待つという字
あなたは、降りるはずのなかった駅で降りる。
理由は、あなた自身にもうまく言えない。終電の座席で、あなたは浅く眠っていた。膝の上で鞄が滑り落ちそうになり、その重みではっと目を開けたとき、扉はもう開いていた。ホームの闇に向かって、暖かい車内の空気がひと息に吸い出されていく。アナウンスはとうに鳴り終えていたのか、それともこの駅では鳴らないのか、あなたの耳には何も残っていない。ただ、開いた扉の向こうに、細い灯りがひとつ見えた。それだけで、あなたの足は立ち上がっていた。
考えてみれば、奇妙なことだ。あなたは降りる駅を決めていた。それは、あなたの暮らす町の、見慣れた駅だった。改札を出れば、いつものコンビニの灯りがあり、いつもの坂道があり、その上にあなたの部屋がある。今夜もそこへ帰るはずだった。それなのに、あなたの体は、見も知らぬこの駅で立ち上がり、何ひとつ躊躇わずに、ホームへ踏み出していた。まるで、ずっと昔からそうすると決まっていたかのように。
ホームに降りた瞬間、背中で扉が閉じる。やわらかいゴムの当たる音、それから空気の抜けるため息のような音。あなたが振り返るより早く、終電は動きだしている。窓のひとつひとつが、誰もいない明るい部屋のように流れ、やがて尾灯の赤い点になり、線路の彼方へ吸い込まれていく。レールの鳴きがしばらく耳に残り、それも、ふっと消える。
そうしてあなたは、ひとりになる。
駅名標を探して、あなたはホームを見渡す。けれど、あなたの立っている位置からは、その駅の名が読めない。柱の陰になっているのか、もともと掲げられていないのか。隣の柱まで歩いていけば、わかるはずだ。そう思いながら、あなたはなぜか動かない。動けば、この駅の名を知ってしまう。知ってしまえば、ここがどこかになってしまう。今はまだ、ここはどこでもない場所だった。あなたはその、どこでもなさに、ほんの少し、心を許している。
ホームには屋根がない。あるのは、古い木のベンチがひとつと、傾いた時刻表の枠だけだ。時刻表の紙はとうに色を失い、印字は雨に流れて読めない。けれど枠のガラスには、あなたの顔がうっすらと映っていて、それであなたは、自分がまだ生きてここにいることを確かめる。妙な確かめ方だと、あなたは思う。けれど無人の駅というのは、人にそういうことをさせる。誰も見ていない場所では、人は、自分で自分を見るしかない。
風が、線路の彼方から吹いてくる。草いきれの匂いがする。その下に、かすかに、潮の匂いが混じっている気がする。海が近いのだろうか。けれど、あなたの帰り道に、海はなかったはずだ。あなたは、自分が今夜、どれだけ乗り過ごしたのか、見当もつかないことに気づく。眠っていたあいだに、終電は、あなたの知らない土地まで、あなたを運んできたのだ。
空気が冷たい。秋にしては冷たすぎる、と感じて、あなたは襟元を掻き合わせる。そのとき、片方の手にだけ手袋が嵌まっていないことに、あなたは気づく。右手には焦げ茶の革手袋。左手は、素のまま。鞄の中を探っても、もう片方は出てこない。電車に置いてきたのか、それとも今日のどこかで落としたのか。記憶を辿ろうとして、あなたは、今日という一日の輪郭が、思いのほか曖昧であることに、軽い眩暈を覚える。
朝、あなたは家を出た。それは確かだ。けれど、どこへ向かったのか。誰と会ったのか。何を話したのか。順に思い出そうとするたびに、白い霧のようなものが間に挟まる。会社へ行ったはずだ。机に座り、書類を捲り、誰かと言葉を交わしたはずだ。昼には何かを食べた。夕方には、誰かと別れの挨拶をした。けれど、その一つひとつの場面が、まるで他人の記憶のように、あなたの手をすり抜けていく。
疲れているのだ、とあなたは自分に言い聞かせる。終電まで働いて、座席で眠るほど疲れていれば、記憶のひとつやふたつ、ほどけもするだろう。片方の手袋くらい、落としもするだろう。人は、毎日のことを、いちいち覚えてなどいない。覚えていないからといって、その日がなかったわけではない。
それでも、左手の冷たさが、あなたを離さない。
冷たさには、奇妙な親しさがあった。今日はじめて感じた冷たさではない、という感覚。ずっと昔から、あなたの左手は、何かを握りそこねたまま、冷えていたのではないか。そんな、根拠のない確信が、あなたの胸を、ゆっくりと冷やしていく。あなたは右手で、左手を包む。けれど革手袋の温もりは、素の左手には、なぜか伝わらない。
ホームの先に、改札がある。
正確には、改札のあった場所、と言うべきかもしれない。自動改札機はなく、木の柵がひとつ、傾いて立っているだけだ。柵の脇に小さな小屋があって、ガラス窓の奥は暗い。かつては駅員がそこに座り、切符を切っていたのだろう。今は、誰もいない。あなたは券売機を探すが、それもない。改札を抜けるのに切符の要らない駅というものが、この国にまだあるのかと、あなたは少し驚く。
