幟の影
幟の影
村へ入る道と、村を出る道は、同じ一本の道であった。
一座がこの黒沼の村に着いたのは五日前の朝で、そのときこの道は東の朝日を背に、白く乾いて、埃を立てながら私たちを迎えた。荷車の軸が鳴り、鶏が驚いて羽を散らし、田の畦から子どもらが顔を出した。同じ道が、いま西日を正面に受けて、赤く濡れたように光っている。私たちはその赤い道を、こんどは背を村へ向けて、荷を積み、幟を巻き、去ろうとしている。
来た道と去る道が同じであることを、旅の暮らしに入ってからもう幾度知ったろう。それでも慣れぬ。入るときの道はどこか甘く、去るときの道はどこか苦い。同じ土、同じ石、同じ木立でありながら、光の向きひとつで、道は別のものになる。
私は幟竿を肩に担いで、荷車の脇に立っていた。名を桐一郎という。歳は二十二。この小さな旅の一座で、若い立役をつとめている。
旅の暮らしは、もう七年になる。生まれた在所のことは、ほとんど覚えていない。飢饉の年に、親が私を、村を回っていた芸人の一座に売ったのだと、あとになって座長から聞かされた。だから私にとって、故郷というものは、ない。あるのは、この荷車と、この幟と、幾つも通り過ぎてきた、名も定かでない村々の記憶だけだ。どの村も、数日いて、去った。どの村の夕暮れも、こうして、赤かった。
西日が、私の影を、道の上に、長く長く、東へ伸ばしていた。影の先は、村のほうを向いていた。私の体は村を離れようとしているのに、私の影だけが、まだ村へ、未練がましく、伸びている。旅の別れというのは、いつも、こうだ。体は先へ行く。心と影は、あとに残る。
一
黒沼の村は、山と山のあいだの、掌のくぼみのような土地にあった。名のとおり村の東はずれに沼があり、水は昼でも黒く、夕暮れには血のような色を映した。田は狭く、段になって山へ這い上がり、それを養う水路が村じゅうを細く走っていた。
私たちの一座は、座長の卯之助を頭に、女形の紫、囃子の老爺の甚平、下働きの少年の亀と、私を入れて五人きりの、小さな小さな旅芝居であった。かつては十を超える大所帯であったと座長は言うが、私が加わったころにはもうこの人数で、荷車一台に何もかもを積んで、村から村へ、宿場から宿場へと流れていた。
黒沼へは、隣の谷の湯治場で「祭りに芝居をかけてくれぬか」と請われて来たのだった。この村では毎年、田植えの済むこの時季に、鎮守の水神へ祭りを捧げる。豊かな村ではない。だから芸人を呼ぶことなどめったにない。それがこの年、村の若い衆が音頭を取って、わずかな銭を出し合い、私たちを招いたのだった。
「久しぶりに、よその風を入れたいんでさ」
そう言ったのは、若い衆の頭分の、辰という男だった。辰は炭焼きをしていて、腕が太く、顔は日と煙に焼けて黒く、しかし笑うと歯だけが白かった。私たちが村に着いた朝、荷車を迎えに来てくれたのも辰だった。
「よその風、ねえ」
座長の卯之助は、荷の上から辰を見下ろして、少し笑った。
「風なんてもんは、吹いて、通り過ぎて、それきりだ。あとに何も残らねえよ」
「残らねえから、いいんでさあ」
辰はそう返した。妙な返事だった。私はそのとき、この男は少し変わっていると思った。
だが、旅を重ねるにつれて、私は、辰のような男が、どの村にも、一人はいることを、知るようになった。よその風を求める男。この土地に生まれ、この土地で死ぬと定まった暮らしの中で、ふと、遠くを見てしまう男。旅の一座が来ると、その男は、いちばん熱心に芝居を見て、いちばん親しく世話を焼き、そして、去るときに、いちばん寂しそうな顔をする。留まる者が、去る者に、羨望と憐れみの、入り混じった目を向ける。辰も、そういう男の一人だった。
「あんたら、どこから来なすった」
辰は、荷を運びながら、そう聞いた。
「さあ。どこから、とも言えねえ」
私は答えた。
「三月前は、北の海沿いの村にいた。その前は、山ひとつ越えた炭鉱町。その前は……もう、覚えてねえ。おれたちは、どこから来た、とは言えねえんだ。ただ、来た。それだけだ」
辰は、しばらく黙って、それから、低く言った。
「いいなあ」
「いいもんか」
私は、笑った。だが、辰は、笑わなかった。本気で、羨ましがっているらしかった。私は、その顔を見て、いつも思うことを、また思った。留まる者には、去る者が、自由に見える。去る者には、留まる者が、豊かに見える。隣の芝は、いつも青い。そして、その芝を、私たちは、根こそぎ引き抜いて、荷車に積んで、また、次の村へ、運んでいくのだ。
村での五日は、瞬く間だった。
初日と二日目は、舞台を組んだ。舞台といっても、鎮守の境内の一隅に、村の男たちが伐り出した丸太で床を張り、莚を掛け、幟を立てるだけのものだ。それでも幟が立つと、村の景色が変わる。子どもらは学校が退けると真っ先に境内へ駆けてきて、まだ何も演じられていない空の舞台を、口を開けて見上げた。
