月光書房
戌の刻 ・ 宵 ・ 第 七 話

針の音

綿貫 縫
時代・情話 ・ 約25頁

一

夜なべの灯りは、家じゅうでいちばん最後まで起きている。

子らが眠り、竈の火も落ち、井戸端の水音も絶えたころ、おいねはひとり、板の間の隅に置いた行灯のそばへにじり寄って、繕い物の籠を膝の前に据える。芯を掻き立てると、飴色の光がふっと背丈をのばして、煤けた天井のあたりまで届き、それからゆっくりと落ちついて、おいねの手もとだけを、ちいさな島のように照らし出す。ほかはみな、夜の海だ。灯りの外は、寝息と、板戸のすきまを渡る風と、遠い犬の声ばかりで、その海のなかに、おいねの手だけが、飴色の島のうえで動いている。

針を持つ。糸を通す。目を細めて、針の穴の、ほんの粟粒ほどの明るみへ、唾でしめした糸の先を送りこむ。若いころは、こんなことは息もつかずにできた。いまは、三度に一度は外す。そのたびに、灯りに近づき、また離れ、指の腹で糸をよじり直す。老いというものは、まず針の穴からやってくるのだと、おいねは近ごろ思う。

ちくり、と糸を引く音がする。厳密には音などしないのだが、おいねの耳には、たしかにそれが聞こえる。布に針が沈み、抜け、また沈む、そのたびに、しゅ、しゅ、と絹のこすれるような、あるかなきかの音が。夜なべの静けさは、その音を大きくする。昼のあいだ、井戸端の女たちの声にも、子らの泣き声にも、亭主の咳にもまぎれて聞こえなかった音が、夜になると、ひとつひとつ、粒立って立ちのぼってくる。針の音。灯芯のじりじりという、油を吸う音。おのれの息の音。それだけが、おいねの世界のすべてになる。

膝の上には、子らの綿入れがある。上の子の袖口が、また擦り切れている。走りまわり、木に登り、犬とじゃれ、地べたを這うようにして遊ぶから、袖はすぐに駄目になる。継ぎを当てても、当てた端からまた破れる。おいねは繕いながら、その擦り切れかたのなかに、昼間の子の一日を読む。ここが破れているのは、垣根を越えたな。この糸のほつれかたは、犬と引っぱりあいでもしたか。母というものは、繕い物のうえに、見ていなかったはずの子の一日を、ぜんぶ読んでしまう。

行灯の油は、菜種だ。安い魚油のときもあったが、あれは匂いがきつくて、繕っていると目に沁みるし、灯りも赤黒くにごって、細かい針目が見えにくかった。菜種は高いけれど、灯りが澄んでいる。飴色の、澄んだ、やさしい橙で、その色のなかでなら、擦り切れた袖口の、いちばん細い糸目まで、ちゃんと見える。おいねは、灯りにだけは、ときどき贅沢をする。ほかは何を切りつめても、繕い物の灯りだけは、菜種にする。子らのためだ、と口では言うが、ほんとうは、澄んだ灯りのそばにいる、この夜なべの刻が、おいねはきらいではないのだった。だれにも見られず、だれにも呼ばれず、ただ手だけを動かしている、この刻が。

二

亭主の弥七は、三年前の秋に逝った。

浜の仕事で沖へ出て、時化にあって、船ごと帰らなかった。骸は、ずいぶんたってから、ずっと東の岬に流れ着いたと、人づてに聞いた。おいねは、それを見に行かなかった。見に行けば、弥七だと、認めてしまわねばならない。認めてしまえば、それきりになる。おいねは、認めないことで、弥七をもう少しだけ、生かしておきたかった。海のどこかで、まだ櫓を漕いでいる。そう思うことで、繕い物の夜を、いくつも越えてきた。

弥七は、手の大きな男だった。おいねの手を、その大きな手で包むと、おいねの手はまるごと消えてしまうくらいで、冬など、その手のなかへ入れておくと、いつのまにか、じんわりと温まった。おいねは、いまでも、冬の夜なべのさなか、指がかじかんでくると、無意識に、右手を左手で包む。そうして、はっとする。弥七の手ではない。おのれの、痩せた、皺だらけの手だ。それでも包む。包まずには、いられない。

いま、おいねの膝の上には、その弥七の、手袋がある。

正しくは、片方だけの手袋だ。左の手袋。厚い木綿を二枚あわせて、そのあいだに古綿を入れ、おいねが縫った。弥七が沖へ出るとき、指がかじかんで櫓が握れぬというので、あれの手の大きさにあわせて、ずいぶんと大ぶりに縫った。右も左も、対にして縫った。右の手袋は、弥七とともに海へ行った。左だけが、家に残った。あの朝、弥七は、なぜか左のほうを、忘れていった。板の間の、この隅に、ぽつんと落ちていた。片方だけ。

なぜ、あれは左を忘れたのだろう。おいねは、三年のあいだ、そればかりを考える。急いでいたのか。上の空だったのか。それとも――と、ここから先は、おいねは考えないことにしている。それとも、これを残していく心づもりで、わざと忘れたのだとしたら。おのれの片われを、この家に、おいねのもとに、残していくつもりだったのだとしたら。そんなことを考えると、針を持つ手が止まってしまうから、おいねは、そこから先へは行かない。

