送り火のあとで
一
水は暮れると色を失う、とわたしは長いこと思い込んでいた。けれど灯籠を流す夜だけは違う。日が落ちて、山の稜線が墨を刷いたようににじみ、川面がいちど鉛の色に沈んだあとで、そこにひとつ、また一つと橙の灯りが置かれていくと、水はまるで昼間よりも饒舌になる。灯りの数だけ水は表情を持ち、灯りの数だけ、送られていく者がいる。
七月の十六日、宵の川辺には湿った草いきれと、線香の細い煙と、それから、どこの家からともなく漂ってくる夕餉の匂いがまじっていた。誰かの家では今ごろ、卓を囲んで人が笑っているのだろう。窓という窓に灯りがともって、その黄いろい四角が、川向こうの家並みにぽつりぽつりと並んでいる。あの灯りの下には、生きている人がいる。ここ、川のふちに集まっているのは、生きている人が、死んだ人のために持ち寄った灯りだ。おなじ橙でも、家の窓のそれとは温度がちがう。あちらは団欒の色、こちらは、送りの色。
わたしはしゃがんで、膝の上に一つ目の灯籠を置いた。木の枠に和紙を張った、掌にのるほどの小さな家のような形。底の板に蝋燭を立て、そのまわりに墨で、送る人の戒名を書く。今年はそれを、二つ書かねばならないところを、一つだけ書いた。
去年までは、この作業を二人でやっていた。夫が枠を持ち、わたしが紙を張り、蝋燭はいつも夫が立てた。「おまえは手が冷たいから、火のそばはわたしがやる」と、あの人は毎年おなじことを言った。手が冷たいのは事実だったけれど、それが理由でないことは、二人とも知っていた。あの人はただ、火を扱うわたしを見ているのが好きではなかったのだ。母を、火事で亡くしていたから。
だから今年、わたしが一人で蝋燭を立てるとき、指の先がわずかに震えた。それは寒さのせいでも、悲しみのせいでもなく、ただ、隣にあるはずの手がないという、その一点のためだった。
川の名を、この土地の人は「音無川」と呼ぶ。音がしないほど流れがゆるやかだからだと言う者もあれば、昔このあたりで戦があって、死んだ者たちの声を川がのみこんで、以来ずっと黙っているのだと言う者もある。どちらでもいい、とわたしは思う。ゆるやかであることに変わりはない。灯籠を流すには、ゆるやかな川がいる。急な流れは、灯りを一息に消してしまうから。
土手にはもう、五十人ほどが集まっていた。老人が多い。子どもの手を引いた若い母親もいる。みな、めいめいに灯籠を抱えて、水際までの順番を待っている。列というほどの列ではなく、ただ、そこここに人が屈んで、蝋燭に火を移そうとしている。
火を移すのは、思いのほか難儀だ。宵の風は気まぐれで、水面をわたってくるそれは湿り気を含んでいて、蝋燭の芯になかなか火がつかない。あちこちで、擦ったマッチがすぐに消える、あの短い、乾いた音がしている。ちりっ、と燃えて、ふっと消える。誰かが小さく舌打ちをする。また、ちりっ。
わたしは袂から、マッチの箱を取り出した。青い箱だ。表に、白い三日月と、そのわきに小さな星が一つ刷ってある。町はずれの、月光堂という古い雑貨屋で買ったものだった。夫が生きていたころ、あの店の前を通るたびに、「あそこのマッチは火もちがいい」と言って、いつも一箱、二箱と買っていた。夫が死んでから、わたしは家じゅうのあちこちから、この青い箱を見つけ出すことになった。台所の抽斗、仏壇のわき、羽織のたもと、外套のポケット。あの人はどうやら、どこにでもこれを忍ばせておく癖があったらしい。まるで、いつどこで火が必要になっても困らぬように。
その最後の一箱を、わたしは今夜、持ってきた。
箱を振ると、なかで軸木の触れあう、かさ、という頼りない音がした。もう幾本も残っていない。指でつまんで一本を引き、箱の横腹の、紙やすりのようなところにあてて、すっと引く。
一度目は、つかなかった。
二度目、青い燐が、しゅっと音を立てて、ちいさな橙の花になった。
その火を、そっと灯籠の芯に近づける。風をよけるように、もう片方の手を丸めて囲う。芯がじりじりと焦げ、やがて、ぽっ、と灯る。頼りない、けれど確かな橙の点。
灯った瞬間、和紙を通して、光がやわらかく散った。木枠の影が水際の石にのびて、墨で書いた戒名の文字が、内側からうっすらと浮かびあがる。
――釋(しゃく)浄真(じょうしん)。
夫の、法名だった。
灯籠を両手にのせて、わたしは水際まで、二歩、三歩と進んだ。草履の下で、湿った砂がやわらかくへこむ。水はすぐそこで、宵闇を映して黒く、けれどその黒のなかに、もう幾つもの橙が浮かんでいた。先に流された灯籠たちだ。ゆっくりと、本当にゆっくりと、それらは川下へ向かって移動していく。
灯籠を水面に置くというのは、思っていたよりもずっと、勇気のいる所作だった。手を離せば、それはもう、こちらのものではなくなる。流れにのって、二度と戻らない。子を送り出す親のような、という比喩は陳腐に過ぎるけれど、たしかにそれは、送り出すという言葉のいちばん芯のところにある感触だった。
わたしは膝を折り、両手を水面すれすれまで下ろした。指の背に、川の冷たさが触れる。夏の宵でも、川の水はしんと冷たい。
「行っておいで」
