止まった時計と弟子
一
油の匂いというものは、覚えようとして覚えるものではない。気がつくと、もう手の甲にも、襟元にも、夜眠るときの枕にも染みついている。
俊一がこの店に来て八度目の冬が来たとき、師匠の正吉の目はもう、文字盤の数字を読むことができなくなっていた。
「俊一、いま何時だ」
正吉は作業台の前に背を丸めて座ったまま、そう言った。すぐ後ろの柱には、店じゅうの時計が鳴る前に、いちばん律儀に時を刻む古い掛時計があったのだが、その針を正吉はもう見ていない。見ても、ぼんやりとした白い円盤に、灰色のもやがかかっているだけなのだという。
「四時二十分です」
「そうか。じき暗くなるな」
暗くなる、と正吉は言った。けれど店の奥の正吉には、明るいも暗いもなかった。窓から斜めに差していた西日が、いつしか青い夕闇に変わっていくのを、俊一はガラス越しに見ていた。商店街の他の店が、ぽつぽつと軒の灯りを点けはじめる。豆腐屋のラッパが遠くで鳴った。
「灯りを点けますか」
「ああ。おまえのためにな」
師匠はそう言って、低く笑った。自分にはもう要らない、という意味を、俊一はこの頃ようやく、責めるような気持ちなしに聞けるようになっていた。
俊一は、紐を引いて、天井の蛍光灯を点けた。じじ、と一拍ためらってから、青白い光が、店じゅうの時計の文字盤を、いっせいに浮かび上がらせた。真鍮の振り子が、その光を受けて、鈍く、金色に光った。正吉の白くなりかけた頭髪も、その下の、深く刻まれた首筋の皺も、同じ光のなかに、くっきりと現れた。けれど、その光は、もう正吉のためのものではなかった。光のなかにいて、光を知らない人の背中が、そこにあった。
「飯にするか」と正吉が言った。「今日のはなんだ」
「鯖の味噌煮の、缶詰です」
「ほう。豪勢だな」
正吉は、こういうとき、けっして俊一の手料理の貧しさを笑わなかった。豪勢だな、と言うときの声は、本当に、どこか嬉しそうだった。目が見えなくなってから、正吉の楽しみは、めっきり、匂いと、音と、味のほうへ移っていた。世界が、目から、ほかの感覚のなかへ、ゆっくりと引っ越していくようだった。
正吉時計店は、その商店街のいちばん端、八百屋と乾物屋にはさまれた間口の狭い店だった。ガラス戸には金文字で「時計修理」とあり、その金は永い時のあいだに半分はげて、「時 修」とだけ読めた。だから知らない人は、ときどき「ここは何の店ですか」と尋ねた。
中に入ると、まず音がした。
二十あまりの時計が、それぞれ勝手な速さで時を刻んでいる。秒針のひとつひとつは違う調子で歩いており、ときどき、申し合わせたように、いくつかの拍子が重なる。そしてまた、ばらばらに散っていく。その不揃いが、かえって店じゅうをひとつの大きな呼吸のようにしていた。
俊一は最初、この音に眠れなかった。住み込みの三畳間で、壁ひとつ隔てた店から、夜じゅうこの無数の刻みが沁みてくる。眠れ眠れと布団をかぶっても、耳のうしろで小さな歯が嚙み合う音が止まらない。
それが、いつからか聞こえなくなった。音がやんだのではない。音が、自分の体の内側に入ってしまったのだ。気づけば俊一は、自分の脈をこの店の時計たちと一緒に打っているような気がした。
慣れというのは、おそろしいものだと俊一は思う。来た頃、あれほど耳について離れなかったものが、いまは、止まったときにだけ気がつく。たとえば、停電。あるいは、年に一度の、まとめてのねじ巻きを忘れた朝。そういうとき、店は、ふいに、しんと静まりかえる。その静けさのほうが、俊一には、よほど耳障りだった。音のない店は、まるで、息をしていない人のようだった。だから俊一は、いちばん奥の、いちばん古い掛時計のねじだけは、何があっても切らさぬよう、毎週、決まった曜日に、巻いた。それは、店の心臓を、止めないための、ささやかな務めだった。
正吉の手は、店のどんな時計よりも正確だった。
ぜんまいを巻くとき、その指は、巻きすぎる一歩手前で、ふっと止まる。何回巻いたと数えているわけではない。指の腹が、ぜんまいの張りを聞いている。「もう一回いけそうだが、ここでやめておくのが情けというものだ」と、正吉はよく言った。情け。機械に情けをかける、という言い方を、俊一はこの人からしか聞いたことがない。
目が見えなくなりはじめてからも、その指はしばらくのあいだ、何も変わらなかった。むしろ研ぎ澄まされた。文字盤を見なくても、裏蓋を開ける手つきは迷わず、ピンセットの先がてんぷ──時計の心臓を細かく刻む、あの小さな振り子──を、まるで生き物の卵をつまむように、そっと持ち上げた。
「見えてるみたいですね」
俊一がそう言うと、正吉は手を止めずに答えた。
「見えてはおらん。覚えてるんだ。この指が、この大きさを覚えてる。目はな、ときどき噓をつくが、指は噓をつかん」
指は噓をつかん。
