月光書房
戌の刻 ・ 宵 ・ 第 八 話

夜学の窓

夜久 志音
青春 ・ 約26頁

定時

改札を抜けると、街はもう夜の器のなかにあった。

昼のあいだ、鉄工所の油と鉄粉にまみれて動きつづけた手を、俺は無意識にズボンの脇でこすっていた。爪の隙間に入りこんだ黒いものは、石鹸でも湯でも落ちきらない。もう三年、この手はいつも半分だけ黒い。夕方六時に工場を出て、電車を乗り継ぎ、七時前に夜間高校の校門をくぐる。授業が終わって外へ出れば、時計の針は九時をまわっている。その帰り道の、この時刻が、俺は一番好きだった。

好きだ、というのは正確ではないかもしれない。ただ、一日のなかでこの刻だけが、俺のものだという気がした。工場の時間は会社のもの。授業の時間は学校のもの。けれどこの、駅から下宿までの二十分ばかりの夜道だけは、誰のものでもない。疲れきった体を引きずりながら、俺は宵の街の灯りをひとつずつ見ていく。それが俺の、たったひとつの贅沢だった。

商店街のアーケードはもう半分が閉まっていて、シャッターの下りた店の前に、まだ開いている店の橙色の灯りがこぼれている。惣菜屋の裸電球。その下に並んだコロッケやきんぴらが、飴色の油に光っていた。ラーメン屋の暖簾の奥から、湯気とともに漏れてくる黄ばんだ灯り。その灯りのなかに、丼を抱えた男の背中がひとつ、丸くなっている。ひとりで啜る夜のラーメンにも、あの黄色い灯りは等しく降りていた。

俺はコロッケをひとつ買った。五十円。新聞紙の切れ端に包まれたそれを、歩きながら齧る。まだ熱くて、湯気が唇を焼いた。この熱さが、生きているという感じにいちばん近い。齧るたびに、油の甘さが舌にひろがって、俺は一日の疲れが、ほんの少しだけ、その甘さに溶けていくのを感じる。それだけのことで、俺はまた、明日も工場へ行けると思える。

十七で工場に入って、二十歳になる。まわりの同級生の多くは、とっくに昼の高校を出て、大学に行った者もいる。俺は違った。父が早くに死んで、母と妹を食わせるために、中学を出てすぐ働きに出た。それでも高校だけは、と思って、二年遅れで夜間の門をくぐった。誰に頼まれたわけでもない。ただ、このまま何も知らないまま歳をとっていくのが、怖かった。何も知らないまま、この半分黒い手のまま、ただ機械の前で老いていくことが、俺にはどうしても、こわかったのだ。

商店街を抜けると、道は急に暗くなる。そこからは、街灯と、家々の窓明かりだけが道を照らす。俺はコロッケの新聞紙を丸めて、上着のポケットに突っこんだ。ここから下宿までの、この暗い道が、俺の一日の、いちばん静かな時間だった。

夜間高校の教室は、昼の学校のそれとは灯りの色からして違う。

天井の蛍光灯は、いつも一本か二本が切れかけていて、青白い光を細かく明滅させている。その青白さのなかで、俺たちは机に向かう。俺の右隣は、昼は市場で魚を捌いているという五十がらみの男で、老眼鏡をずり下げながら英語の教科書を睨んでいる。左の斜め前は、赤ん坊を親に預けて通っているという若い母親。後ろの席には、俺と同い年くらいの、いつも眠そうな溶接工。

蛍光灯の青白い光の下では、誰の顔も少し青ざめて見える。昼の疲れが、その青さのなかに沈んでいる。けれど不思議なもので、教師がチョークを走らせ、俺たちがノートにペンを走らせる、そのあいだだけは、みんなの顔から疲れが消える。青白い光が、そのときだけは清潔な、澄んだ光に見えた。

俺たちの誰もが、昼のあいだ、別の顔を持っている。魚屋の男は、市場の湿った床の上で、包丁を握っている。若い母親は、赤ん坊の泣き声のなかで、乳をやり、おしめを替えている。溶接工は、火花の飛び散る鉄骨の上で、青い炎を操っている。俺は、旋盤の唸りのなかで、鉄を削っている。それぞれが、昼の疲れを引きずって、この青白い光の下に集まってくる。そして、ここでだけ、俺たちは「生徒」になる。年も、職も、背負っているものも違う人間が、ただ「学ぶ者」として、同じ光の下に並ぶ。

今日の現代文は、ある詩人の詩を扱った。俺は詩というものがよくわからない。けれど、教師が読み上げた一行が、なぜか胸に残った。

――灯を消せば、闇はいよいよ濃くなる。されど、その闇の底にこそ、次の灯はともる。

教師は五十を過ぎた小柄な男で、俺たちのことを「諸君」と呼ぶ。古い言葉だ。けれど、その言葉には、俺たちを昼の学校の生徒と同じに扱おうとする、律儀な敬意のようなものがあった。

「諸君は、昼のあいだ働いている。疲れているだろう。だが、疲れた体で学ぶこの一行は、疲れていない者が読む十行よりも、深く諸君の血肉になる。私はそう信じている」

蛍光灯が、じじ、と鳴った。切れかけの一本が、そのとき一瞬だけ強く光り、それからまた弱まった。誰かが小さくあくびをして、誰かがノートのページをめくった。俺は教師の言葉を、ノートの隅に書き写した。血肉、という字を、俺は正しく書けなかった。それでも、書いた。書いておけば、いつか読めるようになる。いつか、この字の意味も、体でわかるようになる。そう思って、俺は書いた。

