定時のチャイム
定時のチャイム
四十年、同じチャイムを聞いてきた。午後五時の、少しだけ音程の下がった、あの間延びした電子音を。それが今日、最後に鳴った。
高垣正一は、鳴り終えたチャイムの余韻がフロアの天井にすっと吸い込まれていくのを、机の前に立ったまま聞いていた。窓の外では、陽が西のビルの稜線にかかり、ガラスという硬いものを、やわらかな橙に染めていた。夕方だった。いつもの夕方。けれど、二度とないはずの夕方だった。
「高垣さん、そろそろですよ」
若い総務の女性が、遠慮がちに声をかけてきた。名前を、坂本さんといった。入社三年目だと、いつだったか本人が言っていた。三年。正一が入社したのは、この娘の親どころか、祖父母がまだ若かった頃だ。時間というのは、そういうふうに折り重なっていく。
「ああ、うん」
正一は机に目を落とした。三十年、いや、この机になってからは十五年ほどか。ともかく、長く使った机だった。天板の右手前が、腕の乗るあたりだけ、うっすらと色が薄くなっている。四十年ぶん、というわけではないにしても、ずいぶんな年月ぶん、そこに腕を乗せてきたのだ。書類を書き、電卓を叩き、電話を受け、頭を抱え、そして時々、誰にも気づかれぬように、ほんの少しだけ眠った。その色の薄くなった部分を、正一は指の腹でそっと撫でた。木が、体温を返してくるような気がした。
片づけは、もう半分ほど終えていた。
段ボールが二つ。それも、大きなものではない。四十年勤めた男の私物にしては、拍子抜けするほど少なかった。若い頃は、机まわりにもっといろいろなものがあった。家族の写真、子どもの描いた絵、旅先で買ったこけし、湯呑み、貰いもののボールペン立て。それが年を追うごとに、ひとつ、またひとつと減っていった。子どもは大きくなって絵を描かなくなり、こけしは引き出しの奥で埃をかぶり、いつしか家に持ち帰った。物が減るというのは、なにも寂しいことばかりではない。身軽になっていくことでもある。ただ、こうして最後に見渡してみると、その身軽さが、少しばかり心もとなかった。
段ボールの一つには、これまで貰った表彰状の類が入っていた。永年勤続。優良提案。無事故無違反。どれも、いま改めて読むと、自分のことのようでいて、他人事のようでもあった。表彰状というのは、額に入れて壁に飾ってこそ表彰状で、こうして無造作に段ボールに寝かされると、ただの紙になる。正一は苦笑した。まあ、いいだろう。家に帰ったら、妻が「あなた、これどうするの」と言うにちがいない。そうしたら、二人でどうするか考えればいい。
もう一つの段ボールには、雑多なものが入っていた。愛用していたマグカップ。老眼鏡の予備。常備薬。それから、机の上に長らく置いていた小さな観葉植物。パキラという名だと、これも坂本さんが教えてくれた。手のひらほどの鉢に、青々とした葉を広げている。水をやりすぎるとよくないのだと、そう聞いてから、正一はこの植物に、少しだけ律儀に付き合うようになった。やりすぎない、ということが、案外むずかしい。仕事もそうだった。かけすぎず、しかし手を抜かず。その按配を覚えるのに、正一はずいぶんな歳月を要した。覚えた頃には、もう定年だった。
「あとは、その引き出しだけですね」
坂本さんが、机の袖の引き出しを指さした。三段ある、いちばん下の、深い引き出しだ。
「ああ、これな」
正一はしゃがみ込み、その引き出しに手をかけた。少し立て付けが悪くて、いつも斜めに引かないと開かない。四十年、というのは大袈裟だが、この癖にも、長いこと付き合ってきた。斜めに、こつを効かせて引くと、引き出しは、いくらか抵抗しながら、ずずっと開いた。
引き出しの中は、まさに時間の堆積だった。
いちばん上に乗っているのは、この一、二年のもの。会議の資料の控え、栄養ドリンクの空き瓶、印鑑、朱肉。その下に、もう少し古いもの。さらにその下に――と、掘り進めていくうちに、正一は、時をさかのぼる旅をしているような気分になった。
古い名刺の束が出てきた。輪ゴムでとめてあったが、そのゴムは、触れた途端にぼろりと切れて、白い粉になった。名刺の一枚を手に取ると、もうこの世にいない先輩の名前があった。課長だった宮田さん。厳しい人だった。正一が若い頃、書類のミスをして、みんなの前でこっぴどく叱られた。その晩、宮田さんは正一を居酒屋に連れていって、何も言わずに、ただ黙って酒を注いでくれた。「明日から、またやればいい」。宮田さんが言ったのは、それだけだった。その一言を、正一は四十年、覚えている。名刺の文字が、少し滲んで見えた。老眼のせいだ、と正一は思うことにした。