その言葉を、俊一は何度も、夜の布団のなかで反芻した。自分の指はまだ、何も覚えていなかった。覚えることが、こんなにも遅いものだとは思わなかった。
二
俊一が中学を出てこの店に来たのには、たいした理由はなかった。
父が早くに死に、母が内職で弟妹を育てていた。長男が一日でも早く稼ぎに出るのは、その家ではあたりまえのことだった。手に職を、とだけ母は言った。職人ならば、景気がどう転んでも食いはぐれない、というのが母の世代の信仰だった。
時計屋を選んだのは、母の遠縁にこの正吉がいたからにすぎない。俊一は別段、時計が好きだったわけではない。腕時計のひとつも持っていなかった。来た日、正吉は俊一の顔をじっと見て、それから手を見た。
「いい手だ」
それだけ言った。何がいいのか、俊一にはわからなかった。後になって、正吉が見ていたのは器用さではなく、指の長さでも厚みでもなく、ただ「働いていない手」だったのだと俊一は思っている。何の癖もついていない、まっさらな手。これから覚えさせれば、覚えただけのものになる手。
最初の三年、俊一はろくに時計を触らせてもらえなかった。掃除と、使いと、それから「待つこと」を仕込まれた。
待つこと、というのは、たとえばこういうことだ。
正吉が、ある婦人物の小さな腕時計を、丸三日のあいだ作業台の上に置いたまま、触りもせず眺めていた。俊一が「どこか悪いんですか」と尋ねると、正吉は「悪いところを探してる」と言った。それから、悪いところは触らずとも探せるのだと付け加えた。すぐに分解して、油をさして、組み直したくなる──それを我慢するのが、いちばん難しい。直したがる手は、たいてい余計なことをする。
「時計はな、たいてい、こっちが思ってるより、自分で治ろうとしてるもんだ。手を出しすぎると、その邪魔をする」
俊一はこの教えを、何年もたってから、ようやく身にしみて理解した。
四年目に、はじめて、自分の手で直した時計のことを、俊一はよく覚えている。
それは、小学校の教師だという女が持ち込んだ、ありふれた目覚まし時計だった。けたたましく鳴るはずのベルが、鳴らなくなった。たいした故障ではない。打鈴のハンマーを止めている小さなばねが、外れていただけだった。けれど、その小さなばねを、もとの位置に掛け直すのに、俊一は半日かかった。指が、震えた。ピンセットの先が、何度も、滑った。
ようやく直して、ねじを巻き、試しに鳴らしてみたとき──じりりりり、と、その安物のベルが、店じゅうに響きわたったとき、俊一の胸の奥で、何かが、温かく、はじけた。
正吉は、その音を聞いて、こう言った。
「鳴ったか」
「鳴りました」
「いい音だ」と正吉は言った。安物の目覚まし時計の、けたたましいベルを、正吉は、いい音だ、と言った。「直したやつの手が、いい手だと、機械はちゃんと、いい音で答える。──覚えとけ。機械は、嘘をつかん。誉めもせんが、けなしもせん。ただ、手のとおりに、鳴る」
俊一は、その日のことを、何度も思い出した。たいした故障ではなかった。小さなばね、一つ。けれど、あのとき胸ではじけた温かいものの正体を、俊一は、ずっとあとになって、知ることになる。それは、誰かの止まった時間を、もういちど、歩かせたということ──ただ、それだけのことだった。
三
その柱時計が店に来たのは、年が改まって、商店街にまだ松飾りが残っている頃だった。
寒い朝で、ガラス戸が凍ってなかなか開かなかった。ようやく開いたその戸口に、初老の男が、自分の背丈ほどもある細長いものを毛布にくるんで、抱きかかえるようにして立っていた。
「ごめんください。これを……これを、なんとか直していただけないかと」
毛布をほどくと、それは古い八角の柱時計だった。
俊一は思わず息を呑んだ。ずいぶん古い。文字盤はぼうふら一面に煤けて黄ばみ、ローマ数字の漆もところどころ剝げている。けれど、その八角の枠の飴色の艶、ガラスの厚み、振り子室の硝子に映る曇りぐあい──ひと目で、安物ではないとわかった。明治か、大正の初めか。
正吉は、男が文字盤を撫でる音、振り子室のガラスが鳴る音、毛布のこすれる音──そういうものを聞いて、すでにおおよそを察したらしかった。作業台から立たず、ただ「ここへ」と言った。
男は、振り子の止まった柱時計を、そっと作業台に横たえた。
「親父の代からのものでして」と男は言った。「いえ、もしかすると、その前から。私が物心ついたときには、もう茶の間の柱に掛かっておりました。──それが、去年、止まってしまいまして」
「止まったのは、いつごろです」
「秋の……ちょうど、家内が亡くなった、その晩でございました」
店のなかの、ばらばらの秒針たちが、ふいにいくつか、重なって鳴った。
「家内は、この時計の音で眠る人でした。嫁に来た日から、四十年。この音がないと眠れないと、よく申しておりました。それが、あれが息を引き取った晩に、ぴたりと。──まるで、連れて行ったみたいに」
男は、そこで言葉を切った。
