渡りの夕暮れ
葦の穂が金色に燃えつきるころ、空はいつも、群れのことを憶えている。
その年の申の刻、北の沼のほとりに、渡りの季節が来た。陽が西へかたむき、水面に朱の帯を引いて、影が葦のあいだをどこまでも長く伸びていく。風はもう秋のにおいをふくんでいた。冷たく澄んで、遠いところの雪のけはいを、ほんのわずかにまぜて運んでくる。その風のなかで、一羽の若い雁が、はじめて胸の奥のざわめきを聞いた。
それは声ではなかった。歌でもなかった。ただ、翼の付け根のあたりが、うずくのだ。行かねばならない、という、ことばにならないうずき。血のなかに、生まれるまえから書きこまれていた、南への地図。
若い雁の名を、ここではただ「後ろの一羽」と呼んでおこう。群れのなかで、いつも隊列のいちばん後ろを飛ぶ、その一羽である。名などなくてよい。渡り鳥に名はない。あるのはただ、群れと、空と、風と、そして帰らねばならぬ遠い場所だけだ。
一
後ろの一羽は、この沼で生まれた。
春に卵の殻を破り、綿毛にくるまれて水に浮かび、母の翼のかげで夏を過ごした。葦のあいだを泳ぎ、水底の草の根をあさり、羽が生えかわるのを待った。仲間たちと水を蹴って、はじめて宙に浮いたときの、あの足の裏から抜けていくような感覚を、いまでも憶えている。空は思っていたよりもずっと広く、そして、思っていたよりもずっと、こわかった。
夏のあいだ、この沼が世界のすべてだった。朝には靄が水面を這い、昼には陽が葦の穂をきらめかせ、夕には赤とんぼが群れて飛んだ。夜には蛙が鳴き、星が水にうつって、どこまでが空でどこからが水か、わからなくなった。この場所を離れることになるなど、思いもしなかった。ここで生まれ、ここで育ち、きっとここで、ずっと。
けれど、季節は問いかけを許さない。
八月の終わり、陽の傾きがすこし早くなり、朝の水がつめたくなりはじめたころ、群れのなかに、あの見えないざわめきが広がった。年老いた雁たちが、まず北の空を見あげるようになった。それから、羽づくろいの回数が増えた。水面での助走が、これまでよりも長く、力づよくなった。だれもなにも言わない。けれど、みなが同じものを聞いていた。血のなかの、南への呼び声を。
後ろの一羽も、それを聞いた。はじめは、なにかのまちがいだと思った。この沼を離れるだなんて。この葦を、この水を、この夕焼けを。けれど、うずきは日ごとに強くなった。夜、水に浮かんで眠ろうとしても、翼の付け根がうずいて、目がさえた。星をながめながら、思った。あの星々の下の、はるか南に、わたしの帰るべき場所があるのだろうか。まだ一度も見たことのない場所が。
帰る、というのはおかしなことばだ、と後ろの一羽は思った。まだ行ったこともない場所へ、なぜ「帰る」というのだろう。
夜の水辺で、後ろの一羽は、幾度も母に尋ねた。南とは、どんな場所なのか、と。母は、そのたびに、遠くを見るような目をした。母もまた、この沼で生まれ、幾度も南へ渡り、そして北へ帰ってきた雁だった。母は、こう言った。「南には、雪がない。水は凍らず、草はいつも青い。空は高く、あたたかい。けれど――」と、母はそこで、ことばを切った。「けれど、南は、旅の途中の場所だ。あそこで冬を越すのは、また、ここへ帰ってくるためだ。生まれた場所へ、帰ってくるために、遠くへ行く。それが、わたしたちの一生だよ」
後ろの一羽には、その意味が、まだよくわからなかった。旅の途中の場所で、冬を越す。生まれた場所へ帰るために、遠くへ行く。渡り鳥の一生は、行きつ戻りつの、ひとつの大きな円のようなものらしかった。始まりも終わりもない、ただめぐりつづける、翼の円。
けれど、群れのいちばん年老いた雁――みなが「先頭」と呼ぶ、隊列の先を飛ぶ老いた雄――は、あるとき、水のうえで静かにこう言った。
「帰るのだよ。わたしたちは、いつも帰っているのだ。北から南へ、南から北へ。生まれる場所と、冬を越す場所と、そのあいだを、ずっと。どちらが本当の家かなど、だれにもわからん。翼を持つものにとっては、飛んでいるあいだこそが、いちばん家に近いのかもしれん」
先頭は、もう幾度この道を渡ったか、自分でも憶えていないという。翼にはいくつもの季節の重みがあり、声はしわがれ、それでも、南への地図だけは、いまも胸の奥に鮮やかに灼きついていた。後ろの一羽は、その老いた雄を、まぶしいものを見るように見あげた。
「先頭は」と、後ろの一羽は、おそるおそる尋ねた。「こわく、ないのですか。旅立つのが。生まれた場所を、離れるのが」
老いた雄は、しばらく、水面を見ていた。夕陽が、その老いた翼を、朱く染めていた。
「こわいさ」と、先頭は、静かに答えた。「幾度渡っても、旅立ちの夕暮れは、こわい。二度と戻れないかもしれぬと、思う。仲間を失うかもしれぬと、思う。自分が力尽きるかもしれぬと、思う。――けれど、な」