片方だけの手袋は、繕う必要などない。破れてもいない。使ってもいないのだから、擦り切れてもいない。それでもおいねは、夜なべのたびに、この手袋を膝にのせる。子らの繕い物がひととおり済んだあと、いちばん最後に、この手袋を取り出して、灯りのそばで、あちこちを検める。ほつれてもいない縫い目を、指の腹でなぞる。綿のかたよりを、指でならす。ほんの少し、糸の弛んだところがあれば、そこへ針を入れて、締め直す。繕うことのない手袋を、それでも、繕う真似をする。おいねは、この手袋の縫い目のなかへ、指を入れているあいだだけ、弥七の手のなかへ、おのれの手を入れているような、そんな心もちになるのだった。

飴色の灯りのなかで、片方だけの手袋は、なおのこと、片方だけに見える。もう片方は、どこにある。海の底か。岬の砂のなかか。それとも、いまも、弥七の手を包んで、どこか、おいねの知らない海のうえを、渡っているのか。

片方だけになる、ということを、おいねは、この三年で、いやというほど、知った。

夫婦とは、対のものだ。左と右のように。片方の手袋と、もう片方の手袋のように。二つそろって、はじめて、対になる。片方が欠ければ、残った片方は、手袋のかたちをしていても、もう、手袋の役目は、果たせない。片手だけでは、櫓は握れぬ。片方だけでは、寒さは、しのげぬ。おいねは、いま、その、片方だけの、身の上だ。弥七という、右を失って、おいね一人が、左として、この家に、残されている。子らのために、なんとか、手袋のふりをして、暮らしている。けれど、ほんとうは、知っている。片方だけになった手袋は、もう、対には、もどらぬのだと。

それでも、と、おいねは思う。片方だけになっても、手袋は、手袋だ。役目は果たせずとも、そこに、たしかに、あった、対の、あかしとして、残っている。この左の手袋があるから、かつて、右があったことが、わかる。かつて、対であったことが、わかる。片方だけになったものは、失われたもう片方の、記憶の、器なのだ。おいねが、この左の手袋を、捨てられぬのも、そのためだった。これを捨てれば、右があったことも、対であったことも、みな、消えてしまう。片方だけでも、残しておかねば。残しておいて、夜ごと、繕ってやらねば。そうすることでしか、失われた右を、この世に、繋ぎとめておく術は、ないのだから。

三

しゅ、しゅ、と針が布を通る。

おいねは、いつのまにか、子守唄を口ずさんでいた。声にはならない。息と唇のあいだで、かたちだけ、ことばがこぼれる。

――眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。

この唄を、おいねは、母から習った。母は、おいねの祖母から習ったという。だれが、いちばんはじめに唄いはじめたのか、だれも知らない。ただ、この土地の女たちは、みな、この唄を、子の枕もとで唄う。眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。星は、夜どおしかかって、東から西へ、海をわたる。その、星が海をわたりきるまで、眠っておいで。夜明けには、母がそばにいる。そういう唄だ。

おいねは、子らを寝かしつけるとき、この唄を唄う。子らはもう、大きくなって、唄などなくても眠るのだが、おいねは、ついつい、口をついて出てしまう。子らはうるさがって、寝返りを打つ。それでも、二度、三度と繰り返すうちに、ちいさな寝息にかわってゆく。その寝息を確かめてから、おいねは、そっと立って、夜なべの灯りをともす。

いまも、口ずさんでいるのは、子らのためではない。だれのためでもない。ただ、針の音にあわせて、勝手に唇が動いている。眠れ、眠れ。そう唄いながら、おいねは、これはおのれへ唄っているのだと、ふと気づく。眠れ、おいね。星が海をわたるまで、あと少し、手を動かして、それから眠れ。母のいない、おいねのために、おいねが、おのれを寝かしつけている。

弥七も、この唄を知っていた。浜の男だから、母から習ったのだろう。あるとき――上の子がまだ乳飲み子だったころ――夜泣きがひどくて、おいねが疲れはてて、うとうとしかけたとき、弥七が、あの大きな手で、赤子を抱きあげて、低い、ぶっきらぼうな声で、この唄を唄ったことがある。眠れ、眠れ。男の唄う子守唄は、へたくそで、節も合っていなくて、けれど、赤子は、ふしぎと、すぐに眠った。おいねは、うとうとしながら、それを聞いていた。弥七の、へたくそな子守唄を。あれは、いい夜だった。灯りをともす油さえ惜しくて、真っ暗な板の間で、月あかりだけを頼りに、弥七が赤子を抱いて、揺れていた。あの月あかりの、青白い色を、おいねは、いまでもおぼえている。

