火の見櫓
火の見櫓
汽車が最後の坂を越えたとき、窓のむこうの空が、鉄が冷えていくように赤かった。
倉田金次は、擦り切れた膝の上で両手を組み、その赤を見ていた。手を組んだのは、そうしていなければ、指が勝手にふるえるからだった。四年と、それから半年。数えれば数えられる歳月が、汽車の車輪の下で、枕木の一本一本のように過ぎていった。ごとん、ごとん、と背骨に伝わってくるその音を、彼はもう長いこと、自分の心臓の音と聞きちがえて生きてきた。
車内には、彼のような男が幾人か乗っていた。みな似たような色の、似たような綻びかたをした軍装のなれの果てをまとい、みな似たように窓の外を見ていた。だれも口をきかなかった。復員という言葉が、口をきくにはあまりに重たすぎたのかもしれない。生きて還るということが、こんなにも静かなことだとは、金次は戦地では思ってもみなかった。
還れる、と決まった日のことを、彼はうまく思い出せない。ただ、名簿に自分の名があったこと、船の底で幾日も海に揺られたこと、内地の港に降り立ったとき、桟橋の板が思いのほか乾いていて、その乾いた木の匂いに不意に涙が出そうになったこと――そういう断片が、砕けた鏡のかけらのように、ばらばらに残っているだけだった。
汽車が坂を下りきると、視界がひらけた。金次は組んだ手をほどいて、窓枠に指をかけた。
そこにあるはずのものが、なかった。
四年半前、彼を送り出した町は、川に沿って甍を連ねた、瓦の黒い町だった。丘の上に寺があり、その甍のあいだから、火の見櫓の細い影が、いつでも空に向かって伸びていた。子どもの時分、金次はその櫓のてっぺんに登り、町じゅうの屋根を見わたして、世界とはこれきりのものだと思っていた。
いま、窓のむこうにあったのは、瓦ではなかった。焼けて赤茶けた土と、黒く炭化した柱の残骸と、そのあいだにぽつりぽつりと建った、板と焼けトタンの小屋だった。町は、なくなっていた。正確には、町のあったところに、町の骨だけが残されていた。
夕日が、その骨を照らしていた。焼け跡の朱は、生きている町の朱とはちがう。生きた家の屋根瓦にあたる夕日は、家の温みを吸って、どこかやわらかく赤い。だが焼け跡の土にあたる夕日は、乾いてひび割れた地面に吸われて、血のようにどす黒く、それでいて、ぞっとするほど明るかった。
駅は、残っていた。
木造の、小さな、しかし覚えのある駅舎だった。改札の柱に、金次はふれた。この柱の、この節目の位置を、彼の掌はまだ覚えていた。出征の朝、旗を振る人々のあいだをかき分けて、この柱のそばを通ったとき、母がここまでついてきて、それ以上は入れないからと、この柱に手をかけて、金次、金次、と呼んだのだった。声にはならなかった。ただ口が、金次、と動いた。彼はふり返らなかった。ふり返れば、足がとまってしまう気がしたから。
いま、その柱に、彼は掌を押しあてている。木は、四年半分だけ古びて、乾いて、それでも柱はそこにあった。柱が焼けなかったのは、風向きのせいだろうか、それとも、と考えかけて、彼はやめた。焼けたものと焼けなかったもののあいだに、理由を探してはいけない。それは、生き残ったものと死んだもののあいだに、理由を探すのと同じことだった。彼はそれを、南方の島で学んでいた。
改札を出ると、駅前の広場も、やはり焼けていた。かつて茶屋があり、駕籠かきの立った石があり、市の立った広場は、いまは瓦礫を片づけただけの、平たい土の広がりになっていた。その土の上に、幾人かの人影があった。
みな、だれかを待っているのだった。
復員列車の着く時刻には、駅前に人が集まるのだと、金次は船で一緒だった男から聞いていた。名簿を頼りに来る者もあれば、なんの当てもなく、ただ、もしやという思いだけで来る者もある。夫を、息子を、兄を、弟を。汽車が着くたびに、人影は少しずつ立ちあがり、降りてくる男たちの顔を、一つ一つ、食い入るように見るのだという。
金次が改札を出た瞬間、その人影のいくつかが、はっと動いた。そして、彼の顔を見て、動きをとめた。
自分の待っている顔ではない、とわかったのだ。
金次は、その落胆の気配を、肌で感じた。感じながら、彼は広場を横切った。彼のほうもまた、その人影のなかに、探すべき顔を探していた。母の顔を。もしいれば、妹の、はつの顔を。だが、どの顔も、金次の知らない顔だった。みな、疲れて、痩せて、それでもなお目だけは灯を絶やすまいとするように、ぎらぎらと光っていた。
だれも、金次を待ってはいなかった。
彼は、丘のほうへ歩きだした。
家は、丘の中腹にあった。町の中心からは少しはずれた、竹藪を背にした百姓家だった。父は金次が兵にとられる前の年に病で死に、あとには母と、五つ下の妹のはつが残っていた。金次が案じていたのは、母のことだった。母は、金次が発つとき、すでに足がわるく、杖をついていた。この焼け跡から、母がどこへ逃げたのか。逃げられたのか。
