鈴の音、帰る道
鈴の音が、風より先に山を降りてくる。
その音を聞くと、佐一はいつも、自分の胸のどこかがゆるむのを感じた。日がな一日、山の斜面に散らばっていた牛の群れが、夕暮れの気配を嗅ぎつけて、一頭、また一頭と首を持ち上げる。首を持ち上げれば、頸に吊るした鈴が鳴る。その音が、遠く近く、稜線の草の海のあちこちで湧き起こって、やがてひとつの潮のようにこちらへ寄せてくる。牛たちは、帰り道を知っているのだ。人が教えるより先に、腹の底で日の傾きを覚えている。
佐一は、放牧地の一番高いところに立って、その音の満ちてくるのを待っていた。七十をふたつ越えた膝は、朝方の霧の中を登るときには痛んだが、こうして日の落ちるのを西に見て立っていると、痛みはどこかへ引いていく。西の空は、まだ金色だった。金色の底の方が、少しずつ朱に沈みかけている。あと一刻もすれば、あの朱が茜になり、茜が藍に呑まれて、山は夜の獣になるだろう。
「フユ」
と、佐一は口の中で呼んだ。
群れの中に、フユがいる。呼べば、すぐにわかる。ほかの牛の鈴は澄んで高いのに、フユの鈴だけは、ひとつだけ、少しくぐもっている。もう十四の夏を越えた老いた牝牛で、頸の鈴も、佐一が最初に掛けてやったものを、ずっと替えずにいた。何度も掛け替えようとした。新しいのは音が良いぞ、と言って。けれどフユは、新しい鈴を掛けられると、決まって斜面のいちばん遠いところへ行って、動かなくなる。仕方なく、古い、くぐもった鈴に戻す。すると、そしらぬ顔で群れに帰ってくる。そういう牛だった。
そのくぐもった鈴が、いま、群れのいちばん後ろで、ゆっくりと鳴っている。
一
この高原の牧場に佐一が来たのは、まだ二十歳になるかならぬかの頃だった。
戦争が終わって、街には帰る家がなかった。父も母も、焼けた街のどこかで灰になったと聞いた。骨も見つからなかった。ただ、汽車を乗り継いで、乗り継いで、どこか遠くへ行きたかった。海の見えない、ひたすら草の匂いのするところへ。そうして辿り着いたのが、この山だった。
初めての夏、佐一は牛の追い方も知らなかった。棒を振り回して、大きな声を出せば牛は動くものだと思っていた。年寄りの牧夫に笑われた。牛はな、と、その老人は言った。牛はな、追うんじゃねえ。牛のほうが帰りたがってるのを、こっちが少しだけ、後ろから見ていてやるんだ。人が急かすと、牛は却って足を止める。日が傾くのを、牛に任せておけばいい。あとはただ、群れの尻について、鈴の音を聞いていればいい。
その老人は、もうとうに死んだ。名前も、いまでは佐一しか覚えていない。けれどその言葉だけは、五十年、佐一の背中にしみついていた。
初めての夏、佐一は、牛が怖かった。街育ちの佐一には、あの大きな体が、あの、静かに、こちらを見つめる目が、恐ろしかった。角の一突きで、人など、いとも簡単に、宙へ跳ね飛ばされる。実際、若い頃、佐一は、気の荒い雄牛に、腿を突かれたことがある。傷は、いまも、うっすらと、残っている。
けれど、いつからか、佐一は、牛が怖くなくなった。それは、あの老人の言葉が、腑に落ちた日からだった。牛は、人を、傷つけようとして傷つけるのではない。牛は、ただ、驚くのだ。人が、急に動いたり、大きな声を出したりすると、牛は、驚いて、身を守ろうとする。それだけのことなのだ。牛の側に立って、牛の目で世界を見れば、牛の動きは、すべて、理にかなっていた。恐ろしいものなど、何もなかった。
牛の目で、世界を見る。佐一は、五十年かけて、それを、少しずつ、覚えていった。日の傾きを、腹の底で感じること。草の萌える場所を、匂いで知ること。雨の来る前の、空気の変わりを、肌で読むこと。人は、いつからか、そういうものを、忘れてしまった。けれど、牛は、覚えていた。そして、牛のそばで暮らすうちに、佐一もまた、それを、思い出していった。人が、まだ、獣だった頃の、遠い記憶を。
牛を追うんじゃない。牛の帰りたい気持ちの、後ろにいてやる。
いま、佐一の前を、二十七頭の牛が、めいめいの速さで斜面を降りていく。若い牛は先を急ぎ、途中で草を食みながら、また思い出したように歩き出す。仔牛は母牛のわき腹に寄り添って、鼻を鳴らす。その群れのいちばん後ろを、フユが歩く。
フユは、いつからか、いちばん後ろを歩くようになった。
若い頃のフユは、群れの先頭を切っていた牛だった。気が強く、脚が速く、放牧地のどんな遠い斜面へでも真っ先に駆けていった。仔を産むときも、ひとりで山の奥へ入っていって、翌朝には、もう脚の立つ仔を連れて群れに戻ってきた。そういう牛だった。それが、この二年、三年で、みるみる後ろへ下がっていった。歩みが遅くなった。草を食む顎の動きも、緩やかになった。夏の盛りの暑い日には、木蔭からなかなか出てこなくなった。
