月光書房
戌の刻 ・ 宵 ・ 第 三 話

一二三の灯

赤堀 宵路
市井・人情 ・ 約28頁

赤提灯に火が入るのは、いつも空がまだ半分だけ明るいうちだった。

主人の源三が路地の軒に竿を差し出し、油紙を張った提灯の口をひらいて、月光堂の青いマッチをすっと擦る。硫黄の匂いがひと呼吸だけ立って、蝋燭に橙の芯がともる。提灯はゆっくり温まって、和紙のむこうにまるい灯りをふくらませていく。ほうずきのような、飴を透かしたような、あの色。「一二三」と墨で書かれた三文字が、内側からじわりと浮かびあがる。それを見あげるたび、源三は今日も一日が暮れていくのだと、腹の底でしずかに思うのだった。

宵の口である。西の空にはまだ緋の名残があって、路地の板塀を薄桃に染めているが、それも見ているうちに藍へと吸われていく。家々の窓に、ひとつ、またひとつと灯りがともりはじめる。台所の白い蛍光の灯、茶の間の橙の笠、風呂場のすりガラスに映る黄ばんだ電球。どの灯りのむこうにも、湯気の立つ膳と、帰りを待つ声があるのだろう。それを路地の外から見あげる者にとって、窓明かりというのはいつもすこしだけまぶしい。

源三の店は路地の突きあたりにある。縄暖簾に「一二三」と染めぬいた、間口の狭い小さな居酒屋だった。カウンターが六席、奥に小上がりが一つきり。それ以上は入らないし、それ以上は要らない。源三ひとりで切り盛りしているのだから、これでちょうどよかった。

この路地には、そもそも通りがかりの者などめったに来ない。表通りから一本奥に入って、板塀と板塀のあいだの、猫の通り道のような細い道である。だから源三の店の客は、たいてい、この路地の暮らしに縁のある者ばかりだった。仕事帰りに、ついでのように暖簾を割る者。うちに帰るまえに、ひと呼吸だけ、灯りにあたっていく者。そういう者たちのために、源三は毎晩、提灯に火を入れる。空がまだ半分明るいうちから、火を入れる。それは、まだ帰り着かぬ者たちへの、路地の突きあたりの、ちいさな目じるしだった。

源三は今年で六十八になる。おやじの代からこの店を継いで、かれこれ四十年。手が覚えている仕事ばかりだった。徳利を湯に沈める時分、燗の上がる呼吸、大根に味の染みる晩の数。ことばで説明しろと言われたら、なにも言えやしないが、体はみんな覚えていた。灯りをともし、燗をつけ、煮物を炊く。それだけの毎日を、四十年、くり返してきた。くり返してきて、けれど、飽きるということが、なかった。宵の灯りがともるたびに、源三の胸のなかには、いつも、あたらしいなにかが、しずかに灯った。

一

暖簾を割って最初に入ってきたのは、いつもの新聞屋の若い衆――ではなく、見なれぬ客だった。

グレーの背広に、色のあせた鞄をひとつ提げている。歳のころは四十のなかばか、髪に白いものがまじりはじめ、肩のあたりに一日ぶんの疲れが薄く積もっていた。男は暖簾をくぐるとき、店のなかをそっと窺うようにして、それから遠慮がちに「やってますか」と言った。

「へえ、どうぞ」と源三は答える。「奥はまだ火が回ってませんが、燗ならすぐに」

「じゃあ、燗を。あと、なにか温かいもの」

男はカウンターの端に鞄を置き、ひとつ間をあけた真ん中あたりに腰をおろした。ちょうど、店の柱の陰になる席である。源三は銅の鍋を火にかけ、徳利を湯に沈めた。カウンターの上には、小鉢に盛った煮物がいくつか並んでいる。里芋、大根、こんにゃく、それから焦げ目のついた焼き豆腐。醤油と鰹の匂いが、鍋の湯気にほぐれて店に満ちていた。

灯りは低い。天井から下がる裸電球がひとつと、カウンターの隅にともした行灯がひとつきり。行灯のなかでは小さな豆ランプが揺れていて、その飴色の光がカウンターの木目をなめらかに照らしている。何十年ぶんも布巾で拭きこまれた檜の板は、灯りをうけると水面のように鈍く光った。

徳利を湯に沈めているあいだ、源三はときおり、男のほうをそれとなく窺った。男は鞄を膝のうえに抱えるようにして、それからカウンターの下に置き、また膝にのせ、けっきょく足もとに置いた。落ち着かない手つきだった。鞄の革は、あちこちすり切れて、角が白くなっている。長いこと、毎日、持ちあるいてきた鞄だとわかった。その鞄が、今日はいつもとちがう重さを持っているように、源三には見えた。中身の重さではない。持ち主の、心の重さである。

「お待ちどおさま」

源三は燗のついた徳利と、猪口をひとつ、それから大根の煮たのを小皿にのせて出した。男は徳利を持ちあげ、猪口を満たすと、ひとくち含んで、はあ、と細く息を吐いた。その息のなかに、一日ぶんのなにかが溶けているような吐き方だった。

「うまい」と男は言った。「……染みますね、こういうのは」

「大根は前の晩から炊いてありますんで」

「いや、大根じゃなくて」男はすこし笑った。「灯りが、ですよ。こういう灯りのところで飲むと、ようやく肩の荷がおりる気がする」

源三はなにも言わず、布巾でカウンターを拭いた。こういう客のことは、長年やっていればわかる。急いで打ち解けようとする客ではない。ただ、灯りのそばにいたくて入ってくる客だ。うちの提灯の色が、たまたま今日の心持ちに合ったのだろう。源三はそういう客のためには、ただ黙って、燗の温度をていねいに見てやることにしていた。