歩きながら、金次は上着の右のポケットに手を入れた。そこには、片方だけの手袋があった。
毛糸の、灰色の、指のところが繕ってある手袋だった。左手のものだった。右手のはなかった。それは金次のものではなかった。石橋という、戦友のものだった。
石橋は、金次と同じ小隊にいた。歳は金次より二つ上で、内地では鉄工所の職工をしていたという、口の重たい、しかし手先の器用な男だった。南方の、あの、名を呼べば喉が凍りつくような島で、二人はいつも隣り合って伏せていた。夜になると、島の空には星が降るようだった。内地で見るのとは並びのちがう、南の空だった。石橋はその空を見あげて、あれが北だ、あの方角の、ずっと向こうが内地だ、と教えてくれた。方角のわかる男だった。鉄を打つ職人は、火の色で温度を読み、星で方角を読むのだと、石橋は言った。
その手袋を、金次は石橋の掌から受け取った。石橋が死ぬとき――いや、その言いかたはちがう。石橋は、まだ完全には死んでいなかった。彼は右手を失っていた。だから、右手の手袋はいらなくなった。左手だけが残った。石橋は、その残った左手の手袋を抜いて、金次に握らせた。
「倉田。……これ、内地に、持って帰ってくれ」
かえせるものなら、と石橋は言った。声はもう、ほとんど息だった。俺の女房が編んだんだ。片方だけでも、うちに帰れば、あいつはわかる。俺が、ちゃんと最後まで、これを持ってたって。
女房の名を、石橋は言った。住んでいる町の名を、番地を、言った。金次はそれを、繰り返し繰り返し口のなかで唱えて、覚えた。石橋の女房のいる町は、金次の故郷から、汽車で二つばかり先の町だった。だから、必ず、と金次は約束した。
石橋は、それを聞いて、少し笑ったようだった。星がきれいだな、と最後に言った。金次はそのとき、空を見あげなかった。石橋の顔を見ていた。だから、その夜どんな星が出ていたのか、金次は知らない。
石橋のことを思うたびに、金次の胸に、一つの後悔が、棘のように刺さった。あの最後の夜、なぜ、空を見てやらなかったのか。石橋が、きれいだと言ったその星を、なぜ、一緒に見て、ああ、ほんまにきれいや、と言ってやらなかったのか。金次はただ、石橋の顔を、その、みるみる血の気の失せていく顔を、見つめることしか、できなかった。石橋の最期の望みは、あるいは、金次と二人で、その星を見あげることだったかもしれないのに。
だが、いまとなっては、詮ないことだった。金次にできるのは、ただ、この片方の手袋を、約束のとおり、届けることだけだった。石橋の、あの、鉄を打つ職人の、器用な指の温みが、まだ残っているような気がする、この、灰色の手袋を。
石橋は、内地に、女房のほかに、幼い息子が一人いると言っていた。まだ、金次が発つ前の、船のなかで、写真を見せてくれたことがあった。赤子を抱いた女房の、色のあせた写真だった。この子が、大きくなったら、鉄工所に入れて、俺の跡を継がせるんだ、と石橋は言った。手に職があれば、どんな世になっても、食うには困らん。鉄はな、正直だ。打てば打っただけ、応えてくれる。人間より、よっぽど正直だ――そう言って、石橋は、笑ったのだった。
丘の坂道は、覚えているよりずっと急に感じられた。
四年半、足腰は鍛えられたはずだった。ジャングルを、山を、飢えたまま何十里も歩いた足だった。それでいて、故郷の、たかだか子どもの足でも登れた坂が、いまは金次の息を切らせた。それは足の問題ではなかった。一歩ごとに、丘の上のわが家が近づいてくる、その一歩の重さのせいだった。
坂の両側の家は、麓のほうは焼けていたが、中腹より上は焼け残っていた。火は川風に乗って町なかを舐め、丘のなかほどで力尽きたのだ。焼け残った家々の、生垣のむこうから、夕餉の煙が細く立ちのぼっていた。だれかが、まだそこで暮らしている。米を炊き、汁を煮て、子を呼び、暮らしている。その煙の匂いが、金次の鼻を刺した。四年半、彼が焦がれつづけた匂いだった。人が生きて煮炊きする、その、なんでもない匂い。
竹藪が見えてきた。
わが家の背の、竹藪だった。風にさらさらと鳴る、あの竹の音を、金次は聞いた。聞こえた、と思った瞬間、彼は駆けだしていた。老兵のように重かった足が、急に、子どもの足に戻った。竹藪の角を曲がれば、そこに――
家は、あった。
焼けずに、そこにあった。
茅葺きの屋根は傷んで、軒が一方に傾いていた。壁の土は方々剥げおちて、下地の竹が肋骨のように覗いていた。庭の柿の木は、枝を払われて薪にされたのか、無残に切りつめられていた。それでも、家は、そこに立っていた。四年半のあいだ、金次を待っていたかのように、傾きながら、それでも倒れずに、立っていた。
