さがした記憶
ホームの時計が三時十七分を指したとき、わたしは、この人ともう二度と待ち合わせをしないのだと知った。
改札を抜けてくる人影のなかに、瑛司の姿はまだない。西日が線路の上をまっすぐに走って、レールの二本を金色の糸に変えている。夕方の駅は、行きと帰りのあいだにある。だれもが自分の帰る場所へ向かって、けれどまだそこには着いていない、そういう宙づりの時刻だ。わたしはベンチの端に座り、膝の上の鞄を両手で抱えて、その金色の糸を見ていた。
三年と、四か月。数えるほどのことでもないのに、わたしはいつのまにか数えていた。数えるというのは、終わりを予感したもののすることだと、あとになって思う。始まりを数える人はいない。始まりは、いつも気がついたときにはもう始まっていて、いつからと問うても仕方がないものだから。
きょう、わたしたちは別れる。それを言葉にして決めたわけではなかった。ただ、先週の火曜の夜、瑛司が「日曜、少し話せる?」と言ったとき、わたしにはわかってしまった。長く一緒にいると、相手の声のなかの、ほんのわずかな傾きが読めるようになる。あれは、何かを始めるときの傾きではなかった。ゆっくりと、何かを畳んでいくときの傾きだった。
わたしは「うん」と答えて、それから「駅で待ってる」と言った。家でも、いつものカフェでもなく、駅を選んだのは、たぶん、帰るための場所で終わらせたかったからだと思う。ここなら、話が終われば、それぞれの電車に乗るだけでいい。見送るのでも、見送られるのでもなく、ただ、別々のホームへ歩いていける。
待っているあいだ、いろんなことを思い出した。人は、待つあいだに、いちばんたくさんのことを思い出すものらしい。目のまえには、行き交う人の流れがあって、そのだれもが、わたしとは関係なく、それぞれの一日の終わりを、抱えて歩いていく。学生の鞄。仕事帰りの、疲れた肩。買い物袋をさげた、母親。夕方の駅には、その人その人ぶんの帰路が、いちどきに集まって、そして、ばらばらの方向へ、ほどけていく。わたしも、あと少しで、その流れのひとつになる。瑛司のいない、わたしだけの帰路へ。
いちばんはじめに思い出したのは、なぜだか、瑛司の手のことだった。指の長い、少し骨ばった手。付き合ってすぐのころ、はじめて手をつないだのは、この駅の、いまと同じ夕方のホームだった。電車を待っているときに、瑛司が、なんでもないふうを装って、けれどたしかに緊張しながら、わたしの手を、そっと取った。あのときの、瑛司の手の、少しつめたくて、少し汗ばんでいた感じを、わたしは、いまでも、指がおぼえている。三年たっても、体は、いちばん古いことを、いちばんよくおぼえている。
つないだ手を、いつから、つながなくなったのだろう。それも、境目のないことのひとつだった。ある時期から、駅で電車を待つあいだ、わたしたちは、それぞれスマートフォンを見るようになった。手は、画面のうえにあって、たがいの手のことは、忘れていた。忘れていたことにさえ、気づかなかった。恋というものは、大きな喧嘩でこわれるより、こういう、小さな忘れものの積み重ねで、静かにすりへっていくのかもしれない、と、いまのわたしは思う。
瑛司は三時二十五分に来た。
いつもの紺のコートに、いつものすこし猫背の歩き方で、改札を抜けてくる。わたしを見つけると、片手をあげかけて、途中でやめた。そのやめた手が、なんだかとても瑛司らしくて、わたしは笑ってしまいそうになる。この人は、いつも何かをしかけて、途中でやめる。言いかけて、のみこむ。差し出しかけて、ひっこめる。三年のあいだ、わたしはそのやめた手を、何度見てきただろう。
「待たせた」
「ううん。わたしも、いま来たとこ」
嘘だった。わたしは三時前から、ずっとここにいた。けれど、そういう小さな嘘を、この人はもう咎めない。咎めるほど近くにいない、というのとは違う。ただ、お互いのそういうところを、もう変えようとしなくなった、ということだ。恋の終わりは、諦めのかたちをして訪れる。相手を変えようとしなくなったとき、人はもう、その人の未来に自分を数えるのをやめている。
「歩こうか」と瑛司が言った。
「うん」
わたしたちは改札を出て、駅の裏手の、川べりへ向かう道を歩きだした。この駅の裏には、細い川が流れている。土手には桜の並木があって、いまは葉桜になり、その葉のあいだから、傾いた陽が斑になって落ちている。春にはここを、二人でよく歩いた。花の下で、瑛司が「来年もここに来ようね」と言ったのを、わたしは覚えている。来年、という言葉を、あのころのわたしたちは、なんの疑いもなく口にしていた。
土手をおりると、河原に出た。刈られたばかりの草の匂いがして、少し先で、小さな子どもが二人、石を投げて遊んでいる。水面は、西日を受けて、一面のうろこのように光っていた。