おいねと弥七が、夫婦になったのも、思えば、宵の刻だった。

祝言の夜、村の衆が引きあげて、はじめて二人きりになった、あの板の間にも、飴色の行灯が、ひとつ、ともっていた。おいねは、まだ十七で、うつむいて、膝のうえの手ばかりを見ていた。弥七は、何も言わずに、その、うつむいたおいねの、冷えた手を、あの大きな手で、包んだ。ただ、それだけだった。ことばは、なかった。手のなかへ、おいねの手が、消えていって、そうして、じんわりと、温まった。おいねは、そのとき、はじめて、顔をあげて、灯りのなかの、弥七の顔を、見た。無口な、ぶっきらぼうな、けれど、目もとの、やさしい男だった。飴色の灯りが、その男の、日に焼けた頬を、あたたかく、照らしていた。ことばのない男だ、と、おいねは、そのとき思った。ことばのかわりに、この人は、手で、しゃべる。手で、抱く。手で、包む。そういう男だ、と。

だから、おいねが、あの手袋を縫ったのだ。ことばのない男の、その、いちばん雄弁な、手を、寒さから守るために。おいねは、弥七の手の大きさを、だれよりも、知っていた。冬の夜ごと、その手に、包まれて、眠ったのだから。手袋の型を取るのに、寸法など、いらなかった。おいねの、両の手を、ふたつあわせたくらい。それが、弥七の、片手だった。その大きさに、おいねは、木綿を裁った。古綿を入れた。ちくちくと、宵の灯りのもとで、縫った。あのときも、こうやって、飴色の灯りのそばで、針を持っていた。あのときは、繕いではなく、こしらえ物だった。生きている手の、ための、手袋だった。

いまは、その手袋を、繕っている。もう、包むべき手の、ない手袋を。

四

針を持つ手を、ふと休めて、おいねは、窓のほうへ目をやる。

板戸を、少しだけ、開けてある。夜なべのあいだは、灯芯の油の匂いがこもるので、いつも、こぶし一つぶんほど、開けておく。そのすきまから、外の闇が、細く、切り取られて見える。

今夜は、月がない。新月に近いのだろう。だから、闇が濃い。そのぶん、星がよく見える。おいねは、繕いの手を休めるとき、いつもこの、板戸のすきまから、星を見る。星を見ると、目が休まる。針の穴の、粟粒ほどの明るみを見つめつづけた目が、遠い星を見ることで、ふっと、ほどける。

その、いつもの星々のなかに、今夜は、見なれぬものがある。

東の空の、低いところ。家々の屋根の、その上あたりに、ひとつ、蒼い星が昇っている。ほかの星とは、色がちがう。ほかの星は、白いか、赤みがかっているか、そのどちらかだが、その星だけは、蒼い。深い、澄んだ、青みだ。しかも、尾を引いている。ほうき星だ。おいねは、幼いころ、いちど、ほうき星を見たことがある。あのときも、こんな蒼い色をしていた。村の年寄りが、あれはミラという名の星だと言った。何十年に一度、あの星は、宵の空に帰ってくるのだと。

家々の窓には、いま、それぞれの灯りがともっている。おいねの家とおなじように、どの家にも、飴色の、あるいは、もう少し赤みのある、ちいさな灯りがある。夜なべの灯りか、寝しなの灯りか、あるいは、まだ起きて話しこんでいる団欒の灯りか。その、地上の灯りたちと、競うように、蒼いミラ彗星は、宵闇の底から、しずかに昇ってくる。地の灯りは橙で、天の灯りは蒼い。橙と蒼が、闇のなかで、たがいに、灯りをともしあっている。

おいねは、しばらく、その蒼い星を見ていた。

――弥七も、見ているだろうか。

海のどこかで、まだ櫓を漕いでいる弥七も、この蒼い星を、見あげているだろうか。おなじ星を。だとしたら、この星の下で、おいねと弥七は、まだ、繋がっている。おなじ蒼を、おなじ宵に、見あげている。おいねは、そう思うことにした。認めないことで生かしておいた弥七が、この蒼い星の下で、ほんの少し、近くにいるような気がした。

板戸を、もう少しだけ、開けた。冷たい風が、すっと入ってくる。灯りが、ゆらり、と揺れた。飴色の光が、板の間のうえを、波のように、行き来した。おいねは、あわてて、手のひらで灯りをかばう。消えては、いけない。この灯りが消えたら、繕いができぬ。星は見えなくなってもいいが、この、手もとの灯りだけは、消してはならぬ。おいねは、風がおさまるまで、手のひらで、灯りを囲っていた。手のひらのなかで、飴色の光が、おいねの掌を、あたたかく透かした。皺の一本一本が、赤く、透けて見えた。

五

灯りをかばいながら、おいねは、月光堂のことを思い出す。

町の、四つ辻の角に、月光堂という、ちいさな荒物屋がある。灯りの油や、蝋燭や、そういったものを、おもに商う店だ。おいねは、月に一度、繕い物の油を買いに、あの店へ行く。歩いて、半日かかる。往復で、一日がかりだ。それでも、月光堂の油は、澄んでいて、火もちがよいので、おいねは、あの店で買う。

その月光堂で、油を買うと、いつも、青いマッチ箱を、一つ、おまけにくれる。店の主が、無口な、痩せた男で、油を包んだ紙のうえに、ことりと、青いマッチ箱をのせて、それだけで、何も言わない。青い、深い蒼のマッチ箱で、そこには、ちいさく、月と、書房のかたちが、刷ってある。月光堂の印だという。