声に出すつもりはなかった。けれど、言葉は勝手に唇からこぼれた。あの人がいつも、朝、家を出るときにわたしにかけた言葉だった。行ってくる、ではなく、あの人はなぜか、自分に向かって「行っておいで」と言うような、奇妙な言いかたをする人だった。
そっと、手を離す。
灯籠は、ほんの一瞬、その場でくるりと向きを変え、それから、流れを見つけて、すべるように離れていった。橙の灯りが、水の上を滑っていく。だんだん小さく。他の無数の灯りのなかに、まぎれていく。
どれが夫のものか、もう、わからなくなる。
それでいい、とわたしは思った。それでいい。灯籠流しとは、きっと、どれが誰のものかわからなくなる、その瞬間のためにあるのだ。ひとりひとり、名を持って生きて、名を持って死んだ者たちが、こうしてひとつの川の上で、区別のつかない、ただの「灯り」になっていく。名を失うことは、この夜だけは、救いに似ていた。
二
去年の今夜のことを、思い出さないわけにはいかなかった。
去年、夫はまだ生きていた。もっとも、そのときすでに、あの人の体のなかでは、病がゆっくりと巣を広げていたのだけれど、それを二人とも、まだ知らなかった。あるいは、知っていて、口にしなかった。あの人はしばしば脇腹を押さえていたし、食が細くなっていたし、夜中にそっと起きて、台所で長いこと立っている気配があった。けれどわたしたちは、それらの小さな徴候を、川面の灯りが遠ざかっていくのを見送るように、ただ、見て見ぬふりをしていた。
去年、わたしたちは二つの灯籠を流した。一つは、夫の母のため。もう一つは、わたしの父のため。二人とも、もう何年も前に亡くなった人だった。だから去年の灯籠流しは、悲しみというよりも、どこか、古い写真をめくるような、静かな懐かしさのなかにあった。
「来年も、来ような」と、あの人は水際で言った。灯籠を流したあと、しゃがんだまま、しばらく川面を見ていた。「灯籠が流れていくのを見ていると、なんだか、こっちの気持ちまで軽くなる。荷物を、少しずつ、川に預けていくみたいだ」
「荷物」
「生きてると、いろんなものがたまるだろう。悔いとか、心残りとか。それを、こういう夜に、少しずつ流させてもらうんだ。死んだ人にかこつけて、ほんとうは、生きてる自分の荷を軽くしてるのかもしれん」
そんなことを言う人だった。理屈っぽくて、けれど、その理屈の底に、いつも湿った優しさのようなものがある人だった。わたしはそのとき、あの人の言葉の意味を、半分もわかっていなかったと思う。荷を流す。生きている自分の荷を。――今、その言葉が、まるで、あの人が自分の死を予感して残していった伝言のように、胸の奥で響いている。
来年も来よう、と言ったあの人は、その来年である今年、灯籠のなかにいる。流される側に、まわってしまった。
わたしは二つ目の灯籠を、手に取った。
これには、戒名を書いていない。書くかわりに、わたしはこの灯籠に、あるものを添えるつもりだった。
袂から、それを取り出す。
手袋だった。片方だけの、毛糸で編んだ手袋。灰色がかった、くすんだ青。指の股のところが少しほつれて、糸がわずかに飛び出している。それは、夫の手袋だった。
去年の冬、あの人は片方の手袋をなくした。どこでなくしたのか、本人にもわからないと言った。町へ出た帰りに気づいたときには、右手だけが、むきだしのまま、赤くなっていた。「まったく、間の抜けたことだ」と、あの人は珍しく不機嫌そうに言った。残った左の手袋を、あの人はそれでも、その冬じゅう、片方だけ嵌めて過ごした。
「片方だけじゃ、しかたないでしょう。捨てたら」とわたしが言うと、あの人は妙にむきになって、「いや、いつか、もう片方が帰ってくるかもしれん」と言った。「手袋というのは、片方をなくすと、なぜか、もう片方が、そのなくしたやつを待ってるような気がするんだ。だから、こいつは捨てない」
もう片方は、とうとう帰ってこなかった。そして今、待っていたはずのあの人のほうが、先に、帰らぬところへ行ってしまった。
わたしは、その片方だけの手袋を、二つ目の灯籠の底に、そっと寝かせた。灰青の毛糸が、蝋燭の橙の灯りを受けて、ほのかに温かい色に染まる。
「これで、あなたも、両手が温かいでしょう」
ばかげた願かけだと、自分でも思う。手袋を片方、川に流したところで、なくしたもう片方が、どこかで見つかるわけもない。けれど、この片方の手袋を、あの人のいるところへ送り届けたかった。あの人が「いつか帰ってくるかもしれん」と待ちつづけた、その待つ気持ちごと、送ってやりたかった。あの世でなら、なくしたもう片方と、めぐりあえるかもしれない。そんな、子どもじみた祈りだった。
けれど、灯籠を送るという行いは、そもそもが、子どもじみた祈りの集まりなのだ。死んだ人が、灯りを頼りに帰ってこられるように。灯りを頼りに、また、あちらへ帰っていけるように。そんなこと、本気で信じている大人が、この土手のどこにいるだろう。誰も信じてなどいない。誰も信じていないのに、みな、こうして灯りをともす。理屈で割り切れないものを、灯り一つに託して、水に浮かべる。それが、送るということなのだった。
二つ目の灯籠に、火を移す。青い箱から、また一本。すっと引くと、今度は一度でついた。