教師は、俺たちが疲れて眠りこけても、決して叱らなかった。ただ、黒板に向かって、静かにチョークを走らせつづけた。眠っている者がいても、起きている者に向かって、律儀に語りつづけた。その背中を見ていると、俺は不思議と、眠気が飛んだ。この人は、たった数人の、疲れきった俺たちのために、こうして毎晩、黒板の前に立っている。その律儀さに、俺は応えたかった。

授業が終わって外に出ると、宵の空気が汗ばんだ首筋を冷やした。

九時をまわった街は、昼とも夜ふけとも違う、独特のやわらかさをまとっている。まだ人の気配が残っていて、けれどもう昼の喧騒はない。宵。宵という言葉を、俺は夜間に通うようになってから、はじめて実感として知った。日がすっかり暮れて、家々に灯りがともる、その刻のことだ。

校門を出て、駅とは反対の方向へ、俺はわざと遠回りをする。近道は幹線道路沿いで、味気ない。トラックの排気と、コンビニの白すぎる光ばかりだ。遠回りの道は、古い住宅街を抜けていく。その道が、俺はたまらなく好きだった。

住宅街の窓には、ひとつひとつ灯りがともっている。橙色の、あたたかい灯り。カーテン越しに透けるその明かりのなかで、人々が夕餉の後の時間を過ごしている。窓の下を通り過ぎるとき、俺はときどき足をゆるめて、その灯りを盗み見る。

ある窓では、家族が卓袱台を囲んでいる影が映っていた。子どもらしい小さな影が、大きな影の膝によじ登ろうとして、笑い声が漏れてくる。ある窓では、テレビの青い光がちらちらと揺れ、その前で誰かが横になっている。ある窓からは、風呂の湯を使う音と、鼻歌が聞こえてきた。ある窓では、若い夫婦らしい二つの影が、向かい合って、何かを話しこんでいた。

団欒。俺の知らない言葉ではない。俺の家にも、父が生きていたころは、確かにそれがあった。狭い台所で、母が作った煮物を、四人で囲んだ夜。父の低い笑い声。妹の甲高い声。あの橙色の灯りの下の温もりを、俺は覚えている。覚えているからこそ、他人の窓の灯りが、いっそう眩しく見えるのだ。

父は、鉄工所で働いていた。俺が入ったのと同じ、油と鉄粉の匂いのする工場だ。父は、家に帰ると、俺を膝に乗せて、機械の話をしてくれた。旋盤がどう鉄を削るか。溶接の火花がどんな色か。俺はその話が好きだった。父の作業着から立ちのぼる、油の匂いも好きだった。父が死んだのは、俺が中学に上がった年だ。工場の事故だった。あっけない死だった。父が死んで、あの橙色の団欒の灯りも、家から消えた。

いま、母と妹は郷里にいる。俺が送る金で、細々と暮らしている。俺はひとり、この街の下宿で、六畳一間の裸電球の下で寝起きしている。その電球は、団欒の橙色ではない。ただ物を照らすだけの、寒々とした光だ。

けれど、と俺は思う。この、他人の窓の灯りを見て歩くこの道が、俺は嫌いではない。むしろ、この孤独な二十分こそが、俺を支えている気がする。あの窓の向こうの温もりは、いつか俺も手に入れられるものだ。いまはまだ、外から眺めているだけだ。それでいい。眺めることをやめさえしなければ、いつか、俺もあの灯りの内側に入れる。そう信じることで、俺は、この孤独な道を、あたたかいものに変えている。

その夜、俺は空を見上げた。

いつもは足元ばかり見て歩く。疲れているし、道は暗い。けれどその夜は、なぜか空を見上げたくなった。教室で書き写した詩の一行が、まだ頭のどこかに残っていたからかもしれない。闇の底にこそ、次の灯はともる。

住宅街の切れ目、家々の屋根が途切れたところに、宵闇の空がひらけていた。まだ完全な夜ではない。西の低いところに、藍色の名残がわずかに残っている。その藍と黒のあわいに、星がひとつ、ふたつと灯りはじめていた。

そして俺は、それを見た。

家々の窓明かりよりもずっと高いところに、蒼い星がひとつ、昇っていた。ほかの星とは、光の色が違う。あたたかい橙でもなく、白でもなく、青みを帯びた、澄んだ光。しかもその光には、うっすらと尾のようなものが引かれている。まるで、その星だけが宵闇のなかを、ゆっくりと泳いでいるかのようだった。

彗星だ、と俺は直感した。

そういえば、工場の休憩室に置かれた古い新聞に、そんな記事があった気がする。何十年かに一度、地球に近づく彗星が、いまの季節に見えるのだと。ミラ、という名だったか。ミラ彗星。俺はその名を、いま思い出した。休憩室で、油まみれの手で新聞をめくったとき、その青い写真が載っていた。ずいぶん昔に見えて、また戻ってくるのだと、記事には書いてあった。次に見えるのは、何十年も先だと。