おいねは、そのマッチを、大事に使う。夜なべの灯りをともすときだけ、その青いマッチを使う。竈の火をおこすときは、火打石だ。けれど、夜なべの、この飴色の灯りをともす、その一本だけは、月光堂の青いマッチを、すってきた。しゅっ、と、蒼い頭が、橙の炎にかわる。蒼が、橙にかわる、その一瞬が、おいねは好きだった。蒼い燐の匂いが、ふっと立って、それから、灯芯に火が移り、飴色の灯りが、ぽっと、板の間に生まれる。

今夜も、そうやって、この灯りをともした。青いマッチの、蒼い頭が、しゅっと橙にかわって、それで、この夜が、はじまった。窓の外の、蒼いミラ彗星と、手もとにともした、青いマッチの橙の灯り。蒼と橙。今夜は、その二つの色に、はさまれた夜だ。

おいねは、繕いにもどる。

上の子の綿入れは、済んだ。下の子の、足袋の底が抜けている。これは、当て布をして、ぐるりと縫いつける。下の子は、まだちいさいから、足袋もちいさい。ちいさな足袋を、灯りに近づけて、細かく、縫っていく。この子が、この足袋で、明日も、地べたを駆けまわる。田の畦を走り、雪の道を走り、そうして、いつか、大人になって、この家を出ていく。ちいさな足袋を縫いながら、おいねは、いつも、その、遠い日のことを思う。母というものは、繕い物のうえに、子の遠い未来まで、見てしまう。

足袋を縫い終えて、おいねは、目をつむる。

灯りの油の匂いが、鼻の奥に、しみている。この匂いを、おいねは、母の匂いだと思っている。おいねの母も、夜なべをする女だった。おいねが子どものころ、夜なかにふと目をさますと、いつも、板の間の隅に、飴色の灯りがともっていて、その灯りのなかに、母の背中があった。まるく、ちいさく、まがった背中。針を持つ、その背中。おいねは、その背中を見ながら、また、眠りに落ちた。母は、いつも、そこにいた。灯りとともに、そこにいた。

いま、おいねが、その背中になっている。

もし、いま、下の子がふと目をさましたら、この、まるくまがった背中を、見るだろう。飴色の灯りのなかの、母の背中を。そうして、また、眠りに落ちるだろう。母は、いつも、そこにいる、と思いながら。おいねが、そう思っていたように。灯りは、めぐる。母から子へ、子からその子へ。この、飴色の灯りは、代々、女たちの背中を、照らしつづけてきた。おいねは、その、長い長い、灯りの列の、いまの一つなのだった。

おいねの母の、その夜なべを、おいねは、いちど、手伝ったことがある。

まだ、十かそこらの、子どものころだ。眠れずに、寝間から抜け出して、灯りのそばへ、寄っていった。母は、うるさがりもせず、糸を通させてくれた。おいねの、若い、まだ達者な目は、針の穴を、たやすく、射抜いた。母は、笑って、若い目はよいのう、と言った。そうして、母は、ぽつり、ぽつりと、話した。針を動かしながら。この足袋は、おまえのだ。この綿入れは、兄さんのだ。ここが破れているのは、兄さんが、また、木に登ったからだろう。母も、繕い物のうえに、子らの一日を、読んでいた。おいねが、いま、そうしているように。

あのとき、母が、ふと、手を止めて、言ったことばを、おいねは、いまも、おぼえている。――繕い物はな、おいね。子のためにするようで、ほんとうは、母のためにするのだよ。母は、笑って、そう言った。子らが、みな、寝てしまうと、母は、ひとりになる。ひとりは、さびしい。だから、こうやって、子らの、繕い物を膝にのせて、手を動かす。手を動かしているあいだは、ひとりでも、さびしくない。子らが、そばにいるような、心もちがする。この袖が、この足袋が、みんな、子らの、ちいさな体を、思い出させてくれるからな。

幼いおいねは、そのことばの意味が、わからなかった。いまは、わかる。母は、あの灯りのもとで、子らのために、繕っていたのではなかった。ひとりの淋しさを、繕っていたのだ。子らの、ちいさな綿入れを、膝にのせることで、子らの温もりを、そばに、置いていたのだ。おいねが、いま、片方だけの手袋を、膝にのせるように。母も、母の、片方だけの、なにかを、繕っていたのかもしれない。おいねの知らない、母の、ひとりの夜の、繕い物を。

女は、みな、そうやって、灯りのもとで、繕う。子らのふりをして、おのれの淋しさを。愛情のふりをして、孤独を。その二つは、たぶん、おなじ一つの、手仕事の、表と裏なのだ。

六

夜が、更けてきた。

灯りの油が、半分ほどに減った。皿の底に、飴色の油が、まだ、とろりと残っている。おいねは、油を足すか、迷う。足せば、もう少し、繕える。けれど、油は高い。明日の、子らの、朝の膳のこともある。おいねは、油皿を、そっと傾けて、残りをはかる。あと、少しだけ。あと、この片方だけの手袋を、検めるあいだだけ、灯りがもてば、それでいい。