金次は、庭の入口で足をとめた。
戸口に、灯がともっていた。
障子のむこうに、ぼんやりと、油の灯らしい橙色の光が滲んでいた。人がいる。この家に、人がいる。金次の喉が、ひくりと鳴った。母だろうか。はつだろうか。それとも、家を失った他人が、空き家となったここに住みついているのだろうか。
彼は、確かめるのが怖かった。
戦地で、彼は死を恐れなくなっていた。死は、隣にいる男が急に静かになることであり、朝、揺り起こそうとした肩が冷たくなっていることであり、それはもう、恐怖の対象ですらなかった。だが、いまこの戸口で、彼は恐れていた。障子を開けて、そこに母がいなかったら。そこにいるのが見知らぬ顔だったら。あるいは――そこにいるのが母で、その母が、金次の顔を見て、おまえは死んだはずだ、という目をしたら。
戦死公報は、届いているだろうか。
金次は、一度、生死不明として報告されたことがあった。あの島の、あの戦闘のあと、彼の小隊はほとんど全滅と記録されたはずだった。だとすれば、内地には、倉田金次戦死の報が届いているかもしれない。母はもう、この息子を、位牌にして拝んでいるかもしれない。
死んだはずの息子が、夕暮れの戸口に立っている。
それは、母にとって喜びだろうか。それとも、しずかに区切りをつけた心を、もう一度かき乱す、むごいことだろうか。
金次は、動けなかった。
日が、落ちようとしていた。
丘の上からは、焼け跡の町のむこうに、西の空がひらけて見えた。金次は、家に背を向けて、その空を見た。逃げたのだ、と自分でもわかっていた。戸口を叩く勇気の出るまで、彼は空に逃げたのだった。
空は、燃えていた。
さっき汽車から見た、鉄の冷えるような赤は、いまはもっと深く、朱から緋へ、緋から、地平の際は金色に、そして頭上のほうへは、しだいに藍へと移ろっていた。焼け跡の町の、黒い柱の一本一本が、その燃える空を背にして、影絵のように浮かびあがっていた。かつて火の見櫓のあった丘の寺のあたりを、金次は目で探した。櫓は、なかった。焼け落ちたのだ。子どもの金次が世界の果てまで見わたした、あの細い塔は、もうどこにもなかった。
だが、その櫓のあったあたりの空に、金次は、ひとつの光を見た。
まだ、宵の口だった。ほんとうの星の出るには、少し早い時刻だった。西の空はまだ茜に染まって、一番星さえためらっているような、そんな夕暮れだった。それなのに、その茜のなかに、ぽつりと、蒼い光がひとつ、灯っていた。
蒼い、と金次は思った。
夕空にまじる星は、たいてい白いか、金いろに滲む。だがその星は、まぎれもなく蒼かった。冷たい、澄んだ、水底のような蒼だった。そして、その蒼い光は、尾を引いていた。細く、長く、うっすらと蒼い尾を、茜の空にたなびかせて、その星は、西の地平のほうへ、静かに掛かっていた。
金次は、それを、知っていた。
見たことがある。あの、南の島で。石橋の死んだ、あの夜――ではない。もっと前だ。まだ小隊が幾人も生きていて、夜ごと星を見あげていたころ。ある晩、南の空に、ふいにその蒼い尾を引いた星が現れた。だれかが、あれはなんだ、と言った。石橋が、あれは彗星だ、と言った。何十年に一度、めぐってくる星だと、鉄工所の親方に聞いたことがある、と。内地の空でも、いま時分、あれが見えてるはずだ、と石橋は言った。俺の女房も、うちの子も、あの同じ星を見てるかもしれん。そう思うと、少しは、近い気がするな。同じ星の下だ。
同じ星の、下。
金次は、南の島で見たその蒼い星を、いま、故郷の焼け跡の空に、もう一度見ていた。四年半を経て、めぐりめぐって、星はまた還ってきたのだった。金次が還ってきたように。あるいは、金次より確かに、星は約束を守って、還ってきたのだった。
石橋は、還れなかった。
金次は、右のポケットのなかの、片方だけの手袋を、握りしめた。
そのとき、背後で、戸の開く音がした。
金次は、はっとして、ふり返った。
障子ではなく、その横の、板戸のほうが開いていた。開けたのは、小柄な人影だった。逆光で、顔は見えなかった。人影は、水を捨てるためだろうか、桶のようなものを手に、庭先に出てきて――そして、庭の入口に立っている金次に気づいて、動きをとめた。
しばらく、二人は、動かなかった。
夕暮れの光が、金次のほうから射していた。だから、金次の顔は、その人影のほうからは、よく見えているはずだった。金次は、息をつめて、その人影を見た。人影は、桶を、そっと地面に置いた。そして、一歩、こちらへ踏みだした。
「……兄ちゃん?」
声が、した。
若い、女の声だった。かすれて、信じられないというように、途中で崩れそうな声だった。
金次の、膝が、崩れそうになった。