しばらく、店には鍋の煮える音だけがあった。ことこと、ことこと。その音は雨だれにも似て、聞いているうちに、なんだか胸のあたりがゆるんでくる。男は猪口をかたむけては、大根に箸をつけ、また猪口をかたむけた。柱の陰の顔は、灯りが半分しか届かないので、明るい半分と翳った半分に分かれていた。

源三は、こういう客の翳を、無理にあかるみへ引きだそうとはしなかった。灯りというものは、押しつけるものではない。ただ、そこにともしておけば、あたりたい者が、みずから寄ってくる。蛾が灯りに寄るように、寒い者が火に寄るように。人の心も、おなじだった。翳った半分を持った客は、明るい半分をこちらに向けて座っている。それでいい、と源三は思った。いつか、話したくなれば、話すだろう。話したくなければ、黙って帰ればいい。うちの提灯は、そのどちらの客も、おなじように、迎えるようにできていた。

男は、二本目の徳利を頼んだ。源三が新しい燗をつけているあいだ、男は行灯の火を、じっと見ていた。豆ランプの、飴色の、ちいさな炎。それが、かすかに揺れるのを、男はまばたきもせず見つめていた。まるで、その揺れる火のなかに、なにか読みとろうとするように。あるいは、その火に、なにか話しかけようとするように。源三は、その横顔を見て、ああ、この客は今夜、なにか話したいことを抱えて来たのだな、と思った。けれど、それを口にする糸口を、まだ見つけられずにいるのだ、と。

二

二人目の客は、勢いよく暖簾を割って入ってきた。

作業着のうえに綿入れの半纏をひっかけた、五十がらみの男である。顔はもう赤い。どこかで一杯ひっかけてきたのだろう。「よう、親父さん、生きてたか」と、あたりまえのように言うところをみると、常連らしかった。

「政さん、あいかわらず声だけは元気だね」と源三は返す。

「元気なもんかい。腰が痛くってな。今日は三軒目、いや五軒だ、コンクリ流したんだよ、朝から。手がまだ震えてやがる」

政と呼ばれた男は、そう言いながら、柱の陰の客とはひとつあけた席にどっかりと腰をおろした。「熱いの、いっぽん。それと湯豆腐くれや、湯豆腐。あと、その、煮こごりみてえなやつ」

「煮こごりはねえよ。焼き豆腐ならある」

「じゃあそれだ」

政はさっそく、隣の――といっても一つあいた――背広の男のほうをちらと見た。見知らぬ顔だとわかると、へえ、というような目をしたが、それ以上は詮索しなかった。下町の酒場というのは、そういうところである。人の顔をじろじろ見ない。けれど、いないものとして扱うわけでもない。ちょうどよい距離を、みなが体で覚えている。

源三は、政のためには、いつもより熱めに燗をつけた。政は熱燗が好きで、ぬるいのを出すと、「親父、これじゃ水だ」と文句を言う。四十年のあいだに、源三は客の好みを、みんな指先で覚えていた。政の熱燗、新聞屋の若い衆のぬる燗、床屋の親方のひやおろし。徳利を湯から引きあげる、そのわずかな呼吸のちがいで、みんなの好みを打ち分ける。それが源三の、ささやかな誇りだった。

政の燗がつくと、彼はそれを手酌でぐいと飲んで、「ふう」と大きく息を吐いた。「今日は冷えるなあ。もう宵になると、すっかり秋だ」

「暦のうえじゃ、とうに秋だよ」

「そうかい。道理で。……おい親父、提灯の火、まだもってるかい。風が出てきたぞ」

源三は暖簾のむこうを覗いた。路地には夜風が通りはじめていて、赤提灯がゆっくりと揺れている。飴色の灯りが右へ左へ、なめらかにこぼれて、板塀に大きな影を投げていた。蝋燭の火は、風にあおられながらも消えずに、まるく息をしている。

「もってる。あれはそう簡単にゃ消えねえよ」

「そうかい。……いい色だなあ、あの色は」政はしみじみと言った。「あの色を見ると、ああ帰ってきたって気がすらあ。うちに帰るまえに、もう帰ってきた気がするんだ。おかしなもんだよ」

背広の男が、そのことばに、ふと顔をあげた。柱の陰から、明るいほうの半分だけがこちらを向いた。彼はなにか言いたげにしたが、けっきょくなにも言わず、また猪口に目を落とした。けれど、その横顔には、政のことばを噛みしめるような、しずかな表情が浮かんでいた。

うちに帰るまえに、もう帰ってきた気がする。――政の、なにげないひとことだった。けれど、背広の男にとっては、それは針のように刺さったのかもしれない。彼のうちにも、灯りはある。帰る家はある。けれど今夜、その男は、うちに帰るのがこわいのだった。帰ってきた気がする、どころではない。帰りたくないのだった。その心のありようと、政のことばとの、あまりの隔たり。それが、男の横顔を、いっそう翳らせているように、源三には見えた。

政は、そんな男の内心にはむろん気づかず、湯豆腐のことでまた源三に文句を言っていた。「親父、豆腐がまだ来てねえぞ。おれは湯豆腐って言ったろうが」「今、あっためてるよ。せっかちだね、政さんは」「せっかちなんじゃねえ、腹がへってんだよ。朝から水しか飲んでねえんだから」そんなやりとりが、店のなかを、ゆるくあたためた。その、なんということもない、下町のやりとりの温もりが、背広の男の、翳った半分を、すこしずつ、あぶりだしていくようだった。