獣医が、春に来て、言った。この牛は、もう長くはないでしょう。心臓が弱ってきている。今年の夏を越せれば、御の字です。無理をさせないことです。
佐一は、うなずいた。うなずいて、そのあと、獣医が帰ってから、厩の裏で長いこと座っていた。
長くはない、というのが、どれくらいの長さなのか、佐一にはわかっていた。この山で五十年、幾頭の牛を看取ったか、もう数えられない。牛の死は、いつも夏の終わりにやってくる。放牧の季節が終わり、山を下りる頃に。あるいは、その前に。だから佐一には、獣医の言葉の意味が、痛いほどわかっていた。
これが、フユの、最後の夏になる。
二
夕暮れの光は、刻一刻と色を変えていく。
さっきまで金色だった空の底が、いまはもう、熟れた柿のような朱に染まっている。その朱が、西の稜線を燃やし、草の穂の一本一本を、細い金の針のように光らせている。牛たちの背も、朱に染まっていた。黒い牛は黒いまま影になり、赤みを帯びた牛は、その毛の色を夕日に溶かして、まるで空から零れた光の塊のように見えた。
フユの毛は、もともと薄い茶だった。それが、この夕暮れの中では、燃えるような赤金に光っている。老いて痩せた背骨が、その光の中に、山の稜線のように浮き上がっていた。
佐一は、群れのいちばん後ろにつき、フユと並んで歩いた。
道は、放牧地から厩へ、ゆるやかに下っていく。両脇には夏草が繁り、風が渡るたびに、草の穂が一斉に朱の波を立てる。その草の匂い。土の匂い。牛の、あたたかい獣の匂い。五十年、佐一が呼吸してきたのは、この匂いだった。街の匂いはもう、思い出せない。海の匂いも。ただ、この草と、土と、獣の匂いだけが、佐一の肺の底に、山の地層のように積もっていた。
「よう歩いたな」
と、佐一はフユに言った。声に出したのか、心の中だけだったのか、自分でもわからなかった。フユは、ちらりと佐一のほうへ、大きな濡れた目を向けた。長いまつげが、夕日を受けて、金の縁取りのように光る。それから、また前を向いて、ゆっくりと、一歩、また一歩と、脚を運んだ。
くぐもった鈴が、その一歩ごとに、鈍く鳴る。
佐一は、その鈴を、フユが仔牛だった頃に掛けてやった。あれは、この牧場に来て、二十年ほど経った頃だ。その年に生まれた牝の仔牛は、どういうわけか佐一によくなついた。ほかの仔牛はみな、母牛のわき腹から離れなかったが、その仔だけは、佐一が斜面を登っていくと、母牛を置いて、とことこと寄ってきた。まだ生まれて幾日も経たぬ、脚のもつれる仔牛だった。
その仔を、佐一は、フユと名づけた。
冬に生まれたからではない。むしろ、その仔が生まれたのは、初夏の、いちばん草の萌える頃だった。それなのに、なぜフユと名づけたのか。佐一は、いまでは、はっきりとは思い出せない。ただ、その仔の、静かな、深い目を見たとき、なぜか冬の言葉が浮かんだ。雪のように白い息を吐く、あの季節の、静けさのようなものが。
冬。それは、佐一にとって、失ったものの季節でもあった。
三
佐一には、かつて、妻がいた。
この山に来て、十年ほどした頃、麓の村から嫁に来た女だった。名を、トキといった。牧場の飯炊きに来ていた、口数の少ない女で、佐一とは、初めのうち、ろくに口もきかなかった。ただ、佐一が夕方、牛を追って山を下りてくると、いつも厩の入口に立って、待っていた。それだけの女だった。それだけのことが、佐一には、この世でいちばん有り難いことに思えた。
トキは、子を産まなかった。産めない体だと、一度、蚊の鳴くような声で佐一に打ち明けたことがある。佐一は、それがどうした、と言った。おれは牛が二十頭も三十頭もいる。子には不自由せん。トキは、それを聞いて、初めて、佐一の前で泣いた。
トキが来てから、厩の入口の、あの明かりが、灯るようになった。
それまで、佐一は、日が暮れても、明かりを灯すことをしなかった。暗い厩へ、暗いまま、牛を追って帰り、暗いまま、藁を替え、暗いまま、母屋へ引き上げた。誰も、待っていない場所に、明かりを灯す理由が、なかった。けれど、トキが来てから、佐一が夕方、山を下りてくると、厩の入口には、いつも、橙色の、あたたかい明かりが、灯っていた。その明かりを、遠く、山の上から見つけたとき、佐一は、生まれて初めて、帰る場所がある、ということの意味を、知ったのだった。
トキは、佐一より、頭ひとつ、背が低かった。冬になると、あの、鹿革の手袋をして、白い息を吐きながら、厩の仕事をした。牛の飼い葉を刻み、藁を運び、乳を搾った。手が、小さかったから、乳搾りは、あまり上手ではなかった。それでも、トキは、毎朝、毎夕、辛抱強く、牛の乳房に、その小さな手を添えた。牛たちも、トキには、よく懐いた。とりわけ、あの、フユの母牛は、トキが搾ると、いつもより、たくさんの乳を出した。
「この子は、わたしの、味方なのよ」
