月光書房
亥の刻 ・ 夜 ・ 第 九 話

月を釣ろうとした狐

榛野 ゆふ
寓話・童話 ・ 約30頁

むかし、月をほしがった狐の話を、わたしは祖母から聞いた。祖母はそれを、自分の祖母から聞いたという。だから、この話がほんとうにあったことなのか、それともただ夜なべの口寄せに語りつがれてきたものなのか、いまとなっては誰にもわからない。ただ、こういうことだけはたしかだ。森のはずれに、まるい池がひとつあって、その水は、晴れた夜にはどんな鏡よりもよく月をうつした、ということ。そして、その池のほとりに、ひとりの若い狐が棲んでいた、ということ。

その狐の名は、語りつたえのなかでは伝わっていない。だからわたしは、ただ「狐」と呼ぶことにする。けれどもしあなたが、毛なみのうつくしい、目のくりりとした、首をかしげるくせのある若者を思いうかべてくれるなら、それでじゅうぶんだ。狐というのはたいてい、そういう顔をしているものだから。

その狐は、ほかの狐とすこしちがっていた。何がちがっていたかというと、欲のかたちがちがっていたのだ。ふつうの狐は、鶏をほしがる。あぶらののった鼠をほしがる。あたたかな寝床と、雪をしのぐ穴をほしがる。けれどもこの狐は、そういうものにはあまり心を動かさなかった。腹がへれば食べたし、寒ければ丸くなったが、それだけのことだった。

この狐がほんとうにほしがったもの──それは、月だった。

ことのおこりは、ある春の宵だったという。

その年の春は、おそくやってきた。山にはまだ斑(まだら)に雪がのこっていて、池のふちの草も、ようやく緑の先をのぞかせたばかりだった。けれども風はもう、土と水のにおいをはこんでいて、夜になると、どこかで蛙(かえる)がひとつ、ふたつと、ためすように鳴いていた。

その晩、狐は池のほとりに出て、水をのもうとした。からだをかがめ、口を水面につけようとした、まさにそのとき──狐は、それを見た。

水のなかに、月があった。

まんまるで、こがね色で、ふちがほんのわずかにふるえている、それはそれは見事な月だった。狐はおどろいて、顔をあげた。空にも、おなじ月があった。けれども狐の目には、水のなかの月のほうが、ずっと近く、ずっと手にとれそうに見えたのだ。空の月は遠い。けれども水の月は、ほら、すぐそこ、鼻先にある。

狐は、ごくりとつばをのんだ。

「あれが、ほしい」

と、狐はつぶやいた。なぜほしいのか、自分でもわからなかった。食べられそうにも見えなかったし、あたためてくれそうにも見えなかった。けれども、世のなかにあれほどうつくしいものがあって、それが手のとどくところにあるというのに、ほしがらずにいられる者がいるだろうか。すくなくとも、この狐にはできなかった。

狐は、そっと前足をのばした。

水面に、足の先がふれた。

とたん、月はくしゃりとくずれ、こなごなにくだけて、銀色のかけらになって、池じゅうにちらばってしまった。

狐は、あわてて足をひっこめた。

「ああ、こわしてしまった」

と、狐は悲しくなった。けれども、しばらくじっと待っていると──ふしぎなことに、月はまた、もとどおりにもどってきた。さざ波がしずまるにつれ、銀色のかけらはひとところにあつまり、ふたたびまんまるの、こがね色の月になった。

狐は、ほうっと息をついた。

「そうか。こわれても、もどるのか」

それから狐は、その夜じゅう、池のほとりにすわって、月をながめていた。ときどき前足でそっとふれては、月をくずし、くずれた月がまたもどるのを、根気よく待った。何度ためしても、月はもどってきた。狐はそれが、うれしくてたまらなかった。けれども同時に、こうも思ったのだ。

「ふれるだけでは、だめだ。これを、すくいあげなくては。この池から、つりあげなくては。そうすれば、月はわたしのものになる」

これが、わざわいのはじまりだった。

そのあくる日から、狐は月をつる工夫をはじめた。

はじめにためしたのは、いちばんかんたんな方法だった。つまり、前足ですくいあげる、というやり方である。

その晩、月がのぼると、狐はそうっと池に近づいた。月をおどろかせないように──いや、月がおどろくはずもないのだが、狐はそう思っていた──足音をしのばせ、息をころし、水のふちにかがみこんだ。そして、月のま下に前足をさしいれ、いっきにすくいあげた。

ばしゃん、と水が散った。

狐の前足のなかには、つめたい水がほんのすこし、それだけがのこっていた。月は、どこにもなかった。

狐は、すくいあげた水をじっと見た。指のあいだから、水はぽたぽたとこぼれおちていった。やがて足のなかがからになると、狐はもういちど池を見た。波がしずまると、月はまた、もとのところにもどっていた。何ごともなかったような顔をして。

「にげ足のはやいやつだ」

と、狐は思った。

それから狐は、毎晩のように、月をすくおうとした。両足でいっきにすくってみた。そっと、ゆっくりすくってみた。横からすくってみた。下からすくってみた。けれども、どんなにうまくやっても、足のなかにのこるのは水ばかりで、月は一度も、つかまらなかった。

春のあいだじゅう、狐はそうしていた。

ある朝のことだった。

つかれて池のほとりにうずくまっている狐のところへ、ちいさな子狐が、とことこと、やってきた。まだ乳ばなれしたばかりの、ころころとまるい、雪うさぎのような子狐だった。となりの谷の、はやり病で母をなくしたとかで、このごろ、ひとりで森をうろついているのを、狐も二、三度、見かけたことがあった。