先頭は、後ろの一羽のほうを、見た。その目は、老いてなお、澄んでいた。
「こわいからこそ、旅立つのだ。こわさを知らぬ者は、ほんとうには、飛べぬ。別れのつらさを知る者だけが、たどりつくことの、ありがたさを知る。行くことをおそれる者だけが、帰ることの、よろこびを知る。おまえも、いつか、わかる。この夕暮れの、こわさとうつくしさが、ひとつのものだということが」
後ろの一羽は、そのことばを、胸の奥に、しまった。まだ、半分も、わからなかった。けれど、この長い旅のあいだに、そのことばの意味が、翼のさきまで、しみとおっていくことを、そのときの後ろの一羽は、まだ、知らなかった。
二
旅立ちは、夕暮れと決まっていた。
なぜ夕暮れなのか、後ろの一羽は先頭に尋ねたことがある。先頭はしばらく西の空を見て、それから答えた。
「昼のあいだは、上昇する風がある。地面があたためられて、あたたかい風が空へのぼる。その風に乗れば、翼を休めながら高く上がれる。日が暮れるまでにじゅうぶんに高度をかせいで、それから、夜の涼しい風のなかを、いっきに渡る。夜は空気がしずかで、遠くまで見とおせる。星が道しるべになる。月が水のありかを教えてくれる。――それに」
先頭は、そこでことばを切った。
「それに、去るのなら、夕暮れがいい。夕暮れは、別れの光だ。昼の光でも、夜の闇でもない。そのあわいの、いちばん美しい刻に、生まれた場所と別れる。そういうものだと、わたしは思っている」
出発の日、沼は一日じゅう、しずかにざわめいていた。
朝から、群れはおちつかなかった。翼を、幾度も、ひろげてはたたんだ。首をのばして、南の空を、うかがった。若い雁たちは、意味もなく水を蹴って、短く飛んでは、また降りた。旅立ちのまえの、あの、体じゅうがうずくような落ちつかなさが、群れぜんたいを、しずかにみたしていた。
昼のあいだ、後ろの一羽は、沼のあちこちを、ゆっくりと泳ぎまわった。生まれた葦のかげ。はじめて水にもぐった、あの深みのあたり。赤とんぼが群れて飛んだ、水ぎわの草むら。母の翼のかげで眠った、夜ごとの、あの水の上。ひとつひとつを、目に灼きつけるように、後ろの一羽は、めぐった。もう二度と、戻れないかもしれない。だから、憶えておこう。この水のにおいを。この葦のそよぎを。この、生まれた場所の、すべてを。
やがて、陽が、西へかたむきはじめた。
群れは水面に集まり、羽づくろいをし、たがいに首をすりよせ、低い声で鳴きかわした。若い雁も、老いた雁も、この夏に生まれた者も、幾度も渡った者も、みなが同じ空を見あげていた。西の空が、少しずつ色を変えていく。金から、朱へ。朱から、茜へ。葦の穂が、火のように輝いた。水面が、溶けた銅のように光った。影が、東へ東へと長く伸びて、やがて沼ぜんたいを藍色の薄闇がつつみはじめた。
後ろの一羽は、その光のなかで、生まれてはじめて、胸が締めつけられるような思いを味わった。
美しい、と思った。そして、悲しい、と思った。この美しさと、この悲しさが、同じひとつのものだということを、そのとき、翼のさきまでで理解した。去るからこそ、美しいのだ。もう二度と、この夏のこの水辺には戻れないかもしれない――そう思うからこそ、この夕焼けは、こんなにも胸に灼きつくのだ。
母が、そばに来た。
この夏、後ろの一羽を育てた母である。母も、老いはじめていた。翼の羽の何枚かは、もう艶を失っていた。母は、子の首に自分の首をよせて、しばらく、そうしていた。なにも言わなかった。渡り鳥に、別れのことばはない。ただ、体温を分けあうように、しばし寄りそって、それから、離れた。
「南で会おう」とは、母は言わなかった。渡りの空では、なにが起こるかわからない。嵐が来るかもしれない。力尽きるかもしれない。はぐれるかもしれない。だから、渡り鳥は約束をしない。ただ、いま、ここで、寄りそうだけだ。それが、渡り鳥の別れのしかたなのだと、後ろの一羽は、そのとき知った。
三
先頭が、水を蹴った。
大きな翼が、いちど、水面をたたいた。しぶきが、茜の光のなかに、無数の宝石のように散った。それが合図だった。
つぎつぎと、雁たちが飛びたった。水を蹴る音、翼を打つ音、鳴きかわす声。沼ぜんたいが、いっせいに空へと持ちあがるようだった。後ろの一羽も、力のかぎり水を蹴り、翼を打ち、宙へと躍りあがった。足の裏から、水辺が――生まれた場所が――離れていく。あの、はじめて飛んだときの感覚が、よみがえった。けれど今度は、こわくなかった。ただ、胸のうずきが、翼の一打ちごとに、南へ、南へと、方向を教えてくれた。
群れは、みるみる高度をあげた。
