月光書房
亥の刻 ・ 夜 ・ 第 八 話

水底の手袋

深町 透
冒険・深海 ・ 約27頁

水は、最初に音を奪う。

潜るたびに私はそのことを思い出す。岸辺で響いていた発電機のうなりも、警備船の舳先が湖面を叩く音も、無線越しに私の名を呼ぶ若い男の声も、頭まで沈めばすべてが遠のき、やがて一枚の毛布のような静けさに包まれる。残るのは自分の呼吸だけだ。レギュレーターを通って肺に流れこむ空気の、規則正しい潮の満ち引き。吸うときの乾いた音、吐くときの泡の弾ける音。その二つの音のあいだに、世界のすべてがおさまってしまう。

今日の湖は、緑がかった鈍い色をしていた。秋の長雨が山の土を流しこんで、いつもより濁りが深い。私はフィンをゆっくりと動かしながら、垂直のロープを伝って下りていった。水深計の針が、一メートルごとに私の体重を増やしていく。十メートル。十五メートル。光がしだいに色を失い、赤が消え、橙が消え、最後に緑だけが残る。そうして二十メートルを過ぎたあたりで、私はいつものように、自分が一人ではないことを感じはじめる。

沈んだ町は、私を待っている。

この湖の底には、町がある。

四十年前まで、そこは谷だった。三方を山に囲まれ、谷底を細い川が流れ、その川に沿って百三十戸ほどの家が肩を寄せ合っていた。名を、瀬戸といった。瀬戸村。役場の正式な記録ではそうなっていたが、住んでいた者は誰もそんなふうには呼ばなかった。ただ「町」と言った。町へ行く。町へ帰る。町の祭り。そう言えば、それだけで通じた。世界のすべてが、その谷のなかにあったからだ。

ダムの話が来たのは、私が十二の年だった。県の役人が公民館にやってきて、白い大きな図面を広げ、ここに堤を造ると治水になり、発電にもなり、下流の何万人もの暮らしが豊かになる、と説明した。図面のなかでは、私たちの町は青く塗りつぶされていた。海のような青で、家も、田も、神社も、学校も、すべてがその青の下に消えていた。

大人たちは長いあいだ争った。判をつく者と、つかない者。受けとる者と、突き返す者。隣どうしが口をきかなくなり、親戚が裂け、祭りが立ち消えになった。だが、水というのは不思議なもので、人がいくら争っても、決まったように上から流れてくる。最後には皆が町を出た。立ち退きの日、母は仏壇を背負い、私は風呂敷包みを抱え、父は黙って柱に手を当てていた。手を離すのが惜しいというふうに、長いこと当てていた。

そうして谷は沈んだ。

水が満ちるのには、半年かかった。私たちは移った先の高台から、毎日それを見にいった。屋根がまず消え、次に二階の窓が消え、最後に村でいちばん高かった火の見櫓の先端だけが、しばらく水面に突き出ていた。それも、ある朝には消えていた。母はその朝、何も言わずに、ただ手のひらをひとつ、胸の前で合わせた。私はそのときの母の横顔を、いまでもはっきりと覚えている。

母は、それから十二年生きた。私が町を潜るようになったのは、母が死んだ年からだ。

私の仕事は、潜水士だ。

橋脚の点検をし、沈んだ車を引き上げ、堰の取水口に詰まった流木を取り除く。ダム湖というのは、案外、人の出入りがある場所なのだ。水門の補修、堆積物の調査、ときには、身を投げた者を捜すこともある。私はこの地方でただ一人、瀬戸の生まれの潜水士だった。だから、湖底にかかわる仕事の多くが、私のところに回ってきた。

人は私を、変わり者だと言った。沈んだ自分の故郷に潜って、平気でいられるはずがない、と。たしかに、最初のころは、町の通りを泳ぐたびに胸が締めつけられた。瓦の落ちた屋根の上を、魚の群れが流れていく。崩れた土塀のあいだから、藻におおわれた地蔵が、こちらをじっと見ている。商店の看板が、文字を泥に埋もれさせたまま、斜めに傾いている。水のなかで、すべてが緩慢に、永遠に近い速度で朽ちていく。それを見ることは、もう一度、町が沈むのを見ることに似ていた。

だが、何度も潜るうちに、私のなかで何かが変わった。

沈んだ町は、死んではいなかった。

水のなかには水のなかの時間が流れていて、それは地上の時間とはまるでちがう速さで動いていた。崩れた家の梁に、いつのまにか牡蠣に似た貝がびっしりと付き、藻が森のように茂り、その森のなかを小さな魚たちが行き交っている。沈んだ田には水草が根を張り、そこに鯉が産卵にやってくる。神社の鳥居は半分崩れたが、残った柱には新しい命がしがみついている。町は、地上の暮らしを終えたあと、水のなかで、別の生きかたを始めていたのだ。

私はその静けさのなかに、いつしか安らぎを覚えるようになった。地上では、私はうまくいかない人間だった。妻とは別れ、酒に溺れた時期もあった。人と話すのが苦手で、長く続けられた仕事もなかった。ただ、水のなかでだけ、私は私でいられた。誰にも何も言われず、誰の機嫌もうかがわず、ただ自分の呼吸の音だけを聞いていればよかった。

沈んだ町は、私を裁かなかった。ただ、そこにあった。

今日の依頼は、いつもとちがった。

それは仕事ではなく、私自身の用事だった。三日前、湖の管理事務所から連絡があった。来月から、ダムの大規模な改修工事が始まる。堆積した土砂を浚渫し、老朽化した水門を入れ替える。そのために、湖の水を半分以上抜くというのだ。水位は三十メートル近く下がる。瀬戸の町は、四十年ぶりに、その大半が泥のなかに姿を現すことになる。