と、トキは、その母牛の背を撫でて、笑った。そして、その母牛が産んだ仔が、フユだった。だから、トキは、フユを、ことのほか、かわいがった。仔牛のフユを、膝に抱いて、あの、子守唄を、口笛で吹いてやった。眠れ、眠れ、と。フユは、その口笛を聞くと、トキの膝の上で、ことん、と、眠ってしまうのだった。
トキは、口笛を吹くのが上手かった。
夕方、二人で厩の仕事をしていると、トキはよく、口笛で歌を吹いた。どこで覚えたのか、村の子守唄だと言っていた。眠れ、眠れ、と、始まる歌だった。星が海をわたるまで、と、続く。海のない山の中で、なぜ海の歌なのか、佐一は不思議に思ったが、トキは、この山にも昔は海があったと、祖母から聞いた、と言って笑った。ずっと、ずっと昔にね。だから、山の草は、いまでも夕方になると、海みたいに波打つでしょう。
その口笛を、佐一は、いまでも吹く。
牛を追いながら、あるいは、厩で藁を替えながら。低く、低く、トキの吹いていたあの旋律を、口笛でなぞる。トキが死んで、もう二十年が経つ。冬の朝、いつものように厩へ行こうとして、佐一が布団を離れたとき、トキは、もう息をしていなかった。眠るように、静かに、逝っていた。前の晩まで、ふつうに、あの口笛を吹いていたのに。
眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。
佐一は、いまも、その口笛を吹く。フユは、その口笛を、仔牛の頃から聞いて育った牛だった。だから、佐一が口笛を吹くと、フユは、必ずこちらへ首を向ける。あの、深い、静かな目で。トキの口笛を、いちばん長く聞いた生き物は、いまでは、このフユだけになってしまった。
佐一は、歩きながら、低く口笛を吹き始めた。
眠れ、眠れ。
フユの、くぐもった鈴が、その旋律に、鈍く重なった。
四
道が、ひとつ、ゆるい曲がりに差しかかる。
そこには、一本の古い水楢の木が立っていた。何百年、この道の脇に立っているのか、誰も知らない。太い幹は、大人が三人がかりで抱えても回りきらないほどで、夏には、その大きな樹冠が、道いっぱいに濃い蔭を落とす。牛たちは、この木の下を通るとき、いつも少し、歩みを緩める。まるで、そこに何かがいるのを知っているかのように。
佐一も、この木の前で、少し立ち止まった。
若い頃、トキと二人で、この木の下によく腰を下ろした。牛を追って山を下りてくる途中、日が長い夏の夕方には、二人でここに座って、群れが先に厩へ帰っていくのを見送った。急ぐことはない、とトキは言った。牛は道を知っている。わたしたちは、こうして、少しだけ、夕日を見ていましょう。
トキが死んだあと、佐一は、この木の根方に、トキの櫛を埋めた。墓は、麓の寺にちゃんと建てた。けれど、それとは別に、この木の下に、トキがいちばん使っていた黄楊の櫛を、そっと埋めたのだった。トキは、この道が好きだった。牛と一緒に、山を下りるこの道が。だから、トキの一部を、この道に残しておきたかった。
「トキ」
と、佐一は、水楢の木に向かって呼んだ。
「フユが、な。今年で、しまいかもしれん」
木は、答えなかった。ただ、夕風が渡って、大きな樹冠がざわりと鳴り、無数の葉が、朱の光を弾いた。佐一は、それを、トキの返事のように聞いた。トキなら、こう言うだろう。急ぐことはないよ、と。フユは道を知っている。ちゃんと、帰る場所を知っているのだから。
フユが、佐一の脇を通り過ぎて、水楢の木の下で、足を止めた。
老いた牝牛は、太い幹に、そっと、痩せた脇腹を寄せた。かゆいところを掻くように、ゆっくりと、体を木にこすりつける。何十年、この牛は、この木にこうして体を寄せてきたことだろう。仔牛の頃から。若い母牛だった頃も。そして、いま、最後の夏に。
佐一は、その様子を、ただ黙って見ていた。
木の幹に、フユの薄い茶の毛が、幾筋か、こすれて残った。夕日を受けて、その毛が、金の糸のように光った。
五
群れが、道の下の方で、鈴を鳴らして待っている。
親牛が数頭、立ち止まって、こちらを振り返っていた。フユを待っているのだ、と佐一は思った。牛は、群れの仲間を置いていかない。とりわけ、老いた牛を。若い頃、群れの先頭を切っていたフユを、いまも、みなが敬っているのかもしれなかった。あるいは、ただ、群れの一頭が欠けることを、本能で嫌うのかもしれない。理由はどうあれ、牛たちは、フユを待つ。
佐一は、フユの背に、そっと手を置いた。
「もう、行こうか」
その手のひらに、フユの体温が伝わってくる。ごつごつと骨ばった、けれど、あたたかい背。この背を、佐一は、五十年近く、撫でてきた。仔牛の頃、初めて鈴を掛けてやったとき。初めて仔を産んだとき、その仔の体を舐めてやるフユの、汗ばんだ背を。病を得たとき。ほかの牛と喧嘩して、角に傷を負ったとき。そのたびに、佐一は、この背に手を置いてきた。
牛は、五十年、いつも佐一より短く生きて、佐一より先に死んでいった。