もっと下に、古い手帳が何冊も重なっていた。表紙の会社の名前が、いくつか変わっている。合併したり、名前を変えたり。会社というのは、生きものみたいに、姿を変えながら続いていく。手帳を一冊、めくってみた。二十年ばかり前のものだ。几帳面な、けれど今より少しだけ勢いのある字で、予定が書き込まれている。「〇〇商事 訪問」「息子 運動会」「歯医者」。仕事と、暮らしと、体のこと。その三つが、同じ手帳の同じ頁に、区別なく並んでいる。あの頃は、それが当たり前だった。忙しかった。けれど、その忙しさの中に、確かに手ごたえというものがあった。
正一は、手を止めた。
引き出しのいちばん奥、指がやっと届くあたりに、何か、布のようなものが押し込まれている。手帳や書類の下敷きになって、すっかり平たくなっていた。引っぱり出してみると、それは、片方だけの手袋だった。
茶色い、革の手袋。
いや、正しくは、茶色かったはずの、というべきだろう。長い年月、暗い引き出しの底で、書類の重みに押しつぶされていたそれは、革の色が飴のように濃く沈み、ところどころに白っぽい罅が入っていた。掌の内側の縫い目が、一箇所ほつれかけている。指のかたちに、なだらかな癖がついていた。誰かの手が、確かにこれをはめて、握って、開いて、していた癖だ。
正一は、それをじっと見つめた。
思い出した、というのとは少しちがう。忘れていたものが、急にそこに現れた、というのでもない。むしろ、ずっと知っていたものに、四十年ぶりに再会したような、そういう感覚だった。この手袋のことを、正一は、はっきりとは覚えていなかった。けれど、この手袋にまつわる時間のことは、体のどこかが、ちゃんと覚えていた。
若い日の、片方だけの手袋。
入社して、二年目か、三年目のことだった。正一はまだ独身で、この会社にも、この街にも、いまだ馴染みきってはいなかった。仕事は覚えたてで、失敗も多く、毎日がただ懸命だった。その冬は、ひどく寒かった。
――そうだ、あの手袋だ。
記憶の底から、ひとつの光景が、ゆっくりと浮かび上がってきた。
冬の停留所
あの冬、正一は、毎朝、同じバス停で、同じ娘を見かけていた。
会社の最寄りの、ひとつ手前のバス停。正一はそこで降りて、五分ほど歩いて出社していた。娘は、そのバス停から、正一とは逆方向のバスに乗っていた。看護学校の生徒だったらしい。白い制服の裾が、コートの下から少しのぞいていた。
名前も知らなかった。話したこともなかった。ただ、毎朝、同じ時刻に、同じ場所で、すれ違うともいえないほどの近さで、居合わせるだけだった。娘は、いつも茶色い革の手袋をしていた。両手に、きちんと。寒がりなのだろう、と正一は思っていた。
その手袋を、正一はよく覚えていた。娘は、バスを待つあいだ、時折、その手袋をはめた両手を、口もとに近づけて、はあ、と白い息を吹きかけた。かじかんだ指を、あたためるように。そのしぐさが、なぜか、正一の目の隅に、いつも残った。仕事に追われ、失敗ばかりの、心細い日々の中で、その、名も知らぬ娘の、白い息のひとつが、正一には、なぜか、小さな灯りのように思えた。朝、あのバス停で、あの娘の姿を見ると、その日一日を、なんとか、やっていけそうな気が、したのだ。それが、恋というほどの、はっきりとしたものだったのか、正一には、いまでもわからない。ただ、そういう朝が、あの冬には、確かにあった。
ある朝――たしか、雪の降った翌朝だった。バス停の地面が、うっすらと凍てついていた。娘が、バスに乗り込もうとして、その凍った地面に足を滑らせた。あっ、と小さな声がして、娘は体勢を崩し、手にしていた鞄を落とした。中から、教科書やノートが、白い地面に散らばった。
正一は、とっさに拾うのを手伝った。二人で、しゃがみ込んで、散らばった教科書を集めた。冷たかった。指がかじかんだ。娘は、恐縮して、何度も頭を下げた。ありがとうございます、すみません、と。声が、思っていたより、ずっと明るかった。
拾い終えて、娘はバスに乗った。バスが行ってしまってから、正一は、地面に、茶色い手袋が片方だけ落ちているのに気づいた。娘のものだ。教科書を拾うとき、はめていた手袋を、脱いで、地面に置いたのだ。そして、慌てて乗り込むときに、片方だけ、置き忘れていったのだ。
正一は、その手袋を拾った。まだ、娘の手の温もりが、かすかに残っているような気がした。革の内側に、ほんのりと、体温のようなものが、宿っていた。正一は、その手袋を、両手で、そっと、包んだ。まるで、小さな、生きものを、あたためるように。そして、あたりを、見回した。娘の乗ったバスは、もう、道の、ずっと先の、角を、曲がるところだった。追いかけることは、できなかった。
翌朝、正一は、いつもより早くバス停に立った。
手袋を返そう、と思っていた。片方だけの手袋を、なくした人は、きっと困っているだろう。それに――と、正一は、自分でもよく分からない、けれど確かにそこにある気持ちを、認めていた。もう一度、あの娘と、言葉を交わしたかったのだ。
けれど、その朝、娘は来なかった。次の朝も。その次の朝も。