「あちこちの店で、もう寿命だ、部品もない、直すより買ったほうが安い、と言われました。それはわかっております。新しいのを買えばいい。クォーツとかいう、電池で動く、狂わないやつ。倅もそう言います。──でも」
でも、のあとを、男は言わなかった。言わなくても、店じゅうの時計が、そのつづきを刻んでいた。
正吉は、しばらく黙っていた。それから、節くれだった指を伸ばし、見えない目で、柱時計の枠を、文字盤を、振り子室のガラスを、ゆっくりと撫でた。撫でながら、何かを聞いていた。
「……古いですな」と正吉は言った。「私より、ずっと古い」
「直りますでしょうか」
正吉は、すぐには答えなかった。指は、止まったままの振り子の、その付け根あたりを、いつまでも撫でていた。
四
男が帰ったあと、店には柱時計だけが残された。
正吉は、その晩はもう、時計に触らなかった。俊一が灯りを消そうとすると、「まだ点けておけ」と言った。見えもしないのに、と俊一は思いかけて、やめた。
「俊一。おまえ、あれを開けてみろ」
「俺がですか」
「俺の目はもう、なかが見えん。おまえの目で見て、おまえの口で、俺に教えろ」
俊一は、生唾を飲んだ。
これまで俊一が直してきたのは、せいぜいが目覚まし時計や、安物の腕時計だった。こんな古い柱時計の、しかも師匠でさえ「私より古い」と唸ったものを、自分の手で開けるなど、考えたこともなかった。
「……できません」
「できるかできんかを聞いてない。やれと言ってる」
正吉の声は、いつもと変わらず低く、静かだった。けれどその静けさの底に、有無を言わせぬものがあった。
俊一は、震える手で、裏蓋を開けた。
なかは、思っていたよりずっと、ひどかった。
油は完全に乾き、固まって、飴のようになっていた。歯車の歯のあいだに、何十年ぶんもの埃と、油の固まった黒い垢が詰まっている。ぜんまいは錆び、香箱──ぜんまいを収める円い箱──の蓋は、わずかに歪んでいた。脱進機の爪が一本、欠けている。それも、ずいぶん前に欠けたものらしく、その断面までもが古びて、黒ずんでいた。
俊一は、見えたままを、ひとつひとつ、声に出して伝えた。
正吉は、目をつむったまま──もともと開けていても同じことだったが──それを聞いていた。聞きながら、ときどき小さくうなずいた。俊一の言葉が、正吉のなかで、見えない設計図になっていくのが、わかるような気がした。
「爪が欠けてるか」と正吉は言った。「それじゃあ、止まるわけだ。それが命取りだ」
「部品、あるんですか。こんな古いの」
「ない」
正吉はあっさりと言った。
「ないものは、作る」
五
それからの日々を、俊一は生涯忘れなかった。
正吉は、その柱時計をすぐに直そうとはしなかった。まず、丸ごと分解させた。一つひとつの部品を、俊一に、薄いベンジンで丹念に洗わせた。固まった古い油を、溶かし、ぬぐい、また溶かす。歯車の歯の一枚一枚のあいだに詰まった垢を、先を尖らせた竹串で、気の遠くなるほど丁寧に、かき出していく。
「油はな」と正吉は、洗いながら言った。「機械の血だ。だが、古くなると毒になる。固まって、機械の首を絞める。──人間と同じだ。何でも、古い情けは、ときに毒になる」
俊一は、その言葉の重さを、まだ半分しか受け取れなかった。
竹串でかき出した黒い垢を、俊一は、白い紙の上に、すこしずつ、ためていった。それは、この時計が生きてきた、何十年ぶんもの時間の、滓のようなものだった。茶の間の柱で、毎日、誰かの暮らしを見おろしながら、すこしずつ、たまっていったもの。子が生まれ、育ち、家を出て、年寄りが逝き、また子が生まれ──そういう日々の、目に見えない煤が、この、小さな歯車の谷間に、ぎっしりと、つまっていた。
「ずいぶん、たまってますね」と俊一は言った。
「たまるさ」と正吉は言った。「人の暮らしてる家の時計は、よく汚れる。誰もいない家の時計は、きれいなまま、止まる。──汚れてるってのは、ちゃんと、使われてきたってことだ。いい汚れだよ、これは」
いい汚れ。──俊一は、その言葉を、口のなかで、繰り返した。汚れに、いいも悪いもあるのだということを、俊一はこのとき、はじめて知った。
洗い終えた部品を、白い布の上に、順に並べる。歯車。香箱。てんぷ。脱進機。振り子。ばね。──ばらばらにすると、それはただの金属の小片の山だった。これが組み合わさって、時を刻むのだということが、信じられないほどだった。一つひとつは、ただ冷たく、ただ無言で、何の意味もなさそうに見えた。けれど、正しい順に、正しい場所へ収まったとき、これらは、ふいに、時間という、目に見えないものを、生みだす。俊一は、その不思議を、洗いながら、いつまでも考えていた。人もまた、そうなのかもしれない、と思った。一人ひとりは、ただ、ばらばらに生きている。けれど、どこかで、正しく嚙み合ったとき──師匠と弟子。夫と妻。星と、それを見上げる人。