佐一は、幾頭もの牛を看取った。名を付け、鈴を掛け、育て、そして、見送った。牛飼いの仕事とは、つまるところ、見送ることだった。育てることは、いつか見送ることだった。それを、佐一は、若い頃には、うまく呑み込めなかった。かわいがった牛が、荷車に載せられて山を下りていくのを見送るたびに、佐一は、厩の裏で、声を殺して泣いた。
いちばん、こたえたのは、フユの母牛を、見送ったときだった。あの、トキが、味方だと言った母牛。トキが死んだ、その翌年の秋に、母牛もまた、老いて、山を下りた。荷車に載せられていくとき、母牛は、大きな目で、じっと、佐一を見ていた。何も言わなかった。ただ、見ていた。佐一は、その目を、忘れることができない。荷車が、山の道を、遠ざかっていく。鈴の音が、だんだん、小さくなっていく。やがて、聞こえなくなる。あとには、ただ、草の海の、風の音だけが、残った。
そのとき、佐一は、思ったのだ。トキが、味方だと言った母牛が、いなくなった。トキとの、最後の繋がりが、ひとつ、消えてしまった。けれど、母牛の産んだ、フユが、いる。フユが、いるかぎり、トキと母牛の思い出は、まだ、この厩の中に、生きている。だから、佐一は、フユを、いっそう、大切にした。フユは、佐一にとって、ただの牛ではなかった。フユは、トキと、母牛と、過ぎ去った、たくさんの夏の、生きた、しるしだった。
けれど、いつからか、佐一は、泣かなくなった。
牛は、死ぬ。人も、死ぬ。トキも死んだ。父も母も死んだ。あの、牛の追い方を教えてくれた老人も。この山で、佐一は、たくさんのものを見送った。見送ることは、悲しいことではあったが、それは、生きることの、裏側の縫い目のようなものだった。生きるということは、つまり、たくさんのものを見送りながら、それでも山を下り、また翌朝、山を登る、ということだった。
フユが、佐一の手のひらの下で、ふう、と、大きく息を吐いた。
その息が、夕暮れの冷えた空気の中で、うっすらと、白く見えた。夏だというのに。老いた牛の吐く息は、夏でも、どこか、冬の色をしていた。
眠れ、眠れ、と、佐一は、また口笛を吹いた。
六
道は、水楢の木を過ぎると、大きく西へ開ける。
そこからは、山の稜線が、一望に見渡せた。連なる山々の背が、いま、夕日を受けて、燃えるような朱金に輝いていた。その稜線の上には、もう、金色は残っていない。空の高いところは、すでに深い藍に沈み、藍と朱の境目のあたりが、えもいわれぬ、菫色に暮れなずんでいた。
その菫色の中に、ひとつ、蒼い光が、ともった。
佐一は、足を止めて、それを見た。
宵の一番星――と、初めは思った。けれど、それは、ただの星ではなかった。稜線のいちばん高いところ、菫色と藍の溶け合うあたりに、その光は、細く、蒼く、尾を引いていた。まるで、誰かが、藍の絹に、一筋、蒼い糸を通したように。ゆらめきもせず、瞬きもせず、ただ、静かに、そこにあった。
彗星だ、と、佐一は思った。
いつだったか、ずっと昔、トキが言っていた。あの、村の年寄りが話していた星。何十年に一度、夕方の空に、蒼い尾を引いて現れる星があるのだと。ミラ、という名の星だと。それが現れる年は、と、トキは言った。それが現れる年は、山も海も、いつもと少し、違って見えるのだと。あの世とこの世の間の戸が、ほんの少し、開くのだと。年寄りたちは、そう言い伝えていた。
佐一は、その蒼い光を、長いこと見上げた。
そういえば、と、佐一は思った。前に、この星が現れたのは、いつだったろう。ずいぶん昔だ。まだ、トキが、生きていた頃だ。あれは、二人で、この道を、牛を追って下りていた、ある夕方だった。トキが、ふいに、空を指さした。あれ、と。稜線の上に、蒼い星が、尾を引いていた。トキは、その星を見て、しばらく、黙っていた。それから、静かに、言った。あの星が、また来るときには、わたしは、もう、いないかもしれないね。佐一は、馬鹿を言うな、と、叱った。トキは、笑って、それきり、何も言わなかった。
トキの言うとおりだった。星は、また、来た。そして、トキは、もう、いなかった。
朱に暮れゆく空に、たった一点、冷たく澄んだ蒼。それは、この世のどんな色とも違っていた。夕日の朱の、あたたかい、去りゆくものの色ではなく、もっと遠い、もっと静かな、留まりつづけるものの色だった。海の底の色。あるいは、まだ生まれる前の、あるいは、死んだあとの、静けさの色。
「トキ」
と、佐一は、また呼んだ。
「見えるか。あれが、ミラだ。おまえが言うとった星だ」
フユが、佐一の隣で、その蒼い星のほうへ、大きな目を向けていた。まさか、牛にあの星が見えているとは思わなかったが、フユの深い目には、たしかに、蒼い光の点が、小さく映り込んでいた。老いた牝牛と、老いた牧夫が、並んで、暮れゆく稜線の上の、蒼い星を見上げていた。
眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。