歩きながら、わたしたちは、いろんなことを話した。天気のこと。最近見た映画のこと。共通の友人の、結婚のこと。どれも、あたりさわりのない話だった。けれど、そのあたりさわりのなさが、かえって、二人のあいだの距離を、はっきりとさせた。かつては、なんでも話せた。眠るまえの電話で、他愛のないことを、何時間でも話していられた。それが、いつのまにか、話すことを、選ぶようになっていた。触れてはいけない話題が、いくつも、生まれていた。地雷を避けて歩くように、わたしたちは、言葉を選んで、選んで、そして、選んでいるうちに、話すことが、なくなっていった。話すことがなくなる、というのは、話せなくなる、ということとは違う。話しても、もう、どこにも行きつかなくなる、ということだ。
「あの喫茶店、まだあるのかな」と、瑛司が、桜並木を指さして言った。土手の上の、少し先に、古い喫茶店の、色あせた看板が見えた。
「どうだろう。行ってないもんね、最近」
「よく行ったのにな」
「うん。二人とも、コーヒー、そんなに好きでもないのに」
「それな」瑛司が笑った。「行くとこがないから、行ってただけだったな」
わたしも笑った。けれど、笑いながら、胸のどこかが、しくりとした。行くところがないから、行っていた。いっしょにいたいから、いっしょにいた。その二つは、はじめは同じだったのに、いつからか、違うものになっていた。いっしょにいることが、目的から、習慣に変わっていく。習慣は、やさしい。けれど、習慣だけになった恋は、風の吹かない海のように、凪いだまま、どこへも進まなくなる。
「座ろうか」
「濡れてない?」
「大丈夫。乾いてる」
瑛司が先に腰をおろし、わたしはそのとなりに、少しだけ間をあけて座った。その、少しだけの間。三年前なら、その間はなかった。二年前でも、たぶんなかった。いつから、わたしたちのあいだにこの数センチが生まれたのか、わたしにはわからない。潮が満ちるように、それは音もなく満ちてきて、気がついたときには、二人のあいだを浸していた。
しばらく、どちらも何も言わなかった。
川の音がした。子どもたちの声がした。遠くで、電車が鉄橋を渡っていく音がした。そういう音のひとつひとつが、やけにくっきりと聞こえた。言葉のない時間は、世界の音を大きくする。
「なあ」と、瑛司が先に口をひらいた。「覚えてる? 最初にここに来たとき」
「覚えてる」
「あのとき、俺、傘持ってこなかったよな」
「うん。急に降ってきて」
「で、稲村がさ」
「わたしが、駅まで走ろうって言った」
「そう。で、二人で走って」
わたしは笑った。あの日のことは、よく覚えている。夏の初めの、通り雨だった。予報にはなかった雨で、わたしたちは河原のまんなかで降られて、傘もなくて、どうしようもなくて、それで走った。土手を駆けあがって、桜並木の下を走って、駅の軒下に飛びこんだときには、二人ともびしょ濡れで、息が上がって、なのに、なぜだかおかしくて、笑いが止まらなかった。
「あのとき、稲村、ずぶ濡れの前髪を、こう、かきあげて」瑛司が、自分の額のあたりに手をやる。「それで、笑ったんだ。俺、あれで」
「あれで?」
「あれで、この人といたいって思った」
わたしは、川のほうを見たまま、うなずいた。喉のおくが、少し痛かった。
そういう話を、いま、しなくてもいいのに、と思った。始まりの話を、終わりの日にするのは、まるで一冊の本を、最後まで読んでから、もう一度あとがきをめくるようなものだ。物語はもう終わっている。それでも人は、あとがきをめくる。そこに、始まりの気配がまだ残っているのを、知っているから。
「稲村」
「なに」
「俺さ、ずっと言えなかったことがあって」
わたしは、瑛司のほうを見なかった。見たら、たぶん、崩れてしまう気がした。わたしは、うろこのように光る水面を見つめたまま、次の言葉を待った。
けれど、瑛司はそのあと、長いこと黙っていた。言いかけて、また、のみこんだのだ。いつものように。
「……いや」と、しばらくして瑛司は言った。「なんでもない」
わたしは、それでよかった、と思った。同時に、それでよかったのだろうか、とも思った。人の心は、いつも同じ場所で二つに割れる。聞きたかった。聞きたくなかった。知りたかった。知らないままでいたかった。その割れ目に、夕方の光がさしこんでくる。
陽が、また少し傾いた。
さっきまで金色だった水面が、いまは朱色を帯びはじめている。空を見あげると、西の低いところが、燃えるように赤い。茜色というのは、こういう色を言うのだろう。ただ赤いのではなく、そこにかすかな痛みのようなものが溶けている赤。一日が、自分の終わりを知っている色。
「きれいだね」と、わたしは言った。
「うん」
「こういう空、瑛司とよく見たね」
「見たな」
