月光書房
子の刻 ・ 真夜中 ・ 第 十 話

雪夜の証言

柚木 涼
文芸ミステリ ・ 多声(羅生門型・五つの証言) ・ 約29頁

一 ―― 宿の女将(おかみ)の話

雪の晩のことは、何度も人に話しましたから、もう順序はそらでも言えます。けれど話すたびに、どこか色が変わってしまうのです。語りなおすたびに、あの晩がすこしずつ遠くなる。今夜もまた、はじめからお話しいたしましょう。

あれは二月のはじめ、三日も降りつづいた雪が、夕方になってようやく細くなった、そういう晩でございました。うちは橋のたもとの、小さな宿屋です。部屋は六つきり。番頭も置かず、わたくしひとりで切りまわしておりますから、お客さまの顔はみな覚えております。覚えていないお客さまは、来なかったお客さまだけ。

宿屋を継いで、もう三十年になります。亡くなった連れ合いが達者なころは、二人でやっておりました。あの人は橋のたもとが好きで、「川は人を運んでくる。来る人もあれば、去る人もある。宿屋というのは、その途中のひと晩を、お預かりする商売だ」と、よく申しておりました。途中のひと晩。なるほど、と思ったものでございます。お客さまは、みなさま、どこかから来て、どこかへ行く。うちの宿は、そのあいだの、ほんのひと晩。

その「ひと晩」が、ときどき、忘れられぬひと晩になることがある。あの雪の晩が、わたくしにとっては、そういう晩でございました。

その晩、泊まりは三人。いえ、四人と申しあげるべきでしょうか。あとで考えますと、その四人めをどう数えるかで、あの晩の話はずいぶん違ってまいります。

まず、奥の角部屋に、薬の行商の旦那。これは年に二度ばかり通ってくださる、馴染みのお方です。色の黒い、口数のすくない、けれど勘定にきれいなお方で、わたくしはこのお方を信用しておりました。

それから、二階の表の間に、若い女のお客さま。これははじめてのお方でした。年のころは二十四、五でしょうか。いえ――いま思えば、もうすこし上であったかもしれません。若く見えるお方でしたが、目もとに、年よりも古い疲れがございました。雪のなかをずいぶん遠くから歩いてきたとみえて、足袋まで濡らしておいでだった。帳場で名を書いていただくとき、筆を持つ手がかすかに震えておりました。寒さのせいだと、わたくしはそのときは思いました。

その女のお客さまが、部屋へお通しするとき、ふと、こうお尋ねになりました。「この部屋から、橋は見えますか」と。見えます、とお答えしますと、お客さまは、ほっとしたような、けれどどこか沈んだような顔をなさった。橋の見える部屋を望むお客さまは、ときどきいらっしゃいます。たいてい、誰かを待っているお方でございます。橋というものは、待つ人のためにある。そう、わたくしは長いあいだ宿屋をやってきて、そう思うようになりました。お客さまは、夕餉(ゆうげ)にもほとんど箸をつけず、ただ窓辺に座って、暮れていく橋を見ておいででした。

三人めは、橋向こうの酒場〈みなと〉の親仁(おやじ)。これは泊まりではございません。雪で店じまいが早くなったからと、わたくしのところへ茶を飲みに来ただけ。けれど、あの晩のことを語るうえで、この親仁を外すわけにはまいりません。なにしろ、いちばんよく喋るお方ですから。

そして四人め。

四人めのことを、わたくしはうまく申しあげられません。

日が暮れてから、〈みなと〉の親仁がまいりました。雪で店じまいだから茶でも飲ませろ、と。この親仁は、亡くなった連れ合いの碁仇(ごがたき)でございました。連れ合いが死んでからも、こうしてときどき顔を出してくれる。ありがたいことでございます。火鉢を挟んで、親仁はいつものように、よく喋りました。漁のこと、町の噂、昔のこと。わたくしは聞き役で、相槌を打っておりました。

