちていた。古い紙とインクと、かすかな潮の香り。狭い店内に、天井まで本棚が並んでいた。レジのところに、ひどく年老いた店主が座っていて、私が入ってもほとんど顔をあげなかった。
「探し物ですか」と店主は言った。
「いいえ」と私は言った。「いいえ、なんとなく」
私は棚のあいだを歩いた。本の背表紙を眺めながら、なぜここに入ってきたのか、自分でもわからなかった。ただ、彼のことを誰かに話したかった。誰でもいいから。けれど私は、それを話す相手すら持っていなかった。
棚のいちばん奥、いちばん低いところに、一冊の古い本があった。背表紙に題字はなく、ただ三日月の箔押しがあるだけだった。私は手に取った。ページを開くと、それは詩集だった。ところどころ、誰かの手で、鉛筆の薄い書きこみがあった。
そして、あるページに、私は子守唄の一節を見つけた。
「眠れ、眠れ、星が海をわたるまで」
私は息を止めた。その下に、続きがあった。
「眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。
わたり終えても、星は消えない。
ただ、見えなくなるだけ。
また巡る日を、海の向こうで待っている」
私は、その本を抱きしめた。なぜか、涙が出た。さっきまで出なかった涙が、ようやく出た。星は消えない。ただ、見えなくなるだけ。彼は来なかった。けれど、消えたわけではないのかもしれない。海の向こうで、また巡る日を待っているのかもしれない。そう思いたかった。それは弱さだったかもしれないけれど、私はそう思いたかった。
ページの余白には、ほかにもいくつか、鉛筆の書きこみがあった。ずいぶん古いものらしく、字は薄れて、半分は読めなかった。けれど、ひとつだけ、はっきり読める一行があった。「待つ人がいるあいだは、その人は、まだ生きている」。誰が書いたのだろう。この本を、私の前に手にした、見知らぬ誰か。その人も、誰かを待っていたのだろうか。あるいは、誰かに待たれていたのだろうか。本というのは、こうして、見知らぬ者たちの祈りを、何十年も静かに運んでいくものなのかもしれない。
「その本、お買いになりますか」と店主が言った。
「はい」と私は言った。
店主は本を紙に包みながら、ふと言った。「四年は、長いようで短い。短いようで長い。──待つということは、なにかを失うことではありませんよ。むしろ、待っているあいだに、人はいちばん深いものを育てる」
私は店主の顔を見た。その目は、ずいぶん遠くを見ているようだった。
「彼は」と私は思わず言った。「私の待っている人は、来なかったんです」
「今日はね」と店主は言った。「今日は、来なかった。それだけのことです」
私はその本を抱えて、店を出た。外はまだ雪が降っていた。振り返ると、もう「月光書房」の灯りは消えていた。建物の壁があるだけで、扉も、看板も、なかった。私は夢を見たのだろうか。けれど、私の腕のなかには、たしかに本があった。
四度目のうるう日までの四年は、いちばん苦しかった。
私は彼が来なかった理由を知らないまま、四年を生きなければならなかった。その四年のあいだ、私は何度も、もう終わりにしようと思った。来ない人を待つのは、馬鹿げている。マッチ箱を捨ててしまえば、それで終わる。私は何度もマッチ箱を手に取って、ゴミ箱の上にかざした。けれど、捨てられなかった。
その四年で、母が亡くなった。
最後の数ヶ月、私はほとんど病院で過ごした。母は痩せて、小さくなって、けれど最後まで穏やかだった。窓辺のベッドで、母はよく外を見ていた。なにを見ているのか、私にはわからなかった。あるとき聞いてみると、母は「雲を見ているの」と言った。「雲はね、どこにも行こうとしないのに、いつのまにか、遠くへ行ってしまう。私もそろそろ、そんなふうになるのね」。私は母の手を握った。その手は、子どものころに繋いだときと、おなじ匂いがした。
ある夜、私は母の手を握りながら、はじめて深瀬透のことを話した。眠っているのか起きているのか、わからない母に。四年に一度しか会わない人がいること。私たちは名前を交換するのに、四年もかかったこと。三度目に、その人が来なかったこと。私はたぶん、まだその人を待っていること。話しているうちに、私は泣いていた。誰にも言えなかったことを、もう聞いていないかもしれない母にだけ、私は打ち明けていた。