柵を抜けようとして、あなたの足が止まる。柵のすぐ脇、木の台の上に、四角い灰皿が置かれている。陶器の、底の深い、古い形の灰皿だ。吸い殻はひとつも入っていない。きれいに拭われている。誰かが、ついさっきまで手入れをしていたかのように。
その灰皿の縁に、マッチ箱がひとつ、立てかけてある。
あなたはそれを手に取る。深い藍色の、小さな箱。表に、三日月が銀の線で刻まれている。「月光堂」と、細い文字。あなたはその名に、覚えがあるような、ないような、奇妙な感覚を抱く。聞いたことのある名だ。けれど、どこで。箱を振ると、中で軸木の鳴る、乾いた音がする。まだ使えるマッチだ。誰かが、ここで火を点けるために置いていったマッチ。
あなたはなぜか、それを元の場所に戻さず、コートのポケットに滑り込ませる。盗むつもりではない。ただ、ここに置いておいてはいけない気がしたのだ。理由は言えない。今夜のあなたは、理由の言えないことばかりしている。けれど、その理由の言えなさが、今夜は、いつもの夜よりも、正しいことのように思える。
柵を抜けると、そこが駅前だった。
駅前、と呼ぶには、あまりに何もない。砂利を敷いた小さな広場と、その向こうの暗い道。街灯はひとつきり、それも切れかかって、じじ、と虫の翅のような音を立てて点滅している。広場の隅には、自販機の抜け殻のような鉄の箱があり、けれど中は空で、灯りもない。バスの停留所らしき標識が傾いて立っているが、行き先を書いた板は剥がれ落ちている。人の暮らした気配だけが、薄く、けれど確かに、そこに残っている。
あなたが灯りと思ったのは、その街灯ではなかった。
広場の隅に、一軒の店があった。
正確には、店だったのだろう、と思われる建物。木造の二階家で、軒先に、古い硝子の灯りがひとつ吊られている。その黄色い灯りだけが、ホームから見えていたのだ。引き戸の硝子の奥に、ぼんやりと、暖かい光がある。営業しているのか、と思うには、時刻が時刻だ。終電のあとに開いている店など、こんな何もない駅前にあるはずがない。
それでもあなたは、その灯りに向かって歩いていく。砂利が足の下で鳴る。じゃり、じゃり、と、その音だけが、世界に満ちる。歩くにつれて、灯りは近づき、けれど近づくほどに、その灯りの黄色は、深く、蜜のように濃くなっていく。電球の灯りではない。もっと古い、油の燃える灯り。あなたは、自分がだんだんと、今という時刻から、遠い場所へ歩いていることに、薄々、気づきはじめている。
店の前に立つと、引き戸の硝子に、白い紙が貼ってあるのが見えた。墨で、たった一文字。
「待」
待つ、という字だ。あなたはその字を、しばらく見つめる。誰が、誰を待っているのか。店の名でも、商いの種別でもない、ただ「待」とだけ。あなたの背筋を、冷たいものが上っていく。けれどそれは、恐れとは少し違う。むしろ、長く忘れていた約束を、ふいに思い出させられたときの、あの居心地の悪い懐かしさに近い。約束したことすら忘れていた約束。守らなかったことを、咎められもしなかった約束。
引き戸に手をかける。鍵はかかっていない。あなたが触れる前に、戸はわずかに開いていたのだ。指先に、戸の冷たい硝子が触れる。その冷たさは、あなたの左手の冷たさと、よく似ている。あなたは、息を吸う。古い木の匂いと、その奥の、何か甘く乾いた匂いが、鼻の奥に届く。
あなたは、戸を引く。木と木の擦れる、低い音がする。
中は、書物の匂いがした。
古い紙と、埃と、わずかな黴と、それから墨の匂い。天井まで届く棚に、背の褪せた本がぎっしりと詰まっている。和綴じの本もあれば、革で装幀された洋書もある。題簽の文字は、どれも掠れて読めない。床は板張りで、あなたが一歩踏み込むたびに、低くきしむ。店の奥に、小さな机がひとつあり、その上に置かれた行灯のような灯りが、店内に蜜色の光を落としている。
棚と棚のあいだの通路は狭く、本の壁が、あなたを両側から包む。あなたは、その本のひとつに、手を伸ばしかける。けれど、触れる前に、手を止める。なぜか、ここの本に触れてはいけない、という気がしたのだ。これらの本は、売られるためにあるのではない。読まれるためにあるのでもない。ただ、覚えているためにある。誰かの、何かを。あなたは、そう感じる。
机の向こうに、ひとりの老人が座っていた。
老人は、あなたが入ってきても、顔を上げなかった。手元の本に目を落としたまま、ゆっくりと頁をめくっている。白い眉、白い髪、深く刻まれた皺。けれどその手つきは、不思議と若々しい。指は長く、節くれだち、けれど震えはなく、頁を繰るたびに、紙が、さらさらと、砂の流れるような音を立てる。あなたはどう声をかけたものか迷い、結局、ただ立っている。
「来ましたね」
老人が言った。本から目を離さずに。