海をわたる星。あの蒼い彗星のことだったのか、と、佐一は、ふいに思った。トキが吹いていた、あの子守唄の、海をわたる星。それは、もしかしたら、この、ミラのことだったのかもしれない。海のない山の子守唄が、海をわたる星を歌うのは、いつか、この蒼い星が、藍の空の海を、静かにわたっていくのを、遠い昔の誰かが、見上げたからかもしれなかった。
七
日が、山の向こうに、落ちきった。
朱は、みるみる、藍に呑まれていく。稜線の輪郭だけが、まだ、名残の光で、うっすらと縁取られている。草の海は、もう、色を失って、ただ、風にざわめく、暗い波になった。牛たちの鈴が、その暗がりの中で、いっそう澄んで、鳴りわたる。
佐一は、フユを促して、また歩き出した。
厩は、もう、すぐそこだった。道の下の、なだらかな窪地に、古い、大きな厩が建っている。その屋根の稜線が、暮れかけた空を背に、黒々と浮かんでいた。厩の入口には、もう、明かりがともっていた。若い衆の誰かが、灯してくれたのだろう。橙色の、あたたかい明かりが、暗くなりはじめた窪地に、ぽつりと、灯っていた。
その明かりを見ると、佐一の胸は、また、ゆるんだ。
帰る場所がある、ということ。日が暮れて、山が夜の獣になっても、あの橙色の明かりの下に、帰っていく場所があるということ。牛にも、人にも、それがある。それは、佐一が、五十年、この山で学んだ、ただひとつの、たしかなことだった。どんなに遠くへ放牧に出ても、日が傾けば、牛は帰る。人も、帰る。帰る場所があるかぎり、山を下りる道は、どんなに暗くても、怖くはなかった。
牛たちが、次々と、厩へ入っていく。
鈴の音が、ひとつ、またひとつと、厩の中に吸い込まれていく。澄んだ音、高い音、低い音。二十七頭の、それぞれの鈴が、めいめいの場所へ、収まっていく。若い衆が、入口に立って、牛の頭数を数えている。一頭、二頭、と。牛の首を、通りしなに、ぽんと叩いてやりながら。
いちばん最後に、フユが、厩へ入っていった。
くぐもった、あの鈴の音が、ゆっくりと、暗い厩の中へ、消えていった。
八
厩の中は、あたたかかった。
牛たちの体温と、藁の匂いと、乾いた土の匂いが、暗がりの中に、こもっていた。入口の明かりが、その暗がりを、橙色に染めている。牛たちは、めいめいの場所に、ゆっくりと体を沈めていく。長い一日の放牧を終えて、疲れた体を、藁の上に横たえる牛もいる。まだ立ったまま、のんびりと反芻している牛もいる。仔牛は、母牛のわき腹に、体を寄せて、目を閉じている。
佐一は、フユの場所へ、行った。
フユの場所は、厩のいちばん奥の、隅だった。若い頃は、いちばん入口に近い、風通しのいい場所を陣取っていたフユが、老いてからは、いちばん奥の、暗く、静かな隅を、好むようになった。佐一は、そこに、いつもより多く、藁を敷いてやった。柔らかい、乾いた藁を、老いた体が痛まないように、厚く、厚く。
フユは、その藁の上に、ゆっくりと、脚を折って、体を沈めた。
大きな体が、藁の上に横たわると、厩の隅に、ひとつの、小さな山ができたようだった。佐一は、その脇に、しゃがみ込んだ。膝が、鈍く痛んだ。けれど、その痛みも、いまは、遠かった。佐一は、フユの首に手を伸ばして、あの、くぐもった鈴に、そっと触れた。
古い、傷だらけの鈴だった。
五十年近く、この牛の首で、鳴りつづけた鈴。雨に濡れ、日に焼け、草に擦れ、幾度も泥にまみれ、そのたびに、佐一が拭いてやった鈴。表面の、三日月のような模様も、もう、擦れて、ほとんど見えなくなっていた。佐一は、その鈴を、指の腹で、そっと拭った。ちりん、と、鈴が、暗がりの中で、鈍く鳴った。
厩の柱に、佐一は、目をやった。
フユの場所の、すぐ脇の、太い柱。その柱に、片方だけの、古い革手袋が、掛かっていた。
それは、トキの手袋だった。
九
トキは、冬になると、その革手袋をして、厩の仕事をした。
麓の村を出るとき、母親から譲られたという、鹿革の、しなやかな手袋だった。左右で、一対。けれど、いつだったか、右のほうを、トキは、山のどこかで落とした。牛を追って、山を下りてくる途中で。気づいたときには、もう日が暮れていて、探しに戻ることもできなかった。翌日、佐一が斜面を隈なく探したが、右の手袋は、とうとう見つからなかった。
トキは、それを、ずいぶん、残念がった。
母の形見だったから。けれど、片方だけになった左の手袋を、トキは、捨てなかった。片方だけでも、と言って、それを、厩の柱に、掛けておいた。いつか、右のほうが、山から、ひょっこり出てくるかもしれないから。そうしたら、また、対になるから。トキは、そう言って、笑った。
右の手袋は、とうとう、出てこなかった。
そして、トキが、先に、逝ってしまった。