芯がじりじりと燃えあがる。和紙を通して、灯りが散る。その灯りのなかに、片方の手袋の、灰青の毛糸が、うっすらと浮かぶ。
わたしは灯籠を水際まで運び、しゃがんだ。先に流した一つ目の灯籠は、もう、ずっと川下のほうで、豆粒ほどの橙の点になっている。二つ目を、その後を追わせるように、そっと水面に置いた。
手を離すとき、指先が、灯籠の木枠に、ほんの一瞬、名残を惜しんだ。それから、離した。
灯籠は流れにのり、片方の手袋を乗せたまま、川下へ滑っていった。
三
灯籠を二つとも送り出してしまうと、わたしのすることは、もう、何もなくなった。
土手にはまだ人がいて、次々に灯籠が流されていた。老人が、しわだらけの手で、震えながら蝋燭に火を移している。若い母親が、子どもの手を取って、いっしょに灯籠を水面に置いてやっている。「じいじ、いってらっしゃい」と、幼い声が言う。母親が、そっと、子どもの頭を撫でる。
わたしは、少し離れた石に腰をおろして、その光景を眺めていた。川面には今や、数えきれないほどの灯りが浮かび、ゆっくりと川下へ向かって、光の帯をなしていた。橙の、無数の点。それが、水の上を、音もなく流れていく。
灯りは、ひとつひとつが、送られていく魂だという。ならば今、あの光の帯のなかを、いったい何人の死者が、川を下っているのだろう。誰かの母、誰かの父、誰かの夫、誰かの子。名を失い、ただの灯りとなって、みな、おなじ方向へ流れていく。生きていたときには、それぞれに、笑い、怒り、泣き、愛した人たちが、こうして一夜、おなじ川の上で、区別のつかない一つの光になる。
それを見ていると、悲しみが、ふしぎと、薄れていくのがわかった。夫の言った「荷を流す」とは、こういうことだったのかもしれない。わたしの夫だけが特別に悲しいのではなく、この光の帯のすべてが、誰かにとっての、かけがえのない一つなのだ。誰もが、誰かを送っている。誰もが、この宵に、灯りをともしている。その、大きな、静かな連なりのなかに、わたしの二つの灯りも、まぎれこんでいる。
孤独が、少しだけ、やわらいだ。孤独でありながら、けれど、一人ではない。この土手に集まったすべての人が、それぞれの孤独を抱えて、けれど、おなじ川に灯りを流している。孤独の隣に、また孤独があって、その孤独たちが、灯りを介して、ゆるやかに手をつないでいる。
風が、川面をわたってきた。
湿った、けれど夏の宵らしい、やわらかな風だった。無数の灯籠の灯りが、いっせいに、ゆらりと揺れた。まるで、風に呼びかけられて、灯りたちがみな、いっせいにこちらを振り向いたかのように。橙の光の帯が、さざなみのように揺れ、また、静まる。
そのとき、わたしはふと、空を見あげた。
なぜ見あげたのか、自分でもわからない。ただ、灯りが揺れたその拍子に、何か、上のほうから、呼ばれたような気がしたのだ。
宵闇の空は、まだ完全には暮れきっていなかった。西のほうに、藍とも紫ともつかぬ、暮れ残りの明るみがわずかにあって、その明るみが、だんだんと東の、濃い紺色に溶けていく。星が、ぽつり、ぽつりと、またたきはじめている。
その、星々のあいだに、一つ、ふしぎな星があった。
ほかの星が、白か、あるいはかすかに黄いろく光るのにたいして、その星だけは、ちがう色をしていた。蒼い。青白く、けれど、ただ青いのではなく、そのなかに、かすかな尾のようなものを引いている。ゆっくりと、宵闇のなかを、昇っていくように見える。
彗星だ、とわたしは思った。
いつだったか、新聞で読んだことがある。この夏、めったに見られぬ古い彗星が、地球のそばを通るのだと。ミラ彗星、という名だったろうか。何百年に一度、あるいは、それよりもっと長い周期で、この星は、暗い宇宙のはてから、こうして地上のそばまで帰ってくるのだという。
その蒼い星は、川面の無数の橙の灯りと、まるで競うように、宵闇の空に昇っていた。地上には、家々の窓の灯り。川には、送りの灯籠の灯り。そして空には、その蒼い一点。灯りと灯りとが、天と地とで、呼びあっているようだった。
わたしは、しばらく、その星を見あげていた。
何百年ぶりかに帰ってきた星。それは、いってみれば、いちばん遠くから、いちばん久しぶりに帰ってくる旅人だ。そして今夜、この川では、いちばん近しい人たちが、送り出されていく。帰ってくる星と、送られていく魂。その二つが、おなじ宵の空の下で、すれちがっている。
もしかしたら、と、わたしは埒もないことを考えた。
もしかしたら、この彗星は、迎えに来たのかもしれない。
何百年に一度、この星は、地上を訪れる。そのたびに、この星は、送られていく灯りたちを、そっと乗せて、また、遠い宇宙のはてへ、連れて帰るのかもしれない。ちょうど、川が灯籠を海へ運ぶように、彗星は、魂を、星々のあいだへ運んでいく。
そうであってほしい、と思った。
わたしの流した二つの灯籠。夫の戒名を書いた一つと、片方の手袋を乗せた一つ。それが、この音無川を下り、やがて海に出て、それから――それから、あの蒼い星の尾に、そっとすくいあげられて、遠い、暗い、けれど、きっと安らかなところへ、運ばれていく。
