月光書房
亥の刻 ・ 夜 ・ 第 十一 話

記憶が降る町

雨宮 緒里
マジックリアリズム ・ 約25頁

雨を集めて暮らす者の前では、人は嘘がつけない。なぜなら、その者は他人の雨を浴び慣れていて、誰がどんな記憶を抱えているか、肌の濡れ方でわかってしまうからだ──と、この町では古くから言われている。

私のことだ。

町の名は、誰も正しくは知らない。地図には「霧縫(きりぬい)」と記されているが、麓の人々はただ「雨の町」と呼ぶ。山と山が肩を寄せ合う谷の底に、屋根が苔むした家々が川沿いに並び、その上にいつも、低く垂れた雲が蓋をしている。雲はめったに切れない。切れたとしても、それは雨を降らせ終えて、息を整えているあいだだけのことだ。

この町では、雨が記憶として降る。

知らぬ者は笑うだろう。雨は雨だ、と。けれどここで生まれ育った者は、誰ひとりそれを疑わない。空から落ちてくる一粒一粒に、どこかの誰かの、忘れられた記憶が溶けている。浴びれば、それが流れ込む。見知らぬ他人の、台所の匂い。逢瀬の指先。葬列の足音。死にゆく者の、最後に見上げた天井の木目。それらが、雨に打たれた皮膚から、まるで墨が和紙に滲むように、しずかに体の奥へと入ってくる。

だから、この町の人々は傘を手放さない。

子は乳離れする前に、傘の持ち方を教わる。雨が降りはじめると、母親はまず我が子の頭に手をかざし、それから笠を取る。畑へ出る男も、川で洗いものをする女も、軒先には必ず傘を立てかけている。誰の記憶が降るかわからぬ空の下で、人は、自分の心を、自分のものだけに保とうとする。他人の悲しみで濡れるのは、誰しも、こわい。

けれど、すべての者が傘を差すわけではない。

たまに、わざと濡れにいく者がいる。雨の中へ、傘も差さず、ふらりと出ていく者が。そういう者を、町の人は、見て見ぬふりをする。あの人は、自分のことを忘れたいのだ、と。あるいは、誰かの記憶を、借りにいくのだ、と。空が、その人に、何を恵むのか、何を奪うのか、誰にもわからない。雨は、頼んでも降らず、断っても降る。人の願いとは、いつも、すこしずつ、ずれている。

私は雨を集めて暮らしを立てている。

家の裏手の斜面に、大小さまざまの甕(かめ)を並べ、樋(とい)を渡し、布を張り、屋根のかたちを工夫して、降る雨を「選って」溜める。すべての雨が同じではないからだ。優しい記憶の雨もあれば、触れれば三日は寝込むほど苦い雨もある。私はそれを見分け、欲しがる人に分けて、わずかな銭をもらう。

雨を欲しがる者は、いつの世も、二通りに分かれる。

ひとつは、忘れた何かを取り戻したい者。
もうひとつは、覚えている何かを、忘れたい者。

前者には、私は他人の記憶の雨をやる。自分の失った記憶のかわりに、誰か知らぬ人の記憶で胸の穴を埋める者がいるのだ。そんなことで埋まるものか、と若い頃の私は思っていた。けれど、人は思いのほか、他人の記憶でも生きていける。むしろ、自分のものでないからこそ、痛まずに抱いていられる温もりというものが、ある。

後者には──忘れたい者には、私は「空(から)の雨」をやる。記憶のひとつも溶けていない、ただの水。それを浴びて、人は何かを上書きしようとする。けれど、ただの水で記憶が消えることはない。それでも彼らは来る。雨に打たれていれば、いつか流れていくと信じて。私はそれが嘘だと知っていて、けれど黙って、いちばん透き通った甕の蓋を開けてやる。

雨を選り分けるのは、根気のいる仕事だ。

甕の数だけ、私には覚えがある。どの甕に、どんな雨を溜めたか。あの素焼きの大甕には、麦秋(ばくしゅう)の匂いのする、誰かの少年時代を。あの欠けて継いだ小甕には、別れの記憶ばかりを。冷たく、けれど不思議と人を慰める雨を。私は朝に甕を見回り、夜にまた見回る。蓋の隙間から立ちのぼる匂いで、中の雨が薄れていないか、腐っていないかを確かめる。雨にも、寿命がある。受け取られぬまま長く置かれた記憶は、やがて匂いを失い、色を失い、ただの水へと還っていく。人が、年を取って、昔のことを少しずつ忘れていくのと、同じように。

私のもとへは、いろいろな人が来た。

夫を亡くした女が来て、もう一度、夫の声を聞きたいと言った。けれど私の甕に、その女の夫の記憶があるはずもない。私は、別の誰かの、よく似た優しい記憶を分けてやった。女は浴びて、泣いて、礼を言って帰った。それが夫のものでないことを、たぶん、女も知っていた。知っていて、なお、それを抱いて帰った。人は、そういうふうにして、生きていく。