私は幟を立てるのが好きだった。竿を担いで、土を掘って、竿を挿し、そこへ布を上げる。布には一座の名が染め抜いてある――「卯月座」と。座長の生まれ月から採った名だという。染めは古びて、朱がところどころ抜けて桃色になっている。それでも風を孕んで、幟がひとつ、天へ伸びると、そこが私たちの場所になる。
もっとも、それは仮の場所だ。祭りが済めば、幟は巻かれ、竿は倒され、舞台は解かれる。私たちの場所は、いつも仮のものだった。
「桐さん、幟、あげてくれよ」
そう言って裾を引いたのは、村の子どもたちの中でもいちばん小さな、みつという女の子だった。歳は六つか七つ。痩せて、髪は自分で切ったのか不揃いで、目だけが大きかった。母親を早くに亡くしたと、あとで聞いた。
「よし、みつ坊。よく見てな」
私は竿を立て、布を巻き上げた。幟が風を受けて、ぱっと開いた。みつは声も立てずに、ただじっと、それを見上げた。その横顔が、いまも目に残っている。
二
三日目の夜が、初日の興行だった。
芝居がかかると、村の人々がぞろぞろと境内へ集まってきた。老いも若きも、赤ん坊を背負った女房も、腰の曲がった隠居も、みな莚を敷いて座り、あるいは立ったまま、舞台を取り囲んだ。かがり火が焚かれ、甚平の笛が鳴り、紫の白い顔がぼうと闇に浮かんだとき、村じゅうがしんと静まった。
私は、その静まりが好きだった。
昼のあいだ、あんなに賑やかで、こちらを身内のように扱ってくれた村の人々が、いざ舞台に灯が入り、囃子が鳴ると、みな、しんと静まり返る。そのとき、私と村人とのあいだに、目に見えぬ川が、一本、流れる。舞台の上は、こちら岸。莚の上は、向こう岸。私は、こちら岸から、向こう岸の人々に、嘘の物語を、語りかける。そして向こう岸の人々は、その嘘を、本当のことのように、受け取ってくれる。この、目に見えぬ川が、私は好きだった。旅芸人が、村の人々と、いちばん深く繋がるのは、この川を挟んだ、静まりの中でだけなのだ。芝居がはねれば、川は消え、私はまた、ただの、通りすがりの余所者に戻る。
旅芝居の演し物は、たいていが古い義理人情の筋書きだ。この夜も、恩を仇で返された男が、最後に義に殉じて死ぬ、そういう芝居をかけた。私はその男を演じた。舞台の上で刀を抜き、血に染まり、そして倒れる。莚の上のあちこちで、女房たちが袖で目を押さえるのが、かがり火の中に見えた。
芝居がはねると、村の人々は口々に「よかった」「泣いた」「明日もかけてくれ」と言いながら、名残惜しげに散っていった。辰が酒を運んできて、私たちは境内の隅で車座になって飲んだ。
「桐さん、あんた、死ぬ芝居がうめえなあ」
辰は私にそう言って、盃を差し出した。
「死ぬのが、うまいと言われてもな」
私が苦笑すると、辰は真面目な顔になった。
「いや、ほんとにうめえ。あんたが倒れたとき、おれ、胸がぐっとなった。ああ、人ってのは、こんなふうに死ぬのかって。……おれの親父も、去年、あんなふうに死んだ。あっけなく、ばたっと」
私は何も言えなかった。舞台の上の死は、嘘だ。私は毎晩死んで、毎晩起き上がる。だがその嘘が、辰の胸の、本当の死に触れたのだ。旅芸人の芝居とは、そういうものかもしれなかった。嘘を演じて、誰かの本当に触れる。触れて、そして去る。
「明日も、明後日も、かけてくれよ。祭りが終わるまで」
「ああ、かけるとも」
私はそう答えた。そのときはまだ、去る日のことを、私は考えていなかった。
酒がまわると、辰は、自分の身の上を、ぽつぽつと話した。母は幼いころに死に、父も去年死んで、いまは、姉夫婦の世話になりながら、炭を焼いているのだという。炭は、年々、売れなくなっている。町では、石炭というものが出回りはじめて、山の木を焼いた炭など、もう、時代遅れなのだと、辰は言った。
「おれの焼く炭も、あと何年、売れるか、わからねえ。……そうなったら、おれも、村を出るのかもしれねえ。町へ、出稼ぎに」
辰は、そう言って、盃を干した。かがり火の名残の、赤い光が、その黒い顔を、照らしていた。
「そのときは、桐さん。おれも、あんたらみてえに、根なし草に、なるのかねえ」
「なるなよ」
私は、思わず、そう言った。辰は、驚いたように、私を見た。
「なるなよ、辰さん。あんたには、村がある。姉さんがいる。炭を焼く山がある。……それを、手放すな。おれたちみたいに、なるな」
私は、なぜ、そんなことを言ったのか、自分でもわからなかった。ただ、辰が、荷車の上の私を「いいなあ」と羨んだ、あの顔を、思い出したのだ。あの顔のまま、辰が、根を失って、風に吹かれる草になるのを、私は、見たくなかった。持っている者は、持っていることの尊さを、失って初めて知る。私は、それを、幾度も、旅の途中で、見てきた。