三

三人目は、女だった。

こんな路地の、こんな小さな店に女がひとりで入ってくるのは、めずらしい。暖簾を割ったのは、二十代の終わりか三十のはじめか、事務服のうえにベージュのコートをはおった、目もとの疲れた女だった。手に、封筒だか書類だかの入った大きな紙袋を提げている。

女は入り口で一瞬ためらった。ここに入っていいものかどうか、迷っている顔だった。源三はそれを見てとって、「どうぞ、あいてますよ」と、なるべく気やすい声で言った。カウンターの、いちばん奥の席を、目でしめす。行灯にいちばん近い、暖かい席だった。

「……あの、おひとりでも、大丈夫ですか」

「ひとりのほうが多いくらいですよ、うちは」

女はほっとしたような顔をして、奥の席についた。紙袋を足もとに置き、コートを脱がずに、肩をすぼめるようにして座る。「あの、あったかいお茶みたいなものって……お酒、あんまり強くなくて」

「甘酒がありますよ。今の時期のは、生姜をきかせてあります」

「じゃあ、それを」

源三は土瓶から甘酒を椀にうつし、すりおろした生姜をひとつまみ落とした。白い湯気が、ふわりと立つ。それを女のまえに置くと、女は両手で椀をつつむようにして持ち、しばらくそのぬくもりを手のひらで感じていた。冷えた指が、じわじわとほぐれていくのがわかった。

行灯の飴色の光が、女の顔の輪郭をやわらかくなでている。疲れてはいたが、若い頬だった。その頬に、灯りの色がうっすらと橙をさして、店のなかでいちばん温かいものに見えた。

女の足もとの紙袋からは、書類の角がのぞいていた。表紙に、なにか印刷された文字が見えたが、源三には読めなかった。ただ、その紙袋を、女が入り口で提げていたときの、あの持ち方――肩に食いこむような、けれど手放せないような持ち方――を見て、源三は、この娘さんも一日ぶんの荷を背負って来たのだな、と思った。荷というのは、なにも重い鞄や紙袋のことばかりではない。目に見えない荷のほうが、ずっと重いことが、ある。源三はそれを、四十年、カウンターごしに見てきた。人はみな、目に見えない荷を背負って、この暖簾をくぐる。そして、灯りのしたで、それをそっと、床に置いていく。ひと晩だけ。

「よく冷えたねえ、姉さん」と政が、赤い顔で気やすく声をかけた。「仕事帰りかい」

女はすこし驚いたようだったが、「はい」と小さくうなずいた。「……残業で。今日、締め切りが」

「ご苦労なこったなあ。若い娘が、こんな時間まで」

「いえ、そんな」

「うちの娘なんざ、姉さんくらいの歳んときにゃ、遊びまわってばっかりでよ」政は焼き豆腐をつまみながら、しゃべりたがった。「今はもう嫁にいっちまったけどな。孫がひとり。可愛いもんだよ、孫ってのは。……あ、そうだ、写真あるぞ、写真」

「政さん、姉さんが困ってるよ」と源三が笑った。

「困ってねえよなあ、姉さん」

女は、はじめて、ちいさく笑った。「いえ、見せてください。……かわいい」

政が財布から取りだした、しわのよった一枚の写真。そこには、政に似た丸顔の、二つばかりの子どもが写っていた。行灯の光にかざされたその写真を、女はしばらく見つめ、それから甘酒をひとくちすすった。生姜のあたたかさが、喉から胸へと落ちていく。

「男の子ですか」と女が尋ねた。

「女の子だよ。まあ、この歳じゃ、わかりゃしねえがな」政はうれしそうに言った。「名前は、ひなたっていうんだ。日なたぼっこの、ひなた。あったかい子に育つようにって、娘がつけた。……いい名前だろう」

「いい名前ですね」と女は、ほんとうにそう思って、言った。

「日なたってのはよ」と政は写真をしまいながら言った。「灯りとおんなじだ。あったかいところにゃ、人が寄ってくる。おれのかみさんが、そういう人だったよ。あの人のまわりにゃ、いつも人がいた。近所の子どもも、犬猫まで、あの人のまわりにゃ寄ってきた。……あったかいってのは、そういうことだよな。人を、寄せるんだ」

政はそう言って、しんみりと、猪口をかたむけた。行灯の飴色の光が、その横顔を、あたたかく照らした。けれど、その目のはしには、また、ほんのわずか、翳りがまじっていた。あったかい人だった、と、過去のかたちで語らねばならぬ者の、翳りだった。

四

店の空気が、すこしだけ、ほどけた。

見知らぬ者どうしが、灯りのしたに三人ならんでいる。背広の男、赤ら顔の政、事務服の女。それぞれ、まったくちがう一日を過ごし、まったくちがう荷を背負ってここに来た者たちだった。けれど、赤提灯の色は、そのちがいを溶かしてしまう。いや、溶かすというより、ちがいをちがいのまま、ひとつの灯りのなかに並べて置く、というほうが近いかもしれない。

源三はそういう夜を、これまで幾度も見てきた。宵の灯りには、そういう働きがある。人と人のあいだの壁を、ほんのひととき、透きとおらせてしまうのだ。まるで和紙のように。

「親父さん」と政が言った。「こないだの、ほら、あの新聞屋の若いのはどうした。近ごろ見ねえな」

「ああ、あいつは所帯もったよ。近ごろは、まっすぐ帰るのさ」

「へえ、そりゃめでたい。……めでたいけど、すこしさびしいな」政は苦笑した。「みんな、いつかはまっすぐ帰るようになる。うちに灯りが待つようになると、こういう店にゃ寄らなくなるんだ」

「そういうもんだよ」

「そういうもんかね。……おれなんざ、もうかみさんに先立たれちまったから、まっすぐ帰ったって灯りひとつねえや。だから、ここの灯りが、まあ、うちの灯りみたいなもんでよ」