戦から帰った男が来て、忘れたいと言った。何を、とは言わなかった。私は空の雨をやった。男は浴びて、けれど何も変わらず、肩を落として帰っていった。三月のち、その男は、また来た。今度は、忘れたいのではない、と言った。忘れられないものを、誰かに、わかってほしいのだ、と。私は、自分の指先で受けた、男の雨の一滴を、そっと唇に運んだ。──浴びはしなかった。ただ、舌の先で、わかるだけ、わかった。雪の中で凍えていく、若い兵の手を、握りつづけた夜のことを。私は、何も言わなかった。ただ、湯を沸かして、茶を淹れた。男は、それきり来なくなった。けれど、達者でいると、風の便りに聞いた。

雨を集める者は、聞き手なのだと、母は言っていた。

そう言われて、はっとした。母の言葉を、覚えていたわけではない。けれど、その一節だけは、子守唄と同じように、欠けた夜の縁に、落ちていた。雨を集める者は、降ってくるものを、ただ、受け取る。選り好みはできても、降らせることはできない。空がくれるものを、いいも悪いも、すべて、いったんは受け止める。そして、それを欲しがる誰かのために、とっておく。──それは、聞き手の仕事だ。語る者ではなく、聞く者の。

私は、ずっと、聞き手だった。

町じゅうの記憶を、甕に溜め、人々に分けてきた。けれど、自分自身の記憶については、ひとつ、欠けたまま、何十年も、見て見ぬふりをしてきた。聞き手は、自分のことを、語らない。語る相手が、いないからだ。母を亡くし、ひとりで生きてきた私には、ずっと、もう片方が、いなかった。私の言葉を、受け取ってくれる、誰かが。

夜が更けると、私はよく、甕場に座って、空を見上げた。雲に閉ざされた空を。その向こうの、見えない星々を。母は、星になったと、町の老婆は言った。けれど、雲は、めったに切れない。私は、母を見上げることさえ、できなかった。ただ、子守唄の、半分だけを口ずさんで、夜を、やり過ごした。眠れ、眠れ。その先の言葉を、私は、いつも、思い出せなかった。星が、海を、わたるまで。──その一節を、思い出すのは、もっと、ずっと、後のことだ。

私の名は、緒(お)という。

母がつけた。糸の端、という意味だと聞いた。何かと何かを結ぶ、その始まりの一筋。母らしい名づけだと、今になって思う。母はもう、いない。

その年の梅雨は、長かった。

雲が一度も切れぬまま、ひと月が過ぎた。川は太り、橋の下で唸り、夜になると水音が町じゅうの夢に入り込んだ。雨は連日、さまざまな記憶を運んできた。豊作の年の、稲の匂い。誰かの祝言の、紅い盃。麓へ嫁いでいった娘を見送る、母親の背中。私は甕の前にしゃがみ、落ちてくる雨に指をかざしては、それがどんな記憶を孕んでいるかを確かめ、選り分けた。

雨を読むのは、舌に似ている。

指先に受けた一滴を、私は唇に運ぶ。すると、ほんの一瞬、知らぬ誰かの生がよぎる。けれどそれは深くは入らない。私には、もう、深くは入らないのだ。雨を集めて何十年、私の体は他人の記憶で飽和している。新しい一滴は、満ちた器に落ちる水のように、ただ表面を波立たせて、こぼれていく。それが私の仕事の元手であり、同時に、私の罰だった。

なぜ罰かと言えば──

私自身の記憶が、ひとつ、欠けているからだ。

幼い頃の、ある夜のことが、私にはない。そこだけ、墨を一滴落としたように黒く塗りつぶされている。母がいなくなった夜だと、町の人は言う。けれど私には、その夜の記憶がない。母の顔さえ、おぼろだ。声も。ただ、ひとつだけ覚えているものがある。

子守唄だ。

眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。

その一節だけが、欠けた夜の縁に、ぽつんと貝殻のように落ちている。誰が歌ったのかも、もうわからない。

その節を、私は、自分でも知らぬうちに口ずさんでいることがある。甕の蓋を開けるとき。火を熾すとき。眠れぬ夜に、川音を聞きながら。すると、胸の奥の、黒く塗りつぶされたあたりが、かすかに、ぬくもる。痛むのではない。むしろ、ぬくもる。失ったはずのものが、すぐそこに、確かにあるのに、手が届かない。そういう、もどかしい温かさだ。

私は何度も、町の老婆に尋ねた。私の母は、どんな人だったのか。あの夜、何があったのか。けれど老婆は、決まって、言葉を濁した。「おまえの母さんは、雨を集める人だった。おまえより、ずっと上手にね。──あの夜のことは、忘れておやり。覚えていない方が、いいこともある」と。そして、首の守り袋を、しっかり下げておくように、と。それだけを、繰り返した。

私は、その守り袋を、開けたことがなかった。なぜか、開けてはならぬ気がしていた。中で、何かが、眠っている。それを起こせば、私の静かな暮らしが、根こそぎ、変わってしまう。そんな予感が、ずっと、あった。

長雨のさなか、ひとりの男が訪ねてきた。

蓑(みの)を着て、笠を目深にかぶり、足元は泥だらけだった。麓から峠を越えてきたのだとわかった。この町には、よそ者はめったに来ない。来る者は、たいてい、何かをひどく欲している。