「いいことだと思いますよ」と、若い職員は電話の向こうで言った。「故郷がまた見られるんですから」

私は何も答えなかった。

水位が下がれば、町は空気に触れる。空気に触れれば、四十年かけて水のなかで作りあげられた均衡が、一瞬で崩れる。藻は乾いて死に、貝は殻を開いたまま腐り、魚たちは行き場を失う。水のなかでようやく落ち着いた町が、もう一度、別のかたちで死ぬのだ。そして泥のなかから現れた家々は、おそらく重機で崩され、土砂とともに運び去られる。改修が終わって水が戻るころには、もう町はそこにない。ただの、平らな湖底になっている。

だから、私は今日、潜るのだ。

母の生家は、町の北のはずれにあった。

正確には、母の生家であり、私の生家でもあった。父は婿養子で、母の家に入ったのだ。だから私が生まれ育ったのは母の実家であり、その古い木造の家には、母の生まれる前から伝わる何かしらの匂いが、いつも染みついていた。畳と、線香と、雨の日の土壁の匂い。

私は二十メートルの底で、いったんロープを離れた。ここからは、記憶を頼りに泳ぐ。コンパスは持っているが、ほんとうのところ、私の体は道を覚えている。沈んだ町の地図は、私の骨に刻まれている。子供のころ、毎日駆けまわった道だ。水になろうと、暗かろうと、私の体は、家へ帰る道を忘れない。

私はフィンを動かし、かつての本通りに沿って泳ぎはじめた。

ヘッドライトの光のなかを、無数の浮遊物が雪のように舞っている。プランクトンと、巻きあげられた泥と、四十年分の朽ちた何か。光はそれらに乱反射して、一メートルか二メートルの先で、すぐに緑の闇に溶けてしまう。私は手探りで進む。いや、手ではなく、記憶で進む。

ここに、米屋があった。光のなかに、傾いた建物の輪郭が浮かびあがる。屋根は落ちているが、太い大黒柱が一本、まだ斜めに突っ立っている。私はそれに触れた。藻のぬめりの下に、木の硬さがあった。子供のころ、ここで母に手を引かれて米を買った。店の老人が、量り売りの米を桝に山盛りにして、それを木のへらですっと切る。その所作が好きで、私はいつも見惚れていた。老人は、私が町を出る前の年に死んだ。だから、彼は町が沈むのを見ずにすんだ。それは幸いだったのかもしれない。

私は本通りを北へ進んだ。

水のなかでは、時間の感覚がなくなる。一分が一時間のようでもあり、一時間が一瞬のようでもある。私は浮遊物の雪のなかを、ゆっくりと泳いでいく。橋があった。石の太鼓橋だ。欄干は崩れたが、アーチはまだ水のなかで弧を描いている。私はその下をくぐった。子供のころ、この橋の上で、夏祭りの夜に金魚すくいの店が出た。私は何度やっても、紙のすくい網をすぐに破ってしまう不器用な子供だった。母が後ろから、私の手を包むようにして、網の角度を教えてくれた。そっと、すくうのよ、と母は言った。力を入れたら破れる。水を逃がしてやりながら、すくうの。

母の手は、いつも少しひんやりとしていた。

母の手のことを、私はよく覚えている。

働く人の手だった。指は太く、節は大きく、爪のあいだにはいつも土が入っていた。田を打ち、畑を耕し、冬には縄をなった。母の手は、休んでいるのを見たことがなかった。だが、その手は、私を撫でるときだけは、ふしぎと柔らかくなった。同じ手とは思えないほどに。

母には、ひとつの持ち物があった。

手袋だ。

それは、町には不似合いなほど上等な、白い革の手袋だった。指の長い、女物の手袋。母がそれを嵌めているのを、私は一度も見たことがない。母はそれを、簞笥のいちばん上の引き出しの、油紙に包んで、大事にしまっていた。年に一度か二度、母はそれを取り出して、膝の上に広げ、しばらくのあいだ、ただじっと見ていた。撫でるでもなく、嵌めるでもなく、ただ見ていた。

私が、それは何、と尋ねると、母は、あんたの知らない人のもの、と言って、笑った。少しさびしそうな笑いかただった。それ以上は、何も話さなかった。

手袋は、片方しかなかった。

左手の手袋だけ。右手のは、なかった。母はそれについても、何も言わなかった。ただ、片方だけの白い手袋を、母は四十年、いや、私が知るかぎりずっと、後生大事にしまいこんでいた。

母が死んだとき、私はその手袋を探した。形見にしたかった。母のいちばん大事にしていたものだから。だが、いくら探しても、見つからなかった。簞笥の引き出しは空だった。母の遺品のどこにも、白い手袋はなかった。

私は、長いあいだ、それを不思議に思っていた。

そして、あるとき、気づいたのだ。

母は、町を出るとき、仏壇を背負っていた。風呂敷包みは父が持ち、私は自分の荷物を抱えていた。あの混乱のなかで、母は手袋を持ち出せなかったのではないか。いや、ちがう。母は、わざと持ち出さなかったのではないか。あの手袋を、町に置いていったのではないか。沈む町に、何か、置いていきたかったものがあったのではないか。