政はそう言って、からりと笑った。笑ったが、その声のはしに、ほんのわずか、翳りがまじった。赤提灯の色が、彼の赤い頬をいっそう赤く見せていたが、目のあたりだけは、灯りの届かない翳になっていた。

背広の男が、その翳を、じっと見ていた。

そして、しばらく黙っていた男が、はじめて自分から口をひらいた。

「……わたしも、そうです」

三人が、男のほうを見た。

「今日、家に帰りたくなくて」と男は、猪口を見つめたまま言った。「いや、帰る家はあるんですが。……帰ると、話さなきゃいけないことがあって。それが、うまく言えそうになくて。それで、灯りの色に、つい」

男は、そこでことばを切った。言いすぎたと思ったのか、すこしうつむいた。けれど、政も女も、せかすことはしなかった。ただ、灯りのしたで、待った。鍋がことことと鳴った。行灯の火が、しずかに揺れた。その沈黙は、責める沈黙ではなかった。うながす沈黙でもなかった。ただ、そこにいる、という沈黙だった。おなじ灯りのしたに、おなじ宵の刻に、たまたま居あわせた者たちの、あたたかな沈黙だった。

その沈黙に、背中を押されるように、男は、ふたたび口をひらいた。

五

男は、ぽつり、ぽつりと、話しはじめた。

「今日、会社を、辞めることになりまして」

源三は徳利を火から引きあげる手をとめなかった。政も、女も、口をはさまなかった。ただ、灯りのしたで、男の声に耳をかたむけた。

「辞めることに、というより、辞めさせられた、というほうが正しいのかな。二十二年、勤めた会社です。事業所ごと、なくなることになって。年寄りから、順に。わたしはまあ、その年寄りのほうで」

男は自嘲するように、すこし笑った。

「それがね、今日の午後だったんです。上から、そういう話が。そのあと、机を片づけて。長年の荷物ってのは、意外と少ないもんですね。段ボールひとつに、みんな入っちまった。この鞄と、段ボールひとつ。それを持って、夕方の街に出たら、もう、どこにも行くところがないような気がして」

男は、足もとの、すり切れた鞄に目をやった。

「この鞄はね、入社したとき、親に買ってもらったんです。もう二十二年も使ってる。角がすり切れて、みっともないんですが、なんだか買いかえる気になれなくて。……今日、机を片づけながら、思ったんですよ。この鞄と一緒に、二十二年、あの会社に通ったんだなあ、って。雨の日も、風の日も。子どもが生まれた日も、親の葬式のあった日も。この鞄を提げて、あの会社に、通ったんだって。それが、今日で、おしまいだ。明日から、この鞄を提げて、どこへ行けばいいのか、わからない」

男は、猪口をかたむけた。灯りが、酒のおもてに、ちいさく映って揺れた。

「段ボールは、駅のロッカーに、預けてきました。あんなもの、持って街を歩けやしない。中身は、たいしたもんじゃないんです。ペン立てと、湯呑みと、家族の写真と、それから、長年たまった、こまごましたもの。でも、それが、二十二年の、ぜんぶだ。それを、ロッカーに押しこんで、鍵をかけて。……なんだか、自分自身を、ロッカーに押しこんだような気が、しました」

「そりゃあ……」政が、なにか言いかけて、やめた。

「妻には、まだ言ってないんです」と男はつづけた。「言えばいい、それだけのことなんですが。妻はね、心配性で。言えば、青くなって、これからどうするのって、そればっかりになる。子どもも、まだ大学で。ローンも残ってる。……言えば、うちの灯りが、翳ると思うと」

男は甘い里芋を、ひとつ、口に運んだ。ゆっくりと噛んで、飲みこんでから、また話した。

「うちにも、灯りはあるんです。帰れば、妻が晩の支度をして、待ってる。窓に、橙の灯りがついてる。それを外から見ると、いつも、ほっとしたもんです。ああ、あそこがおれのうちだ、って。……でも、今日はね、その灯りを、消しに帰るような気がして。おれの持ってる報せが、あの灯りを消しちまうんじゃないかって。それが、こわくて」

「妻とはね」と男は、すこし遠い目をして言った。「見合いだったんです。若いころ、堅いばかりで、口下手で。友だちの世話で、ようやく所帯を持った。あれが、二十いくつのときだ。それからずっと、妻は、わたしの給金だけで、家をまわしてきた。つましい暮らしでしたが、それでも、ひもじい思いはさせずにきたつもりです。子どもも、大学まで、やった。……それが、わたしの、ひとつの誇りだった。おれは家族を、食わせてきたんだ、って。その、たったひとつの誇りが、今日、なくなった」

男の声が、そこで、すこし、かすれた。

「妻は、なんにも悪くないんです。子どもも。悪いのは、なにもかも、まわりまわった、時勢ってやつでね。会社が、なくなるんだから、しかたがない。頭では、わかってる。でも、この胸のあたりが、どうにも、しくしくして。……妻の顔を、見られない気がするんです。おれはもう、おまえを食わせられないよ、って、その顔を、まっすぐ見て、言える気が、しない。だから、灯りを、消しに帰るような気が――」

男は、そこで、ことばを、のみこんだ。里芋を、もうひとつ、口に運んだ。けれど、今度は、味が、わからないようだった。

店は、しんとしていた。鍋のことこという音だけが、しずかに鳴っていた。行灯の火が、すこし揺れた。

六

最初に口をひらいたのは、政だった。

「あんた」と政は、いつものがらがら声を、すこしだけやわらげて言った。「あんた、その灯りを、消えると思ってるのかい」

男は顔をあげた。

「おれはな」と政は焼き豆腐を箸のさきでつつきながら言った。「左官だ。四十年、コンクリを流してきた。景気のいいときも、悪いときもあったよ。仕事がなくなって、三月も四月も、うちでごろごろしてた時期もあった。そのときは、そりゃあ、みじめだったさ。かみさんに顔向けできねえと思って、朝から酒くらってたこともあった」

