四十七の灯
一
日が沈むには、順序というものがある。
まず西の空の裾が、熟れた柿のような橙に染まる。それがやがて臙脂に沈み、灰青に翳り、町の屋根屋根の輪郭が、切り絵のようにくっきりと黒く浮かびあがる。そのころになると、私は肩に点火棒をかつぎ、腰帯に予備の火口と、月光堂の青いマッチ箱を差し込んで、家を出る。
名を、久助という。齢は五十を二つ三つ越えた。この町のガス灯を点けて回る、点灯夫である。
人は私を、ただ「灯りのおじさん」と呼ぶ。子どもらはそう呼び、時にはあとをついてくる。名を知る者は少ない。それでよいと思っている。灯りを点ける者の名など、覚えられなくていい。覚えられるべきは、灯りのほうだ。
夕暮れどきの町は、まだ昼の名残をひきずっている。豆腐屋の角を曲がると、湯気の匂いがした。魚屋の前を通ると、氷の溶ける音がした。仕舞い支度をはじめた八百屋の主人が、私を見て、片手をあげる。私も点火棒を持たぬほうの手を、軽くあげてこたえる。言葉は交わさない。もう二十年も、この時刻にすれ違ってきた仲だ。言葉のいらぬ間柄というものが、この世にはある。
私の受け持ちは、川沿いの本町から、坂をのぼった花小路まで。ガス灯の数にして、四十七本。この四十七本を、日の暮れきらぬうちに、すべて点けて回らねばならない。一本点けるのに、慣れた者なら十を数えるほど。私はもう、数えなくても点けられる。
最初の一本は、いつも川端の柳のたもとにある。
鉄の柱は、昼のあいだに冷えて、ひやりとしている。私は点火棒の先の、小さな種火を、まず灯す。腰の青いマッチ箱を取り出し、一本を擦る。しゅっ、と音がして、火が立つ。この一本目の火だけは、いつもマッチで熾す。あとは種火から種火へ、火をわたしてゆく。だが最初の火は、みずからの手で擦らねばならぬ。それが決まりだ。誰が決めたのでもない、私が決めた決まりだ。
青いマッチ箱には、月に兎の絵が刷ってある。月光堂という店で求めたものだ。この町の外れ、細い路地の奥にある小さな店で、燐寸や蝋燭や、そういう火にまつわるものばかりを商っている。店の女将が、いつだったか、「点灯夫さんには、これがようございましょう」と、この青い箱をくれた。以来、私はずっとこれを使っている。青い箱の擦り薬は、湿気にも強く、風のなかでもよく火がつく。
一本目のマッチの火を種火にうつし、種火を点火棒の先の火皿にわたし、その火皿を、柱の頭のガスの口へと差し入れる。しゅう、と細い音がして、青白い炎が、ぽっ、と咲いた。
咲く、としか言いようがない。ガス灯の灯りは、蝋燭の橙とはちがう。もっと白く、もっと冷たく、それでいて宵闇のなかでは、ふしぎとあたたかく見える。青みを帯びた乳白の光。ほのかに揺れて、ガラスの覆いのなかで、生きもののように息づいている。
一本目が点いた。
私は柱を見あげ、しばし、その灯りを見る。この一瞬が、私は好きだ。まだ町のどこにも灯りのない、暮れなずむ空の下で、たったひとつ、私の点けた灯りだけが、青白く燃えている。世界にひとつきりの灯り。それを点けたのが、この私だという、しずかな誇り。
だが感傷にひたっている暇はない。あと四十六本。日は待ってくれない。
私は点火棒を肩にもどし、次の柱へと歩きだす。
二
本町の通りは、この時刻がいちばん賑わう。
仕事を終えた者が家路をいそぎ、これから夜商いにかかる者が店を開ける。そのはざまの、ざわめきの時刻。私はそのざわめきのなかを、灯りを点けながら、ゆっくりと進んでゆく。
二本目は、酒屋の角。三本目は、湯屋の前。湯屋の前の柱を点けると、暖簾のむこうから、湯上がりの女が出てくる。首すじに湯の火照りをのこし、片手に手拭いをぶらさげて。私の点けたばかりの灯りが、その女の頬を、青白く照らす。女はちらと灯りを見あげ、それから私を見て、小さく会釈をする。私も点火棒を持たぬ手で、帽子の庇に触れてこたえる。
こういう瞬間が、日に幾度もある。私の点けた灯りの下を、人が通ってゆく。灯りの下で、人が笑い、人が急ぎ、人が立ちどまる。その人々は、灯りのことなど、意識してはいまい。灯りは、あって当たり前のもの。空気のように、水のように。誰も、灯りに礼を言おうとは思わない。
それでいい、と私は思う。
礼を言われるために点けているのではない。人々が灯りを意識せず、当たり前のようにその下を通ってゆく——それこそが、私の仕事の、いちばんの成果なのだ。灯りが「あって当たり前」であること。それを支えているのが、この私だということ。誰も知らずとも、私は知っている。それでいい。
四本目は、蕎麦屋の前。柱を点けると、格子窓のむこうに、団欒が見えた。