その親仁が、ふと、「今夜は妙な客が来た」と申しました。旅の男が一人、店に寄ったと。雪に難儀した、痩せた男で、なにやら訳ありのようだった、と。けれど、その話を親仁が詳しくする前に――表で、声がいたしました。

夜の九時を過ぎたころでしたでしょうか。表で人の声がいたしました。男の声と、女の声。言い争うような、けれど大きくはない、押し殺したような声です。雪が音を吸いますから、言葉まではわかりません。ただ、女の声のほうが、なにか――そう、なにかを乞うような調子であったことだけは、覚えております。

親仁が、「おや」と腰を浮かせました。「あの男じゃねえか」と。けれど、わたくしのほうが先に、格子戸へ寄っておりました。

わたくしは帳場を立って、表の格子戸へ寄りました。曇りガラスごしに、人影がふたつ。橋のうえに立っております。雪あかりで、ぼんやりと藍色に滲んでおりました。

ひとつは男、ひとつは女。

女の影が、男の影へ、なにかを差しだすようにいたしました。手を伸ばして。男の影は、それを受けとらなかった。受けとらずに、背を向けた。

それだけのことです。それだけのことなのに、わたくしの胸はなぜだか騒ぎました。

そのとき、空がふっと明るくなりました。

雪雲が切れて、そこから――いまでもうまく言えませんが――蒼白い、長い、糸を引くような光が、空を斜めに横切ってまいりました。彗星でございましょう。あとで〈みなと〉の親仁が、あれはミラ彗星だと、何十年に一度しか巡ってこない星だと、得意げに申しておりました。けれどわたくしには、星の名などどうでもよかった。

ただ、その蒼い光が橋のうえに射しましたとき、女の影の手から、なにか小さなものが、ひらりと落ちたのでございます。

わたくしが格子戸をあけて表へ出ましたときには、もう男の影はございませんでした。橋向こうの闇のなかへ、足あとだけを残して消えていた。女のお客さまだけが、橋のまんなかに、ぽつんと立っておいででした。

「お客さま」と、わたくしは声をかけました。「お風邪を召します。お入りなさいまし」

女のお客さまは、ふりむきました。雪あかりに、その顔が白く浮かびました。泣いてはおいででなかった。けれど、泣いたあとの顔よりも、もっとなにか――乾いた顔をしておいででした。

「いま、なにか落ちませんでしたか」と、わたくしは申しました。

女のお客さまは、しばらく黙っておいででした。それから、足もとの雪に目をやって、首をふりました。

「いいえ。なにも」

そう申されました。けれど、わたくしはたしかに見たのです。蒼い光のなかで、なにかが落ちるのを。

そのあと、女のお客さまは部屋へお戻りになりました。階段をのぼっていくその背中が、ひどく小さく見えたのを、覚えております。わたくしは、お茶でも持っていって差しあげようかと、いちど階段の下まで行きました。けれど、二階の障子の向こうから、低い声が聞こえてきたのです。お客さまが、なにか口ずさんでおいでだった。唄のようでした。「眠れ、眠れ……」と、それだけ聞きとれました。子守唄でございましょうか。それとも、ご自分に言い聞かせる、まじないのようなものでございましたか。わたくしは、お茶を持っていくのをやめました。あの唄を、邪魔してはならない。なぜだか、そう思ったのでございます。

お客さまは、朝までひと声もたてずにおいででした。翌朝、雪のやんだ早いうちに、勘定をきれいに済ませて、出ておいきになった。橋を渡って、向こうへ。男の消えたほうとは、反対のほうへ。発つまぎわに、お客さまは帳場のわたくしに、ふかぶかと頭をお下げになりました。「お世話になりました」と。それだけのことでしたが、その辞儀(じぎ)が、なにか――もう二度とここへは戻らない人の、別れの辞儀のように見えたのでございます。

それきりでございます。

ただ――その朝、橋を掃きにまいりましたら、欄干のきわの雪のなかに、片方だけの手袋が埋もれておりました。女ものの、青みがかった灰色の、毛糸の手袋。片方だけ。もう片方は、どこにもございませんでした。