その蒼い星が、家々の橙色の灯りと、まるで競い合うように宵の空に昇っているのを見て、俺は立ち止まった。

家々の灯りは、地上の温もりだ。団欒の灯りだ。そしてあの蒼い星は――あれは、何なのだろう。孤独な光。誰の窓でもない、はるか高いところで、たったひとつ、青く燃えている光。

俺は、あの星に自分を重ねた。重ねずにはいられなかった。地上のあたたかい灯りの群れのなかで、俺はあの蒼い星のようだった。誰の団欒にも属さず、けれど確かに、自分の光でひとり燃えている。橙色の灯りの海のなかで、たったひとつ、色の違う光を灯して。

コロッケの匂いのまだ残る指を、俺は無意識に握りしめた。そして、しばらくその星を見上げていた。首が痛くなるまで見上げていた。宵の風が、油の匂いのする俺の作業着を、かすかに揺らしていた。あの蒼い星も、風に吹かれているのだろうか。あんなに高いところで、たったひとつで、寒くはないのだろうか。俺は、そんな子どもみたいなことを、ふと考えた。

下宿に帰ると、いつものように、大家のばあさんの部屋の灯りがまだついていた。

一階の奥の、磨りガラスの向こうに、橙色のぼんやりした灯りが滲んでいる。ばあさんは耳が遠くて、テレビの音を大きくして、いつも遅くまで起きている。俺が階段を上ると、決まって「おかえり」と、しわがれた声が聞こえてくる。

「おかえり」

今夜も聞こえた。俺は「ただいま」と返す。それだけの、たった四文字のやりとりが、俺の一日のなかで、唯一の団欒めいたものだった。ばあさんは俺の顔をろくに覚えていないだろう。俺が学生であることも、たぶん忘れている。それでも、あの「おかえり」の声には、他人には出せない、家の灯りのような温もりがあった。

自分の部屋に入って、紐を引いて裸電球をつける。じ、と鳴って、白っぽい光が六畳を照らす。飯台の上には、朝出るときのままの、洗っていない茶碗がひとつ。壁には工場の作業予定表と、夜間高校の時間割が、画鋲で留めてある。それだけの部屋だ。

俺は作業着を脱いで、シャツ一枚になった。窓を開けると、夜気が流れこんできた。狭い路地を挟んだ向かいの家の、二階の窓に、灯りがついている。橙色の、あたたかい灯り。カーテンの隙間から、勉強机に向かう少女の後ろ姿が見えた。制服を着たままだ。昼の高校の生徒だろう。参考書をひらいて、ノートに何かを書きつけている。

俺と同じだ、と思った。あの子も、夜のこの刻に、机に向かっている。ただ、あの子は昼に学び、夜に復習する。俺は昼に働き、夜に学ぶ。同じ勉強でも、俺たちのあいだには、越えられない昼と夜の隔たりがある。あの子は、朝、制服を着て、まっすぐな道を歩いて学校へ行く。俺は、朝、作業着を着て、油の匂いの道を歩いて工場へ行く。同じ年頃で、俺たちの一日は、まるで違う色をしている。

けれど、と俺はまた思い直す。灯りの色は同じだ。あの子の机の上の灯りも、いつか俺がともす灯りも、同じ橙色であっていいはずだ。俺は窓を閉めて、飯台の前に座った。

鞄をひらいて、教科書とノートを出す。そのとき、鞄の底で、何かがかすかに鳴った。

手を入れて探ると、指先に、小さな箱の角が触れた。取り出してみる。青いマッチ箱だった。

ずいぶん前に手に入れたものだ。あれは、去年の梅雨の夜だった。俺は、駅の裏手の、古びた古本屋に立ち寄っていた。あの店は「月光書房」という、変わった名の店で、俺はときどき、立ち読みに寄っていた。金がないから買えないが、店主は何も言わずに立ち読みをさせてくれた。

その店には、灯りがたくさんあった。ふつうの古本屋のような、蛍光灯の白い光ではない。天井から、いくつもの古い電球が吊るされていて、そのどれもが、飴色のあたたかい光を放っていた。棚の奥のほうには、蝋燭立てまで置いてあった。店主は、電気があるのに、ときどき蝋燭をともした。「宵には、火の灯りが似合う」と、店主は言った。俺は、その言葉を、なぜかよく覚えている。

あの夜、俺は雨に降られて、店の軒先で雨宿りをしていた。傘を持っていなかったのだ。工場からまっすぐ来て、傘を買う金も惜しかった。軒先で、俺は、店のなかの飴色の灯りを、ぼんやり眺めていた。雨の音のなかで、その灯りだけが、あたたかかった。

すると、店主が出てきて、「これを持っていきなさい」と、そのマッチ箱をくれたのだ。

「火が要るときが、きっとある」と、店主は言った。

俺は、なぜマッチなのか、わからなかった。傘ならわかる。けれど、マッチだ。店主は、それ以上、何も説明しなかった。ただ、俺の掌に、その青い箱を握らせて、店のなかへ戻っていった。飴色の灯りのなかへ、店主の背中が消えていった。

箱には、月光堂、という古めかしい文字が刷られていて、その下に、細い三日月の絵が描かれている。青い箱。深い、藍に近い青。俺はそれを、鞄の底のお守りのように、ずっと持ち歩いていた。工場では火を使うことも多いから、実際に役に立つこともある。けれど、なんとなく、このマッチだけは使わずにいた。何か、特別なときのために、取っておきたかった。