子狐は、池のふちにすわっている狐のとなりに、ちょこんとすわった。そして、まんまるな目で、水のなかをのぞきこんだ。

「狐の兄さん」と、子狐が言った。「なにを、見ているの」

「月だ」と、狐はこたえた。「夜になると、ここに、月が、うつるのだ。それはそれは、うつくしい月がな」

「いまは、昼だよ」

「いまは、昼だ。だから、いないのだ。けれど、夜になれば、もどってくる」

子狐は、しばらく水を見ていたが、そこには昼の空と、自分の顔がうつっているばかりで、月など、どこにもなかった。子狐は、つまらなそうに、足で水をぴしゃぴしゃとはねた。

「ねえ、兄さん。月をとって、どうするの」

狐は、口をひらきかけて、こまった。

「わたしの、ものにするのだ」と、狐はやっと言った。

「ものにして、どうするの」

「……ながめるのだ。いつでも、すきなときに」

「夜になれば、ながめられるじゃない。とらなくても」

狐は、なにも言えなかった。子狐の言うことは、たしかに、そのとおりだった。けれども、それでは、足りないのだ。空にあるものは、みんなのものだ。けれど、すくいあげて、ふところに入れてしまえば、それは、わたしひとりのものになる。──そう思うと、狐の胸は、ふしぎな熱で、いっぱいになった。その熱を、子狐に、どう話してよいか、狐には、わからなかった。

子狐は、やがて、あくびをして、よちよちと、藪のなかへ、かえっていった。

「夜になったら、また、来るね。月、見せてね」

と、子狐は言った。

けれども、その晩、狐は、月をすくうのに夢中で、子狐のことを、すっかりわすれていた。子狐は、池のすこしはなれたところで、ちんまりとすわって、しばらく狐を見ていたが、月などついに見えず、つかれて、いつのまにか、ねむってしまった。あくる朝、狐がふと気づくと、子狐は、もう、いなかった。草のうえに、ちいさな寝あとが、ひとつ、のこっているだけだった。

狐は、すこし、むねがいたんだ。けれども、その痛みも、つぎの晩、月がのぼると、すっかり、わすれてしまった。

森のほかのけものたちは、そんな狐を見て、くすくす笑った。栗鼠(りす)が枝のうえから、

「おうい、狐どん。きょうも漁(りょう)かい。なにがとれた」

とからかった。狐はむっとして、

「いまにとってみせる。あれは、わたしのものになるんだ」

と言いかえした。栗鼠は、よけいに笑った。

兎(うさぎ)も笑った。狸(たぬき)も笑った。鴉(からす)などは、わざわざ池のうえを飛んでいって、はねで水面をたたいて月をくずし、

「ほうら、にげたぞ、にげたぞ」

とはやしたてた。狐は鴉をにらんだが、鴉は知らぬ顔で飛んでいってしまった。

けれども、笑わない者がひとりだけいた。

それは、森のいちばん奥の、ふるい樫(かし)の木のうろに棲んでいる、年とった狐だった。

その老狐は、毛なみはもうすっかり灰色になって、片方の耳がすこしかけていた。長いこと生きてきて、いろいろなものを見てきたという、その目だけが、おだやかに澄んでいた。老狐は、若い狐が池で月をすくおうとしているのを、ときどき、すこしはなれた草むらから、だまって見ていた。

ある晩、若い狐がいつものように足をぬらして、しょんぼりしていると、老狐がそばに来た。

「精が出るな」

と、老狐は言った。

若い狐は顔をあげた。

「あれが、ほしいのです」と、若い狐は池の月を指して言った。「どうしても、つかまらない」

老狐は、池をのぞきこんだ。それから、しずかに言った。

「それは、月ではないよ」

「月です」と、若い狐はむきになった。「ほら、こんなに、まるくて、金色で。空の月と、そっくりだ」

「そっくりだとも」と、老狐はうなずいた。「けれどな、そっくりということと、おなじということは、ちがうのだ」

若い狐には、その言葉のいみがわからなかった。老狐は、それ以上はなにも言わずに、ゆっくりと奥へかえっていった。かけた耳をかたむけて、なにかの音を聞くように、ときどき立ちどまりながら。

若い狐は、そのうしろ姿を見おくった。それから、また池をふりかえった。月は、やはりそこにあった。まるくて、金色で、うつくしかった。

「そっくりなら、それで、いいではないか」

と、若い狐はつぶやいた。老狐の言葉は、すぐにわすれてしまった。

やがて、夏が来た。

森はみどりにむせかえり、池には睡蓮(すいれん)の葉がうかび、夜になると、無数の蛍(ほたる)が水のうえを舞った。空気は重く、あたたかく、虫の声がたえまなくつづいた。

夏のあいだ、若い狐は、新しい工夫をこらした。

足ですくえないのなら、道具を使えばいい、と狐は考えたのだ。

まず狐は、川べりへ行って、大きな蓮(はす)の葉をとってきた。これを柄杓(ひしゃく)がわりにして、月をすくおうというのである。狐は蓮の葉をくわえ、池のふちにかがみこんだ。月のま下に葉をさしいれ、すいっとすくいあげた。

葉のなかには、水がたまった。けれども月は、やはりなかった。狐が葉をかたむけて水をすてると、月はまた、もとのところにもどっていた。

「葉では、目があらいのかもしれない」

と、狐は思った。それで、つぎは別のものをためした。狐は、自分のしっぽを使うことにしたのである。

ふさふさとした、自慢のしっぽだ。これを池にひたして、月をからめとろうというのだ。狐は、しっぽを水につけ、月をぐるりとなでまわすようにして、いきおいよくふりあげた。

しずくが、夜空にきらきらと散った。それはそれで、なかなかうつくしいながめだった。けれども、しっぽについていたのは、水と、葉くずと、たまたまからまった蛍が一匹だけ。月は、つかまっていなかった。蛍は、おどろいてしっぽからはなれ、ふわりと闇のなかへ飛んでいった。