簞笥は、家に残された。立ち退きのとき、大きな家具は運べなかった。だから簞笥は、家とともに沈んだ。

その引き出しのなかに、あの手袋が、まだあるのかもしれない。

四十年、水の底で。

ばかげた考えだということは、わかっている。

油紙に包んだ革の手袋が、四十年も水のなかで原形をとどめているはずがない。革は腐り、糸は解け、とうに泥に還っているだろう。簞笥そのものだって、無事かどうかわからない。引き出しが開くかどうかも。

それでも、私は潜る。

水が抜かれてしまう前に。町が泥のなかで二度目の死を迎える前に。母が沈む町に託したものを、もし、ほんの少しでも残っているのなら、この手で確かめたい。それが何も残っていない泥であったとしても、私はその泥を、すくいあげたい。

そっと、すくうのよ。力を入れたら破れる。

母の声が、水のなかで聞こえる気がした。

生家は、本通りから一本、細い道を入ったところにあった。

私はその角を、体で覚えていた。地蔵堂の跡。いまは台座だけが残り、地蔵はどこかへ流されてしまった。その角を左に折れると、道は急に狭くなり、両側から土塀が迫ってくる。塀の多くは崩れたが、根方はまだ残っていて、私の進む道筋を、両側から囲っている。まるで、まだそこに塀があった頃のように。

そして、道の突き当たりに、私の家があった。

ヘッドライトの光のなかに、それは現れた。

母屋は、思っていたよりも、ずっとよく残っていた。屋根の瓦はほとんど落ちていたが、骨組みはまだ立っていた。太い梁が、何本も、黒く水のなかに浮かんでいる。柱には牡蠣に似た貝がびっしりと付き、梁からは藻が、長い髪のように垂れさがって、わずかな水の動きにゆらめいている。窓には、もう障子も硝子もない。ただ、四角い闇が、いくつも、こちらを見ている。

私は、家の前で、しばらく動けなかった。

四十年ぶりに、私は、生まれた家に帰ってきた。

胸の奥が、締めつけられた。水のなかでは涙は流れない。だが、私の目の奥は、たしかに熱くなった。父がいた。母がいた。私がいた。この家のなかで、笑い、泣き、��り、許し、眠った。その時間のすべてが、いま、藻に覆われ、貝に覆われ、緑の闇のなかに沈んでいる。

だが、その光景は、悲しいだけではなかった。

家は、生きていた。

藻が茂り、貝が育ち、闇のなかには魚の影が動いていた。私の家は、廃墟ではなかった。それは、別の生きものたちの、新しい家になっていた。母が掃き清めていた土間に、いまは小さな魚たちが眠り、父が煙草をふかしていた縁側の跡に、藻の森が広がっている。家は、人を失ったあと、水のなかで、もう一度、誰かの住み処になっていた。

母さん、と私は心のなかで呼んだ。

帰ってきたよ。

私は、家のなかへ入った。

玄関だったところに、戸はもうない。私はライトで足元を照らしながら、ゆっくりと、慎重に進んだ。水中で建物のなかに入るのは、危険な行為だ。崩れた梁、突き出た釘、絡みつく藻、そして何より、巻きあげられる泥。泥は一瞬で視界を奪う。一度濁ると、目の前の自分の手さえ見えなくなる。だから私は、フィンをほとんど動かさず、手だけで、壁を伝うようにして進んだ。

土間を抜け、板の間に上がる。床板の多くは抜け落ち、その下の根太が剝き出しになっている。私は梁の一本に手をかけ、体を引き寄せながら、奥の部屋へ向かった。

奥の間。母の部屋だ。

そこに、簞笥はあった。

四十年、水の底で、それは立っていた。倒れもせず、流されもせず、母の部屋の、もとあった場所に。木は黒く変色し、表面は貝と藻に覆われ、もはや簞笥には見えなかった。ただの、四角い、藻むした塊だった。だが、私にはわかった。これは、母の簞笥だ。いちばん上の引き出しに、母が手袋をしまっていた、あの簞笥だ。

私は、その前に、ひざまずくように体を沈めた。

水のなかで、私はしばらく、その簞笥を見つめていた。

引き出しの取っ手は、貝に埋もれて、もう見えなかった。私は手袋をした指で、いちばん上の引き出しのあたりを、そっと探った。革の手袋越しに、ぬめりと、貝の硬い殻と、そして、その下の木の感触が伝わってくる。

開くだろうか。

四十年、水を吸って膨らんだ木が、開くだろうか。

私は、ナイフを取り出した。引き出しの合わせ目に、刃を差しこむ。貝を削り、藻を払い、隙間を探る。泥が舞いあがる。視界が一瞬、茶色に濁る。私は動きを止め、泥が落ち着くのを待つ。呼吸の音だけが、闇のなかに響く。吸って、吐いて。泡が、ゆっくりと天井へ昇っていく。

泥が、少しずつ、晴れていく。

私は、ふたたび刃を差しこんだ。

母のことを、もっと話さなければならない。

母は、この谷の生まれだった。瀬戸の北のはずれの、あの家で生まれ、あの家で育った。私が知っているのは、それだけだ。母は、自分の若いころのことを、ほとんど話さなかった。

ただ、一度だけ、母が話したことがある。

私が、十五の年だったと思う。母と二人で、夜なべ仕事をしていた。母は縄をない、私はその縄を巻きとっていた。ランプの灯りのなかで、母の手が、規則正しく動いていた。そのとき、ふいに母が、唄を口ずさんだ。

眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。

低い、かすれた声だった。私は、その唄を知らなかった。母が唄うのを聞いたのも、初めてだった。私が、それ何、と尋ねると、母は手を止めずに、子守唄、と言った。

「あんたが赤ん坊のころ、よう唄うてやった。覚えとらんか」

覚えていない、と私は答えた。母は、少し笑った。

「あたしも、母さんに唄うてもろうた。この谷では、みんなこの唄で寝かしつけられた。星が海をわたるまで、いうてな」

海なんかないのに、と私は言った。山のなかなのに。

母は、しばらく黙っていた。それから、こう言った。

「海はな、なくても、ええんよ。ないものを、唄うのが、子守唄や」

私には、その意味がわからなかった。

いまも、よくはわからない。だが、四十年たって、町が海の底のような水の底に沈んでしまったいま、私はときどき、あの唄のことを思い出す。星が海をわたるまで。母は、谷が水に沈むことを、知っていたのだろうか。まさか。だが、母の口ずさんだその唄は、いまの私には、まるで予言のように響くのだ。

ないものを、唄うのが、子守唄や。

母は、あの片方だけの手袋に、何を見ていたのだろう。

ないもの。もう片方の、失われた手袋。あるいは、その手袋の持ち主だった、誰か。母が、「あんたの知らない人」と言った、その誰か。

私は、何も知らないまま、母を失った。

刃が、わずかに食いこんだ。

引き出しと、簞笥の本体のあいだに、ほんの少しの隙間ができた。私はナイフを梃子のように使い、慎重に力をかけた。木が、ぎし、と軋む音が、水を通して、骨に伝わってくる。

開け、と私は念じた。

四十年だ。四十年、待ったのだ。

私は、もう少し力をかけた。木が、また軋んだ。そして、ふいに、抵抗がゆるんだ。引き出しが、わずかに動いた。一センチ。二センチ。泥と、藻の切れ端が、隙間からあふれ出てくる。視界が、また濁る。私は刃を抜き、手で、引き出しを引いた。

開いた。

引き出しは、半分ほど、開いた。

なかは、泥で満たされていた。四十年分の泥が、引き出しのなかに、ぎっしりと詰まっていた。私は、ヘッドライトをそこに向けた。茶色い泥。何の変哲もない、ただの泥。

私は、手を入れた。

そっと、すくうのよ。

母の声が、聞こえた。

私は、革の手袋をした手で、泥のなかを、ゆっくりと探った。指先に、貝の殻が触れる。小石が触れる。木の破片が触れる。私は、それらを、一つずつ、わきへ寄せていく。泥が舞う。視界が消える。私は目を閉じ、指先だけで探った。

水のなかでは、目よりも、指のほうが、ものをよく見る。

指先が、何かに触れた。

泥や、貝や、石とは、ちがう感触だった。柔らかく、しなやかで、わずかに繊維の手ざわりがあった。私は、息を止めた。心臓が、鼓動を速めるのが、自分でわかった。それはいけない。水のなかでは、落ち着かなければならない。私は、ゆっくりと、息を吐いた。泡が昇っていく。

私は、その柔らかいものを、指で、そっと、つまんだ。

そっと、すくうのよ。力を入れたら破れる。

私は、それを、泥のなかから、引きあげた。

泥が、落ち着くのを待った。

私は、それを両手で包むようにして、ヘッドライトの光のなかに、そっと、持ちあげた。

革の、手袋だった。

四十年、泥のなかにあったとは思えなかった。いや、それは思い違いだ。原形は、ほとんど、とどめていなかった。革は、ふやけ、黒ずみ、ところどころが溶けて崩れ、もはや手袋というよりは、手袋のかたちをした、泥の塊に近かった。指の部分は、二本が欠けていた。手首のあたりは、ほとんど崩れていた。

それでも、それは、手袋だった。

母の、あの、白い手袋だった。

私には、わかった。指の長い、女物の、左手の手袋。母が、年に一度か二度、簞笥から取り出して、膝の上に広げ、じっと見ていた、あの手袋。

泥のなかで、母は、これを残していた。

私は、それを、両手で包んだ。崩れないように、そっと。水のなかで、それは、私の手のなかで、ゆらゆらと揺れた。まるで、生きているかのように。まるで、母の手が、私の手を、握り返しているかのように。

母さん、と私は呼んだ。

見つけたよ。

四十年、ここにあったんだね。母さんが、置いていったんだね。

なぜ、と私は思った。なぜ、母さんは、これを、ここに残したのか。なぜ、持ち出さなかったのか。形見にもせず、私にも何も告げず、沈む町に、これを置いていったのか。

答えは、なかった。

だが、その答えのなさが、ふしぎと、私を満たした。母には、母の理由があったのだ。私の知らない、母の物語が。「あんたの知らない人」の、片方だけの手袋。もう片方は、どこにあるのか。誰の手に渡ったのか。あるいは、誰の棺に納められたのか。それを、私は、永遠に知ることはないだろう。

知らなくて、いいのかもしれない。

ないものを、唄うのが、子守唄や。

母の声が、また、聞こえた。

そのとき、視界の隅で、何かが動いた。

私は、はっとして、ライトを向けた。

泥が、崩れていた。

簞笥の上、天井の梁のあたりから、泥が、ぼろぼろと、こぼれ落ちはじめていた。私が引き出しをこじ開けたとき、その振動が、四十年かけて積もった均衡を、崩したのだ。藻が垂れ、梁が軋み、貝の殻が、ぱらぱらと落ちてくる。