膝の上へ、最後に、あの手袋を、のせる。

片方だけの、左の手袋。飴色の灯りのなかで、それは、生きもののように見える。厚い木綿の、そのふくらみが、まるで、なかに、まだ、あたたかい手が入っているかのように。おいねは、指を、その手袋のなかへ、そっと、差しこむ。おのれの、痩せた指が、手袋のなかへ、消えていく。木綿の内がわの、古綿が、指の腹に、ふわりと触れる。あたたかくはない。冷たくもない。ただ、木綿の、乾いた、やわらかい感触が、あるだけだ。

それでも、おいねは、その手袋のなかで、指を、ゆっくりと、握ったり、開いたりする。まるで、弥七の手を、握るように。三年前、認めなかった、あの海のうえの手を。

――もどっておいで。

声には、ならない。息だけが、唇からこぼれる。もどっておいで。片方だけでは、手袋も、寒かろう。おまえの、右の手袋も、もどしておくれ。そうして、対にして、この籠のなかへ、しまわせておくれ。そうしたら、わたしは、もう、繕う真似を、しなくてもよくなる。繕うことのない手袋を、それでも夜ごと膝にのせる、この、わたしの、片方だけの夜も、終わってくれる。

けれど、右の手袋は、もどらない。弥七も、もどらない。おいねは、それを、ほんとうは、知っている。認めないことで生かしておいた弥七が、ほんとうは、三年前のあの秋に、海の底へ沈んだことを、おいねは、心のいちばん奥では、知っている。ただ、認めないだけだ。認めてしまえば、この片方だけの手袋も、ただの、古い、片方だけの木綿になってしまうから。認めないことで、この手袋は、まだ、対の片われでいられる。海のむこうに、もう片方がある。そう思えるあいだは。

おいねは、手袋から、指を抜いた。

そうして、その手袋の、手首のところの、縫い目を、灯りに近づけて、検める。ほつれてはいない。けれど、おいねは、そこへ、針を入れる。ほつれてもいない縫い目を、締め直す。しゅ、しゅ、と、針が、木綿を通る。飴色の灯りのなかで、おいねの手が、その、繕うことのない手袋を、繕っている。

七

針を、五目ほど、入れたところで、おいねの目に、ひかりが、にじんだ。

灯りが、ぼやけた。飴色の光が、ふくらんで、揺れて、いくつもの、ちいさな橙に、割れた。涙だ、と、おいねは思う。年をとると、涙もろくなる。それとも、灯りを見つめすぎて、目が疲れたのか。おいねは、手の甲で、目を拭う。木綿の手袋を握ったままの、その手の甲で。

拭うと、また、灯りが、くっきりと、もどってくる。飴色の、澄んだ、一つの灯り。おいねは、その灯りを、しばらく、見つめる。

なぜ、女は、夜なべをするのだろう、と、おいねは思う。昼のあいだは、田の仕事、家の仕事、子の世話、水汲み、飯炊き、休む間もない。それが済んで、子らが寝静まって、やっと、おのれ一人になれる、この宵の刻に、女は、休まずに、また、手を動かす。針を持つ。糸を通す。繕う。だれのためでもなく――いや、みな、家族のためだ。子らの、明日の袖のため。足袋のため。冷えぬための、綿入れのため。女は、おのれの眠りを削って、家族の、明日の温もりを、縫う。

けれど、と、おいねは思う。ほんとうに、家族のためだけ、だろうか。

この、片方だけの手袋を繕う手は、家族のためではない。これは、おいねの、おいねだけの、手仕事だ。だれにも言えない、だれにも見せられない、おいねの、ひとりの夜の、ひとりの繕いだ。子らのための繕いが、団欒の温もりの、その残り火だとすれば、この手袋の繕いは、おいねの、たったひとりの、孤独の灯りだ。飴色の、おなじ一つの灯りのもとで、団欒の残り火と、孤独の灯りが、ならんでいる。おなじ手が、おなじ針で、その両方を、縫っている。

女の夜なべは、と、おいねは、あらためて思う。団欒のための手仕事であると同時に、孤独のための、手仕事なのだ。灯りひとつのもとで、女は、家族への愛情を縫い、そうして同時に、だれにも言えぬおのれの淋しさを、縫い閉じている。ちくり、ちくりと。淋しさが、あふれ出さぬように。夜のあいだに、こぼれ出て、朝の、子らの前で、顔に出てしまわぬように。針で、縫い閉じている。

おいねは、また、口ずさむ。

――眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。

窓の外では、蒼いミラ彗星が、まだ、昇っている。地の灯りと競うように、宵闇の底から、蒼く。あの星も、何十年か、ひとりで、暗い空を旅してきて、そうして、今夜、この宵の空へ、帰ってきた。ひとりで、旅してきた。そうして、また、ひとりで、去っていく。星も、ひとりだ。おいねも、ひとりだ。けれど、今夜だけは、その二つのひとりが、おなじ宵の空の下で、ならんでいる。蒼い星と、飴色の灯り。天のひとりと、地のひとり。