小上がりに、家族が四人。父と母と、子が二人。湯気のたつ丼を前に、なにやら笑いあっている。父が箸で子の頭を軽くつつき、子が身をよじって笑う。母がそれをたしなめるふりをして、口もとをほころばせている。ガラスごしの、飴色の店内。行灯の橙の灯りが、その四人を、やわらかく包んでいる。
私は柱の下で、しばし、その光景を見た。
私にも、かつては家族があった。妻がいて、子がいた。子は、女の子だった。おきみ、といった。
妻は、おきみが七つのときに、流行り病で逝った。おきみは、私が育てた。この点灯夫の仕事をしながら、朝は握り飯をこしらえ、夜は日が暮れてから灯りを点けに出て、点け終えて帰れば、おきみが待っていた。
「おとっつぁん、おかえり」
と、おきみは言った。ちいさな行灯の下で、私の帰りを待っていた。私が点けて回るのは町じゅうの灯りだが、私自身の帰る家には、おきみの点けた行灯がひとつ、灯っていた。その灯りが、私にとっての、たったひとつの団欒だった。
おきみは、十七で嫁いだ。遠い在所の、農家へ。よい縁だった。もう十年以上になる。年に一度か二度、文が来る。孫が生まれたという文も来た。私はまだ、その孫の顔を見ていない。
蕎麦屋の団欒に背を向けて、私は歩きだす。
五本目、六本目、七本目。灯りを点けながら、私は思う。私は町じゅうに団欒の灯りを点けて回るが、私自身の家には、もう待つ者がいない。帰れば、暗い。マッチを擦り、私はみずからの手で、みずからの行灯を点ける。誰も点けてはくれぬ、私の灯り。
だが、それを寂しいとは、もう思わぬことにしている。
寂しいと思えば、灯りが翳る。灯りを点ける者が、翳った心で灯りを点ければ、その灯りは、翳って燃える。灯りには、点ける者の心がうつる——そう信じている。だから私は、いつも、しずかな心で灯りを点ける。翳りを胸の底に沈めて、灯りだけを、まっすぐに点す。
三
坂をのぼると、風が変わる。
川風のしめった匂いが薄れ、かわりに、坂上の花小路のほうから、白粉と伽羅の香が、ほのかに流れてくる。花小路は、この町の色里だ。夜がふけると、三味の音が坂を下ってくる。
その坂のとちゅうに、一本、点けにくい柱がある。八本目の柱。
風の通り道になっていて、いつも火が消えやすい。私はこの柱を点けるとき、いつも青いマッチ箱を頼りにする。ほかのマッチなら、風でたちまち消えてしまう。だが月光堂の青いマッチは、風のなかでも、しぶとく燃える。
私は柱の陰にまわり、風をよけて、マッチを擦った。しゅっ、と火が立つ。手のひらで囲い、種火にうつす。種火を火皿にわたし、火皿を柱の口へ。しゅう、と音がして、青白い炎が咲いた。
「点いた」
と、うしろで声がした。ふりむくと、小さな影がひとつ、坂の途中に立っていた。
子どもだった。八つか九つか。木綿の粗末な着物を着て、片手に、小さな風呂敷包みをさげている。もう片方の手には——手袋をはめていた。片方だけ、毛糸の手袋を。もう片方の手は、素手で、赤くかじかんでいる。
「坊、こんな時刻に、どこへ行く」
と私は訊いた。もう日はとっぷり暮れて、坂の上の色里へつづく道だ。子どもの歩く道ではない。
子どもは、私を見あげて言った。
「おっかさんを、さがしてる」
その声には、涙のにじむような、けれど涙をこらえるような、けなげな響きがあった。
訊けば、母は花小路で働いているのだという。父はなく、母ひとりが、坂の上の店で働いて、坊を育てている。坊は坂の下の長屋にひとりで暮らし、夜は母の帰りを待つ。だが今夜は、母が帰ってこないのではないかと、心配になって、さがしにきたのだと。
「灯りが、こわいのか」
と私は訊いた。子どもは、こくりとうなずいた。
「うちの行灯、油が切れて……点かないんだ。おいら、火の点け方、知らなくて。真っ暗で、こわくて」
私は、しばし黙った。
真っ暗な長屋で、母の帰りを待つ子ども。行灯の油が切れ、火の点け方も知らず、闇のなかで、ただ待つ。その闇のなかの心細さが、私にはわかる。おきみもまた、私の帰りを、灯りの下で待っていた。だがおきみには、灯りがあった。この子には、その灯りさえ、ない。
私は膝を折り、子どもと目の高さをそろえた。
「坊。おじさんはな、この町じゅうの灯りを点けて回る、灯りのおじさんだ。灯りを点けるのは、おじさんの仕事だ。おっかさんは、きっと帰ってくる。だから坊は、家に帰って、待っていなさい。行灯の火は、おじさんが点けてやる」
子どもの目が、まるくなった。
四
私は、腰の青いマッチ箱を取り出した。
「いいか、坊。よく見ておくんだよ」
私は、まだ点けていない残りの柱のことを、いっとき忘れることにした。日は暮れる。灯りは待つ。だが今は、この子の闇のほうが、先だ。
子どもの手をひいて、坂を下りた。長屋は、坂下のすぐそば、路地の奥にあった。木戸をくぐると、まっくらな土間があり、そのむこうに、ちいさな部屋がひとつ。窓もない、四畳半ほどの部屋。闇が、墨を流したように、たまっていた。