狐は、ぬれたしっぽを、しょんぼりとたらした。

それでも狐は、あきらめなかった。夏のあいだじゅう、ありとあらゆる道具をためした。あしの茎を編んで、ざるのようなものをつくってみた。木の皮をまるめて、つつのようなものをつくってみた。蜘蛛(くも)の巣をあつめて、網(あみ)のようなものをこしらえてみた。けれども、どれをためしても、けっかはおなじだった。月は水のなかにあって、すくおうとすればくずれ、待っていればもどってくる。けっして、つかまらなかった。

そんなある晩、狐が、また網をかまえていると、池の上手(かみて)の岩のかげから、ぬっと、まるい影が、あらわれた。

それは、年とった狸だった。この森のぬしのような、腹のでっぷりとした古狸で、よなよな、田の畔(あぜ)に出ては、人を化かしてあそぶという、いたずらものだった。

「やれやれ」と、古狸は、のっそりと近づいてきて、言った。「これは、これは。月をつる狐どんと聞いて、わざわざ、見にきたわい。なるほど、たいした、ねっしんぶりだ」

狐は、用心して、古狸をにらんだ。化かされては、かなわない。

「ふん、笑いに来たのなら、かえれ」

「いやいや、笑いになど、来てはおらん」と、古狸は、太い前足で、腹をぽんとたたいた。「むしろ、感心しておるのだ。──だがな、狐どん。おまえさん、やり方が、まずいぞ。月というものはな、すくっても、つっても、とれはせん。月をとろうと思うたらな、化かすにかぎる」

「化かす……?」

「そうとも。わしらの、お家(いえ)げいよ。よいか、見ておれ」

そう言うと、古狸は、池のほとりに、どっかとすわり、ふうっと、大きく息を吸った。すると、ふしぎなことに、古狸のからだが、もやもやと、けむりのようにふくらんで、みるみる、まんまるの、金色の月の、かたちになった。それはそれは、よくできた、にせ月だった。

「どうだ」と、月のかたちになった古狸の声が、もやもやのなかから、した。「空の月が、これを見たら、おどろいて、おりてくる、かもしれんぞ。にた者には、にた者が、ひかれるものだ」

狐は、息をのんで、待った。空の月は、おりてこなかった。しばらくすると、古狸は、ふくらませた息がつづかなくなって、ぷしゅう、と、もとの、腹のでっぷりした狸に、もどってしまった。

「……ふむ。きょうは、しっぱいだ」と、古狸は、けろりとして言った。「だがな、いつかは、うまくいく。なに、百年もやれば、な」

そして、古狸は、げらげら笑いながら、岩のむこうへ、ゆっくりと、かえっていった。

狐は、しばらく、あっけにとられていた。けれども、やがて、こう思った。化かすのは、わたしには、できない。けれど、月をおびきよせる、というのは、よい考えかもしれない。にた者には、にた者が、ひかれる。──ならば、わたしも、月にひかれるものを、用意すればよいのだ。

狐は、その晩から、しばらく、光るものをあつめることに、夢中になった。けれども、なにを水面においても、月は、見むきも、しなかった。古狸の知恵も、けっきょく、月には、とどかなかったのである。

ある蒸しあつい晩のことだった。

狐がいつものように池とにらめっこをしていると、池の上手(かみて)のほうから、ぴちゃ、ぴちゃ、と水を打つ音がした。見ると、一匹の蛙が、睡蓮の葉のうえにすわって、こちらを見ていた。

「狐どん」と、蛙が言った。「おまえさん、いったい何をしているのかね。毎晩、毎晩」

「月をとろうとしているのだ」と、狐はこたえた。

蛙は、ぎょろりとした目で、池をながめた。それから、げらげらと笑った。

「月だって。これが。おまえさん、ばかだねえ」

「ばかとは、なんだ」と、狐はむっとした。

「だってそうだろう。これは、月の影さ。ほんものの月は、ほら、あすこ、空のうえ。おまえさんがすくおうとしているのは、ただの、うつしだよ。水がゆれれば、こわれる。風がふけば、ゆがむ。雲がかかれば、消えてしまう。そんなものを、つかまえようたって、つかまるものか」

狐は、しばらくだまっていた。それから、こう言った。

「では、なぜ、こんなにうつくしいのだ」

蛙は、こたえにつまった。

「うつしだというのなら、なぜ、こんなにうつくしいのだ。にせものが、こんなにうつくしいはずがない。これは、ほんものだ。ほんものの月が、ここにいるのだ。ただ、つかまえ方を、わたしが知らないだけだ」

蛙は、なにか言いかけて、やめた。それから、ぴょん、と水にとびこんで、どこかへ行ってしまった。蛙がとびこんだはずみに、月は大きくゆれて、こなごなにくだけた。そして、波がしずまると、また、もとどおりにもどった。

狐は、その月を、いつまでも見ていた。

夏の夜は短い。気がつくと、東の空がうっすらと白みかけていた。すると、池のなかの月は、しだいに色をうしない、うすれ、やがて、朝の光のなかに、すうっと消えてしまった。

狐は、はっとした。

「月が、消えた」

狐は、おそろしくなった。あれが消えてしまったら、二度ともどってこないのではないか。そう思うと、いてもたってもいられなかった。けれども、その晩になると、月はまた、何ごともなかったように、池のなかにもどってきた。まるくて、金色で、うつくしかった。

狐は、ほっとした。そして、こう思った。

「やはり、あれは、生きているのだ。朝になると、どこかへかくれて、夜になると、もどってくる。だから、つかまえるなら、夜のあいだだ。夜のあいだに、つかまえなくては」

夏がいって、秋が来た。

森の木々は、はしのほうから色づきはじめた。楓(かえで)が赤くなり、銀杏(いちょう)が黄色くなり、夜風はつめたく、すんで、虫の声はほそく、かなしげになった。池の水も、ひえびえとして、月は、夏よりもいっそう、くっきりと、つめたく、うつくしくうつるようになった。