俺は箱を振ってみた。まだ、たっぷり残っている音がする。ひとつ、擦ってみようか、という気になった。なぜだかわからない。あの蒼い星を見たせいかもしれない。闇の底に灯る光、という詩の一行のせいかもしれない。宵には、火の灯りが似合う、という店主の言葉のせいかもしれない。

引き出しを開けて、蝋燭を探した。去年の冬、停電のときに使った、短くなった蝋燭が一本、残っていた。俺はそれを飯台の上に立てた。それから、裸電球の紐を引いて、灯りを消した。

部屋が、闇に沈んだ。

窓の外の、向かいの家の灯りだけが、カーテンの隙間からわずかに射している。俺は青いマッチ箱をひらいた。指でマッチを一本つまみ、側薬に擦りつける。

しゅ、という音とともに、火が生まれた。

橙色の小さな炎。それが、闇のなかで、あまりにも明るく見えた。俺はその火を、蝋燭の芯に移した。芯が火を受けて、じ、と音を立てて燃え上がる。蝋燭の炎が、ゆらり、ゆらりと揺れた。橙色の光が、六畳一間を、あたたかく照らした。

裸電球の白い光とは、まるで違う。蝋燭の炎は、生きていた。呼吸するように揺れ、俺の顔を、飯台を、壁の時間割を、飴色の光で染めた。俺はその炎を、しばらくのあいだ、ただ見つめていた。

これだ、と思った。あの、家々の窓の橙色の灯りは、きっとこの色なのだ。団欒の色。温もりの色。この小さな炎ひとつでも、部屋はこんなにも変わる。俺の孤独な部屋が、いま、あの窓の内側と同じ色に染まっている。月光書房の店主が、なぜマッチをくれたのか、俺はやっと、わかった気がした。店主は、知っていたのだ。俺のような人間には、いつか、この火が要るときが来ると。孤独の底で、たったひとつ、自分で灯す火が。

炎を見つめながら、俺は妹のことを思い出した。

妹は、いま十四になる。俺が家を出るとき、まだ小さかった妹は、泣きじゃくって俺の袖を掴んだ。「兄ちゃん、行かないで」と。俺は妹の頭を撫でて、「すぐ帰る」と嘘をついた。すぐには帰れなかった。盆と正月に、年に二度帰るのが精一杯だった。

その日の朝、俺は妹の手紙を受け取っていた。工場に出る前、下宿の郵便受けに入っていたのだ。俺は昼の休憩に、油まみれの手で、その手紙をひらいた。妹の、丸い、まだ幼い字で、こう書いてあった。

――兄ちゃん、げんきですか。わたしは、高校に行きたいです。昼の高校に。おかあさんは、お金がないから、と言います。でも、わたし、どうしても行きたいです。兄ちゃんが夜間で頑張っているのを知っているから、わたしも頑張りたいです。

俺は、その手紙を読んで、飯台の前で、いや、工場の休憩室で、しばらく動けなかった。行かせてやりたい。俺が夜間で味わっているこの疲れを、妹には味わわせたくない。妹には、昼の光の下で、堂々と学んでほしい。制服を着て、まっすぐな道を歩いて、朝の光のなかで、学校へ行ってほしい。あの、向かいの窓の少女のように。

そのために、俺は働く。昼に働き、夜に学ぶ。俺自身が学ぶのは、半ば自分のためだが、もう半ばは、妹に「兄ちゃんも学んでいる」と胸を張って言いたいからだった。兄が学ぶことをやめなければ、妹も、学ぶことを諦めずにいられる。そう信じていた。妹の高校の金は、俺が出そう。残業を増やせばいい。俺は、もう決めていた。

蝋燭の炎が、大きく揺れた。窓の隙間から、宵の風が忍びこんだのだ。炎は消えそうになって、けれど、消えなかった。ぎりぎりのところで持ちこたえ、また、まっすぐに燃え上がった。

俺は、その炎に、自分を見た。何度も消えそうになりながら、それでも消えずにいる、小さな火。工場を辞めたくなったことは、何度もある。夜間をやめたくなったことも、何度もある。疲れて、電車のなかで眠りこけて、乗り過ごしたことも、一度や二度ではない。同僚に「なんでそんなに無理をする」と笑われたこともある。「高校なんか出たって、どうせ同じ工場じゃないか」と。それでも俺は、消えずにいた。この炎のように。

母がよく、俺が幼いころに、子守唄を歌ってくれた。眠れ、眠れ、星が海をわたるまで、という唄だ。あの唄を、俺はいまでも覚えている。星が海をわたるまで。あの蒼い彗星も、いま、宵闇の海を、ゆっくりとわたっているのだろうか。海の向こうまで、たったひとつで、青い光を灯しながら。

俺は、小さく、その唄を口ずさんだ。眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。声にすると、母の顔が浮かんだ。妹の顔が浮かんだ。父の、もう思い出せなくなりつつある顔が、炎の揺らぎのなかに、一瞬、浮かんだ気がした。父も、この唄を、聞いていただろうか。母が俺に歌ったこの唄を、父も、隣で聞いていただろうか。