「ここで、ひとりで待っていたのか」
と私は言った。子どもは、うなずいた。
私は、行灯を探した。部屋の隅に、古い行灯がひとつあった。手にとって、油皿をあらためると、なるほど、油が乾いて、灯芯がかさかさに乾いている。これでは、火は点かぬ。
「油は、どこだ」
子どもは、台所の隅から、油壺を持ってきた。中に、わずかばかりの油がのこっていた。私はそれを油皿にそそぎ、灯芯をひたした。乾いた灯芯が、じわじわと油を吸ってゆく。
「さあ、火を点けるぞ」
私は、青いマッチ箱をひらいた。一本、抜きとって、箱の横で擦る。しゅっ、と、青白い火花が散り、火が立った。その火を、灯芯の先へ、そっとちかづける。
灯芯が、じ、と鳴って、火をくわえた。
ぽっ、と、橙の灯りが、点いた。
ガス灯の青白い光とは、まるでちがう。行灯の火は、あたたかな橙。飴色に近い、やさしい灯り。その灯りが、闇のたまっていた四畳半を、じわりと押しひろげた。壁がうかび、畳がうかび、隅にたたまれた薄い夜具がうかんだ。そして、子どもの顔がうかんだ。
子どもは、灯りを見つめていた。橙の火影が、その頬に、ゆらゆらと踊っていた。片方だけの手袋をはめた手を、灯りにかざして、あたためるように。
「あったかい」
と、子どもは言った。
「灯りは、あったかいだろう」
と私は言った。「暗いのは、こわい。だが灯りがひとつあれば、もう、こわくない。灯りは、な、そういうものだ。おっかさんが帰ってくるまで、この灯りが、坊のそばにいてくれる」
子どもは、こくり、とうなずいた。それから、ふと、私を見あげて言った。
「おじさんも、いっしょにいてくれる?」
私は、口ごもった。まだ点けねばならぬ柱が、三十いくつも残っている。日は暮れきり、町は灯りを待っている。ここに長居はできぬ。
だが——この子の、片方だけの手袋を見た。もう片方の、赤くかじかんだ素手を見た。この子は、片方の手袋を、いったい、どこで失くしたのだろう。あるいは、はじめから片方しか、なかったのだろうか。
「坊」と私は言った。「おじさんはな、これから、町じゅうの灯りを点けに行かねばならん。おっかさんが、坂の上の店から帰ってくる、その道を、灯りで照らしてやらねばならん。おっかさんが、暗い道で転ばぬように。まよわぬように。だから、おじさんは行く。だが——」
私は、青いマッチ箱を、子どもの手にのせた。
「これを、坊にやる。月光堂の、青いマッチだ。風のなかでも消えぬ、強い火だ。いいか、火の点け方を、教えてやる。よく覚えるんだよ」
五
私は、子どもに、火の点け方を教えた。
箱の横の、ざらざらした薬に、燐寸の頭を押しあて、すっ、と手前にひく。強すぎず、弱すぎず。折れぬように、けれど、しっかりと。何度か、子どもは失敗した。火がつかず、燐寸の頭だけが崩れた。だが、五度目に、しゅっ、と火が立った。
子どもの顔が、ぱっと明るくなった。火の明るさではない。心の明るさが、顔にのぼった。
「点いた! おじさん、点いた!」
「点いたな」と私は笑った。「これで坊は、もう、闇がこわくない。灯りは、自分で点けられる。おっかさんが帰ってこなくても、坊は、自分で灯りを点けて、待っていられる。灯りを自分で点けられる者は、な、もう、ひとりぼっちじゃない」
私は、そう言いながら、胸のうちで、おきみのことを思っていた。
おきみに、私は、火の点け方を教えただろうか。教えた気がする。ちいさなおきみが、たどたどしく燐寸を擦って、行灯を点けた、あの日のことを。あのとき、おきみの顔にも、いま、この子の顔にうかんでいるのと、おなじ明るさがうかんでいた。
「点いた、おとっつぁん! おきみ、点けられたよ!」
と、おきみは言ったのだ。あの、ちいさな声で。
私は、立ちあがった。
「さあ、おじさんは行くよ。坊は、ここで、灯りといっしょに待っていなさい。おっかさんは、きっと帰ってくる。おじさんが、帰り道を、灯りで照らしておくからな」
子どもは、行灯のそばに座り、青いマッチ箱を、だいじそうに両手で握っていた。片方だけの手袋の手と、赤い素手とで。
「おじさん」と、子どもは言った。「おじさんの、名前は?」
私は、木戸のところで、ふりむいた。
名を訊かれることなど、めったにない。灯りのおじさん、とだけ、いつも呼ばれる。私は少し、迷ってから、言った。
「久助、という。だが、坊は、灯りのおじさん、と呼んでくれていい」
「久助さん」と、子どもは、ゆっくりと、その名を口にした。「ありがとう」
私は、木戸を出た。
路地を抜けるとき、うしろの長屋の窓——というより、木戸の隙間から、橙の灯りが、ほのかに、もれていた。子どもの点けた、行灯の灯り。あの灯りは、もう、消えまい。子どもは、火の点け方を覚えた。あの灯りは、あの子のものだ。
私は、また点火棒をかつぎ、坂をのぼりはじめた。