「雨を、買いたい」と男は言った。声は低く、掠れていた。

私は土間に彼を上げ、囲炉裏の火を熾した。蓑から滴る雫が、土間にしみを作った。私はその一滴を、指で拭い、なめた。──男の雨ではない。これは峠の雨だ。記憶を含まぬ、ただの旅の水。男は自分の傘を持っていた。だから、ここまで何ひとつ浴びずに来たのだ。それは、つまり、この男が何も失いたくない者であることを意味していた。

「どんな雨を」と私は尋ねた。

男はしばらく黙っていた。火の粉がはぜた。やがて、笠を取った。思いのほか若い顔だった。三十か、いくつか上か。けれど、目だけが老いていた。何かを長く探し続けた者の目だ。

「人を、探している」と男は言った。「女だ。二十年前、この町から麓へ下りたはずの。──いや、下りなかったのかもしれない。わからない。俺は、その女の記憶を、買いたい」

「他人の記憶を、ですか」

「その女を覚えている者の、雨が欲しい」

私は炭を箸でつついた。火が、ふっと明るくなった。

「お客さん」と私は言った。「記憶の雨は、注文では降らない。空が、勝手に降らせるものです。誰のどんな記憶が落ちてくるかは、私にも選べない。私にできるのは、降ったものを選り分けて、溜めておくことだけ」

「では、溜めてある雨の中に、その女のものは」

「いるかもしれないし、いないかもしれない。二十年前の雨なら、もう、ほとんど残っていません。雨は、長くは保たない。甕の中でも、少しずつ、薄れていく。記憶が薄れていくのと、同じです」

男は肩を落とした。けれど、すぐにまた顔を上げた。

「それでもいい。残っているものを、ぜんぶ、見せてくれ」

私は、男を、しばらく見ていた。

人を探して、二十年。その歳月が、男の指の節に、目尻の皺に、刻まれていた。この町には、そういう者がときどき流れてくる。失ったものを、求めて。けれど、たいていは、見つからずに帰っていく。雨は、欲しいものだけを、都合よく降らせてはくれない。

「お客さん」と私は言った。「ひとつ、訊いてもいいですか。なぜ、その女を、そんなに探すんです。二十年も」

男は、囲炉裏の火を、見つめた。火明かりが、その目に、揺れていた。

「俺には、始まりが、ないんだ」と男は言った。「三つより前の、俺がいない。どこで生まれて、誰の腹から出て、どんな名で呼ばれていたのか──何も、ない。育ての親も、教えてくれなかった。教えられなかったのかもしれない。俺は、根のない木みたいなものだ。風が吹けば、どこへでも倒れる。──だから、知りたいんだ。俺を産んだ女が、誰だったのか。俺を、手放した女が。恨んでいるわけじゃない。ただ、知りたい。それだけだ」

私は、答えなかった。

けれど、その「始まりがない」という言葉が、なぜか、私の胸の、いちばん柔らかいところに、刺さった。私にも、欠けた夜がある。男にも、欠けた始まりがある。空いた器どうしが、火を挟んで、向かい合っているような、奇妙な心地がした。

「残っているものを、ぜんぶ、見せてくれ」と男は、もう一度、言った。

私は男を、裏の甕場へ案内した。

雨はまだ降っていた。斜面に並んだ甕は、数えれば百を超える。素焼きのもの、釉(うわぐすり)のかかったもの、欠けて継いだもの、私が母から受け継いだ、いちばん古い藍色のもの。それぞれに、私はしるしを付けている。優しい雨、苦い雨、温かい雨、冷たい雨。けれど、どの記憶が誰のものかまでは、しるしようがない。雨は、名前を持たずに降るからだ。

「どうやって、探すんです」と私は言った。「名も知らぬ女の記憶を」

「浴びれば、わかる」と男は言った。「その女のことなら、俺は、ひと目で、ひと雫で、わかる」

私は男に、傘を置くように言った。彼は素直に従った。それから私は、いちばん古い甕──母の藍色の甕の蓋を、ためらいながら開けた。

その甕には、私がいちばん古い雨を溜めている。二十年、三十年、もっと前の。私自身、めったに開けない。中の雨は、薄れに薄れて、もう、かすかな匂いしか残していない。けれど、ごく稀に、欲しがる者がいる。失われかけた、古い記憶を。

男は甕の縁に手をかけ、柄杓(ひしゃく)で水を掬い、自分の頭から、ゆっくりと浴びた。

雨が、男の髪を伝い、頬を伝い、首筋へと流れた。

男の体が、こわばった。

私は知っている。記憶が入ってくる、その瞬間の顔を。人はみな、同じ顔をする。遠くを見るような、けれど内側を見ているような、時のはざまに立ち尽くす顔。男は目を閉じ、唇を震わせ、やがて、ひとことだけ漏らした。

「……違う」

それから何度も、男は雨を浴びた。甕から甕へ。私が止めても聞かなかった。苦い雨を浴びて顔を歪め、温かい雨を浴びて涙ぐみ、冷たい雨を浴びて身を震わせ、それでもなお、「違う」「違う」と繰り返した。