辰は、しばらく黙って、それから、小さく笑った。
「変な役者だなあ、あんたは。自分の暮らしを、けなすのかい」
「けなしゃしねえ。……ただ、片方だけの手袋みてえなもんだ、と思うだけさ」
私は、そのとき、なぜ、そんな譬えを口にしたのか、わからなかった。片方だけの手袋。まだ、みつから、あれをもらう前のことだった。だが、私の口は、すでに、その言葉を、知っていたのだ。旅の暮らしとは、いつも、何かの片方だけを、握りしめている暮らしなのだと。
四日目の昼、私は村を歩いた。
芝居は夜だから、昼は暇だった。私は一人で、狭い田の畦を歩き、水路の水音を聞き、山の際まで行って、また戻ってきた。村の女房たちが井戸端で洗い物をしながら、私を見て笑い、会釈をした。もう五日といない旅の役者に、この村の人々は、身内のように親しくしてくれた。
水神の祠の前で、私はみつに会った。みつは一人で、地面に木の枝で何か描いていた。覗くと、それは幟の絵だった。竿があって、布があって、その布の上に、たどたどしい字で「うづき」と書こうとして、書けずに、丸ばかりが並んでいた。
「みつ坊、それは幟か」
みつは顔を上げて、こくりと頷いた。
「うん。桐さんの、のぼり」
「おれのじゃないよ。一座のだ」
「桐さんが、あげたから、桐さんのだ」
理屈にならぬ理屈だった。だが私は、なぜか胸を打たれた。私はみつの隣にしゃがんで、枝を取り、「卯月座」と、地面に書いてやった。みつはそれを一字一字、真似て、砂の上に写した。写しながら、みつは小さな声で、唄をうたい始めた。
眠れ、眠れ、星が海をわたるまで
眠れ、眠れ、母さま帰るその朝まで
私はその唄を知らなかった。この村の子守唄だろうか。母さまが帰る朝まで、と唄いながら、みつの母さまはもう帰らぬのだと、私は知っていた。みつはそれを知って唄っているのか、知らずに唄っているのか、わからなかった。ただ声は澄んでいて、水路の水音に溶けて、消えていった。
「その唄は、誰に教わった」
「かかさま」
みつは短く答えた。それきり、二人とも黙って、砂の上の字を見ていた。
しばらくして、みつが、ふと、顔を上げた。
「桐さんは、かかさま、いる」
私は、答えに、詰まった。
「……いないよ。おれのかかさまは、おれが、みつ坊くらいの歳のとき、いなくなった」
「どこ、いったの」
「わからねえ。……たぶん、遠くだ」
みつは、じっと、私を見た。それから、小さな手を伸ばして、私の袖を、握った。
「じゃあ、桐さんも、あたしと、おんなじだね」
私は、その言葉に、胸を突かれた。おんなじだね。母のない子と、母を覚えていない旅の役者と。私たちは、確かに、おんなじだった。この村で、いちばん幼いみつと、いちばん余所者の私とが、母のいないという、その一点で、繋がっていた。
「ああ。おんなじだ」
私は、みつの、小さな頭に、手を置いた。不揃いに切られた髪が、掌に、ちくちくと触れた。
「だから、みつ坊。おれは、みつ坊の唄を、覚えておくよ。遠くへ行っても。……その唄を、うたえば、みつ坊のことを、思い出せるからな」
みつは、こくりと、頷いた。そして、もう一度、あの唄を、はじめから、うたった。私は、その節を、口の中で、追いかけた。
眠れ、眠れ、星が海をわたるまで
眠れ、眠れ、母さま帰るその朝まで
海をわたる星とは、何だろう、と私は思った。星が、海をわたる。夜のあいだに、ひとつの星が、空という海を、こちらの岸から、向こうの岸へ、わたっていく。そのあいだ、眠っていなさい、と。そして、その星がわたりきったころ、母さまが、帰ってくる、と。だが、みつの母さまは、帰らない。星が、幾晩、海をわたっても。それでも、この唄は、母さまが帰ることを、うたい続ける。帰らぬ者を、待ち続ける。旅の暮らしにも、似ていた。私を待つ村など、どこにもないのに、私は、次の村を目指して、歩き続ける。帰る場所などないのに、帰路のように、道を、行く。
三
祭りの本祭は、五日目――つまり、今日であった。
朝から村は賑わった。水神の神輿が出て、田の畦を練り歩き、若い衆が担いで沼のほとりまで下りて、水を掛け合った。豊作を祈る、古い作法だという。辰も神輿を担いでいた。上半身裸で、水を浴びて、黒い肌が光っていた。
昼過ぎ、私たちは最後の芝居をかけた。祭りの締めの、いちばん華やかな演し物だった。座長の卯之助が久しぶりに舞台に立ち、老いた侠客を演じた。紫は姫を演じ、私はその姫を守る若侍を演じた。甚平の笛が高く鳴り、亀が幕を引き、村じゅうの人が境内に詰めかけた。
私は、その芝居の中で、姫のために、命を捨てる若侍を演じた。姫を逃がすために、追手を一身に引き受け、斬られ、それでも姫の名を呼びながら、絶命する。舞台の袖から、莚の上を見ると、いちばん前に、みつがいた。片方だけの――いや、そのときはまだ、両方の手を、胸の前で握りしめて、まばたきもせずに、私を、見ていた。