はつ、と彼は言おうとした。だが、声が出なかった。喉のおくで、なにかが、つかえて、言葉にならなかった。彼はただ、うなずいた。何度も、何度も、うなずいた。
「兄ちゃんっ」
はつが、駆けてきた。五つ下の妹は、四年半のあいだに、もう娘になっていた。金次が発つとき、まだ髪を三つ編みにしていた妹が、いまは髪を後ろで束ねた、痩せた娘になっていた。そのはつが、金次の胸に、体ごとぶつかってきた。
「兄ちゃん、兄ちゃん、生きて、生きて――」
はつは、そのあとの言葉を、涙にしてしまった。金次は、妹の背に、おそるおそる手をまわした。四年半、人を撃ち、人を刺し、死体をまたいで歩いた手だった。その手で、こんなにやわらかいものに、ふれてよいものか。彼はためらった。だがはつは、その兄の手を、両の手でつかんで、ぎゅっと、自分の背に押しつけた。ほんものだ、と確かめるように。夢ではない、と念を押すように。
「母ちゃんは」
やっと、声が出た。金次の最初の言葉は、それだった。
はつの体が、金次の腕のなかで、ふっと硬くなった。
金次は、その硬さで、すべてを悟った。
母は、去年の冬に死んだのだという。
家のなかは、記憶よりずっと狭く、そして、がらんとしていた。囲炉裏に細い火が燃え、その火のそばに、はつは兄を座らせて、湯を沸かした。茶葉はもうないから、と、はつは白湯を、欠けた茶碗についで、金次の前に置いた。
囲炉裏の火が、二人の顔を、下から橙色に照らした。
母は、空襲で焼け出されたわけではなかった。丘の家は焼けなかったから、母とはつは、この家で戦火を生きのびた。だが、食べるものがなかった。町が焼けて、畑も荒れて、配給は滞り、母は、自分の食べる分を、いつもはつに回していた。足のわるい母は、遠くまで買い出しに行くこともできなかった。そして、去年の冬、ふとした風邪が肺にきて、母は、あっけなく、息を引きとった。
「母ちゃん、最後まで、兄ちゃんが生きてるって、言うてた」
はつは、火を見つめながら、そう言った。
戦死公報が、来たのだという。倉田金次、南方にて戦死せり、と。役場の人が、白木の箱を持ってきた。箱のなかには、なにも入っていなかった。石ころが一つ、紙に包んで入っていただけだった。それでも、村では葬式をあげた。母は、その葬式のあいだじゅう、一言も泣かなかったのだという。
「泣かんかったよ。母ちゃん、うちの子はそんなとこで死なん、て。あの子は約束したんや、必ず還るて。母ちゃん、ずっとそう言うてた」
金次は、公報のことを知らなかった。自分が一度、戦死したことになっていたのを、いま、はじめて知った。白木の箱に入れられ、石ころ一つを骨のかわりに埋められ、経をあげられていた、そのあいだ、彼はまだ、南の島の泥のなかで、生きていたのだった。
「母ちゃんな、公報が来た日ぃ、うちに、こう言うたんや」
はつは、囲炉裏の灰を、火箸で、そっとかきならしながら、言った。
「はつ、あんたは、兄ちゃんの葬式に、泣いたらあかん。泣いたら、ほんまに、死んでしまう。生きて還る子ぉを、こっちが先に、殺したらあかん、て」
だから、はつも、泣かなかったのだという。村じゅうが、金次の死を悼んで泣くなかで、母と娘の二人だけが、涙を見せなかった。石を、無いはずの遺骨のかわりに埋める、その席で、二人だけが、乾いた目をしていた。人は、あの母子は薄情な、と陰口をきいたかもしれない。だが、それは、薄情ではなかった。それは、母と娘の、金次への、最後の――そして、いちばん深い――信心だったのだ。
金次は、そのことを聞いて、囲炉裏の火を、まっすぐには見られなかった。
母は、正しかったのだ。母が、泣かずに、信じきってくれたから、金次は、還ってこられた。そんな道理があるはずもない、と頭ではわかっていた。母が泣こうが泣くまいが、南の島の弾は、それとかかわりなく飛んできた。石橋を撃ち、隣の男を撃ち、たまたま金次だけを、外していった。理屈で言えば、それだけのことだった。
だが、理屈ではなかった。
金次が、あの泥のなかで、幾度も死のうとする心を、それでも押しとどめて、一歩を踏みだせたのは――片方の手袋のせいだけでは、なかったのかもしれない。遠い内地の空の下で、母が、泣かずに、待っている。そのことを、金次は、知らなかったはずなのに、どこかで、知っていた気がした。血のつながりというのは、たぶん、そういうものなのだ。声も届かず、姿も見えず、それでも、糸のように、細く、切れずに、南の海のうえを、わたっていくものが、あるのだ。
星が、海をわたるように。
「母ちゃんな」
はつは、そこで、言葉を切った。囲炉裏の火が、ぱちりと爆ぜた。
「死ぬ前の晩に、うたを、うたいよった」
「うた」
「うちが小さいとき、母ちゃんが、寝かしつけてくれた、あのうた。兄ちゃん、覚えてる? 眠れ、眠れ――」
