月光書房
申の刻 ・ 夕方 ・ 第 九 話

飴の匂いのする夕暮れ

甘利 みつ
情話 ・ 約25頁

一

暖簾を仕舞うのは、いつも陽が傾いてからと決めていた。

寿屋の店先には、六十年ぶんの西日が射しこむ。板の間に伸びる格子の影は、時刻の進みにつれてゆっくりと長くなり、やがて棚のあたりまで届くと、その日の商いのおしまいが近いという合図になった。喜助はこの影の伸び方で時を計ってきた。柱時計もあるにはあったが、あれは調子の悪いときに三分ばかり遅れる。西日のほうが確かだった。

今日は、その西日を最後に見る日だった。

朝から、喜助は妙に落ちついていた。落ちついている、と自分でも思うほどには落ちついていて、それがかえって胸の奥のどこかを軽く締めつけた。人はほんとうに大きな別れを前にすると、案外、涙も出ないものらしい。台所で沸かした湯で茶を淹れ、いつものように店の板の間を雑巾で拭いて、駄菓子の箱の埃を払って、それから暖簾を出した。藍地に白く「寿」と染め抜いた暖簾は、もう字の縁がすり切れていて、遠目には「ノ」の字にしか見えない。

「じいちゃん、今日で閉めるんだって?」

昼過ぎに来た子が、そう言った。ランドセルを背負ったままの、隣町の小学生だった。近ごろの子は、駄菓子屋のことを親から聞いてくる。閉める、と。誰が言い触らしたわけでもないのに、そういう話はどこからともなく子らの耳に入る。

「ああ、閉めるよ」

喜助はそう答えて、五円のガムを一つ、その子の掌にのせた。

「これはおまけだ。持っていきな」

子は嬉しそうな、けれどどこか困ったような顔をして、それを握って帰っていった。喜助はその背中を、店の奥から見送った。何万回とくり返してきた見送りだった。あの子らはいつも、来て、菓子を選び、小銭を釣り銭箱の縁にちゃりんと置いて、そして帰っていく。この店は、来る場所であると同時に、帰る場所だった。子らはここから、それぞれの家へと帰っていく。喜助はいつも、その出発点に立っていた。

寿屋は、喜助の父が始めた店だった。

戦争の終わったあくる年、まだ町のあちこちに焼け跡の匂いが残っていたころ、父は闇市で仕入れた飴玉を、木箱に並べて売り始めた。ろくに包み紙もない飴だった。それでも子らは集まってきた。甘いものが、この世でいちばん貴重だった時代だ。喜助はそのころ十二だった。父の横で、飴を数えたり、釣り銭を数えたりした。

やがて店は少しずつ形をととのえ、木箱は棚になり、棚は壁一面になった。ラムネ、きなこ棒、酢だこさん、よっちゃんイカ、麩菓子、当たりつきの飴。ガラス瓶に入った金平糖は、西日を受けると宝石のように光った。喜助は、その光を見るのが好きだった。

父が死んだのは、喜助が三十のときだった。そのまま、喜助が店を継いだ。妻をもらい、子を一人授かったが、その子は独立して東京へ行き、盆と正月に帰ってくるほかは、めったに顔を見せなくなった。妻は十年前に先立った。それからは、喜助はひとりで店を守ってきた。

守る、というほど大げさなことはしていない、と喜助は思う。ただ、毎朝、暖簾を出して、駄菓子を並べて、子らを迎え、そして見送る。それだけのことだった。それだけのことを、六十年つづけた。

けれど、続けることが、いちばんむずかしいのだと、この歳になってやっとわかった。

閉めることを決めたのは、この春だった。膝がわるくなって、朝の仕込みがつらくなった。仕入れの問屋も、一軒、また一軒と、店をたたんでいった。近ごろの子は、コンビニで菓子を買う。それでも寿屋に来てくれる子は、まだいたけれど、その数は、年ごとに、静かに減っていった。息子は、電話で、何度も言った。父さん、もう歳なんだから、無理をしないでくれ、と。喜助にも、わかっていた。潮どきというものが、この世にはある。引き際を、みずから選べるのは、しあわせなことだ、と、喜助は自分に言い聞かせた。

それでも、閉めると決めた日から今日まで、喜助は毎朝、暖簾を出しつづけた。最後の一日まで、いつもどおりに。閉店の張り紙も、大げさな貼り紙も、しなかった。ただ、いつものように店を開け、いつものように、子らを迎えた。別れというものは、あまり大げさにしないほうがいい、と喜助は思っていた。夕焼けが、誰に告げるでもなく、静かに藍へ移ろうように。それが、いちばん、この店にふさわしい閉じ方だった。

夕方、四時をまわると、子らがどっと来た。

学校帰りの、いちばんにぎやかな刻だ。ランドセルを店先に放り出して、上がりかまちに腰かけ、あれがいい、これがいいと騒ぐ。喜助はいつものように、片手を腰にあてて、その様子を眺めていた。今日で閉める、という話は、もうたいていの子が知っていた。