佐一は、トキが死んだあとも、その左の手袋を、柱から外さなかった。外そうとして、幾度も、手を伸ばした。けれど、そのたびに、手が止まった。この手袋は、まだ、片割れを待っている。山のどこかで落とした、右の手袋を。永遠に出てこないものを、それでも、待ちつづけている。その、待つ姿を、佐一は、外すことができなかった。
だから、その手袋は、二十年、この柱に、掛かったままだった。
冬になると、佐一は、たまに、その左の手袋を、はめてみることがある。トキの、小さな手に合わせて作られた手袋は、佐一の、節くれだった手には、きつくて、指の先までは入らない。それでも、佐一は、その手袋を、はめてみる。すると、なぜか、トキの手のぬくもりが、まだ、革の内側に、残っているような気がするのだった。
十
佐一は、フユの脇に、しゃがんだまま、その柱の手袋を、見ていた。
橙色の明かりが、革手袋の、擦り切れた表面を、照らしていた。片方だけの、待ちつづける手袋。その脇に、老いて、痩せて、最後の夏を迎えた、一頭の牝牛。そして、その牛の首で、五十年、鳴りつづけた、傷だらけの鈴。
みな、待っているのだ、と、佐一は思った。
手袋は、片割れを待っている。永遠に出てこない、右の手袋を。フユは、たぶん、もう、そう長くは待たずに、この藁の上から、静かに、あの世へ渡っていくのを待っている。そして、佐一自身も――と、佐一は、ふと、思った。佐一自身も、たぶん、待っているのだ。トキのいる、あの、水楢の木の向こう側へ、いつか、自分も渡っていく日を。
けれど、それは、悲しいことではなかった。
待つ、ということは、まだ、繋がっている、ということだった。片方だけの手袋は、まだ、片割れと繋がっている。フユは、まだ、この藁の、この厩の、この山と繋がっている。そして、佐一は、まだ、トキと繋がっている。あの水楢の木の下に埋めた櫛を通して、この柱に掛かった手袋を通して、フユの首の鈴を通して、トキの吹いた子守唄を通して。
見送ることは、切り離すことではない。
佐一は、五十年かかって、それを、やっと、わかりかけていた。牛を見送り、トキを見送り、たくさんのものを見送ってきたけれど、見送ったものは、どこかへ消えてしまったのではなかった。それらは、みな、佐一の中に、山の地層のように、積もっていた。草の匂いのように、土の匂いのように、獣の匂いのように。佐一が呼吸するたびに、佐一の肺の底で、静かに、生きつづけていた。
佐一は、柱の手袋を見あげながら、ふと、あの、失われた右の手袋のことを、思った。五十年近く、山のどこかに、あの片割れは、眠っている。雨に打たれ、雪に埋もれ、草に覆われ、いまでは、もう、土に還ってしまったかもしれない。けれど、佐一は、いまでも、たまに、放牧地の斜面で、ふと、足を止めることがある。もしかしたら、この草の下に、あの手袋が、と。むろん、見つかりはしない。それでも、佐一は、探すのをやめない。探すこと、それ自体が、トキを、忘れずにいるということだったから。
失われたものは、どこかへ消えたのではない。ただ、見えなくなっただけだ。あの、右の手袋のように。あの、蒼い星のように。土の下に、光の中に、隠れているだけだ。そう思うと、佐一の胸の、別れの痛みは、ほんの少し、やわらいだ。
フユが、藁の上で、ゆっくりと、目を閉じた。
長い一日の、放牧を終えて。最後の夏の、一日を終えて。老いた牝牛は、あたたかい厩の隅で、静かに、目を閉じた。その、閉じたまぶたの、長いまつげが、橙色の明かりに、金の縁取りのように、光った。
十一
佐一は、フユの首に、そっと、頬を寄せた。
牛の、あたたかい、獣の匂いが、佐一の鼻を満たした。この匂い。五十年、佐一が呼吸してきた、この匂い。フユの、大きな体が、佐一の頬の下で、ゆっくりと、上下していた。息をしている。まだ、息をしている。ふう、ふう、と、大きな息を、静かに、繰り返している。
「フユ」
と、佐一は、その首に、低く、囁いた。
「よう、生きたな。ほんまに、よう、生きたな」
フユは、目を閉じたまま、ぴくりと、耳を動かした。聞こえているのだ、と、佐一は思った。佐一の声が。仔牛の頃から、五十年近く、聞きつづけてきた、佐一の声が。そして、あの、口笛が。
佐一は、フユの首に頬を寄せたまま、低く、口笛を吹き始めた。
眠れ、眠れ。
トキの吹いていた、あの旋律。海のない山の、海をわたる星の、子守唄。低く、低く、佐一は、口笛を吹いた。厩の暗がりの中に、その旋律が、静かに、満ちていった。ほかの牛たちも、その口笛を、聞いていた。反芻を止めて、耳を澄ませて。二十七頭の牛が、暗がりの中で、じっと、佐一の口笛に、耳を傾けていた。
眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。