上昇する夕暮れの風をつかまえて、螺旋を描くように、空へ空へとのぼっていく。沼が、下に小さくなっていく。あんなに広かった世界が、いまは、茜の平原のなかの、ひとつの小さな鏡になった。葦原が、夕陽をうつして金色に光っている。そのむこうに、この夏を過ごした水辺の、すべての記憶があった。
後ろの一羽は、飛びながら、いちど、下をふりかえった。
沼が、遠ざかっていく。もう、蛙の声も、水のにおいも、届かない。ただ、光だけが――あの、茜と朱と金の入りまじった、燃えるような夕暮れの光だけが、そこにあった。それは、別れの光だった。生まれた場所が、最後に見せてくれた、いちばん美しい姿だった。
見ておくがいい、と後ろの一羽は自分に言った。この光を、憶えておくがいい。南への長い旅のあいだ、つらいことがあったら、この光を思いだすがいい。おまえは、この光のなかで生まれ、この光のなかで旅立った。それだけで、じゅうぶんではないか。
群れは、V字の隊列を組んだ。
先頭が、頂点に立った。そのすぐ後ろに、経験を積んだ雁たちがつづき、若い者たちは、翼のかげで守られるように、後方に配された。後ろの一羽は、隊列のいちばん後ろ――右の翼のいちばん端に、位置をとった。ここが、この夏に生まれた者の場所だった。先を行く雁の翼が生みだす渦のなかを飛べば、力を使わずにすむ。先を行く者が、後ろを来る者のために、風の道をつくる。それが、雁の隊列のかたちだった。
だれかの翼が、だれかを支える。だれかの背中が、だれかの道しるべになる。そうやって、群れは渡る。一羽では渡れない距離を、群れは渡る。
四
夕暮れは、ゆっくりと、暮れていった。
茜が、少しずつ、色を深めた。空の高いところから、藍が滲みはじめた。西の地平だけが、まだ、火のように朱く燃えていた。その、朱と藍のさかいめを、群れは飛んだ。翼の上は藍、翼の下は朱。その、ふたつの色のあわいを、幾百の翼が、ひたひたと、南へ流れていった。
雲が、下のほうに見えた。夕陽をうけて、金色にふちどられた雲の海が、はるか下に、ひろがっていた。その雲の切れめから、ときおり、地上が見えた。河が、夕陽をうつして、一本の朱い糸のように光っていた。村のあかりが、ぽつり、ぽつりと、ともりはじめていた。あのあかりの下に、人が住んでいるのだろう。あたたかい家に。帰る場所に。渡り鳥には、あんなあかりはない。あるのは、ただ、翼と、群れと、南への呼び声だけだ。
けれど、と後ろの一羽は思った。それでいいのだ。渡り鳥は、あかりを持たないかわりに、空ぜんたいを持っている。この、茜と藍のあわいの、燃えるような夕暮れの空ぜんたいを。
夜が来た。
茜が藍にしずみ、藍が黒にとけて、やがて空いちめんに、星がひらいた。
後ろの一羽は、こんなにも多くの星を見たことがなかった。沼の夜空も星が多かったが、この高みでは、星は数えきれず、天のはてまでびっしりと敷きつめられて、まるで、砂を撒いたようだった。天の川が、白い帯となって、空を斜めに横切っていた。先頭は、あの帯を道しるべに南をめざすのだと、いつか言っていた。
星々のあいだを、群れは飛んだ。
翼を打つ音だけが、闇のなかにあった。ざっ、ざっ、ざっ、と、規則正しく、休みなく。息をあわせて、群れは飛んだ。ときおり、だれかが低く鳴いた。「ここにいる」と告げるように。すると、べつのだれかが、「聞こえている」と返した。闇のなかで、たがいの位置を確かめあいながら、群れは、ひとつの生きもののように、南へ流れていった。
後ろの一羽は、飛びながら、母のことを思った。
母は、いま、隊列のどこにいるのだろう。この闇のなかでは、もう、どれが母か、わからない。けれど、この群れのなかにいる。同じ空を、同じ方向へ、飛んでいる。それでよかった。渡り鳥にとって、そばにいるとは、そういうことだ。姿が見えなくても、同じ群れのなかにいる。同じ風を切っている。同じ星を、道しるべにしている。
夜のなかばに、疲れが来た。
翼が重くなった。胸の筋肉が、火のようにうずいた。息が、あがった。若い体には、この距離は、はじめての試練だった。後ろの一羽は、歯を食いしばるように――鳥に歯はないけれど――前を行く雁の翼の渦に、いっそう深く身をあずけた。ほんの少しでも、力を借りて。ほんの少しでも、翼を休めて。
前を行く雁が、その気配を察したように、翼を、ほんのわずか、大きく打った。渦が、強くなった。後ろの一羽の体が、その風に、そっと押された。ありがとう、とは言わなかった。渡り鳥は、礼も言わない。ただ、支えあう。それが、あたりまえのことだから。
やがて、隊列の先頭が、入れかわった。
いちばん風を切る、頂点の位置は、いちばん疲れる。だから、先頭は、ときおり、後ろへさがり、べつの雁が、頂点へ出る。そうやって、群れは、疲れを分けあいながら、飛びつづける。だれかが、いちばんつらい場所を引きうけ、疲れれば、べつのだれかが、それを代わる。後ろの一羽は、その入れかわりを、闇のなかで、幾度も見た。老いた先頭が後ろへさがり、壮年の雁が頂点へ出る。しばらくして、その雁が疲れれば、また、べつの雁が。だれも、指図しなかった。ただ、頃合いを見て、しずかに、位置を、ゆずりあった。