「これを、ぜんぶ覚えろ」と正吉は言った。「どこに何があったか。どの歯車が、どの歯車を回していたか。──組むときは、お前ひとりでやるんだからな」
「俺ひとりで……?」
「俺はもう、見えん。手伝いはする。だが、手を動かすのはお前だ」
その晩、俊一は眠れなかった。何年ぶりかで、店の時計たちの音が、また耳について離れなかった。
布団のなかで、俊一は、目をつむったまま、昼間に並べた、あの部品の位置を、一つひとつ、頭のなかで、たどってみた。香箱の隣に、二番車。その軸先は、地板の、上から三つめの穴。歯車の歯の数まで、思い出そうとした。けれど、いくら数えても、どこかで、こんがらがった。とても、覚えきれそうになかった。
明け方近く、うとうとと、夢を見た。
夢のなかで、俊一は、あの柱時計のなかに、いた。自分が、小さな歯車の一つになって、ほかの歯車と、嚙み合っていた。隣の歯が、俊一を、ひとつ、送る。俊一は、その向こうの歯を、ひとつ、送る。そうやって、力が、伝わっていく。一つでも欠ければ、全体が止まる。けれど、ちゃんと嚙み合っているかぎり、力は、けっして、途切れない。──目が覚めたとき、俊一は、なぜだか、覚えられる気がしていた。理屈ではなく、体で。
欠けた脱進機の爪を作るのに、正吉は俊一に、まず鑢の使い方からやり直させた。
「もとの爪をよく見ろ。隣の、生きてるやつだ。それと寸分たがわぬものを作る。コンマ一ミリ違っても、時計は狂う。──いや、コンマ一どころじゃない。爪の角の、ほんの一筋の丸みでも、時計は嘘をつきだす」
俊一は、小さな鋼の塊を万力に挟み、鑢をかけた。一日かけて、一つ作った。正吉に渡すと、正吉はそれを指の腹で、何度もなぞった。それから、首を振った。
「角が立ちすぎてる。これじゃあ、隣の歯を傷つける」
俊一は、また作り直した。二日目。今度は、正吉は長いあいだ、指でなぞっていた。なぞって、なぞって、それから、こう言った。
「……惜しいな。あと、髪の毛一本ぶん、ここを落とせ」
俊一には、その「髪の毛一本ぶん」が、どこのことか、わからなかった。
「わかりません」
「指で触れ。目で見るな。目はな、こういうときは邪魔になる。指で、隣の生きてる爪と、お前の作った爪を、かわるがわる触ってみろ。違いが、指から上がってくる」
俊一は、目をつむった。
師匠がいつもそうしているように、目をつむって、指の腹だけで、二つの爪をなぞった。生きている爪。自分の作った爪。生きている爪。自分の作った爪。──何度も、何度も。
最初は、何も感じなかった。ただ、冷たい金属が、二つあるだけだった。
けれど、二十回、三十回となぞるうちに、ふいに、指の腹の、ほんの一点が、何かを「言った」。ここだ、と。生きている爪の、なめらかな曲がりに対して、自分の爪の、ほんのわずかな、ためらいのような角ばり。それが、たしかに、指の下にあった。
「……あった」と俊一は、思わず声に出した。「ここです。ここが、違う」
「そうだ」
正吉が、はじめて、笑った。
「それが、見えるってことだ。目じゃなくてな」
六
その懐中時計が持ち込まれたのは、柱時計の修理が、ちょうど半ばにさしかかった頃だった。
持ってきたのは、若い女だった。喪服のような黒いコートを着て、けれど顔は、悲しんでいるというより、途方に暮れているようだった。
「祖父の、形見なんです」と女は言った。「動かなくなって、もう何年も。──捨てようと思ったんですけど、どうしても捨てられなくて」
その懐中時計を、俊一が受け取って、思わず手を止めた。
銀の蓋の表に、模様が彫られていた。最初、ただの飾りかと思った。けれど、よく見ると、それは星だった。一つの星から、長く、長く、尾が引かれている。流れ星にしては、尾が長すぎた。
「これは……」
「彗星なんだそうです」と女は言った。「祖父が言うには、ミラ彗星、という名前の。──祖父が若い頃、一度だけ、空に見えたんですって。それはもう、青く光る、長い長い尾を引いて。何十年に一度しか巡ってこない星なんだそうです。祖父はそれを見た夜のことを、死ぬまで、何度も話していました」
俊一は、蓋を開けた。
文字盤の内側にも、その彗星が、ごく細い線で彫られていた。十二時の少し下、ちょうど夜空にあたる位置に、青みを帯びた螺鈿で、小さく、長い尾を引いた星が一つ。何十年も前の職人が、いったいどんな思いで、この小さな円のなかに、巡る星を閉じ込めたのだろう。
「祖父はこの時計の蓋を開けては、よく言っていました。『星がまた巡ってくるまで、わしは生きていられんだろうな』って。──結局、巡ってくる前に、逝ってしまいました」
正吉は、女の話を、作業台のところで聞いていた。
「拝見しても」と正吉は言った。
俊一が懐中時計を手渡すと、正吉は、それを両手で包むようにして、指の腹で、蓋の彗星の彫りを、ゆっくりとなぞった。長い尾を、その先まで。それから、ふと、何かを思い出したように、低い声で、口ずさんだ。
眠れ、眠れ、星が海をわたるまで……