私は、その日の芝居を、生涯で、いちばん、心をこめて演じたように思う。なぜだかは、わからない。ただ、これが、この村での、最後の芝居だと、体のどこかが、知っていたのだろう。私が舞台の上で倒れ、目を閉じる、その最後の瞬間、私は、細く開いたまぶたの隙間から、みつを見た。みつは、泣いていた。声も立てずに、大きな目から、ただ、涙を、こぼしていた。芝居の中で死ぬ私を見て、本当に、悲しんでいた。
嘘の死が、幼い子の、本当の涙を、呼んだ。私は、倒れたまま、動けなかった。旅芸人の芝居とは、罪なものだ、と思った。私は、みつに、嘘の悲しみを、味わわせた。そして、そのすぐあとで、本当の別れを、味わわせることになる。
芝居がはねると、村の人々は、いつもより長く、拍手をやめなかった。
そして、その拍手が終わったとき――祭りが終わったのだ。
祭りが終われば、私たちが村にいる理由も、終わる。
座長の卯之助が、荷を解いていた手を止めて、空を見た。
「桐、日が傾いた。発つぞ」
私は空を見た。まだ午後の三時か四時、陽は高くはないが、もう西へ傾き始めていた。私たちは日暮れまでに隣の谷へ入り、次の宿場を目指さねばならなかった。旅は待ってくれない。次の村が、次の祭りが、次の客が、どこかで私たちを待っている――あるいは、待ってなどいない。ただ、私たちは進むしかないのだ。留まれば、飢える。旅芸人とは、根を張れぬ草だ。根を張ろうとした途端に、枯れる。
「もう、行くのか」
そう言ったのは辰だった。荷造りを手伝いに来て、その手が止まっていた。
「ああ、行く。祭りが済んだからな」
「もう二日、いや、一日でも」
「留まれねえんだ、辰さん」
私がそう言うと、辰は口を結んだ。太い腕が、荷車の縁を握った。
「……そうか。そうだよな。あんたらは、風だもんな。吹いて、通り過ぎて、それきり、だ」
初日に辰自身が言った言葉だった。残らねえから、いい――そう言ったのは辰だった。だがいま、その顔には、留めたい、という色が、はっきりと出ていた。人は勝手なものだ。私も、そして辰も。
荷が積み終わると、村の人々が、いつのまにか荷車の周りに集まっていた。
祭りの片づけを放り出して、女房たちが、隠居が、子どもらが、若い衆が、みな出てきて、私たちを取り囲んだ。誰も、大きな声を出さなかった。ただ、そこにいた。見送るために。
「達者でな」
「また来てくれよ」
「来年も、祭りに」
口々に、そう言った。私たちは頭を下げた。座長が挨拶をし、紫が微笑み、甚平が笛をひとつ、短く吹いた。別れの合図のような、寂しい音だった。
「これ、持っていってくれ」
女房の一人が、私に握り飯を包んだのを差し出した。別の女房が、干した芋を。隠居が、煙草を一つまみ。みな、貧しい村の、なけなしの餞別だった。私は押しいただいて、荷に納めた。
そのとき、人々の足のあいだから、小さなみつが、走り出てきた。
「桐さん」
みつは、私の前に立って、両手で何かを差し出した。手袋だった。子ども用の、毛糸で編んだ、小さな手袋。しかし――片方だけだった。
「片っぽ、しか、ないの」
みつは、うつむいて、そう言った。
「もう片っぽ、なくしちゃったの。だから、これ、桐さんに」
私は、その片方だけの手袋を、両手で受け取った。毛糸は所々ほつれて、色は褪せていた。おそらく、みつの母さまが、生きているうちに編んだものだ。母さまの形見の、片方だけの手袋。それを、みつは、旅の役者の私に、くれるというのだ。
「みつ坊。これは、かかさまが、編んだのか」
みつは、こくりと、頷いた。
「あたしのために、編んでくれたの。でも、片っぽ、どっかで、なくしちゃった。だから、もう、はめられないの。……はめられないなら、桐さんに、あげる。桐さん、遠くに行くんでしょ。寒いとこ、行くんでしょ。だから、これ、はめて」
私は、その、小さすぎる手袋を、見た。私の手には、とても、入らない。みつも、それは、わかっているだろう。それでも、みつは、私に、これを、はめて、と言う。寒いところへ行く私のために。この、はめられぬ、片方だけの手袋を。
みつにとって、それは、母の、最後の温もりだった。片方をなくして、もう身につけることのできない、母の温もり。それを、みつは、抱えているより、遠くへ行く私に、持たせたかったのだ。自分の悲しみを、遠くへ、運んでほしかったのだ。あるいは――遠くへ行く私に託せば、この片方だけの手袋も、いつか、なくしたもう片方に、どこかで、めぐりあえるかもしれない、と。子どもらしい、けれど、胸を抉る願いだった。
「みつ坊、これは……」
「あげる」
みつは、きっぱりと言った。
「桐さんが、のぼり、あげてくれたから。だから、あたし、これ、あげる」