秋になって、狐の考えは、かわった。

すくおうとするから、いけないのだ、と狐は気づいたのである。すくおうとして水をかきまわすから、月はくずれる。そうではなくて、月のほうから、わたしのところへ来るように、しむければよいのだ。つまり──月を、つるのである。

狐は、つり糸をこしらえることにした。

狐は、自分のひげを、ぬいた。

これは、たいへんなことだった。狐のひげは、まっくらな夜道で、ものの遠近(おちこち)をはかる、だいじな道具だ。けれども狐は、月のためなら、ひげの一本や二本、おしくはなかった。狐は、つよく長いひげを三本えらんで、それをていねいに、よりあわせ、一本の糸にした。

糸の先には、何をつけよう、と狐は考えた。月のすきなもの。月が、おもわず食いつくもの。

狐は、いろいろと考えたすえに、こうきめた。

「月は、光がすきにちがいない。なら、光るものを、えさにすればよい」

そこで狐は、森じゅうをかけまわって、光るものをあつめた。朝つゆにぬれた蜘蛛の巣のかけら。雲母(きらら)のかけら。きらきらと光る、川底の小石。そういうものを、ひげの糸の先にむすびつけた。それから、ほそい枝を一本、さおにして、その糸をたらした。

その晩、狐は、池のほとりにすわって、つりをはじめた。

月のま上に、さおをかまえ、光るえさを、月のすぐそばに、そっと、たらした。それから、じっと、待った。

狐は、根気のいい狐だった。ひと晩じゅう、身うごきもせず、つり糸を見つめていた。糸の先のえさは、水面で、ちらちらと光った。けれども、月は、うんともすんとも言わなかった。ただ、まるく、金色に、つめたく、そこにあるだけだった。食いつきもしなければ、にげもしなかった。

夜があけて、月が消えても、狐は、まださおをかまえていた。

つぎの晩も、狐はつった。そのつぎの晩も、つった。秋のあいだじゅう、毎晩、毎晩、狐は月をつった。えさをかえてみた。糸の長さをかえてみた。さおの角度をかえてみた。月がねむっているうちにつろうと、夜ふけにつってみた。月がめざめたばかりのところをつろうと、宵のうちにつってみた。けれども、けっかは、いつもおなじだった。月は、けっして、えさに食いつかなかった。

つりにつかれた、ある夜ふけのことだった。

狐が、さおを岸において、ぼんやりしていると、すいっと、音もなく、池のおもてを、なにかが、すべってきた。なめらかな、つやのある、こげ茶の生きものだった。川獺(かわうそ)だった。

川獺は、狐のま下の水面まで来ると、ひょいと顔を出して、口に、ぴちぴちはねる魚を、一匹、くわえていた。

「狐どん」と、川獺は、魚をのみこんでから、言った。「あんた、毎晩、ここで、なにを、つっているんだね。糸はたれているが、いっこうに、なにも、つれた様子がない」

「月を、つっているのだ」と、狐は、ものうげに、こたえた。

川獺は、水のなかで、くるりと、ひとまわりした。

「月かい。そりゃあ、つれんよ。わしは、水のなかを、すみからすみまで、知っているがね、月なんてものは、いちども、見たことがない。魚はいる。蝦(えび)もいる。泥のなかには、貝もいる。けれど、月は、いない。水の底には、月の、根っこも、しっぽも、ありゃせんのだ」

「うそだ」と、狐は言った。「水の上には、ちゃんと、月が、うつっている」

「上にはな」と、川獺は言った。「上には、うつっている。けれど、もぐってみると、ないのだ。ふしぎだろう。あれは、水の、上っかわだけに、はりついている、うすい、うすい、光の皮(かわ)さ。わしが下からのぞくと、月のうらには、なんにも、ない。ただ、夜の空が、すけて見えるばかりさ」

狐は、その言葉を、よく、のみこめなかった。けれども、川獺が、水の底まで知っていて、そこには月がない、と言うのは、なんだか、ぞっとするような話だった。月が、水のなかにいるのなら、つかまえようも、あるだろう。けれど、もし、川獺の言うとおり、水のなかに、月の根っこも、しっぽも、ないのだとしたら──いったい、自分は、なにを、つろうとしているのだろう。

川獺は、もう一匹、魚をとると、すいっと、夜の川のほうへ、すべっていった。

狐は、その晩、はじめて、つり糸を、たらすのをやめて、ただ、月を、長いこと、見つめていた。けれども、あくる晩には、また、いつものように、さおをかまえていた。川獺の言葉は、こわかったので、わざと、わすれることにしたのである。

そのうちに、狐はやせてきた。

つりに夢中になるあまり、ろくに食べず、ろくにねむらなかったからだ。毛なみはあれ、目はくぼみ、しっぽは、夏のあのつややかさを、すっかりうしなった。

ある月のない晩のことだった。

その晩は、空に雲がたれこめて、月が出ていなかった。だから、池にも、月は、うつっていなかった。狐は、つる相手がいないので、しかたなく、岸にうずくまって、つかれた目を、とじていた。

すると、頭のうえの楓の枝で、ほう、ほう、と、ひくい声がした。梟(ふくろう)だった。まんまるな目をした、年へた梟が、枝のうえから、じっと、狐を見おろしていた。

「人の知らぬことを知る、と言われる梟どんよ」と、狐は、ふと、たずねてみる気になった。「おまえなら、知っているか。月の、つり方を」

梟は、首を、ぐるりと、まわした。

「月の、つり方は、知らぬ」と、梟は言った。「けれど、ひとつ、知っておることが、ある。──月をつろうとした者は、おまえが、はじめてではない、ということだ」

狐は、おどろいて、顔をあげた。

「ずっとむかしにもな、この池のほとりに、月をつる狐が、おった。それから、その子の代にも、おった。孫の代にも、おった。みな、つって、つって、つりつくして、やせほそって、そして、ある冬の晩に、ふいと、いなくなった。──月をつる血すじ、というものが、あるのかもしれんな。おまえも、その、ひとりだ」