おいねは、その蒼い星に向かって、ちいさく、うなずいた。おまえも、ひとりか。わたしも、ひとりだ。それでも、こうして、灯りをともして、手を動かしている。ひとりでも、灯りをともすことは、できる。ひとりだからこそ、灯りをともすのだ。ひとりの手もとを、照らすために。

八

油皿の底で、灯芯が、じり、と鳴いた。

油が、尽きかけている。灯芯が、乾いた油を吸って、じり、じり、と、鳴く。灯りが、ちいさく、しぼんできた。飴色が、少し、赤みを増して、頼りなく、揺れる。もう、じきに、消える。

おいねは、繕いの手を止める。

膝の上には、子らの繕い物が、済んで、たたんである。上の子の綿入れ。下の子の足袋。それに、片方だけの、手袋。三つを、ならべて、たたむ。子らの二つは、明日、子らの背に、子らの足に、もどっていく。手袋は、また、籠の底へ、しまわれる。だれの手にも、もどらない、片方だけの手袋。

おいねは、その手袋を、最後に、もう一度だけ、両の手で、包んだ。

弥七の手が、おいねの手を包んだように、おいねは、弥七の手袋を、両手で包む。手のなかで、木綿の、乾いた温みが――いや、温みなどありはしない、けれど、おいねは、そこに、たしかに、ほのかな温みを、感じる。飴色の、消えかけた灯りのなかで、おいねは、目をつむって、その、片方だけの手袋を、しばらく、握っていた。

――ありがとう。

なぜ、ありがとう、なのか、おいねにも、わからない。けれど、そのことばが、口をついて、出た。ありがとう。三年、片方だけで、この家にいてくれて、ありがとう。おまえがいてくれたから、わたしは、この夜なべの、灯りひとつの宵を、いくつも、越えてこられた。子らの繕い物のあとに、おまえを膝にのせる、その刻があったから、わたしは、ひとりの夜を、こわがらずに、いられた。片方だけの手袋が、わたしの、片方だけの夜を、支えてくれた。

灯芯が、また、じり、と鳴く。

灯りが、ふっと、細くなって、それから、また、少しだけ、もち直す。菜種の油の、いちばん最後の、ひとしずくを、灯芯が、吸っている。おいねは、その、消えかけの灯りのなかで、片方だけの手袋を、籠の底へ、そっと、しまう。子らの繕い物を、そのうえに、重ねる。籠に、蓋をする。

これで、今夜の、夜なべは、終わりだ。

九

立ちあがろうとして、おいねは、膝が、鳴った。

長いこと、おなじ姿勢で座っていたから、膝が、こわばっている。おいねは、手をついて、ゆっくりと、腰をあげる。板の間が、みしり、と鳴る。その音に、下の子が、寝間のほうで、ん、と、寝返りを打った気配がした。おいねは、動きを止めて、耳をすます。ちいさな寝息が、また、規則ただしく、聞こえてくる。眠っている。おいねは、ほっと、息をつく。

寝間へ行く前に、おいねは、もう一度、板戸のすきまから、外を見た。

蒼いミラ彗星は、さっきより、少し、高くのぼっていた。家々の灯りは、いくつか、消えていた。夜なべを終えた家。団欒を終えた家。それぞれの灯りが、一つ、また一つと、闇のなかへ、しずんでいく。けれど、まだ、いくつかの窓には、飴色の灯りが、ともっている。あの灯りのなかにも、きっと、だれかの背中がある。針を持つ、女の背中。あるいは、帳面をつける、男の背中。あるいは、病んだ者の、枕もとの、看とりの背中。宵の灯りは、みな、だれかの、ひとりの手もとを、照らしている。

おいねは、その、遠い窓の灯りに、なぜか、なつかしさをおぼえた。

会ったこともない、名も知らぬ、あの窓のむこうの、だれか。けれど、おなじ宵に、おなじように、灯りをともして、手を動かしている、だれか。その、だれかと、おいねは、この蒼い星の下で、繋がっている気がした。橙の灯りと、橙の灯りが、闇をへだてて、たがいに、ここにいるよ、と、しらせあっている。ひとりではないよ、みな、それぞれの灯りのなかで、ひとりだけれど、その、ひとりが、たくさん、ならんでいるのだよ、と。

孤独は、と、おいねは思う。孤独は、灯りの数だけ、ある。けれど、その灯りは、ひとつひとつは孤独でも、闇のなかにならぶと、まるで、団欒のようだ。あの窓と、この窓と、そのむこうの窓と。ひとりと、ひとりと、ひとりが、闇をへだてて、ならんでいる。それは、たしかに、ひとつの、団欒だ。灯りの、団欒だ。