その声は、あなたが予想していたよりも、ずっと静かだった。咎める響きも、驚く響きもない。ただ、長く待っていた者が、待っていた相手の訪れを認めるときの、あの淡い確認の声。
「ここは」とあなたは言う。声が掠れる。「ここは、なんという駅でしょう」
老人は、ようやく顔を上げる。あなたを見る。その目は濁ってはいるが、奥に、よく研がれた刃のような光がある。あなたは、その目に見つめられると、自分の中の、いちばん見られたくない場所まで、見透かされている気がする。
「駅の名を、ご存じない」
「ええ。降りるつもりは、なかったのです。終電で、眠ってしまって。気づいたら、扉が開いていて、灯りが見えて……それで、つい」
「つい」と老人は繰り返す。そして、かすかに笑う。「人がこの駅に降りるのは、いつも『つい』ですよ。降りようと思って降りた人を、わたしは知らない。人は、ほんとうに降りたい駅でこそ、降りるつもりがなかった、と言うものです」
老人は、机の脇の椅子をあなたに勧める。
あなたは座る。座ってしまってから、座るべきではなかったかもしれないと思う。けれど立ち去る理由も、あなたにはない。終電は行ってしまった。始発までは、まだ何時間もある。この寒い無人駅で、夜を明かすほかないのなら、せめて灯りと人のいる場所で、と、あなたは自分を納得させる。けれど、ほんとうのところ、あなたを椅子に座らせたのは、寒さでも、灯りでもなかった。それは、机の向こうの老人が、あなたについて、あなた自身よりも、何かを多く知っているらしい、ということだった。
「店の名は」と老人が言う。「月光書房と申します」
あなたは、ポケットの中のマッチ箱を、思わず握りしめる。月光堂。月光書房。似た名だ。けれど、同じではない。あなたは、その違いが、何を意味するのか、わからないまま、ただ握りしめる。
「彗星の見える夜にだけ、ここは開きます」と老人は続ける。「朝には、もうありません。あなたがもう一度この駅に来ても、この店を見つけることは、おそらくできないでしょう」
「彗星」とあなたは言う。
「ええ。今夜、出ているはずですよ。ホームの先の空に」
あなたは思わず、戸の硝子の向こうを振り返る。けれど、そこからは空は見えない。棚の本に塞がれて、外の闇さえ、ほとんど見えない。
「あとで、ご覧になるといい」と老人は言う。「百年に一度しか巡らない星です。長いあいだ、人々に忘れられていました。それが、また還ってきた。忘れられていたものが還ってくる、というのは、この店の、得意とするところでしてね」
あなたは、何か言おうとする。けれど、言葉が出てこない。代わりに、別の問いが、口をついて出る。
「あなたは、わたしを待っていたのですか」
老人は、答えない。ただ、机の上の一冊の本に、そっと手を置く。
革の装幀の、分厚い本だ。表紙には何も書かれていない。けれど、その本は、店じゅうの、どの本とも違って見えた。他の本が、棚の中で静かに眠っているとすれば、この一冊だけは、目を覚まして、机の上で、あなたを待っていたかのようだった。
「これは」と老人は言う。「この土地の、覚え書きです」
老人は、それを開く。中は手書きの文字で埋まっている。古い筆跡、新しい筆跡、いくつもの手が、何代にもわたって書き継いできたもののようだ。墨の色も、頁ごとに違う。濃い墨、薄れた墨、ところどころ、墨ではない、もっと淡い色で書かれた行もある。
「この駅に降りた人のことを、わたしどもは、書き留めてまいりました。いつ、誰が、何を忘れて、何を思い出して帰ったか。あなたの番が、今夜です」
「わたしの番」
「ええ。あなたは、ここに一度、来たことがある」
あなたの心臓が、ひとつ、大きく打つ。
「いいえ」とあなたは言う。「わたしは、こんな駅、知りません。来たことなんて、一度も」
「覚えていないだけです」と老人は、静かに言う。「人は、いちばん大切なことを、いちばん深くにしまう。そうしないと、生きていけないからです。そして、いちばん深くにしまったものほど、忘れていることにすら、気づかなくなる」
老人は頁をめくる。指が、ある一行で止まる。あなたはその文字を読もうとするが、灯りが届かず、読めない。あなたは身を乗り出す。けれど、文字は、あなたの視線から逃げるように、灯りの陰に隠れている。
「ずっと昔」と老人は語りはじめる。「あなたは、まだ、子供だった」
その言葉が、あなたの中の、何かの蓋を、そっと持ち上げる。
そして、あなたは思い出す。いや──思い出すのではない。老人の声が、あなたの中に、もとからあった景色を、灯すように照らしていく。声は、低く、淡々としていて、けれど、その一語一語が、あなたの記憶の、暗い水面に、ひとつずつ、石を投げ込んでいく。波紋が広がる。広がって、あなたの忘れていた夏を、ゆっくりと、岸辺へ押し上げてくる。