そこでなら、あの人は、なくした片方の手袋と、めぐりあえるだろうか。「ほら、帰ってきた」と、あの間の抜けた顔で笑って、両手に手袋を嵌めて、それから、母とも、わたしの父とも、去年送った人たちみなと、卓を囲んで、笑っているだろうか。
こちらの川べりの孤独と、あちらの、星のあいだの団欒と。
そう思うと、なぜか、胸のつかえが、すっと下りた。わたしは今、一人で、この土手にいる。けれど、あの人は今、あちらで、大勢のなかにいる。一人と、大勢と。そのあいだを、川と、彗星とが、そっと繋いでいる。
四
土手のずっと向こう、水際の草むらのあたりから、細い、細い声が聞こえてきた。
歌だった。
年老いた女の声だ。しわがれて、ところどころ、かすれて、けれど、その歌の節は、まぎれもなく、わたしの知っている節だった。
――眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。
子守唄だった。この土地に、古くから伝わる子守唄。母が、その母から受け継ぎ、また、その子へと歌い継いできた、あの、ゆっくりとした、揺れるような旋律。
眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。
眠れ、眠れ、灯りが岸に着くまで。
わたしは、その声のするほうを見た。老いた女が、水際にしゃがんで、灯籠を一つ、両手にのせて、それを流しながら、低く、低く、歌っていた。誰に聞かせるためでもない。ただ、自分の流す灯籠に、その歌を、そっと添えているのだった。
灯籠を流すときに、この子守唄を歌う人がいる、というのは、聞いたことがあった。送る相手が、幼くして亡くなった子であるとき、その子を、永い眠りへ寝かしつけるように、この歌を歌うのだと。あの老いた女は、いったい、いつの子を送っているのだろう。何十年も前に亡くした、幼子だろうか。それとも、つい先ごろ亡くなった、孫だろうか。その顔は、暗くて、わたしのいるところからは、よく見えなかった。
けれど、その歌は、暗い川面のうえを、ゆっくりと、わたっていった。
わたしも、口のなかで、その歌を、そっとなぞってみた。
眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。
不思議だった。わたしには、寝かしつけるべき子は、ついに、いなかった。夫とわたしのあいだには、子が授からなかった。だから、この子守唄を、子に歌ってやることは、生涯、一度もなかったのだ。
けれど今、この歌は、わたしの唇にも、自然と、のぼってきた。
送るということは、もしかしたら、すべて、寝かしつけることに、似ているのかもしれない。相手が、幼子であろうと、老いた夫であろうと。永い眠りへ、そっと送り出す。もう二度と、目を覚まさぬところへ。だから、この子守唄は、幼子だけのものではないのだ。すべての、送られていく者のための、歌なのだ。
眠れ、眠れ、と、わたしは、夫のために歌った。
理屈っぽくて、湿った優しさのある、あの人のために。片方の手袋を、捨てずに、いつか帰ってくると言って待ちつづけた、あの人のために。「行っておいで」と、朝ごとに自分に言い聞かせるように出かけていった、あの人のために。
眠れ、眠れ、灯りが岸に着くまで。
わたしの声は、老いた女の声よりも、ずっと小さく、ずっと頼りなかった。けれど、二つの声は、暗い川面のうえで、いつのまにか、ひとつに溶けあっていた。どちらの声か、もう、わからない。ちょうど、流された灯籠が、どれが誰のものか、わからなくなるように。
歌いながら、わたしは、また、空を見あげた。
蒼い星は、さっきよりも、少し高いところに昇っていた。宵闇は、いよいよ濃くなり、藍は紺に、紺は黒に、しずかに沈んでいく。星々は、その黒のなかで、いっそう鮮やかに、またたきはじめている。そして、その蒼い一点は、あいかわらず、ほかのどの星ともちがう色で、静かに、けれど確かに、天を昇っていく。
川面の橙の灯りは、もう、ずいぶん川下まで流れて、遠くのほうで、金色の砂を撒いたように、点々と、ちらばっていた。それが、だんだんに、一つ、また一つと、消えていく。蝋燭が尽きたのか、それとも、流れの速いところで、水をかぶったのか。灯りは、永遠には、燃えつづけない。それが、灯籠というものだった。いつかは、消える。消えるからこそ、送りの灯りなのだ。もし、消えぬ灯りなら、それは、送りにはならない。灯りが消えたその先へ、魂は、灯りなしで、独りで、行かねばならない。
けれど、と、わたしは、空の蒼い星を見あげて思った。けれど、あそこに、あの星がある。灯籠の灯りが消えたその先の、暗い水平線のむこうで、あの蒼い星が、待っている。灯りが消えても、まだ、あの星がある。だから、大丈夫だ。あの人は、迷わない。灯籠の橙が尽きたら、そのあとは、あの蒼い星を頼りに、行けばいい。
五
思えば、夫を送るというこの一年は、送りきれない一年だった。
葬儀は、あわただしく過ぎた。人が大勢来て、頭を下げ、悔やみを言い、そして帰っていった。わたしはそのあいだ、ずっと、何かに追い立てられるように、動いていた。棺のなか、白い経帷子(きょうかたびら)を着せられた夫の顔は、生前よりも、ずっと、おだやかに見えた。病でやつれていたはずなのに、なぜか、頬のあたりが、ふっくらとして見えた。まるで、長い、長い荷を、ようやく下ろした人の、寝顔のようだった。