「じいちゃん、ほんとにやめちゃうの」

「ほんとにやめちゃうの、ってお前、何べん訊くんだ」

「だってさ」

だってさ、のあとが続かない。子らは、別れというものを、まだうまく言葉にできない。ただ、いつもより少し多めに菓子を選び、いつもより少し長く店に居た。喜助は、それをそっとしておいた。

一人の女の子が、なけなしの小遣いを、ぜんぶ使って、駄菓子を買いこんでいた。ふだんなら、五十円か、百円で帰る子だ。今日は、二百円、三百円と、あれもこれもと籠に入れた。閉まっちゃうから、いっぱい買っておくの、と、その子は言った。喜助は、その子の籠を見て、胸が詰まった。閉まっちゃうから。子どもなりの、精いっぱいの、別れのしかただった。喜助は、その子に、麩菓子を一本、そっとおまけした。

「そんなに買わなくていいんだよ」と、喜助は言った。「菓子は、なくなっても、また、どこかで買える。だけど、無理して、いっぺんに食べたら、腹をこわす。すこしずつ、大事に、食べな」

女の子は、うなずいた。それから、ふと、真顔になって、訊いた。

「じいちゃんは、お店がなくなったら、どこに行くの」

喜助は、少し、返事に困った。それから、笑って言った。

「じいちゃんも、家に帰るのさ。お前らと、おんなじだ。日が暮れたら、みんな、家に帰る。それだけのことだよ」

女の子は、その返事に、納得したような、しないような顔をして、菓子の籠を、大事そうに抱えて、帰っていった。日が暮れたら、みんな、家に帰る。それだけのことだ。喜助は、自分の言った言葉を、胸のなかで、もう一度、くり返した。それだけのこと。けれど、その「それだけのこと」が、人には、いちばん、こたえるのだった。

三十円のふがしを買った女の子が、釣り銭箱の縁に十円玉を三つ、ちゃりんと置いた。その音を、喜助は聞くともなしに聞いた。何十年と聞いてきた音だ。子らが小銭を置く、あの澄んだ音。あの音が、この店の心臓の鼓動だった。

喜助の釣り銭箱は、木でできた、古い引き出し式のものだった。父の代から使ってきたものだ。角がすり減って、飴色に光っていた。子らは、この釣り銭箱に、小銭を置くのが好きだった。じかに喜助の手に渡すのではなく、箱の縁に、ちゃりん、と置く。その音がおもしろいのだ。なかには、わざと高いところから落として、いい音を立てようとする子もいた。喜助は、それを叱らなかった。あの音は、この店の、ささやかな音楽だった。

今日、喜助の耳に入る、その音の一つ一つが、いつもより、澄んで聞こえた。もう聞けなくなる音は、なぜ、こんなにも澄んで聞こえるのだろう。喜助は、ふがしの子の背中を見送りながら、その音を、胸の奥に、そっとしまった。

上がりかまちでは、男の子が二人、めんこの取り合いをしていた。三年生くらいの子らだ。喜助は、その子らのことを、赤ん坊のころから知っていた。母親が、ねんねこにくるんで、この店に飴を買いに来ていた。それが、今では、こんなに大きくなって、めんこで喧嘩をしている。時というものは、この店の板の間の上を、そうやって、流れていった。子らは大きくなり、店を出て、そのまた子らを、この店に連れてきた。喜助は、その流れの、ちょうどまんなかの、動かない石のように、ここに立ちつづけてきた。

「じいちゃん、これ、なに」

一人の男の子が、釣り銭箱のわきを指さした。そこには、青いマッチ箱が一つ、置いてあった。

「ああ、それは」

喜助は、少し口ごもった。それは、月光堂の青いマッチだった。

二

月光堂の青いマッチのことを、喜助はふしぎと今でもよく覚えている。

あれは、いつのことだったか。妻が生きていたころだから、もう十五年、いや、二十年は前になる。ある晩――それも、ちょうど今日のような、店じまいの近い夕暮れどきだった――喜助は用があって、隣町へ出かけた。仕入れの相談だったか、寄合だったか、細かいことはもう忘れた。ただ、帰りが遅くなって、日が暮れきってしまった。

その帰り道のことだ。いつもの筋を一本まちがえたのか、それとも近道をしようとしたのか、喜助は見なれない横丁に迷いこんだ。古い塀と塀のあいだの、細い路地だった。そこに、一軒の店が灯をともしていた。

古本屋だった。

軒に、小さな木の看板がかかっていた。「月光書房」と、墨で書いてあった。喜助は本を読む質ではなかったが、その灯りに、なぜか吸い寄せられるように入っていった。店のなかは、古い紙の匂いで満ちていた。天井まで届く棚に、背表紙の色あせた本がぎっしりと詰まっていて、通路は人ひとりがやっと通れるほどしかなかった。

奥に、痩せた店主がいた。歳のころはわからない。若いようにも、ずいぶんな老人のようにも見えた。その店主が、喜助のほうを見て、静かに言った。

「お帰りですか」

おかしな挨拶だと、喜助は思った。まるで、喜助がここへ来たことがあるかのような言い方だった。喜助は曖昧にうなずいて、棚のあいだをひとまわりした。本のことはわからなかったが、その静けさは心地よかった。日が暮れて、店じまいの近い、あの寿屋の夕暮れの静けさに、どこか似ていた。