看護学校の生徒だから、実習か何かで、しばらく通わなくなったのかもしれない。あるいは、卒業したのかもしれない。冬の終わりだった。正一は、片方だけの手袋を、コートのポケットに入れて、毎朝、バス停に立った。娘の顔を探した。けれど、あの茶色い手袋の娘は、二度と、あのバス停には現れなかった。
春が来て、正一は、手袋を返す機会を、とうとう失った。
なくしてしまうのが、なぜか惜しかった。捨てるのも、忍びなかった。正一は、その片方だけの手袋を、会社の机の引き出しに、そっとしまった。いつか、また会えるかもしれない。そのとき返せるように。そんな、あるはずもない偶然を、心のどこかで待ちながら。
そして――四十年が経った。
現在
正一は、しゃがんだまま、しばらく動けなかった。
膝が痛んだ。四十年前は、こんなふうに、しゃがんでいても、膝は何も言わなかった。今は、少し長くしゃがんでいるだけで、関節が、これ見よがしに悲鳴をあげる。正一は、手袋を片手に、よいしょ、と声を出して立ち上がった。
坂本さんが、不思議そうにこちらを見ていた。
「それ、なんですか」
「ああ……昔の、忘れ物だよ」
正一は、そう答えた。それ以上、説明するつもりはなかった。四十年前の、名も知らぬ娘の、片方だけの手袋。そんなことを話しても、この若い娘には、うまく伝わるまい。いや、伝わらなくていい。これは、正一が、正一だけの引き出しの底に、四十年、しまっておいたものなのだ。
けれど、坂本さんは、その手袋を、まじまじと見ていた。
「なんだか……大事なものみたいですね」
正一は、少し驚いて、その若い娘の顔を見た。坂本さんは、照れたように笑って、「なんとなく、そんな感じがしました」と言った。
「そうだな」と、正一は言った。「大事な、というほどのものでもないが。まあ、忘れられなかった、というだけの、忘れ物だな」
自分で言って、正一は、その言葉を、しばらく口の中で転がしていた。忘れられなかった忘れ物。おかしな言い方だ。けれど、たぶん、これほど正確な言い方も、ほかにない。
正一は、その手袋を、段ボールには入れなかった。スーツの、内ポケットに入れた。四十年前、コートのポケットに入れて、毎朝バス停に立った、あのときと同じように。胸の、心臓のすぐそばに、平たくなった革の感触があった。
引き出しは、空になった。
からっぽになった引き出しの底を、正一は、もう一度、見た。木の底が、ずいぶんとくたびれていた。四十年ぶんの、いろいろなものを、この暗がりの底で、黙って受け止めてきた木だった。正一は、引き出しを、そっと閉めた。斜めに、こつを効かせて。いつものように。けれど、これが最後だった。
机が、片づいた。
天板の上には、もう、何もない。パキラも、マグカップも、老眼鏡も、みんな段ボールに収まった。ただ、腕の乗るあたりの、色の薄くなった部分だけが、そこに、残っていた。それは、正一がどれだけ片づけても、片づけられないものだった。四十年の、時間の跡だった。
花束
フロアには、まだ何人か、残っていた。
みんな、仕事の手を止めて、正一のほうを見ていた。定年退職の日というのは、こういうものだ。仰々しい式典があるわけではない。ただ、最後の日の、最後の時刻に、机を片づけ終えた者が、みんなに一言、挨拶をして、去っていく。それだけのことだ。
部長の中野が、進み出てきた。中野は、正一より十ほど下だ。正一が中堅だった頃に入ってきた、あの新人が、いまは部長になっている。時間というのは、そういうふうに、人を追い越したり、追い越されたりしながら、流れていく。
「高垣さん」
中野が、花束を差し出した。大きな、立派な花束だった。ガーベラ、カーネーション、それから、名も知らぬ、けれど夕日の色をした、橙色の花。セロファンに包まれて、蛍光灯の下で、少し眩しかった。
「長い間、本当に、お疲れさまでした」
中野の声が、少し湿っていた。この男は、こういうとき、涙もろい。正一は、そのことを、四十年近い付き合いの中で、よく知っていた。
「ありがとう」
正一は、花束を受け取った。両腕に、ずしりと重かった。花束というのは、見た目よりも、ずっと重い。この重さは、たぶん、花の重さだけではないのだろう、と正一は思った。
フロアの、あちこちから、拍手が起こった。
まばらな、けれど、温かい拍手だった。若い社員たちが、手を叩いていた。中には、正一が、名前しか知らない者もいた。部署が違う。ろくに口をきいたこともない。それでも、彼らは、手を叩いてくれていた。一人の男が、四十年勤めて、いま、去っていく。ただ、それだけのことに対して。
正一は、その拍手の中で、少し、言葉を探した。
「――えー」
正一は、口を開いた。人前で話すのは、昔から、得意ではなかった。
「四十年、お世話になりました」