けれど、葬儀が終わり、四十九日が過ぎ、人の足が絶えて、家に、わたし一人が取り残されると、そこからが、本当の、送りきれなさの始まりだった。
家じゅうに、あの人がいた。あの人の座っていた座布団の、へこんだかたち。あの人の湯呑み。あの人の羽織。あの人の、読みかけの本。玄関の、あの人の下駄。どれもこれも、まだ、あの人がそこにいるかのように、あの人のかたちを、留めていた。片方だけの、あの手袋も、外套のポケットに、ずっと、入ったままだった。
わたしは、それらを、片づけることができなかった。片づけてしまえば、あの人は、本当に、いなくなる。だから、湯呑みも、羽織も、下駄も、読みかけの本も、そのままにしておいた。何ヶ月も。台所であの人の湯呑みを見るたびに、まるで、あの人が、ついさっきまで、そこにいたかのような気がした。今にも、奥の部屋から、あの、少ししゃがれた声で、「めしは、まだか」と、言いそうな気がした。
送るというのは、たぶん、あの湯呑みを、洗って、しまうことなのだ。あの座布団を、上げてしまうことなのだ。あの片方の手袋を、外套のポケットから、取り出してしまうことなのだ。けれど、わたしには、それが、どうしても、できなかった。
だから、今年、灯籠を流すことに、わたしは、特別な意味を、こめていた。
これは、あの湯呑みを、洗うことなのだ。あの座布団を、上げることなのだ。片方の手袋を、送り出すことなのだ。灯籠を水面に置いて、手を離すこと。それが、わたしにとっての、本当の意味での、送りだった。
だから、あの片方の手袋を、灯籠に乗せた。あれは、家じゅうにまだ残っている、あの人のかたちの、いちばん小さな、いちばん切ないひとかけらだった。あれを送り出せば、わたしは、家に帰って、ようやく、あの湯呑みを、洗えるような気がした。あの座布団を、上げられるような気がした。
けれど、いざ、手袋を乗せた灯籠を流してしまうと、胸のなかは、思っていたほど、すっきりとは、しなかった。むしろ、あの片方の手袋が、川下へ、遠ざかっていくのを見送っていると、それまで抑えていた何かが、ふいに、せりあがってきた。
わたしは、石に腰をおろしたまま、うつむいた。膝の上で、両手を、握りしめた。手が、冷たかった。あの人が、「おまえは手が冷たいから」と、いつも言った、その手が。
涙が、こぼれた。
葬儀のときも、四十九日のときも、こぼれなかった涙が、なぜ、今、この、送りきったはずの瞬間に、こぼれるのか。わからなかった。ただ、こらえきれなかった。声を立てずに、わたしは、うつむいたまま、泣いた。膝の上の、握りしめた手の甲に、涙が、ぽたり、ぽたりと、落ちた。
送るというのは、こんなにも、悲しいことだったのか。片方の手袋一つを、川に流すことが、こんなにも。
六
どれくらい、そうしていただろう。
ふと、肩のあたりに、あたたかいものが触れた。
顔を上げると、あの、老いた女が、いつのまにか、わたしのそばに来て、しゃがんでいた。子守唄を歌っていた、あの女だ。近くで見ると、その顔は、驚くほど、しわが深く、けれど、その目は、ふしぎと、澄んでいた。宵闇のなかで、その目だけが、川面の灯りを映して、ほのかに、光っていた。
女は、何も言わなかった。ただ、わたしの肩に、そっと、手を置いていた。しわだらけの、けれど、あたたかい手だった。
「はじめての、送りかね」と、しばらくして、女は言った。
わたしは、うなずいた。声が、出なかった。
「わかるよ」と、女は、川面を見ながら、言った。「はじめての送りは、いちばん、つらい。二つ目からは、少しずつ、楽になる。楽になる、というのは、悲しみが減るという意味じゃないよ。悲しみを、抱えたまま、それでも、灯りをともせるように、なるということさ」
女の声は、しわがれていたけれど、その節は、さっきの子守唄の節と、どこか、似ていた。
「わたしはね」と、女は続けた。「もう、五十年も、灯籠を流してきた。最初に流したのは、乳飲み子だった。生まれて、ひと月も、生きられなかった。その子を、あたしは、この川に、流した。この歌を、歌いながらね」
――眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。
女は、その一節を、口ずさんだ。
「それから、亭主を送った。父を送った。母を送った。兄も、妹も、送った。友を、幾人も、送った。去年は、孫を送った。今年は――」女は、そこで、少し、言葉を切った。「今年は、また、その、孫の、下の子をね」
女の声は、淡々としていた。悲しみを、通りぬけた先の、静けさが、そこにはあった。
「そんなに、たくさん」と、わたしは、ようやく、声を出した。「そんなに、たくさんの人を、送って――女は、つらく、ないのですか」
女は、少し、笑ったようだった。しわが、いっそう、深くなった。