「もう、およしなさい」と私は言った。「他人の記憶を、そんなに浴びれば、体がもたない。自分が誰だったか、わからなくなりますよ」

「もとから、わからない」と男は答えた。柄杓を持つ手が、震えていた。「自分が誰だったか、最初から、知らないんだ。だから、こわくない。──いや、こわい。けれど、知らずに死ぬ方が、もっと、こわい」

私は、それ以上、止めなかった。

止められないと、知っていた。私自身が、もしこの男のように、欠けた夜を取り戻す手立てがあると知ったなら、たぶん、同じように、雨に溺れただろうから。私たちは、似ていた。失ったものの形は違うのに、その空洞の深さが、同じだった。

夜になっても、男は浴び続けた。月のない、雨の夜だった。甕場には、私が掲げた提灯の灯りだけが、にじんでいた。男の影が、甕の列の上に、長く伸びては、揺れた。浴びるたびに、男の口から、知らぬ誰かの名が、ぽつりと漏れた。「お春」「峰さん」「とよ」──どれも、男の探す女ではなかった。男は、町じゅうの、見も知らぬ人々の記憶を、その身ひとつに、引き受けていた。

雨の晩のことを、私は今でも、よく覚えている。

男が甕場で他人の記憶に溺れているあいだ、私はひとり、土間に戻り、火を守っていた。雨音が、屋根を打っていた。その音に混じって、ふと、別の音が聞こえた。

歌だった。

眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。

私は手を止めた。空耳ではなかった。確かに、誰かが歌っている。けれど、男の声ではない。女の声だ。低く、かすれた、けれど不思議なほど澄んだ。それは、雨の中から聞こえてくるようだった。

私は外へ出た。

雨は、相変わらず降っていた。けれど、いつもとは違った。粒が、いつもより大きく、ゆっくりと落ちてくる。そして、ひとつひとつが、わずかに光を帯びていた。蛍を溶かしたような、青白い光だ。それは記憶の雨の中でも、ごく稀にしか降らない種類のものだった。古老たちは、それを「忘れ雨」と呼んだ。あまりに古く、あまりに深く、もはや誰のものとも知れぬほど薄れた記憶が、町じゅうの空に集まって、一度に降るのだという。

歌は、その雨の中から聞こえていた。

私は傘を持っていなかった。

そのことに気づいたとき、もう遅かった。一滴が、私の額に落ちた。

それは、台所だった。

小さな、煤けた台所。竈(かまど)に火が入り、鍋から湯気が立っている。窓の外は雨。誰かの背中が、私の前にある。女の背中だ。細い肩。ほつれた髪。その人は、鍋をかき混ぜながら、歌っている。

眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。

私は──いや、この記憶の中の「私」は、まだ幼い。床に座り、女の背中を見上げている。膝の上に、何かを抱えている。手袋だ。小さな、赤い、子どもの手袋。けれど、片方しかない。もう片方を、どこかで失くしてしまった。私はそれが悲しくて、女に訴える。

「かたっぽ、ないの」

女が振り向く。

その顔を、私は──。

雨が、止んだ。

記憶が、断ち切られた。私は甕場の前に立ち尽くしていた。額から雫が落ちていた。心臓が、痛いほど鳴っていた。今のは、何だ。私は浴びた雨に、何を見た。あれは、他人の記憶だったのか。それとも──。

「緒さん」

男の声がした。私は振り返った。男は、いつのまにか甕場から出て、私のすぐ後ろに立っていた。全身ずぶ濡れで、けれど、その顔は、もう「違う」と言っていなかった。男は、私の顔を、まじまじと見ていた。まるで、初めて見るもののように。けれど、ずっと探していたもののように。

「あんた」と男は言った。「今、何を見た」

私たちは土間に戻り、火の前に座った。

男はしばらく黙っていた。濡れた髪から雫が落ち、土間にしみを広げた。私は、震える男の肩に、乾いた布をかけた。男は、それを、握りしめた。やがて、彼は語りはじめた。

「俺の名は、椋(むく)という」と男は言った。「麓の、機織りの家の生まれだ。──いや、本当は違う。俺は、もらわれ子だ。三つのときに、機織りの家にもらわれた。それより前の俺を、俺は覚えていない。育ての親も、何も教えてくれなかった。ただ、ひとつだけ。俺がもらわれたとき、片方だけの手袋を握っていたと。赤い、子どもの手袋を。もう片方は、どこにもなかったと」

私の指が、わずかに震えた。

「俺は、その手袋を、ずっと持っている」椋は懐から、布に包んだ何かを取り出した。ほどくと、それは──色褪せた、赤い手袋だった。小さな、片方だけの。「これだけが、もらわれる前の俺と、世界とを繋ぐ、たったひとつの糸だった。だから俺は、もう片方を探した。十年も、二十年も。もう片方を見つければ、俺が誰なのか、わかる気がして」

私は、自分の手が、無意識に、首元へ動くのを感じた。そこには、小さな守り袋が下げてある。母の形見だと、町の老婆が、私が物心ついたときに渡してくれたものだ。中に何が入っているのか、私は一度も開けて確かめたことがなかった。開けるのが、なぜか、こわかった。