それだけ言って、あとが、続かなかった。用意していた言葉が、いくつか、あったはずだった。会社への感謝。後輩たちへの励まし。これからの、会社の発展を願う言葉。そういう、退職の挨拶にふさわしい言葉を、正一は、家で、こっそり考えてきていた。妻に聞かれるのが照れくさくて、風呂の中で。
けれど、いざ、この場に立ってみると、そういう言葉は、どれも、どこか嘘くさく思えて、口から出てこなかった。
正一は、少し、間を置いた。それから、こう言った。
「私は……たいした仕事は、してこなかったと思います。大きな契約をまとめたわけでも、会社を大きくしたわけでもない。ただ、毎日、朝、来て、夕方、帰る。それを、四十年、繰り返してきただけです」
フロアが、静かになった。
「でも……」正一は、言葉を選んだ。「でも、その、毎日、来て、帰る、というのが、案外、難しいものでしてね。四十年、休まず、というわけにはいきませんでしたが、それでも、まあ、大きく道を踏み外すことなく、ここまで来られました。それは、私一人の力ではありません。ここにいる、みなさんのおかげです。それから――もう、ここにいない、たくさんの人たちの、おかげです」
宮田さんの顔が、浮かんだ。ほかにも、たくさんの、もういない人たちの顔が。
「若い人たちに、一つだけ。生意気なようですが、一つだけ、言わせてください」
正一は、若い社員たちの顔を、一人ずつ、見た。坂本さんも、そこにいた。
「毎日、同じことの繰り返しに、思えるかもしれません。今日と、昨日と、明日が、みんな同じに、思えるかもしれません。でも、同じ日は、一日も、ありません。今日という日は、今日、一日きりです。私は、それを、四十年かかって、やっと、わかりました。今日、この、最後の日に、ようやく」
正一は、胸のポケットの、平たい手袋の感触を、そっと、意識した。
「同じ日は、ありません。だから――どうか、毎日を、大切に。ありがとうございました」
正一は、頭を下げた。深く、深く。花束を抱えたまま。
拍手が、さっきより、少しだけ、大きくなった。
帰り道
社を出たのは、五時半を、少し回った頃だった。
自動ドアが、いつものように、すっと開いた。四十年、この自動ドアを、くぐってきた。朝は、これから始まる一日へ。夕方は、終えた一日から、家へと。そのくぐり方に、正一は、いつも、少しずつ、ちがう気持ちを乗せてきた。緊張。疲労。安堵。落胆。そして時々、達成の、ささやかな喜び。
けれど、今日のこのくぐり方は、それらの、どれとも、ちがっていた。
正一は、自動ドアの前で、一度、立ち止まった。振り返って、いまくぐってきた建物を、見上げた。灰色の、なんの変哲もない、オフィスビルだった。特別、美しいわけでも、由緒があるわけでもない。ただ、四十年、通った建物だった。
夕日が、そのビルの、上のほうの窓に、当たっていた。窓ガラスが、燃えるような、朱色に、光っていた。まるで、建物のほうが、正一を見送っているように。あるいは、四十年ぶんの、正一の毎日を、その朱色の光の中に、しまい込もうとしているように。
正一は、もう一度、深く、頭を下げた。今度は、誰にでもなく。建物に。四十年に。自分の、労働の一生に。
そして、正一は、歩き出した。
会社から、駅までの道。
四十年、通った道だった。四十年ぶんの、朝と夕方を、この道の上に、正一は、置いてきた。歩いて十二分。その十二分を、正一は、四十年分、足し合わせれば、いったい、どれほどの時間になるのだろう、と、ふと、詮無いことを考えた。
夕方の光が、道を、斜めから、照らしていた。
正一の影が、長く、前に伸びていた。若い頃は、こんなに長い影を、気にかけたことはなかった。急いでいた。前だけを見て、歩いていた。けれど、いまは、ちがう。もう、急ぐ理由が、どこにもない。明日から、正一は、この道を、通わない。だから、正一は、ゆっくりと、歩いた。ゆっくりと、自分の影を、踏むように。
道の途中に、いつもの、パン屋があった。
朝、時々、ここで、菓子パンを買った。忙しい日、昼食をとる暇がなさそうな日に。もう、店じまいの支度をしていた。硝子越しに、店の主人が、売れ残ったパンを、片づけているのが見えた。この店の主人とも、四十年の付き合いだった。いや、この主人は、二代目だ。先代の頃から数えれば、もっと長い。正一は、硝子越しに、軽く、頭を下げた。主人が、気づいて、頭を下げ返してきた。それだけの、やりとりだった。四十年ぶんの、朝の。
パン屋の先に、小さな公園があった。
ブランコと、砂場と、ベンチが一つ、あるだけの、小さな公園。夕方の、いま、子どもたちが、まだ、遊んでいた。母親の呼ぶ声がした。「もう、帰るよ」。子どもの一人が、名残惜しそうに、ブランコから、降りた。夕方だった。帰る刻だった。子どもも、鳥も、そして、正一も。それぞれの、帰る場所へと、向かう刻だった。
正一は、ベンチに、少し、腰を下ろした。
花束を、膝の上に置いた。橙色の花が、夕日の色と、溶け合って、どちらが花で、どちらが光なのか、わからなくなった。