これが、群れなのだ、と後ろの一羽は思った。いちばんつらい場所を、みなで、すこしずつ、担う。ひとりの翼では渡れない距離を、群れの翼で、渡る。だれかの疲れを、べつのだれかが引きうける。そうやってはじめて、この、はるかな空を、越えることができる。
五
夜明けまえ、群れは、山の湖に降りた。
長い夜の渡りのあと、日中は、こうして安全な水辺で羽を休める。水を飲み、草の根を食べ、翼をやすめ、つぎの夕暮れの旅立ちにそなえる。渡りは、一夜では終わらない。幾夜も、幾夜も、水辺から水辺へと飛びついで、南の越冬地をめざすのだ。
湖に降りたとき、群れは、一羽、足りなかった。
年老いた雌の雁が、夜のなかばで、はぐれたのだった。だれも、その瞬間を見ていなかった。ただ、湖で数をかぞえたとき、一羽、少なかった。先頭は、しばらく、北の空を見ていた。もう、明るみはじめた空を。はぐれた者が、あとから追いついてくることは、まれにある。けれど、多くの場合、二度と、群れには戻らない。
だれも、鳴かなかった。
後ろの一羽は、水面に浮かんで、その静けさのなかにいた。悲しみとも、あきらめとも、ちがう静けさだった。それは、摂理を受けいれる者の静けさだった。渡りには、いつも、こういうことがある。力尽きる者、はぐれる者、嵐にさらわれる者。それでも、群れは進む。進まねばならない。立ちどまれば、季節に置いていかれる。冬が、北から追ってくる。だから、群れは、悲しみを胸の底にしずめて、また、飛ぶ。
先頭が、水のうえで、ひくく、鳴いた。
それは、命令ではなかった。哀悼でもなかった。ただ、「ここにいる者で、進む」という、静かな確認だった。生きている者たちは、たがいに首をよせ、羽づくろいをし、そして、日が高くのぼるまで、しずかに水に浮かんでいた。
後ろの一羽は、思った。はぐれた雌の雁も、きっと、いまごろ、どこかの空で、南をめざしているだろう。ひとりで。あの見えない地図をたよりに。たとえ群れとはぐれても、渡り鳥の胸には、南への呼び声が消えずに残る。だから、あの雁も、飛んでいる。最後の力で。それが、渡り鳥というものだ。
その日、後ろの一羽は、はじめて、この旅の重さを知った。美しいだけの旅ではないのだ、と。別れの光は美しい。けれど、その光の下で、命は尽き、群れは減り、それでも、進まねばならない。それが、渡りだった。荘厳で、そして、切実な、生きものの帰路だった。
日が高くのぼるころ、後ろの一羽は、湖のほとりの、浅い水に浮かんで、まどろんだ。
夢を見た。生まれた沼の夢だった。夏の光。葦のそよぎ。赤とんぼ。母の翼のかげ。すべてが、金色にかがやいて、そこにあった。夢のなかで、後ろの一羽は、まだ飛べない綿毛のひなだった。水に浮かんで、母の後ろを、ちょこちょこと泳いでいた。世界は、あの沼だけで、じゅうぶんだった。旅立つことも、別れることも、力尽きることも、なにも知らなかった、あのころ。
目がさめると、頬に、南の風があたっていた。
夢は、遠かった。もう、あの沼へは、簡単には戻れない。けれど、と後ろの一羽は思った。夢のなかでなら、いつでも帰れる。この胸のなかに、あの沼は、まるごと残っている。夏の光も、葦のそよぎも、母の翼のあたたかさも。渡り鳥は、生まれた場所を、翼で憶えているのではない。胸で、憶えているのだ。だから、どんなに遠く離れても、生まれた場所は、けっして、失われない。
六
つぎの夕暮れ、群れは、ふたたび旅立った。
湖の水を蹴り、茜の空へと躍りあがり、V字の隊列を組んで、南へと流れた。一羽減った隊列は、少しだけ、かたちが変わっていた。けれど、群れは、すぐに、その新しいかたちに慣れた。だれかが欠ければ、べつのだれかが、その位置を埋める。後方にいた雁が、少し前へ。若い雁が、少しだけ、重い役目を負う。そうやって、群れは、かたちを保ちながら、進んでいく。
幾夜も、幾夜も、群れは飛んだ。
夕暮れに旅立ち、夜を渡り、明け方に水辺へ降りる。その繰りかえしが、渡りの日々だった。降りる水辺は、いつも、ちがった。ある夜は、ひろい河のなかす。ある夜は、山あいの、小さな沼。ある夜は、稲を刈りとったあとの、水の張られた田。そのどれもが、名を知らぬ、通りすがりの水辺だった。けれど、そのどれもが、群れにとっては、命をつなぐ、かけがえのない一夜の宿だった。
田に降りたある朝のことを、後ろの一羽は、長く憶えていた。
