停電の夜のひとつの炎
灯りが消えたその瞬間に、この家がどれほどの音で満ちていたのかを、わたしたちはようやく知った。
一
夕食のあとかたづけの途中だった。
母が流しに立ち、皿を洗っていた。父はソファでスマートフォンをのぞきこみ、指先で画面を上へ上へと弾いていた。姉の美琴は自分の部屋でイヤホンをして、たぶん動画を見ていた。そしてわたし、悠介は、ダイニングテーブルの端で、明日の理科のプリントを、消しゴムで擦っては書き直していた。
わたしたちは同じ家のなかにいて、けれど、ばらばらだった。
それぞれの手のなかに、それぞれの小さな明かりがあった。テレビの青白い光。スマホの光。パソコンの光。そのどれもが、冷たい蛍光の色をしていて、顔の下半分だけを、幽霊のように照らしていた。台所の天井の蛍光灯だけが、部屋ぜんたいを、平たく、影のない白さで満たしていた。
「悠介、字が薄いよ。もっと濃く書きなさい」
母が振り返らずに言った。母には、背中にも目があるらしかった。わたしは「うん」とだけ答えて、鉛筆を握りなおした。芯の先が、プリントの上を、かさかさと乾いた音で滑っていく。
その音の上に、テレビの音が重なっていた。何かのバラエティ番組で、大勢の人が、いっせいに笑っていた。わたしはその笑い声を、ずっと前から聞いているような気がした。生まれてからずっと、この部屋には、知らない誰かの笑い声が流れつづけているような気がした。
その笑い声に、だれも、笑わなかった。父も、母も、姉も、わたしも、だれひとり、その笑いに、つられなかった。テレビのなかの人たちだけが、勝手に笑って、勝手に盛り上がって、勝手に、しあわせそうにしていた。わたしたちは、その笑いを、まるで、遠い国のできごとみたいに、聞き流していた。部屋は、笑い声で満ちているのに、この部屋の、だれひとり、笑っていなかった。いま思えば、それは、少し、ふしぎな眺めだった。
わたしは、そのとき、ほんとうは、少しだけ、さびしかったのかもしれない。けれど、そのさびしさに、名前をつけることは、できなかった。だって、家族は、みんな、そろって、ここにいたのだから。同じ屋根の下に、四人、そろっていたのだから。それなのに、さびしいなんて、おかしいと思った。だから、わたしは、そのさびしさを、鉛筆の先に、こめるようにして、プリントの余白に、意味のない線を、いくつも、書いた。
七月の、蒸し暑い宵だった。
窓の外はもう、すっかり暗くなっていた。夕方の六時にはまだ、西の空にオレンジ色の帯が残っていたのに、七時をまわった今は、その帯も溶けてなくなって、あとには濃い藍色の闇だけが残っていた。向かいのマンションの窓に、ぽつり、ぽつりと明かりがともっているのが見えた。あの窓のひとつひとつに、たぶん、わたしたちのような家族がいて、たぶん、わたしたちのように、ばらばらの明かりを見つめているのだろう。
エアコンが低く唸っていた。冷蔵庫も、それに答えるように唸っていた。テレビの笑い声。皿を洗う水の音。父がときどき、スマホの何かに、ふん、と鼻を鳴らす音。
それらのすべてが、あたりまえのように、そこにあった。
だから、それが消えたとき――ほんとうに、何もかもが、いっぺんに消えたとき――わたしたちは、しばらくのあいだ、自分の身に何が起きたのか、わからなかった。
ぶつり、という感じではなかった。
もっと、なめらかに、世界からいろいろなものが抜けていくような、そういう消え方だった。テレビの笑い声が、途中で、口をつぐんだ。冷蔵庫の唸りが、ため息をつくように止まった。エアコンの風が、ふっと死んだ。天井の蛍光灯が、まばたきひとつせずに、真っ暗になった。
そして、闇が来た。
二
「あれ」
と、父が言った。
「あれ、なんだ」
暗闇のなかで、父の声だけが、ぽつんと浮かんでいた。父の手のなかで、スマホの画面だけが、まだ光っていた。その青白い光が、父の顔を、下から、たよりなく照らしていた。
「停電?」
母の声がした。台所のほうから。水の音が止まっていた。いつのまにか止まっていた。
「停電だな」
父が立ち上がる気配がした。ソファがきしむ音。父はスマホの光を、天井のほうへ、それから壁のほうへ、うろうろとさまよわせた。光の届く範囲だけが、丸く、ぼんやりと明るくなって、その外側には、もっと濃い闇が広がっていた。
「ブレーカーかな」
「ちがうと思う。ほら」
母が窓のほうを指さした――のだと思う。暗くて、よく見えなかった。けれど、わたしも窓のほうを見た。
さっきまで、ぽつり、ぽつりとともっていた、向かいのマンションの窓の明かりが、ぜんぶ、消えていた。
ひとつ残らず、消えていた。
まるで、だれかが大きな手で、街ぜんたいの明かりを、いっせいに握りつぶしてしまったみたいだった。いつもなら、夜でも、窓の外にはかならず、何かしらの光があった。街灯。信号。遠くのコンビニ。走る車のヘッドライト。けれど今は、そのどれもが、なかった。