わたしたちは、たくさんの空を、一緒に見てきた。付き合いはじめの春の、まだ肌寒い夜空。夏の、花火の上の、火薬の匂いのする空。秋の、高くて、少しさびしい空。冬の、凍りついたような、星のよく見える空。そして、いくつもの夕方の空。空は、いつも二人の上にあって、何も言わずに、わたしたちの時間を見ていた。
きょうの空を、わたしはたぶん、忘れない。忘れないだろう、ということが、いまはただ、かなしい。
「あのさ」と、こんどはわたしが口をひらいた。「ひとつだけ、聞いていい?」
「なに」
「わたしたち、どこで間違えたのかな」
瑛司は、すぐには答えなかった。膝を抱えて、川のほうを見ている。その横顔に、朱色の光があたって、まつげの影が頬に落ちていた。
「間違えたのかな」と、瑛司はつぶやくように言った。「間違えた、って言えるほど、はっきりしたことは、なかった気がする」
「うん」
「ただ、なんていうか……」瑛司は、言葉を探すように、宙を見た。「川が、二本に分かれるみたいに、さ」
「川?」
「うん。もとは一本の川なんだけど、あるところで、まんなかに小さな中州ができて。それで、水が、右と左に分かれる。分かれたときは、まだすぐ隣なんだ。手を伸ばせば届くくらい。でも、そのまま流れていくと、いつのまにか、ずいぶん遠くなってる。どっちが悪いってわけじゃない。ただ、地面が、そうなってた」
わたしは、その話を聞きながら、目の前の川を見た。この川にも、少し先に、小さな中州があった。枯れた葦が、そこに一かたまり生えている。水は、そこで静かに二つに分かれて、また、ずっと下流で、たぶん、一つに戻るのだろう。
けれど、わたしたちの川は、戻らない。
「うまいこと言うね」と、わたしは言った。声が、少しふるえた。
「言い訳だよ」と、瑛司は笑った。「ほんとは、ちゃんと、こっちに漕げばよかったんだ。稲村のいるほうに。何度も、そう思った。でも、俺は漕がなかった。それだけのことだ」
わたしは、その言葉を、胸のなかで、そっと畳んだ。責める言葉ではなかった。弁解でもなかった。ただ、正直な言葉だった。三年のあいだで、いちばん正直な言葉だったかもしれない。人は、別れるときになって、ようやくいちばん正直になれるのだと、わたしはこのとき知った。それはたぶん、もう、失うものが、この一度の会話しか、残っていないからだ。
わたしは、鞄をあけた。
そのなかに、ずっと入れっぱなしにしていたものがある。片方だけの、手袋。濃い灰色の、ウールの、男物の手袋。瑛司のものだ。
去年の冬のことだ。二人で、隣町の古い商店街を歩いていた。年の暮れの、よく晴れた、けれど風のつめたい日だった。瑛司は手袋をしていて、途中で、片方をなくした。どこかで落としたのだ。「まあいいや、片っぽくらい」と瑛司は言ったけれど、わたしは、もったいない気がして、あとで探しに戻った。瑛司には内緒で。
見つからなかった。商店街を、端から端まで歩いて、店の人にも聞いて、それでも、片方の手袋は、どこにもなかった。あきらめて帰ろうとしたとき、路地のいちばん奥に、見たことのない店の灯りがともっていた。
古い、木の看板。「月光書房」とだけ書いてあった。
こんな店、あっただろうか。何度も来た商店街なのに。わたしは、なぜだか吸い寄せられるように、その扉を押した。紙と埃と、それから、なぜか少しだけ潮の匂いがした。海なんて、近くにないのに。棚には、見たこともない古い本がぎっしりと並んでいて、いちばん奥のカウンターに、白髪の店主が座っていた。
「手袋を、お探しですか」と、店主は、わたしが何も言わないうちに、そう言った。
わたしは、驚いて、うなずいた。
「片方だけの手袋というのは」と、店主は静かに言った。「よく、うちに流れ着くのです。片方をなくした人と、片方をひろった人。どちらも、この街のどこかにいる。けれど、二つが再び出会うことは、ほとんどない。ふしぎなものです」
店主は、カウンターの奥から、小さな箱をひとつ取り出した。青い、マッチ箱だった。ふたに、細い三日月が刻んである。
「これを」と、店主はそれをわたしにくれた。「なくしものを探すときは、これで灯りをつけて、さがすといい。見つかるとは、かぎりません。けれど、灯りがあれば、少なくとも、さがした、という記憶は残る。人は、さがした記憶だけは、なくさずにいられるものです」
わたしは、店の奥を、もう一度、見まわした。棚には、どこの国のものともつかない、古い本が、ぎっしりと並んでいた。革の背表紙。金の箔押し。よく見ると、そのどれもが、少しずつ、時代も、言葉も、違っているようだった。一冊、手に取ってみたい気もしたけれど、なぜだか、それは、してはいけないことのような気がして、やめた。
「本は、お好きですか」と、店主が、わたしの視線に気づいて、言った。
「ええ、まあ。人並みには」
「では、いつか、また」と、店主は言った。「なくしものを探しに来るのではなく、探しものが何かも、わからないままに。そういうときに、この店は、いちばん、あなたを待っています」