「つらいさ。今でも、つらい。五十年たっても、つらいものは、つらい」女は、川面を見つめたまま、言った。「でもね、あんた。送るというのは、忘れることじゃ、ないんだよ。灯りをともして、送るというのは、その人を、ちゃんと、覚えておくために、するんだ。灯りをともすたびに、あたしは、その人を、思い出す。乳飲み子の、あの、小さな手を。亭主の、あの、間の抜けた笑いを。灯りをともすたびに、その人が、ここに、帰ってくる」
女の手が、わたしの肩を、そっと、押した。
「灯りを消すために、送るんじゃない。灯りを、つけつづけるために、送るんだよ」
女は、それから、立ちあがった。膝が、痛むのか、少し、よろけた。わたしは、あわてて、その腕を、支えた。細い、けれど、しっかりとした腕だった。
「ありがとうよ」と、女は言った。そして、わたしの顔を、じっと、見た。「あんたの、灯りは、いい灯りだったよ。橙が、あたたかかった。あんたの送った人は、あの灯りを頼りに、ちゃんと、行ける。心配、いらないよ」
女は、それだけ言うと、ゆっくりと、土手を、のぼっていった。その背中は、小さく、丸まっていたけれど、その足取りは、五十年、灯りをともしつづけてきた者の、確かさが、あった。
わたしは、その背中を、見送った。土手のうえに、女の影が、いちど、宵闇に、くっきりと浮かび、それから、家々の窓の灯りの、あいだに、まぎれて、消えた。
あの女もまた、これから、どこかの、灯りのともった家に、帰るのだろうか。それとも、灯りのない、暗い家に、独りで、帰るのだろうか。わからなかった。けれど、あの女が、五十年、送りつづけながら、それでも、こうして、また、この宵の川べりに、灯りをともしに来る、その姿だけは、たしかに、わたしの胸に、残った。
七
わたしは、立ちあがった。
膝の砂を、はらった。川面には、まだ、いくつかの灯籠が、流れていた。けれど、その数は、もう、ずいぶんと、減っていた。人々は、めいめいに、送りを終えて、一人、また一人と、土手を、のぼっていく。誰かの家に、帰っていく。灯りの、ともった家に。
わたしは、最後に、もういちど、川面を、見た。
わたしの流した二つの灯籠は、もう、どこにあるのか、わからなかった。遠くの、川下のほうで、いくつかの、橙の点が、まだ、かすかに、ゆれていたけれど、そのどれが、わたしのものか、わからない。夫の戒名を書いた灯籠も、片方の手袋を乗せた灯籠も、無数の灯りのなかに、まぎれて、区別が、つかない。
けれど、それで、よかった。
夫は今、一人ではない。この宵、送られていった、すべての魂と、ともに、川を下っている。名を失い、ただの灯りとなって。そして、その灯りが、やがて、消えたその先には、あの、蒼い星が、待っている。
わたしは、空を、見あげた。
ミラ彗星は、もう、ずいぶん、高いところに、昇っていた。宵闇は、いよいよ、深く、星々は、いっそう、冴えて、光っていた。そのなかで、蒼い一点は、あいかわらず、ほかのどの星とも、ちがう色で、静かに、天を、わたっていた。何百年ぶりに、帰ってきて、そして、また、何百年か、遠ざかっていく星。その星が、今夜、この川で送られた、すべての灯りを、そっと、その尾に、乗せて、連れていく。
眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。
わたしは、もういちど、口のなかで、あの子守唄を、そっと、なぞった。
星が、海をわたるまで。今、まさに、あの蒼い星が、宵闇の海を、わたっていく。その海を、わたりきったところに、きっと、灯りの、ともった、あたたかな家がある。あの人は、そこへ、帰っていく。母や、わたしの父や、去年送った人たちの、待つ、あの家へ。片方の手袋を、そこで、なくしたもう片方と、めぐりあわせて、両手を、温めて。
「行っておいで」と、わたしは、もういちど、言った。
今度は、ちゃんと、送る言葉として。
八
土手を、のぼった。
草履の下で、砂利が、じゃり、と鳴った。のぼりきったところで、わたしは、いちど、振り返った。
眼下に、音無川が、宵闇のなかを、ゆるやかに、流れていた。もう、灯籠の灯りは、ほとんど、見えなかった。いちばん遠い、川下のほうに、ひとつ、ふたつ、まだ、かすかに、橙の点が、ゆれていたけれど、それも、やがて、消えるだろう。川は、また、灯りのない、黒い水面に、戻っていく。何事も、なかったかのように。
けれど、灯りは、なくなっても、消えたわけではない、と、わたしは、あの女の言葉を、思い出した。灯りを消すために、送るんじゃない。灯りを、つけつづけるために、送るんだよ。
そうだ。灯りは、川面から、消えても、わたしの、胸のなかに、ともっている。あの、橙の、あたたかな灯りが。あの人の戒名を、内側から、浮かびあがらせた、あの灯りが。片方の手袋を、ほのかに、温かい色に、染めた、あの灯りが。
わたしは、これから、家に、帰る。灯りの、ともっていない、暗い家に。あの人の、湯呑みが、まだ、そのままの、家に。座布団の、へこみが、まだ、残っている、家に。
けれど、帰ったら、まず、灯りを、つけよう。
電灯の紐を引いて、部屋を、明るくしよう。それから――それから、あの人の湯呑みを、洗おう。座布団を、上げよう。そして、外套のポケットに、まだ残っている、あの手袋の、片方を――いや、あれは、もう、送った。もう、ない。