母は目を閉じたまま、かすかに笑ったように見えた。そして、ほとんど聞き取れないほどの声で、あの子守唄を歌いはじめた。「眠れ、眠れ、星が海をわたるまで」。私は続きを歌った。月光書房で見つけた、あの続きを。「わたり終えても、星は消えない。ただ、見えなくなるだけ」。母の手が、私の手を、ほんの少し握り返した。
母が亡くなったのは、その三日後だった。
私は母の遺品を整理しながら、古い箱のなかから、一枚の写真を見つけた。若いころの母が、見覚えのある路地の前に立っていた。その奥に、小さな看板。読めないけれど、私には読めた。「月光書房」。写真の裏に、母の字で、日付が書いてあった。それは、ずっと昔の、二月二十九日だった。
私は写真を握りしめて、長いあいだ動けなかった。
母も、あの店に行ったことがあるのだ。母も、誰かを待っていたのだろうか。あの続きのない子守唄を、母はどこで知ったのだろう。私は母に聞きたいことが、急に山ほどできた。けれど、母はもういなかった。海をわたってしまった。ただ、見えなくなっただけだと、私は信じることにした。
そして、四度目のうるう日が来た。
それが、きょうだ。
私は引き出しのマッチ箱を、コートのポケットに入れる。もう中身は、数本しか残っていない。鏡を見る。四度目のうるう日を迎える私の顔には、最初の夜にはなかった皺が、いくつか刻まれている。四十歳。あの夜から、十二年が経った。十二年のうち、彼と過ごしたのは、たった二晩だ。
それでも、私は行く。
たとえ、また来なかったとしても。私は最後にもう一度、あの店の扉を押すと決めていた。これで最後にしよう、と思っていた。来なければ、私はマッチ箱を捨てる。そして、彼のいない人生を、彼を待たない人生を、生きはじめる。それが正しいことだと、頭ではわかっていた。
地下鉄を降りて、オフィス街のはずれへ歩く。十二年前と、街はずいぶん変わっていた。あのバーがまだあるのかどうか、私は確信が持てなかった。前のうるう日のあと、私は一度もその界隈に来なかった。来るのが怖かったのだ。
角を曲がると、店はそこにあった。
少し古びて、看板の文字がかすれていたけれど、たしかにあの店だった。私は深く息を吸った。手が震えていた。四十歳にもなって、と自分を笑いながら、それでも私は、扉を押した。
彼は、いた。
四年前と、いや、十二年前と同じ、カウンターの隅に。けれど、その姿は記憶よりずっと痩せていて、髪には白いものが増えていた。私を見て、彼は立ちあがろうとして、よろめいた。私は思わず駆け寄った。
「来てくれたんですね」と彼は言った。声がかすれていた。
「あなたも」と私は言った。けれど、その先が続かなかった。彼の様子が、ただごとではなかったからだ。
私たちは並んで座った。彼はゆっくりと、四年前──いや、三度目のうるう日のことを話しはじめた。
「あのとき」と彼は言った。「来られなかったんです。前の日に、倒れて。病気が見つかって。──気がついたら、病院のベッドの上で、うるう日が過ぎていた」
私は彼の顔を見た。
「目が覚めて、いちばんに思ったのが、あなたのことでした」と彼は言った。「あなたが、あの店で待っているんじゃないかと。来ないぼくを、待っているんじゃないかと。それが──申し訳なくて。何度、連絡を取ろうと思ったか。でも、ぼくたちは、連絡先を知らない。最初に、ぼくがそう決めたから」
「ばかですね」と私は言った。涙がにじんでいた。「本当に、ばかです」
「ばかです」と彼は言った。「この四年、ずっと、考えていました。次のうるう日に、あなたが来てくれるかどうか。来ないかもしれない。来ないのが当然だと思いました。ぼくは約束を破ったんだから。──だから、もし来てくれたら、今度こそ、ちゃんと言おうと思っていた」
「なにを」
彼は私の手を取った。その手は、記憶よりずっと細く、そして温かかった。
「ぼくの病気は、あまり良くないんです」と彼は静かに言った。「次のうるう日まで、たぶん、ぼくは生きていない。──だから、これが、最後です。四年に一度の、ぼくたちの会う日は、たぶん、これで終わりです」
私は、なにも言えなかった。窓の外で、夜が深まっていた。
その夜、私たちは、これまでのどの夜より多くを話した。