帰りぎわ、喜助が何も買わずに出ようとすると、店主は釣り銭でも渡すように、小さなものを差し出した。

「これを」

青いマッチ箱だった。深い、藍にちかい青。箱の側面には、細い金色の線で、三日月と、尾を引く星のようなものが描いてあった。

「月光堂のマッチです。よい夜には、これで灯りを」

喜助は、礼を言って受け取った。よい夜、というのがどういう夜のことか、そのときはわからなかった。マッチなど、店にいくらでもある。けれど、そのマッチ箱は妙に手になじんで、喜助はそれを、寿屋の釣り銭箱のわきに置いた。以来、二十年、それはずっとそこにある。

ふしぎなことに、喜助はそのあと、二度と月光書房を見つけられなかった。

何度か、あの横丁を探して歩いた。近道をしたつもりの、あの細い路地。けれど、どう歩いても、あの古本屋にはたどり着けなかった。塀と塀のあいだに、そんな店の入る隙間などなかった。まるで、あの夜だけ、路地のすきまに、ほんの一晩だけ、あの店が現れていたかのようだった。

妻にその話をすると、妻は笑って、「あなた、疲れてたんでしょう」と言った。それきり、喜助もその話をしなくなった。けれど、青いマッチ箱は、たしかに手もとにある。夢ではない。

あのころ、妻は、まだ元気だった。喜助が仕入れに出ているあいだ、店番をしてくれた。妻は、子らに人気があった。喜助よりも、ずっと。喜助は無口で、いつも仏頂面をしていたが、妻は、子の一人一人に、名を呼んで話しかけた。あんた、きょうは元気がないね。何かあったのかい。妻がそう訊くと、子らは、ぽつりぽつりと、学校であったことや、家であったことを、話しはじめる。妻は、それを、うんうん、と聞いてやった。この店は、菓子を売る場所であると同時に、子らが、ちいさな胸のうちを、こっそり打ち明ける場所でもあった。

妻が死んだあと、喜助は、その役目を、うまくは継げなかった。無口な喜助には、子に話しかけるのは、むずかしかった。それでも、喜助なりに、子らを見ていた。今日は元気がないな、と思う子には、飴を一つ、おまけしてやった。言葉のかわりに、飴を。子らは、その飴の意味を、なんとなく、わかっているようだった。じいちゃん、ありがとう、と言うときの、その子らの顔が、喜助には、たまらなくいとおしかった。

「夜に現れて、朝には消える古本屋があるって、聞いたことがある」

いつだったか、店に来た年寄りの客が、そんなことを言っていた。「月光書房っていうんだと。帰り道に迷ったやつだけが、たまに行き当たるんだと。買った本は、夜が明けると、白紙になってるって話だがね」

喜助は、そのマッチのことは言わなかった。ただ、そうかい、と相槌を打った。白紙になる本のことは知らないが、マッチは今もちゃんと青いままだ。ときどき、喜助はそれを手にとって、金色の三日月と星を眺めた。眺めていると、あの夜の、店じまいの近い夕暮れの静けさが、胸によみがえった。

「お帰りですか」

あの店主の言葉を、喜助はときどき思い出す。あれは、挨拶ではなかったのかもしれない。人はみな、どこかへ帰る途中なのだ、と、あの店主は言いたかったのかもしれない。子らが寿屋から家へ帰るように。陽が西の空へ帰るように。喜助自身も、いつか、どこかへ帰る途中の一人なのかもしれなかった。

三

「これ、開けていい?」

男の子が、青いマッチ箱に手を伸ばそうとした。

「よしなさい」

喜助は、思っていたよりも強い声で言ってしまった。子は、びくりとして手を引っこめた。喜助はすぐに声をやわらげた。

「それは、大事なマッチでね。お前らには、まだ早い」

「火、あぶないもんね」

「そうだ。火はあぶない」

火はあぶない、と言いながら、喜助はふと思った。今夜、店じまいのあとで、この店の灯りを、あのマッチで灯してみようか、と。よい夜には、これで灯りを。あの店主はそう言った。今夜が、よい夜かどうかはわからない。けれど、寿屋の最後の夜だ。灯りを一つ、灯すには、ふさわしい夜かもしれなかった。

子らは、めいめいに菓子を買って、少しずつ帰っていった。

「じいちゃん、ばいばい」

「ああ、気をつけてな」

「またね」

またね、と子は言った。またね、と。喜助は、その言葉に、うんとうなずいた。またね、はもう来ないのだ、と、その子はまだ知らない。あるいは、知っていて、それでも言ったのかもしれない。別れの言葉は、いつだって、少し嘘を含んでいる。それでいい、と喜助は思う。またね、と言って別れられるのは、しあわせなことだ。