私は、それを外した。

紐をほどいた。

中から出てきたのは、片方だけの、赤い手袋だった。

火が、はぜた。

椋も、私も、しばらく動けなかった。ふたつの手袋が、火明かりの中で、並んでいた。色褪せ方も、ほつれ方も、ぴたりと同じだった。左と、右。対になるはずの、けれど二十年、別々の手のひらに握られていた、ひとつの記憶の、両端。

「あんたは」と椋が、かすれた声で言った。「あんたは、誰なんだ」

「緒、といいます」と私は答えた。けれど、その名が、もう自分のものではないような気がした。「母がつけた名です。糸の端、という意味だと。──ねえ、椋さん。さっき、私、雨を浴びたんです。傘を忘れて。そうしたら、見たんです。台所を。歌う女の背中を。膝の上の、片方だけの手袋を。あれは──」

私は、言葉に詰まった。

あれは、他人の記憶ではなかった。

私は、雨を集めて何十年、他人の記憶なら、いやというほど浴びてきた。他人の記憶は、必ず、どこかで自分とずれている。匂いが、手触りが、ほんのわずかに、自分のものではない。けれど、さっきの台所には、ずれがなかった。あの竈の煤の匂いを、私は知っていた。あの女の背中を、私は知っていた。あれは、私の、欠けた夜の、すぐ手前の記憶だった。

長雨の空が、二十年分の忘れ雨を、私の上に、降らせたのだ。

「俺たちは」と椋が言った。「兄妹、なのか」

私は答えられなかった。けれど、二つの手袋が、答えていた。

「俺は、ずっと、もう片方の手袋を探していた」と椋は言った。「そうすれば、俺の始まりがわかると思って。──まさか、それが、生きた人間の手の中にあるとは、思わなかった」

私は、二つの手袋を、そっと合わせてみた。左と右。手のひらを、向かい合わせるように。ぴたりと、合った。まるで、長いあいだ離ればなれだった両手が、ようやく祈りのかたちに戻ったように。

「覚えていないんです」と私は言った。「あの夜のことを。母がいなくなった夜を。私の記憶は、そこだけ、黒く塗りつぶされている。だから、雨を集めはじめたのかもしれない。いつか、その夜の雨が、どこかから降ってきはしないかと。誰かが覚えていてくれた、私自身の記憶が」

「俺は、その夜より前を、覚えていない」と椋が言った。「あんたは、その夜を覚えていない。──二人合わせて、ひとつの夜が、まるごと、抜けている」

私たちは、しばらく、火を見ていた。

外では、忘れ雨が、降り続いていた。青白い粒が、屋根を、甕を、川を、町じゅうを、しずかに濡らしていた。そのひとつひとつに、もはや誰のものとも知れぬ、古い記憶が溶けていた。けれど、その中に、確かに、私たちのものも、混じっているはずだった。母が、最後に歌った子守唄も。あの台所も。失くした手袋を泣く、幼い私の声も。

「もう片方を、探しに行きませんか」と私は言った。

椋が、私を見た。

「あの夜を、です」と私は言った。「私の記憶の、欠けた夜を。あなたの、始まりの前を。それを覚えている雨が、もしかしたら、今夜、降っているかもしれない。忘れ雨の中に。──私は、もう、こわくない。あなたという、もう片方が、ここにいるから」

椋は、二つの手袋を、見た。それから、立ち上がった。

私たちは、傘を持たずに、外へ出た。

雨は、町外れへと、私たちを導くように降っていた。

不思議なことだった。歩くたびに、青白い粒が、まるで道しるべのように、私たちの行く先だけを、明るく照らした。雨は、私たちの肩を、髪を、濡らした。けれど、もう、こわくなかった。浴びるたびに、知らぬ誰かの夜が、よぎった。けれど、それらは、もう、私を脅かさなかった。むしろ、優しかった。誰かが、確かに生きた、その温もりが、雨に溶けて、私たちの行く道を、ひとつひとつ、照らしているようだった。

「不思議だ」と椋が言った。「これだけ浴びているのに、もう、何も、こわくない」

「ええ」と私は言った。「私も、です」

私たちは、もう、ひとりではなかった。それだけのことで、雨は、まるで別のものに変わっていた。誰かと一緒に濡れるということが、こんなにも、心を軽くするものだとは、知らなかった。

川沿いの道を、私たちは下った。水かさを増した川が、すぐ脇で、低く唸っていた。やがて、いつもの町の終わり、私の知る景色の果てに、見慣れぬ灯りが、ぽつんと点っていた。

それは、店だった。

こんな場所に、店などなかったはずだ。けれど、確かに、そこに在った。間口の狭い、古い構えの店。軒に、藍染めの暖簾がかかり、ほのかな灯りが、雨の中に滲んでいた。暖簾には、文字が染め抜かれていた。

月光書房。

古書店だった。

戸が、半分、開いていた。中から、本の匂いがした。雨に濡れた紙ではない。乾いた、古い、何十年も時を吸った紙の匂いだ。私は吸い寄せられるように、敷居をまたいだ。椋も続いた。

店の中は、書架で埋まっていた。天井まで届く棚に、無数の本が、ぎっしりと詰まっていた。棚と棚のあいだは、人ひとりがやっと通れるほどに狭く、奥へ行くほど、薄暗かった。けれど、その薄暗さは、こわくなかった。むしろ、母の胎の中のような、安らかな暗さだった。