わたくしはそれを、いまも帳場の抽斗にしまっております。落とし物として。けれど、ほんとうのことを申しますと――あれは落とし物ではなかったのではないか、と、このごろは思うのでございます。落としたのではなく、置いていったのではないか、と。

四人めのことを、まだ申しあげておりませんでしたね。

橋のうえで女のお客さまと言い争っていた、あの男の影。あれが四人めでございます。けれど、あの男は、うちのお客さまではございませんでした。泊まってもいない。帳場に名も書いていない。わたくしはあの男の顔を、一度も見ておりません。影だけを見たのです。

ですから、わたくしの話に、男は出てまいりません。出てこられないのです。わたくしはあの晩、男を見なかった。影しか見なかった。

それでも、たしかにあそこに、男はいたのでございます。

二 ―― 酒場〈みなと〉の親仁の話

おう、その話か。その話なら、おれがいちばんよく知ってるよ。なにしろおれぁ、橋の上のあの男と、じかに口をきいた、ただひとりの人間だからな。女将は影しか見てねえ。おれぁ、面を見た。声も聞いた。そこが違う。

順を追って話そうか。あの晩、おれの店は早じまいさ。雪が降りゃ、漁師も来ねえ。来るのは野良犬と、行き場のねえ酔っぱらいくらいのもんだ。九時前にはもう、暖簾をしまってた。

しまってる最中に、男がひとり、店の前を通りかかった。

旅の男だ。継ぎのあたった外套を着て、背に風呂敷包みをしょってた。雪に難儀してたから、おれぁ声をかけてやったのさ。「兄さん、もう店はしまいだが、燗の一杯くらいなら付けてやるぜ」ってな。おれぁ、そういう男なんだ。困ってる奴を見ると、放っとけねえ。

男は、ちょいと迷ったような顔をしたが、入ってきた。雪を払って、隅の床几に腰かけた。おれぁ、燗をつけてやった。

男は、燗の徳利を両手で包むみてえにして、しばらく温まってた。指先が、まっ白だった。霜焼けで、ところどころ赤黒くなってた。長いこと、寒いところを歩いてきた手だ。おれぁ、漁師の手をさんざん見てきたから、手を見りゃ、その人間がどんな暮らしをしてきたか、だいたいわかる。あの男の手は――苦労した手だった。それも、自分のためじゃねえ、誰かのために苦労した手だ。なんでそう思ったかって? わからねえよ。けど、そう思ったんだ。手を見て。

その男がな、寒さに手をこすりながら、こう言ったのさ。「火を貸してもらえねえか」と。煙草を吸いてえらしい。けど、自分のマッチは湿っちまったってんだ。

おれぁ、店の燧(ひうち)箱から、マッチを一本くれてやろうとした。けど、男のほうが先に、自分の懐をさぐってな、一個のマッチ箱を出した。「これがあるんだが、湿っちまって」と言いながら。

それがな――忘れもしねえ。深い藍色の、きれいなマッチ箱だった。蓋に、三日月の刻印が押してあった。〈月光堂〉とかいう、おれぁ聞いたこともねえ店のもんらしい。男は、それを大事そうに撫でてた。湿って使えねえくせに、捨てもしねえで、撫でてた。

「いい箱だな」とおれが言うと、男はちょいと笑った。さびしそうな笑いだった。「人にもらったんだ」と、それだけ言った。

おれぁ、その箱のことを、もうちっと聞きたくなった。商売柄、客の持ちもんには目がいく。「どこの店の箱だい」と聞くと、男は、「月光堂、ってんだ」と答えた。「彗星の出る晩にだけ、店を開く。妙な店でな。普段はどこにあるのか、誰も知らねえ。けど、彗星が来ると、ふっと現れる」と。おれぁ、笑っちまった。そんな店があるもんかと。けど男は、笑わなかった。「あるんだ」と、まじめな顔で言った。「おれは、二十年前に、その店で、この箱を買った。連れの女と一緒にな。あのときも、彗星が出てた」と。