だんだんと、店先の子の数が減っていった。

一人、また一人と、ランドセルを背負って帰っていく。その背中を、西日が朱く染めた。子らの影が、店先の道に長く伸びて、まるで別れを惜しむように、いつまでも道に残った。喜助は、その一つ一つを、店の奥から見送った。何万回とくり返してきた見送りの、これが最後の見送りだった。

最後に残ったのは、小さな女の子だった。

たしか、三丁目の子だ。名前は――みっちゃん、と言ったか。まだ幼稚園にあがったばかりの、いつも姉に手を引かれて来る子だった。今日は、なぜか一人だった。ちんまりと上がりかまちに腰かけて、掌のなかの、たった十円玉を一つ、じっと見つめていた。

「どうした。何が欲しいんだ」

喜助が訊くと、みっちゃんは、棚のいちばん下の、五円の当たり飴を指さした。

「これ」

「当たり飴か。お前、当たりが出たら、もう一本もらえるんだぞ。知ってるか」

みっちゃんは、こくりとうなずいた。喜助は、飴を一つ、みっちゃんの掌にのせてやった。みっちゃんは、器用に包み紙をむいて、それを口にふくんだ。それから、飴の棒の先を、じっと見た。当たりか、はずれか、それは飴を舐めきったあとの棒に、小さく印字してある。

「当たり、出るかな」

「さあな。出るといいな」

みっちゃんは、飴を舐めながら、ゆっくりと店のなかを見まわした。まるで、この店のことを、目に焼きつけようとするみたいに。幼い子だから、そんな殊勝な考えがあるはずもない。けれど、喜助には、そんなふうに見えた。ガラス瓶の金平糖が、西日を受けて、きらきらと光っていた。みっちゃんの黒い瞳に、その光が映っていた。

やがて、みっちゃんは飴を舐めきって、棒を喜助に見せた。

「じいちゃん、これ、なんて書いてある?」

喜助は、老眼鏡を鼻の先にずらして、その棒を見た。小さな字で、「はずれ」と、たしかに書いてあった。

けれど、喜助は言った。

「当たりだ」

みっちゃんの顔が、ぱっと明るくなった。喜助は、もう一本、当たり飴をとって、みっちゃんの掌にのせてやった。

「よかったな。当たりだ」

嘘だった。長い商いのなかで、喜助がついた、たった一つの、小さな嘘。けれど、その嘘を、喜助は悔いなかった。最後の客の、最後の一本くらい、当たっていいではないか。

みっちゃんは、二本目の飴を大事そうに握って、上がりかまちから飛び降りた。

「じいちゃん、ありがとう」

「ああ。気をつけて帰りな。もう暗くなる」

みっちゃんは、店を出て、二、三歩あるいて、それから、くるりとふり返った。

「じいちゃん、あした、また来るね」

喜助は、うなずいた。うなずいて、それから、言葉が出なかった。あした、また来るね。その言葉に、喜助はただ、片手を上げて応えた。みっちゃんは、その手にむかって、ちいさく手をふり返し、そして、朱く染まった道を、家のほうへと駆けていった。

その背中が、角を曲がって見えなくなるまで、喜助は見送った。

これで、店じまいだった。

四

暖簾を仕舞った。

藍地に「寿」と染め抜いた、あのすり切れた暖簾を、竿からそっと外して、たたんだ。何十年、毎晩くり返してきた所作だった。けれど、明日からは、もうこの暖簾を出すことはない。喜助は、たたんだ暖簾を胸に抱えて、しばらく店先に立っていた。

西の空は、いつのまにか、茜色に染まっていた。

夕焼けというのは、日によって色がちがう。朱の勝った日もあれば、金の勝った日もある。今日は、茜だった。深い、しみじみとした茜色が、屋根々々のむこうに、ゆっくりと沈んでいこうとしていた。その空を、喜助は、暖簾を抱えたまま、じっと見た。六十年、この空を見てきた。子らを見送るとき、いつも、この茜の空が背景にあった。

やがて、喜助は店のなかへ戻り、灯りをつけた。

裸電球が、ぽっと灯って、駄菓子の棚を照らした。夕闇が迫るにつれ、店のなかはいっそう、あの匂いで満ちていた。飴の甘い匂い、麩菓子の香ばしい匂い、駄菓子屋という場所の、あの、なつかしい匂い。この匂いも、明日にはもう、薄れていくのだろう。喜助は、その匂いを、胸いっぱいに吸いこんだ。

品物を、片づけはじめた。

一つ一つ、棚から下ろして、木箱に詰めていく。ラムネの瓶。きなこ棒の束。当たりつきの飴。ガラス瓶の金平糖。手にとるたびに、それを買っていった子らの顔が、次々と浮かんだ。この飴を好きだった子。この菓子を、いつも大事そうに握って帰った子。もう大人になって、この町を出ていった子。なかには、もうこの世にいない者もいるだろう。

喜助の手が、ふと止まった。

上がりかまちの隅に、小さなものが落ちていた。手にとってみると、それは、片方だけの、子どもの手袋だった。赤い毛糸の、ちいさな手袋。指の先が、少しほつれていた。

いつの忘れ物だろう。今日の子らの、誰かのものか。それとも、もっと前からここにあったのか。喜助には、わからなかった。片方だけの手袋。もう片方は、どこにあるのだろう。落とした子は、家に帰ってから、片方だけになった手袋に気づいて、泣いたかもしれない。あるいは、気づきもしなかったかもしれない。