外は、完全な、闇だった。
「うわ」
と、わたしは思わず声を出した。
「地域ぜんぶ、いってるのか、これは」
父が、少し感心したような声で言った。父は窓に近づいて、外をのぞいた。父の背中が、闇のなかに、黒いかたまりになって浮かんでいた。
そのとき、二階から、どたどたと足音がした。
「ねえ、なんで消えたの!? わたしのパソコン、途中だったんだけど!」
姉の美琴だった。姉は、スマホのライトを点けて、その白い光を、槍のように前に突き出しながら、階段を下りてきた。ライトの光が、壁を、天井を、めちゃくちゃに舐めまわした。その光のなかで、埃が、きらきらと舞っているのが見えた。
「停電だよ」
わたしが言うと、姉は「見りゃわかる」と言い返した。姉はいつも、そういう言い方をした。
「ちょっと、最悪なんだけど。配信の途中だったのに。えー、これ、いつ戻るの? ねえ、いつ戻るの?」
「さあな。電力会社に聞いてみないと」
父はそう言って、自分のスマホをいじろうとした。けれど、そのスマホの画面が、すっと暗くなった。
「あれ」
父がボタンを押した。もう一度。
「……あ、電池、切れた」
沈黙が落ちた。
わたしたちは、暗闇のなかで、たがいの顔も見えないまま、しばらく黙っていた。父のスマホは、さっきまでずっと動画を見ていたせいで、電池がほとんど残っていなかったらしかった。姉のスマホのライトだけが、心細い光を、まだ放っていた。
「わたしのも、もうすぐ切れる。四パーセント」
姉が、絶望したような声で言った。
「懐中電灯は」
母が言った。
「どこだっけ」
「防災リュックのなか、じゃない?」
「あれ、どこにしまったっけ」
「押し入れの、いちばん上」
「あんな高いとこ、この暗さで登れないでしょ」
家族の声が、闇のなかで、行ったり来たりした。だれの顔も見えなかった。ただ、声だけが、ふわふわと、宙を漂っていた。ふしぎな感じだった。顔が見えないぶん、声が、いつもより近くに聞こえた。
母が、ふと、思い出したように言った。
「そうだ。台所の引き出しに、蝋燭があったはず」
三
母は、暗闇の台所を、手さぐりで進んでいった。
わたしたちは、姉のスマホの、残りわずかな光を頼りに、母のあとをついていった。台所の、いちばん下の、いつも開けたことのない引き出し。母がそれを引くと、かたかたと、なかで何かが転がる音がした。
「あった」
母の手のなかに、蝋燭が三本あった。白い、細い、なんの飾りもない蝋燭だった。いつか、どこかの誰かの結婚式か、あるいは仏壇のために買ったものが、余って、そのまま忘れられていたのだろう。うっすらと、埃をかぶっていた。
「マッチは。ライターでもいいけど」
「ライターなんて、うちにないでしょ。誰も煙草吸わないし」
「じゃあ、マッチ」
母は、また引き出しのなかを、手さぐりでかきまわした。
そして、その手が、止まった。
「……これ、なんだっけ」
母がつまみ上げたのは、小さな、四角い箱だった。姉のスマホの光を近づけると、それは、深い、藍色をしていた。青いような、紺のような、闇の底のような色。そのおもてに、銀色の箔で、細い三日月が刻まれていた。三日月の下に、小さな文字で、こう書いてあった。
月光堂。
「なにこれ。マッチ?」
姉が、光を近づけながら言った。
「マッチだ」
父が言った。
「けど、うちで買った覚えがないな。母さん、買ったか?」
「ううん。わたしも、覚えがない。いつのまにか、あったのよ、この引き出しに。ずっと前から」
母は、その箱を、しげしげと見つめた。青いマッチ箱は、光のなかで、しっとりと濡れたような艶を放っていた。まるで、いま、どこか遠いところから、この闇のためだけに、届けられたもののように見えた。
「まあ、いいや。使えれば」
母は箱を開けた。なかには、赤い頭のマッチが、きちんと、行儀よく、並んでいた。まるで、いつでも使われるのを待っていたみたいに。
母は、一本、取り出した。
そして、箱の横で、擦った。
しゅっ、という音がした。
その音は、わたしがこれまでの人生で聞いたことのある、どんな音ともちがっていた。テレビの音でもなく、スマホの音でもなく、笑い声でもなかった。ちいさな、乾いた、けれど、たしかに、生きている音だった。
燐の匂いがした。すこし、鼻の奥をつんとさせる、なつかしいような匂い。そして、母の指先に、小さな炎が立った。
橙色の、揺れる炎だった。
その炎の色を見た瞬間、わたしは、なぜだか、息をのんだ。
それは、蛍光灯の白でもなく、スマホの青でもなかった。もっと、あたたかい色だった。飴のような、蜂蜜のような、夕焼けのいちばん濃いところのような、そういう色だった。その色が、母の指を、頬を、目を、下から、やわらかく照らした。
母の顔が、闇のなかに、ぽっと浮かんだ。