蒼い星
空が、暮れていく。
さっきまで、朱色だった西の空が、いまは、茜色に、深まっていた。その茜が、上のほうへいくにつれて、金色に、そして、藍色に、移ろっていく。一日の、終わりの、あの、なんとも言えない、色の、うつろい。正一は、ベンチに座って、その色の、移ろいを、見ていた。四十年、この空の下を、歩いてきた。けれど、こんなふうに、腰を落ち着けて、夕暮れの空を、最初から最後まで、見つめたことは、はたして、何度あっただろう。
そのとき、だった。
茜色に、暮れゆく、西の空。その、まだ、明るさの残る一角に、ひとつ、星が、瞬いた。
宵の、一番星のように。けれど、それは、ふつうの星とは、少し、ちがっていた。
正一は、目を、細めた。老眼の目を、こらした。その星は――蒼かった。夕焼けの、茜色の中に、たった一つ、澄んだ、蒼い光を、灯していた。そして、よく見ると、その星は、うしろに、細く、蒼白い、尾を、引いていた。
彗星だ、と正一は思った。
いつだったか、新聞で、読んだ気がした。あるいは、テレビで。何十年に一度、あるいは、もっと稀に、空を、渡っていく、彗星があると。その名を、正一は、思い出せなかった。ただ、確か、その彗星は、いつも、決まった、周期で、帰ってくるのだと、そう、書いてあった気がした。人の一生に、一度、会えるか、会えないか。そういう、はるかな、周期で。
蒼い尾を引く、その星を、正一は、しばらく、見つめていた。
――ミラ。
なぜか、その名が、ふいに、口をついて出た。ミラ彗星。そうだ、そういう名だった。ずっと昔、まだ、若かった頃に、どこかで、聞いた名だった。ミラ。不思議な星だと、誰かが言っていた。決まった時に、ふらりと、帰ってきて、また、遠くへ、去っていく。まるで、律儀な、旅人のように。
正一は、胸のポケットに、手を、当てた。
片方だけの、手袋の、平たい感触が、そこに、あった。四十年前、返せなかった、手袋。二度と会えなかった、娘。その娘も、いまごろは、正一と、同じように、歳を重ねているのだろう。どこかで、誰かの、母になり、あるいは、祖母になり。あの、明るい声で、笑っているのだろうか。それとも――。
正一は、そこで、考えるのを、やめた。
わからないことを、わかろうとするのは、もう、よそう、と思った。片方だけの手袋のことは、片方だけの手袋のまま、心の、引き出しに、しまっておけばいい。返せなかったものは、返せなかったものとして。会えなかった人は、会えなかった人として。それでも、その、返せなかったこと、会えなかったことが、四十年、正一の、胸の、片隅に、確かに、灯っていた。この、蒼い星の、蒼い光のように。
律儀に、帰ってくる、ミラのように。
正一は、その、蒼い星に向かって、心の中で、小さく、頭を下げた。ありがとう、と。何に対して、なのかは、自分でも、わからなかった。ただ、頭を、下げたかった。四十年の、毎日に対して。返せなかった、手袋に対して。会えなかった、あの娘に対して。そして、この、夕暮れの空を、蒼く、渡っていく、はるかな旅人に対して。
青いマッチ箱
ベンチから、立ち上がろうとして、正一は、スーツの、別の内ポケットに、何か、硬いものが、入っているのに、気づいた。
なんだろう、と、取り出してみた。
それは、小さな、マッチ箱だった。
正一は、首を、傾げた。こんなもの、入れた覚えは、なかった。タバコは、もう、二十年も前に、やめている。マッチなど、家にも、めったに、ない。それが、なぜ、スーツの内ポケットに。
マッチ箱は、青かった。深い、藍色に近い、青。その、青い箱の、表に、金色の、細い文字で、何か、印刷されていた。夕闇の中で、正一は、目を、こらした。
「月光堂」
そう、読めた。
月光堂。聞いたことのない、名だった。マッチの、火をともす、店の名だろうか。けれど、正一の、記憶のどこにも、そんな店は、なかった。
正一は、そのマッチ箱を、そっと、開けてみた。中には、赤い頭の、マッチが、きちんと、並んでいた。一本も、使われていない。まっさらの、マッチだった。
――誰かが、入れたのだろうか。
会社の、誰かが。餞別か、何かの、洒落で。正一は、そう思おうとした。けれど、あの、慌ただしい、退社の、間際に、誰かが、こっそり、正一のポケットに、マッチ箱を、忍ばせる、暇など、あっただろうか。
わからなかった。
わからなかったが、正一は、なぜか、そのマッチ箱を、捨てる気に、なれなかった。青い、藍色の、小さな箱。金色の、月光堂の、文字。それは、なんだか、この、夕暮れの空の色を、そのまま、閉じ込めたような、そんな、箱だった。
正一は、そのマッチ箱を、また、内ポケットに、そっと、戻した。片方だけの、手袋の、入っている、ポケットとは、反対側の。左と、右。胸の、両側に、いま、正一は、返せなかった手袋と、覚えのない、青いマッチ箱を、抱えていた。