それは、子守唄のようだった。俊一が、聞いたことのない節だった。けれど、どこか懐かしい、夜の底から湧いてくるような旋律だった。
女が、はっと顔を上げた。
「それ……その唄」
「ご存じか」
「祖父が……祖父が、私が小さいとき、よく」
正吉は、口ずさむのをやめた。それから、静かに言った。
「昔、どこの土地でも、母親が子に唄ったもんです。星が海をわたるまで眠れ、とね。──彗星のことだったのかもしれませんな。長い尾を引いて、夜の海を渡っていく。それを、子守唄にした人がいた」
女の目から、涙がこぼれた。悲しみの涙ではないようだった。何か、ずっと一人で抱えていたものを、ふいに、知らない人と分け合えた、そういう涙のようだった。
「祖父は」と、女は、涙を指でぬぐいながら言った。「最後の頃、私のことが、もう、よくわからなくなっていました。誰だ、と聞かれることも、ありました。──でも、あの唄だけは、覚えていたんです。私が手を握って、あの唄を、こう、小さく口ずさむと、祖父は、すっと、おだやかな顔になって。眠れ眠れ、と、いっしょに、口を動かすんです。言葉も、私の顔も、忘れてしまったのに、あの節だけが、最後まで、残っていて」
正吉は、深くうなずいた。
「節というのはな」と正吉は、静かに言った。「いちばん古い記憶のところに、しまわれてるんです。言葉より、顔より、ずっと奥に。──それはきっと、あんたのお祖父さんが、ちいさい頃、あんたのお祖父さんのお母さんに、唄ってもらった唄だ。それが、めぐりめぐって、あんたに渡った。そうやって、唄ってのは、時計と同じに、人から人へ、渡っていくもんです」
七
懐中時計は、柱時計とは、また違う難しさだった。
なかの機械は、柱時計よりはるかに細かく、繊細だった。てんぷの輪は、髪の毛ほどのひげぜんまいで吊られている。それが、わずかに歪んでいた。長い年月のあいだ、引き出しの奥で、何かに押されていたのかもしれない。
「ひげぜんまいが歪んでます」と俊一は伝えた。「ほんの少し、ですけど」
「ひげが歪むと、時計は、息が乱れる」と正吉は言った。「ひげぜんまいはな、時計の肺だ。これが正しく膨らんで、しぼまんと、時計はちゃんと息ができん。──それを直すのは、いちばん難しい。下手にいじると、二度と元に戻らん」
正吉は、しばらく考えていた。それから、こう言った。
「これは、俺がやる」
俊一は、驚いた。この修理に来て以来、正吉が自ら手を動かすと言ったのは、これがはじめてだった。
「目が……見えないのに」
「見えんから、やるんだ」と正吉は言った。「ひげぜんまいはな、もともと、目で見て直すもんじゃない。あんまり細かすぎて、目はかえって、惑う。指で、息を聞いて直す。──こればかりは、見えるお前より、見えん俺のほうが、いまは上手いかもしれん」
正吉は、ピンセットを手に取った。
俊一は、息を詰めて見ていた。
正吉の指は、ゆっくりと、ひげぜんまいの、その歪んだ一巻きに近づいた。触れるか触れないか、というところで、止まる。そして、聞いている。指先で、その金属の細い渦の、ねじれの具合を、聞いている。
部屋じゅうの時計が、刻んでいた。ばらばらの、無数の秒針が。
正吉のピンセットが、ほんの、ほんのわずか、動いた。髪の毛一本どころか、その十分の一ほどの動き。──そして、止まった。
「……これでいい」
俊一は、ルーペでそれを覗き込んだ。歪んでいたひげぜんまいの渦が、嘘のように、きれいな、正しい円に戻っていた。
「直って、ます」と俊一は、かすれた声で言った。「完全に、まっすぐです」
正吉は、ピンセットを置いた。その手が、わずかに、震えていた。
「……指が、覚えてた」と正吉は、独り言のように言った。「五十年前に、親方に仕込まれたとおりに。指が、まだ、覚えてた」
八
懐中時計は、三日後に、また動きだした。
文字盤のなかの、青い螺鈿の彗星が、ふたたび時を見守るなかで、秒針が、命を取り戻したように歩きはじめた。チチチチ、という細かな脈を、俊一は耳元で聞いた。それは、夜の底を渡っていく、小さな星の足音のようだった。
取りに来た女に、正吉は、その懐中時計を、両手でうやうやしく返した。
「よく、辛抱して、待ってくれましたな」と正吉は言った。「待ったのは、あんたですよ。私らじゃない。あんたが、捨てずに、待った。──だから、星はまた、巡ってきた」
女は、動きだした懐中時計を、胸に押し当てた。蓋を閉じ、また開け、そのたびに、彗星の尾を、指で撫でた。祖父が、何度もそうしたように。
帰りぎわ、女は、ふと立ち止まって、振り返った。
「あの……つかぬことを伺いますが」と女は言った。「この近くに、古い本屋さんって、ありませんでしたか。月光、なんとかいう……」
「月光書房、ですか」
正吉が、静かに言った。
「ご存じなんですか」