喜助は、その手袋を、しばらく掌にのせて眺めた。

子どもというのは、いつも何かを忘れていく。手袋、ハンカチ、めんこ、ビー玉。この店には、そういう忘れ物が、いつのまにかたまった。喜助はそれを、店の奥の箱にとっておいた。いつか、あの子が取りにくるかもしれない、と思って。けれど、たいていの忘れ物は、取りにこられなかった。子らは、忘れたことすら、忘れて、大きくなっていく。

それでいい、と喜助は思う。忘れられるほど、この店が、あたりまえの場所だったということだ。空気のように、あってあたりまえの場所。子らが、何も気にせず、手袋の一つも落としていける場所。そういう場所だったのなら、この店は、その役目を、じゅうぶんに果たしたのだ。

喜助は、その赤い手袋を、木箱のいちばん上に、そっと置いた。

手袋を見ていると、喜助は、遠い昔の、一つの光景を思い出した。喜助の息子が、まだ小さかったころのことだ。冬の夕暮れ、幼い息子が、この店の板の間で、片方だけの手袋を握って、べそをかいていた。もう片方を、どこかで落としてきたのだ。喜助は、忙しさにかまけて、ろくに相手をしてやれなかった。妻が、息子を抱いて、なだめていた。だいじょうぶ、明日、いっしょに探しにいこうね、と。

けれど、結局、もう片方の手袋は、見つからなかった。その冬、息子は、片方だけの手袋で、過ごした。喜助は、そのことを、長いあいだ、忘れていた。今、この赤い手袋を手にして、ふいに、それを思い出した。あのとき、もっと、息子の手を、握ってやればよかった。忙しさなど、あとから思えば、なんということもなかったのに。喜助は、片方だけの手袋を、もう一度、そっと撫でた。もう、遠くへ行ってしまった、あの日の、幼い手のぬくもりを、たしかめるように。

いつか、この赤い手袋を落とした子も、大人になって、ふとした夕暮れに、思い出すのだろうか。片方だけになった、赤い手袋のことを。そして、それを落とした、駄菓子屋のことを。喜助には、わからなかった。ただ、この手袋を、捨てることは、どうしても、できなかった。

木箱は、いくつにもなった。喜助は、その一つ一つに、油性の筆で、中身を書きつけた。飴。ラムネ。麩菓子。めんこ。書きながら、喜助は、これらの品物が、これから、どこへ行くのだろう、と思った。息子は、いくらか、記念に取っておけばいい、と言っていた。残りは、引き取り手を探すか、処分するか。処分、という言葉を、喜助は、口にしたくなかった。この飴の一粒一粒が、子らの、あの、うれしそうな顔を、生んできたのだ。それを、ごみのように捨てることは、喜助には、できそうになかった。

けれど、ものには、いつか、おわりが来る。人にも、店にも、品物にも。永遠につづくものなど、この世には、一つもない。夕焼けが、必ず、藍に沈むように。喜助は、そのことを、この歳になって、ようやく、静かに、受け入れられるようになっていた。おわりがあるからこそ、一日の、ひとときの光が、あんなにも、美しいのだ。おわりがあるからこそ、子らの、あの一瞬の笑顔が、あんなにも、いとおしいのだ。

品物を、あらかた片づけおえたころ、喜助は、ふと外の気配に気づいた。

店の戸口から、外を見た。もう、すっかり日が暮れかけていた。茜色は、いつのまにか、朱に、そして藍へと移ろいはじめていた。西の空の低いところに、まだ茜の名残があったが、その上には、もう夜の藍が広がりはじめていた。

そして、その茜と藍のあわいに、一つ、星が光っていた。

宵の一番星――と、喜助は思った。けれど、それは、ふつうの星とは、少しちがった。ふつうの一番星は、金色に、あるいは白く光る。けれど、その星は、蒼かった。深い、澄んだ、蒼い色。そして、よく見ると、その星は、細く、蒼い尾を引いていた。

彗星だ、と喜助は気づいた。

いつだったか、新聞で読んだ。何十年に一度、めぐってくる彗星があるのだと。ミラ彗星、という名だった。その彗星が、今宵、この茜の空に、ちょうど現れたのだ。宵の一番星のように、けれど、蒼い尾を引いて。

喜助は、店先に出て、しばらくその星を見上げた。

蒼い尾を引く星は、茜の名残と、夜の藍のあわいに、ひっそりと光っていた。それは、去っていくもののように見えた。長い旅の途中で、ほんのいっとき、この空に現れ、そしてまた、どこか遠くへ帰っていく。何十年ものあいだ、暗い宇宙をわたって、また何十年もかけて、去っていく。喜助は、その星に、なぜか、深く胸を打たれた。

星も、帰る途中なのだ。

子らが家へ帰るように。陽が西の空へ帰るように。あの月光書房の店主が言ったように――人はみな、いや、星さえも、どこかへ帰る途中なのだ。この寿屋も、六十年のあいだ、この町に現れて、そして、今夜、去っていく。ミラ彗星が、蒼い尾を引いて空をわたるように。