背表紙には、文字のあるものもあれば、ないものもあった。けれど、近づいてみると、それらは本ではなかった。表紙はあるのに、開いても、中は白い。一冊残らず、白紙だった。

ところどころ、本のあいだに、雨垂れの跡があった。天井のどこかから、青白い雫が、ぽつり、ぽつりと落ちては、いちばん近い本の頁を、濡らしていた。濡れた頁には、ゆっくりと、文字が、にじみ出てきた。それは、誰かの一夜だった。受け取り手のないまま、この店に流れ着いた、降りそこねの記憶だった。私は、そのひとつに、そっと触れた。──知らぬ漁師の、嵐の海の、ひと晩。波にさらわれた仲間の名を、夜どおし叫び続けた、声の嗄れ。私は、手を、離した。その記憶は、誰にも受け取られぬまま、ここで、いつまでも、書き留められ続けるのだ。

「これは」と私は呟いた。

「あなたの探しものは」と、声がした。

奥に、人がいた。老人とも、若者とも、男とも、女とも知れぬ、薄い影のような人だった。その人は、机の上で、何かをしていた。近づくと──筆を執っていた。開いた白紙の本に、何かを書きつけている。けれど、墨ではなかった。筆先から落ちるのは、雨だった。青白く光る、忘れ雨の一滴。それが紙に触れると、文字になり、絵になり、誰かの一夜になった。

「ここは」と私は尋ねた。

「降りそこねた記憶が、集まる場所」とその人は言った。顔を上げなかった。「浴びられることなく、地に落ちて、川へ流れ、海へ消えていく雨もある。誰にも受け取られなかった記憶だ。私は、それを、こうして書き留めている。彗星が巡ってくる夜にだけ、店を開けて」

「彗星」

「今夜だ」とその人は言った。「ミラ彗星が、二十年ぶりに、この空を渡る。長く忘れられていた星が、また巡ってきた。星が渡れば、忘れ雨が降る。あなた方が、ここへ来られたのも、そのためだ」

「なぜ」と私は尋ねた。「なぜ、彗星が渡ると、忘れ雨が降るのです」

書房の主は、筆を、白紙の本の上で、止めた。

「星は、長く、空をめぐる」と主は言った。「めぐって、めぐって、二十年に一度だけ、この谷の真上を通る。そのとき、星は、自分が前に通ったときの空を、覚えている。二十年前の、雨を。あのとき空にあった、誰かの記憶を。星が呼ぶのだ。──さあ、もう一度、降りておいで、と。だから、いちばん古い、いちばん深く沈んだ記憶ばかりが、星の通り道に引かれて、もう一度、空へ昇り、そして、降る。それが、忘れ雨だ。二十年に一度しか、巡り合えぬ雨だ」

私は、息を、のんだ。

ならば、今夜を逃せば、次は、二十年後。私が、生きているかも、わからぬ。母の最後の雨を受け取れるのは、もしかしたら、今夜が、最初で、最後なのかもしれなかった。

私は、書架のあいだを、歩いた。

白紙の本に、私は指を触れた。すると、指先が触れた頁が、青白く滲み、文字が浮かんだ。誰かの記憶だった。私の知らぬ、誰かの一日。私は、次々と、本に触れた。けれど、どれも、私のものではなかった。

「どれを、お探しか」と、書房の主が言った。

「ある夜のことを」と私は答えた。「二十年前の。母が、いなくなった夜の。──私は、その夜を、覚えていない。けれど、母は、私を抱いて、歌っていた。眠れ、眠れ、星が海をわたるまで、と。それきり、母は、いなくなった。私は、その夜を、取り戻したい」

主は、しばらく、私を見た。それから、立ち上がり、書架の、いちばん奥へと進んだ。そこに、一冊だけ、藍色の表紙の本があった。三日月が、銀の箔で、刻まれていた。主は、それを、私に手渡した。

「これは、あなたの母上が、最後に降らせた雨だ」と主は言った。「二十年前、彗星が前に渡った夜。あなたの母上は、この町から、忘れ雨に乗って、空へ還った。海をわたる星のように。──そして、最後に、自分の記憶を、すべて、雨に溶かして、この空へ放った。誰かに、いつか、受け取ってもらえるように。我が子に、いつか、届くようにと」

私の手の中で、藍色の本が、ぬくもりを持った。

「開けば、わかる」と主は言った。「けれど、覚悟がいる。一度受け取れば、もう、忘れられない。あなたが何十年も、欠けたまま生きてきた、その夜の、すべてを」

私は、椋を、見た。

椋は、二つの手袋を、握っていた。私のと、彼のと。並べて、ひとつに。

「開けてくれ」と椋は言った。「俺たちは、もう、片方じゃない」

私は、藍色の本を、開いた。

雨だった。

二十年前の、雨の晩。小さな台所。竈の火。鍋の湯気。そして、女の背中。母の背中だ。母は、二人の子どもを、抱いていた。私と──幼い椋を。私たちは、双子だった。母は、貧しかった。父はいなかった。山の町で、女ひとりで、二人の子を育てるのは、できなかった。