おいねは、ふと、東の岬のほうを、見やった。

板戸のすきまからは、岬は、見えない。けれど、おいねには、わかる。あの、暗い海の、そのむこうの岬にも、いまごろ、灯台の灯りが、ともっているだろう。ぐるり、ぐるりと、ゆっくり、まわりながら。夜の海を、渡る船のために。おいねは、あの灯台の灯りを、恨んだことがある。弥七が、帰らなかった、あの時化の夜、あの灯りは、なぜ、弥七の船を、導いてやらなかったのか、と。けれど、いまは、恨まない。あの灯りも、また、ひとつの、宵の灯りなのだ。だれかの、無事の帰りを、祈って、ともされている、灯り。おいねの、この、手もとの灯りと、おなじだ。だれかのために、ともす。届くか、届かぬかは、わからぬけれど、それでも、ともさずには、いられぬ。祈りとは、そういうものだ。灯りとは、そういうものだ。

弥七の船には、あの灯りは、届かなかった。おいねの、この手袋の繕いも、たぶん、弥七には、届かない。それでも、おいねは、ともす。繕う。届かぬと知りながら、ともす灯りこそが、いちばん、あかるいのかもしれぬ、と、おいねは、この三年で、思うようになった。

おいねは、板戸を、そっと、閉めた。

十

寝間へ入る前に、行灯の、最後の灯りを、始末する。

灯りは、もう、消えかけている。飴色は、すっかり、赤みに変わって、じり、じり、と、灯芯が、鳴いている。おいねは、その灯りに、顔を近づけた。ふっと、息を吹きかければ、消える。けれど、おいねは、すぐには、消さなかった。

消えかけの、その、赤い、ちいさな灯りを、おいねは、しばらく、見つめた。

この灯りは、と、おいねは思う。この灯りは、青いマッチの、蒼い一すりから、生まれた。宵のはじめに、しゅっと、蒼が、橙にかわって、この灯りが、生まれた。そうして、この、宵から夜なかまでの、長い刻を、おいねの手もとを、照らしつづけた。子らの繕いを、照らし、片方だけの手袋を、照らし、そうして、いま、その油を、使いきって、消えようとしている。

灯りにも、一生が、あるのだな、と、おいねは思う。生まれて、燃えて、だれかを照らして、そうして、消える。人と、おなじだ。弥七も、生まれて、燃えて、おいねと子らを照らして、そうして、海の底へ、消えた。おいねも、いつか、そうなる。この灯りのように、油を使いきって、じり、じり、と鳴いて、そうして、消える。そのとき、おいねを照らしてくれる、次の灯りは、下の子が、あの、ちいさな足で駆けまわった、あの子が、いつか、女になって、おなじ板の間の隅で、ともすのだろう。

おいねは、消えかけの灯りに向かって、ちいさく、笑った。

――ごくろうさん。

灯りに、そう、言った。今夜も、よく、照らしてくれた。おまえのおかげで、子らの明日の袖が、ととのった。おまえのおかげで、わたしは、片方だけの手袋と、また、一夜を、過ごせた。ごくろうさん。ゆっくり、おやすみ。

おいねは、口をすぼめて、ふっと、息を吹きかけた。

灯りが、消えた。

飴色の島は、闇の海に、しずんだ。板の間は、いちめん、闇になった。けれど、その闇は、まっくらではなかった。板戸のすきまから、細く、外の、星あかりが、さしこんでいた。蒼い、かすかな、ミラ彗星の、あかりだった。天の灯りが、地の灯りの消えたあとの板の間へ、そっと、そのひとすじを、置いていった。

おいねは、その、蒼い、かすかなひとすじのなかを、手さぐりで、寝間へ、向かった。

子らの、寝間のふすまを、そっと、開ける。ふたりの、ちいさな寝顔が、その、蒼い、かすかなあかりのなかに、あった。上の子は、片手を、投げ出して。下の子は、まるくなって。ふたりとも、口を、少し、あけて、深い、深い眠りのなかにいる。おいねは、そのそばへ、そっと、身を横たえた。子らの寝息の、そのあいだへ。

眠れ、眠れ、と、おいねは、心のなかで、唄った。星が海をわたるまで。おまえたちも、わたしも、あの蒼い星が、東から西へ、この夜を、わたりきるまで、眠ろう。夜明けには、灯りは、いらぬ。夜明けの光が、この板の間を、この寝間を、あまねく、照らしてくれる。それまでは、眠ろう。

おいねの、瞼が、重くなる。

闇のなかで、片方だけの手袋のことを、ふと、思った。籠の底で、いま、あれは、ひとりで、闇のなかにいる。けれど、淋しくはないだろう。おいねが、毎晩、膝にのせてやる。灯りのそばへ、連れていってやる。繕う真似を、してやる。片方だけでも、ひとりではない。おいねが、いる。

そうして、おいねは、眠りに落ちた。

夜が、ふけていく。

板の間の、行灯は、消えている。けれど、家じゅうが、闇に沈んだわけではない。板戸のすきまから、蒼いひとすじが、まだ、さしこんでいる。ミラ彗星は、いまが、いちばん、高い。宵闇の底からのぼりつめて、家々の屋根の、はるか上を、蒼く、燃えている。地の灯りは、ほとんど、消えた。もう、夜なべを終えぬ家は、ない。けれど、天の灯りだけは、消えない。何十年に一度の、その蒼い旅人は、この夜のあいだじゅう、ひとりで、燃えつづける。