なんだか、おかしな、退職の日だ、と、正一は、思った。けれど、悪い気は、しなかった。むしろ――。
正一は、花束を、抱え直した。そして、また、歩き出した。駅へと。家へと。
古書店
駅までの、最後の、曲がり角を、曲がったとき、だった。
正一は、足を、止めた。
その、曲がり角に、店が、あった。
四十年、通った、道だった。この曲がり角のことも、正一は、隅から隅まで、知っているつもりだった。ここには、確か、長いこと、空き店舗が、あったはずだ。シャッターの、下りた、古い、テナント。何の店だったかも、もう、思い出せない。ずっと、閉まったままの、その店の前を、正一は、四十年、通り過ぎてきた。
けれど、いま、そこには、明かりが、灯っていた。
古書店だった。
硝子の、扉の、内側に、天井まで届く、本棚が、ずらりと、並んでいた。古い、革の、背表紙。金色の、箔押しの、題名。ランプの、あたたかな、橙色の、光が、その、無数の、本の背を、やわらかく、照らしていた。扉の上に、小さな、木の看板が、かかっていた。
「月光書房」
正一は、その名を、読んで、はっとした。
月光書房。さっきの、マッチ箱の、月光堂。同じ、月光の、名。偶然だろうか。それとも――。
正一は、その、硝子の扉を、押した。
からん、と、乾いた、鈴の音が、鳴った。
店の中は、ひっそりと、していた。
古い、紙と、革と、埃の、匂いがした。懐かしい、匂いだった。正一の、実家にも、こんな匂いの、する、部屋が、あった。祖父の、書斎だった。もう、とうに、なくなってしまった、家の。
本棚の、あいだを、正一は、花束を、抱えたまま、ゆっくりと、歩いた。天井まで、届く、本棚。そこに、ぎっしりと、詰まった、本。どの、本も、古かった。何十年も、あるいは、何百年も、前の、本のように、見えた。けれど、不思議と、埃っぽくは、なかった。むしろ、どの本も、いま、たったいま、誰かが、読み終えて、そっと、棚に、戻したばかりの、ような、そんな、温もりを、たたえていた。
「いらっしゃいませ」
奥から、声が、した。
正一は、顔を、上げた。カウンターの、奥に、店主らしき、人影が、あった。ランプの、逆光で、顔は、よく、見えなかった。老人のようにも、若者のようにも、見えた。あるいは、その、両方のようにも。
「珍しい、お客さまだ」と、その、店主は、言った。「この店は、夜にしか、開きません。日が暮れて、宵の、一番星が、出る頃に。そして、朝が、来る前に、また、閉じてしまう。あなたのように、まだ、日の、明るいうちに、いらっしゃる方は、めったに、ない」
正一は、店主の言葉を、うまく、飲み込めなかった。夜にしか、開かない、古書店。朝には、閉じる。そんな、店が、あるだろうか。
けれど、正一は、なぜか、その、荒唐無稽な言葉を、疑う気に、なれなかった。この、夕暮れの、この、空の色の、この、一日の、終わりの気配の中では、そういう、店が、あっても、おかしくない、ような、気が、したのだ。
「あの……」正一は、口を、開いた。「私は、この道を、四十年、通いました。でも、こんな店、いままで、一度も」
「ええ」と、店主は、うなずいた。「見えなかったでしょう。急いでいる人には、この店は、見えません。前だけを、見て、歩いている人には。けれど――」
店主は、正一を、見た。逆光の中で、その、目だけが、ランプの光を、映して、きらりと、光った。
「今日の、あなたは、ゆっくりと、歩いていらした。自分の影を、踏むように。だから、見えたのです。この、店が」
正一は、しばらく、言葉を、失っていた。
やがて、正一は、カウンターに、近づいた。花束を、抱えたまま。胸には、片方だけの手袋と、青いマッチ箱。
「あの、青い、マッチ箱は」と、正一は、尋ねた。「あれは、あなたが」
「さあ」と、店主は、微笑んだように、見えた。「どうでしょう。ただ、ひとつ、言えるのは――ミラが、空を、渡る夜には、時々、そういう、不思議な、忘れ物が、人の、ポケットに、まぎれこむ、ということです。返せなかったもの、渡せなかったもの、言えなかったこと。そういうものが、ミラの、蒼い尾に、乗って、はるばる、帰ってくる。そういう、夜が、あるのです」
正一は、胸の、ポケットに、手を、当てた。
片方だけの、手袋。四十年前、返せなかった、手袋。
「私は」と、正一は、言った。声が、少し、震えた。「四十年前、ある人に、手袋を、返せませんでした。片方だけの、手袋を。あの人は、いまごろ、どこで、どう、しているのか。生きているのか、それとも――。私は、それを、知りません。一生、知らずに、終わるでしょう。でも、私は、その、手袋を、四十年、捨てられませんでした。今日、退職して、机を片づけたら、その、手袋が、引き出しの、奥から、出てきたのです」
店主は、黙って、聞いていた。