そして、私が来た方の、玄関への通路が、泥で、白く濁りはじめた。

私は、体を動かした。母の手袋を、ウェットスーツの胸の内側に、そっと差しこむ。両手を自由にして、私は、もと来た道を戻ろうとした。

だが、視界が、なかった。

部屋じゅうが、茶色の泥に満たされていた。ヘッドライトの光は、その泥に反射して、目の前一メートルで、白い壁になって跳ね返ってくる。何も、見えない。上も、下も、前も、後ろも、わからない。

落ち着け、と私は自分に言った。

これは、想定していたことだ。建物のなかで泥を巻きあげれば、こうなる。慌てるな。記憶を頼れ。私は、玄関から入って、土間を抜け、板の間を上がり、奥の間へ来た。だから、戻るには、逆をたどればいい。奥の間を出て、板の間を下り、土間を抜けて、玄関へ。

私は、手を伸ばした。壁を、探した。

壁が、なかった。

指が、宙を泳いだ。

あるはずの壁が、ない。私は、向きを、見失っていた。泥のなかで、自分の体が、いつのまにか、回転していたのだ。どちらが入口で、どちらが奥なのか、わからなくなっていた。

呼吸が、速くなった。

吸って、吐いて。泡の音が、耳のなかで、大きく響く。私は、空気の残量計を確かめた。半分を、切っていた。引き出しをこじ開けるのに、思っていたより、時間と空気を使っていた。

落ち着け。落ち着け。

私は、目を閉じた。

水のなかでは、目よりも、指のほうが、ものをよく見る。

私は、ゆっくりと、手を伸ばした。指先で、まわりを、探った。藻。梁。崩れた板。私は、それらの感触を、頭のなかで、地図に変えていった。ここに梁がある。ということは、ここは、奥の間の、北側の壁ぎわだ。とすれば、入口は、こちらの方角。

私は、その方角へ、ゆっくりと、体を向けた。

そのとき、左の手首に、何かが、絡んだ。

藻だ、と思った。私は、それを払おうとした。だが、それは、藻ではなかった。もっと、強い。もっと、しなやかで、しかし、はるかに、頑丈なもの。

漁網だった。

いつのものか、わからない。

ダム湖では、ときどき釣り人が網を仕掛ける。あるいは、水位が高かったころ、誰かが捨てた網が、流れこんだのかもしれない。それが、この家の、奥の間の梁のあいだに、四十年か、あるいは数年か、絡みついていた。そして、私が泥を巻きあげ、向きを見失っているあいだに、私の左手首に、絡みついた。

私は、それを、振りほどこうとした。

だが、もがけば、もがくほど、網は、私の体に、絡みついてきた。左手首から、左腕へ。左腕から、肩へ。漁網というのは、そういうものだ。暴れれば暴れるほど、締まっていく。魚を捕るために、そう作られている。

私は、動きを、止めた。

止めなければ、ならなかった。

呼吸が、荒い。空気が、減っていく。視界は、まだ、泥で白い。私は、漁網に絡まれたまま、泥のなかに、漂っていた。

恐怖が、足元から、這いあがってきた。

ここで、死ぬのか、と思った。

私は、この家で、生まれた。そして、この家で、死ぬのか。母の手袋を、胸に抱いたまま。四十年前に沈んだ、この、奥の間で。

ふしぎなことに、その瞬間、私は、ひどく静かな気持ちになった。

恐怖は、たしかにあった。だが、その下に、もっと深い、何か、温かいものが、流れていた。

それは、諦めとは、ちがった。

帰ってきた、という感覚だった。

私は、いつも、どこにも、居場所がなかった。地上では、私は、ひとりだった。妻も、子もなく、友も、ほとんどなく、ただ、水のなかにだけ、安らぎを求めて、潜りつづけてきた。そして、いま、私は、生まれた家の、奥の間で、漁網に絡まれて、漂っている。

もし、ここで死ぬのなら。

それは、帰る、ということなのかもしれない。

母のもとへ。父のもとへ。沈んだ町へ。

私の、ほんとうの、住み処へ。

眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。

母の唄が、聞こえた。今度は、はっきりと。私の耳の、すぐそばで。低い、かすれた、しかし、限りなくやさしい声で。

眠れ、眠れ。

私は、目を閉じた。

体から、力が、抜けていく。空気を、惜しまずに、吐いた。泡が、ゆっくりと、昇っていく。私は、その泡の行方を、目を閉じたまま、感じていた。泡は、上へ、上へ、昇っていく。

上。

そうだ、上だ。

泡は、いつだって、上へ昇る。

私は、目を、開けた。

泡が、見えた。私の口から出た泡が、白い泥のなかを、一筋、立ちのぼっていく。その方向が、上だ。上が、わかれば、入口の方角も、わかる。玄関は、この家の、南側にあった。奥の間は、北。私は、いま、上を、向いている。だとすれば、南は──。

私は、頭を、めぐらせた。

そして、もう一度、自分の体に絡んだ漁網に、意識を集中した。

慌てるな。母の声が、言った。そっと、すくうのよ。力を入れたら破れる。

そうだ。力を、入れてはいけない。

私は、右手を、ゆっくりと、胸元へ持っていった。そこに、ナイフがある。私は、革の手袋をした右手で、ナイフの柄を、握った。鞘から、抜く。刃が、ヘッドライトの光を、わずかに、跳ね返した。

私は、左手首に絡んだ網を、指で、探った。目では、見えない。指で、一本一本、網の糸を、たどっていく。どの糸が、いちばん、私を、締めているか。どの糸を、切れば、ほどけるか。