夏の夜だった。あなたは祖母の家にいた。海の近くの、小さな家。畳の匂い、蚊取り線香の匂い、開け放った窓から入ってくる潮の匂い。あなたは布団に寝かされていたが、眠れずにいた。隣には、もうひとり、布団があった。
「妹さんが、いましたね」と老人が言う。
あなたの喉が、詰まる。
妹。そうだ。あなたには、妹がいた。三つ下の。よく笑い、よく泣く、あなたの後ろを、いつもついて回る、小さな妹が。あなたが歩けば歩き、あなたが止まれば止まり、あなたの影のように、あなたについてきた、あの子が。
どうして、忘れていたのだろう。どうして、今の今まで、その子の存在ごと、忘れていられたのだろう。あなたは、自分という人間が、急に、信じられなくなる。
「あの夜、あなたがた姉妹は、こっそり家を抜け出した」と老人は言う。
抜け出したのだ。あなたが、妹の手を引いて。寝静まった祖母を起こさないように、抜き足で、縁側の硝子戸を、そっと開けて。
なぜ抜け出したのか。星を見るためだった。その夏、空に珍しい星が出ると、祖母が言っていた。長い尾を引く、青白い星。次に見られるのは、百年も先だと。あなたは、それを、どうしても見たかった。妹もまた、見たがった。けれど祖母は、夜更かしはいけないと、二人を布団に追いやった。
「明日、お前たちが大きくなっても、その次に見えるのはもう、お前たちの孫の、そのまた孫の代だよ」と祖母は言った。「だからね、今夜の星は、お前たちのものなんだ。一生に一度の」
その言葉が、子供のあなたの胸に、火を点けた。一生に一度。それを、布団の中で、目を閉じて、やり過ごすなんて、できなかった。
だから、あなたは抜け出した。妹を連れて。
海まで歩いた。砂の道を、裸足で。下駄も草履も履かずに、二人とも素足で、夜の道を歩いた。妹の手は小さく、汗ばんでいて、あなたの手を、ぎゅっと握っていた。
妹は、片方だけ、毛糸の手袋を嵌めていた。夏なのに。お気に入りの、白い兎の手袋。いつだったか、縁日で、祖母に買ってもらったものだった。母親の編んだものだ、とも、あなたは聞いた気がする。妹は、それを、肌身離さず持っていた。片方をどこかで失くして、それでも残った片方を、宝物のように、握りしめていた、あの手袋。
「お姉ちゃん、暗いよ」と、妹は言った。
「だいじょうぶ」と、あなたは言った。「お姉ちゃんが、ついてるから」
あなたは、妹の手を、強く握り返した。妹の、手袋を嵌めた左手と、あなたの右手。素手の右手と、毛糸の左手。二人の手の温もりが、夏の夜の道に、小さな灯りのように、ともっていた。
松林を抜けると、急に、視界が開けた。砂浜だった。そして、その向こうに、海があった。黒く、広く、星の光を、無数に、ちらちらと弾いていた。
「思い出してきましたね」と老人が言う。
あなたは、机の本を見ない。老人を見ない。あなたの目は、もう、この店の中の何も見ていない。あなたの目に映っているのは、四十年も前の、夏の海だ。
砂浜に立って、あなたと妹は、空を見上げた。そして──見たのだ。
水平線の上の、深い藍色の空を、青白い光が、ゆっくりと横切っていた。長い、長い尾を引いて。それは、流れ星のように、一瞬で消えはしなかった。ずっと、そこにあった。動いているのか、いないのか、分からないほど、ゆっくりと、けれど確かに、海の上を渡っていく。まるで、星が、海をわたるように。
「きれい」と、妹が言った。
その声を、あなたは、今も覚えている。けれど、その次に妹が言った言葉を、あなたは、聞き逃した。波の音にまぎれて。あるいは、星に見とれて。妹は、確かに、何かを言った。あなたに向かって。それが、何だったのか。あなたは、四十年、それを思い出そうとして、思い出せずにいた。
「あなたは」と老人が言う。「その夜、妹さんに、子守唄を歌ってあげた」
あなたの唇が、ひとりでに動く。声には、ならない。けれど、確かに、あなたは、その一節を、覚えている。
眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。
祖母が、あなたに歌ってくれた唄だ。祖母が、母に歌い、母が、あなたに歌い、そして、あなたが、妹に歌った唄。砂浜で、星を見上げながら。妹は、あなたの肩に頭を預けて、その小さな手で、あなたの手を、握っていた。片方は素手で、片方は、白い兎の手袋で。
歌ううちに、妹は、うとうとと、眠りかけた。あなたは、その重みを、肩に感じていた。幼い妹の、温かい重み。世界じゅうで、あなただけが、その重みを支えていた。あなたは、自分が、強くて、大きくて、頼もしい存在であるような気がした。あの夜、あの瞬間だけは。
「いい夜でしたよ」と老人が言う。「あの夜は」
「ええ」とあなたは答える。涙が、いつのまにか、頬を伝っている。「いい夜でした」
そして、あなたは思い出す。その夜の、続きを。