「馬鹿な、話です」と、正一は、続けた。「名前も、知らない。一度、言葉を、交わしただけの、人です。それを、四十年。妻には、言えませんでした。子どもにも。誰にも。ただ、私の、胸の、引き出しに、片方だけ、しまって。おかしいでしょう」
「いいえ」と、店主は、静かに、言った。「おかしくは、ありません」
店主は、カウンターの、奥から、一冊の、本を、取り出した。古い、けれど、美しい、装丁の、本だった。
「返せなかったもの、というのは」と、店主は、言った。「返せなかったからこそ、その人の、一生ぶん、その人と、共に、あるのです。もし、あなたが、あの朝、あの手袋を、返してしまっていたら。あなたは、その日のうちに、あの人のことを、忘れて、いたかもしれない。返せなかったから。渡せなかったから。だから、あなたは、四十年、あの人を、覚えていた。手袋は、片方だけ、だから、片方だけ、あなたの、胸に、残った。もう片方は、あの人の、胸に、残っているかも、しれません。片方だけの、手袋というのは、二人で、一組。離れていても、一組、なのです」
正一の、目に、熱いものが、こみあげた。
老眼のせいだ、とは、今度は、思えなかった。
子守唄
店主は、その、美しい装丁の、本を、そっと、開いた。
中には、文字ではなく、楽譜のような、ものが、書かれていた。古い、五線譜。手書きの、音符。その、余白に、小さな、文字で、歌詞が、そえられていた。
「これは」と、店主は、言った。「古い、子守唄です。この、あたりの、この、街の。もう、歌う人も、いなくなった、子守唄」
店主は、その、楽譜を、見ながら、低い声で、口ずさんだ。
「――眠れ、眠れ、星が、海を、わたるまで」
正一は、その、歌を、聞いて、息を、のんだ。
知っている、歌だった。
いや、正一が、知っているのではない。正一の、母が、知っていた歌だ。ずっと、昔。まだ、正一が、幼かった頃。母が、正一を、寝かしつけるとき、この歌を、歌ってくれた。眠れ、眠れ、星が、海を、わたるまで。その、旋律を、正一は、五十年以上、忘れていた。忘れていたのに、いま、この、店主の、低い声を、聞いたとたん、それが、体の、奥の、奥から、ふいに、よみがえってきた。
母の、声だった。あたたかい、母の、手のひらの、感触だった。
「星が、海を、わたるまで」と、店主は、続けた。「この、星、というのは、ミラのことだと、言われています。ミラが、夕暮れの、海の上を、蒼い尾を、引いて、渡っていく。その、あいだに、お眠り、と。子どもを、寝かしつける、母親は、そう、歌ったのです。ミラは、めったに、帰ってこない。だから、この歌は、めったに、歌えない。けれど、だからこそ――」
店主は、正一を、見た。
「だからこそ、ミラが、帰ってくる、夜には。返せなかったものが、帰ってくる、夜には。人は、この歌を、思い出す。母の、声を。子どもだった、自分を。歩いてきた、一生を」
正一は、涙を、こらえきれなかった。
四十年の、労働の、一生。そのあいだ、正一は、母のことなど、ほとんど、思い出さなかった。忙しかった。前だけを、見て、歩いていた。母は、正一が、まだ、働き盛りの頃に、亡くなった。その、死に目にも、正一は、間に合わなかった。仕事だった。大事な、商談が、あった。母は、一人で、逝った。
正一は、それを、四十年、心の、どこかで、悔いていた。返せなかった、手袋のように。渡せなかった、言葉のように。
「ありがとう」と、正一は、言った。母に。声に、出して。この、店の、この、ランプの、光の中で。「ありがとう、母さん。眠れ、眠れ、って。あの歌。ずっと、忘れてて。ごめんな。忙しくて。ずっと」
店主は、何も、言わなかった。
ただ、静かに、その、古い子守唄の、本を、閉じた。
帰路
正一が、店を、出たとき、空は、もう、すっかり、藍色に、暮れていた。
からん、と、鈴が、鳴った。
正一は、振り返った。曲がり角の、店は、まだ、そこに、あった。硝子の、扉の、内側で、ランプの、橙色の光が、ゆらいでいた。正一は、その、店に向かって、深く、頭を、下げた。花束を、抱えたまま。
「また、いらしてください」と、店の中から、店主の、声が、した。「けれど、たぶん――もう、この道を、通らない、あなたには、この店は、二度と、見えないでしょう。ミラも、次に、帰ってくるのは、ずっと、先です。あなたが、この世に、いるうちに、もう一度、会えるかは、わかりません」
正一は、うなずいた。それで、いい、と思った。
一度、見えれば、それで、いい。一度、会えれば、それで、いい。片方だけの、手袋のように。返せなかった、まま、それでも、四十年、胸に、灯りつづけた、ように。
正一は、駅へと、歩き出した。
空を、見上げた。西の空の、蒼い星は、もう、藍色の、闇に、まぎれて、見えなくなっていた。けれど、正一には、わかった。それは、消えたのではない。ただ、遠くへ、旅立っていっただけだ。律儀な、旅人のように。また、いつか、帰ってくるために。人の、一生の、はるか、彼方から。