はつが、そこまで言ったとき、金次の口が、勝手に、あとを継いでいた。
「――星が、海を、わたるまで」
眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。
母が、幼い金次を寝かしつけながら、うたっていたうただった。金次が、五つ下のはつを負ぶって、あやしながら、母を真似てうたったうただった。星が海をわたるまで、眠れ。子どものころの金次は、その「海をわたる星」がなんのことか、わからなかった。海に星が浮かぶのか、星が船に乗って海を渡るのか。わからないまま、ただ、その旋律の、しずかな下りていくところが、好きだった。
そのうたを、母は、死ぬ前の晩に、うたっていたのだという。
だれに聞かせるためでもなく。ただ、もう還らぬかもしれぬ息子を、遠い南の空の下に寝かしつけるように。星が海をわたるまで、眠れ、と。
金次は、白湯の茶碗を、両手で包んだ。手が、ふるえていた。戦地では、砲撃のさなかにも、こんなにはふるえなかった手だった。その手が、いま、欠けた茶碗のふちで、こまかくふるえていた。
「兄ちゃん、それ、なに」
はつが、金次の右のポケットに目をとめて、言った。
金次は、いつのまにか、右手をポケットに入れて、あの手袋を握りしめていた。彼は、それを、そっと取りだして、囲炉裏の火のあかりのなかに、置いた。
片方だけの、灰色の毛糸の手袋。左手の。指のところの、繕った跡。
「戦友のや」
金次は、ぽつりと言った。そして、石橋のことを、はつに話した。うまくは話せなかった。石橋がどんな男だったか。二つ年上の、口の重い、手先の器用な、鉄を打つ職人だったこと。星で方角を読んだこと。あの蒼い彗星を、彗星だと教えてくれたこと。右手を失って、残った左手の手袋を、金次に握らせて、内地に持って帰ってくれと言ったこと。女房が編んだ手袋だから、片方だけでも、うちに帰れば、あいつはわかる、と言ったこと。
金次は、石橋の死ぬところは、話さなかった。話せなかった。ただ、
「明日、その人の、うちへ行く」
と言った。
「汽車で、二つ先の町や。石橋さんの、女房のとこへ、これを、届けに行く」
はつは、火のあかりのなかの、片方だけの手袋を、じっと見ていた。それから、顔をあげて、兄を見た。その目に、また、涙が盛りあがっていた。
「兄ちゃん、律儀やなあ」
はつは、笑いながら、泣いた。母ちゃんに、そっくりや、と言った。母ちゃんも、そういう人やった。約束したら、どんなことがあっても、守る人やった。だから、母ちゃん、兄ちゃんが還るのを、信じきって、逝ったんや。約束を守る子やって、知っとったから。
金次は、うつむいた。
律儀、という言葉が、金次の胸を、刺した。
彼は、律儀だから、石橋の手袋を持ち帰ったのではなかった。ほんとうのことを言えば――彼は、この手袋を握っていなければ、生きて還ってこられなかったのだ。この片方だけの手袋が、彼を、生かした。石橋の、還れなかった右手のかわりに、金次の右手は、この左手の手袋を、握りつづけた。約束が、彼を歩かせた。約束だけが、飢えと、傷と、死んだ戦友たちの重みのなかで、金次を、一歩、また一歩と、内地のほうへ、還してくれたのだった。
生き残ったことは、喜びではなかった。すくなくとも、はじめは。
なぜ自分が生き残ったのか。石橋ではなく、あの何十人もの、隣で息絶えた男たちではなく、なぜ、この、とりたてて勇敢でも器用でもない自分が。金次は、その問いを、船の底でも、汽車のなかでも、ずっと抱いてきた。生き残ってしまった、という言いかたのほうが、彼には正しく思えた。生きて還った、のではなく、生き残ってしまった。
だが、いま。
囲炉裏の火のそばで、痩せた妹が、律儀やなあ、と笑って泣いているのを見て、金次は、思った。
自分が生き残ったのは、この手袋を届けるためかもしれない。母が死ぬ前の晩にうたった、あのうたの続きを、この妹と一緒に、覚えているためかもしれない。理由を探してはいけない、と島で学んだはずだった。焼けたものと焼けなかったものに、理由はない。生き残ったものと死んだものに、理由はない。それでも、生き残ってしまったからには、その生を、なにかに使うことはできる。約束を、果たすことは、できる。
それは、理由ではなかった。だが、道ではあった。
その夜、金次は、母の位牌に、手をあわせた。
はつが、焼け残った小さな仏壇の、扉を開けた。そこには、父の位牌と並んで、母の、まだ新しい位牌があった。そしてその隣に、もう一つ、位牌があった。
金次は、それを見て、息をのんだ。
倉田金次、と、そこには書かれていた。
自分の、位牌だった。
「これは……はつ、これは」