朝もやのなか、田のあぜ道を、ひとりの子どもが歩いてきた。学校へ行くのだろう、小さな背に、袋を背おっていた。子どもは、田に降りた群れを見て、足をとめた。そして、しばらく、群れをながめていた。追いはらいもせず、石を投げもせず、ただ、じっと。その目は、なにか、あこがれのようなものを、たたえていた。空を渡ってきた鳥への、遠くへ行くものへの、あこがれ。
やがて、子どもは、手をふった。
小さな手を、群れにむかって、ふった。「いってらっしゃい」とでも言うように。それとも、「わたしも、いつか」とでも言うように。後ろの一羽には、わからなかった。けれど、その、小さな手のふりが、なぜか、胸に残った。人もまた、遠くへあこがれるのだ。翼を持たぬまま、あの、田のあぜ道から、南の空を、見あげるのだ。
その日の夕暮れ、群れは、また旅立った。子どものいた田を、後ろの一羽は、いちど、ふりかえった。田は、夕陽をうけて、金色に光っていた。そのどこかに、あの子どもの家の、あかりが、ともりはじめているのだろう。帰る場所を持つ子どもと、帰る場所をめざす群れと。ふたつは、同じ夕暮れの光のなかで、しずかに、別れた。
平原を越え、河を越え、森を越え、そして、山脈にさしかかった。それは、旅のなかでも、いちばんの難所だった。空気の薄い、高い峰々を越えねばならない。風は乱れ、気温は下がり、翼は凍え、息は苦しくなる。先頭は、いちばん風をよく知る雁を先導につけ、高度をあげる道すじを、慎重にえらんだ。
山越えの夜、嵐が来た。
はじめは、風だった。西から、山肌をなめるように、つめたい風が吹きおろしてきた。それが、しだいに、強くなった。群れの隊列が、乱れた。V字のかたちが、風にあおられて、ゆがんだ。先頭は、高度をさげようとした。嵐の上は越えられない。ならば、谷あいの、風のよわいところを、縫って飛ぶしかない。けれど、谷は、闇だった。星が、見えない。道しるべが、ない。
やがて、雲が、山にのしかかってきた。
雨が、来た。つめたい、大粒の雨が、翼を打った。羽が、みるみる、水を吸って、重くなった。稲妻が、闇を切り裂いた。その一瞬の光で、後ろの一羽は、まわりの仲間の姿を見た。みな、必死だった。翼を打ち、風にあらがい、少しでも、群れから離れまいと。稲妻が消えると、また、なにも見えない、墨のような闇だった。
風が、群れを引き裂こうとした。雨が、翼を打った。稲妻が、闇を切り裂いた。後ろの一羽は、必死に翼を打った。前を行く雁の姿が、雨のなかで、かすんで見えた。それでも、その姿を見失うまいと、後ろの一羽は、翼のかぎりを尽くした。見失えば、はぐれる。はぐれれば、この嵐のなかで、ひとりになる。
翼が、悲鳴をあげた。胸の筋肉が、引きちぎれそうだった。息が、できなかった。雨と風が、口をふさいだ。それでも、翼を、打ちつづけた。とめれば、落ちる。この闇の谷底へ、まっさかさまに。とめては、いけない。ただ、打て。前へ。前へ。仲間の、あの、かすかな翼の音を、たよりに。
ひとりに、なりたくなかった。
生まれてはじめて、後ろの一羽は、そう強く願った。あの湖の朝、はぐれた雌の雁の静けさを思いだしていた。あの雁も、こんな嵐のなかを、ひとりで飛んだのだろうか。こわかっただろうか。それとも、渡り鳥は、ひとりになることを、もう、こわがらないのだろうか。
嵐のなかで、後ろの一羽は、鳴いた。
「ここにいる」と。声のかぎりに。すると、闇のむこうから、返ってきた。「聞こえている」と。だれの声か、わからなかった。母かもしれない。先頭かもしれない。名も知らぬ、群れのだれかかもしれない。けれど、その声が、後ろの一羽を、群れに繋ぎとめた。ひとつの声が、ひとつの命を、闇のなかで、群れに結びとめた。
嵐は、夜明けまえに、やんだ。
七
山を越えたとき、群れは、また、一羽減っていた。
若い雄の雁だった。この夏、後ろの一羽とともに生まれ、水辺で泳ぎ、羽が生えかわるのを待った、同じ夏の子だった。嵐のなかで、力尽きたのだった。だれも、その最期を見ていない。ただ、山を越えた朝、数が、また、足りなかった。
後ろの一羽は、そのとき、水辺に降りて、しばらく、動けなかった。
同じ夏の子だった。いっしょに、はじめて空を飛んだ。いっしょに、あの茜の光のなかを、旅立った。それが、もう、いない。この山のむこうの、どこかの峰に、翼を閉じて、横たわっているのだ。二度と、飛ぶことはない。二度と、南の空を見ることはない。
なぜ、あの子で、わたしではないのか。
後ろの一羽は、はじめて、そう思った。摂理には、理由がない。運が、翼の一打ちのちがいが、風の流れのわずかなずれが、命を分ける。それだけだ。それだけのことで、あの子は逝き、わたしは、ここにいる。
先頭が、そばに来た。
老いた雄は、後ろの一羽の隣に、しずかに浮かんだ。そして、ひくく、こう言った。