おいねの家の、あの、消えた行灯の油皿には、いま、ひとしずくの油も、残っていない。灯芯は、黒く、こげて、しずかに、冷えていく。けれど、その灯芯には、まだ、かすかに、菜種の匂いが、しみている。飴色の灯りの、その、名ごりの匂いが。朝、おいねが起きて、また、この皿に、油を足すまで、灯芯は、その匂いのなかで、待っている。次の宵の、次の一すりの、青いマッチを、待っている。

灯りは、めぐる。

宵ごとに、女は、灯りをともす。青いマッチの、蒼い一すりが、橙にかわって、飴色の灯りが、板の間に、生まれる。女は、その灯りのもとで、子らの繕いをし、そうして、いちばん最後に、だれにも言えぬ、おのれの繕いを、する。片方だけの手袋を。あるいは、片方だけの、なにかを。だれにでも、あるのだろう。片方だけの、対のかたわれを、失った、なにかが。それを、女は、灯りのもとで、繕う真似をして、そうして、また、籠の底へ、しまう。

そうやって、幾夜も、幾夜も、繕われて、けれど、けっして、繕いきれぬものが、ある。

片方だけの手袋は、繕っても、対にはもどらない。失った、もう片方は、海のむこうから、もどらない。それでも、女は、繕う。繕えぬと知りながら、繕う。それが、たぶん、愛情という、ことばの、いちばん奥の、かたちなのだと、おいねは、口には、しない。ただ、夜ごと、手を、動かす。しゅ、しゅ、と、針の音を、宵の闇に、こぼしながら。

明けがた、東の空が、白みかけたころ。

蒼いミラ彗星は、西の、山の端に、しずもうとしていた。夜どおしかかって、東から西へ、宵の空を、わたりきった。星が、海を、わたりきった。眠れ、眠れ、星が海をわたるまで――その唄のとおりに、星は、わたりきった。だから、もう、朝だ。

おいねは、まだ、眠っている。子らの寝息の、そのあいだで。上の子の、投げ出した手が、いつのまにか、おいねの肩に、のっている。下の子は、おいねの、痩せた胸のあたりに、ちいさな額を、押しつけている。ふたりの子の、あたたかい重みが、おいねの、老いた体を、両がわから、はさんでいる。

これが、団欒だ。

灯りは、消えている。けれど、灯りが消えたあとの、この、あたたかい重みこそが、あの飴色の灯りが、夜どおし、照らしていたものの、正体なのだ。子らの繕い物。片方だけの手袋。夜なべの、しゅ、しゅ、という音。あれは、みな、この、朝の、あたたかい重みの、ためだった。この重みを、明日へ、あさってへ、ずっと先の日へ、渡していくための、灯りだった。

やがて、東の空が、すっかり、あかるくなって、板戸のすきまから、こんどは、蒼ではなく、金いろの、朝の光が、さしこんでくる。その光が、板の間の、消えた行灯を、照らす。冷えた灯芯を、照らす。籠の底の、片方だけの手袋を――蓋の下で、それは、見えないけれど――その、蓋のうえまで、照らす。

おいねの、閉じた瞼にも、その、金いろの光が、さす。

おいねは、まだ、目をさまさない。もう少し、眠っていよう。子らの重みに、はさまれて、もう少し。夜なべの、あの、飴色の灯りは、消えたけれど、いま、朝の灯りが、この家を、照らしている。天の灯りも、地の灯りも、みな、それぞれの刻に、それぞれの手もとを、照らして、そうして、消えていく。そのくり返しの、なかを、人は、生きていく。ひとりで、けれど、ならんで。

しゅ、と、どこかで、遠く、針の音が、聞こえた気がした。

それは、おいねの、夢のなかの、母の背中の、針の音だったかもしれない。あるいは、いつか、下の子が、女になって、おなじ板の間で、繕うことになる、まだ来ぬ日の、針の音だったかもしれない。飴色の灯りのもとで、女たちは、代々、そうして、手を動かしてきた。愛情を、縫い、淋しさを、縫い閉じて。片方だけの、対のかたわれを、失いながら、それでも、繕いつづけて。

朝の光のなかで、おいねの、口もとが、かすかに、動いた。

――眠れ、眠れ。

夢のなかで、おいねは、まだ、唄っていた。だれに、というのでもなく。子らに、おのれに、母に、弥七に、そうして、片方だけの手袋に。眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。星は、もう、わたりきったのに、おいねは、まだ、唄っている。もう一度、めぐってくる、次の宵の、次の星が、また、海をわたるまで。それまで、灯りは、消えていよう。それまで、手袋は、籠の底で、眠っていよう。それまで、女は、束の間、針を置いて、子らの重みに、はさまれて、眠っていよう。

宵の灯りは、消えた。けれど、消えた灯りの、名ごりの、飴色のあたたかさだけが、この家の、朝の板の間に、いつまでも、しずかに、のこっていた。

この物語にひそむ符牒

ほかの物語と、ひそかに分かち合っているもの:

  • ミラ彗星
  • 月光堂のマッチ
  • 子守唄
  • 片方の手袋

十二をつなぐ符牒について →

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