六
残りの柱を、私は、いつもより急いで点けて回った。
九本目、十本目、十一本目。坂の上の花小路の入口まで、灯りを連ねてゆく。この道を、あの子の母が、坂を下ってくる。その足もとを、私の灯りが照らす。転ばぬように。まよわぬように。
花小路の入口の柱を点けたとき、店々から、三味の音がこぼれていた。格子のむこうに、飴色の灯りがゆらめき、女たちの白い顔が、灯りに浮かんでは沈んだ。華やかな灯り。だが、その華やかさの底に、私は、ひとすじの翳りを見た。あの子の母も、この灯りのどこかで、笑っているのだろうか。子どもを長屋に残して、白粉を塗り、酌をして、笑っているのだろうか。
団欒の灯りと、孤独の灯りは、ときに、おなじ町の、おなじ夜に、並んで燃えている。蕎麦屋の団欒も、色里の華やぎも、長屋の子どもの心細さも、みな、おなじ宵の、おなじ灯りの下にある。私は、そのすべてに、灯りを点けて回る。団欒にも、孤独にも、わけへだてなく。
坂をくだり、本町にもどり、川端へ。
二十本、三十本、四十本。私は点けつづけた。町は、しだいに、灯りに満ちていった。柱から柱へ、青白い灯りが連なり、川面に、その灯りがゆらゆらと映った。町全体が、ひとつの、大きな灯籠のようになった。
四十七本目。
最後の柱は、川端の、いちばん下手の、船着き場のそばにある。私はそこまで来て、点火棒の火皿を、柱の口へ差し入れた。しゅう、と、最後の青白い炎が咲いた。
点け終えた。
四十七本、すべて。私は、点火棒を肩からおろし、ふう、と、ひとつ息をついた。
町を、ふりかえる。
川沿いに、坂の上に、路地の奥に、私の点けた灯りが、点々と連なっていた。青白いガス灯の光が、宵闇のなかに、しずかに息づいていた。そして、その灯りの下で、人々が暮らしていた。窓辺の団欒。路地の孤独。すべての灯りの下に、それぞれの、暮らしがあった。
私は、この光景を見るために、点灯夫をしているのかもしれない。
誰にも礼を言われず、名も覚えられず、ただ、日が暮れると町に出て、灯りを点けて回る。そのむくいは、この、点け終えた町を見る、この一瞬にある。私の点けた灯りが、町を、あたたかく照らしている。その光景が、私の、たったひとつの、団欒なのかもしれない。町じゅうの灯りが、私の、家族なのかもしれない。
七
私は、ふと、空を見あげた。
いつのまにか、空は、すっかり暮れていた。宵闇が、藍を溶かしたように、深く沈んでいた。そのなかに、星が、ひとつ、ふたつと、灯りはじめていた。
と、東の空の低いところに、ひとつ、見なれぬ星があった。
蒼い星だった。ほかの星よりも、大きく、明るく、そして、尾をひいていた。ほのかな、青白い尾を。それは、家々の灯りと競うように、宵闇の空を、しずかに昇っていた。
彗星だ、と私は思った。
いつぞや、月光堂の女将が、話していた。「今年は、ミラという名の、めずらしい彗星が見えるそうでございますよ。青い尾をひいて、宵の空に昇るとか」と。あれが、そのミラ彗星か。
私は、しばし、その星を見あげた。
ふしぎな心持ちがした。私は、地上の灯りを点けて回る者だ。四十七本のガス灯を、宵ごとに点す。だが、あの空の蒼い星は、誰が点けたのだろう。あの星の灯りを点けたのは、いったい、どこの、どんな点灯夫なのだろう。
あるいは——と私は思った。天にも、点灯夫がいるのかもしれぬ。日が暮れると、長い長い点火棒をかついで、星から星へ、灯りを点けて回る者が。そして、あの蒼い彗星は、その天の点灯夫が、今宵、あたらしく点けた、いちばん新しい灯りなのかもしれぬ。
馬鹿げた空想だ。私は、ひとり、苦笑した。だが、その空想は、なぜか、私の胸を、あたためた。
地には、私の点けた四十七の灯り。天には、誰かの点けた、無数の星の灯り。そして、そのなかに、あたらしく昇る、蒼い彗星。地と天とが、灯りで、つながっている。私は、その大きな連なりの、いちばん下手の、船着き場のそばで、ひとり、点火棒を肩に、それを見あげている。
ひとりだが、ひとりぼっちではない。
あの子に言った言葉を、私は、思いだした。「灯りを自分で点けられる者は、もう、ひとりぼっちじゃない」と。私は、灯りを点けられる。だから私も、ひとりぼっちではないのだ。天の点灯夫と、私は、おなじ仕事をしている。それだけで、私は、ひとりではない。
八
帰り道、私は、また、あの坂の下の路地を通った。
長屋の木戸の隙間から、橙の灯りが、まだ、もれていた。あの子の、行灯の灯り。消えていなかった。
私は、木戸のそばで、しばし、足をとめた。
なかから、声がした。ふたつの声。
「おっかさん! おっかさん、おかえり!」
子どもの声だった。はずんだ、うれしそうな声。
「まあ、坊。灯りが、点いてるじゃないか。誰が、点けてくれたの」