喜助は、その星に、そっと頭を下げた。

五

店のなかに戻ると、喜助は、釣り銭箱のわきの、青いマッチ箱を手にとった。

よい夜には、これで灯りを。

あの店主の言葉が、耳によみがえった。今夜こそ、あのマッチを使うべき夜だ、と喜助は思った。寿屋の、最後の夜。ミラ彗星が、六十年ぶりに空をわたる夜。これ以上、よい夜が、どこにあるだろう。

喜助は、店の奥から、古い燭台を出してきた。妻が生きていたころ、仏壇に使っていた、真鍮の燭台だ。そこに、蝋燭を一本立てた。それから、裸電球の灯りを、ぱちりと消した。

店のなかが、闇になった。

戸口から、わずかに、外の藍色の光が射しこむだけだった。喜助は、青いマッチ箱を開けた。なかには、軸の赤い、古いマッチが、まだ幾本も残っていた。二十年、一本も使わずにきたマッチだ。喜助は、その一本を、そっと取り出した。

箱の側面で、擦った。

しゅっ、と音がして、火がついた。

その火は――ふしぎな火だった。ふつうのマッチの火は、朱く、あたたかい色をしている。けれど、そのマッチの火は、ほんのりと、蒼みを帯びていた。まるで、あのミラ彗星の色を、そのまま、この小さな火に移したかのように。喜助は、はっとして、その火を見つめた。蒼い火は、静かに、ゆらめいていた。

喜助は、その火を、蝋燭に移した。

蝋燭に火が灯ると、店のなかが、ぼうっと明るくなった。裸電球の、あの無遠慮な明るさとはちがう、やわらかな、揺れる灯り。その灯りのなかで、駄菓子の棚も、木箱も、上がりかまちも、みな、なつかしい影をおとした。喜助は、その灯りのなかに、六十年の歳月を見た。

灯りは、ゆっくりと揺れて、店のあちこちに、影を落とした。棚の影、瓶の影、そして、喜助自身の、長く伸びた影。その影が、店の奥の壁で、ゆらゆらと揺れていた。喜助は、その影を見て、ふと、父のことを思った。この店を始めた、あの父。焼け跡の匂いのなかで、木箱に飴を並べた、あの父も、こんなふうに、蝋燭の灯りのなかで、店じまいの片づけをしたことがあったろうか。戦後の、電気もろくにない時代だ。きっと、あったにちがいない。喜助は、父と同じ所作を、今、くり返しているのだった。六十年の時をへだてて、父と喜助の影が、この壁の上で、そっと、重なるようだった。

そして、その父の影のむこうに、喜助は、もっと遠い者たちの影も見た。この店を訪れた、すべての子らの影。小さな影、大きな影。もう大人になった影、もうこの世にいない影。それらが、みな、この蝋燭の灯りのなかに、集まってきているような気がした。喜助を、迎えにきたのではない。喜助を、見送りにきたのだ。長いあいだ、この店で、彼らを見送りつづけた、この老店主を、こんどは、彼らが、見送ろうとしているのだった。

灯りのなかで、喜助は、上がりかまちに腰をおろした。

いつも、子らが腰かけた、あの上がりかまちだ。喜助は、そこに腰かけて、店のなかを、ゆっくりと見まわした。片づけおえた棚。空になったガラス瓶。木箱に詰められた品物。そして、その箱のいちばん上の、あの赤い、片方だけの手袋。

蝋燭の灯りが、ゆらゆらと揺れて、その手袋を照らしていた。

喜助は、目を閉じた。

すると、耳の奥で、なつかしい声が聞こえた気がした。子らの声だ。あれがいい、これがいい。じいちゃん、当たり出た。じいちゃん、ばいばい。またね。あした、また来るね。何十年ぶんの、子らの声。それが、店のなかに、いっぱいに満ちているような気がした。喜助の膝の上を、幻の子らが、行き交うような気がした。

やがて、喜助は、低い声で、うたいはじめた。

眠れ、眠れ、星が海をわたるまで――

それは、子守唄だった。喜助が幼いころ、母がうたってくれた唄。そして、喜助が、自分の子に、うたってやった唄。妻が、その子に、うたってやった唄。眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。喜助は、その唄を、この店のために、うたった。六十年、子らを迎え、見送ってきた、この店のために。

眠れ、眠れ、と喜助はうたった。

星が海をわたるまで。ミラ彗星が、蒼い尾を引いて、夜の海をわたっていくまで。眠れ、眠れ。この店も、もう、眠るがいい。長い、長い商いを終えて、静かに、眠るがいい。

うたいおえると、喜助の頬を、一すじ、涙がつたった。

朝から、あんなに落ちついていたのに。人前では、一度も涙を見せなかったのに。今、誰もいない、蝋燭の灯りのなかで、喜助は、ようやく泣くことができた。それは、悲しみの涙ではなかった。もっと、深い、あたたかいものだった。感謝の涙、と言ってもよかった。六十年、ありがとう。この店に、この場所に、この匂いに、ここを訪れたすべての子らに。ありがとう、と喜助は、心のなかで言った。