「いや。名前を聞いたことがあるだけです。──彗星の見える晩にだけ、店を開けて、朝には、もう跡形もない。そんな古本屋があると、昔の職人が、よく言っとりました。本当かどうかは、知りません」
「私、ゆうべ、見たんです」と女は言った。「この時計を取りに来る前の晩、駅から商店街を歩いてきたら、いつもは閉まってる古い建物に、灯りが点いていて。藍色の暖簾に、三日月の絵が描いてあって。──のぞいたら、もう一度きたときには、ただの空き家でした」
正吉は、何も言わなかった。ただ、その見えない目を、窓の外の、暮れていく空のほうへ向けた。
「もしかすると」と正吉は、ひとりごとのように言った。「今夜あたり、巡ってくるのかもしれませんな。あの星が」
九
その晩、柱時計の、最後の組み立てがあった。
正吉は、店じまいをしても、灯りを消させなかった。三畳間で休もうとした俊一を呼び戻し、作業台の前に座らせた。
「今夜、組む」
「今夜、ですか。──まだ、油もさしてないのに」
「油は、組みながらさす。組んでから、いっぺんにさすもんじゃない。一つひとつ、合わさるところに、ふさわしいだけの油を。多すぎず、少なすぎず。──情けと同じだ。かけすぎても、かけなさすぎても、いかん」
俊一は、白い布の上に並んだ、無数の部品を見た。
これを、全部、自分ひとりの手で、組む。
師匠は、見えない。手伝いはするが、見て直してはくれない。間違えても、すぐには気づかれない。──だからこそ、間違えるわけにはいかなかった。
俊一は、まず、地板──時計の土台となる金属の板──を、台に据えた。それから、いちばん大きな歯車から、順に。香箱を据え、ぜんまいを納め、その上に、二番車、三番車、四番車。歯と歯が、正しく嚙み合うように。一つでも、軸の入る穴を間違えれば、全体が、回らない。
「いま、何を入れてる」と正吉が、闇のなかから尋ねる。
「三番車です」
「軸先を、傷つけるな。爪の先ほどの傷でも、そこから、何十年かけて、時計は死んでいく」
俊一の指は、震えていた。
けれど、その指は、もう、何も覚えていない指ではなかった。八年。掃除と、使いと、待つことと、無数の安物の時計と、そして、髪の毛一本ぶんの違いを、指で聞き取った、あの夜。──そういうものが、いつのまにか、この指に、染みついていた。油の匂いのように。
俊一は、てんぷを納めた。脱進機を据えた。自分の作った、あの爪を持つ脱進機を。隣の、生きている爪と、寸分たがわぬ、自分の爪を。
「爪を、入れました」と俊一は言った。
「噛んでるか。脱進機と、がんぎ車が」
俊一は、そっと、ぜんまいに、わずかに力を加えてみた。
がんぎ車が、ひとつ、回ろうとする。そして、俊一の作った爪が、それを、受け止める。チ、と小さな音を立てて、止める。また、わずかに送る。チ、と、止める。
時計が、息を、しはじめた。
「……動いてます」俊一の声が、震えた。「師匠。動いてます。俺の、爪で。──ちゃんと、動いてる」
正吉は、何も言わなかった。
ただ、見えない目を閉じて、その、チ、チ、チ、という、生まれたばかりの脈を、聞いていた。長いあいだ、聞いていた。
最後に、振り子を吊った。
俊一が、振り子室のガラス越しに、その真鍮の円盤を、そっと、横へ押した。
振り子が、ゆっくりと、ひと振り、ふた振り。──そして、止まりかけた。
俊一の胸が、ひやりとした。
「止まり……」
「待て」と正吉が言った。「手を出すな。──聞け」
俊一は、手を引いた。
振り子は、振れ幅を狭めながら、それでも、揺れていた。三振り。四振り。だんだんと、小さく。──このまま、止まるのか。
けれど、五振り目のところで、脱進機の爪が、がんぎ車を、ひとつ、送った。その送りが、振り子に、ほんのわずかな、力を、返した。
六振り目。また、ひとつ。
そして、振り子は、止まらなかった。
止まらないどころか、振れ幅が、すこしずつ、もとに戻りはじめた。脱進機が、規則正しく、振り子を励ますように、力を送る。振り子が、その力を受けて、ひと振りごとに、自信を取り戻していく。
カチ、コチ。カチ、コチ。
八角の柱時計が、何十年ぶりかで──いや、その婦人が亡くなったあの秋の晩以来、はじめて──時を、刻みはじめた。
十
その音は、店じゅうの、ばらばらの秒針たちとは、まるで違っていた。
低く、ゆったりとして、堂々としていた。カチ、コチ。一秒が、ずいぶん長く感じられた。まるで、この時計だけが、ほかの時計よりも、もっと深い時間を、刻んでいるようだった。
俊一は、振り子室のガラスに、額がつくほど近づいて、その真鍮の円盤が、ゆっくりと左右に揺れるのを、見つめた。
そのとき、ふと、店の窓の外が、明るんだ気がした。
俊一は、顔を上げた。
窓の向こう、商店街の屋根の上の、夜空に──青白い、長い、長い光の尾が、引かれていた。
それは、星だった。けれど、俊一が知っているどんな星とも違っていた。一つの、青く冴えた光の点から、まるで筆で薄く刷いたように、淡い尾が、夜空を、横切っていた。何十年も、忘れられていたものが、また、静かに、巡ってきた。──そんな気配を、まとっていた。