母の声だった。おどろいたような、やわらかな声。
「おいらが、点けたんだよ! 灯りのおじさんが、火の点け方を教えてくれたんだ! 青いマッチをくれて! おいら、自分で点けられるようになったんだ!」
「まあ……坊が、ひとりで……」
母の声が、つまった。それから、ふたつの影が、行灯の灯りのなかで、ひとつになった。母が、子を、抱きしめたのだ。
私は、木戸の外で、それを聞いていた。
なかを、のぞきはしなかった。のぞく必要は、なかった。灯りのむこうで、母と子が抱きあっている、その光景は、聞くだけで、見えた。橙の灯りに包まれた、ちいさな団欒が。片方だけの手袋をはめた手が、母の背に回されている、その光景が。
私は、そっと、木戸のそばを離れた。
私の点けた灯りではない。あれは、あの子が、自分で点けた灯りだ。私は、火の点け方を教えただけだ。だが——教えるということもまた、灯りを点けることなのかもしれぬ、と私は思った。あの子の胸のなかに、私は、灯りを点けた。その灯りは、私が去ったあとも、消えずに燃えている。あの子が、生きているかぎり。
おきみに、私が教えたように。
おきみもまた、今ごろ、遠い在所で、灯りを点けているだろう。孫のために、行灯を点け、竈の火を熾しているだろう。私が教えた、火の点け方で。私は、おきみに会えずとも、おきみの点ける灯りのなかに、いる。おきみが灯りを点けるたび、そこに、私がいる。
灯りは、そうやって、わたされてゆく。種火から種火へ。親から子へ。点す者から、点される者へ。私が、あの一本目のガス灯を、みずからの手で擦って点し、その火を、次の柱へ、また次の柱へと、わたしていったように。
九
路地を出て、川端に出ると、私の点けた灯りが、また、目にはいった。
青白いガス灯が、川沿いに、点々と連なっている。その灯りの下を、夜商いの屋台がゆき、湯屋帰りの人がゆき、酔客がゆく。誰も、灯りを、見あげはしない。灯りは、あって当たり前。空気のように、そこにある。
私は、その灯りの連なりを、川端から、ながめた。
そして、思った。あの灯りは、明け方まで、燃えつづける。夜のあいだ、町を照らしつづける。そして、東の空が白みはじめるころ、また、点灯夫が——今度は、私ではなく、朝方の、消して回る者が——一本、また一本と、消して回るだろう。灯りは、点され、そして、消される。宵ごとに点され、暁ごとに消される。その繰りかえしのなかで、町は、生きている。
私は、点火棒を、肩にかつぎなおした。もう、火皿の火は、燃えつきかけていた。今宵の役目は、終わった。
空には、あの蒼い彗星が、いっそう高く、昇っていた。家々の窓明かりよりも、ガス灯の連なりよりも、高く、遠く。だが、おなじ灯りだ、と私は思った。地の灯りも、天の灯りも、彗星の蒼い尾も、みな、闇のなかに点された、ひとつの灯り。闇があるから、灯りがある。孤独があるから、団欒がある。翳りがあるから、あたたかみが、わかる。
私は、家路についた。
私の家には、待つ者はいない。帰れば、暗い。だが私は、もう、それを寂しいとは思わなかった。私は、みずからの手で、みずからの灯りを点ける。青いマッチは、あの子にやってしまったから、家には、別のマッチがある。それを擦って、私は、私の行灯を点す。橙の、あたたかな灯りを。
そして、その灯りの下で、私は、ひとり、茶を飲むだろう。ひとりだが、ひとりぼっちではない。町じゅうに、私の点けた灯りが燃えている。天には、無数の星が燃えている。あの子の長屋には、あの子の点けた灯りが燃えている。遠い在所には、おきみの点けた灯りが燃えている。私は、そのすべての灯りと、つながっている。
灯りを点ける者は、けっして、ひとりではない。
十
だが、その夜、私の胸には、ひとつ、消えぬ灯りがあった。
あの子の、片方だけの手袋。
なぜ、片方だけだったのか。私は、それを、訊かなかった。訊けなかった。だが、家に帰る道すがら、その手袋のことが、頭を離れなかった。赤くかじかんだ、もう片方の素手のことが。
私は、ふと、立ちどまった。
月光堂だ、と思った。
月光堂の女将なら、あの路地の子どものことを、知っているかもしれぬ。あの店は、あの子の長屋のちかくにある。女将は、町の子どものことを、よく知っている。そして——女将なら、片方の手袋を、なんとかしてくれるかもしれぬ。
私は、来た道を、少しもどった。細い路地の奥、月光堂の、小さな明かりが、灯っていた。ガラス戸のむこうに、蝋燭や燐寸のならぶ棚が見え、その奥に、女将の影があった。
私は、戸を、そっと引いた。ちりん、と、戸の鈴が鳴った。
「あら、点灯夫さん」と、女将が顔をあげた。齢のころ、六十ほどか。白髪を後ろでまとめ、こまやかな皺のなかに、やさしい目をしていた。「こんな時刻に、めずらしい。お仕事は、もう、おすみですか」