漁網は、ほどくものではない。母の唄を、なすときのように、一本ずつ、たどっていくものだ。

私は、いちばん深く食いこんだ糸を、指で、探りあてた。刃を、その糸と、自分の手首のあいだに、そっと、差しこむ。手首を、傷つけないように。慎重に。慎重に。

そして、刃を、引いた。

糸が、切れた。

一本、ほどけた。私は、次の糸を探した。差しこみ、引いた。また、切れた。二本目。三本目。

私は、急がなかった。急げば、ナイフが、自分の体を傷つける。あるいは、ウェットスーツを切り裂き、水が、入りこむ。そうなれば、終わりだ。私は、母が金魚すくいの網の角度を教えてくれたときのように、ゆっくりと、ていねいに、一本ずつ、糸を、切っていった。

吸って、吐いて。泡が、昇る。私は、その泡を、道しるべにした。上が、ここ。だとすれば、出口は、あちら。

最後の糸が、切れた。

左腕が、自由になった。

私は、漁網から、抜け出した。

体を、泡が昇る方向と、記憶のなかの地図に、合わせる。南。玄関は、南。私は、フィンを、できるだけ、静かに動かしながら、その方角へ、進んだ。

泥は、まだ、濃い。だが、私は、もう、慌てなかった。指で、壁を探す。梁を探す。一つずつ、感触を、地図に変える。ここに、柱。ここで、部屋が、変わる。板の間。床板の、抜けた跡。私は、それを、またいだ。土間。冷たい、泥の感触。そして──

光が、見えた。

緑がかった、ぼんやりとした光。玄関の、四角い闇の向こうに、外の水の、わずかな明るさが、にじんでいた。

私は、そこへ、向かった。

玄関を、抜けた。

外へ、出た。

家の外の水は、澄んでいた。

巻きあげた泥は、家のなかに、こもっていた。一歩、外へ出れば、そこには、いつもの、緑の、静かな水があった。私は、ヘッドライトの光のなかで、自分の手のなかを、確かめた。右手には、ナイフ。そして、胸の内側には──

私は、ウェットスーツの胸元に、手を入れた。

手袋は、そこにあった。

崩れかけた、母の、白い手袋。私は、それを、しっかりと、胸に押し当てた。失わなかった。あの、混乱のなかでも、私は、それを、失わなかった。

私は、空気の残量計を、見た。

もう、わずかしか、残っていなかった。私は、浮上を、はじめなければならなかった。

私は、家を、振り返った。

藻の垂れる、貝に覆われた、私の、生まれた家。四十年、水の底で、別の命の住み処となってきた家。来月には、水が抜かれ、泥のなかに姿を現し、そして、おそらく、崩される家。

さようなら、と私は、心のなかで言った。

ありがとう。

私は、家に背を向け、ロープを探して、本通りへと、泳ぎはじめた。

浮上には、時間をかけなければならない。

深いところから一気に浮上すれば、血のなかに溶けた窒素が泡になり、体を、内側から、壊す。だから、潜水士は、急がない。決められた深さで、決められた時間、止まり、体を、水圧に、慣らしながら、ゆっくりと、昇っていく。

私は、ロープを伝って、昇った。

二十メートル。十五メートル。光が、しだいに、色を取り戻していく。緑に、橙が混じり、橙に、赤が混じる。世界が、色を、思い出していく。私は、決められた深さで、止まった。三分。私は、そこに、漂いながら、待った。

待つあいだ、私は、母の手袋を、もう一度、胸の内側で、確かめた。

そこに、ある。崩れかけて、形を失いかけて、それでも、たしかに、ある。母が、四十年前、沈む町に、置いていったもの。母の、知らない物語の、片方だけの、形見。

私は、それを、持ちあげる。

水の上へ。光の、ある世界へ。

そして、もう片方の手袋のことは、永遠に、わからないままだろう。それでいい。母には、母の物語がある。私が、その物語を、知る必要は、ないのだ。私が、すべきことは、ただ、母が残したものを、すくいあげ、それを、光のあるところへ、連れて帰ること。それだけだ。

そっと、すくうのよ。

私は、最後の停止を、終えた。

そして、最後の数メートルを、ゆっくりと、昇りはじめた。

水面が、近づいてくる。

頭上で、水の天井が、揺れていた。銀色に、きらめいていた。私は、その、揺れる銀の天井へ向かって、昇っていった。

そして、私は、水面を、破った。

夜だった。

私が潜りはじめたのは、午後だった。だが、思っていたより、ずっと長く、私は、水の底にいたらしい。空は、いつのまにか、深い藍色に、変わっていた。

私は、レギュレーターを、外した。

外気が、頬を、撫でた。冷たく、湿った、秋の夜の空気。私は、大きく、息を、吸った。生まれて初めて、息を吸うように。肺が、いっぱいに、ふくらんだ。

湖面は、静かだった。

風は、なかった。水面は、鏡のように、夜空を、映していた。私は、仰向けになって、その水面に、体を、預けた。空が、見えた。星が、いくつも、瞬いていた。

そして、その空に、一つだけ、ふしぎな星が、あった。

それは、長い、尾を、引いていた。

蒼白い、長い、長い尾。夜空を、横切るように、その星は、静かに、尾を、たなびかせていた。彗星だった。私は、それが、何という名の彗星か、知らなかった。だが、それは、ただの、星ではなかった。長く、忘れられていたものが、また、巡ってきた──そんな、気配を、まとっていた。