星が海をわたるまで――と、佐一は、口笛を吹きながら、思った。あの、稜線の上の、蒼い星。ミラ。あれが、藍の空の海を、静かにわたっていくまで。フユよ、それまで、眠るがいい。この、あたたかい、藁の上で。この、獣の匂いの中で。この、五十年、おまえが暮らした、厩の隅で。
星が、海を、わたるまで。
フユの、大きな体が、佐一の頬の下で、ゆっくりと、ゆっくりと、上下していた。
十二
どれくらい、そうしていただろう。
厩の入口の明かりが、夜風に、かすかに、揺れていた。若い衆は、もう、母屋へ引き上げたらしい。厩の中は、静かだった。牛たちの、寝息だけが、暗がりの中に、満ちていた。佐一は、フユの脇に、しゃがんだまま、その寝息を、聞いていた。
フユは、生きていた。
まだ、生きていた。ふう、ふう、と、大きな息を、繰り返していた。今夜は、まだ、渡らない。今夜は、まだ、この藁の上に、この厩の隅に、留まっている。獣医は、今年の夏を越せれば御の字だと言った。けれど、夏は、まだ、始まったばかりだった。稜線の上のミラも、まだ、藍の空を、渡りきってはいなかった。
佐一は、ゆっくりと、立ち上がった。
膝が、鈍く痛んだ。老いた膝が。けれど、佐一は、その痛みを、いとおしむように、味わった。まだ、痛む。まだ、生きている。まだ、明日、山を登れる。まだ、フユと、この道を、一緒に下りられる。何度、この道を、一緒に下りられるかは、わからない。あと、幾度か。あるいは、もう、幾度も、ないのかもしれない。
けれど、それでも、いいのだ、と、佐一は思った。
一度でも、下りられれば。もう一度でも、この、朱に暮れる道を、フユと並んで、鈴の音を聞きながら、下りられれば。それだけで、いい。生きるとは、そういうことだった。あと、幾度、一緒にいられるかを、数えることではなく、いま、一緒にいられることを、味わうことだった。
佐一は、柱の、片方だけの手袋に、そっと、手を触れた。
冷たく、しなやかな、鹿革の感触。トキの手袋。二十年、片割れを待ちつづけている手袋。佐一は、その手袋を、指の腹で、そっと、撫でた。それから、フユの、閉じた目を、もう一度、見た。老いた牝牛は、静かに、眠っていた。あたたかい、獣の匂いの中で。
「また、明日な」
と、佐一は、フユに言った。
十三
厩を出ると、空は、もう、すっかり、藍に沈んでいた。
星が、無数に、瞬いていた。天の川が、山の稜線から稜線へ、白く、渡っていた。そして、その、藍の空の海の中に、ひとつだけ、蒼い光が、静かに、尾を引いていた。ミラ。稜線の上に現れたあの星は、いまは、少し、位置を移して、天の中ほどに、蒼く、澄んで、かかっていた。
佐一は、その星を、しばらく、見上げていた。
夜風が、山を、渡っていく。昼間の暑さは、もう、どこにもなかった。夜の、冷えた空気が、草の海を、さわさわと、鳴らしていた。その音は、まるで、遠い、海の音のようだった。海のない山の、草の海の、波の音。ずっと、ずっと昔、この山に、本当に海があった頃の、その、名残のような。
眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。
佐一は、また、低く、口笛を吹いた。
その口笛は、夜風に乗って、厩の中の、眠る牛たちのもとへ、届いただろうか。フユのもとへ。あの、五十年、この口笛を聞きつづけてきた、老いた牝牛のもとへ。届いただろう、と、佐一は思った。きっと、届いた。フユは、眠りの中で、その口笛を聞いて、また、ほんの少し、耳を動かしたにちがいない。
佐一は、母屋への、暗い道を、ゆっくりと、歩き始めた。
膝が、痛んだ。けれど、佐一の胸は、静かだった。悲しみは、たしかに、そこにあった。フユとの別れが、近づいているという悲しみ。けれど、その悲しみは、もう、佐一を、押し潰しはしなかった。その悲しみは、佐一が、五十年かけて育ててきた、たくさんの、いとおしいものの、いちばん深いところにある、静かな重みだった。それは、悲しみであると同時に、感謝でもあった。
こんなにも、いとおしいものと、出会えたこと。
こんなにも、深く、悲しめるほどのものを、持てたこと。それは、佐一の、五十年の、この山での、暮らしの、ゆたかさの、証だった。何も持たずに、この山に来た、二十歳の佐一。焼けた街から逃げてきた、あの、空っぽの佐一。その佐一が、いま、こんなにも、たくさんの、いとおしいものに、囲まれている。牛たち。この山。この道。あの水楢の木。トキの手袋。そして、フユ。
佐一は、ふと、立ち止まって、もう一度、空を見上げた。
蒼い星が、藍の海の中を、静かに、渡っていた。
十四
翌朝、佐一は、いつものように、夜明け前に、目を覚ました。
まだ、暗かった。窓の外は、藍と、うっすらとした灰色の、あわいだった。佐一は、床を離れて、身支度を整えた。膝は、朝方は、いつも痛む。けれど、佐一は、その痛みに、慣れていた。五十年、毎朝、この痛みとともに、床を離れてきた。
厩へ行くと、牛たちは、もう、目を覚ましていた。