「戦死公報が来たとき、こしらえたんや。母ちゃんは、こんなもんいらん、うちの子は生きとる、て、ずっと仏壇の奥に、伏せて置いとった。でも、村の人の手前もあるし……」
金次は、自分の位牌を、手に取った。木の、まだ白い位牌だった。そこに、自分の名が、墨で、はっきりと書かれていた。倉田金次。俗名の下には、戒名まで、つけられていた。
死んだ人間が、自分の位牌を、手に取っている。
奇妙な心地だった。だが、不思議と、恐ろしくはなかった。むしろ、そのつめたい木のなかに、四年半、この家で、金次のかわりに、金次を待ちつづけていた、もう一人の金次がいるような気がした。母は、この白木の位牌に向かって、金次、金次、と呼びつづけたのだろう。生きているはずの息子を、位牌にして拝むことを拒みながら、それでも、村の手前、この位牌を仏壇に置き、そして、ひそかに、伏せていたのだ。生きとる、と信じて。
「これは、燃やそう」
金次は、言った。
「明日、石橋さんとこから帰ったら、燃やそう。もう、いらん。俺は、還ってきた」
はつが、うなずいた。
その晩、二人は、囲炉裏の火のそばで、遅くまで、話した。四年半の、あいだのことを。金次が発ってからの、町のことを。焼けた夜のことを。母の、最後の日々のことを。話しても話しても、話は尽きなかった。そして、話が途切れると、竹藪の鳴る音と、囲炉裏の火の爆ぜる音だけが、家のなかに残った。
金次は、ふと、思い出して、上着の内ポケットから、小さなものを取りだした。
藍色の、マッチ箱だった。
「なんや、それ」
はつが、目をとめた。
「これか。……内地に着いた港で、もろたんや」
港の桟橋で、復員兵の一人一人に、慰問の品を配っている人たちがいた。まんじゅうを一つと、それから、この、藍色のマッチ箱を、金次はもらった。ほかにも煙草だの手ぬぐいだのを配っていたが、金次の手に残ったのは、なぜか、このマッチ箱だった。
藍色の紙に、三日月が、白く刷られていた。月光堂、と、小さな字で、屋号らしきものが書かれていた。金次は、その屋号に覚えはなかった。どこの町の、なんの店か、わからなかった。だが、その三日月の刷られた藍色が、金次はなぜか気に入って、まんじゅうは船で食べてしまったが、このマッチ箱だけは、内ポケットに、大事にしまっていたのだった。
「きれいな色やなあ」はつが、火のあかりに、それをかざした。「三日月や。……月光堂、て、なんやろ」
「さあ。どっかの、店やろ」
金次は、そのマッチ箱から、一本、マッチを抜いた。そして、火を擦った。
しゅっ、と、小さな火が、闇のなかに立った。
囲炉裏の火とは別の、その、ちいさな、まっすぐな火を、金次は、じっと見た。マッチの軸が燃えつきるまでの、わずかなあいだ。その火が、彼の指のさきを、あかく照らした。四年半、この指は、引き金にかかり、銃剣を握り、死んだ戦友の目蓋を閉じてきた。その同じ指を、いま、こんなにちいさな、平和な火が、あたためている。
金次は、その火で、仏壇の、母の位牌のまえの、小さな灯明に、火を移した。
ぽっ、と、灯明の芯が、あかい火をともした。
「母ちゃん」
金次は、その火に向かって、言った。
「還ってきたで。金次、還ってきたで」
灯明の火が、ゆらりと、揺れた。まるで、うなずくように。金次には、そう見えた。
はつが、その隣で、そっと、うたいだした。
眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。
母の、うただった。かすれた、若い娘の声で、はつは、それをうたった。金次も、そのうたに、低い声を、そっと重ねた。眠れ、眠れ。二人の声が、囲炉裏の火のうえで、ひとつになった。星が、海を、わたるまで。
そのうたが、いつか、南の島で死んでいった、幾人もの男たちのうえにも、届けばいい、と金次は思った。石橋のうえにも。名も知らぬ、隣で息絶えた男たちのうえにも。眠れ、眠れ。おまえたちのぶんも、俺は、生きる。星が海をわたるまで、どうか、眠れ。
翌る朝、金次は、汽車に乗った。
石橋の女房の、いる町へ。片方だけの手袋を、届けに。
はつは、駅まで、送ってきた。焼け跡の、あの、傾いた駅舎の、覚えのある柱のそばで、はつは、兄を見送った。四年半前、母が、この柱に手をかけて、金次、金次、と口を動かした、その柱のそばで。
「行っといで、兄ちゃん」
はつは、笑って、そう言った。今度は、泣かなかった。
「はよ、帰ってきいや」
帰ってくる、と金次は言った。今度は、ちゃんと、帰ってくる。夕方には、帰る。
汽車が、動きだした。金次は、窓から、はつの姿を見た。痩せた娘が、焼け跡の駅で、手を振っていた。汽車が坂を登りきり、はつの姿が、駅舎の影に消えるまで、金次は、手を振りつづけた。