母は、決めていた。

片方を、麓の機織りの家へ、もらってもらうことを。

その夜、母は、私たちに、片方ずつの手袋を、握らせた。同じ赤い手袋の、左と右。「離れても」と母は言った。「これが、おまえたちを、つないでいる。いつか、もう片方を、見つけなさい。そのとき、おまえたちは、また、ひとつになれる」

そして、母は、歌った。

眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。

私たちが眠ったあと、母は、椋を抱いて、雨の中を、峠へ向かった。麓の機織りの家へ。椋を置いて、母は、戻ってきた。けれど、戻ってきた母は、もう、長くは、この世にいられなかった。母は、病んでいた。子らを、二人とも育てきれぬと知っていたのは、自分の命が、長くないと知っていたからだった。

最後の夜、母は、私を抱いて、また歌った。眠れ、眠れ。そして、空を、見上げた。窓の外を、青白い、長い尾を引く星が、ゆっくりと、渡っていった。母は、笑った。「ああ、また巡ってきた」と。「あの星が、おまえを、いつか、もう片方のところへ、連れていってくれる」

母は、知っていた。自分が、私を、ひとりで残していくことを。幼い私が、母を失った悲しみを抱えて、この記憶の降る町で、生きていかねばならぬことを。母を恋う心が、雨に呼ばれて、いつか私を、雨の中へ、溺れさせてしまうことを。母を求めて、母のいない記憶ばかりを浴び続け、やがて、自分が誰かもわからなくなる──そういう末路を、母は、何より、恐れた。

だから、母は、決めた。

私から、母を、奪うことを。

そして、母は、自分のすべてを──私との日々を、椋との日々を、子守唄を、台所の匂いを、二つの手袋のことを、ぜんぶ、ぜんぶ、雨に溶かした。母を覚えていなければ、私は、母を恋わずにすむ。恋わずにすめば、雨に溺れずにすむ。それが、母の、最後の、不器用な愛だった。

「忘れていい」と母は、眠る私に囁いた。「つらいことは、母さんが、ぜんぶ、空へ持っていく。おまえは、身軽に、生きなさい。母さんのことなんか、覚えていなくていい。けれど──もし、いつか。おまえが、淋しさに、負けそうになったら。もし、おまえが、もう片方の手袋を、見つけたなら。そのときは、空を、見ておくれ。傘を、捨てておくれ。そして、この雨を、受け取っておくれ。母さんの、最後の雨を。──それまで、母さんは、星になって、待っている」

それで、私の記憶は、その夜だけ、欠けたのだ。

母が、私から、その夜を、取り去ったから。私が、苦しまずに、生きられるように。

そして、その記憶を、二十年、空に溜めて、待っていたのだ。私が、もう片方の手袋を──椋を──見つける、その日を。

私は、本を閉じた。

頬を、雨が伝っていた。いや、涙だった。けれど、雨と、区別はつかなかった。私は、声を上げて、泣いていた。二十年、欠けていたものが、いま、満ちた。母の声が、母の手のぬくもりが、母の最後の笑顔が、私の中に、戻ってきた。

椋も、泣いていた。彼もまた、本に触れたのだ。私の隣で、母の最後の夜を、受け取ったのだ。彼が失っていた、始まりの前を。

「母さん」と椋が呟いた。生まれて初めて、その言葉を、口にするように。

書房の主は、もう、何も言わなかった。ただ、筆を置き、私たちを、見ていた。その顔が、一瞬、母の顔に、見えた気がした。けれど、それは、灯りのいたずらだったのかもしれない。

「お持ちなさい」と主は、藍色の本を、指した。「それは、もう、あなた方のものだ」

私は、本を、胸に抱いた。

そのとき、土間の隅で、何かが光った。小さな、藍色のマッチ箱だった。三日月が、刻印されていた。主が、それを、ふと、手に取り、一本のマッチを擦った。ぽっ、と、小さな炎が灯った。その炎で、主は、机の上の、燭台に、火を移した。

「夜が明ける」と主は言った。「店を、閉めねば」

外へ出ると、雨は、止んでいた。

長かった梅雨が、ようやく、明けたのだ。ひと月ぶりに、雲が、切れていた。山の稜線の上に、藍から、群青へ、そして、白々と、夜が薄れていく空があった。

そして、その空に、一筋。

青白い、長い尾を引いて、星が、渡っていた。

ミラ彗星だった。

二十年に一度、この空を渡る星。長く忘れられていた星が、また巡ってきた、その気配を、空いっぱいにまとって、それは、しずかに、山の向こうへ、流れていこうとしていた。海をわたる星のように。母が、最後に見上げた、あの星のように。

私は、椋の手を、握った。椋も、握り返した。私たちの、もう片方ずつの手で。二つの赤い手袋は、胸の守り袋に、ひとつにして、仕舞った。もう、離さないように。

「母さんが」と私は言った。「あの星に、乗って、いったんですね」

「ああ」と椋が言った。「だから、また、いつか、巡ってくる」

私は、振り返った。

月光書房は、もう、なかった。暖簾も、灯りも、書架も、消えていた。ただ、町外れの、いつもの、何もない草むらが、雨上がりの光に、濡れて光っているだけだった。地面に、一本だけ、燃え尽きたマッチが、落ちていた。三日月の、藍色のマッチ箱は、どこにもなかった。