帰り道で、妹がはぐれた。
たったそれだけのことだった。あなたが、貝殻を拾おうと、ほんの少し、手を離した。ほんの数歩。砂の中で、白く光る、小さな巻貝。妹に見せてやろうと思ったのだ。きれいな貝を。きっと喜ぶと思ったのだ。だから、手を離した。屈んで、貝を拾った。それを手のひらに乗せて、振り返った。
妹が、いなかった。
あなたは、妹の名を呼んだ。砂浜を走った。暗い松林の中を、駆けまわった。声が嗄れるまで呼んだ。あなたの声は、夜の海に吸い込まれ、答えるものは、波の音だけだった。あなたは、ひとりだった。あれほど、自分が強くて大きいと思った、その同じ夜に、あなたは、こんなにも、ひとりで、小さかった。
そのあとのことを、あなたは、長いあいだ、思い出せずにいた。今も、はっきりとは、思い出せない。ただ、夜が明けて、大人たちが集まって、海に船が出て、それから──白い兎の手袋が、片方だけ、波打ち際に流れ着いていたことを、あなたは、知っている。
片方だけの、手袋。
妹が、肌身離さず持っていた、その、片方。
「わたしのせいです」とあなたは言う。四十年、誰にも言えなかった言葉が、無人駅の古書店で、ようやく、口から出る。「わたしが、手を離したから」
老人は、何も言わない。
「わたしが、星なんか見に行こうと言わなければ。手を離さなければ。貝殻なんか、拾わなければ。あの子は、今も──」
あなたの声が、崩れる。
ずっと、あなたは、この夜を、心の底に沈めてきた。あまりに重くて、あまりに痛くて、見ることのできない夜。あなたは、それを忘れることで、生き延びてきた。妹がいたことすら、忘れることで。けれど、忘れていたのではなかった。ただ、いちばん深くに、沈めていただけだった。沈めたものは、消えはしない。それは、あなたの左手の冷たさになって、四十年、あなたとともに在りつづけた。あなたが、握りそこねた、あの小さな手の温もりを、左手は、ずっと、待ちつづけていたのだ。
長い沈黙が、店に満ちる。棚の本たちが、息をひそめて聞いているようだ。行灯の灯りが、わずかに、揺れる。
やがて、老人が、静かに口を開く。
「あなたは、ご自分を罰するために、この駅に降りたのですか」
あなたは、答えられない。
「いいえ」と老人は、自分で答える。「あなたは、許されるために、降りたのです」
「許される」とあなたは繰り返す。「わたしが。誰に」
「妹さんに」と老人は言う。
あなたは、首を振る。激しく。「あの子は、もういません。許すも何も──死んだ人間は、何も、言えないでしょう。許すことも、咎めることも。わたしは、ただ、あの子の代わりに、自分を責めることしか、できないのです。それが、せめてもの──」
「ご覧なさい」
老人が、あなたの言葉を、静かに遮る。そして、本の頁を、もう一枚、めくる。その一行を、こちらに向ける。今度は、灯りが届く。あなたは、読む。
そこには、こう書かれている。古い、けれど、確かな筆跡で。子供の、たどたどしい、けれど一生懸命な文字で。
「ねえさんは、わるくない」
あなたの息が、止まる。
「これは」とあなたは言う。声が、震える。「これは、誰が、書いたのです」
「妹さんが」と老人は言う。「書いたのです。あの夜。この駅で」
「あの夜……この駅で……」
あなたは、その言葉の意味を、すぐには、掴めない。妹は、海に流された。波打ち際に、手袋が流れ着いた。それが、すべてだったはずだ。それなのに、この駅で。あの夜。妹が、字を書いた。
「あなたの妹さんは」と老人は、ゆっくりと、言葉を選びながら、言う。「海に流されたのでは、ありません」
店の中が、しんと、静まりかえる。あなたの耳に、自分の心臓の音だけが、大きく響く。
「あの夜、はぐれた妹さんは」と老人は続ける。「暗い松林を抜けて、線路沿いの道を、ひとりで歩いていきました。お姉ちゃんを探して。けれど、闇の中で、方向を見失い、家とは反対のほうへ、歩いていった。そうして、夜のあいだに、この駅に辿り着いたのです。今のあなたと、同じように。誰に教えられたのでもなく。ただ、灯りに、引かれて。『つい』」
あなたは、老人を見つめる。理解が、追いつかない。けれど、あなたの体のどこか、頭よりも深い場所が、その言葉を、信じはじめている。
「妹さんは、この店に、入ってきました。たったひとりで。泣きもせずに。お姉ちゃんを探していました。けれど、ここには、お姉ちゃんは、いなかった。代わりに、わたしがおりました」
「あなたが」
「ええ。わたしどもは、迷い込んだ子を、しばらく、お預かりします。彗星が、空を渡り終えるまで。その間に、妹さんは、この机で、一文字ずつ、字を書きました。お姉ちゃんに、伝えたいことがある、と言って。けれど、まだ幼くて、長い文章は、書けなかった。だから、たった一行だけ」
ねえさんは、わるくない。