その言葉の意味を、わたしは、そのときは、わからなかった。いまも、よくわからない。けれど、なぜだか、その一言だけは、三年たっても、消えずに、胸に残っている。
わたしは、そのマッチ箱を受け取って、礼を言って、店を出た。外は、もうすっかり暗くなっていた。西の空の、低いところに、一番星が出ていた。妙に蒼い星だった。ふつうの星より、ずっと青くて、しかも、かすかに尾を引いているように見えた。あれが何だったのか、わたしは、いまでも知らない。
翌朝、もう一度あの路地に行ってみた。月光書房は、どこにもなかった。あったはずの場所には、古い塀があるきりで、その足もとに、片方だけの、灰色の手袋が落ちていた。
瑛司のものだった。
わたしは、それをひろった。ひろって、鞄に入れて、そのまま、瑛司には渡さなかった。
なぜ渡さなかったのか、自分でもよくわからない。渡す機会は、いくらでもあった。「見つかったよ」と言えば、それでよかった。瑛司はきっと、「わざわざ探してくれたのか」と、あの、少し照れたような顔で笑っただろう。それだけのことだ。
でも、わたしは渡さなかった。
いま思えば、あのころから、わたしは何かを、渡せなくなっていたのだと思う。手袋だけじゃない。言葉も、気持ちも。差し出しかけて、ひっこめる。瑛司の、あのやめる手を、いつのまにか、わたしも自分のものにしていた。似た者どうしになっていく、というのは、いいことばかりではないのだ。
わたしは、その手袋を、鞄から取り出した。
朱色の光のなかで、灰色のウールが、少しだけ暖かい色に見えた。
「これ」と、わたしは言った。「返しそびれてたの」
瑛司は、それを見て、少しのあいだ、何のことかわからないという顔をした。それから、ゆっくりと、思い出したようだった。
「……手袋」
「去年、なくしたやつ。覚えてる?」
「覚えてる。片っぽ、どっかで落として。でも、これ」瑛司は、手を伸ばして、その手袋を受け取った。「見つからなかったんじゃなかったっけ」
「見つけたの。あとで、わたしが探しに戻って」
「探しに、戻った?」
「うん。内緒で」
瑛司は、手のなかの手袋を、じっと見ていた。それから、わたしの顔を見た。その目が、なぜだか、少し潤んでいるように見えたのは、夕陽のせいだったかもしれない。
「なんで、渡してくれなかったんだ」
「わかんない」と、わたしは正直に言った。「渡そうと思えば、いつでも渡せたのに。なんでかな。渡したら、なんか、終わっちゃう気がしたのかも」
「終わる?」
「うん。ばかみたいだけど。渡してないものがあるうちは、まだ、続いてる気がして」
言いながら、わたしは、自分でも初めて、その気持ちに気がついた。人は、しゃべることで、自分の心を知ることがある。わたしはずっと、この手袋を、渡さずにいることで、瑛司とのあいだに、ひとつだけ、まだ閉じていないものを、残しておきたかったのだ。手袋一つ分の、未来を。片方だけの手袋には、片方が要る。まだ返していない、ということは、まだ、会う理由がある、ということだから。
けれど、いま、わたしは、それを渡してしまった。
「それを、いま、渡すんだな」と、瑛司は言った。
「うん」
「……そっか」
瑛司は、その手袋を、両手でつつむように持って、それから、コートのポケットに、そっとしまった。
「片方だけじゃ、使えないのにね」と、わたしは、笑おうとして言った。うまく笑えなかった。
「いいんだ」と、瑛司は言った。「片方だけでも。持ってる」
陽が、地平のちかくまでおりてきた。
空の色が、変わりはじめている。茜が、朱になり、朱のふちに、金色がにじんで、そのさらに上のほうから、藍色が、ゆっくりとおりてくる。夕方というのは、一色ではない。いくつもの色が、上から下へ、順番に、けれど途切れなく、移り変わっていく。そのどこまでが夕方で、どこからが夜なのか、境目はない。恋の終わりも、たぶん、そうだ。どこまでが恋で、どこからが終わりなのか、線は引けない。ただ、色が、移っていく。
川べりの子どもたちは、もういなくなっていた。だれかの母親が、迎えに来て、連れて帰ったのだろう。夕方は、みんなが帰る時刻だ。鳥も、ねぐらへ帰る。ひとすじ、川の上を、鳥の群れが、南のほうへ飛んでいった。
「そろそろ、寒くなってきたね」と、わたしは言った。
「うん」
「もう少ししたら、帰らないと」
「そうだな」
けれど、わたしたちは、どちらも、立ちあがらなかった。
立ちあがったら、それで、終わりだから。この河原に座っているあいだは、まだ、わたしたちは「わたしたち」でいられる。立ちあがって、土手をのぼって、駅にもどって、別々のホームに立った瞬間に、わたしたちは、ただの二人の他人になる。三年と四か月をかけて「わたしたち」になった二人が、たった数十歩を歩くあいだに、また、他人にもどる。
「なあ、稲村」と、瑛司が言った。「ひとつ、聞いてもいいか」
「なに」