「その狐たちは」と、狐は、こわごわ、たずねた。「みんな、どこへ、行ったのだ」

梟は、しばらく、だまっていた。それから、ぽつりと言った。

「さあ。それは、わしにも、わからぬ。ただ──冬の、彗星(ほうきぼし)の出る晩に、いなくなった、とだけ、言いつたえられておる。月のかわりに、もっと、長い尾をひいた星が、むかえに来た、とな。──ほう、ほう。よけいなことを、言うたかな」

そう言うと、梟は、音もなく、羽を、ひろげて、闇のなかへ、飛びたっていった。

狐は、そのうしろを、見おくった。彗星。長い尾をひいた星。──それが、なんのことか、狐には、わからなかった。けれども、その言葉だけが、なぜだか、胸のおくに、しずかに、のこった。

ある霜のおりた晩のことだった。

狐がいつものようにつり糸をたらしていると、すぐ近くの草むらで、かさり、と音がした。見ると、あの年とった狐が、いつのまにか、そこにすわっていた。月の光に、灰色の毛が、銀色にひかっていた。

「まだ、つっているのか」と、老狐は言った。

「つっています」と、若い狐はこたえた。「もうじき、つれます。きっと、つれます」

老狐は、しばらく、若い狐のやせたからだを見ていた。それから、池の月を見た。そして、しずかにたずねた。

「おまえは、あれをつって、どうするつもりだ」

若い狐は、こたえにつまった。

そういえば、考えたことがなかった。月をつって、どうするのか。食べるのか。かざるのか。だれかに見せるのか。狐は、ただ、月がほしかった。手にいれたかった。けれども、手にいれて、それから、どうするのか──それは、いちども、考えたことがなかったのだ。

「わかりません」と、若い狐は、正直に言った。「ただ、ほしいのです」

老狐は、うなずいた。せめるような顔ではなかった。むしろ、どこか、なつかしむような顔だった。

「わしもな」と、老狐は言った。「むかし、つったことがあるよ。月をな」

若い狐は、おどろいて、老狐を見た。

「つれたのですか」

老狐は、わらった。かけた耳が、ゆれた。

「いいや。つれなかった。だれにも、つれやしないのだ。あれは」

「では、どうして、やめたのです」

老狐は、すぐにはこたえなかった。池の月を、ながいこと、見つめていた。やがて、ぽつりと言った。

「それは、また、そのうち、話してやろう。いまは、おまえが、自分でつるがいい。つって、つって、つりつくすがいい。そうしなければ、わからんことも、あるからな」

そう言うと、老狐は、立ちあがった。そして、奥へかえりかけて、ふと、ふりむいた。

「ひとつだけ、おぼえておくといい。──月は、にげてなどおらん。はじめから、そこには、おらんのだ」

そして、老狐は、闇のなかへ消えていった。

若い狐は、その言葉を、いくども、心のなかでくりかえした。けれども、やはり、いみが、わからなかった。月は、ほら、そこにいる。にげてはいない。けれども、いないとは、どういうことだろう。

狐は、つり糸を、また、たらした。

秋もふかまった、ある晩のことだった。

霜のおりた山道を、ひとりの旅人が、ちょうちんをさげて、とおりかかった。笠(かさ)をかぶり、つえをついた、年老いた旅の絵師(えし)だった。絵師は、池のほとりに、やせほそった狐が、さおをかまえて、じっとすわっているのを見て、足をとめた。

「はて」と、絵師は、ひとりごとを言った。「あんなところで、狐が、つりを、しておるわい。ふしぎなこともある」

絵師は、しばらく、狐のすがたを、ながめていた。月の光に、銀色にふちどられた、やせた狐の、さおをかまえる姿は、なんとも、もの悲しく、けれど、どこか、けだかかった。絵師は、ふところから、矢立(やたて)と紙をとりだして、その姿を、さらさらと、写しはじめた。

狐は、絵師には、気づかなかった。気づいても、にげなかったかもしれない。狐の心には、もう、月のことしか、なかったのだから。

絵師は、絵をかきおえると、ほうっと、ためいきをついた。

「月をつる狐、か。──とれもせぬものに、よくも、あれだけ、こころを、そそげるものよ。にんげんも、けものも、かわりは、ないのう。みな、てのとどかぬものを、ほしがって、いきておる」

そうつぶやくと、絵師は、ちょうちんのあかりを、ゆらしながら、また、山道を、くだっていった。

その絵が、それから、どこへ行ったのか、誰も知らない。けれど、ずっとのちのこと──ある町の、ふるい道具屋の、ほこりだらけの棚のおくで、「月釣狐図(つきつりぎつねず)」という、古い、いたんだ一幅(いっぷく)の絵が、見つかった、という話が、ある。やせた狐が、こおりかけた池のほとりで、さおをかまえている、その絵のすみに、ほんの、けしつぶほどの大きさで、空のかたすみを、長い尾をひいた星が、ひとつ、よこぎっていた、という。──けれど、それも、たしかな話では、ない。

そうして、冬が来た。

その冬は、ことのほかきびしかった。雪がふかくつもり、森は白くしずまりかえった。けものたちは、めいめいの穴にこもって、春を待った。池は、はしのほうから、こおりはじめた。

けれども、若い狐だけは、穴にこもらなかった。

狐は、つりを、やめなかったのだ。

雪のなかを、狐は、池のほとりにかよった。やせほそったからだに、雪をかぶり、こおった息をはきながら、それでも、さおをかまえた。けれども、池はもう、ほとんどがこおっていて、月のうつる水面は、まんなかに、ほんのすこし、のこっているばかりだった。