政は徳利をかたむけて、猪口を満たした。

「でもな、あるとき、かみさんが言ったんだ。あんた、そんなに気に病むことないよ、って。灯りってのは、あんたが仕事してるからついてるんじゃない、あんたが帰ってくるからついてるんだ、って。……おれはそのとき、はじめて泣いたよ。四十の男が、台所で、みっともなく泣いた」

政は、そのときのことを、思いだすように、目を細めた。

「あのとき、かみさんはな、こう言ったんだ。あんたが仕事をなくして、しょげてうちにいる。それはそれで、いいじゃないか、って。あんたが毎晩、うちに帰ってくる。それだけで、わたしにゃ、じゅうぶんだ、って。稼ぎがなくたって、あんたの顔さえ見りゃあ、わたしはこの灯りをつける甲斐がある、って。……そう言われてよ。おれは、はっとしたんだ。ああ、そうか。灯りってのは、金でつくもんじゃねえんだ。人でつくもんなんだ、ってな」

政は、猪口を、じっと見つめた。

「それからだよ。おれが、また、仕事を探しに出るようになったのは。かみさんが、灯りをつけて、待っててくれる。だから、おれは、また、朝、出ていける。そう思ったら、足が、動いたんだ。……不思議なもんでな。金のためじゃねえんだ。あの灯りに、帰るためだったんだ。おれが働いたのは、ぜんぶ、あの灯りに、帰るためだったんだよ」

政の赤い顔が、灯りのなかで、すこしゆがんだ。

「あんたのかみさんも、きっとそうだ。青くなるだろうよ。これからどうするのって、泣くだろうよ。でもな、それは灯りが消えるんじゃねえ。灯りが、あんたを心配してるんだ。あんたが帰ってこなきゃ、その灯りは、意味がねえんだよ」

男は、なにも言わなかった。ただ、猪口を持つ手が、すこし震えていた。

「それに、だ」と政はつけ加えた。「まだ言ってねえんだろ。今、こうしてる時間も、うちの灯りはついてるんだ。あんたを待って。その灯りを、こんなところで飲んで、油売ってるうちに、消しちまうつもりかい。もったいねえ。ほら、飲んで、帰んな。おれみたいに、帰る灯りのねえ者からしたら、あんたのは、ぜいたくな悩みだよ」

政はそう言って、からりと笑った。今度の笑いには、翳りがなかった。

七

甘酒の椀を両手でつつんでいた女が、ふと、口をひらいた。

「わたし……」

小さな声だった。けれど、店のなかがしずかだったので、みなに届いた。

「わたし、今日、上司に、こんな会社辞めてやるって、心のなかで、百回くらい言いました」

女は、はにかむように笑った。

「締め切りに間にあわなくて、みんなの前で怒られて。わたしのせいじゃないのに。段取りを決めたのは上司なのに。悔しくて、悔しくて。トイレで、すこし泣いて。……それで、まっすぐ家に帰る気になれなくて、こんなところに、ふらふら入ってきちゃって」

女は、甘酒の椀のふちを、指でなぞった。

「わたし、この春に、こっちに出てきたんです。ずっと、田舎にいて。就職で、はじめて、ひとり暮らしをはじめて。……最初は、ひとりって、こんなに自由なんだって、うれしかった。誰にも気がねなく、好きな時間に帰って、好きなものを食べて。でも、だんだん、わかってきたんです。ひとりって、自由なぶんだけ、さびしいんだって」

女は、はにかむように、うつむいた。

「田舎の家はね、夕方になると、いつも、灯りがついてたんです。母が、台所で、晩ごはんの支度をしてて。学校から帰ると、その灯りが、窓についてた。ただいまって言うと、おかえりって、声がした。……あたりまえだと思ってました。あの灯りが、あの声が、あたりまえにあるものだって。でも、こっちに出てきて、まっくらな部屋の鍵をあけて、自分で電気をつけるようになって、はじめて、わかったんです。あの灯りは、あたりまえじゃ、なかったんだって。母が、わたしのために、つけてくれてた灯りだったんだって」

女の目のふちが、灯りのなかで、うっすらと、光った。

女は甘酒をひとくちすすった。生姜のあたたかさが、また喉を通っていく。

「わたしにも、待ってる灯りは、ないんです。ひとり暮らしで。帰っても、まっくらな部屋に、自分で電気をつけるだけ。……だから、さっき、政さんが、灯りは帰ってくるからつくんだって話をしたとき、わたし、うらやましかった。待っててくれる人がいるって。青くなって心配してくれる人がいるって」

女は、背広の男のほうを見た。

「だから、あの……おじさんの奥さんが青くなるっていうの、それ、すごく、あったかいことだと思います。心配してくれる人がいるって。わたし、うらやましいです。……ごめんなさい、でしゃばって」

男は、女のほうを見て、それから、ゆっくりと首をふった。

「いや」と男は言った。「いや、そうか。そうですね。……そうか」

男の目に、灯りが、にじんで映っていた。行灯の飴色の火が、その目のなかで、まるくふくらんで見えた。

八

源三は、なにも言わなかった。

言うべきことは、もう客たちが言ってしまった。源三の仕事は、灯りをともし、燗をつけ、煮物を炊いて、ただ、そこに立っていることだった。宵の灯りが人と人を結ぶとき、主人はその結び目の外に、しずかに立っていればいい。長年やってきて、源三はそれをよく知っていた。