そう思うと、また、少し、胸が、痛んだ。けれど、その痛みは、さっき、川べりで泣いた、あの、こらえきれない痛みとは、ちがっていた。もっと、静かで、もっと、澄んだ、痛みだった。悲しみを、抱えたまま、それでも、灯りを、つけられる。あの女の言った、その意味が、少しだけ、わかった気がした。
家々の、窓の灯りが、宵闇のなかに、ぽつり、ぽつりと、ともっていた。
あの、黄いろい四角のひとつひとつに、団欒が、ある。卓を囲んで、人が、笑っている。夕餉の、湯気が、たっている。子どもが、はしゃいでいる。老人が、目を、細めている。あたたかい、灯りの、団欒。
わたしの家には、その団欒は、もう、ない。帰っても、卓には、わたし一人だ。夕餉の、湯気も、一人分だ。灯りは、ともしても、その灯りの下に、いるのは、わたし、一人。
けれど、と、わたしは、思った。
けれど、それでも、灯りを、つけよう。一人でも、灯りを、つけよう。あの女が、五十年、送りつづけながら、それでも、灯りを、つけつづけたように。孤独の、灯りでも、それは、灯りだ。橙の、あたたかな、灯りだ。その灯りが、あの、蒼い星と、天と地とで、呼びあう。その灯りを、頼りに、いつか、また、あの人が、この宵の、どこかを、通りかかるかも、しれない。「ただいま」と、あの、間の抜けた顔で、言いながら。
そのときのために、灯りを、つけておこう。
片方の手袋が、もう片方を、待っていたように。わたしも、灯りを、つけて、待っていよう。
わたしは、家路を、たどりはじめた。
道は、暗かった。けれど、ところどころに、家々の、窓の灯りが、こぼれていて、その灯りが、道を、ほのかに、照らしていた。橙の、こぼれ灯り。それを、踏むように、わたしは、歩いた。
歩きながら、ふと、袂に、手を入れた。指先が、何か、固いものに、触れた。
取り出してみると、それは、あの、青いマッチの箱だった。月光堂の、白い三日月と、星の刷られた、あの箱。灯籠に火を移すのに、使った、あの箱。
振ってみると、なかで、かさ、と、頼りない音がした。まだ、軸木が、幾本か、残っているらしい。
わたしは、その箱を、しばらく、掌のうえで、見つめた。あの人が、家じゅうの、あちこちに、忍ばせておいた、青い箱。いつ、どこで、火が必要になっても、困らぬように。
「あなたは、いつも、火の、用意を、していたのね」と、わたしは、その箱に、話しかけた。
火の用意を。灯りの、用意を。あの人は、母を、火事で、亡くしたのに。いや、だからこそ、なのかもしれない。火を、恐れながら、けれど、火の、あたたかさを、いちばん、知っていた人。だから、いつでも、灯りを、ともせるように、青い箱を、忍ばせていた。
わたしは、その箱を、袂に、そっと、しまった。
これは、送らない。これは、わたしが、持っておく。この箱で、これから、わたしは、家の灯りを、つける。あの人が、忍ばせておいてくれた、この、最後の、火で。軸木が、尽きるまで。そして、尽きたら――尽きたら、また、月光堂へ、買いに行こう。あの人が、いつも、買っていたように。「あそこのマッチは、火もちがいい」と、言いながら。
九
家に、着いた。
門を、くぐり、玄関の、戸を、開けた。なかは、真っ暗だった。宵の、闇よりも、もっと、濃い、家の、闇。人の、いない、家の、闇。
いつもなら、この闇に、いちど、足が、すくむ。この闇のなかに、あの人が、いないという、その事実に、毎晩、あらためて、突き当たる。けれど、今夜は、ちがった。
わたしは、袂から、青い箱を、取り出した。
上がり框に、腰をおろし、暗がりのなかで、手さぐりで、燭台を、引き寄せた。仏壇の、わきに、いつも、置いてある、古い、真鍮の、燭台。そこに、蝋燭を、一本、立てる。
青い箱を、開ける。軸木を、一本、つまみだす。箱の、横腹に、あてて、すっと、引く。
しゅっ、と、青い燐が、音を立てて、橙の、花に、なった。
その火を、蝋燭の、芯に、移す。じりじりと、芯が、燃え、やがて、ぽっ、と、灯る。
暗かった、家のなかに、ひとつ、橙の、灯りが、ともった。
その灯りは、頼りなく、ゆらめきながら、けれど、たしかに、あたりを、照らした。仏壇の、金色の、かざりが、灯りを受けて、ほのかに、光る。あの人の、位牌が、その灯りのなかに、静かに、浮かびあがる。
――釋浄真。
灯籠に、書いたのと、おなじ、法名。
わたしは、その灯りの前に、座った。手を、合わせた。
灯りは、ゆれていた。
宵の、闇のなかで、その、ひとつの、橙の、灯りだけが、生きているように、ゆれていた。まるで、川面を、流れていった、あの、灯籠の、灯りのように。
けれど、この灯りは、流れない。ここに、留まる。わたしが、消さないかぎり、ここに、ともりつづける。川の、灯籠は、送るための、灯り。この、燭台の、灯りは――待つための、灯りだ。
わたしは、目を、閉じた。そして、あの、子守唄を、こんどは、声に出して、歌った。
眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。
眠れ、眠れ、灯りが岸に着くまで。
歌いながら、わたしは、思った。
今ごろ、あの人は、川を、下りきって、海に、出て、それから、あの、蒼い星の、尾に、乗って、宵闇の、海を、わたっているだろうか。片方の手袋を、抱いて。もう片方と、めぐりあうために。