私は、言葉が出なかった。片方だけの手袋。もう片方は、どこかで失われて、二度と揃わない。ちょうど、私とこの村のようだと思った。数日、寄り添って、そして離れて、二度と揃わない。
「……ありがとうよ、みつ坊。大事にする」
私は、その手袋を、懐の、いちばん深いところへ、そっと納めた。みつは、大きな目でじっと私を見上げ、それから、小さな声で、あの唄を、うたい始めた。
眠れ、眠れ、星が海をわたるまで
村の女房の一人が、その声に合わせて、低く唄った。もう一人が。もう一人が。いつのまにか、村の人々が、みなその子守唄を、口ずさんでいた。別れの唄のように。私たちを、眠らせて、送り出すように。
四
荷車が動き出した。
甚平が先頭を歩き、亀が車を押し、紫が脇を歩き、座長が手綱を取った。私は、最後尾で、幟竿を担いで歩いた。巻かれた幟が、竿の先で、ゆらゆらと揺れた。
村の人々は、村はずれまで、ついてきた。田の畦を、荷車のあとを、ぞろぞろと。子どもらが荷車の周りを駆け、女房たちが袖で目を押さえ、辰が、いちばん後ろから、黙って歩いた。
村の境の、道祖神の石のところで、人々は足を止めた。ここから先は、もう村の外だ。見送りは、ここまで。それが、この土地の習わしだった。
道祖神は、村と、村の外との、境を守る神だという。旅人を、村へ迎え入れ、また、村から、送り出す神。どの村にも、必ず、こういう石が、境に立っている。私は、旅の途中で、幾百という道祖神を、見てきた。入るときにひとつ、出るときにひとつ。私の旅は、道祖神から道祖神へ、渡り歩く旅だったとも言える。迎えられ、送られ、また迎えられ、また送られ。その繰り返しの中に、私の、七年があった。
村の人々は、この石より先へは、出なかった。私たちを、この石まで、送って、そして、止まった。ここが、境だった。ここまでが、村の情で、ここから先は、旅の情だった。石ひとつを挟んで、留まる者と、去る者とが、向かい合った。
「じゃあな」
座長が、振り返って、そう言った。
「達者でな」
人々が、口々に返した。
私は、幟竿を担いだまま、振り返った。西日が、村の人々を、正面から照らしていた。みな、金色に縁取られて、そこに立っていた。辰の黒い顔も、女房たちの日焼けした頬も、隠居の白い髭も、みな、夕日に染まって、赤く、金色に、光っていた。そして、その人垣の、いちばん低いところに、みつが立っていた。片方だけの手袋を、もう私にくれてしまった、その小さな手を振って。
私は、手を振り返した。
荷車は進んだ。道は、山へ向かって、緩く登っていた。振り返るたびに、村の人々は、小さくなった。それでも、まだ、そこに立っていた。手を振っていた。夕日を浴びて。
最後に振り返ったとき、辰が、道祖神の石に、片手をついて、こちらを見ていた。もう、手は振っていなかった。ただ、じっと、見ていた。あの、留めたい、という色を、顔いっぱいに浮かべたまま。そして、みつは、辰のすぐそばで、まだ、小さな手を、振り続けていた。二人とも、夕日を浴びて、赤く、金色に、染まっていた。
やがて、道が曲がった。木立が、村を隠した。
もう、村は見えなくなった。人々の声も、聞こえなくなった。
私たちは、黙って歩いた。荷車の軸が、きしきしと鳴った。それだけが、音だった。
不思議なもので、村が見えなくなった途端、あれほど親しかった人々が、急に、遠い夢の中の人のように、思われた。ついさっきまで、私は、辰と酒を酌み交わし、みつの頭を撫でていた。それが、木立ひとつ隔てただけで、もう、はるか昔の出来事のように、遠のいていく。旅の別れとは、こういうものだ。距離が、時を、早める。一町離れれば、一日が過ぎたように。一里離れれば、一年が過ぎたように。私は、まだ、みつの手袋の温もりを、懐に感じているのに、その温もりの主は、もう、別の世界の、別の人のように、なりつつあった。
しばらく行くと、座長が、手綱を引いて、荷車を止めた。
「一服するか」
道の脇の、大きな榎の木の下だった。私たちは荷を下ろし、竿を立てかけ、めいめいに腰を下ろした。甚平が煙草を吸い、紫が水を飲んだ。亀は、疲れて、荷の上に寝転がった。
私は、榎の木の根に腰を下ろして、懐から、みつの手袋を、そっと取り出した。片方だけの、小さな手袋。夕日に透かすと、ほつれた毛糸が、金色に光った。
「桐、それは何だ」
座長が、隣に腰を下ろして、覗き込んだ。
「餞別です。あの、みつって子から」
「片っぽだけか」
「片っぽだけ、です。もう片方は、なくしたと」
座長は、その手袋を、しばらく見ていた。それから、ふっと、笑った。
「片っぽだけの手袋なんてなあ、旅芸人にゃ、ちょうどいい餞別だよ」
「ちょうどいい、ですか」
「ああ。おれたちの暮らしってのは、片っぽだけなんだ。いつも、何かの片っぽだ。村に馴染みかけると、発つ。人に情が移りかけると、離れる。芝居で誰かを泣かせて、その涙が乾く前に、もういねえ。……ぜんぶ、片っぽだ。もう片方は、いつも、置いてくる」