わたしは、母のそんな顔を、久しぶりに見たような気がした。いつも台所で、蛍光灯の下で見ている母の顔は、平たくて、影がなくて、少し疲れているように見えた。けれど、この炎の下の母の顔には、影があった。ゆらゆらと揺れる、やわらかな影が。そして、その影のせいで、母の顔は、なぜだか、若く見えた。わたしの知らない、昔の母の顔のように見えた。
母は、その炎を、蝋燭の芯へ、そっと近づけた。
けれど、なかなか、火は、うつらなかった。マッチの炎が、母の指先で、じりじりと、短くなっていく。母が、ちょっと、あわてた声を出した。「あつ」。もう少しで、火が、母の指まで、届きそうだった。父が、横から、両手で、そっと、風を、さえぎった。ないはずの風を、さえぎるように。姉が、息を、止めた。わたしも、止めた。
そして、その、みんなが息を止めた、しずかな一瞬に――炎が、うつった。
蝋燭が、灯った。
母が、マッチを、ふっと、吹き消した。細い、白い煙が、ひとすじ、立ちのぼって、闇のなかに、溶けていった。燐の匂いが、また、ふわりと、した。
わたしたちは、だれからともなく、ほうっと、息をついた。まるで、とても、たいへんなことを、成しとげたみたいに。たった、蝋燭に、火を、つけただけなのに。ふだんなら、指一本で、スイッチを押せば、部屋じゅうが、いっぺんに明るくなるのに。その夜は、この、たった一本の、小さな炎を、灯すのに、四人が、力を合わせて、息を止めた。そのことが、なぜだか、わたしには、とても、たいせつなことのように、思えた。
四
わたしたちは、その一本の蝋燭を、ダイニングテーブルの真ん中に置いた。
小皿の上に、蝋を少し垂らして、その上に蝋燭を立てた。母がそうやって固定するのを、わたしたちは、じっと見ていた。だれも、何も言わなかった。ただ、その一点の炎を、四人で、囲んでいた。
炎は、揺れていた。
エアコンが止まって、風がないはずなのに、炎は、たえず、かすかに揺れていた。わたしたちの息で揺れているのか、それとも、炎というものが、もともと、じっとしていられないものなのか、わたしにはわからなかった。けれど、その揺れが、部屋ぜんたいを、生きもののように、脈打たせていた。
壁に、四人の影が映っていた。
大きな、黒い影だった。炎が揺れるたびに、影も、いっしょに揺れた。伸びたり、縮んだり、重なったり、離れたり。わたしたちの影は、わたしたち自身よりも、ずっと大きくて、ずっと自由に見えた。
「なんか」
と、姉が言った。姉のスマホは、とうとう、完全に電池が切れて、真っ暗になっていた。姉は、それを、ポケットにしまった。しまうしかなかった。
「なんか、いいね、これ」
姉が、そう言うのを、わたしは初めて聞いた気がした。姉は、いつも、何かに文句を言っていた。学校のこと、友だちのこと、親のこと、世界ぜんぶのこと。けれど、いまの姉の声には、その、とがったところが、なかった。
「ろうそくの明かりって、こんなにあかるいんだ」
姉は、炎に手をかざした。指のあいだから、橙色の光が、こぼれた。
「ほんとにね」
母が言った。母は、椅子に腰かけた。いつも、食事のあとも立ちっぱなしで、洗い物をして、次の日の準備をして、けっして座ることのない母が、その夜は、椅子に座った。
「昔はね」
母が、炎を見つめながら、言った。
「おばあちゃんの家、田舎だったでしょう。あそこ、よく停電したのよ。台風のたびに。そうすると、ひいおばあちゃんが、行灯を出してきてね」
「あんどん?」
わたしが聞くと、母が「行く、灯り、って書くのよ」と教えてくれた。
「木の枠に、和紙を貼った箱でね、なかに、油の皿を置いて、灯芯に火をつけるの。ぼうっと、赤くて、やわらかい明かりでね。停電になると、みんな、その行灯のまわりに集まって。ほかに、することもないから」
「暇じゃん」
姉が言った。けれど、その言い方は、ばかにしているのではなかった。
「暇よ。暇だったの。でもね、その暇な時間に、ひいおばあちゃんが、いろんな話をしてくれた。戦争のときの話とか、若いときの話とか。あのときの話は、いまでも、覚えてる。ぜんぶ、覚えてる」
母は、そこで、少し黙った。炎が、ゆらり、と揺れた。母の目のなかにも、小さな炎が、ふたつ、映っていた。
「テレビがついてたら、たぶん、覚えてなかったと思う」
母は、そう言って、また、少し、黙った。
「ひいおばあちゃんの声、どんな声だったか、いまでも、思い出せるのよ。低くて、ちょっと、かすれてて。あの行灯の、赤い光のなかで聞いた声だから、覚えてるのかもしれない。明るいところで聞いた話って、なんでかしら、あんまり、残らないの。まぶしいと、こう、するっと、通りぬけていっちゃう。でも、暗いところで聞いた話は、ずっと、残る。暗いと、耳が、よくなるのかもね」
「耳が、よくなる」
姉が、その言葉を、くりかえした。