「悲しむがいい。今日だけは。渡り鳥も、悲しむことを、忘れてはいけない。けれど、明日には、また飛ぶ。飛ばねばならん。あの子のぶんも、おまえが、南を見るのだ。あの子が見られなかった空を、おまえが見る。それが、生きのこった者の、つとめだ」
つとめ。そのことばが、後ろの一羽の胸に、しずかに落ちた。
生きのこることは、つとめなのだ。逝った者のぶんまで、南を見る。逝った者のぶんまで、冬を越す。そして、春には、また北へ帰り、あたらしい命を、あの水辺で育てる。そうやって、群れは、途切れることなく、続いていく。一羽、また一羽と欠けながら、それでも、群れは、消えない。渡りは、終わらない。
八
その日の夕暮れ、忘れがたいことが起こった。
群れが、山のむこうの湖から、ふたたび南をめざして旅立とうとしたときだった。西の空は、いつものように、茜に燃えていた。金から朱へ、朱から茜へ、そして、藍へ。影が長く伸び、水面が銅色に光り、葦の穂が――ここには葦はなかったが、湖畔の枯れ草が――夕陽をうけて、火のように輝いていた。
そのとき、茜の空の、ひときわ低いところに、宵の一番星が、ともった。
いや、それは、ただの一番星ではなかった。
後ろの一羽が見あげると、その星は、蒼かった。ほかのどの星ともちがう、澄んだ、蒼い光。そして、その星は、尾を引いていた。細く、長く、蒼い尾を、南のほうへと、たなびかせて。それは、まるで、南への道を、指ししめしているようだった。夕焼けの茜のなかに、ただひとつ、蒼い光。宵の口の空に、そっとかけられた、一本の蒼い橋。
先頭が、その星を見て、しばらく、動きをとめた。
「あの星は」と、老いた雄は、しわがれた声で言った。「わたしが若いころにも、いちど、見た。渡りの季節に、ただ一度だけ、あらわれる。あの蒼い星が出た年は、道に迷わぬ、と、古い雁は言っていた。あの星が、南への道を、照らしてくれるのだと」
後ろの一羽は、その蒼い星から、目を離せなかった。
不思議な星だった。悲しい旅のなかに、ふいにあらわれた、蒼い光。逝った者たちの魂が、あの星になって、群れを見送っているのだろうか。それとも、あの星こそが、渡り鳥のほんとうの道しるべ――生まれる場所と、越冬の場所と、そのあいだの、はるかな空を、ひとつに結ぶ、蒼い糸なのだろうか。
群れは、その蒼い星にみちびかれるように、旅立った。
茜の空へと躍りあがり、V字の隊列を組んで、南へと流れる。そのゆくてに、いつも、あの蒼い星があった。夕闇が深まり、ほかの星々がひらいても、あの蒼い星は、ひときわ明るく、南のはてを、指ししめしていた。群れは、その光をたよりに、飛んだ。迷わずに。ためらわずに。逝った者たちに、見送られながら。
後ろの一羽は、飛びながら、思った。
きっと、あの子も――同じ夏に生まれ、山で力尽きた、あの若い雄も――いまは、あの蒼い光のなかにいる。あの星の尾を引く、蒼い流れのなかを、いっしょに、南へと渡っているのだ。もう、翼は疲れない。もう、嵐もこわくない。ただ、蒼い光になって、群れの、ゆくてを照らしている。そう思うと、後ろの一羽の胸の、悲しみが、ほんの少しだけ、やわらいだ。
九
蒼い星は、幾夜か、群れを導いた。
そして、あるとき、明け方の薄明のなかに、ふっと、溶けるように消えた。あらわれたときと同じように、静かに。まるで、群れが、もう道に迷わぬところまで来たのを見とどけて、役目を終えたかのように。後ろの一羽は、その消えた空を、しばらく見あげていた。さびしくは、なかった。あの星は、消えたのではない。ただ、見えなくなっただけだ。胸のなかに、あの蒼い光は、たしかに残っている。南への道を、忘れないように。
群れは、南へ、南へと、飛びつづけた。
季節が、ゆっくりと、変わっていった。北ではもう雪が降りはじめているだろうが、群れが南下するにつれ、空気は、少しずつ、あたたかくなった。水辺の草は、まだ青く、虫の声も、まだ聞こえた。翼をよぎる風が、やわらかくなった。冬から、もういちど、秋のほうへ、そして、秋の名残のようなあたたかさのなかへ、群れは、飛びこんでいった。
後ろの一羽は、飛びながら、たくましくなった。
はじめは、隊列のいちばん後ろで、前を行く者の翼の渦に、必死にすがっていた。けれど、いまは、ちがった。翼は強くなり、息は乱れず、長い夜の渡りにも、耐えられるようになった。ときには、後ろの一羽が、さらに後ろを行く、もっと若い雁――途中で合流した、べつの群れの子――のために、風の道をつくることもあった。
合流したその若い雁は、べつの沼で生まれたのだという。嵐で群れとはぐれ、ひとりで飛んでいたところを、後ろの一羽たちの群れに、拾われたのだった。若い雁は、はじめ、おびえていた。見知らぬ群れのなかで、後ろにちぢこまって、ろくに鳴きもしなかった。けれど、後ろの一羽が、その子のために、風の道をつくってやると、少しずつ、翼を、のばしはじめた。