眠れ、眠れ。星が、海を、わたるまで。あなたは、眠っていていい。灯りが、岸に、着くまで。あなたは、ゆっくり、運ばれていけばいい。わたしは、ここで、灯りを、つけて、待っている。あなたが、いつか、この灯りを、頼りに、帰ってくる、その日まで。
歌い終えて、わたしは、目を、開けた。
ふと、思いたって、立ちあがり、縁側の、雨戸を、一枚、開けた。
宵闇の、庭のむこう、空に、あの、蒼い星が、あった。ミラ彗星。家々の、窓の灯りと、競うように、宵闇に、昇る、蒼い、星。
わたしは、その星と、燭台の、橙の灯りとを、かわるがわる、見た。
天の、蒼い灯り。地の、橙の灯り。そのあいだを、あの、子守唄が、そっと、繋いでいる。灯りが、岸に、着くまで。
わたしは、雨戸を、開けたまま、その場に、座った。庭を、わたってくる、宵の、風が、燭台の灯りを、いちど、ゆらした。けれど、灯りは、消えなかった。ゆれて、また、静まった。
あの人が、忍ばせておいてくれた、青い箱の、火で、ともした、灯り。その灯りは、風にも、消えなかった。
わたしは、その灯りの、そばで、長いこと、座っていた。天の、蒼い星と、地の、橙の灯りと、そのあいだを、わたっていく、子守唄と。そのすべてを、ひとつずつ、胸に、収めるように。
十
送るということが、忘れることではないのなら、と、わたしは、その灯りの前で、思った。
わたしは、これから、何度でも、この灯りを、つけよう。あの人を、思い出すたびに。あの、湯呑みを、見るたびに。あの、間の抜けた笑いを、思い出すたびに。片方の手袋の、待つ、というあの、埒もない、優しさを、思い出すたびに。
灯りを、つけるたびに、あの人は、ここに、帰ってくる。あの女の、言ったとおりに。
そして、いつか、わたしも、送られる、日が、来るだろう。誰かが、わたしのために、灯籠を、流してくれる、日が。そのとき、わたしは、あの、蒼い星の、尾に、乗って、宵闇の、海を、わたって、あの人の、待つ、あたたかな、灯りの、ともった、家に、帰るのだろう。そこで、あの人は、「行っておいで、と、言ったくせに、ずいぶん、遅かったな」と、あの、間の抜けた顔で、笑うのだろう。両手に、手袋を、嵌めて。
そう思うと、なぜか、こわく、なかった。送られていくことも、送ることも。それは、ただ、灯りの、あいだを、わたっていくことなのだ。橙の、灯りから、蒼い、星へ。星から、また、どこかの、灯りへ。灯りは、消えない。ともす者が、いるかぎり。送る者が、いるかぎり。
燭台の、灯りは、まだ、ともっていた。
わたしは、その灯りを、しばらく、見つめ、それから、そっと、手を、伸ばして、けれど、消さずに、そのままに、しておいた。今夜は、この灯りを、消さないで、おこう。宵から、夜へ、夜から、夜更けへ。この灯りが、尽きるまで。あの人が、忍ばせておいてくれた、火が、尽きるまで。
窓の、外では、あの、蒼い星が、まだ、昇っていた。家々の、窓の灯りは、一つ、また一つと、消えていく。団欒が、終わり、人々が、眠りに、つく。けれど、わたしの、家の、この、ひとつの、灯りは、まだ、消えない。
孤独の、灯りかも、しれない。けれど、それは、孤独ではあっても、暗闇では、ない。灯りが、ある。橙の、あたたかな、灯りが。そして、その灯りは、天の、蒼い星と、呼びあっている。だから、わたしは、一人でも、独りでは、ない。
夜が、更けていった。
燭台の、蝋燭は、少しずつ、短く、なっていった。灯りは、ときおり、大きく、ゆれ、けれど、消えずに、ともりつづけた。わたしは、その、ゆれる、橙の、灯りのなかで、あの人の、位牌を、見つめ、そして、時折、窓の、外の、蒼い星を、見あげた。
灯りを、ともすたびに、あの人が、帰ってくるのなら、わたしは、これから、毎晩、この灯りを、ともそう。この、青い箱の、火が、尽きても、また、月光堂へ、買いに行って、あたらしい、青い箱で、ともそう。
そして、いつか、わたしの、番が、来たら、そのときは、どうか、誰かが、わたしのためにも、灯籠を、ひとつ、流してくれますように。橙の、あたたかな、灯りを。あの、子守唄を、そっと、添えて。
送られていく、その川を、下りながら、わたしは、きっと、思うだろう。灯りを、消すために、送られるのではない、と。灯りを、つけつづけるために、送られるのだ、と。わたしを、思い出す、誰かの、胸のなかに、ひとつの、灯りが、ともるために。
蝋燭の、灯りが、ひとしきり、大きく、ゆれた。
わたしは、その灯りの、そばで、そっと、目を、閉じた。宵は、とうに、更けて、夜になり、けれど、この、ひとつの、橙の、灯りだけは、まだ、燃えている。天では、蒼い星が、海を、わたっている。地では、この、小さな灯りが、岸で、待っている。
灯りは、送るためにも、待つためにも、ともる。そして、送ることと、待つこととは、きっと、おなじ、ひとつのことなのだと、わたしは、この、宵の、川べりで、ようやく、知ったのだった。灯りを、ともす、その手が、冷たくても、灯りは、あたたかい。冷たい手で、あたたかい、灯りを、ともす。それが、生きて、誰かを、送る、ということなのだった。