「そう。目が、あんまり見えないぶん、耳が、よく聞こえるようになるの。それに、心も。暗いと、心も、よく、聞こえるようになる。相手の心が。自分の心も」
わたしは、そのとき、さっき感じた、あの、名前のつけられなかったさびしさを、思い出した。明るい部屋で、テレビの笑い声のなかで、わたしは、自分のさびしさに、名前をつけられなかった。けれど、いま、この暗いところでなら、つけられそうな気が、した。あれは、たぶん――そばにいるのに、遠い、というさびしさだった。同じ部屋にいるのに、だれの心も、聞こえない。そういう、さびしさだった。
そして、いまは、それが、聞こえていた。母の心も。父の心も、たぶん。姉の心さえも。
五
父が、台所から、何かを持って戻ってきた。
暗くて、最初は、何かわからなかった。父が、それを、テーブルの上に、どん、と置いた。蝋燭の光が、それを照らした。
菓子の缶だった。古い、大きな、丸い缶。ふたに、外国の風景の絵が描いてある、あの、いかにも贈答品らしい缶。
「これ、なんだっけ」
姉が聞いた。
「裁縫箱じゃない、それ」
母が言った。
「いや、ちがう。ほら」
父が、ふたを開けた。
なかから出てきたのは、トランプと、花札と、それから、うすっぺらい、折りたたみの将棋盤だった。ずっと使っていなかったらしく、トランプの箱は、角が、やわらかくつぶれていた。
「あった、あった。こんなとこにあったのか」
父は、なぜだか、うれしそうだった。父が、こんなふうに笑うのを、わたしは、しばらく見ていなかった。父はいつも、疲れた顔で帰ってきて、ソファに沈みこんで、スマホを見て、そのまま寝てしまう人だった。
「せっかくだから、やるか。ほかに、することもないし」
父が言った。「ほかに、することもない」――その言葉を、その夜、わたしたちは、何度も口にした。そして、そのたびに、なぜだか、ほっとした。することがある、というのは、たぶん、とても忙しくて、とても孤独なことなのだと、わたしは、ぼんやりと思った。することが、ない。だから、わたしたちは、ここにいる。この一本の炎のまわりに、ただ、いる。
トランプが、配られた。
炎の下で、カードの数字は、少し見えにくかった。わたしたちは、目を細めて、カードをのぞきこんだ。ハートの3なのか、5なのか、8なのか。すぐには、わからなかった。だから、わたしたちは、カードを、炎に、近づけた。四つの顔が、いっせいに、テーブルの真ん中の、たった一本の炎のほうへ、寄っていった。額と額が、ぶつかりそうなくらい、近くに。姉の髪から、シャンプーの匂いがした。父の腕から、少し、汗の匂いがした。わたしは、家族の匂いを、こんなに近くで嗅いだのは、いつぶりだろう、と思った。
「近いって」
姉が、笑いながら言った。けれど、だれも、はなれなかった。はなれたら、カードが、見えないからだ。わたしたちは、この一本の炎に、寄り集まるしか、なかった。そして、寄り集まるより、ほかに、したいことも、なかった。
父が、ルールの怪しい神経衰弱を提案し、姉が「それ、まちがってる」と訂正し、母が笑い、わたしが、いちばん最初に負けた。
わたしたちは、笑った。
大きな声で、笑った。
その笑い声は、テレビから流れてくる、知らない誰かの笑い声とは、まるでちがっていた。それは、この部屋の、わたしたちの、わたしたちだけの笑い声だった。壁に映る影も、いっしょに、揺れて、笑っていた。炎が、その笑い声のたびに、うれしそうに、ちらちらと、跳ねた。
停電というのは、ふしぎだった。
電気が消えて、いろいろなものが、使えなくなった。テレビも、スマホも、パソコンも、冷蔵庫も、エアコンも。便利なものが、ぜんぶ、死んだ。わたしたちは、不便に、なった。
けれど、その不便さが、わたしたちを、この一本の炎のまわりに、集めた。
ふだんは、それぞれの部屋で、それぞれの明かりを見つめて、ばらばらだったわたしたちを、たった一本の蝋燭が、ひとつに、集めた。
明かりが、たくさんあると、人は、ばらばらになる。
明かりが、ひとつしかないと、人は、寄り集まる。
わたしは、その夜、そのことを、知った。
六
夜は、ふけていった。
トランプにも、花札にも、飽きたころ、わたしたちは、ただ、話をした。
暗闇のなかで、話をするのは、ふしぎな感じだった。顔が、よく見えないから、なんだか、言いやすかった。ふだんなら、恥ずかしくて言えないようなことも、この闇と、この炎のなかでなら、するりと、口から出た。
姉が、学校の友だちと、ちょっと、うまくいっていない、という話をした。
わたしは、驚いた。姉が、そんな悩みを持っているなんて、知らなかった。姉は、いつも、強くて、自信に満ちていて、何も怖くないみたいに見えた。けれど、闇のなかの姉の声は、少し、震えていた。
「あんたには、わかんないと思うけど」