「ここにいる」と、後ろの一羽は、その子に、鳴いてやった。
はじめ、若い雁は、返さなかった。けれど、幾夜かのちのある夜、闇のなかで、ちいさく、返ってきた。「聞こえている」と。その、たどたどしい、けれど、たしかな声を聞いたとき、後ろの一羽の胸に、あたたかいものが、こみあげた。
群れとは、こうして、繋がっていくのだ。はぐれた者を、べつの群れが拾う。ひとつの群れが欠ければ、べつの群れが、そのぶんを埋める。渡り鳥の空には、いくつもの群れが飛んでいて、それらは、見えない糸で、たがいに結ばれている。ひとつの大きな、空ぜんたいの、群れとして。逝った者も、はぐれた者も、あたらしく生まれた者も、すべてが、その、大きな群れの、一部だった。
支えられていた者が、いつか、支える者になる。
後ろの一羽は、それを、翼で憶えた。あの、山越えの嵐の夜、闇のむこうから返ってきた「聞こえている」という声。あの声が、いま、後ろの一羽の胸から、後ろの若い雁へと、手わたされていく。「ここにいる」「聞こえている」。その繰りかえしのなかで、群れは、途切れずに、続いていく。ひとつの声が、つぎの声を呼び、ひとつの翼が、つぎの翼を支える。
十
そして、ついに、越冬の地が、見えた。
それは、南の、ひろい入江だった。あたたかい海が、大地のふところに深く入りこみ、遠浅の干潟がひろがり、葦の原が、地平のはてまでつづいていた。無数の水鳥が、すでにそこにいた。北の各地から渡ってきた、さまざまな鳥たちが。夕暮れの空を、幾千の翼が舞い、水面は、鳥たちの声で、埋めつくされていた。
群れが、その入江に近づいたとき、また、夕暮れだった。
西の空が、茜に燃えていた。金から朱へ、朱から茜へ。そして、藍へ。長い、長い旅の、幾度めかの――そして、この旅の、最後の――夕暮れだった。後ろの一羽は、その光のなかを、飛んだ。生まれた沼を旅立った、あの夕暮れの光と、同じ光だった。別れの光と、たどりついた光が、同じひとつの光だということを、後ろの一羽は、翼のさきまでで、感じた。
去るときも、たどりつくときも、空は、茜に燃える。
群れは、入江の干潟に、降りた。
翼をたたんで、水に浮かぶと、長い旅の疲れが、いちどに、体じゅうに広がった。けれど、それは、心地よい疲れだった。たどりついた、という疲れだった。後ろの一羽は、水を飲んだ。あたたかい南の水を。そして、まわりを見た。生きのこった仲間たちが、そこにいた。先頭が、そこにいた。母も――そう、母も、そこにいた。この長い旅を、母も、渡りきったのだ。
母と、後ろの一羽は、首をよせた。
なにも、言わなかった。旅立ちのときと、同じだった。ただ、体温を分けあうように、しばし、寄りそった。けれど、旅立ちのときとは、ちがうものが、そこにあった。ふたりは、同じ嵐を越え、同じ山を越え、同じ別れを見送り、同じ蒼い星に導かれて、ここまで来たのだ。そのすべてが、いま、この、寄りそう首のあたたかさの、なかにあった。
十一
冬のあいだ、群れは、その入江で過ごした。
干潟で、貝や虫や草の根をあさり、水に浮かんで眠り、たがいに羽づくろいをして、あたたかな南の日々を、静かに過ごした。北の水辺で夏を過ごしたときのように、群れは、この南の入江の光景に、少しずつ、なじんでいった。朝もやの、干潟のにおい。潮のみちひき。あたたかい風にそよぐ、葦の原。夕暮れになると、幾千の水鳥がいっせいに舞いあがる、あの、羽音のとどろき。それらが、この冬の、群れの日々になった。北の水辺で夏を過ごしたように、この南の入江で、冬を過ごす。どちらが本当の家か、と、後ろの一羽は、いつか先頭が言ったことばを、思いだした。翼を持つものにとっては、飛んでいるあいだこそが、いちばん家に近いのかもしれん、と。
いまなら、そのことばの意味が、わかる気がした。
家は、場所ではないのだ。生まれた沼でもなく、この南の入江でもなく、そのあいだの、はるかな空でもない。家とは、群れなのだ。同じ空を、同じ方向へ、飛ぶ仲間たち。「ここにいる」と鳴けば、「聞こえている」と返してくれる声。翼の渦で、たがいを支えあう、そのつながり。それが、渡り鳥の、家なのだ。だから、渡り鳥は、飛んでいるあいだ、いつも、家にいる。
冬の入江で、後ろの一羽は、幾度も、あの旅の夜々を思いかえした。
生まれた沼の、茜の夕暮れ。旅立ちの、水しぶきの宝石。母との、別れの、寄りそう首。長い夜の、翼を打つ音。はぐれた雌の雁の、あの静けさ。山で力尽きた、同じ夏の子。嵐の谷の、墨のような闇。そして――あの、蒼い星。茜の空に、宵の一番星のように、ただ一度、あらわれた、あの蒼い光。