私は、黙って、手袋を見た。
「桐よ」
座長は、煙を吐いて、言った。
「お前、まだ若い。この暮らしが、辛くなることもあるだろう。根を張りたくなることもあるだろう。あの村に、留まりたかったろう」
図星だった。私は、答えられなかった。
「だがな、根を張った草は、その場所で枯れる。おれたちは、根を張らねえから、枯れねえんだ。次の村へ行ける。次の村で、また誰かを泣かせられる。……それが、辛いか、ありがたいか。それは、お前が、これから、幾つも別れを重ねて、自分で決めることだ」
座長は、それきり、黙った。私も、黙った。
榎の葉が、風に鳴った。日が、また少し、傾いた。
五
私たちは、また歩き出した。
峠に向かう道を、荷車を押して、登っていった。登るにつれ、空が広くなった。西の空が、燃えるように、茜に染まっていた。朱が、金に、金が、藍に、少しずつ、移ろっていった。
峠の頂に着いたとき、日は、山の端に、半分沈みかけていた。
私たちは、荷車を止めて、その空を見た。
眼下には、いま来た谷が、影に沈もうとしていた。黒沼の村は、もう見えなかった。だが、その方角の空だけが、まだ、いちばん赤かった。あの村の上の空が、赤いのだと、私には思われた。
そのとき――紫が、ふと、空を指さした。
「あら。……星」
見上げると、茜の空の、まだ明るいところに、ひとつ、星が出ていた。宵の一番星のように、澄んで、鋭く、光っていた。だが、それは、白くも、金色でもなかった。青かった。蒼く、澄んで、そして――尾を引いていた。細い、蒼い尾を、空に、すうと。
「彗星だ」
座長が、低く言った。
「ミラ彗星、って言うそうだ。昔、湯治場の学者先生が、言ってた。何十年に一度、あの蒼い尾を引いて、夕方の空に、出るんだと。……あれを見た者は、遠くへ行くんだと」
「遠くへ」
私は、繰り返した。
「ああ。遠くへ。……おれたちにゃ、ぴったりだな」
蒼い星は、茜の空に、ただ一つ、尾を引いて、かかっていた。その青は、沈む夕日の赤とも、迫る夜の藍とも違う、どこか懐かしい、そして、どこか寂しい青だった。私は、その青を見ながら、なぜか、みつの手袋の、褪せた色を、思い出していた。
遠くへ行く者の星。
旅から旅へ、村から村へ、別れから別れへ。私たちは、いつも、遠くへ行く。留まることを、許されない。あの蒼い星のように、空を、ただ一人、渡ってゆく。尾を引いて。あとに、何も、残さずに。
いや――残すのかもしれない。彗星が、夜空にひとすじの光の跡を残すように。私たちも、あの村に、何かを、残したのかもしれない。みつの、砂に書いた「うづき」の字。辰の胸の、ぐっとなった感じ。女房たちの、袖で押さえた涙。私たちは、去った。だが、私たちが、あの村にいたということは、消えない。
「行くぞ」
座長が、手綱を取った。
私たちは、峠を、下り始めた。谷は、もう、夜の色だった。
六
その夜、私たちは、峠を下りきったところの、街道沿いの、小さな宿場に着いた。
宿というほどのものではない。木賃の、古い一軒家だった。囲炉裏の火を借りて、私たちは、村の女房たちがくれた握り飯を食べ、干し芋をかじった。粗末な夕餉だったが、あたたかかった。
食べ終わると、みな、疲れて、すぐに横になった。甚平の鼾が、すぐに聞こえた。亀は、囲炉裏の脇で、丸くなって寝た。紫も、壁のほうを向いて、静かになった。
私は、なかなか、寝つけなかった。
私は、そっと起き上がり、懐から、みつの手袋を、取り出した。囲炉裏の、消えかけた火明かりに、それを透かして見た。片方だけの、小さな手袋。
私は、それを、自分の手にはめてみようとした。だが、小さすぎて、指の先しか、入らなかった。子どもの手袋だ。当たり前だった。私は、それを、はめるのを、やめた。
かわりに、私は、その手袋を、頬に、そっと当てた。毛糸は、少し、埃の匂いがした。それから、かすかに、あの村の、田の匂いがした。水路の水の匂い。かがり火の煙の匂い。みつの、砂遊びの、土の匂い。
私は、あの子守唄を、口の中で、小さく、うたってみた。
眠れ、眠れ、星が海をわたるまで
眠れ、眠れ、母さま帰るその朝まで
母さまは、帰らない。みつの母さまは、もう帰らない。だが、みつは、その唄を、うたい続けるだろう。帰らぬ母を、待ち続けるように。
そして、私も――帰らないのだ。あの村へは、もう、帰らない。来年、祭りに来られるかどうかも、わからない。旅の暮らしは、そういうものだ。約束は、できない。「また来る」とは、言えても、その「また」が、いつ来るのか、来るのかどうか、私には、わからない。
私は、片方だけの手袋を、また、懐に納めた。