俺は、蝋燭の炎の下で、妹への返事を書いた。――高校に行け。金は兄ちゃんが出す。心配するな。おまえは昼の光の下で、堂々と学べ。俺は、そう書いた。書きながら、目の奥が、少し熱くなった。炎のせいだ、と俺は思った。炎が、目にしみたのだ。そういうことにした。

翌朝、俺はいつものように、まだ暗いうちに起きた。

宵に灯した蝋燭は、短い燃えさしになって、飯台の上で固まっていた。青いマッチ箱は、その隣に置いてある。俺はマッチ箱を手に取って、また鞄の底にしまった。火が要るときが、きっとある。店主の言葉が、耳に残っていた。昨夜、俺はたしかに、火を必要としていたのだ。

妹への手紙を、俺は郵便受けに入れて、駅へ向かった。まだ暗い朝の道。宵とは違う、冷たい闇だ。家々の窓には、まだ灯りがついていない。みんな、眠っている。俺だけが、この闇のなかを、工場へ向かって歩いている。

工場での一日は、いつもと変わらなかった。旋盤が唸り、鉄が削られ、油の匂いが鼻の奥にこびりつく。手は、また半分黒くなった。昼のあいだ、俺は何も考えない。考える余裕がない。ただ手を動かし、機械の音のなかに、自分を溶かしていく。

昼の休憩のとき、俺は工場の裏手に出て、空を見上げた。青い、抜けるような昼の空。彗星は、どこにもない。昼の光のなかでは、あの蒼い星も、他の星も、みんな見えなくなる。強すぎる光は、小さな光を消してしまう。

けれど、と俺は思った。見えないからといって、消えたわけではない。あの蒼い星は、いまも、昼の空の向こうで、確かに燃えている。宵になれば、また見える。俺の胸のなかの小さな火も、きっと同じだ。昼の忙しさのなかで見えなくなっても、消えたわけではない。宵になれば、また灯る。

休憩室に戻ると、古株の工員が、俺に声をかけた。班長の、五十がらみの男だ。父を知っている、数少ない人間のひとりだった。

「おまえ、まだ夜学に通っとるのか」

「はい」

「大変だろう」

「慣れました」

班長は、しばらく黙って、俺の顔を見ていた。それから、ぽつりと言った。

「おまえの親父も、勉強したかったやろうな。あの人は、頭のいい人だった。工場じゃもったいない、とみんな言っとった。おまえは、行けるところまで行け。親父の分も」

俺は、返す言葉がなかった。ただ、うなずいた。班長は、それ以上何も言わず、湯呑みの茶を啜って、休憩室を出ていった。俺は、父が勉強したかったことを、はじめて知った。父は、俺を膝に乗せて、機械の話をしてくれた。あの話のなかに、父の、勉強したかった気持ちが、混じっていたのだろうか。俺は、油まみれの手を、じっと見つめた。この手は、父の手に、似ているだろうか。

その日の夕方、俺はいつものように工場を出て、電車を乗り継いで、夜間高校の門をくぐった。

その週の土曜、俺は久しぶりに、月光書房へ足を向けた。

工場は昼で終わりだった。夜間の授業もない。丸一日が、俺のものになる、月に何度もない日だ。俺は、そういう日には、たいてい下宿で眠りこけてしまう。溜まった疲れが、一気に体を押し倒すのだ。けれどその土曜は、なぜか、あの店へ行きたくなった。マッチをくれた店主に、ひとこと、礼を言いたかった。あの青いマッチが、俺にとってどんなものになったか、伝えたかった。

夕方から、雨が降りはじめた。梅雨の、細かい雨だ。あの、マッチをもらった夜と、同じような雨だった。俺は傘をさして、駅の裏手の路地へ入った。

月光書房の灯りは、雨のなかで、いっそうあたたかく見えた。天井から吊るされた、いくつもの飴色の電球。その光が、店先に積まれた古本の背表紙を、やわらかく照らしている。雨に濡れたガラス戸の向こうで、その灯りが滲んで、まるで宵の海の底に沈んだ、小さな灯台のようだった。

戸を開けると、古い紙の匂いがした。埃と、インクと、時間の匂い。店主は、奥の帳場に座って、蝋燭の灯りの下で、本を読んでいた。ほんとうに、電気があるのに、蝋燭をともしている。その炎が、店主の白髪を、飴色に染めていた。

「いらっしゃい」と、店主は、顔を上げずに言った。それから、俺に気づいて、「ああ、君か」と、静かに笑った。「傘は、持ってきたようだね」

俺は、去年の夜のことを、店主が覚えていたことに、少し驚いた。あんな、雨宿りの若造ひとりのことを。

「あのときの、マッチ」と、俺は言った。「使いました。……宵に、蝋燭をともすのに」

店主は、本を閉じて、俺をまっすぐに見た。蝋燭の炎が、二人のあいだで、ゆらりと揺れた。

「そうか」と、店主は言った。「火が、要るときが、来たか」

「はい」

「宵は、な」と、店主は、蝋燭の炎に目を落として言った。「一日のうちで、いちばん、灯りの要る刻だ。昼は、放っておいても明るい。夜ふけは、もう眠るだけだ。けれど宵は――日が暮れて、闇が来て、けれどまだ眠るには早い、この刻は、自分で灯りをともさねばならん。家々が、いっせいに灯りをともすのは、そのためだよ。宵の闇に、負けんためだ」