それらは、もう、悲しいだけの記憶ではなかった。それらすべてが、いまの後ろの一羽を、つくっていた。別れが、教えてくれた。喪失が、育ててくれた。あの、失われた翼のひとつひとつが、後ろの一羽の胸のなかで、道しるべの星になっていた。逝った者たちは、消えたのではない。後ろの一羽の、翼のなかに、生きている。次に南をめざすとき、次に嵐に出あうとき、あの者たちが、きっと、風の道を、教えてくれる。
そう思えるようになったことが、この長い旅が、後ろの一羽に贈った、いちばん大きなものだった。
冬のある夕暮れ、後ろの一羽は、干潟のはずれで、ひとりの人間を見た。
老いた漁師だった。舟を岸につなぎ、遠く、鳥たちの群れをながめていた。その手には、片方だけの、古い手袋があった。もう片方は、どこかで失くしたのだろう。漁師は、その片方の手袋を、まるで大切なものであるかのように、胸のあたりに、そっと、あてていた。そして、遠い北の空を――鳥たちが渡ってきた、あの北の空を――見あげて、なにか、口ずさんでいた。
漁師のかたわらには、小さな火が、ともっていた。
寒さをしのぐための、ささやかなたき火だった。漁師は、たき火をおこすのに、藍色の、小さなマッチ箱をつかっていた。三日月の刻まれた、青いマッチ箱。その火が、老いた漁師の顔を、赤く照らしていた。片方だけの手袋を胸にあて、青いマッチの火をたよりに、遠い北の空を見あげる、老いた漁師。その姿は、まるで、この世のはてで、だれかの帰りを、いつまでも待っている者のように見えた。
その声は、風に乗って、かすかに、後ろの一羽の耳にとどいた。
「眠れ、眠れ、星が海をわたるまで――」
それは、子守唄のようだった。だれかを眠らせるための、しずかな、やさしい旋律。漁師は、だれのために、それを歌っていたのだろう。失くした片方の手袋の、その持ち主のために、だろうか。それとも、遠い北へ帰っていった、だれかのために、だろうか。あるいは、これから北へ帰っていく、この鳥たちのために、だろうか。
後ろの一羽には、わからなかった。けれど、その旋律は、なぜか、胸にしみた。渡りの空の、あの蒼い星の光のように。別れと、帰路の、しずかな慰めのように。
十二
冬が終わり、また、春が来た。
南の入江に、北へ帰る季節が、めぐってきた。空気に、ふたたび、あのざわめきがまじった。翼の付け根が、うずいた。今度は、北への呼び声だった。生まれた、あの沼へ。夏を過ごした、あの水辺へ。帰る季節が、来たのだ。
旅立ちは、また、夕暮れだった。
西の空が、茜に燃えた。金から朱へ、朱から茜へ、そして、藍へ。後ろの一羽は――もう、「後ろの一羽」ではなかった。この冬のあいだに、たくましくなり、隊列の、もう少し前を飛べるようになっていた。けれど、心のなかでは、いつまでも、あの茜の光のなかで旅立った、若い一羽のままだった。
群れは、入江の水を蹴り、茜の空へと、躍りあがった。
北へ。生まれた場所へ。帰る旅が、はじまった。行きに越えた山を、また越える。行きにはぐれた仲間の、その峰を、また越える。けれど、悲しみは、もう、翼を重くしなかった。逝った者たちは、あの蒼い星の光のなかにいる。そう信じられた。だから、群れは、その光に見送られながら、また、飛ぶことができた。
飛びたつとき、後ろの一羽は、いちど、南の入江をふりかえった。
冬を過ごした、あたたかい入江。干潟。葦の原。あの、片方だけの手袋の漁師の、舟のあかり。それらすべてが、茜の光のなかに、しずんでいくところだった。別れの光だった。この入江に別れを告げる、いちばん美しい光だった。そして、後ろの一羽は、知っていた。この別れの光の、そのはてに、また、たどりつく光が待っていることを。生まれた、あの沼の、茜の夕焼けが。
去るときも、たどりつくときも、空は、茜に燃える。別れと再会は、同じひとつの光の、表と裏なのだ。
群れは、北をめざして、飛んだ。
やがて、夕闇が深まり、空に、星がひらいた。その、宵の口の低い空に――後ろの一羽は、見た。蒼い、一番星を。細く、長く、尾を引く、あの、蒼い光を。今度は、その尾は、北のほうへ、たなびいていた。まるで、北への道を、指ししめすように。
逝った者たちが、また、群れを、見送っていた。北へ帰る群れを。生まれた場所へ帰る群れを。あの、蒼い光になって。
後ろの一羽は、その蒼い星に、ひくく、鳴いた。「ここにいる」と。すると、群れじゅうから、返ってきた。「聞こえている」と。幾千の翼が、闇のなかで、同じ声を、かわしあった。生きている者と、逝った者と、これから生まれる者と――すべての渡り鳥が、その蒼い光の下で、ひとつの群れになった。
葦の穂が金色に燃えつきるころ、空はいつも、群れのことを憶えている。去りゆく翼のことも、力尽きた翼のことも、そして、それでも進みつづける、幾千の翼のことも――夕暮れの空は、そのすべてを、いつまでも、蒼い星の光にたたんで、憶えているのだ。