二十年前。彗星。連れの女。――そのとき、おれの頭んなかで、なにかがつながりかけたんだが、うまく言葉にならなかった。男の話は、それきり、また途切れちまったからな。

それからな、男はぽつぽつと話しだした。酒が回ってきたんだろう。おれぁ、酒場の親仁を三十年やってる。客の口を割らせるのは、お手のもんだ。

男はな、人をさがしてると言った。

「女か」とおれが聞くと、男はうなずいた。「昔、いっしょになるはずだった女だ」と。なんでも、若いころに国を出るとき、その女と約束したらしい。かならず迎えに戻る、と。けど、戻れなかった。戦に取られたか、流行り病か、そのへんはおれぁ深くは聞かなかったが、とにかく男は十年も二十年も、戻れなかった。

「今夜、ようやく、この町まで来た」と男は言った。「あの女が、この町にいると聞いてな」

おれぁ、胸が詰まったよ。いい話じゃねえか。二十年ごしの逢瀬だ。おれぁ、男の盃に、たっぷり燗を注いでやった。「会えるといいな、兄さん」ってな。

男は、盃を見つめて、こう言った。

「会いに来たんじゃねえ。詫びに来たんだ」

詫びに、ってのが、おれにはよくわからなかった。会いに来たのと、詫びに来たのと、なにが違う。けど男は、それきり黙っちまった。

おれぁ、酒場の親仁を三十年やってる。客の沈黙ってもんが、何種類もあるのを知ってる。怒りの沈黙、恥の沈黙、酔いの沈黙――いろいろある。あの男の沈黙は、そのどれでもなかった。あれは、覚悟の沈黙だった。もう決めちまったことを、これから一人でやり遂げに行く、そういう男の沈黙だ。おれぁ、それ以上、なにも聞けなかった。聞いちゃならねえ、と思った。客商売を長くやってると、聞いちゃならねえ沈黙ってのが、わかるようになるんだ。

それでも、おれぁ、ひとつだけ言った。「兄さん、外は冷える。詫びるにしても、まずは温まってからにしな」と。男は、首をふった。「いや。冷えてるうちに行く。温まっちまったら――きっと、言えなくなる」と。そう言って、男は残りの燗を、ぐいと干した。

そのうち、男は勘定を置いて立ちあがった。「世話になった」と言って、外套の襟を立てた。そんときだ。男が懐から、さっきの藍色のマッチ箱を、もう一度出した。そして、おれの店の床几のうえに、そっと置いた。

「これを」と男は言った。「あんたにやる。湿っちまってるが、乾かせば使える。おれぁ、もう要らねえ」

おれぁ、面食らった。人にもらった大事なもんを、なんでくれるんだと。けど男は、もう振りむかなかった。暖簾の隙間から、雪のなかへ出ていった。

橋のほうへ、歩いていった。

男が出ていったあと、おれぁ、しばらく床几のうえのマッチ箱を見てた。湿った藍色の箱を、手にとって、振ってみた。なかで、マッチが頼りなく鳴った。蓋の三日月の刻印を、指でなぞった。なんでこんなもんを、おれにくれたのか。おれぁ、見ず知らずの酒場の親仁だぜ。大事な箱を、こんなところに置いていくなんて――まるで、もう持ち歩く先がねえ、とでも言うみてえじゃねえか。

おれぁ、なんだか胸騒ぎがしてな。店の片づけを早々に切りあげて、女将のとこへ茶を飲みに行くことにした。一人でいたくなかったんだ、正直なところ。橋を渡ろうとしたら――いたよ。男が。橋のまんなかに。

女と向かいあって立ってた。

おれぁ、足をとめた。邪魔しちゃ悪いと思ってな。物陰に隠れて、見てた。聞き耳も立てた。これも正直に言っとくがな、おれぁ野次馬だ。三十年、酒場をやってると、人の話を聞かずにゃいられねえ性分になる。