私は、その彗星を、見あげた。

そして、湖面に、目を、移した。

鏡のような水面に、その蒼い尾が、映っていた。空の彗星と、水のなかの彗星が、水面を境に、対になって、たなびいていた。まるで、片方だけの手袋に、もう片方が、ようやく、巡りあったかのように。

私は、胸の内側から、母の手袋を、取り出した。

崩れかけた、白い、左手の手袋。私は、それを、水面に、近づけた。手袋の、崩れた指のあいだから、湖の水が、したたり落ちる。その雫の一つひとつに、空の彗星の、蒼い尾が、小さく、映っていた。

母さん、と私は、声に出して、言った。

四十年ぶりの、母の手袋に、彗星の光が、宿っていた。

岸では、若い男が、私を、待っていた。

「無事ですか」と、彼は、叫んだ。「無線が、つながらなくて。心配しました」

私は、片手をあげて、応えた。もう一方の手は、母の手袋を、胸に、押し当てたままだった。

ゆっくりと、私は、岸へ、向かって、泳いだ。

夜の湖を、泳ぎながら、私は、何度も、空を、見あげた。彗星は、まだ、そこにあった。蒼い尾を、引いて、ゆっくりと、夜空を、わたっていく。

眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。

母の唄が、聞こえた。今度は、悲しくは、なかった。

星が、海を、わたっていた。海のない、この山のなかの、湖の上を。母が、唄った、ないものの唄が、いま、目の前に、あった。

私は、泳ぎながら、その唄を、口ずさんだ。

低い、かすれた声で。母が、唄ったのと、同じ声で。

岸に上がると、若い男が、タオルを差し出した。

私は、それを受け取り、しかし、すぐには、使わなかった。私は、まず、母の手袋を、平らな岩の上に、そっと、置いた。崩れないように。母が、簞笥から取り出して、膝の上に広げたときの、あの、ていねいな手つきで。

「それ、何ですか」と、若い男が、尋ねた。

私は、彼を、見た。彼は、まだ、二十代の半ばだろう。瀬戸の町を、知らない世代だ。彼にとって、この湖は、ただの、ダム湖だ。底に、町があったことなど、想像も、しないだろう。

「母の、形見だ」と、私は、答えた。

「形見……ですか。湖の、底に?」

「ああ」と、私は、言った。「四十年、待っていた」

若い男は、ふしぎそうな顔を、した。だが、それ以上は、尋ねなかった。彼は、ただ、私の隣に、しゃがみこんで、岩の上の、崩れかけた手袋を、しばらく、見ていた。

「片方だけ、なんですね」と、彼は、言った。

「ああ」と、私は、言った。「片方だけだ」

「もう片方は、どこに……」

「わからない」と、私は、言った。「ずっと、わからない。たぶん、これからも、わからないだろう」

若い男は、黙った。

私たちは、二人で、しばらく、その手袋を、見ていた。やがて、若い男が、立ちあがり、空を、見あげた。

「あれ、彗星じゃないですか」と、彼は、言った。「すごいな。初めて見た」

私も、立ちあがって、空を、見あげた。

彗星は、まだ、そこにあった。蒼い尾を、引いて。

「珍しいんですか」と、彼は、尋ねた。

「珍しいだろうな」と、私は、言った。「次に来るのは、何百年か、何千年か、先かもしれない。あれは、長いあいだ、忘れられていた星だ。それが、また、巡ってきた」

「忘れられていた星」と、若い男は、繰り返した。

「ああ」と、私は、言った。

そして、私は、岩の上の、母の手袋を、もう一度、見た。

忘れられていたもの。長いあいだ、水の底に、沈んでいたもの。それが、また、光の、あるところへ、巡ってきた。彗星のように。

その夜、私は、湖のほとりの、小さな宿に、泊まった。

普段は、潜水のあと、その日のうちに、家に帰る。だが、その夜は、帰る気に、なれなかった。私は、母の手袋を、濡れたまま崩れてしまわないように、宿の主人に頼んで、桐の箱を、譲ってもらった。古い、煙草の道具でも入っていたような、小さな箱だった。そこに、手袋を、そっと、納めた。

宿の窓からは、湖が、見えた。

私は、灯りを消して、窓辺に、座った。彗星は、まだ、空に、あった。湖面に、その蒼い尾が、映っていた。

私は、煙草を、吸いたく、なった。

だが、私は、もう、ずいぶん前に、煙草を、やめていた。それでも、その夜は、なぜか、吸いたかった。私は、宿の帳場まで、降りていって、主人に、煙草はないか、と尋ねた。主人は、自分の吸いさしの箱を、私に、くれた。そして、火が、いるだろう、と言って、引き出しから、マッチを、取り出した。

それは、深い藍色の、マッチ箱だった。

箱には、三日月が、一つ、刻印されていた。

「珍しいでしょう」と、主人は、言った。「月光堂、いう店のだそうですよ。もう、ない店だと、思いますがね。先代から、ずっと、置いてあるんです」

私は、その、藍色のマッチ箱を、手のなかで、見つめた。三日月の刻印が、帳場の、わずかな灯りに、鈍く、光った。

私は、礼を言って、それを、借りた。

部屋に、戻った。

私は、窓辺に、座って、煙草に、火を、つけた。藍色の箱から、マッチを、一本、取り出し、擦った。小さな炎が、闇のなかに、ふっと、灯った。三日月の刻印された箱から生まれた、その炎を、私は、しばらく、見つめた。