喜助は、袖で、涙をぬぐった。それから、もう一度、店のなかを見まわした。蝋燭の灯りに照らされた、がらんとした棚。その空っぽの棚が、なぜか、喜助には、いっぱいに満ちて見えた。目に見えるものは、もう何もない。けれど、目に見えないものが、この店には、あふれるほど、詰まっていた。六十年ぶんの、子らの声。笑い声。泣き声。ちゃりん、という小銭の音。あれがいい、これがいい、という声。じいちゃん、またね、という声。それらが、この店の壁に、床に、天井に、しみこんでいた。この店を取り壊しても、その声だけは、消えないだろう、と喜助は思った。声は、この場所の空気に、飴の匂いのように、しみついているのだから。

蝋燭の灯りが、ふと、大きく揺れた。戸口の隙間から、夜風が入ってきたのだ。その風に、喜助は、誰かの気配を感じた気がした。妻だろうか。父だろうか。それとも、あの月光書房の店主だろうか。喜助は、闇にむかって、そっと、うなずいた。もう少しだ。もう少しで、店じまいが、おわる。それまで、もう少しだけ、この灯りのそばに、いさせてくれ。

どれほど、そうしていただろう。

蝋燭が、半分ほど短くなったころ、喜助は、ふと立ち上がった。もう、夜も更けてきた。そろそろ、帰らなければ。喜助は、この店の二階に、長く住んでいた。けれど、今夜からは、駅の向こうの、息子が用意してくれた小さなアパートへ移ることになっていた。荷物は、もう、あらかた運んである。今夜が、この店で過ごす、最後の夜だった。

喜助は、もう一度、店のなかを見まわした。

蝋燭の灯りが、静かに揺れていた。その揺れる灯りのなかで、喜助は、あの青いマッチ箱を、そっと、木箱のいちばん上に置いた。あの、赤い片方の手袋の、すぐ隣に。マッチ箱の金色の三日月と星が、蝋燭の灯りを受けて、ちらりと光った。

このマッチは、この店に残していこう、と喜助は思った。

いつか――もし、この店が取り壊されずに、誰かの手にわたることがあったら。あるいは、もし、あの月光書房のように、この寿屋も、夜ごと、路地のすきまに、ほんの一晩だけ、現れるようなことがあったら。そのとき、このマッチが、また、誰かの灯りになればいい。よい夜には、これで灯りを。喜助は、あの店主の言葉を、こんどは自分が、この店に手わたすような気持ちで、マッチ箱を置いた。

そして、喜助は、蝋燭を、ふっと吹き消した。

店のなかが、また、闇になった。

けれど、その闇は、もう、寂しい闇ではなかった。蝋燭の消えたあとの、ほのかな煙の匂いのなかに、あの飴の甘い匂いが、まだ、たしかに残っていた。喜助は、その闇のなかで、しばらく、目を閉じて立っていた。それから、そっと、戸口へ向かった。

六

戸を閉めて、外に出た。

夜は、すっかり藍色に染まっていた。西の空の、あの茜の名残も、もう、すっかり消えていた。かわりに、無数の星が、藍色の空に、こまかく光っていた。そして、その星々のなかに、あの蒼い星が――ミラ彗星が、まだ、蒼い尾を引いて、光っていた。少しずつ、位置を変えながら、それは、夜の海を、わたっていくところだった。

喜助は、戸口に、鍵をかけた。

かちり、と、乾いた音がした。六十年、毎晩かけてきた鍵。けれど、今夜の鍵は、いつもとちがった。明日、この鍵を開けることは、もう、ない。喜助は、その鍵を、掌のなかに、しばらく握りしめた。それから、そっと、上着の内ポケットに、しまった。

寿屋の、暗い店先を、喜助は、しばらく見上げた。

暖簾のなくなった、がらんとした軒。すり切れた「寿」の字は、もう、そこにない。けれど、喜助の目には、まだ、あの藍地の暖簾が、風に揺れているように見えた。子らが、その暖簾をくぐって、店に入ってくる。菓子を選び、釣り銭箱に小銭を置き、そして、帰っていく。じいちゃん、ばいばい。またね。あした、また来るね。

喜助は、その幻の子らに、そっと、片手を上げた。

いつも、子らを見送るときの、あの片手だった。何万回とくり返してきた、見送りの片手。けれど、今夜は、喜助のほうが、見送られる番だった。この店に。この場所に。六十年、喜助を、この町の隅に立たせてくれた、この小さな駄菓子屋に。

「ありがとうな」

喜助は、店に向かって、そう言った。声に出して、言った。

「達者でな」

それは、いつも、子らに言っていた言葉だった。達者でな。気をつけて帰りな。喜助は、その言葉を、こんどは、この店にむかって、言った。まるで、この店もまた、一人の、大切な子であるかのように。長いこと、喜助のそばにいて、そして、今夜、それぞれの帰る場所へと、向かっていく、一人の子であるかのように。