「では」とあなたは言う。喉が、ひりつく。「あの子は、生きて、いたのですか。あの夜、海ではなく、ここに」
「ええ」と老人は言う。
「では、どこに。今は、どこに。なぜ、家に、帰ってこなかったのです。なぜ、わたしは、あの子の葬式を──」
「彗星が消えるころ」と老人は、あなたの問いを、ひとつずつ、ほどくように言う。「夜が明ける前に、妹さんを、帰しました。けれど、海の家ではなく、別の場所へ」
「別の場所」
「遠い町の、子のない夫婦のもとへ。その夫婦は、ずっと、子を待っていました。あなたのお姉さんが、『待』という字の前で、ずっと、何かを待っていたように。世の中には、待っている人と、待たれている人とが、いるのです。わたしどもの役目は、ときどき、その二つを、繋ぐことでしてね」
「そんな……」とあなたは言う。「では、あの子は、わたしのことも、祖母のことも、忘れて……」
「忘れたのではありません」と老人は言う。「ただ、いちばん深くに、しまったのです。あなたが、妹さんのことを、しまったように。妹さんは、新しい名で、新しい家族のもとで、育ちました。よく笑い、よく泣く、優しい人になりました。今も、生きています。あなたより、少しだけ、南の町で」
あなたは、立ち上がる。椅子が、倒れる。乾いた音が、店に響く。
「嘘だ」とあなたは言う。「そんなはずが、ない。手袋が、片方、流れ着いて……葬式も、出して……お墓も、あって……わたしは、毎年、あの子の命日に──」
「片方の手袋は」と老人は、倒れた椅子に目もくれず、静かに言う。「妹さんが、ここに、残していったのです。海へ、返すために。お姉ちゃんが、見つけられるように。けれど、波は、それを、思いがけず遠くまで、運んでしまった。それで、大人たちは、海に流された、と思い込んだのです。手袋ひとつが、ひとつの死を、こしらえてしまった。人は、見つかったものから、いないものの行方を、決めてしまうものですから」
老人は、机の引き出しを、ゆっくりと、開ける。そこから、小さなものを、取り出す。
白い、毛糸の手袋。片方だけ。色は褪せ、ところどころ、毛羽立っている。けれど、確かに、白い兎の刺繍が、ある。あなたが、四十年前、妹の手に見た、あの手袋。波打ち際に流れ着いたはずの、その、もう、ひとつ。
「もう片方は」と老人は言う。「妹さんが、お姉ちゃんに、と言って、ここに、残していきました。けれど、わたしどもは、それを渡す相手を、長く、見つけられずにいた。あなたが、この駅を、ずっと、避けてきたからです。覚えていないふりをして。忘れたふりをして。心の底では、ここに来れば、すべてを思い出してしまうと、知っていたから」
あなたは、震える手で、コートのポケットを探る。
そこに、いつから入っていたのか。あなたが、改札脇で拾った、藍色のマッチ箱の、隣に、もうひとつ、何かが、ある。柔らかい、毛糸の、感触。
あなたは、それを、取り出す。
白い、毛糸の手袋。片方だけ。同じ、刺繍。同じ、褪せた色。
あなたは、これを、いつから、持っていたのだろう。今夜、この駅に来るまで、あなたのポケットに、あったのだろうか。それとも──四十年、ずっと。あなたの手の届かない、どこかに、しまわれていたのだろうか。いちばん、深くに。あなた自身が、忘れていた、その場所に。
あなたは、二つの手袋を、机の上に、並べる。
片方と、片方。ようやく、対になる。四十年、ばらばらだった、二つが。
行灯の灯りが、揺れる。
あなたは、声を上げて、泣く。子供のように。四十年分の、誰にも見せなかった涙が、無人駅の古書店の、蜜色の灯りの下で、ようやく、こぼれる。あなたは、自分が泣いていることに、半ば、驚いている。こんなに泣くことが、まだ、自分にできたのか、と。心の底に沈めたものは、涙までも、沈めてしまっていたのだ。
老人は、何も言わずに、待っている。あなたが、泣きやむまで。それが、この店の役目であるかのように。「待」という、あの一文字の意味であるかのように。
やがて、あなたは、顔を上げる。鼻を啜り、目元を、右手の手袋で、ぬぐう。
「会えますか」とあなたは言う。「あの子に。今からでも」
「会えますよ」と老人は言う。そして、初めて、はっきりと、微笑む。皺の中に、その微笑みは、深く、温かく、刻まれる。「彼女もまた、あなたを、待っています。気づいていないだけで。人は、いちばん会いたい人のことを、いちばん深くに、しまうものですから。けれど、しまったものは、消えはしない。あなたの左手が、ずっと冷たかったように。彼女の左手もまた、きっと、ずっと、何かを、待っていたはずです」
老人は、机の上に、一枚の紙片を置く。古い和紙だ。そこには、墨で、町の名と、ひとつの名前が、書かれている。あなたの知らない、名。妹の、新しい名。