煙草の煙が、ゆっくりと、立ちのぼった。窓の外では、彗星が、蒼い尾を、引いていた。

私は、桐の箱を、膝の上に、置いた。

蓋を、開けた。

母の手袋が、そこに、あった。

私は、それを、見つめた。母が、いつも、そうしていたように。撫でるでもなく、嵌めるでもなく、ただ、見つめた。

四十年前、母は、なぜ、これを、置いていったのか。私は、いまも、知らない。母の、若いころに、何があったのか。「あんたの知らない人」とは、誰だったのか。もう片方の手袋は、どこへ、行ったのか。

私は、何も、知らない。

だが、私は、いま、母が、見つめていたものを、見ていた。

母が、年に一度か二度、簞笥から取り出して、膝の上で、見つめていた、そのものを、私は、いま、私の手で、握っている。母が、見ていた、その手袋を、私も、見ている。それで、じゅうぶんだった。母の物語を、知る必要は、なかった。私は、ただ、母が、大事にしていたものを、知っていればよかった。そして、それを、母に代わって、見つめていればよかった。

ないものを、唄うのが、子守唄や。

ないものを、ないまま、抱きしめること。それが、母の、教えだったのかもしれない。

夜が、更けていった。

煙草は、とうに、消えていた。私は、桐の箱を、閉じ、それを、枕元に、置いて、横になった。

目を、閉じると、水の音が、聞こえた。

実際の音では、ない。私の、耳の奥に、残っている、水の音だ。レギュレーターを、通る、空気の音。泡の、弾ける音。そして、その、二つの音のあいだの、深い、深い、静けさ。

私は、その静けさのなかで、母の唄を、思い出していた。

眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。

母は、これを、私に、唄った。私が、覚えていないほど、小さなころに。そして、母も、母の母から、これを、唄ってもらった。この谷では、みんなが、この唄で、寝かしつけられた。星が、海をわたるまで。海のない、山のなかの谷で。

その谷は、いま、水の底に、ある。

そして、その水の上を、彗星が、わたっていく。星が、海を、わたっていく。

私は、いつのまにか、眠っていた。

翌朝、私は、早くに、目を覚ました。

窓の外は、白んでいた。彗星は、もう、見えなかった。朝の光に、溶けて、消えてしまったのだ。

私は、桐の箱を、抱えて、宿を、出た。

湖は、朝靄のなかに、静かに、横たわっていた。水面は、銀色に、光っていた。私は、ほとりに立って、しばらく、その水面を、見ていた。

この水の下に、町がある。

来月には、その水が、抜かれる。町は、泥のなかから、姿を現し、そして、崩される。私が、潜ることは、もう、ないだろう。沈んだ町を、くぐる潜水士は、私で、最後だ。

私は、桐の箱を、抱きしめた。

そのなかに、母の、片方だけの、手袋が、ある。四十年、水の底で、待っていたもの。私が、すくいあげた、ないものの、片割れ。

私は、湖に、背を向けた。

そして、歩きはじめた。

光の、あるほうへ。

帰り道、私は、ふと、ある店のことを、思い出した。

宿のすぐ近く、湖へ降りる坂の途中に、ゆうべは、たしかに、なかったはずの、小さな店があった。古びた、木造の、二階建て。軒先に、色のあせた暖簾が、かかっていた。看板には、薄れた文字で、こう、書いてあった。

月光書房。

私は、その前で、足を、止めた。

古書店らしかった。硝子戸の向こうに、天井まで届く本棚が、ぎっしりと、並んでいるのが、見えた。だが、人の気配は、なかった。硝子戸には、鍵が、かかっていた。

ゆうべは、なかった、と私は、思った。たしかに、なかった。私は、この坂を、宿へ向かって、歩いたのだ。こんな店は、なかった。

私は、暖簾を、見あげた。

朝の光のなかで、その店は、半ば、透けているように、見えた。まるで、いまにも、消えてしまいそうな。

私は、ふと、ゆうべの、彗星のことを、思った。

彗星の見える夜にだけ、現れる店、という言い伝えを、私は、どこかで、聞いたような、気が、した。だが、それが、どこだったか、思い出せなかった。母から、聞いたのかもしれない。あるいは、ただの、私の、思い違いかもしれない。

私は、もう一度、暖簾を、見た。

そして、桐の箱を、抱え直して、坂を、降りていった。

振り返ると、店は、もう、なかった。

ただ、朝の光が、坂を、照らしているだけだった。

水は、最初に音を奪う。そして最後に、忘れていたものを、返してくれる。

私は、母の手袋を抱えて、家へ帰った。沈んだ町は、まもなく、水の上に、姿を現すだろう。だが、私は、もう、潜らない。私が、すくいあげるべきものは、すくいあげた。あとは、町を、町の、好きなように、させてやればいい。水のなかで、生き、水のなかで、もう一度、死に、そして、泥に還っていく。それでいい。

ただ、私は、これからも、ときどき、あの唄を、口ずさむだろう。

眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。

そして、夜空に、もう一度、あの彗星が、巡ってくる日が、来たなら、私は、湖のほとりに立って、その蒼い尾が、水面に映るのを、見るだろう。空の彗星と、水のなかの彗星。片方と、もう片方。対になって、たなびく、二つの光を。

そのとき、私の、隣には、母が、いるような、気が、する。

片方だけの手袋を、膝に置いて。

そして、私たちは、二人で、その、ないものの片割れが、ようやく、巡りあうのを、見るのだ。

この物語にひそむ符牒

ほかの物語と、ひそかに分かち合っているもの:

  • ミラ彗星
  • 月光堂のマッチ
  • 子守唄
  • 月光書房
  • 片方の手袋

十二をつなぐ符牒について →

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