歩きだすと、喜助の足もとに、影が伸びた。

街灯の下を通るたびに、影は、伸びたり、縮んだりした。喜助は、その影とともに、駅のほうへと、ゆっくりと歩いた。夜風が、頬に冷たかった。上着の内ポケットのなかで、店の鍵が、こつり、と鳴った。

この道を、喜助は、何千回、歩いたろう。仕入れに行くとき。寄合に出るとき。妻を病院へ運ぶとき。妻を、見送ったとき。この道は、喜助の人生の、あらゆる場面に、いつも、あった。いま、その道を、喜助は、寿屋を閉じて、歩いている。道は、いつもと同じだった。街灯の位置も、塀のかたちも、みぞの音も、いつもと同じ。ただ、喜助の胸のうちだけが、いつもとちがった。がらんとして、それでいて、いっぱいに満ちていた。

角の、小さな地蔵の前で、喜助は、いちど、足を止めた。この地蔵にも、喜助は、長いこと、手を合わせてきた。子らが、無事に育ちますように。この店が、つつがなく、つづきますように。喜助は、その地蔵に、こんどは、ちがう願いを、そっと、告げた。この店を訪れた、すべての子らが、それぞれの帰る場所で、しあわせでありますように。そして、この店のことを、忘れてしまっても、いいから、どうか、達者で。喜助は、そう祈って、また、歩きだした。

途中、喜助は、一度だけ、ふり返った。

寿屋は、もう、夜の闇に沈んで、ただ、黒い影として、そこにあった。けれど、喜助には、その影が、あの月光書房の影と、ふしぎと、重なって見えた。夜に現れて、朝には消える古本屋。帰り道に迷った者だけが、たまに行き当たる店。もしかしたら、この寿屋も、これから、そういう店になるのかもしれない。夜ごと、この町のどこかに、ほんの一晩だけ現れて、道に迷った子どもたちを、迎え入れるのかもしれない。

そんなことは、あるはずがない、と喜助は思う。けれど、あってほしい、とも、思った。

空を見上げると、ミラ彗星は、もう、だいぶ西へ傾いていた。蒼い尾は、少しずつ、薄れながら、それでも、まだ、けなげに光っていた。それは、まるで、遠い旅の途中で、この町を通りすぎていく、旅人のようだった。何十年もかけて空をわたり、そして、また何十年もかけて、去っていく旅人。喜助は、その旅人に、心のなかで、また、そっと片手を上げた。

達者でな、と喜助は、その蒼い星にも、言った。

駅の灯りが、見えてきた。

喜助は、歩みを止めて、もう一度、空を見上げた。ミラ彗星は、もう、屋根の影に、半分、隠れかけていた。あと少しで、あの蒼い星も、見えなくなるだろう。そして、明日には、また、いつもの空にもどっているだろう。彗星が現れたことも、寿屋が閉じたことも、この町の、ほとんどの人は、気づかないまま。

けれど、それでいい、と喜助は思った。

大切なものは、たいてい、静かに、去っていく。花火のように、派手に消えるのではなく、夕焼けが藍に移ろうように、宵の一番星が朝の光にとけるように、ゆっくりと、静かに。そして、去ったあとに、ほのかな匂いだけを、残していく。あの、飴の甘い匂いのように。

喜助は、上着の襟を、少し立てた。

そして、駅の灯りにむかって、また、歩きだした。その足どりは、意外に、軽かった。悲しくないわけではない。けれど、喜助の胸のなかには、悲しみよりも、もっと大きな、あたたかいものが、満ちていた。六十年、子らを見送りつづけた、その見送りの、最後の一つ。それは、この店を見送ることだった。そして、この店に、自分自身を、見送ってもらうことだった。

みっちゃんの、あの声が、ふいに耳によみがえった。

じいちゃん、あした、また来るね。

来なくていい、と喜助は思った。来なくていいんだ、みっちゃん。お前は、前を向いて、家に帰りな。それでいいんだ。この店のことは、忘れてしまっていい。忘れられるほど、あたりまえの場所だったのなら、それが、いちばんの、しあわせだ。ただ、いつか、ずっと大人になって、ふとした夕暮れに、甘い飴の匂いをかいだとき――そのときだけ、ほんの一瞬、この店のことを、思い出してくれたら。それで、じゅうぶんだ。

喜助は、駅の改札を、くぐった。

その背後で、ミラ彗星が、最後にひとつ、蒼くまたたいて、そして、屋根のむこうへ、静かに沈んでいった。夕暮れに現れ、夜を少しだけわたって、また、暗い宇宙の帰路へと去っていく、蒼い星。それを見送る者は、もう、誰もいなかった。けれど、たしかに、それは、そこにあった。この町の、この夕暮れの空に、一度だけ、たしかに、現れたのだった。

飴の匂いは、いつまでも、消えなかった。

この物語にひそむ符牒

ほかの物語と、ひそかに分かち合っているもの:

  • ミラ彗星
  • 月光堂のマッチ
  • 子守唄
  • 月光書房
  • 片方の手袋

十二をつなぐ符牒について →

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