女が、男になにか言ってた。男が、首をふってた。女が、手を伸ばした。なにか、手のひらに載せたものを、男に差しだすみてえに。

そんとき、空が光った。

蒼い、長い尾を引いた星だ。あれがミラ彗星さ。おれぁ若いころ、一度だけ見たことがある。六十年ぶりだとか言ってたな、たしか。空をすうっと、刃物で切ったみてえに、蒼い光が走った。おれぁ、思わず空を見上げちまった。

見上げて、また橋に目を戻したときにゃ――男はもう、橋の向こうへ歩きだしてた。女に背を向けて。

女は、追わなかった。

おれぁ、そのとき、たしかに見たんだ。女が、なにかを橋のうえに落とすのを。いや、落としたんじゃねえな。投げたんだ。男の背中に向かって、ちいさく、投げた。それが届かずに、雪のうえに落ちた。

なんだったかって? 知らねえよ。暗くて見えなかった。けど、女の手から離れて、雪に落ちたのは、たしかさ。

それからおれぁ、女将のとこで茶ぁ飲んで、あの晩の話をした。彗星の話もした。あの男の話も、ちったぁした。けど――マッチ箱を男にやったとは、女将には言わなかったな。なんとなく、言いそびれた。男が大事なもんをおれにくれて、女には背を向けた。その筋が、おれにはどうにも飲みこめなくてな。飲みこめねえ話は、人にゃしにくいもんさ。

それにな――もうひとつ、言わなかったことがある。

おれぁ、物陰で見てたとき、男と女の声を、切れ切れに聞いた。風が運んでくるんだ。女が、なにか言ってた。「いやです」と。「持っていてください」と。男のほうは、低くて聞きとれなかった。けど、ひとつだけ、はっきり聞こえた言葉がある。

男が、こう言ったんだ。「眠れ」と。

おかしいだろ。あんな別れぎわに、「眠れ」もねえもんだ。けど、たしかに聞こえた。「眠れ……星が……」とかなんとか。子守唄みてえな節をつけて、男が、低く、唄ってた。女に向かって。喧嘩してるみてえに見えて、男は、女に子守唄を唄ってたんだ。

おれぁ、その話を、女将にはしなかった。なんだか、人にしちゃならねえ気がしてな。あれは、あの二人だけのもんだった。おれが盗み聞きしちまった、あの二人だけの唄だった。

ひとつだけ、ひっかかってることがある。

男はおれに、「詫びに来た」と言った。会いに来たんじゃねえ、詫びに来たんだ、と。

詫びるってのは、なにか悪いことをした者がすることだ。二十年も女を待たせたことを詫びるなら、わかる。けど、それなら――なんで、背を向けて去っちまったんだ。詫びるんなら、向きあうもんじゃねえのか。

おれぁ、いまでもわからねえ。あの男が、なにを詫びに来たのか。

三 ―― 薬の行商の話

私の話は、短い。

私はあの晩、宿の奥の角部屋におりました。三日つづきの雪で、商いが滞っておりましたから、早めに床に就くつもりでおりました。けれど、寝つけなかった。長旅の宿の常で、私は他人(ひと)の家ではよく眠れぬたちなのです。

私は、二十年ちかく、薬を背負って国々を歩いてまいりました。富山の薬売り、と申せば、おわかりになりましょうか。置き薬の商いです。一年に一度、二度と、決まった家々を訪ねて、使った分だけ薬を補い、代金をいただいて、また次の家へ向かう。そういう、地味な、けれど人の暮らしの奥深くまで入りこむ商売でございます。

人の家の薬箱というのは、その家の歴史でございます。子が増えれば、小児の薬が減る。年寄りがいれば、腹下しと、痛み止めが減る。病人が出れば、薬箱の減り方が変わる。そして――もう薬の要らなくなった家には、薬箱だけが、手つかずのまま残されている。私は、薬箱の減り方ひとつで、その家に何があったか、おおよそ察するようになりました。これも、職業の癖でございます。