「ああ、点け終えた」と私は言った。「女将。ひとつ、頼みがある」
私は、あの子のことを話した。坂の下の長屋の、母を待つ子ども。行灯の油が切れ、闇のなかで、心細く待っていたこと。私が、火の点け方を教え、青いマッチを、やってしまったこと。そして——片方だけの、手袋のこと。
女将は、しずかに、聞いていた。聞き終えると、ちいさく、うなずいた。
「その子なら、存じております」と、女将は言った。「おさとさんの、坊やですね。太一ちゃん、といいます。おさとさんは、坂の上で、はたらいて……ええ、苦労しておいでです」
女将は、棚の奥から、なにかを取りだした。毛糸の、手袋だった。子どもの、ちいさな手袋。二つ、そろって。
「これを」と、女将は言った。「わたしが、編んだものです。冬に、路地の子らに、くばろうと思って。ちょうど、太一ちゃんの手に、あうでしょう。点灯夫さん、あなたから、渡してあげてくださいな」
私は、その手袋を、受けとった。あたたかい毛糸だった。橙に近い、飴色の毛糸。
「なぜ、私から」と私は訊いた。「女将から、渡してやればいい」
女将は、微笑んだ。灯りのなかで、その皺が、やさしく動いた。
「あの子は、あなたのことを、忘れませんよ」と、女将は言った。「火の点け方を教えてくれた、灯りのおじさんのことを。片方の手袋のことを、気にかけてくれた、あなたのことを。あなたから、両方そろった手袋を渡されたら、あの子は、一生、忘れません。灯りは、そうやって、人の胸に、点るのです。点灯夫さん。あなたは、ガス灯だけでなく、人の胸にも、灯りを点す人だ」
私は、なにも言えなかった。
女将は、それから、ふと、思いだしたように言った。
「そういえば、点灯夫さん。今宵、ミラ彗星が、見えたでしょう」
「ああ、見た」と私は言った。「東の空に、蒼い尾をひいて」
「あの彗星はね」と、女将は、灯りのなかで、しずかに言った。「三百年に一度しか、めぐってこないそうですよ。三百年。わたしたちは、二度とは、見られない。今宵、あの星を見たわたしたちは、みな、三百年に一度の夜に、居あわせたのです。あなたも、わたしも、太一ちゃんも、おさとさんも。おなじ、宵の空の下で」
三百年に一度の夜。私は、その言葉を、胸のなかで、繰りかえした。
十一
月光堂を出て、私は、また、坂の下の路地へと、足を向けた。
手袋を、太一に、渡すために。今宵のうちに。三百年に一度の、この夜のうちに。
路地の奥、長屋の木戸から、まだ、橙の灯りが、もれていた。私は、木戸のそばに立ち、そっと、声をかけた。
「太一」
なかで、声がやんだ。それから、とことこと、足音がして、木戸が、内から、細く開いた。太一の顔が、のぞいた。橙の灯りを背にして。
「あ……灯りのおじさん! 久助さん!」
「おっかさんは、帰ってきたか」
「うん! 帰ってきた! おいらの点けた灯りを見て、おっかさん、びっくりしてた!」
太一の顔は、さっきよりも、ずっと明るかった。母が帰り、灯りが灯り、闇は、もう、どこにもなかった。
私は、飴色の手袋を、太一に、さしだした。
「これを、坊に。両方そろった、あたたかい手袋だ。月光堂の女将が、坊のために、編んでくれた」
太一は、目を、まるくした。それから、おそるおそる、その手袋を、受けとった。片方だけの古い手袋をはめた手と、赤い素手とで。
「両方……そろってる」と、太一は、つぶやいた。
「ああ、両方だ」と私は言った。「もう、片方の手が、寒くない。両方、あったかい」
太一は、古い片方の手袋を、そっと、はずした。そして、あたらしい、飴色の手袋を、両方の手に、はめた。赤くかじかんでいた素手が、あたたかな毛糸に、つつまれた。
太一は、両手を、灯りにかざした。橙の行灯の灯りが、飴色の手袋を、いっそう、あたたかく染めた。そして、その灯りに照らされた太一の顔に、ゆっくりと、笑みが、ひろがった。
「あったかい」と、太一は言った。さっき、行灯の火を見て言ったのと、おなじ言葉を。「おじさん、あったかいよ」
「そうか」と私は言った。「あったかいか」
私の胸のなかにも、ひとつ、灯りが点った。橙の、あたたかな灯りが。おきみを育てていたころ、久しく忘れていた、あの、あたたかさが。
太一は、はずした古い片方の手袋を、両手で、だいじそうに握っていた。捨てるのではなく、握っていた。それは、太一が、片方だけで、寒さに耐えてきた、その日々の、しるしだったのだろう。私は、そのことに、なにも言わなかった。ただ、太一の頭に、そっと、手をのせた。
「坊。灯りを、大事にな」と私は言った。「行灯の灯りも、胸の灯りも。灯りは、点けるより、消さぬほうが、むずかしい。だが、坊なら、消さずにいられる。坊は、自分で、灯りを点けられる子だ」
太一は、こくり、と、うなずいた。