もう片方は、みつが持っている――いや、みつは、なくしたと言った。もう片方は、どこにもない。失われて、二度と、揃わない。
それでいい、と、私は思った。
揃わないから、私は、それを、大事にできる。揃ってしまえば、それは、ただの、一組の手袋だ。片方だけだから、それは、あの村の、みつの、あの夕暮れの、証になる。
私は、目を閉じた。
まぶたの裏に、あの蒼い星が、見えた。茜の空を、ただ一人、尾を引いて、渡ってゆく星。遠くへ行く者の、星。
私は、明日も、旅を続ける。次の村へ。次の祭りへ。次の別れへ。
そして、いつか、また、どこかの村の、どこかの子が、私に、片方だけの何かを、くれるだろう。私は、それを、懐に納めて、また、去るだろう。
それが、私の暮らしだ。
私は、根を張らない。だから、枯れない。
私は、遠くへ行く。あの、蒼い星のように。
七
――それから、幾年が過ぎたろう。
私は、いまも、旅を続けている。座長の卯之助は、三年前に、冬の宿場で、病で死んだ。甚平も、もういない。紫は、ある村で、所帯を持つといって、一座を抜けた。亀は、背が伸びて、私の弟分になった。私は、いつのまにか、この小さな一座の、座長になっていた。
黒沼の村には、あれから、一度も、行っていない。
行こうと思ったことは、幾度もあった。だが、旅の道は、いつも、思うようには、行かない。あちらの村へ、こちらの宿場へと、風に吹かれて、私は、黒沼とは、違う方角ばかりを、流れてきた。
みつは、もう、大きくなっているだろう。あのとき六つか七つだったから、いまは、十五、六か。あるいは、もう、嫁いでいるかもしれない。あの、片方だけの手袋を編んだ、母さまと同じ歳に、近づいているのかもしれない。
私は、いまでも、あの手袋を、持っている。
褪せて、ほつれて、もう、手袋の形も、崩れかけている。それでも、私は、荷のいちばん深いところに、それを、しまってある。旅の途中で、ふと、寂しくなったとき、私は、それを、取り出して、頬に当てる。すると、いまでも、かすかに、あの村の匂いが、するような気がするのだ。田の匂い。水路の匂い。煙の匂い。土の匂い。
そして、私は、うたう。あの子守唄を。
眠れ、眠れ、星が海をわたるまで
私は、みつの唄を、覚えている。あの村の、子守唄を。あの村の、たった一つの、私への、餞別を。
去年の秋、私は、隣の谷の、湯治場を、通りかかった。
黒沼へは、あの湯治場から、山を一つ越えて、行くのだった。私は、湯治場の、古い茶屋で、茶を飲みながら、老いた茶屋の主人に、聞いてみた。
「山向こうの、黒沼の村は、いまも、あるかね」
主人は、少し、考えてから、言った。
「黒沼、ねえ。……ああ、あるとも。だが、あすこは、もう、寂れてなあ。若い衆が、みんな、町へ出ちまって。祭りも、もう、やらねえって話だ」
「祭りを、やらない」
「ああ。水神様の、神輿も、担ぐ者が、いねえんだと。……昔は、旅の芝居も、来たっていうがなあ。もう、ずいぶん、昔の話だ」
私は、茶を、飲み干した。
昔の話。私が、あの村で、幟を立て、芝居をかけ、みつに手袋をもらった、あの夕暮れは、もう、昔の話に、なっていた。
「その村に、辰という、炭焼きの男は、いるかね」
私は、聞いた。主人は、首を、傾げた。
「さあ。炭焼きは、もう、この辺じゃ、絶えたよ。炭も、売れねえからな。……辰、という名は、聞かねえなあ」
私は、それきり、聞くのを、やめた。
八
その夜、私は、湯治場の宿の、窓辺に立って、山向こうの空を、見ていた。
黒沼の村の、ある方角の空を。
日が、沈もうとしていた。西の空が、茜に、染まっていた。朱が、金に、金が、藍に、移ろっていった。あの、いつかの夕暮れと、同じように。
私は、思った。山を越えて、黒沼へ、行こうか、と。
寂れた村に、たとえ祭りが、なくなっていても。みつが、もう、いなくても。辰が、どこかへ、行ってしまっていても。あの、道祖神の石は、まだ、あるだろう。田の畦は、水路は、水神の祠は、まだ、あるだろう。
だが、私は、行かなかった。
行けば、あの夕暮れが、崩れてしまう気がした。私の懐の、片方だけの手袋が、指し示している、あの村は、あの、金色に染まった夕暮れの、あの村なのだ。手を振る、みつのいる、あの村なのだ。いま、行けば、そこには、寂れた、別の村があるだけだ。片方だけの手袋の、もう片方を、探しに行くようなものだ。もう片方は、どこにもない。それを、知りに行くだけだ。
私は、行かないことにした。
あの村は、私の、懐の中に、ある。あの夕暮れの、ままで。
その空に、ふと、星が、ひとつ、出た。
茜の空の、まだ明るいところに、宵の一番星のように、澄んで、鋭く。だが、それは、白くも、金でもなかった。蒼かった。蒼く、澄んで、そして、細い尾を、引いていた。
ミラ彗星だった。