姉は、わたしに、そう言った。けれど、その言い方は、いつもの、とげのある言い方ではなかった。それは、なんというか、助けを、求めているような、言い方だった。
母が、姉の話を、じっと、聞いていた。ふだんの母なら、「そんなの、こうすればいいのよ」と、すぐに、答えを言ってしまう人だった。けれど、その夜の母は、ただ、聞いていた。「そう」「うん」「そうだったの」と、あいづちを打ちながら、ただ、聞いていた。
炎が、揺れていた。
父が、ぽつりと、言った。
「父さんも、若いころ、そういうの、あったよ」
「え」
姉が、顔を上げた。
「会社に入ったばっかりのころ。まわりが、みんな、できるやつばっかりに見えてさ。自分だけ、だめなんじゃないかって。毎日、朝、家を出るのが、こわかった」
わたしは、父の、そんな話を、初めて聞いた。父にも、こわいものがあったなんて、考えたこともなかった。父は、大きくて、いつも疲れていて、けれど、こわいものなんて、何もないように見えた。
「どうしたの、それ」
姉が聞いた。
「どうもしないよ。ただ、続けた。毎日、家を出て、会社に行って、帰ってきて。そうしてるうちに、いつのまにか、あんまり、こわくなくなってた。なんでかは、わからない。ただ、時間が、なんとかしてくれた」
父は、そう言って、少し、笑った。
「あんまり、参考にならないな」
「ならないね」
姉が言って、みんなが、笑った。
「でもさ」
と、姉が、炎を見つめながら、言った。
「お父さん、いつも、疲れた顔で帰ってくるじゃん。わたし、あれ、見るの、ちょっと、つらかったんだよね。なんか、お父さん、しあわせじゃないのかなって。わたしたちのせいで、無理して、働いてるのかなって」
父は、少し、驚いたようだった。しばらく、何も言わなかった。炎が、揺れた。父の、大きな影が、壁の上で、ゆっくりと、かたちを、変えた。
「そんなふうに、思ってたのか」
「うん」
「そうか」
父は、また、少し、黙った。そして、ぽつりと、言った。
「疲れてるのは、ほんとうだよ。しんどいことも、たくさんある。でもな、しあわせじゃない、ってことは、ないんだ。むしろ、逆だよ。しんどいことがあっても、こうやって、家に帰ってくると、みんながいる。それだけで、なんとか、なる。おまえたちがいるから、しんどくても、しあわせなんだ。それは、ちょっと、うまく言えないんだけどな」
「うまく言えてるよ」
母が、静かに、言った。
姉は、何も言わなかった。けれど、姉の目のなかで、小さな炎が、いつもより、ゆらゆらと、揺れているように、見えた。もしかしたら、それは、涙だったのかもしれない。暗くて、よく、わからなかった。けれど、暗くて、よかった、と、わたしは思った。姉は、たぶん、明るいところでは、泣けなかったから。この、揺れる、飴色の暗がりだから、姉は、そっと、泣くことが、できたのだ。
けれど、その笑いは、あたたかかった。参考にならない話を、わたしたちは、聞きたかったのだと思う。答えなんて、いらなかった。ただ、この人にも、こういうことが、あったんだ。この人も、こわかったんだ。それを、知りたかった。それだけで、じゅうぶんだった。
炎は、まだ、揺れていた。
蝋燭は、少しずつ、短くなっていた。溶けた蝋が、皿の上に、白い、なめらかな山を、つくっていた。母が、二本目の蝋燭に、火を移した。青いマッチ箱は、テーブルの端で、その、しっとりとした藍色を、炎に照らされて、静かに光っていた。
わたしは、その箱を、そっと、手に取った。
三日月の、銀の箔。月光堂、という、小さな文字。
どこで、手に入れたのだろう。だれも、覚えていない。いつのまにか、この家の、いちばん下の引き出しに、あった。そして、この夜のために、ずっと、待っていた。この、たった一本の炎を、灯すために。
七
母が、ふと、口ずさんだ。
小さな声だった。ほとんど、息のような声だった。
「眠れ、眠れ……星が海をわたるまで」
その、ふしぎな旋律を、わたしは、どこかで、聞いたことがある気がした。ずっと、ずっと昔。まだ、言葉も、うまく話せなかったころ。だれかの腕のなかで、揺られながら、聞いた気がした。
「それ、なに」
わたしが聞くと、母は、少し、はにかんだように笑った。
「子守唄よ。あなたたちが、赤ちゃんのころ、よく歌ったの。おばあちゃんが、わたしに歌ってくれて。そのまた前は、ひいおばあちゃんが、おばあちゃんに歌ってくれて」
「へえ」
「眠れ、眠れ、星が海をわたるまで――ってね。星が、海をわたる、なんて、ふしぎな歌でしょう。星は、空にあるものなのに。海を、わたるなんて」
母は、そう言って、窓のほうを、見た。
「でも、昔の人は、見たのかもしれないわね。星が、海を、わたるのを」
わたしも、窓のほうを、見た。
そして、気がついた。
さっきまで、真っ暗だった窓の外に、いつのまにか、無数の、光が、あった。