俺は、店主の言葉を、じっと聞いていた。飴色の灯りの下で、古い本たちが、静かに俺たちを取り囲んでいた。

「君は、夜学に通っているのだろう」と、店主は言った。俺が話した覚えはなかった。けれど、店主には、わかるようだった。俺の作業着と、鞄と、疲れた目を見れば。「昼に働き、宵に学ぶ。それは、いちばん、灯りの要る生き方だ。だからこそ、君には、火をやった。傘は、雨をしのぐだけだ。けれど火は、闇をしのぐ。君に要るのは、雨より、闇をしのぐものだと、思ったからな」

俺は、その夜、店主から一冊の詩集を買った。金はなかったが、店主は「これでいい」と、俺の握らせたわずかな小銭を受け取ってくれた。あの、教室で習った詩人の詩集だった。灯を消せば、闇はいよいよ濃くなる、という、あの一行の載った本だ。俺は、それを鞄に入れて、雨のなかを帰った。傘の下で、鞄のなかの詩集が、青いマッチ箱と、こつん、と触れ合う音がした。

その夜の授業は、数学だった。

俺は数学が苦手だ。方程式の記号を見ると、頭がくらくらする。昼の疲れが、そういうときに一番こたえる。俺は何度も、ノートの上で、うとうとしそうになった。青白い蛍光灯の光が、まぶたの裏で、ぼんやりと滲む。

隣の魚屋の男が、俺の脇腹を、そっと肘でつついた。

「眠るな、若いの」

しわがれた、けれど温かい声だった。男は、老眼鏡の奥の目で、黒板を指した。教師が、いま解いている問題。俺はあわてて、目を見開いた。

「わしはな」と、魚屋の男は、休み時間になってから、ぽつりと言った。「若いころ、学校に行けんかった。戦争でな。国民学校の途中で、勉強どころじゃなくなった。字も、ろくに書けんかった。魚を捌く手はいっちょまえになったが、伝票ひとつ書けん。それが、ずっと恥ずかしかった。だからこの歳になって、こうして来とる。若いおまえが、眠ってどうする。おまえには、まだ時間があるやろ」

俺は、返す言葉がなかった。ただ、うなずいた。

男の言うとおりだった。俺には、まだ時間がある。この男が、五十を過ぎてなお、眠い目をこすって方程式を睨んでいる。魚を捌く手で、鉛筆を握っている。その鉛筆の握り方は、ぎこちなかった。まるで、はじめて字を覚える子どものように。それでも、男は、書いていた。一字、一字、確かめるように。それに比べて、俺は二十歳だ。疲れているなどと、言えた義理ではなかった。

「あんたは、字が、きれいだよ」と、俺は、思わず言った。男のノートを覗きこんで、俺は本当にそう思ったのだ。ゆっくりと、一字ずつ、丁寧に書かれたその字は、俺の走り書きよりも、ずっときれいだった。

男は、少し驚いたように俺を見て、それから、照れくさそうに笑った。老眼鏡の奥の目が、青白い蛍光灯の下で、やわらかく細まった。「そうか」と、男は言った。「そうか。きれいか」

その夜、俺は最後まで、一度も眠らなかった。方程式は、相変わらずよくわからなかった。けれど、ノートの上を走る自分のペンの音が、なぜか、いつもより力強く聞こえた。隣で、魚屋の男の鉛筆も、ゆっくりと、確かに、動いていた。俺たちは、同じ青白い光の下で、それぞれの闘いをしていた。孤独な闘いだ。けれど、隣に、同じ闘いをする者がいる。それだけで、その孤独は、少し違うものになった。

授業の終わりに、教師が、俺たちに向かって言った。

「来月、実力試験がある。諸君のなかには、この学校を出たら、進学を考えている者もいるだろう。昼の高校の生徒に、劣らぬ力をつけてほしい。私は、諸君が、昼の生徒より疲れていることを知っている。だが、疲れているからこそ、諸君の一点は、彼らの十点よりも、重い。私はそう信じている」

俺は、進学のことなど、考えたこともなかった。高校を出れば、それで御の字だと思っていた。工場で、少しでも給料の上がる仕事に就ければ、それでいい、と。けれど、教師の言葉を聞いて、俺の胸の奥で、何か小さなものが、ちりっと灯った気がした。進学。もし、俺が進学できたら。夜学から、大学へ。父が行けなかった道を、俺が。

馬鹿な、と俺はすぐに打ち消した。金がない。時間がない。妹の高校の金も、俺が出すのだ。俺に、大学など、行けるはずがない。けれど、その小さな灯りは、打ち消しても、打ち消しても、胸の奥で、かすかに燃えつづけた。まるで、あの、風に消えそうで消えない蝋燭の炎のように。

俺は、その灯りを、無理に消そうとするのを、やめた。消さずに、持っておこう、と思った。いま、火をつけなくてもいい。ただ、消さずにおく。火種だけ、胸の奥に、そっと持っておく。いつか、宵が来て、その火が要るときが来たら、そのとき灯せばいい。店主のマッチのように。