「稲村は、いつ、決めたんだ。俺と、別れようって」
わたしは、少し考えた。
「決めた、っていうより」と、わたしは言った。「決まってた、って感じかな。気がついたら」
「そっか」
「瑛司は?」
「俺も、たぶん、同じだ」瑛司は、川のほうを見たまま言った。「決めたわけじゃない。ただ、ある日、稲村の笑った顔を見て、ああ、この笑い方を、俺はもう、幸せにできてないな、って思った。それで」
「それで?」
「それで、これ以上そばにいたら、俺は、稲村の笑い方まで、変えてしまう気がした。稲村の、あの、雨の日に前髪をかきあげて笑った、あの笑い方を。それだけは、変えたくなかった」
わたしは、うつむいた。涙が出そうだったけれど、こらえた。ここで泣いたら、瑛司が、自分を責める。それだけは、させたくなかった。わたしたちは、責め合わないために、駅で待ち合わせて、河原まで歩いてきたのだ。泣くのでも、責めるのでもなく、ただ、静かに、終わりを、二人で分けあうために。
「ずるいよ」と、わたしは、小さな声で言った。「そういうこと、いま言うの」
「ごめん」
「もっと早く言ってくれてたら」
「言えなかった」と、瑛司は言った。「言えるようになったのが、いま、なんだ。もう、失うものが、この夕方しか、なくなったから」
わたしは、はっとした。それは、さっき、わたしが胸のなかで思ったことと、そっくり同じだった。人は、別れるときになって、ようやくいちばん正直になれる。もう、失うものが、この一度しか、残っていないから。
三年と四か月、すれ違いつづけたわたしたちは、最後の、この夕方になって、ようやく、同じことを、同じように思っていた。
なんて、遅い。
なんて、遅くて、そして、これが、たぶん、いちばんちゃんとした、わたしたちだった。
「あのさ」と、わたしは言った。「わたしも、言ってなかったこと、あるんだ」
「なに」
「あの子守唄」
「子守唄?」
「うん。瑛司、覚えてないかもだけど。前に一回、瑛司が熱出したとき、わたし、看病に行ったでしょ。三十九度くらいあって、うなされてて」
「……ああ、あったな。そんなこと」
「あのとき、瑛司、寝ながら、歌ってたの。小さい声で。子守唄みたいなの」
「歌ってた? 俺が?」
「うん。『眠れ、眠れ、星が海をわたるまで』って。何回も、何回も。たぶん、お母さんが、小さいころ歌ってくれたのかなって、わたし、思ってた」
瑛司は、川のほうを見たまま、しばらく黙っていた。それから、ゆっくりと言った。
「……母さんの歌だ、それ」
「やっぱり」
「よく覚えてるな、稲村」
「うん。だって、わたし、あの歌、すごく好きだったから」わたしは言った。「熱でうなされてる瑛司が、その歌だけ、はっきり歌ってて。ああ、この人にも、この人を眠らせてくれた人が、ちゃんといたんだなって。当たり前のことだけど、わたし、そのとき初めて、瑛司の子どものころのことを、なんか、すごく、いとおしく思ったの」
瑛司は、片手で、目もとを覆った。
「稲村」と、瑛司は、覆った手のむこうで言った。「なんで、そういうこと、いま言うんだよ」
「ずるいよね」と、わたしは笑った。「おあいこ」
わたしたちは、二人とも、少しだけ笑って、それから、また、黙った。
言えなかった言葉というのは、こういうものだ。大したことのない、けれど、渡しそこねると、一生、渡せなくなる言葉。わたしたちは、三年のあいだ、そういう言葉を、たくさん、渡しそびれてきた。手袋のように、鞄のおくに、しまいこんだまま。そして、いま、別れの夕方になって、ようやく、一つ、また一つと、取り出しては、相手に渡している。もう、いっしょにいられないと決まったからこそ、渡せる言葉。
なんて、もったいない恋を、わたしたちは、してきたのだろう。
けれど、もったいない、と思えるだけ、それは、きっと、いい恋だったのだ。惜しくもない恋なら、渡しそびれた言葉のことなんて、思い出しもしない。
「ねえ」と、わたしは言った。「ひとつだけ、わがまま、言ってもいい?」
「なに」
「別れたあと、わたしのこと、たまには、思い出して。忘れないで、とは言わない。ずっと覚えてて、とも言わない。ただ、たまに、ふっと。夕方に、こういう空を見たときとかに。ああ、そういえば、って」
「……ずるいな、それも」瑛司は、少し笑った。「そんなの、思い出すに決まってるだろ」
「決まってる?」
「決まってる。忘れられるほど、器用じゃないよ、俺は」
わたしは、うなずいた。それでよかった。忘れないでいてくれる、という約束は、いちばん、あてにならない約束だ。人は、忘れる。どんなに大切なことでも、時間がたてば、輪郭が、ぼやけていく。それでも、たまに、ふっと、思い出す。そのくらいが、ちょうどいい。ずっと覚えていられたら、そのほうが、たぶん、生きていけない。忘れながら、たまに思い出す。人は、そうやって、失ったものと、いっしょに、生きていくのだと思う。