「久助さん」と、太一は言った。「おじさんも、灯り、消さないでね」
私は、はっとした。
子どもの、なにげない言葉だった。だが、その言葉は、まっすぐに、私の胸の、いちばん奥まで、届いた。私は、町じゅうの灯りを点けて回りながら、みずからの胸の灯りを、いつのまにか、翳らせていたのかもしれぬ。おきみが去り、妻が去り、待つ者のいない家に帰るたび、私は、みずからの灯りを、そっと、細めていたのかもしれぬ。
「ああ」と私は、しばらくして、言った。「おじさんも、消さないよ。坊が消さぬかぎり、おじさんも、消さぬ」
太一は、にっこりと、笑った。
十二
長屋を離れ、私は、家路についた。
夜は、いよいよ、ふけていた。町の灯りは、宵の賑わいを、しだいに、しずめてゆく。蕎麦屋の団欒も、いつか、灯りを消すだろう。花小路の華やぎも、いつか、しずまるだろう。だが、私の点けたガス灯だけは、明け方まで、燃えつづける。町の、寝ずの番のように。
私は、川端を、歩いた。
空を見あげると、あの蒼い彗星が、まだ、昇っていた。いっそう高く、いっそう蒼く。家々の窓明かりも、いまは、ほとんど消えて、団欒の刻は、過ぎつつあった。だが、彗星だけは、消えなかった。三百年に一度の、蒼い灯り。
私は、ふと、あの子守唄を、思いだした。おきみが、ちいさいころ、私が、寝かしつけに、うたってやった唄を。
——眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。
妻が、生きていたころ、妻がうたっていた唄だ。妻が逝ってからは、私が、おきみに、うたってやった。ちいさな行灯の下で。おきみが、眠りに落ちるまで。
私は、川端を歩きながら、その唄を、口のなかで、そっと、うたった。
眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。
あの蒼い彗星もまた、宵の空という海を、わたってゆくのだ、と私は思った。三百年をかけて、天の海を、ゆっくりと、わたってゆく。あの彗星が、次に、この町の空に帰ってくるとき、私は、もう、いない。おきみも、太一も、月光堂の女将も、いない。だが、そのときにも、点灯夫は、いるだろう。日が暮れると、点火棒をかついで、町に、灯りを点けて回る者が。そして、その者もまた、あの蒼い彗星を見あげ、地の灯りと、天の灯りの、つながりを、思うだろう。
灯りは、わたされてゆく。三百年を越えて。
私は、家に帰りついた。
木戸を開けると、なかは、暗かった。待つ者はいない。だが、私は、もう、その暗さを、こわいとは思わなかった。私は、マッチを擦った。しゅっ、と、火が立った。青いマッチではない。だが、おなじ火だ。私は、その火を、行灯の灯芯に、ちかづけた。
ぽっ、と、橙の灯りが、点った。
あたたかな、飴色の灯り。それが、私のちいさな部屋を、じわりと、押しひろげた。壁がうかび、畳がうかび、隅の茶棚がうかんだ。そして、その灯りの下に、私は、ひとり、座った。
ひとりだ。だが、ひとりぼっちではない。
私は、行灯の灯りを、しばし、見つめた。橙の火影が、ゆらゆらと、揺れていた。その灯りのなかに、私は、いろいろなものを見た。おきみの顔を。妻の顔を。太一の、笑った顔を。月光堂の女将の、やさしい皺を。蕎麦屋の、団欒を。そして、町じゅうに連なる、私の点けた、青白いガス灯を。
灯りを点ける者は、けっして、ひとりではない。なぜなら、点けた灯りのすべてが、その者の、家族だからだ。私は、町じゅうの灯りの、父なのだ。四十七本のガス灯の、そして、太一の胸に点した灯りの、おきみの胸に点した灯りの、父なのだ。
私は、茶を、いれた。ひとり分の茶を。
湯気が、行灯の灯りのなかで、ほのかに、立ちのぼった。私は、それを、すすった。あたたかかった。
窓の外を見ると、空に、あの蒼い彗星が、まだ、燃えていた。私の行灯の、橙の灯りと、あの彗星の、蒼い灯りとが、おなじひとつの夜のなかに、並んで、燃えていた。橙と、蒼。あたたかみと、遠さ。団欒と、孤独。だが、それは、対ではなく、ひとつなのだ、と私は思った。橙のなかに蒼があり、蒼のなかに橙がある。孤独のなかに団欒があり、団欒のなかに孤独がある。灯りとは、そういうものだ。
私は、行灯の灯りを、そのままにして、床についた。
いつもなら、寝るまえに、灯りを消す。油を、けちるために。だが、今宵だけは、消さなかった。太一の言葉が、耳に、のこっていた。「おじさんも、灯り、消さないでね」と。
私は、行灯の灯りを、灯したまま、目を、閉じた。
まぶたのうらに、橙の灯りが、ほのかに、ゆれていた。そのゆれのなかで、私は、あの子守唄を、もう一度、口のなかで、うたった。
眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。