その、わずかな水面に、月は、うつっていた。

冬の月は、するどく、つめたく、青白かった。夏や秋の、あのあたたかな金色の月とは、まるでちがっていた。けれども、うつくしいことに、かわりはなかった。いや、こおてつくような空気のなかで、その月は、いっそう、研ぎすまされて、見えた。

雪は、夜ごとに、つもった。

ある晩、狐が池に来てみると、わずかにのこっていた水面が、うすい氷で、すっかり、はりつめていた。月は、その氷のうえに、ぼんやりと、にじんで、うつっていた。氷ごしの月は、ゆがんで、もやのなかにあるように、ぼうっとして、もう、あの、くっきりとした、つめたい金色では、なかった。

狐は、おどろいて、前足で、氷を、かいた。

「月が、こおりのなかに、とじこめられている」

狐は、そう思った。そして、こんどこそ、つかまえられる、と思った。にげも、くずれも、しない月だ。氷を、わってしまえば、月は、わたしのものだ。

狐は、ぼろぼろになった、つめで、氷を、ひっかいた。かじった。たたいた。けれども、冬の氷は、石のように、かたかった。狐の、よわった力では、びくとも、しなかった。つめが、われ、口のはしから、血がにじんだ。それでも、狐は、やめなかった。

やがて、東の空が、白みかけると、氷のなかの、ぼんやりした月は、すうっと、うすれて、消えた。あとには、ただ、ひっかき傷だらけの、白い氷が、のこっているばかりだった。

狐は、つかれはてて、氷のうえに、たおれふした。そして、こおった、自分の息の、白い、ちいさな雲を、見ながら、ふと、思った。

「月は……こおりのなかにも、いなかった」

狐は、その晩から、氷をわるのを、やめた。

もう、わる力も、なかった。狐は、ただ、まんなかの、こおりかけた、わずかな水面のところに、さおを、たらした。けれども、もう、えさをつける力も、のこっていなかった。糸も、ぼろぼろになっていた。狐は、ただ、ほそい枝を、月のほうへ、さしのべるばかりだった。

ある晩のことだった。

その晩は、とりわけ、寒かった。風はなく、空気は、こおりついたように、しんとしていた。空には、雲ひとつなく、星が、こなをまいたように、いちめんに、またたいていた。

狐は、いつものように、池のほとりにすわっていた。もう、つる力も、なかった。ただ、月を、見ていた。

すると──

そのときだった。

池のなかの月が、ふいに、うごいた。

いや、月ではなかった。狐は、空を見あげて、息をのんだ。

空の、いちばん高いところを、一すじの、青白い光が、ながく尾をひいて、よこぎっていったのだ。

それは、彗星だった。

蒼(あお)い、ながい尾をひいた、見たこともない星だった。その光は、しずかで、つめたく、けれども、どこか、なつかしかった。まるで、ずっとむかしに一度だけ通って、それきり、ながいことわすれられていたものが、また、めぐってきた──そんな、気配を、まとっていた。

そのとき、狐は、ふと、梟の言葉を、思いだした。「冬の、彗星の出る晩に、月をつる狐たちは、いなくなった」。ああ、これが、あの星か。ながい尾をひいて、わたしを、むかえに来たという、あの星か。──けれど、ふしぎと、こわくは、なかった。

そして、池の水面にも、その星が、うつった。

月ではない、青白い、長い尾をひいた星が、こおりかけた池の、わずかな水面を、すうっと、よこぎっていった。

狐は、それを、じっと、見ていた。

そのとき、狐の胸のなかで、なにかが、しずかに、ほどけた。

狐は、はじめて、わかったのだ。

水のなかの星は、空の星の、うつしであった。空をよこぎる、あの青白い星が、そのまま、水にもうつっていた。月も、おなじだった。空に月があるから、水にも月がうつる。空から月が消えれば、水の月も消える。水のなかには、はじめから、なにも、なかったのだ。あったのは、ただ、空のうつし。光の、こだまだけ。

「月は、にげてなどおらん。はじめから、そこには、おらんのだ」

老狐の言葉が、いま、ようやく、わかった。

川獺の言葉も、いま、わかった。水の底には、月の根っこも、しっぽも、なかった。あれは、ただ、水の、上っかわにはりついた、うすい、光の皮だったのだ。

狐は、つりざおを、雪のうえに、おいた。

そして、空を、見あげた。

空には、彗星が、まだ、青白い尾を、ひいていた。やがてそれは、ゆっくりと、山のむこうへ、しずんでいった。ながいこと、わすれられていた星が、また、どこかへ、めぐっていくように。

狐は、なきも、わらいも、しなかった。ただ、ふしぎな、しずけさが、胸のなかに、ひろがっていた。月が、ほしくなくなったわけではなかった。けれども、もう、つろうとは、思わなかった。つかまえられないものを、つかまえようとして、すごした、春と、夏と、秋と、冬。そのながい時間が、いま、ひとつの、しずかな、おわりを、むかえようとしていた。

そのとき、狐は、ふと、気がついた。

雪のうえに、なにか、青いものが、おちていた。

ちいさな、四角い、ふかい藍色の、箱だった。ひろってみると、それは、紙でできた、小さな箱で、ふたのところに、三日月のかたちが、ひとつ、銀色に、刻(きざ)まれていた。なかには、ほそい木の軸が、何本か、はいっていた。先のほうが、赤い。

それが、なんのための箱なのか、狐には、わからなかった。けれども、その三日月の刻みが、なぜだか、狐の心を、しずかに、なごませた。

だれが、こんなところに、おとしていったのだろう。

狐が、あたりを見まわすと──

池のむこう岸の、雪のなかに、ぽつんと、灯(あか)りが、ともっていた。

そんなところに、家など、なかったはずだった。けれども、たしかに、そこには、ちいさな、小屋のようなものが、あった。古びた木の戸が、ほそくあいていて、なかから、あたたかな、黄色い灯りが、もれていた。戸口のうえには、すすけた木の札(ふだ)が、かかっていて、なにか、文字のようなものが、書いてあった。狐には、字は読めなかったが、その灯りには、見おぼえのある、なつかしさがあった。