夜明けの気配を、腹の底で感じて、めいめい、体を起こし、藁を食み、反芻を始めている。佐一は、厩のいちばん奥の、隅を見た。フユの、場所を。
フユは、そこに、いた。
藁の上に、体を起こして、ゆっくりと、朝の草を、食んでいた。佐一が近づくと、フユは、あの、大きな、濡れた目を、こちらへ向けた。長いまつげが、厩の入口から差し込む、夜明けの、うっすらとした光を、受けていた。ふう、と、フユは、大きな息を吐いた。その息は、今朝も、うっすらと、白かった。
「おはよう」
と、佐一は、フユに言った。
フユは、答える代わりに、ゆっくりと、脚を折りたたむのをやめて、大きな体を、藁の上に、立ち上がらせた。老いた脚が、少し、震えた。けれど、フユは、立った。立って、佐一のほうへ、一歩、近づいた。くぐもった鈴が、鈍く、鳴った。
今日も、山へ登れる、と、佐一は思った。
今日も、フユと、放牧地へ登れる。今日も、日がな一日、あの、草の斜面で、フユが、ゆっくりと草を食むのを、見ていられる。そして、夕方には、また、この道を、フユと並んで、鈴の音を聞きながら、下りてこられる。何度、それができるかは、わからない。あと、幾度か。けれど、今日は、できる。今日という、この、一日は。
佐一は、フユの首に、手を置いた。
あたたかい、朝の、獣の匂い。骨ばった、けれど、あたたかい背。佐一は、その背を、そっと、撫でた。柱の、片方だけの手袋が、朝の光の中で、静かに、片割れを待っていた。佐一は、その手袋に、ちらりと、目をやってから、フユの首を、もう一度、撫でた。
「さあ、行こうか」
十五
牛たちが、厩を出て、山へ、登っていく。
夜明けの、まだ、藍の残る空の下を。草の斜面を、一頭、また一頭と。鈴の音が、朝の、澄んだ空気の中に、湧き起こる。若い牛は、先を急ぐ。仔牛は、母牛のわき腹に、寄り添う。そして、群れのいちばん後ろを、フユが、ゆっくりと、登っていく。くぐもった鈴を、鳴らしながら。
佐一は、その群れの、いちばん後ろについて、山を登った。
膝が、痛んだ。息が、切れた。けれど、佐一は、登った。フユの、少し後ろを。牛を追うのではなく、フユの、帰りたい――いや、登りたい気持ちの、後ろに、いてやりながら。五十年前、あの老人が、教えてくれたように。牛は追うんじゃない。牛の気持ちの、後ろに、いてやるんだ。
東の空が、白み始めた。
やがて、その白みの底が、うっすらと、朱に染まった。夜明けの朱。夕暮れの朱と、同じ色でありながら、まるで、違う色。去りゆくものの朱ではなく、生まれ出るものの朱。その朱の光が、稜線を越えて、草の斜面に、差し込んできた。牛たちの背が、その光を受けて、金色に、輝いた。フユの、薄い茶の毛も、朝の光の中で、赤金に、燃えた。
蒼い星は、もう、見えなかった。
夜が明けて、ミラは、朝の光の中に、溶けてしまった。けれど、佐一は、知っていた。星は、消えたのではない。ただ、光の中に、隠れているだけだ。日が暮れれば、また、あの、稜線の上に、蒼く、尾を引いて、現れるだろう。星は、いつも、そこにある。見えても、見えなくても。生きているものも、死んだものも、いつも、どこかに、ある。
佐一は、山の斜面の、いちばん高いところで、足を止めた。
そこから、牧場の、すべてが見渡せた。緑の、草の海。散らばっていく、牛の群れ。その群れの、いちばん後ろで、ゆっくりと草を食み始めた、老いた牝牛。そして、その向こう、麓のほうに、朝日を受けて、白く光る、寺の屋根。トキの、眠る場所。
佐一は、そのすべてを、朝の光の中で、見渡した。
そして、低く、口笛を吹いた。眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。けれど、それは、もう、眠りの歌ではなかった。それは、目覚めの歌だった。今日という、一日の、始まりの歌。フユと、もう一度、山に登り、もう一度、夕方に、この道を、下りてくるための、その、始まりの歌だった。
草の海が、朝風に、さわさわと、波打った。
その音は、やはり、遠い、海の音のようだった。ずっと、ずっと昔、この山に、たしかに、海があった頃の。そして、いつか、遠い、遠い先に、また、海に還っていく、その日までの――草の、海の、波の音。
鈴の音が、朝の山に、澄んで、鳴りわたった。フユの、くぐもった鈴も、その中に、たしかに、混じっていた。
佐一は、その音を、いつまでも、聞いていた。人も、牛も、星も、みな、それぞれの帰る場所へ向かい、そして、また、それぞれの登る場所へ向かう。その、繰り返しの、いちばん静かな一点に、いま、佐一は、立っていた。日は、これから、また、天を渡り、そして、また、西へ傾くだろう。そのとき、佐一とフユは、また、あの朱の道を、並んで、下りてくる。何度でも。渡れるだけ、何度でも。星が、海を、わたりきる、その日まで。