そして、私は、眠りに落ちた。町じゅうの灯りに、見守られながら。天の、無数の星の灯りに、見守られながら。三百年に一度の、蒼い彗星の下で。
十三
あくる日も、日は、暮れた。
そして、私は、また、点火棒をかついで、町に出た。腰には、あたらしく月光堂で求めた、青いマッチ箱を差して。柳のたもとの、一本目の柱の下で、私は、マッチを擦った。しゅっ、と、火が立った。種火にうつし、火皿にわたし、柱の口へ。しゅう、と、青白い炎が、咲いた。
世界にひとつきりの、最初の灯り。
私は、それを見あげ、しずかな誇りを、胸に感じた。昨日と、おなじように。だが、昨日とは、どこか、ちがっていた。私の胸のなかに、ひとつ、あたらしい灯りが、点っていたからだ。太一の点した、あの、橙の灯りが。
私は、次の柱へと、歩きだした。
通りには、また、宵の賑わいが、はじまっていた。蕎麦屋の格子には、また、団欒の飴色の灯りが、ゆれていた。湯屋の暖簾から、また、湯上がりの女が出てきた。八百屋の主人が、また、片手をあげた。私も、こたえた。
そして、坂の下の路地を通ったとき——
長屋の木戸のそばに、ちいさな影が、ひとつ、立っていた。
太一だった。飴色の手袋を、両手にはめて。私を見つけると、太一は、ぱっと、駆けよってきた。
「久助さん! 灯りのおじさん!」
「おう、太一。どうした」
「おいら、待ってたんだ」と、太一は、息をはずませて言った。「久助さんが、通るの。おいらも、いっしょに、灯りを点けたい。だめ?」
私は、太一を見た。飴色の手袋の手に、あの、青いマッチ箱を、握っていた。私が、やった、あの箱を。
私は、笑った。
「いいとも」と私は言った。「だが、火は、あぶない。おじさんの、そばを、離れるなよ」
「うん!」
太一は、私のあとを、ついてきた。柱から、柱へ。私が、点火棒で、灯りを点けるのを、太一は、目を、かがやかせて、見ていた。しゅう、と、青白い炎が咲くたび、太一は、「点いた!」と、うれしそうに、声をあげた。
そうして、私たちは、宵の町を、灯りを点けながら、歩いた。
点灯夫と、そのあとをついてゆく、ちいさな影と。橙の手袋の手と、青いマッチ箱と。宵闇のなかに、点々と、青白い灯りが、連なってゆく。そして、その灯りの、いちばん最後を、点け終えたころ——
東の空に、また、あの蒼い彗星が、昇りはじめた。
「久助さん」と、太一が、空を指さして言った。「あれ、なに? 青い、お星さま」
「あれはな」と私は言った。「ミラ彗星、という。三百年に、一度しか、めぐってこない、めずらしい星だ。おまえと、おじさんが、今宵、いっしょに見た、この星は、次に来るときには、もう、おまえも、おじさんも、いない」
太一は、じっと、その蒼い星を、見あげた。それから、言った。
「じゃあ、おいらの子どもか、孫が、見るんだね。三百年、あとに」
私は、はっとした。子どもの、なにげない言葉だった。だが、その言葉のなかに、私の、この一日で、思ったことの、すべてが、あった。
「そうだ」と私は言った。「おまえの、子や、孫が、見る。そのとき、その子らは、火の点け方を、知っているだろうか」
「知ってるよ」と、太一は、きっぱりと言った。「おいらが、教えるもん。久助さんが、おいらに教えてくれたみたいに」
私は、しばし、言葉を、失った。それから、太一の頭に、手をのせた。
「そうか」と私は言った。「おまえが、教えるか」
「うん。おいらが、教える」
私は、空を、見あげた。蒼い彗星が、家々の灯りと競うように、宵闇を、昇っていた。三百年後、この星が帰ってくるとき、この町には、また、点灯夫がいるだろう。あるいは、そのころには、ガス灯は、消えて、べつの灯りに、なっているかもしれぬ。それでも、灯りを点ける者は、いるだろう。そして、その者もまた、誰かに、火の点け方を、教わったのだ。種火から、種火へ。灯りは、そうやって、三百年を越えて、わたされてゆく。
私は、点火棒を、肩にかつぎなおした。
「さあ、太一。おっかさんが、待っている。帰ろう」
「うん」
私たちは、坂を、くだった。宵闇の町を、青白いガス灯が、点々と、照らしていた。その灯りの下を、大きな影と、ちいさな影が、ならんで、歩いていった。空には、蒼い彗星。地には、無数の灯り。橙と、蒼と。団欒と、孤独と。だが、そのすべてが、おなじひとつの、宵の空の下に、あった。
灯りを点ける者は、けっして、ひとりではない。灯りを、わたす者が、いるかぎり。そして、わたされた灯りを、また、次へと、わたす者が、いるかぎり。
私は、太一と、ならんで、歩いた。橙の手袋の、ちいさな手が、私の、点火棒を持たぬほうの手を、そっと、握った。あたたかかった。三百年に一度の、蒼い星の下で、その手の、あたたかさだけが、この宵の、たったひとつの、たしかなものだった。