朝が、来た。

雨上がりの町は、洗われて、いつもより、ずっと、色が濃かった。苔の緑が。屋根瓦の鈍い銀が。川面に映る、薄青い空が。すべてが、降り積もった誰かの記憶を、たっぷり吸って、生き生きと、息づいていた。

椋は、町に、残った。

機織りの家には、文を出した。長く世話になった礼と、これからは、生みの母の生まれた町で、暮らすという報せを。育ての親からは、達者で、とだけ、短い返事が来た。椋は、その文を、長いあいだ、火に透かして読んでいた。育ての家もまた、椋にとっては、確かな、ひとつの始まりだったのだ。人には、始まりが、いくつあってもいい。私は、そう思うようになった。

椋は、私の家の裏手で、甕を継ぎ、樋を直し、雨を集める仕事を、覚えはじめた。覚えが、よかった。指先で雨を読む才は、私より、あるいは、上だったかもしれない。母の血だと、私は思った。同じ母から分かれた、二つの手。片方は雨の町に残り、片方は麓へ下って、二十年。それが、いま、ひとつの甕場で、並んで、雨を選り分けている。不思議だった。けれど、不思議なほど、しっくりと、馴染んだ。

はじめのうち、私たちは、たがいのことを、何ひとつ知らなかった。好きな食べ物も、寝言の癖も、笑うときに片頬だけ歪むことも。私たちは、二十年分を、少しずつ、埋めていった。けれど、急がなかった。急ぐ必要は、なかった。これから先の年月が、私たちには、たっぷりと、あったから。失った時を、悔やむのではなく、これからの時を、慈しむこと。それを、私たちは、母から、雨を通して、教わった気がした。

雨は、相変わらず、記憶として降った。

忘れたい者が来れば、私たちは、透き通った甕の蓋を開けた。取り戻したい者が来れば、古い甕から、誰かの優しい記憶を、分けてやった。けれど、ひとつだけ、変わったことがあった。私たちは、もう、傘を、嫌わなくなった。

雨に打たれることを、恐れなくなった。

どんな記憶が降ってきても──知らぬ誰かの、苦い記憶であっても──それは、誰かが、確かに生きた、一夜の証だ。受け取らなければ、それは、川へ流れ、海へ消え、月光書房の、白紙の本に、書きつけられるだけだ。誰にも受け取られないまま。

だから、私たちは、浴びる。

母が、そうしたように。最後に、自分のすべてを、雨に溶かして、いつか誰かが受け取ってくれることを、信じて、空へ放った、あの人のように。

藍色の本は、家の、いちばん奥の棚に、仕舞ってある。

時おり、私は、それを取り出して、開く。けれど、もう、文字は、浮かばない。一度受け取った記憶は、本から、私の中へ、すっかり移ってしまったからだ。白紙に戻った頁を、私は、ただ、撫でる。そこに、母がいた。確かに、いた。その温もりだけが、指先に、残っている。

椋は、よく、口笛を吹く。

雨を選り分けながら、甕の前で。その口笛が、いつのまにか、あの旋律になっていることに、彼は、気づいていない。私は、気づいている。けれど、言わない。ただ、隣で、低く、口ずさむ。

眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。

そうして、私たちは、雨の町で、暮らしている。

ときどき、長い梅雨の、そのまた奥の、特別な晩に、町外れに、ぽつんと、灯りが点ることがある。

藍染めの暖簾の、古い書店の。

それは、彗星が、近づいている報せだ。けれど、まだ、二十年は、先のことだ。私たちは、その晩、傘を持たずに、町外れまで、歩いていく。けれど、書店は、私たちのためには、もう、開かない。私たちは、もう、探しものを、見つけてしまったからだ。

私たちは、ただ、暖簾の前に、しばらく立つ。

そして、中へ向かって、声をかける。

「母さん」と。

返事は、ない。

けれど、戸の隙間から、本の匂いと一緒に、ほんのかすかに、子守唄が、聞こえてくる気がする。

眠れ、眠れ。

星が、海を、わたるまで。

雨を集めて暮らす者の前では、人は嘘がつけない、とこの町では言う。

けれど、本当は、こうだ。

雨を集めて暮らす者は、いつか、自分自身の、いちばん大切な雨を、空から、受け取る日が来る。傘を捨てて、両手を広げて、それを浴びる日が。

そのとき、その者は、もう、片方ではない。

私は、緒という。糸の、端という意味だ。けれど、もう、端ではない。私は、結ばれた。もう片方と、母の最後の雨と、そして、この、記憶が降る町と。

雨が、降っている。

今日は、どんな誰かの、一夜が降るだろう。私は、甕の蓋を開け、両手を、空へ、差し出す。

この物語にひそむ符牒

ほかの物語と、ひそかに分かち合っているもの:

  • ミラ彗星
  • 月光堂のマッチ
  • 子守唄
  • 月光書房
  • 片方の手袋

十二をつなぐ符牒について →

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