「師匠」と俊一は、声を落とした。「星が……空に、星が」
「ミラか」
正吉は、振り向きもせず、言った。
「見えるんですか」
「見えん」正吉は、静かに笑った。「だが、来たのが、わかる。──この店の時計が、みんな、すこし、急いだ」
俊一は、はっとして、店じゅうの時計の音に、耳を澄ました。
たしかに。ばらばらに刻んでいた無数の秒針たちが、いま、ほんの一瞬、申し合わせたように、ひとつの拍子に、重なっていた。八角の柱時計の、低い、カチ、コチ、を、芯にして。すべての時計が、その一瞬だけ、ひとつの呼吸を、していた。
そして、星が、夜空を渡りきると──時計たちは、また、それぞれの速さに、散っていった。
正吉は、ゆっくりと、低い声で、口ずさんだ。
眠れ、眠れ、星が海をわたるまで……
その節が、八角の柱時計の、ゆったりとした拍子に、いつのまにか、寄り添っていた。
十一
柱時計を、男が取りに来たのは、それから三日後だった。
俊一が、毛布にくるんだ柱時計を、男の車まで運んだ。動きだした振り子を、止めないように、慎重に、傾けないように。男は、後部座席に、それを、まるで人を乗せるように、そっと寝かせた。
帰りぎわ、男は、店のなかの、作業台の正吉に向かって、深々と、頭を下げた。
「これで……これで、また、あれの音で、眠れます」と、男は言った。「家内の。──いえ、もう、あれはおりませんが。でも、音がすれば、いるような気が、するんです」
正吉は、見えない目を、男のほうへ向けた。
「音はな」と正吉は言った。「人より、長く残るもんです。だから、大事にしてください。たまには、ぜんまいを、巻きすぎんように。──多すぎても、少なすぎても、いかん。ちょうど、いいところで、手を、止めて」
男の車が、商店街の角を曲がって、見えなくなった。
俊一は、店に戻った。
その夜、正吉は、いつになく、長く、作業台の前に座っていた。
俊一が、茶を淹れて運ぶと、正吉は、それを両手で包んで、しばらく温もりを味わってから、こう言った。
「俊一。あの柱時計、誰が直した」
「……俺、です」
「そうだ。お前だ。俺は、横にいただけだ。爪を作ったのも、ひげを──いや、ひげは、俺がやったか」正吉は、低く笑った。「だが、組んだのは、お前だ。振り子を、吊ったのも。あの星が来た晩、時計に、息を吹き込んだのは、お前の指だ」
俊一は、何も言えなかった。
「俺の目は、もう、駄目だ」と正吉は言った。「じきに、明るいも暗いも、わからんようになる。──そうなったら、この店は、お前のものだ」
「そんな……俺は、まだ」
「まだ、何だ」正吉は、さえぎった。「髪の毛一本ぶんの違いが、指でわかる男が、まだ、何だと言う」
俊一は、うつむいた。茶碗のなかの、自分の顔が、揺れていた。
「いいか、俊一」と正吉は、静かに言った。「時計屋ってのは、時を直す商売じゃない。時を、預かる商売だ。──あの男の、四十年。あの女の、亡くなった祖父さんの、何十年。みんな、時計のなかに、巻きこまれてる。ぜんまいと一緒に、巻かれてる。それを、また、ほどいてやる。それが、俺たちの仕事だ」
正吉は、茶を、ひとくち、すすった。
「お前の指は、もう、それを知ってる。あとは、忘れんことだ。──手は、噓をつかん。だが、使わんでいると、忘れる。毎日、触れ。毎日、聞け。そうすれば、お前の指は、お前が死ぬまで、いや、死んでも──」
正吉は、そこで、言葉を切った。
死んでも、と言いかけたものの、つづきを、正吉は言わなかった。
けれど俊一には、わかった。
死んでも、誰かの指が、それを継ぐ。正吉が、五十年前の親方の手つきを、見えない目で思い出したように。俊一が、いつか、正吉の手つきを、思い出すように。そうして、この指の記憶は、時計のなかの時間と同じに、ぜんまいのように、また次の手へと、ほどかれていく。
十二
それから、ずいぶんの年月が、流れた。
正吉が亡くなったのは、その翌々年の、春のことだった。最後の冬を越せず、桜の咲くのを、待たずに逝った。亡くなる前の数ヶ月は、もう、ほとんど何も見えなくなっていたが、それでも、毎日、作業台の前に座り、俊一の手元から立ちのぼる、ベンジンと油の匂いを、嗅いでいた。
「いい匂いだ」と、よく言った。「時計屋の匂いだ。──この匂いがするうちは、まだ、大丈夫だ」
最後の晩のことを、俊一は、生涯、忘れなかった。
その晩、正吉は、めずらしく、自分から、作業台へ行きたいと言った。俊一が肩を貸して、いつもの椅子に、座らせた。正吉は、見えない目で、誰もいない店のなかを、ぐるりと見まわすようにした。それから、机の上に手をのばし、いつもそこにある、油差しと、ピンセットと、小さな鑢を、ひとつずつ、指で、確かめた。長年使いこんで、自分の指の形に、なじみきった道具たちを。
「俊一」
「はい」