何十年に一度、夕方の空に、蒼い尾を引いて出るという、あの星が、また、出たのだ。あの、いつかの峠で、座長と見た、あの星が。
「遠くへ行く者の、星」
私は、座長の言葉を、思い出して、呟いた。
私は、あれから、遠くへ、来た。ずいぶん、遠くへ。あの村から、あの夕暮れから、あの、みつの唄から。だが、その蒼い星を、見上げていると、私は、少しも、遠くへ来ていないような気が、した。
星は、変わらない。何十年経っても、また、同じ空に、同じ蒼い尾を引いて、出る。私が、あの峠で見た、あの星と、同じ星だ。あのとき、みつは、六つで、私は、二十二だった。いまは、みつは、どこかで、大きくなり、私は、老いた。だが、星は、変わらない。
星は、あの村と、私とを、繋いでいるのかもしれない、と、私は思った。
私が、あの村を、去ったとき、村の人々は、あの子守唄を、うたって、私を、送った。眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。星が、海を、わたるまで。――あの星は、いまも、空という海を、わたっている。ならば、あの唄は、まだ、終わっていないのだ。私を送る、あの唄は、まだ、終わっていない。
私は、懐から、片方だけの手袋を、取り出した。
蒼い星の光に、それを、透かした。褪せた毛糸が、かすかに、青く、光った。
「みつ坊」
私は、誰にともなく、呟いた。
「おれは、まだ、旅を、しているよ。この手袋を、持って。……お前が、くれた、片っぽを」
星は、答えなかった。ただ、蒼く、尾を引いて、空に、かかっていた。やがて、藍が、深くなり、星は、だんだん、他の星々の中に、紛れていった。だが、その蒼い尾だけは、いつまでも、私の、まぶたの裏に、残った。
九
翌朝、私は、湯治場を、発った。
黒沼とは、反対の、方角へ。次の宿場へ、次の村へ、次の祭りへ。
弟分の亀――もう、亀という歳でもないが、私は、いまでも、そう呼んでいる――が、荷車を、押した。私は、幟竿を、担いで、歩いた。巻かれた幟の、朱が、また少し、褪せていた。「卯月座」の染めが、いまはもう、桃色を通り越して、白に、近かった。それでも、私は、その幟を、掲げ続けた。座長が、遺した、名だから。
道は、朝日を、背に受けて、白く、乾いて、埃を立てた。
来る道と、去る道は、同じ一本の道だ。だが、私は、もう、その苦さを、恐れなくなっていた。入るときの甘さも、去るときの苦さも、どちらも、旅の、味だ。甘いだけの旅も、苦いだけの旅も、ない。私は、その両方を、味わいながら、歩いてきた。これからも、歩いてゆく。
「座長」
亀が、荷車を押しながら、言った。
「ゆうべ、星、見ましたかい。青い、尾のある星」
「ああ、見たよ」
「あれ、何なんですかね。気味が悪いような、でも、きれいなような」
「遠くへ行く者の、星だ、と」
私は、言った。
「昔、卯之助さんが、言ってた。あれを見た者は、遠くへ行くんだと」
「遠くへ」
亀は、繰り返した。それから、笑った。
「おれたち、これ以上、どこへ、行くんですかね。もう、じゅうぶん、遠くまで、来ちまった」
私も、笑った。
「まだ、行くさ。おれたちが、歩くのを、やめない限り、道は、続いてる。……道が、続く限り、おれたちは、遠くへ、行く」
亀は、それきり、黙って、荷車を押した。
私は、幟竿を担いで、歩いた。懐には、片方だけの手袋が、あった。頭の中では、あの子守唄が、鳴っていた。
眠れ、眠れ、星が海をわたるまで
星は、まだ、海を、わたっている。だから、唄は、終わらない。だから、旅も、終わらない。
道が、緩く、曲がった。
私は、ふと、足を止めて、振り返った。
湯治場が、朝日の中に、小さく、見えた。その向こうに、山があった。その山の、向こうに、黒沼の村が、あるはずだった。私が、二度と、行かないと、決めた、あの村が。
私は、そちらへ、深く、頭を下げた。
みつへ。辰へ。女房たちへ。隠居へ。子どもらへ。そして、あの、片方だけの手袋を、編んだ、みつの、母さまへ。私を、送ってくれた、あの村の、すべての人々へ。
「達者でな」
私は、そう、呟いた。あのとき、村の人々が、私に、言ってくれた、その言葉を、こんどは、私が、村へ、返した。
達者でな。また、来る――とは、言えなかった。だが、この身が、続く限り、この手袋を、持ち続ける。それが、私の、約束だった。言葉にはならぬ、片方だけの、約束だった。
私は、頭を上げた。
そして、また、歩き出した。朝日を、背に受けて。影を、前に、長く、伸ばして。
来た道を、去ってゆく。同じ、一本の道を。
村へ入る道と、村を出る道は、同じ一本の道であった。そして、私は、その道の上で、生まれ、その道の上で、老い、いつか、その道の上で、死ぬのだろう。根を張らず、枯れもせず。ただ、あの蒼い星のように、尾を引いて、渡り続けながら。
――片方だけの手袋を、懐に抱いて。