狐が、ふらふらと、その灯りに、近づこうとしたとき──

うしろで、声がした。

「行かんほうがいい」

ふりむくと、あの年とった狐が、雪のなかに、たっていた。

「あれは、月光書房というてな」と、老狐は、しずかに言った。「彗星の見える晩にだけ、ぽつんとあらわれる、ふるい本屋だ。朝になれば、雪のうえに、足あとひとつ、のこさずに、消えてしまう。なかには、この世にあるかぎりの、ありとあらゆる、おわった話が、しまってあるという。──けれどな、あそこへ、いま、はいってはいかん。おまえの話は、まだ、おわっておらんのだから」

若い狐は、青い箱を、にぎりしめた。

「これは」と、狐は、たずねた。「これは、なんですか」

老狐は、その箱を見て、すこし、目をほそめた。

「月光堂の、火つけ箱だな」と、老狐は言った。「むかし、あの本屋に出いりしていた、旅の者が、おとしていったのだろう。──さあ、それは、しまっておきなさい。火は、月とちがって、ほんとうに、てのひらに、ともるものだから」

狐は、青い箱を、ふところに、しまった。

それから、老狐は、若い狐のとなりに、こしをおろした。

ふたりは、ならんで、こおりかけた池を、見ていた。彗星は、もう、しずんでしまって、池には、また、いつもの、青白い月が、うつっていた。

「むかし」と、老狐は、語りはじめた。「わしも、おまえとおなじだった。月が、ほしくてな。すくっても、つっても、つかまらん。それでも、あきらめきれずに、何年も、何年も、池のほとりに、すわっておった。──やがて、わしは、年をとった。月をつるのに、いそがしくて、つれあいも、もたなんだ。子も、なさなんだ。気がつけば、毛は灰色になり、耳はかけ、もう、さおをかまえる力も、なくなっておった」

老狐は、池の月を、見つめた。

「ある晩な、わしは、わかったのだ。おまえが、いま、わかったように。──月は、そこには、おらん。あったのは、ただ、空のうつし。わしは、ながいあいだ、ありもせぬものを、つろうとして、いきておったのだ」

「かなしく、なかったのですか」と、若い狐は、たずねた。

老狐は、わらった。

「かなしかったとも。けれど、それよりも、わしは、ほっとしたのだ。──いいか。つかまえられぬものを、つかまえようとして、くるしむのは、あれが、つかまえられぬものだと、知らぬからだ。知ってしまえば、もう、くるしむことは、ない。月は、つかまえるものでは、ないのだ。ながめて、めでて、そして、空に、かえしてやる。それだけで、よいのだ」

老狐は、それから、ふっと、目をとじた。

そして、ひくい、しわがれた声で、うたいはじめた。

「眠れ、眠れ、星が海をわたるまで──」

それは、子守唄だった。どこで、おぼえたのか、老狐自身も、わすれてしまったような、ふるい、ふるい、子守唄だった。

「眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。

月は釣れぬが、夢には乗れる。

星が海をわたるころ、おまえも、海をわたるだろう──」

そのうたを聞いているうちに、若い狐は、なんだか、まぶたが、おもくなってきた。春から、ずっと、ろくにねむっていなかった。やせほそった、つかれきったからだが、その子守唄に、ゆっくりと、ほどけていった。

狐は、雪のうえに、まるくなった。

老狐の子守唄が、とおく、とおく、なっていった。月が、青白く、しずかに、池に、うつっていた。

そして、狐は、ねむった。

つかれきった、けれども、ふしぎと、おだやかな、ねむりだった。

あくる朝、若い狐が、目をさますと──

雪は、やんでいた。

そして、池のむこう岸には、もう、あの灯りも、小屋も、なかった。雪のうえには、足あとひとつ、のこっていなかった。月光書房は、夜のあいだに、どこかへ、消えてしまったのだ。

老狐の、すがたも、なかった。

ただ、雪のうえに、ふたつの、くぼみが、ならんでのこっていた。ひとつは、若い狐がねむっていた、あと。もうひとつは、その、となり。けれども、老狐の、足あとは、そこから、どこへも、つづいていなかった。まるで、はじめから、いなかったように。あるいは、はじめから、それは、若い狐自身の、もうひとりの、心だったように。

若い狐は、ふところに手を入れた。

青い、藍色の箱は、たしかに、そこに、あった。三日月の刻みが、朝の光に、しずかに、ひかっていた。それだけが、ゆうべの、すべてが、夢ではなかったことの、しるしだった。

狐は、立ちあがった。

そして、池を、見た。

朝の池には、もう、月は、うつっていなかった。ただ、こおりかけた水面に、空の、あわい青が、うつっているばかりだった。

狐は、ふしぎと、すがすがしい気もちだった。

胸のなかから、ながいあいだ、おもくのしかかっていた、なにかが、すっと、消えていた。月をほしがる心は、まだ、すこし、のこっていた。けれども、それは、もう、くるしい、ほしがり方では、なかった。空をあおいで、ああ、うつくしい、と思う──ただ、それだけの、しずかな、めで方に、かわっていた。

それから、若い狐は、どうなったか。

語りつたえによれば、その狐は、その春、つれあいを、もった。やがて、子も、なした。雪のあけた池のほとりで、鼠をとり、鶏をねらい、ときには、ほかの狐とけんかもし、ふつうの狐として、ふつうに、いきた。

その狐の子のなかに、いつぞやの、母をなくした、あの、ころころとした子狐の、おもかげに、よくにた、一匹が、いた、という。けれど、それは、ただの、ぐうぜんかも、しれない。