星だった。
停電で、街の明かりが、ぜんぶ消えたから、空の星が、くっきりと、見えていた。こんなにたくさんの星が、この街の空にあったなんて、わたしは、知らなかった。いつもは、街の明かりが、まぶしすぎて、星なんて、ほとんど見えなかった。せいぜい、いちばん明るい星が、いくつか、見えるくらいだった。
けれど、その夜は、ちがった。
空ぜんたいが、星で、埋まっていた。
「ちょっと、外、見てみない?」
母が言った。
八
わたしたちは、二本目の蝋燭を持って、ベランダに出た。
夜の空気は、まだ、蒸し暑かった。けれど、風が、少しだけ、あった。その風が、汗ばんだ肌を、そっと、なでていった。
見あげると、空が、あった。
いままで、この街の空に、これほどの星があったなんて、わたしは、想像もしていなかった。天の川が、うすい、白い霧のように、空を横切っていた。無数の、大小の星が、瞬いていた。ある星は、青く。ある星は、赤く。ある星は、金色に。それらは、まるで、地上に散らばった、わたしたちの家々の明かりが、そっくりそのまま、空にうつしとられたみたいだった。
遠くのほうで、犬が、一度だけ、ほえた。それから、また、しずかになった。停電した街は、ふしぎなくらい、しずかだった。いつも、街を満たしている、あの、機械の唸りが――エアコンの室外機や、自動販売機や、遠い車の音が――ぜんぶ、消えていた。街ぜんたいが、息を、ひそめているみたいだった。その静けさのなかで、星の光だけが、しんしんと、降ってくるようだった。音のない光が、こんなにも、たくさん、空にあるということを、わたしは、生まれて初めて、知った。
「きれい」
姉が、つぶやいた。
「ほんとに、きれい」
姉は、もう、スマホのことも、パソコンのことも、忘れているようだった。姉は、ただ、空を見あげていた。その横顔を、二本目の蝋燭の、橙色の炎が、下から、やわらかく、照らしていた。
そのときだった。
わたしは、東の空の、低いところに、ひとつ、ふしぎな光を、見つけた。
ほかの星とは、ちがっていた。
ほかの星は、まるい点だった。けれど、その光は、まるくなかった。それは、ほそく、尾を、引いていた。にじむような、青白い光の尾を、すうっと、空に、引いていた。
そして、その色が、ふしぎだった。
蒼かった。
夜明けの空の、いちばん深い青のような。水の底の、いちばん冷たい青のような。そういう、蒼い、蒼い光だった。
「あれ、なに」
わたしが指さすと、みんなが、その方向を、見た。
「彗星だ」
父が言った。父の声は、少し、かすれていた。
「彗星だよ、あれ。ずっと前に、新聞で読んだことがある。何十年に一度、見えるっていう、彗星だ。名前は……なんだったかな……ミラ、だ。ミラ彗星」
「ミラ」
わたしは、その名を、口のなかで、くりかえした。ミラ。
その蒼い星は、地上の、消えてしまった家々の明かりの、いちばん高いところで、ひとりだけ、まだ、灯りつづけているように見えた。まるで、地上の明かりが、みんな消えてしまったから、そのぶん、自分が、いっしょうけんめい、灯ろうとしているみたいに。家々の、消えた窓明かりと、競うように。あるいは、その、消えた明かりの、身がわりのように。
蒼い光は、静かに、尾を引いていた。
「星が、海を、わたるまで」
母が、また、小さく、口ずさんだ。
そして、わたしは、思った。もしかしたら、昔の人が見た、海をわたる星、というのは、あれのことだったのかもしれない、と。何十年かに一度、空を、すうっと、わたっていく、あの、蒼い星。海のように、深い、夜の空を。あの星こそが、海をわたる、星だったのかもしれない。
九
わたしたちは、しばらく、ベランダで、空を見あげていた。
だれも、何も言わなかった。ただ、四人で、蒼い星と、無数の星と、天の川を、見あげていた。手のなかの蝋燭が、ちりちりと、音を立てて、燃えていた。その、たった一本の、地上の小さな炎と、頭の上の、無数の、天の炎とが、まるで、呼びかわしているみたいだった。
わたしは、ふと、思った。
もし、停電に、ならなかったら。
もし、電気が、あのまま、ついていたら。
わたしたちは、きっと、この星を、見なかった。この蒼い彗星も、天の川も、母の子守唄も、父のこわかった話も、姉の悩みも、何ひとつ、知らないまま、夜は、過ぎていった。それぞれの部屋で、それぞれの明かりを見つめて、ばらばらのまま、眠ってしまった。あしたも、あさっても、そうやって、ばらばらのまま、過ぎていった。
けれど、電気が、消えた。
だから、わたしたちは、ここにいる。
不便が、わたしたちに、これを、連れてきた。この、思いがけない、しあわせを。
わたしは、ふと、隣を見た。姉が、すぐ、そばに、いた。手をのばせば、届くところに。姉の顔は、蝋燭の炎に、下から照らされて、いつもより、ずっと、やさしく見えた。そのまた隣に、母がいた。母の隣に、父がいた。四人が、この、せまいベランダに、身を寄せ合って、立っていた。肩と肩が、ふれあうくらい、近くに。