四年ぶんではなく、十二年ぶんの、いや、おたがいの人生のぜんぶを、その一晩に注ぎこむように。彼は自分の病気のことを話し、私は母が亡くなったことを話した。彼は、会わない四年間も、ずっと私に話しかけていたのだと言った。私とおなじだった。届かない言葉を、おたがいに、四年ぶんずつ積みあげていた。私たちは離れた場所で、おなじことをしていた。おなじ星を、別々の窓から見あげるように。
「ぼくはね」と彼は言った。「あなたに話すために、毎日を生きていたんです。今日のこの空のことを、いつかあなたに話そう。今日のこの悔しさを、今日のこの小さな喜びを、いつかあなたに話そう。──そう思うと、どんな日も、無駄にできなかった。あなたは、ぼくの人生の、いちばんいい聞き手でした。会えないのに。声も聞けないのに」
私は涙をこらえた。私たちは、ほんとうに、おなじだったのだ。離れていたのに、いちばん深いところで繋がっていた。四年に一度の一晩のために、私たちはそれぞれの三百六十五日を、三度ずつ、丁寧に生きてきた。その膨大な時間のすべてが、いま、この最後の一晩に流れこんでいた。
「ひとつ、聞いていいですか」と私は言った。「どうして、ふつうに会おうとしなかったんですか。最初から、連絡先を交換して、ふつうにつきあえば──こんなふうに、後悔することも、なかったのに」
彼は長いあいだ黙っていた。それから、ぽつりと言った。
「怖かったんです」と。「ぼくは、人を大切にするのが下手で。近くにいると、磨り減らしてしまう。何度も、そうやって、大切な人を失ってきた。だから、いちばん大切だと思った人とは──いちばん遠くで、いちばん大切にしようと思った。四年に一度なら、磨り減らさない。汚さない。いちばんきれいなまま、保てると思った。──でも、それは、たぶん、ただの臆病だった。あなたのいる毎日から、ぼくが逃げていただけだった」
私は彼の肩に頭をあずけた。彼の体は痩せていて、けれど、たしかにそこにあった。
「もう、逃げないでください」と私は言った。「最後くらい」
「ええ」と彼は言った。「逃げません」
そのとき、店のマスターが、ふと窓の外を指さした。「お客さん、見て。彗星だ」
私たちは、店を出た。
冬の空気は澄んでいて、都会の灯りのなかでも、その星はくっきりと見えた。蒼白い、長い尾を引いた彗星が、ビルとビルのあいだの、わずかな夜空を、ゆっくりと横切っていた。
「ミラ彗星だ」と彼は言った。「ずいぶん前に、本で読んだことがある。──何十年に一度しか巡ってこない。長いあいだ忘れられていた星が、また帰ってくるんだそうです」
その尾は、夜の海をわたっていく光の航跡のようだった。眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。私は心のなかで、子守唄を歌った。わたり終えても、星は消えない。ただ、見えなくなるだけ。また巡る日を、海の向こうで待っている。
「きれいですね」と私は言った。
「きれいです」と彼は言った。
私たちは、しばらく黙って、その星を見ていた。彼の手が、私の手を握っていた。その手の温かさを、私は一生、忘れないだろうと思った。四年に一度、二晩。それが、私たちのすべてだった。けれど、私はもう、それを少ないとは思わなかった。星は、夜空を一度よぎるだけだ。けれど、その一度を見た者は、それを忘れない。
「ひとつ、頼みがあるんです」と彼は言った。彗星を見あげたまま。「ぼくのマッチ箱を、あなたが持っていてくれませんか。ふたつ揃えて。──ぼくの片割れを、あなたのところに」
彼は、コートのポケットから、深い藍色のマッチ箱を取りだした。十二年前、私たちが半分こにした、その片方。三日月の刻印が、彗星の光を受けて、青く光った。私は自分のポケットから、もう片方を取りだした。二つの箱が、私の掌のうえで、ようやく対になった。
「いいんですか」と私は聞いた。「あなたの分を」
「ぼくはもう、待たなくていいから」と彼は言った。「待つのは、これからは、あなただけだ。──でも、ひとりで待つわけじゃない。ぼくは、海の向こうにいる。見えなくなるだけです。消えはしない」
私は二つのマッチ箱を、強く握りしめた。
彼が亡くなったのは、その年の夏だった。