けれど、このとき、源三はひとつだけ、口をはさんだ。

「お客さん」と源三は背広の男に言った。「わたしからも、ひとつ。うちの提灯はね、四十年、あそこにぶらさがってます。おやじの代から、勘定すりゃ六十年だ。そのあいだ、いろんな夜がありました。台風の夜も、雪の夜も、戦争の焼けあとの、まっくらな夜も」

源三は布巾でカウンターを拭きながら、しずかに話した。

「でもね、あの提灯は、消えなかった。風の強い晩は、そりゃあ、あぶなっかしく揺れますよ。今にも消えそうに見える。でも、消えねえんです。和紙が、火を守ってるんですな。まるいふくらみが、風から火をかばってる。……人の家の灯りも、おなじだと思いますよ。悪い報せの風が吹いたって、家ってのは、その火を、かばうようにできてる。かんたんにゃ、消えねえ」

男は、提灯の灯りを、暖簾のむこうに透かして見た。夜風のなかで、赤提灯はまだ揺れていた。飴色の火が、右へ左へこぼれながら、けれどたしかに、まるく灯っていた。

「消えねえもんですよ」と源三は、もう一度、しずかに言った。

九

そのとき、女が、ふと暖簾のむこうを指さした。

「あの……あれ、星ですか」

みなが、暖簾の隙間から、宵闇の空を見あげた。

家々の窓明かりが、路地の両側にならんでいる。橙の茶の間、白い台所、黄ばんだ風呂場。その灯りのつらなりの、ずっとうえ。まだ藍の残る宵の空の低いところに、ひとつ、蒼い星がのぼっていた。ふつうの星とはちがう、すこし尾を引いた、青白い光だった。それは、家々の灯りと競うように、けれど家々の灯りとはまるでちがう冷たさで、宵闇のなかに息づいていた。

「ああ、あれか」と政が言った。「彗星だよ。なんとかっていう、名前の。新聞で読んだ。何十年に一ぺんとかで、めぐってくるんだと」

「ミラ彗星、っていうんですよ」と源三が言った。「うちの婆さんが、昔、教えてくれた。宵にだけ見える星だって。夜がふけると、沈んじまう。だから、あれが見えるのは、ちょうど今ごろ、宵の口だけなんだ」

四人は、しばらく、その蒼い星を見あげていた。

家々の橙の灯りは、あたたかく、地に近い。ミラ彗星の蒼い光は、冷たく、はるかに遠い。そのふたつが、同じ宵の空に、並んでいた。あたたかな団欒の灯りと、ひとつきりの、孤独な星の光と。

「宵にだけ、見える星か」と背広の男が、つぶやいた。「なんだか、今夜のわたしたちみたいですね。宵の口だけ、こうして、灯りのしたに集まって。夜がふければ、みんな、それぞれの灯りのほうへ、散っていく」

「うまいこと言うねえ、兄さん」と政が笑った。「そのとおりだ。おれたちゃ、宵の星よ。ひととき、こうして光って、そんで、それぞれのねぐらへ、沈んでいくんだ」

「それも、いいものですね」と女が言った。「ひとときでも、こうして、光れるなら」

源三は、なにも言わなかった。ただ、その蒼い星と、家々の橙の灯りとを、かわるがわる見あげた。宵の刻にだけ、空をわたる星。婆さんが好きだった星。その星が、今夜も、家々の団欒の灯りと競うように、けれど、けっして交わらぬ高さで、しずかに、のぼっていた。

「きれいですね」と女が言った。

「きれいだなあ」と男が言った。

政は、なにも言わずに、猪口をかたむけた。その目は、蒼い星ではなく、路地の家々の、橙の窓明かりのほうを見ていた。かみさんに先立たれた男の目が、ひとつずつ灯る他人の家の灯りを、なぞるように見ていた。

十

背広の男が、鞄をひきよせた。

「そろそろ、帰ります」と男は言った。声に、来たときとはちがう、なにか据わったものがあった。

「そうかい。気をつけてな」と政が言った。

男は勘定をすませ、鞄を手にとって、暖簾のほうへ歩きかけた。それから、ふりむいて、政と女に、それから源三に、ちいさく頭をさげた。

「今夜は、その、ありがとうございました。……見ず知らずの人に、こんな話をして、みっともなかったですが。おかげで、なんだか、帰れそうな気がしてきました。うちの灯りを、消しに帰るんじゃなくて、ただ、帰るだけだって」

「そうそう、それでいいんだ」と政。

「ただいまって言えばいいんですよ」と女が言った。「おかえりって、言ってもらえるうちに」

男は、その女のことばに、しばらく立ちどまった。そして、深くうなずいた。

「そうします。……あなたも、あんまり無理しないで。まっくらな部屋でも、電気をつければ、灯りはつくんだから。誰かのために待つ灯りじゃなくたって、自分のためにつける灯りは、あったかいもんですよ。今夜、ここで、わたしはそれを教わった」

女は、はっとしたような顔をした。それから、こくりとうなずいて、「はい」と言った。目のふちが、すこし赤かった。

男は暖簾を割って、路地の宵闇のなかへ出ていった。赤提灯の飴色の灯りが、その背中を、いっとき橙に染めた。そして男は、家々の窓明かりのつらなるほうへ、蒼いミラ彗星ののぼる空のしたを、まっすぐに歩いていった。だんだんと小さくなるその背中に、源三は心のなかで、消えねえよ、と、もう一度つぶやいた。