さっき、明るい部屋のなかで、テレビの笑い声のなかで、わたしたちは、同じ部屋にいながら、あんなに、遠かった。それなのに、いま、この、暗い、星の下では、こんなにも、近い。おなじ四人が、おなじ屋根の下にいて、けれど、明かりが消えただけで、こんなに、近くなれる。わたしは、そのことが、ふしぎで、そして、少し、かなしくて、そして、とても、うれしかった。
しあわせ、という言葉を、わたしは、あまり、使ったことがなかった。それは、なんだか、照れくさくて、大げさな言葉だと思っていた。けれど、その夜、ベランダで、蒼い星を見あげながら、わたしは、その言葉を、心のなかで、そっと、つぶやいた。
いま、しあわせだ、と。
不便で、暗くて、暑くて、スマホも死んで、テレビも見られなくて、明日の理科のプリントも、まだ終わっていなくて。
それなのに、いま、わたしは、しあわせだった。
十
ふいに、その光が、戻ってきた。
まず、向かいのマンションの窓が、ひとつ、ぱっと、明るくなった。それから、もうひとつ。もうひとつ。まるで、消えていた明かりが、順番に、目を覚ましていくみたいに。街灯が、じじ、と音を立てて、青白く、灯った。遠くの信号が、赤や、青に、またたきはじめた。
そして、わたしたちの家のなかからも、光が、あふれ出した。
天井の蛍光灯が、まばゆく、ついた。テレビが、勝手に、また、あの、知らない誰かの笑い声を、流しはじめた。冷蔵庫が、ぶうん、と、唸りだした。エアコンが、生き返って、冷たい風を、吐きだした。
「あ、ついた」
姉が言った。
「戻ったな」
父が言った。
わたしたちは、ベランダから、部屋のなかを、見た。
蛍光灯の、青白い、平たい光が、部屋を、影ひとつなく、照らしていた。さっきまで、あんなに、あたたかく、あんなに、生きているように見えた部屋が、その光のもとで、また、いつもの、平たい、あかるいだけの部屋に、戻っていた。
わたしは、なぜだか、少し、さびしかった。
戻ってきた光は、たしかに、便利だった。明るかった。何でも、よく見えた。けれど、その明るさのなかには、あの、揺れる影が、なかった。あの、飴色の、あたたかさが、なかった。
姉が、部屋に入って、蛍光灯を、見あげた。そして、ぽつりと、言った。
「なんか、まぶしいね」
「うん」
わたしも、うなずいた。
母が、部屋に入って、テレビのリモコンを、手に取った。
そして――消した。
テレビの、知らない誰かの笑い声が、ふつりと、途切れた。部屋が、しんと、静かになった。
「まだ、消しとこうか」
母が言った。
「え、なんで」
姉が聞いた。けれど、その声には、ほんとうに理由を知りたい、というよりは、母の答えを、待ちのぞむような、そういう響きが、あった。
母は、テーブルの上の、まだ燃えている蝋燭を、見た。二本目の蝋燭は、もう、半分くらいの、短さになっていた。それでも、その炎は、蛍光灯の、まぶしい光のなかでも、消えずに、ちいさく、けなげに、揺れていた。
「もったいないから」
母は言った。
「まだ、燃えてるから。これが、燃えつきるまでは、消しとこう」
十一
わたしたちは、また、蝋燭のまわりに、集まった。
蛍光灯を、消した。テレビも、消した。冷蔵庫の唸りと、エアコンの風だけは、消せなかったけれど――それは、もう、仕方がなかった――部屋は、また、あの、橙色の、揺れる光に、包まれた。
さっきよりも、その光は、ありがたく、感じられた。
なぜなら、わたしたちは、いつでも、蛍光灯を、つけられるようになったからだ。いつでも、この闇から、抜け出せるようになった。それでも、わたしたちは、この闇を、この炎を、選んだ。えらんで、ここにいた。それは、さっきの、停電のときとは、少し、ちがう感じだった。停電のときは、こうするしか、なかった。でも、いまは、こうしたくて、こうしていた。
わたしは、その、ちがいが、なぜだか、大切なことのように、思えた。
父が、また、トランプを、切りはじめた。
母が、お茶を、いれた。エアコンが効いているのに、あたたかいお茶を。カップから立つ湯気が、炎の光のなかで、ゆらゆらと、白く、光った。母は、わたしのぶんにも、うすい、あまいお茶を、いれてくれた。ふうふうと、冷ましながら、少しずつ、飲んだ。あたたかいものが、のどを通って、おなかのなかに、ゆっくりと、落ちていくのが、わかった。
「ねえ」
と、わたしは、思いきって、言った。ずっと、聞いてみたかったことを。
「ときどき、こうやって、電気、消してみるの、どうかな。停電じゃなくても。わざと」
みんなが、わたしを、見た。わたしは、少し、恥ずかしくなった。へんなことを、言ったかな、と思った。
けれど、母が、ふっと、笑って、言った。