私はそれを、新聞の小さな訃報欄で知った。深瀬透。私の知らない肩書きと、私の知らない経歴が、短く記されていた。私の知っている彼は、そこにはいなかった。四年に一度、一晩だけ、私の前にあらわれた彼は、その短い文字のどこにもいなかった。けれど、それでよかった。私の知っている彼は、私だけのものだった。
葬儀には行かなかった。行く資格が、私にはなかった。私は彼の家族でも、恋人でも、友人でもなかった。私は、四年に一度、彼に会うだけの、名前のない存在だった。彼の人生のなかで、私は誰にも知られていなかった。彼が誰を愛し、誰に愛されて生きてきたのか、私はほとんど知らなかった。けれど、それでよかった。私が知らないところに、彼のほんとうの人生があった。私が会っていたのは、その人生のいちばん端の、四年に一度だけ顔を出す、彼のいちばん澄んだ部分だった。
その夜、私はひとりで、あの店に行った。マスターは、私の顔を覚えていた。なにも言わずに、ウイスキーを一杯、出してくれた。私が彼のことをなにも言わなくても、マスターには、わかっているようだった。十二年ものあいだ、四年に一度、おなじ席に並んで座っていた二人のことを、この無口な人は、ずっと見ていたのだ。
私は二つのマッチ箱を、カウンターのうえに並べた。三日月が、二つ。並べると、欠けていた月が、ようやくひとつになったように見えた。けれど、その月を照らす光は、もう、片方にしかなかった。
それから、また四年が経った。
きょうは、二月二十九日。うるう日だ。彼のいない、最初のうるう日。
私は朝、いつものように窓を細く開ける。雨上がりの匂いがする。雨は降っていないのに。私は引き出しから、二つのマッチ箱を取りだす。ひとつは私の、ひとつは彼の。中身は、もうほとんど残っていない。けれど、私はそれを、捨てない。
私は支度をして、あの店へ向かう。彼はもう、来ない。それは、わかっている。それでも、私は行く。うるう日に、あの店の扉を押す。それが、私が彼を待つ、ただひとつのやり方だから。待つことは、なにかを失うことではない。待っているあいだに、人は、いちばん深いものを育てる。いつか、月光書房の老店主が、そう言った。
店に着くと、カウンターの隅に座る。彼の座っていた席に。マスターは、なにも言わずに、ウイスキーを一杯、出してくれる。私はそれを、舐めるように飲む。十二年前、はじめて彼に会ったあの夜のように。
そして、私はマッチ箱を開けて、マッチを一本すった。
ちいさな火が立ちあがる。青みを帯びた炎が、私の指先を温める。硫黄の匂いのなかに、かすかに、潮の香りがする。気のせいかもしれない。けれど、その火明かりのなかに、私はたしかに、彼の顔を見る気がする。疲れているのに、その疲れを律儀に隠そうとしている、あの目を。
「火、お借りできますか」
そう聞こえた気がして、私は顔をあげる。隣の席は、空いている。けれど、私はそこに、たしかに彼を感じる。
私はマッチの火を、そっと吹き消す。煙が、細く立ちのぼって、消えていく。消えたわけではない。ただ、見えなくなるだけ。
窓の外を、見あげる。彗星は、もういない。あの夜、一度きり、私たちの空を横切って、海の向こうへわたっていった。けれど、私は知っている。また巡る日を、星は、海の向こうで待っている。私が彼を待つように。
四年に一度しか会えなくても、私はあなたを愛していた。会えない四年のほうが、ずっと長かったのに、その四年のすべてが、あなたを待つためにあった。待つことは、さびしいことだと、昔の私は思っていた。けれど、いまはちがう。待つことは、愛しつづけることだ。相手がそこにいなくても、なお、そこに心を向けつづけること。それは、いっしょにいるよりも、ずっと難しくて、ずっと深いことなのかもしれない。そして、これからの四年も、そのまた次の四年も、きっと、私は待ちつづける。それが、私に残された、たったひとつの愛しかただから。
マスターが、もう一杯どうですか、と目で聞いてくる。私は首をふって、微笑む。きょうのところは、これで足りる。彼の席のとなりで、彼の温度を思い出しながら、青いマッチを一本すって、それを吹き消す。それだけで、私のうるう日は満ちる。次のうるう日まで、私はまた、この記憶ひとつを抱いて、三年と少しを生きていける。
うるう日の朝は、いつも雨上がりの匂いがする。それは、誰かが、海の向こうで、私のことを思い出してくれている匂いなのだと、いまの私は、知っている。