あなたは、その名を、見つめる。声に出して、読んでみる。掠れた声で。その名は、あなたの口の中で、見知らぬ味がする。けれど、その名を呼んだとき、あなたの胸の奥が、確かに、温かくなる。それは、あなたの妹だ。名は変わっても。年月が、二人を遠ざけても。あの夏の夜、星の下で、あなたの手を握っていた、あの小さな手の持ち主が、その名で、今も、どこかで、生きている。
あなたは、紙片を、手に取る。和紙は、思いのほか、柔らかく、指の腹に、温かい。墨の文字は、滲んでいない。たった今、書かれたかのように、くっきりと、黒い。けれど、その筆跡は、机の上の覚え書きの、いくつもの古い手のうちの、どれとも違う。あなたは、ふと、思う。この一枚は、いつ、書かれたのだろう。あなたが、来ると、わかっていたかのように。あなたが、四十年、来なかったあいだ、この紙片は、ずっと、この引き出しの中で、あなたを、待っていたのだろうか。
「お訊きしても、いいですか」とあなたは言う。「なぜ、あの子は、海へではなく、知らない夫婦のもとへ、帰されたのです。なぜ、わたしの家へ、戻してくれなかったのです。そうすれば、わたしたちは、四十年も、離ればなれにならずに、すんだのに」
老人は、しばらく、黙っている。それから、ゆっくりと、言う。
「あの夜、あなたの家には、悲しみが、満ちていました。子をひとり、失ったと信じた、その悲しみが。妹さんを、あの家へ戻せば、その悲しみは、晴れたでしょう。けれど、別の家の、子を待つ悲しみは、永遠に、晴れなかった。わたしどもは、悲しみの、総和を、減らすほうを、選びます。残酷だと、お思いでしょう。けれど、考えてもごらんなさい。もし、妹さんが、あの家に戻っていたら、あなたは、今夜、ここへ、来たでしょうか。来なかったでしょう。あなたは、許される必要も、なかったのですから。けれど、それでは、あなたの左手は、温まらなかった。あなたは、罪を抱えたまま、けれど、その罪に、決して、向き合うこともないまま、一生を、終えたでしょう」
あなたは、その言葉を、噛みしめる。残酷だ、と思う。けれど、その残酷さの底に、あなたには、まだ見えない、何か大きな、優しさのようなものが、横たわっている気もする。
「あの子は」とあなたは言う。「わたしのことを、覚えているでしょうか」
「さあ」と老人は言う。「それは、わたしにも、わかりません。けれど、これだけは、言えます。あなたが、あの子のことを、忘れていながら、覚えていたように──あの子もまた、あなたを、覚えていないながら、忘れては、いないでしょう。会えば、わかります。理屈ではなく。手が、わかります。あの夜、繋いだ手が」
「もう、お行きなさい」と老人は言う。「じきに、夜が明けます。夜が明ければ、この店は、消えます。あなたも、ここにいては、いけない。彗星の出ている夜の、その短いあいだだけ、この店は、この世とあの世の、ちょうど境目に、ともっているのです。境目は、長くは、保ちません」
あなたは、二つの手袋を、両手で包むように、持つ。それから、もう片方の手で、というのも変な言い方だが、あなたは、片手に手袋を移し、もう一方の手で、ポケットの中の、月光堂の藍色のマッチを取り出して、老人に、差し出す。
「これは、改札の脇に、ありました。お返しします」
老人は、それを、受け取らない。
「お持ちなさい」と老人は言う。「いつか、暗い夜が来たら、それで、火を点けるといい。一本の、火が、見えることもあります。星と、同じように。あの灰皿は、わたしどもが、置いておくものでしてね。この駅に降りた人が、煙草の一本でも喫って、心を落ち着けてから、帰れるように。けれど、いつのころからか、誰も、煙草を喫わなくなった。マッチだけが、残りました。あなたが持っていてくれれば、あれも、本望でしょう」
あなたは、その藍色の箱を、もう一度、ポケットに、しまう。三日月の刻印が、灯りを受けて、ひとすじ、銀に光る。
あなたは、店を出る。
引き戸を、後ろ手に閉めながら、あなたは、最後に、もう一度、店の中を、振り返る。けれど、もう、行灯の灯りは、見えない。机も、棚も、老人も、薄い闇に、溶けはじめている。まるで、あなたが背を向けた瞬間から、世界が、この店を、ゆっくりと、畳んでいくかのように。あなたは、礼の言葉を、言いそびれたことに、気づく。けれど、もう、戸を開け直す気には、なれない。開け直せば、そこには、ただの、空き家の闇しか、ないような気がしたのだ。
砂利の上に、立つ。じゃり、と、音がする。あなたは、ホームのほうへ、歩く。空が、わずかに、白みはじめている。けれど、まだ、夜だ。星の光が、まだ、ところどころに、残っている。
ホームに上がり、線路の彼方を、見る。レールが、薄明かりの中で、二本、平行に、どこまでも、伸びている。その二本は、決して、交わらない。けれど、遠くの一点で、交わって見える。あなたは、なぜか、その、交わって見える一点を、長いあいだ、見つめる。