窓のむこうを、朝の光が、流れていった。夕方の、あの、鉄の冷えるような赤とはちがう、若い、澄んだ、金いろの朝の光だった。焼け跡の町にも、朝は来るのだった。黒い柱の一本一本に、朝日があたり、そのあいだの土に、人々が、板とトタンで、小さな小屋を建てはじめていた。生きて、また、暮らしはじめていた。
金次は、右のポケットから、片方だけの手袋を、取りだした。
灰色の、左手の、指のところの繕った手袋。石橋の、女房が編んだ手袋。四年半、金次を歩かせ、生かしてきた手袋。
今日、金次は、これを、返す。
石橋の女房は、この片方の手袋を見て、なにを思うだろう。夫の帰らぬことを知って、泣くだろう。あるいは、もう、公報で知っていて、この手袋だけが、夫の帰ってきた、たった一つのものになるのだろう。それでも、金次は、届ける。石橋が、最後まで、これを持っていたと。星で方角を読み、内地の、女房と子の待つ町を、ずっと向いていたと。
俺の女房が編んだんだ。片方だけでも、うちに帰れば、あいつはわかる。
石橋の声が、汽車の車輪の音のあいだに、聞こえるようだった。ごとん、ごとん、と枕木が過ぎていく。その音は、もう、金次の心臓の音とは、聞きちがえなかった。それは、ただ、汽車の走る音だった。生きた人間を、生きた町から、生きた町へと、運んでいく、汽車の音だった。
金次は、手袋を、両手で、そっと包んだ。
そして、窓のむこうの、朝の空を見あげた。
彗星は、もう、見えなかった。夜のあいだに西へ沈んだのか、あるいは、昼の光に溶けたのか。だが、金次は、知っていた。あの蒼い星は、消えたのではない。ただ、いまは、見えないだけだ。夕方になれば、また、茜の空に、蒼い尾を引いて、現れる。今日の夕方にも。あすの夕方にも。めぐりめぐって、いつかまた、何十年ののちに、この空を、もう一度わたっていく。
同じ星の、下だ。
石橋が、そう言った。俺の女房も、うちの子も、あの同じ星を見てる。そう思うと、少しは、近い気がするな。
金次は、目を閉じた。
汽車は、走っていた。生きて還った男を乗せて、まだ見ぬ、戦友の女房の待つ町へ。片方だけの手袋を、対のかたわれのもとへ、返しに。
石橋の女房のいる町も、焼けていた。
汽車を降りて、金次は、駅前で、番地を尋ねた。石橋の唱えた番地を、金次は、四年半、口のなかで転がしつづけて、覚えていた。だが、その番地のあたりは、金次の故郷とおなじく、焼け跡の平地になっていた。木札に町名を墨書きしただけの、仮の掲示が、道の辻に立っていた。金次は、それを頼りに、瓦礫を片づけた道を、歩いた。
尋ね尋ねて、金次は、一軒の、板とトタンの小屋に、たどり着いた。
焼けた家の礎石のうえに、拾い集めた材木で、どうにか雨露をしのぐだけの小屋が、建てられていた。その戸口に、一人の女が、しゃがんで、七輪の火を熾していた。傍らに、四つか五つばかりの、男の子が、ぼんやりと立って、母の手もとを見ていた。
「石橋さんの、お宅は――」
金次が声をかけると、女は、顔をあげた。痩せた、若い女だった。目のふちが、泣いたあとのように、赤かった。
「石橋は、うちですけど」
女は、そう言って、金次の、擦り切れた軍装を見た。そして、その目の色が、さっと、変わった。
復員兵。夫と、おなじ戦地から、還ってきた男。その男が、なぜ、ここに立っているのか。女は、それを、一瞬で、悟ったようだった。悟って、そして――怯えた。
金次は、それを見て、胸が、締めつけられた。この女もまた、駅前で、還ってくる男たちを、一人一人、見てきたのかもしれない。夫かもしれぬと、汽車の着くたびに、駆けていったのかもしれない。そして、そのたびに、ちがう顔に、落胆してきたのかもしれない。いま、その夫の戦友が、たった一人、この戸口に立っている。それが、なにを意味するのか。女は、聞くまえから、知っていた。
「石橋さんと、同じ小隊に、おりました。倉田、と申します」
金次は、深く、頭をさげた。
そして、右のポケットから、片方だけの手袋を、取りだした。
灰色の、左手の、指のところの繕った、毛糸の手袋。
女は、それを見た瞬間、口を、両手で、押さえた。
「……それ」
声が、ふるえた。
「それ、うちが、編んだ……」
「へえ」金次は、うなずいた。「石橋さんが、最後まで、大事に、持っておられました。これを、内地に、女房のところへ、持って帰ってくれと。片方だけでも、うちに帰れば、あいつはわかる、と」
女は、金次の掌の、片方の手袋を、震える手で、受け取った。
そして、それを、両手で、胸に、抱きしめた。
顔を、その手袋に、押しあてた。まるで、そこに、夫の手が、まだあるかのように。そして、声を、殺して、泣いた。子どもの手前、大きな声はあげまいとして、しかしこらえきれず、肩を、こまかく、ふるわせて、泣いた。