「わたしも」と、わたしは言った。「たまに、思い出す。瑛司の、いいところ」
「いいところ、あった?」
「あったよ」わたしは、指を折った。「やさしいところ。あと、無理に元気なふりしないところ。それから、いつも、言いかけて、やめるところ」
「それ、悪いとこじゃん」
「ううん」わたしは首をふった。「いいところ。だって、言いかけて、やめる、ってことは、それだけ、慎重に、考えてる、ってことでしょ。傷つけたくないから。だから、言えない。わたし、そういうの、けっこう、好きだったよ」
瑛司は、それを聞いて、しばらく、川のほうを見ていた。それから、小さく、「そうか」と言った。「なら、よかった」と。
空は、もう、半分が藍色になっていた。
西のふちだけが、まだ、燃え残りの朱を、細く残している。その、朱と藍のさかいめの、いちばん高いあたりに、ふと、星がひとつ、光った。
「あ」と、わたしは言った。「一番星」
「ほんとだ」
けれど、それは、ただの一番星ではなかった。
ふつうの星は、白いか、金色に光る。けれど、その星は、蒼かった。深い、青い色をしていて、しかも、その下のほうに、かすかに、尾のようなものを引いていた。まるで、青い絵の具を、筆で、すっと、空にひとはけ、はいたような。
わたしは、その星を、知っていた。
去年の冬、月光書房を出たとき、西の空に出ていた、あの蒼い星だ。片方だけの手袋を、探しに行った、あの夜の星。
「あの星」と、わたしは言った。「前にも、見たことある」
「彗星かな」と、瑛司が言った。「珍しいな。夕方に見えるなんて」
「彗星」
「うん。尾を引いてるだろ。あれ、たぶん、彗星だ。何百年に一度、とか、そういうやつかもな」
わたしたちは、二人並んで、その蒼い星を、見あげた。
一日のいちばん最後の空に、その星は、ただひとつ、ぽつんと光っていた。まわりの空が、藍に沈んでいくなかで、その星だけが、蒼く、澄んで、静かに尾を引いていた。まるで、この星も、どこか遠くへ、帰っていく途中のように。何百年もかけて、空をひとめぐりして、また、もとの闇へ、帰っていく途中のように。
「きれいだね」と、わたしは、また言った。さっきと同じ言葉なのに、こんどは、なぜか、涙がこぼれた。
瑛司は、それに気づいたけれど、何も言わなかった。ただ、わたしのとなりで、いっしょに、その星を見ていた。手を握るでも、肩を抱くでもなく、ただ、となりにいた。その、となりにいる、ということが、いまは、なによりも、やさしかった。
星は、それきり、動かなかった。動かないように見えた。けれど、たぶん、あの星も、ゆっくりと、動いているのだ。わたしたちの目には見えないほど、ゆっくりと。そして、いつか、明け方には、もう、どこにもいなくなっている。夜に現れて、朝には消えている。あの古書店のように。
「あの本屋さんも」と、わたしは、ふと言った。
「本屋?」
「ううん。なんでもない」
月光書房のことは、瑛司には、言わなかった。片方だけの手袋を、探しに行ったこと。青いマッチ箱をもらったこと。翌朝、店が消えていたこと。それは、わたしだけの、秘密にしておきたかった。渡さなかったものが、ひとつくらい、あってもいい。全部を渡してしまったら、わたしのなかに、瑛司との時間が、何も残らなくなってしまう気がした。
人は、渡さなかったもので、だれかを、覚えているのかもしれない。
「そろそろ、行こうか」と、瑛司が言った。
こんどは、本当に、立ちあがるための「行こうか」だった。声の傾きで、わかった。
「うん」と、わたしは答えた。
わたしたちは、ほとんど同時に、立ちあがった。座っていた草の上に、二人ぶんの、へこみが残った。それも、朝には、また、もとにもどるのだろう。草は起きあがり、河原は、何ごともなかったように、また、次のだれかの夕方を、迎えるのだろう。
わたしたちは、土手をのぼった。
のぼりながら、わたしは、一度だけ、うしろをふりかえった。河原は、もう、藍色に沈んでいて、川だけが、わずかに残った空の光を映して、鈍く光っていた。中州の葦が、風にゆれていた。二本に分かれた水が、その先で、また一つになるのかどうか、暗くて、もう、見えなかった。
桜並木の下を、わたしたちは、ならんで歩いた。春には、花が咲いていた道。「来年もここに来ようね」と、瑛司が言った道。来年、わたしたちは、たぶん、いっしょには、ここに来ない。けれど、わたしは、一人でなら、また来るかもしれない、と思った。そして、この葉桜を見て、あの雨の日のことや、朱色の空のことや、蒼い星のことを、思い出すのかもしれない。
そういう場所を、一つ持っている、ということは、たぶん、そんなに、わるいことではない。
歩きながら、瑛司が、ふと言った。「なあ、稲村。俺たち、けっこう、ちゃんと別れられてるよな」
「そう?」