「この店の時計は、ぜんぶ、合わせてあるか」
「合わせてあります。毎朝、いちばんの掛時計に、合わせてます」
「そうか」と正吉は言った。「ずれてても、いいんだ。本当はな。──そろってなくても、いいんだ。それぞれが、それぞれの時を、ちゃんと、刻んでりゃ、それでいい。人もな。──そろえようとせんでいい。ばらばらでいい。ただ、止まらんように」
それが、俊一の聞いた、師匠の、最後の教えになった。
正吉が逝ったあと、俊一は、店を継いだ。
商店街は、年々、寂れていった。大きなスーパーが駅前にでき、若い者は、みな、安いクォーツの腕時計を、使い捨てるように買った。古い掛時計の修理など、めったに、持ち込まれなくなった。
それでも、俊一は、店を閉めなかった。
ガラス戸の、半分はげた金文字を、塗り直そうかと、何度か思った。けれど、結局、そのままにした。「時 修」と読める、その、欠けた文字が、いつのまにか、俊一には、いとおしかった。欠けたものを、欠けたまま、いつくしむこと。それも、この店で、覚えたことのひとつだった。
俊一の目が、かすみはじめたのは、五十の坂を越えた頃だった。
文字盤の、細かい数字が、読みにくくなった。ルーペを、二つ、重ねるようになった。──そして、ある日、ふと、気づいた。
ひげぜんまいの、髪の毛の十分の一ほどの歪みを、もう、目では、見きれなくなっている。
俊一は、目をつむった。
師匠が、いつも、そうしていたように。
指の腹で、その細い渦を、なぞった。生きている息を、聞いた。
──あった。
指の下に、たしかに、それは、あった。歪みが。息の、乱れが。目では、もう見えないものが、指の腹の、ほんの一点に、たしかに、「ここだ」と、言った。
俊一は、独り言のように、つぶやいた。
「……師匠。指が、覚えてました。あなたに、仕込まれたとおりに」
そして、低い声で、口ずさんだ。
眠れ、眠れ、星が海をわたるまで……
その晩、店じまいをして、表の灯りを消そうとしたとき、商店街の、いちばん奥の、ずっと空き家になっていた建物に、灯りが点いているのに、俊一は、気づいた。
藍色の暖簾に、三日月の絵が、染め抜かれていた。
俊一は、ふと、ガラス戸を開けて、表に出た。冷たい夜気のなかを、その灯りのほうへ、歩いた。近づくと、それは、たしかに、古本屋だった。間口の上に、古びた木の看板が掛かっていて、「月光書房」と、読めた。
なかには、誰もいなかった。けれど、いま、たったいままで、誰かがいたような、温もりが、残っていた。山と積まれた、古い本の匂い。そして、かすかに──ごく、かすかに、油と、ぜんまいの、匂いが、した。
帳場の机の上に、本が一冊、開いて、置かれていた。
その本のあいだに、栞のように、何かが、はさまっていた。
俊一は、それを、手に取った。
深い藍色の、小さなマッチ箱だった。表に、三日月が、刻まれていた。月光堂、と、横に、小さく、印してあった。
俊一は、それを、しばらく、手のひらの上で、見つめていた。
なぜだか、目の奥が、熱くなった。
師匠の作業台の、いちばん下の引き出しに、片方だけの、古い手袋が、ずっと、残されていた。正吉が、いつから持っていたのか、誰のものだったのか、片方が、どこへいったのか──ついぞ、聞かずじまいだった。対になるはずのものが、片方だけ、残されている。それを、俊一は、捨てられずに、いまも、引き出しの奥に、しまっている。
このマッチ箱も、きっと、そういうものなのだろう、と、俊一は思った。
対になる、何か。あるいは、誰か。──片方だけ、ここに、残されている。
俊一は、マッチ箱を、上着の、胸の内ポケットに、そっと、しまった。
店に戻ると、無数の時計が、相変わらず、ばらばらの速さで、時を刻んでいた。
俊一は、灯りを点けたまま、作業台の前に、座った。
正吉が、いつも座っていた、その椅子に。
引き出しを開け、片方だけの手袋を、取り出して、机の上に、置いた。それから、胸ポケットから、藍色のマッチ箱を出し、その手袋の、隣に、並べた。
片方だけのものが、二つ。
俊一は、目をつむった。
すると、店じゅうの時計の音が、また、体の内側に、入ってきた。八角の柱時計は、もう、ここにはない。けれど、その、低い、ゆったりとした、カチ、コチ、を、俊一の指は、まだ、覚えていた。
そして──気のせいだろうか。窓の外の、夜空が、ふと、青白く、明るんだ気がした。
俊一は、目を、開けなかった。
見えなくても、わかった。
来たのだ。あの星が。長い尾を引いて、また、静かに、巡ってきたのだ。──見える目には、見えなくなったものが、見えない目には、かえって、よく、見えることがある。
油の匂いのなかで、俊一は、ひとり、低く、子守唄を、口ずさんだ。
眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。──そうして、星が海を渡りきったあとも、どうか、この指が、覚えていますように。