十一

男が出ていくと、店には、また鍋の音がもどってきた。

ことこと、ことこと。里芋がやわらかく煮えていく音。政が焼き豆腐の最後のひときれを口に運び、「うまかった」と満足げに言った。女は、甘酒の椀を、まだ両手でつつんでいた。もう椀は冷めかけていたが、女はそのぬくもりの名残を、手のひらから離したくないようだった。

「姉さん」と政が言った。「あんたも、もう帰んな。うちが待ってなくたって、うちはうちだ。電気つけて、飯くって、風呂わかして。そうやって、自分で自分の灯りをともすのも、りっぱなもんだよ。おれなんざ、それを覚えるのに、かみさん亡くしてから三年かかった」

「三年」と女がくりかえした。

「ああ。三年、この店に通いつめてな。親父さんの提灯を、うちの灯りだと思って。……でも、あるとき気づいたんだ。うちに帰って、自分で電気つけて、あの人の仏壇に線香あげて、おれひとりのために飯を炊く。それも、灯りなんだって。さびしくても、それは、たしかに灯りなんだって」

政は、そう言って、猪口の底の酒を、ぐいと飲みほした。

「だからよ、姉さん。まっくらな部屋を、こわがることねえ。電気のスイッチを、ぱちんと入れりゃあ、そこはもう、あんたのうちだ。あんたの灯りだ。誰が待ってなくたって、あんたが帰りゃあ、そこに灯りがともる。それでいいんだよ」

女は、しばらく黙っていた。それから、椀に残った甘酒を、ひとくちで飲みほした。生姜の、すこし冷めたあたたかさが、喉を通っていった。

「……ごちそうさまでした」と女は言った。「わたし、帰ります。うちの電気、つけに」

「おう、そうしな」

女は勘定をすませ、紙袋を提げて、暖簾のほうへ歩いた。入ってきたときの、すぼめた肩が、いくらかひらいているように、源三には見えた。

十二

女は暖簾のところで、ふりむいた。

「あの、おじさん」と女は政に言った。「わたし、また、来てもいいですか。ここ」

「あたりまえだろ」と政は笑った。「いつでも来な。親父さんの甘酒は、うまいぞ」

「はい。……あの、わたし、名前」

「名前なんざ、いいんだよ」と政は手をふった。「ここでは、みんな名無しの、行きずりの客だ。でもな、灯りのしたで一杯やった仲だ。それだけで、じゅうぶんだよ。なあ、親父さん」

「へえ」と源三はうなずいた。「うちの客は、みんな家族みたいなもんです。ひと晩かぎりの、な」

女は、その「ひと晩かぎりの家族」ということばを、しばらく口のなかでころがしているようだった。それから、ふわりと笑った。今夜、この店に入ってきてから、いちばん、あかるい笑顔だった。行灯の飴色の光が、その頬に、あたたかな橙をさしていた。

「ありがとうございました。ひと晩かぎりの、家族」

女は暖簾を割って、宵闇のなかへ出ていった。赤提灯の灯りが、そのコートの背を、いっとき橙に染めた。そして女もまた、家々の窓明かりのつらなるほうへ、歩いていった。宵空には、まだ蒼いミラ彗星がのぼっていた。女は途中で立ちどまり、その星を見あげたようだった。それから、また歩きだした。まっくらな部屋の、自分の灯りをともしに。

十三

店には、政と源三だけが残った。

「行っちまったな」と政が言った。

「行きましたね」

「みんな、行っちまう。この店にゃ、ひと晩、灯りにあたりにくるだけだ。そんで、あったまったら、それぞれの灯りのほうへ、帰っていく」政は、しんみりと言った。「それでいいんだろうな。それが、いいんだろうな」

「それが、いいんですよ」と源三は言った。「みんなが、うちに帰る灯りをもってる。それが、いちばんいい。うちの提灯は、その途中の、休み場所でいいんです。灯りと灯りのあいだの、ちょっとした灯り。それで、じゅうぶんだ」

政は、猪口をかたむけようとして、もう空なのに気づいた。「親父、もういっぽん……いや、やめとくか。おれも、そろそろ帰るわ」

「灯りのねえ、うちにかい」

「灯りのねえ、うちにだよ」政は苦笑した。「でもよ、さっき自分で言ったろ。電気つけて、線香あげて、飯炊きゃあ、そこも灯りだって。姉さんに偉そうに言った手前、おれも、まっすぐ帰らねえとな」

政は立ちあがった。腰を、とんとん、と拳でたたいた。「ああ、いてえ。……親父さん、また来るよ」

「へえ、お待ちしてます」

政は勘定を置いて、暖簾のほうへ歩いた。それから、ふと足をとめて、カウンターの隅を見た。そこには、月光堂の青いマッチ箱が、行灯の火のそばに置いてあった。青い紙に、金色で、ちいさく月と兎の絵が刷ってある。源三が、提灯や行灯に火をともすときに使う、あのマッチだった。

「なあ親父」と政は言った。「そのマッチ、ひとつ、もらってっていいかい」

「マッチを?」

「ああ。……うちの仏壇の、ろうそくにな。今夜は、いつもよりていねいに、火をともしてやりてえ気がしてよ。あの人に。姉さんや、あの背広の兄さんの話、聞かせてやりてえ」

源三は、青いマッチ箱をとって、政に手わたした。「もってきな。うちにゃ、まだ何箱もある」

政はマッチ箱を、大事そうに半纏のふところにしまった。「ありがとよ。……じゃあな」

政は暖簾を割って、宵闇のなかへ出ていった。赤提灯の灯りが、その半纏の背を、いっとき橙に染めた。そして政もまた、家々の窓明かりのつらなるほうへ、けれどその明かりのどれでもない、灯りのともっていない自分のうちのほうへ、歩いていった。ふところの青いマッチ箱を、ひとつ、抱くようにして。