「うん。責めもしないし、泣きわめきもしないし。なんか、大人っぽくて」瑛司は、少し照れたように言った。「でも、ほんとは、これでいいのかな、って、ちょっと思う。もっと、みっともなく、すがったり、してもよかったのかもって」
「みっともなく?」
「うん。行かないでくれ、とか。もう一回だけ、やり直そう、とか」
わたしは、そのとき、足を止めそうになった。もし、瑛司が、いま、それを言ったら。行かないでくれ、と。もう一回だけ、と。わたしは、どうするだろう。うなずいて、しまうかもしれない。この三年を、まだ、終わらせたくない、と、心のどこかが、叫んでいた。
けれど、瑛司は、それを言わなかった。言わないために、いま、その言葉を、口にしたのだ。言ってしまえば、もう、言えなくなる。だから、言わないものとして、そっと、二人のあいだに、置いた。それが、瑛司の、やさしさだった。そして、わたしも、その置かれた言葉を、拾わなかった。拾わないことが、わたしの、やさしさだった。
「でも」と、わたしは言った。「これで、いいんだと思う。みっともなくすがって、それで、もう一回やり直しても、たぶん、また、おんなじところに、たどりつくもん」
「……だな」
「だったら、いちばん、きれいなところで、終わりたい。こういう、夕方みたいなところで」
瑛司は、うなずいた。わたしたちは、また、歩きだした。そういう場所で終わりたい、というのは、たぶん、本当の気持ちだった。けれど、それが、いちばん、つらい選び方だ、ということも、わたしは、知っていた。きれいに終わるためには、まだ好きなうちに、終わらなければならない。嫌いになってからなら、別れは、楽だ。けれど、好きなまま、別れるのは。それは、自分の手で、いちばん好きな花を、まだ咲いているうちに、摘むようなものだった。
駅に着いた。
改札を抜けると、ホームは、二つに分かれている。上りと、下り。瑛司の家は、上り方向。わたしの家は、下り方向。三年のあいだ、わたしたちは、いつも、どちらかのホームで、もう一方を見送ってきた。「気をつけてね」「うん、また」と言って。「また」は、いつも、あった。次があることを、疑わなかった。
けれど、きょうは、「また」は、ない。
わたしたちは、階段の下で、立ち止まった。
「じゃあ」と、瑛司が言った。
「うん」
言うことは、たくさんあるはずだった。三年と四か月ぶんの、言えなかったこと。けれど、それを全部言うには、この階段の下は、あまりにも短かった。そして、たぶん、全部を言う必要は、もう、なかった。大事なことは、河原で、蒼い星の下で、もう、渡しあった。あとは、それを、それぞれ、持って帰るだけだった。
「元気で」と、わたしは言った。
「稲村も」
瑛司は、それから、ポケットに手を入れた。あの、片方だけの手袋の入っている、ポケットに。手袋を、確かめるように、一度だけ、ぎゅっと握ったのが、コートのうえから、わかった。
「これ、大事にする」と、瑛司は言った。「片方だけだけど」
「うん」
「もう片方は、たぶん、どっかで、だれかが、拾ってる」
「そうだね」
「そいつも、片方だけで、困ってるかもな」
「きっと、困ってる」
わたしたちは、少しだけ、笑った。最後に、笑えて、よかった、と思った。
「じゃあ」と、瑛司は、もう一度言って、こんどは、片手をあげた。今度は、途中で、やめなかった。ちゃんと、最後まで、あげた。三年のあいだ、いつも途中でやめていた手を、瑛司は、最後の日に、初めて、最後まで、あげてくれた。
わたしも、手をあげた。
そして、わたしたちは、それぞれの階段を、のぼりはじめた。
わたしのホームは、下り。瑛司のホームは、上り。線路をはさんで、向かいあっている。
階段をのぼりきると、わたしは、向かいのホームを見た。瑛司も、ちょうど、こちらを見ていた。線路の上には、もう、夕方の金色の糸は、なかった。かわりに、藍色の空が、二本のレールを、鈍く、青く、光らせていた。
わたしたちは、向かいあったまま、それぞれの電車を、待った。
近づいてくる電車の、遠い音がした。下りの電車だった。わたしの電車だ。ホームに、風が吹きこんできて、わたしの髪を、少し、乱した。わたしは、それを、かきあげた。雨の日と、同じように。あの、瑛司が「この人といたい」と思った、その仕草で。
瑛司が、それを見て、何か、言おうとした。口が、動いた。
けれど、その言葉は、電車の音に、かき消されて、わたしには、聞こえなかった。
何を言ったのか、わたしは、知らない。「ありがとう」だったかもしれない。「ごめん」だったかもしれない。あの、河原で言いかけて、のみこんだ、「ずっと言えなかったこと」だったかもしれない。
わたしは、聞こえなかったふりをして、けれど、たぶん、本当に聞こえなかったのだと思う——ただ、うなずいた。それで、じゅうぶんだった。聞こえなくても、うなずける言葉が、この世には、ある。三年と四か月のあいだに、わたしたちが、育ててきたのは、たぶん、そういう言葉だった。