「いいわね、それ」
「え、いいの」
「うん。月に一度くらい。〈停電の夜〉って、決めて。ぜんぶ、消して。蝋燭だけで、過ごすの。トランプして、お茶飲んで、話して」
「めんどくさそう」
姉が言った。けれど、その口もとは、笑っていた。
「でも、ちょっと、いいかも」
姉が、そう、つけくわえた。
父は、何も言わなかった。ただ、切っていたトランプの手を、いちど止めて、テーブルの真ん中の、燃えつきかけた炎を、じっと、見つめた。それから、小さく、うなずいた。それが、父の、いちばんの返事だった。
わたしは、うれしかった。もしかしたら、この夜は、一度きりの、特別な夜では、ないのかもしれない。また、来るのかもしれない。この、飴色の、揺れる暗がりが。この、寄り集まる時間が。そう思うと、心のなかに、ちいさな、あたたかい灯りが、ひとつ、ともった気がした。
姉が、あくびをした。
わたしも、あくびをした。
夜は、もう、ずいぶん、ふけていた。窓の外を見ると、向かいのマンションの窓明かりが、また、ぽつり、ぽつりと、灯っていた。そして、その明かりのせいで、空の星は、もう、さっきほど、たくさんは、見えなかった。天の川も、消えていた。蒼い彗星も、街の明かりのなかに、まぎれて、見えなくなっていた。
けれど、わたしは、知っていた。
見えなくなっただけで、あの蒼い星は、いまも、あそこに、いる。あの、家々の明かりの、いちばん高いところで、静かに、尾を引いて、灯りつづけている。ただ、地上の明かりが、まぶしすぎて、見えなくなっただけだ。
見えなくても、ある。
それは、なんだか、この夜のことみたいだ、と、わたしは思った。
あした、電気がついて、テレビがついて、スマホがついて、わたしたちは、また、それぞれの部屋で、それぞれの明かりを、見つめるだろう。また、ばらばらに、戻るだろう。この、あたたかい夜のことは、まぶしい日々のなかに、まぎれて、見えなくなっていくだろう。
けれど、見えなくなっただけで、この夜は、ある。
わたしのなかに、ずっと、ある。あの蒼い星のように。まぶしさの、向こうに、いつも、灯りつづけて、いる。
十二
蝋燭は、とうとう、燃えつきた。
最後の炎が、蝋の海のなかで、じじ、と、ちいさく、もがいて、それから、すうっと、細く、なって、消えた。
一瞬、部屋が、ほんとうの闇に、なった。
けれど、それは、ほんの、一瞬だった。
「じゃあ、寝るか」
父が言って、立ち上がり、蛍光灯の、スイッチを、押した。
部屋が、また、まぶしく、明るくなった。
わたしは、テーブルの上を、見た。溶けた蝋が、皿の上で、白い、なめらかな山になって、固まっていた。その、ちいさな山が、この夜の、たったひとつの、証だった。
母が、片づけをはじめた。青いマッチ箱を、また、いちばん下の引き出しに、そっと、しまった。三日月の、銀の箔が、蛍光灯の光を受けて、いちど、きらりと、光って、それから、引き出しの闇のなかに、消えた。
わたしは、思った。
このマッチ箱は、また、眠るのだ、と。次に、この家の明かりが、ぜんぶ、消えるまで。次に、わたしたちが、また、ばらばらになって、それでも、また、ひとつの炎のまわりに、集まりたくなる、その日まで。それまで、この箱は、あの、しっとりとした藍色のまま、いちばん下の引き出しで、じっと、待っているのだ。
その夜、わたしは、なかなか、寝つけなかった。
ベッドのなかで、目を閉じると、まぶたの裏に、あの、橙色の、揺れる炎が、まだ、残っていた。母の顔。父の顔。姉の顔。壁に映った、大きな、黒い、揺れる影。そして、あの、蒼い、蒼い星。
わたしは、そっと、母がうたった、あの子守唄を、口のなかで、うたってみた。
眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。
その旋律は、ふしぎと、わたしを、眠りへと、いざなった。まるで、赤ちゃんのころに、戻ったみたいだった。だれかの、あたたかい腕のなかで、揺られているみたいだった。
そして、眠りに落ちる、いちばん最後の瞬間に、わたしは、思った。
いつか、大人になって、この家を出て、ひとりで、どこかの部屋で、たったひとつの明かりを、見つめる夜が、くるだろう。孤独な、宵が、くるだろう。
そんな夜には、思い出そう。
あの、停電の夜のことを。たった一本の蝋燭が、ばらばらだったわたしたちを、ひとつに集めた、あの夜のことを。そして、引き出しのいちばん下で、いまも、じっと、待っている、あの、青いマッチ箱のことを。
明かりが、たくさんあると、人は、ばらばらになる。けれど、たったひとつの、小さな炎を、みんなで、囲むとき――そのときこそ、人は、ほんとうに、いっしょになれるのだと。
停電の夜に灯した一本の蝋燭を、わたしは今も、心のいちばん下の引き出しに、そっとしまっている。