けれども、晴れた夜には、いまでも、池のほとりに出て、月を、ながめた。

つろうとは、しなかった。

ただ、ながめた。

そして、子どもたちが、生まれると、その狐は、子どもたちに、こう、おしえたという。

「いいか。池に、月が、うつっているのを、見ても、つろうとしては、いけないよ。あれは、つかまえるものでは、ないのだ。ながめて、めでて、そして、空に、かえしてやる。それだけで、よいのだ。──月は、てのひらに、のせられぬ。けれど、心には、のせられる。心にのせた月は、けっして、こわれず、けっして、消えぬ」

子どもたちは、その言葉のいみが、よくわからなかった。けれども、父さん狐の、しずかな、やさしい目を見ていると、なんだか、それが、たいせつなことのように、思えたという。

そして、毎年、冬になると、その狐は、ふところから、青い、藍色の箱を、とりだして、子どもたちに、見せた。三日月の刻まれた、ふるい、火つけ箱だ。

「これはな」と、狐は言った。「ずっとむかし、月をつろうとして、つりつくして、それでも、つれなかった晩に、雪のなかで、ひろったものだ。これを、ひろった晩に、わしは、ひとつ、かしこくなった。──そして、それきり、二度と、あの本屋には、いけなくなった。なぜなら、わしの話は、まだ、おわっていないからな」

そして、その狐も、やがて、年をとった。

毛なみは、灰色になり、目は、くぼみ、片方の耳が、すこし、かけた。

ある冬の、とりわけ寒い、星のきれいな晩のことだった。

年とった狐は、池のほとりに、ひとり、すわっていた。空には、ひさしぶりに、あの、青白い、長い尾をひいた星が、ながれていた。ながいあいだ、わすれられていた星が、また、めぐってきたのだ。

狐は、それを見て、しずかに、ほほえんだ。

そして、池のむこう岸を、見た。

雪のなかに、ぽつんと、灯りが、ともっていた。古びた木の戸が、ほそくあいて、あたたかな、黄色い灯りが、もれていた。戸口のうえには、すすけた札が、かかっていた。

月光書房だった。

狐は、ゆっくりと、立ちあがった。

こんどは、とめる者は、いなかった。

なぜなら──狐の話は、もう、おわろうとしていたから。

狐は、ふところから、青い箱を、とりだして、しばらく、てのひらに、のせていた。三日月の刻みが、彗星の光に、しずかに、ひかった。

それから、狐は、その箱を、雪のうえに、そっと、おいた。

つぎに、ここを通る、若い、月をほしがる、だれかのために。

そして、狐は、灯りのほうへ、雪をふんで、あるいていった。一歩、また一歩。やがて、その小さな本屋の、ほそくあいた戸のなかへ、すうっと、すいこまれるように、消えていった。

あくる朝、雪のうえには──

足あとは、なかった。本屋も、なかった。

ただ、青い、藍色の箱が、ひとつ、ぽつんと、雪のうえに、のこっていた。三日月の刻まれた、ふるい、火つけ箱が。

そして、それきり、その狐を見た者は、だれもいない。

──と、まあ、これが、月をほしがった狐の話だ。

わたしの祖母は、いつも、ここで、話をおわらせた。

そして、わたしが、

「ねえ、おばあちゃん。それで、その箱は、どうなったの」

と、たずねると、祖母は、きまって、こう、こたえたものだ。

「さあ、どうなったかねえ。──いまでも、どこかの森の、池のほとりに、ぽつんと、おちているかもしれないよ。月をほしがる、若い、だれかが、ひろってくれるのを、待ってね」

それから、祖母は、いつも、しずかに、わらって、こう、つけくわえた。

「もし、おまえが、いつか、夜の池で、月が、うつっているのを、見ることがあったら──つろうとは、おしでないよ。ながめて、めでて、空に、かえしておやり。月は、てのひらには、のせられぬ。けれど、ほら、こうして、話のなかになら、いつまでも、しずかに、うかんでいるものだからね」

祖母の話には、ひとつ、ふしぎなところが、あった。わたしが、まだ、ちいさかったころ、祖母は、ときどき、こんなことを、言ったのだ。「むかしむかし、ひとつ、ふしぎな本屋が、あってね。彗星の晩にだけ、まちのはずれに、ぽつんと、あらわれる、古い、古い本屋さ。──おばあちゃんはね、いちど、その店に、はいったことが、あるのだよ」。そして、わたしが、「なにを、買ったの」と、たずねると、祖母は、いつも、いたずらっぽく、わらって、「この話を、さ」と、こたえた。それが、ほんとうのことなのか、それとも、ただの、夜なべの、つくり話なのか、わたしには、わからなかった。けれど、祖母の語る狐の話が、いつも、どこか、にんげんの、つかれた心に、しみとおるように、やさしかったのは──もしかしたら、そのせいだったのかも、しれない。

そう言って、祖母は、まどのそとの、夜空を、見あげた。

その晩、空には、月が、出ていた。まるくて、しずかな、月だった。そして、わたしは、いまでも、ときどき、思うのだ。

あの晩、もしかしたら、空のすみを、青白い、長い尾をひいた星が、ひとつ、しずかに、よこぎっていったのではないか、と。

ながいあいだ、わすれられていた星が、また、めぐってきて、そして、また、どこかへ、わたっていった、その音もない一瞬を──祖母は、わたしに、見せたかったのではないか、と。

眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。

月は釣れぬが、夢には乗れる。

──いまでも、その子守唄を思いだすたび、わたしの心の池には、こわれも消えもしない、ちいさな月が、ひとつ、しずかに、うかぶのである。

この物語にひそむ符牒

ほかの物語と、ひそかに分かち合っているもの:

  • ミラ彗星
  • 月光堂のマッチ
  • 子守唄
  • 月光書房

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