電車が、ホームに、すべりこんできた。
扉がひらいて、わたしは、乗りこんだ。ふりかえると、扉のガラスごしに、向かいのホームの瑛司が、まだ、こちらを見ていた。ポケットに、片手を入れたまま。あの、片方だけの手袋の入った、ポケットに。
発車のベルが、鳴った。
扉が、閉まる。
閉まる直前、わたしは、口のなかで、そっと、あの子守唄を、うたった。声には、しなかった。ただ、くちびるだけで。
——眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。
瑛司の、お母さんの、歌。熱にうなされた瑛司が、うたっていた、歌。いつか、瑛司が、また、だれかを想って、眠れない夜がきたら。そのときは、この歌が、瑛司を、眠らせてくれますように。わたしではない、だれかの隣で、瑛司が、安らかに、眠れますように。
そう祈った瞬間に、わたしは、この人を、本当に、手放したのだと思う。
電車が、動きだした。
窓のそとを、瑛司のホームが、うしろへ、流れていく。瑛司の姿が、小さくなって、やがて、ホームの柱に隠れて、見えなくなった。
わたしは、席には座らず、扉のちかくに立って、窓のそとを見ていた。
電車は、鉄橋を渡った。あの、河原の、川。上から見おろすと、川は、藍色の闇のなかを、一本の、銀色の帯になって、流れていた。二本に分かれた、その先。中州のさきで、水が、また、一つに戻っているのか、それとも、そのまま、別々に、海まで流れていくのか——鉄橋の上からでは、やっぱり、見えなかった。
けれど、と、わたしは思った。
けれど、たとえ、この川が、二本のまま、別々に海へ流れたとしても。海で、また、いっしょになる。すべての川は、最後には、同じ海へ帰る。分かれた水も、遠い遠い先で、また、混じりあう。
だから、さよなら、ではないのかもしれない。
いつか、ずっと先の、どこか広いところで、また。
そう思ったら、なぜだか、涙は、もう、出なかった。
わたしは、鞄のなかに、手を入れた。手袋は、もう、そこにはなかった。かわりに、指のさきに、四角い、小さなものが、触れた。青い、マッチ箱だった。三日月の刻まれた、あの、月光堂の。ずっと、鞄のおくに、入れっぱなしにしていた。
わたしは、それを、そっと、取り出した。
窓の外は、もう、すっかり夜だった。空の、いちばん高いところに、あの蒼い星が、まだ、光っていた。電車が走っても、星は、ついてくる。ずっと、窓のむこうを、いっしょに、走ってくる。まるで、見送ってくれているように。あるいは、見送られているのは、あの星のほうで、わたしが、あの星を、遠くへ、帰してやっているのかもしれない。
わたしは、マッチ箱を、握りしめた。
なくしものを探すときは、これで灯りをつけて、さがすといい。見つかるとは、かぎりません。けれど、灯りがあれば、少なくとも、さがした、という記憶は残る。人は、さがした記憶だけは、なくさずにいられるものです。
——さがした。
わたしは、たしかに、さがした。三年と四か月。この人を。この人の、いちばんいいところを。この人と、いっしょにいられる、未来を。見つからなかったものも、あった。渡せなかったものも、あった。けれど、さがした。それだけは、わたしのなかに、消えずに、残る。片方だけの手袋のように、片方だけ、わたしのなかに。
電車は、次の駅へ、向かっていた。
家へ、帰る電車。けれど、その帰り道は、いつもより、ずっと、長く感じた。夕方が、終わって、夜が、始まる。一日が、帰っていく。人も、鳥も、星も、みんな、それぞれの帰る場所へ、向かっていく。
わたしも、帰る。
三年と四か月ぶんの、時間を、鞄に入れて。片方だけの手袋を、渡してしまった、その鞄に。そのかわりに、青いマッチ箱を、一つ、握りしめて。
窓のむこうで、蒼い星が、静かに、尾を引いていた。
さよなら、と、わたしは、心のなかで、言った。それは、瑛司へのさよならで、同時に、三年と四か月の、わたし自身への、さよならだった。あの人を好きだった、わたしへの。
電車が、闇のなかを、走っていく。
夕方は、もう、終わっていた。けれど、わたしは、この夕方のことを、たぶん、一生、忘れない。忘れないだろう、ということが、もう、かなしくは、なかった。忘れないでいられる別れが、あってよかった、と、わたしは、思った。
蒼い星は、いつのまにか、雲に隠れて、見えなくなっていた。
けれど、また、いつか。ずっと、ずっと先の、夕方に。あの星は、また、茜色の空に、たった一度だけ、蒼い尾を引いて、あらわれるのだろう。そのとき、わたしは、きっと、この夕方を、思い出す。そして、思い出せること自体を、静かに、よろこぶのだろう。
さがした記憶だけは、なくさずにいられる。
わたしは、そのことばを、片方だけの手袋のかわりに、胸に抱いて、家路の電車に、揺られていった。