授業のあと、俺はまた、あの遠回りの道を歩いた。

住宅街の窓には、今夜も橙色の灯りがともっている。卓袱台を囲む影。テレビの青い光。風呂の湯の音。他人の団欒が、灯りとなって、夜道にこぼれている。

けれど、その夜の俺は、少し違っていた。他人の窓の灯りを見上げても、以前ほど、眩しくは感じなかった。眩しさのなかに、羨望よりも、親しみのようなものがあった。あの灯りの下には、あの少女がいる。昼に学び、夜に机に向かう少女。あの灯りの下には、卓袱台を囲む家族がいる。俺の郷里の母と妹の、卓袱台と、地続きの温もりだ。あの灯りの下には、魚屋の男の家もあるだろう。きっと今夜も、あの男は、家に帰って、遅い飯を食い、それからまた、ぎこちない手で、字の練習をするのだろう。

灯りは、みんな、繋がっている。俺はそう思った。他人の窓の橙色も、俺が昨夜ともした蝋燭の橙色も、母が郷里でともしているであろう灯りも、みんな同じ色だ。宵の街に、無数にともるこの橙色の灯りは、ひとつひとつは孤独でも、こうして街全体を見れば、ひとつの大きな、温かい灯りの海になっている。

俺は、その海の一滴だった。孤独な一滴。けれど、確かに海の一部だった。

そのとき、ひとつの窓が、ふっと明るくなった。それまで暗かった二階の窓に、いま、誰かが灯りをともしたのだ。橙色の光が、闇のなかに、ぽっと生まれた。俺は、足を止めて、その窓を見上げた。誰かが、いま、帰ってきたのだ。あるいは、遅い勉強を始めたのかもしれない。あるいは、眠れずに、起き出したのかもしれない。その灯りの下に、どんな人がいるのか、俺は知らない。けれど、いま、あの窓に灯りがともった、その一瞬が、俺には、たまらなく美しく見えた。

灯りをともす、というのは、と俺は思った。それは、闇に負けない、という宣言なのだ。月光書房の店主が言ったとおりだ。宵の闇に、家々が、いっせいに灯りをともす。それは、めいめいの人間が、その日一日の疲れや、悲しみや、孤独に、負けまいとして、ともす火なのだ。あの窓の灯りも。この窓の灯りも。俺の蝋燭も。そして――俺の胸の、あの小さな火種も。

俺は、また歩き出した。歩きながら、鞄のなかの、青いマッチ箱と詩集の、こつん、という音を聞いた。その音が、俺の足取りに合わせて、規則正しく鳴った。まるで、俺の一歩ごとに、小さな灯りが、ひとつずつ、ともっていくかのように。

住宅街の切れ目まで来て、俺はまた、空を見上げた。

蒼い星は、今夜も、そこにあった。昨夜より、ほんの少しだけ、位置を変えている気がした。宵闇の空を、家々の灯りと競うように、青く昇っている。その光は、孤独だった。地上のどの窓明かりよりも高く、どの団欒からも遠く、たったひとつで燃えていた。

けれど、その孤独な光を見上げて、俺はもう、寂しくはなかった。あの星は、俺だ。そして、あの星もまた、この宵の灯りの海の一部なのだ。地上の橙色と、天上の蒼。色は違う。温度も違う。けれど、どちらも、宵の闇を照らす灯りであることに、変わりはない。孤独に燃える光もまた、灯りの海の一部なのだ。孤独であることは、繋がっていないこととは、違うのだ。

眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。

俺は、また、その唄を口ずさんだ。あの蒼い星は、いま、宵闇の海をわたっている。いつか、その海の向こうへ、青い光を灯しながら、消えていくのだろう。何十年か経って、また戻ってくるまで。俺が、この蒼い星をふたたび見上げるとき、俺はいくつになっているだろう。俺の窓には、そのとき、橙色の灯りがともっているだろうか。俺の卓袱台を、誰かが囲んでいるだろうか。妹は、そのとき、どうしているだろう。昼の高校を出て、大人になって、どこかの窓に、自分の灯りをともしているだろうか。

月末になった。給料日だった。

俺は、工場でもらった給料袋を、そのまま郵便局へ持っていった。いつもより、多く送った。残業を増やしたぶん、いくらか厚くなった袋だ。妹の高校の入学金の、足しになればいい。窓口で、俺は、送金の紙に、金額を書きこんだ。半分黒い手で、鉛筆を握って。ゆっくりと、一字ずつ、丁寧に。魚屋の男のように。

送金の紙を書き終えて、俺は、その裏に、ひとこと書き添えた。――高校、頑張れ。兄ちゃんも、頑張ってる。

局員の女が、その紙を受け取って、俺の顔を、ちらりと見た。作業着の、油の匂いのする若造を。それから、何も言わずに、判を押した。俺は、少し軽くなった給料袋を、内ポケットにしまって、局を出た。今月も、俺の手元には、たいして残らない。下宿代と、食費と、教科書代を引けば、ほとんど何も。けれど、俺の胸のなかは、なぜか、いつもより満たされていた。妹が、昼の高校に行ける。あの、向かいの窓の少女のように、朝の光のなかを、制服を着て歩ける。それだけで、俺は、この一月の疲れが、報われた気がした。

その帰り道、俺はまた、宵の空を見上げた。蒼い星は、また少し、位置を変えていた。だいぶ、西のほうへ傾いている。もうすぐ、この街の空からは、見えなくなるのだろう。海の向こうへ、わたっていくのだ。俺は、その青い光に、小さく、手を振った。子どもじみた仕草だ。誰も見ていない、暗い道で。それでも、俺は、手を振らずにいられなかった。またな、と胸のなかで言った。何十年か経って、また戻ってきたら、そのとき、俺の窓を、見てくれ。橙色の灯りのともった、俺の窓を。