金次は、その場に、立ちつくしていた。かけるべき言葉が、なかった。石橋がどんなに勇敢だったとか、苦しまずに逝ったとか、そんな慰めの言葉は、どれも、嘘になる。金次は、嘘を、言いたくなかった。石橋は、右手を吹き飛ばされ、血を流し、それでも、女房の名を、町の名を、番地を、はっきりと言い残して、逝った。その、たった一つの、ほんとうのことだけを、金次は、伝えにきたのだった。
「かあちゃん」
男の子が、母の袖を、引いた。
「かあちゃん、それ、とうちゃんの?」
女は、涙のなかで、うなずいた。うん、とうちゃんの、と、かすれた声で言った。とうちゃんが、遠いとこから、これを、送ってくれたんや、と。
男の子は、母の手のなかの、片方の手袋を、じっと見た。そして、なにを思ったか、その小さな手を、そっと、手袋のうえに、重ねた。
金次は、その、小さな手を、見た。
石橋の、失われた右手。その、還ってこなかった右手のかわりに、いま、その息子の、小さな手が、片方だけの手袋のうえに、そっと、置かれている。まるで、対の、もう片方が、そこに、還ってきたかのように。
金次の目にも、熱いものが、こみあげた。
「坊は、いくつや」
金次は、しゃがんで、男の子に、目線をあわせた。
「いつつ」
男の子は、指を、ひろげてみせた。ちいさな、五本の指を。石橋が、あの島で、失った右手の、五本の指。それが、いま、この子の手のなかに、ちゃんと、五本、そろっていた。
「そうか。いつつか」金次は、言った。「おまえの、とうちゃんはな、星で、方角のわかる人やった。夜になったら、空を見て、こっちが北や、あっちが内地や、て、教えてくれた。えらい人やったんやで」
男の子は、まじめな顔で、うなずいた。星、と、小さな声で、繰り返した。
「今日の夕方な」金次は、西の空を、指さした。「日ぃが暮れたら、あの空に、蒼い星が、出る。尾を引いた、きれいな、蒼い星や。とうちゃんが、あの島で、あれは彗星や、て、教えてくれた星や。おまえも、母ちゃんと、見てみい。おなじ星を、とうちゃんも、ずっと、見とったんやで」
男の子は、金次の指さす、西の空を、見あげた。まだ、昼の光の、白い空だった。星は、見えなかった。だが、男の子は、それでも、じっと、その空を、見ていた。まるで、そこに、もう、蒼い星が、見えているかのように。
女が、涙をぬぐって、金次に、頭をさげた。
「ありがとう、ございました。わざわざ、こんな、遠いとこまで……」
「いえ」金次は、立ちあがった。「約束、でしたから」
もう、ゆかねば、と金次は思った。長居は、この母子の、これからの涙の邪魔になる。彼は、それを、知っていた。悲しみには、悲しむだけの、静かな時が、いるのだ。他人のいては、こぼれきらない涙が、ある。
「石橋さんは」
去りぎわに、金次は、もう一度、ふり返って、言った。
「最後に、星が、きれいやな、て、言うてはりました。ほんまです。あの晩、星は、きれいでした」
それは、金次の、ただ一つの、嘘だった。あの晩、金次は、空を見なかった。石橋の顔を、見ていた。だから、その夜の星が、きれいだったかどうか、金次は、知らない。
けれど、それは、許される嘘だと、金次は、思った。石橋の見た、最後の星は、きっと、きれいだったにちがいないのだから。星は、いつだって、きれいなのだから。
女は、その手袋を胸に抱いたまま、深く、深く、頭をさげた。男の子も、母を真似て、ちいさな頭を、さげた。
金次は、その二人に背を向けて、焼け跡の道を、駅のほうへ、歩きだした。夕方の、汽車に乗るために。はつの待つ、あの傾いた家へ、帰るために。
そして、その日の夕方、金次はまた、この汽車に乗って、はつの待つ、あの傾いた家へ、帰るのだ。囲炉裏の火のそばで、白湯を飲み、母の位牌に手をあわせ、二人で、あのうたをうたうために。眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。
帰る場所がある、ということが、こんなにも、重たく、あたたかいものだとは、金次は、戦地では、思ってもみなかった。
金次は、目を開けた。
朝の光のなかを、汽車は、ひたすらに、走っていた。そのゆくてに、まだ見えぬけれど、夕暮れが、待っていた。茜に染まり、蒼い星のめぐる、帰路の夕暮れが。人も、鳥も、星さえも、それぞれの帰る場所へと向かう、あの、長い影の伸びる夕暮れが。
還ってきたのだ、と金次は、はじめて、はっきりと思った。生き残ってしまった、のではない。俺は、還ってきた。約束を、まだ一つ、果たすために。そして、そのあとの、長い、ありふれた、生きていく日々のために。
汽車の窓に、朝日があたって、金次の、痩せた、しかし生きている頬を、あたたかく照らした。
彼は、手袋を、もう一度、握りしめた。片方だけの、けれど、もう、ひとりぼっちではない手袋を。