正一は、駅の、改札を、くぐった。
四十年、この改札を、くぐった。朝と、夕方。行きと、帰り。その、最後の、帰りだった。
ホームに、電車が、入ってきた。いつもの、時刻の、いつもの、電車。けれど、二度と、乗らない、電車。正一は、その電車に、乗り込んだ。花束を、抱えて。胸に、片方だけの、手袋と、青いマッチ箱を、しまって。
電車は、動き出した。
窓の外を、見慣れた、風景が、流れていく。四十年、見てきた、風景。会社の、ビルが、遠ざかっていく。パン屋の、明かりが。公園の、ブランコが。そして、あの、曲がり角が。
正一は、その、曲がり角に、目を、こらした。
けれど、もう、そこには、店の、明かりは、なかった。ただ、暗い、空き店舗の、下りた、シャッターが、あるだけだった。四十年、そうであった、ように。
正一は、微笑んだ。
家
家の、最寄りの駅で、電車を、降りた。
改札を、出ると、妻が、立っていた。
迎えに、来ると、正一は、聞いていなかった。けれど、妻は、そこに、いた。少し、寒そうに、コートの、襟を、立てて。四十年、正一の、帰りを、待ちつづけた、妻だった。
「おかえりなさい」と、妻は、言った。
正一の、抱えた、花束を、見て、妻は、少し、笑った。「まあ、立派な、花束。あなた、それ、抱えて、電車に、乗ってきたの。恥ずかしくなかった」
「恥ずかしかったよ」と、正一は、言った。「でも、まあ、今日は、いいだろう」
「いいわよ、今日は」と、妻は、言った。「今日は、特別、いいわよ」
二人は、並んで、歩き出した。家までの、道を。
夕方の、藍色の、空の下を。妻の、歩みは、少し、遅くなっていた。四十年、正一が、気づかぬうちに。正一の、歩みも、遅くなっていた。妻が、気づかぬうちに。二人は、その、遅くなった歩みで、ちょうど、同じ、速さで、並んで、歩いた。
「あのね」と、正一は、歩きながら、言った。「今日、机を、片づけたら、変なものが、出てきたんだ」
「変なもの。なあに」
正一は、胸のポケットから、片方だけの、手袋を、取り出した。
妻に、見せた。「これ。四十年前の、忘れ物だ」
妻は、その、古い、茶色い、手袋を、しばらく、見ていた。それから、静かに、言った。「あなた、これ、ずっと、持ってたの」
「ああ」
「四十年」
「ああ」
妻は、それ以上、何も、聞かなかった。ただ、その手袋を、そっと、手に取って、しばらく、見つめて、それから、正一に、返した。
「大事なものは」と、妻は、言った。「大事に、しまっておくものよ。返せなくても。ずっと」
正一は、うなずいた。妻は、たぶん、何も、聞かなくても、わかっている。四十年、連れ添うというのは、そういうことだ。言葉に、しなくても、わかること。返せなくても、伝わること。
家に、着いた。
玄関の、明かりが、灯っていた。妻が、つけて、出たのだ。あたたかな、橙色の、明かりだった。あの、古書店の、ランプの、光に、似ていた。
正一は、玄関の、前で、一度、立ち止まって、もう一度、空を、見上げた。
星が、いくつか、瞬いていた。けれど、あの、蒼い星は、もう、どこにも、見えなかった。ミラは、去ったのだ。はるかな、旅路へ。また、いつか、帰ってくるために。
正一は、胸の、ポケットに、手を、当てた。
片方だけの、手袋。青いマッチ箱。そして、その、奥に、四十年の、労働の、一生と、返せなかった、いくつもの、ものと、渡せなかった、いくつもの、言葉が、そっと、しまわれていた。
けれど、正一は、寂しくは、なかった。
返せなかった、ものは、返せなかった、まま。会えなかった、人は、会えなかった、まま。それでも、それらは、消えたわけでは、なかった。ミラのように、律儀に、帰ってくる。心の、はるかな、彼方から。ゆっくりと、歩く者にだけ、見える、店のように。
正一は、玄関の、扉を、開けた。
「ただいま」
四十年、言いつづけた、言葉。明日から、もう、朝には、言わない、言葉。けれど、夕方には、まだ、言える、言葉。
家の、奥から、あたたかい、匂いが、した。妻が、何か、こしらえて、待っていてくれた、匂いだった。正一は、花束を、抱えたまま、その、あたたかな、家の中へと、入っていった。
外では、藍色の、空が、だんだんと、深く、暮れていった。星が、ひとつ、また、ひとつと、灯った。どこかで、まだ、遊んでいる、子どもを、呼ぶ、母親の、声が、した。「もう、帰るよ」。
帰る刻だった。
一日の、終わりの、刻。人も、鳥も、星も、それぞれの、帰る場所へと、向かう刻。
そして、その、藍色の、空の、はるか、彼方を、蒼い尾を、引いた、ひとつの、旅人が、静かに、渡っていった。誰にも、見送られることなく。けれど、確かに、そこに。次に、帰ってくる、その日まで。
眠れ、眠れ、星が、海を、わたるまで。
正一の、四十年の、一日が、静かに、暮れていった。