下宿に帰ると、今夜も、ばあさんの部屋の灯りがついていた。

「おかえり」

しわがれた声。俺は「ただいま」と返す。今夜は、いつもより、その声が、少しだけ大きく聞こえた気がした。俺は、階段の途中で立ち止まって、磨りガラスの向こうの、橙色の灯りを見た。その灯りの下で、ばあさんは、テレビの音を大きくして、ひとりで起きている。ばあさんもまた、孤独な一滴なのだろう。けれど、俺が帰ると、「おかえり」と言ってくれる。その一言で、ばあさんの灯りと、俺の灯りは、繋がる。

自分の部屋に入って、俺は、裸電球をつけなかった。かわりに、鞄の底から、青いマッチ箱を取り出した。昨夜の蝋燭の燃えさしを、もう一本の新しい蝋燭に替えて、飯台の上に立てる。新しい蝋燭は、駅前の店で買ってきた。もう、停電の非常用ではない。宵に、火を灯すための蝋燭だ。

マッチを一本、擦った。

しゅ、という音とともに、橙色の火が生まれた。俺はその火を、蝋燭の芯に移した。じ、と音を立てて、炎が燃え上がる。ゆらり、ゆらりと揺れる、飴色の光。六畳一間が、あたたかい橙色に染まった。

俺は、その炎を見つめながら、教科書をひらいた。今夜は、あの、わからなかった数学の問題を、もう一度、やってみようと思った。炎の光は、蛍光灯よりも暗い。ノートの字も、少し見えづらい。けれど、この炎の下でやる勉強には、蛍光灯の下では味わえない、静かな熱があった。

ペンを走らせる。方程式は、相変わらず難しい。何度も間違える。消しゴムで消して、また書く。炎が揺れる。俺の影が、壁の上で、大きく揺れる。魚屋の男の、ぎこちない、けれどきれいな字を思い出しながら、俺も、一字ずつ、確かめるように書いた。走り書きではなく、丁寧に。すると、不思議なことに、さっきまでわからなかった問題が、少しずつ、ほどけていった。

ふと、俺は手を止めて、鞄から、あの詩集を取り出した。月光書房で買った、あの一冊だ。飴色の炎の下で、俺は、その頁をひらいた。灯を消せば、闇はいよいよ濃くなる、という、あの一行を探して。

見つけた。俺は、蝋燭の光に頁を近づけて、その詩を、はじめから終わりまで、声に出さずに、ゆっくりと読んだ。何度もつかえた。読めない字もあった。それでも、読んだ。そして、あの一行の、続きを、はじめて知った。

――灯を消せば、闇はいよいよ濃くなる。されど、その闇の底にこそ、次の灯はともる。ともす者のあるかぎり、闇は、ついに世界を覆いつくすことはない。

ともす者のあるかぎり。俺は、その一行を、二度、三度、読み返した。ともす者。それは、あの窓の少女だ。魚屋の男だ。夜学の教師だ。月光書房の店主だ。郷里の母と妹だ。そして――俺だ。俺もまた、ともす者の、ひとりなのだ。この、たったひとつの蝋燭を、宵の闇にともす、ともす者の。

俺は、詩集を閉じて、それを、青いマッチ箱の隣に置いた。二つとも、あの店から来たものだ。飴色の灯りの、あの店から。俺は、また、ペンを取った。

窓の外では、宵の街が、無数の橙色の灯りをともしている。その灯りの海のなかで、俺の小さな蝋燭も、ひとつの灯りとして、確かに燃えていた。そして、その灯りのはるか上、宵闇の空では、蒼い星が、たったひとつで、青く燃えていた。

団欒の灯りと、孤独の灯り。あたたかい橙と、澄んだ蒼。そのどちらもが、この同じ宵のなかに、並び立っていた。

俺は、ペンを置いて、しばらく炎を見つめた。それから、また、ペンを取った。

昼は働き、宵に学ぶ。疲れた体で見上げる、灯りのともる窓。他人の団欒の灯りと、自分の孤独。それでも、俺は、この胸の小さな灯りを、消さずにいる。消さずにいるかぎり、俺は、あの蒼い星のように、たったひとりでも、燃えつづけていられる。そしていつか――いつか、この孤独な炎が、あの窓の橙色の団欒に、変わる日が来ると信じて。妹と、母と、俺と、まだ見ぬ誰かと。いつか、俺の卓袱台を、あたたかい橙色が照らす日が来ると信じて。

蝋燭の炎が、ひときわ大きく、まっすぐに燃え上がった。

窓の外では、宵の風が、家々の灯りを、そっと揺らしている。その風のなかで、蒼い星は、なお昇りつづけている。消えそうで、消えない小さな炎を、俺は掌でそっと囲った。この火は、まだ、誰にも消させはしない。俺自身にも、消させはしない。宵はまだ、深い。学ぶ夜は、まだ、始まったばかりだ。

この物語にひそむ符牒

ほかの物語と、ひそかに分かち合っているもの:

  • ミラ彗星
  • 月光堂のマッチ
  • 子守唄
  • 月光書房

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