そして、あなたは、ホームの先の空を、見る。
そこに、それは、あった。
深い藍色の空を、青白い光が、長い尾を引いて、ゆっくりと、横切っていた。流れ星のように、消えはしない。ずっと、そこに、ある。動いているのか、いないのか、分からないほど、ゆっくりと、けれど確かに、夜空を、渡っていく。
ミラ彗星。
百年に一度、巡ってくる星。長く忘れられていた星が、また、還ってきた。あの夏の夜、あなたと妹が、海辺で見上げた、あの同じ星が。四十年の時を越えて、また、あなたの頭上を、渡っていく。けれど、よく考えれば、おかしなことだ。百年に一度の星が、四十年で、また巡ってくるはずがない。けれど、あなたは、もう、おかしいとは、思わない。今夜のこの星は、暦の上の星ではない。あなたの中に沈んでいた、あの夜の星が、四十年ぶりに、浮かび上がってきたのだ。あなたが、それを、見つめられるようになるまで、ずっと、空の底で、待っていた星。
あなたは、その光を見上げながら、口ずさむ。気づけば、自然に。
眠れ、眠れ、星が海をわたるまで。
その唄を、四十年ぶりに、声に出して歌うと、あなたの肩に、もう一度、あの温かい重みが、戻ってくるような気がする。眠りかけた、幼い妹の、重みが。
両手の中に、二つの手袋が、ある。片方と、片方。もう、ばらばらでは、ない。
あなたは、左手に、その手袋を、嵌める。妹の手袋を。小さくて、入りはしない。指の先が、半分ほどで、つかえてしまう。けれど、指先だけでも、その毛糸の温かさが、あなたの素手の冷たさを、わずかに、和らげる。今夜、ずっと、あなたを離さなかった、あの左手の冷たさを。四十年、握りそこねた手の温もりを、待ちつづけてきた、あの冷たさを。
ホームのベンチに、あなたは、座る。始発を、待つ。
待つ、という字を、あなたは、思い出す。引き戸に貼られていた、あの、一文字。あれは、店が、あなたを待っていたのでは、なかったのかもしれない。あなたが、長いあいだ、誰かを──いや、何かを──待ちつづけていたのだ。許される夜を。会いに行ってもいい、と、誰かに、言ってもらえる夜を。罪を、置いていってもいい、と、誰かに、許してもらえる夜を。
あなたは、もう、それを、待たなくていい。あなたは、待つ側から、行く側に、なったのだ。
東の空が、少しずつ、明るくなる。彗星の光が、その明るさに、溶けて、薄れていく。やがて、見えなくなる。けれど、消えたのでは、ない。ただ、また巡るために、空の彼方へ、渡っていっただけだ。次に還ってくるとき、あなたは、もう、この世に、いないだろう。けれど、それで、いい、とあなたは思う。星は、覚えていてくれる。あなたが、妹に歌った唄を。あなたが、ようやく、許された夜を。あの夏の海と、二つの手袋と、繋いだ手と、離した手と、その、すべてを。
ホームの白い闇の中で、あなたは、待つ。けれど、もう、寒くは、ない。左手の手袋が、あなたを、温めている。あるいは、温めているのは、手袋ではなく、その手袋を残していった、あの子の、四十年越しの、心づかいかもしれない。ねえさんは、わるくない。たった一行の、その言葉が、四十年の時を越えて、ようやく、あなたに、届いたのだ。
始発の灯りが、線路の彼方に、小さく、見えはじめる。
あなたは、立ち上がる。
胸のポケットには、月光堂の藍色のマッチ。左手には、片方だけの──いや、もう、二つで一対の、白い手袋。そして、紙片に書かれた、南の町の名と、妹の、新しい名。
電車が、ホームに、滑り込んでくる。扉が、開く。暖かい空気が、あなたを、迎える。今度こそ、あなたは、その暖かさを、温かいと感じる。今夜、はじめて。
あなたは、乗り込む。今度は、降りる駅を、間違えない。あなたは、どこへ向かうかを、知っている。南の町へ。少しだけ南の、あの子のいる町へ。会えば、わかる、と老人は言った。手が、わかる、と。あなたは、左手の手袋を、そっと、握りしめる。この手が、覚えている。あの夜の、握り方を。
扉が、閉まる。電車が、動きだす。
窓の外を、あなたは、見る。無人駅が、後ろへ、流れていく。広場の隅の、あの古書店の建物は、もう、影も、形も、ない。砂利の広場と、切れかかった街灯だけが、薄明かりの中に、取り残されている。けれど、あなたは、もう、振り返らない。
駅名標が、一瞬、窓を、横切る。あなたは、ようやく、その名を、読む。
けれど、その名を、あなたは、ここには書かない。それは、あなたと、妹と、星だけが、知っていればいい、名だ。書いてしまえば、それは、地図の上の、ただの一点になる。けれど、あなたにとって、その駅は、地図の上には、ない。それは、夜と夜のあいだの、彗星の出ている夜にだけ、ともる、心の中の駅だ。許しの、駅だ。
電車は、夜明けの中を、南へ向かって、走っていく。
あなたの左手は、もう、冷たくない。