十四

店には、源三ひとりが残った。

源三は、空になった猪口や小皿をさげ、カウンターを布巾で拭いた。何十年ぶんも拭きこまれた檜の板は、行灯の飴色の光をうけて、鈍く、なめらかに光った。里芋の鍋は、まだことことと、しずかに煮えていた。

源三は、暖簾のむこうを見た。赤提灯が、夜風のなかで、まだ揺れていた。飴色の火が、右へ左へこぼれながら、消えずに、まるく灯っていた。「一二三」の三文字が、内側から、じわりと浮かんでいた。

その提灯のむこう、宵闇の空の低いところに、まだ蒼いミラ彗星がのぼっていた。家々の橙の窓明かりと競うように、けれど、はるかに冷たく、はるかに遠く。その青白い光は、宵のあいだだけ空にあって、夜がふけると、沈んでしまうのだという。源三の婆さんが、昔、そう教えてくれた。宵にだけ見える星。団欒の刻にだけ、空をわたる、ひとつきりの星。

源三は、しばらく、その星を見あげていた。

婆さんは、もういない。おやじも、おふくろも、みんな、とうにいない。源三のうちにも、待つ灯りは、もうなかった。この店を閉めて、路地のさきの、ひとりの家に帰れば、そこはまっくらだ。けれど源三は、それをさびしいとは、もう思わなかった。この提灯が、この店が、源三の灯りだった。ひと晩かぎりの家族が、かわるがわる、ここに灯りにあたりにくる。その途中の、休み場所。それでいいのだと、源三は思った。それが、いいのだと。

十五

風が、また、強くなった。

赤提灯が、大きく揺れた。飴色の火が、あぶなっかしく、右へ、左へ。今にも消えそうに、ゆらいだ。

源三は、しずかにそれを見ていた。

けれど、火は、消えなかった。和紙のまるいふくらみが、風から火を、かばうように守った。ひときわ強い風が通りすぎると、火はまた、しずかに、まるく灯った。何ごともなかったように。飴色の光を、路地の板塀に、あたたかく投げた。

「消えねえよ」と、源三は、だれにともなく、つぶやいた。

それから源三は、行灯のそばに置いた、月光堂の青いマッチ箱を手にとった。政に一箱わけてやったので、残りはすこし軽くなっていた。源三はその箱を、しばらく手のひらで、もてあそんだ。青い紙に刷られた、金色の月と兎。それは、婆さんが好きだったマッチだった。婆さんは、宵になると、いつもこのマッチで、行灯に火をともした。「宵は、火をともす刻だよ」と言いながら。「日が暮れて、家々に灯りがともる。人がいちばん、あったかいものを恋しがる刻だ」と。

源三は、マッチを一本、すっと擦った。硫黄の匂いが、ひと呼吸だけ立った。

もう火をともすものは、なにもなかった。行灯も、提灯も、鍋の火も、みんな、とうについている。それでも源三は、その一本の火を、しばらく、じっと見ていた。橙の、ちいさな、まるい炎。指のさきで、しずかに揺れる、たよりない、けれど、たしかにあたたかい灯り。

婆さんの声が、どこからか、聞こえるような気がした。あの、子守唄。源三が子どものころ、婆さんが、行灯のそばで、よく歌ってくれた唄。

眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。

源三は、その唄を、口のなかで、ちいさく、なぞった。マッチの火が、指のさきまで燃えてくるまえに、源三はそっと、それを吹き消した。ふ、と。ちいさな煙が、ひとすじ立ちのぼって、行灯の飴色の光のなかに、溶けていった。

十六

夜は、まだ浅かった。

宵の口である。これから、まだ幾人かの客が、この赤提灯を目あてに、暖簾を割ってくるだろう。それぞれの一日を、それぞれの荷を背負って。そして、灯りのしたで、ひととき肩の荷をおろし、あったまったら、それぞれの灯りのほうへ、帰っていくだろう。ひと晩かぎりの家族が、かわるがわる。

源三は、あたらしい徳利を、湯に沈めた。鍋の里芋を、菜箸で、そっとひっくり返した。醤油と鰹の匂いが、湯気にほぐれて、店に満ちた。行灯の火が、しずかに揺れた。飴色の光が、檜のカウンターを、なめらかに照らした。

そのとき、路地のさきに、足音が聞こえた。だれかが、この店のほうへ、歩いてくる足音だった。まだ見ぬ客か、それとも、いつかの常連か。源三には、わからなかった。けれど、それでよかった。だれであれ、この赤提灯の灯りは、その者のために、灯っているのだから。

源三は、暖簾のむこうを見た。赤提灯が、夜風のなかで、揺れながら、消えずに、まるく灯っていた。飴色の火が、右へ左へこぼれて、宵闇のなかに、あたたかな橙をともしていた。そのむこう、家々の窓明かりのうえに、蒼いミラ彗星が、まだ、しずかにのぼっていた。

団欒の灯りと、孤独の星と。あたたかいものと、遠いものと。そのふたつが、同じ宵の空に、並んでいた。

足音が、近づいてきた。

暖簾が、揺れた。

「――やってますか」

源三は、顔をあげた。そして、婆さんがいつもそうしていたように、なるべくあたたかい声で、答えた。

「へえ、やってますよ。どうぞ、あいてます。……宵は、まだ、これからだ」

赤提灯の灯りは、その夜も、消えなかった。

この物語にひそむ符牒

ほかの物語と、ひそかに分かち合っているもの:

  • ミラ彗星
  • 月光堂のマッチ
  • 子守唄

十二をつなぐ符牒について →

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