そのまま天井を見ておりますと、表で人の声がいたしました。男と、女の声。私は職業柄、人の声音にはいくぶん敏感です。薬を売り歩いておりますと、声の調子で相手の患いの軽重がわかるようになる。咳ひとつ、息ひとつで、その人がどのくらいで床に就くか、見当がつくのです。あれは、ありがたくない、職業の癖でございます。

女の声には、患いがありました。けれど、それは肺でもなく、喉でもない。もっと、奥のほうの患いでございました。薬箱には入っていない種類の患いです。

私は床を出て、窓辺へ寄りました。私の部屋の窓は、橋を見おろす位置にございます。雪あかりに、橋のうえの二人が、はっきりと見えました。女将のように影ではなく、〈みなと〉の親仁のように物陰からでもなく、私は真上から、二人を見ていたのです。

男と女が向かいあっておりました。

ここで、ひとつ申しあげておかねばなりません。私が見たかぎり――女は、なにも差しだしてなどおりませんでした。

女将は、女が男になにかを差しだしたと申します。親仁は、女が男になにかを投げたと申します。けれど私が真上から見たかぎりでは、手を伸ばしたのは、女ではなく――男のほうでした。

男が、女に向かって、手を伸ばしたのです。

なにかを、女の手に握らせようとするように。女は、それを拒んでおりました。手を引いて、後ずさって。男はなおも、押しつけようとしておりました。

二人は、ひとつのものを、押しつけあっていたのでございます。

ここが、肝心なところでございます。よくお聞きください。差しだしていたのは、男のほうでした。けれど、欲しがっていたのは――いいえ、これは違いますな。欲しがってはいなかった。女は、それを欲しがってはいなかった。むしろ、押し返しておりました。男が「持ってくれ」と差しだし、女が「いりません」と押し返す。やりとりは、それでございました。

ですから、女将が「女が差しだした」と申し、親仁が「女が投げた」と申すのは、二人とも、最後の一瞬だけを見て、その前を見ていないのです。最後に女の手にそれが渡り、女がそれを手放した。その一瞬だけを見れば、女が差しだした、女が投げた、と見えましょう。けれど、その前に、長い押しつけあいがあった。私は、それを最初から見ておりました。

そのものが、なんであったか。私には見えました。真上から、雪あかりに照らされて、はっきりと。

それは、手袋でございました。

片方だけの、女ものの手袋。男が、それを女に返そうとしていた。女は、受けとろうとしなかった。

そのとき、空が明るくなりました。

私はその光を、よく覚えております。蒼白い、長い尾。何十年ぶりかに巡ってきたという、あの星。けれど私は、星を見上げはいたしませんでした。私は橋のうえの二人から、目を離さなかった。私は薬を売る人間です。ひとが生死の境にいるとき、空を見上げているわけにはまいりません。

光のなかで、男はとうとう、手袋を女の手に握らせました。女の指が、いやいやながら、それを握りました。

そして男は、背を向けた。

女は、握らされた手袋を、しばらく見つめておりました。それから――それを、欄干のきわに、そっと置きました。落としたのではない。投げたのでもない。置いたのです。雪のうえに、そっと。まるで、もう持っていたくないものを、けれど捨てきれもしないものを、置いていくように。

それから女は、橋のまんなかに、ひとり残りました。

そこへ、宿の女将が出てまいりました。「お客さま、お風邪を召します」と。女は首をふって、「なにも落ちませんでした」と答えました。私はその嘘を、真上から聞いておりました。

なにも落とさなかった、というのは、嘘ではございません。女は、落としたのではないのですから。置いていったのですから。嘘ではない。けれど、まことでもない。

私はあの晩、もうひとつ、奇妙なものを見ました。

橋の向こうへ去っていく男の、その後ろ姿です。男は、片方の手袋を女に返した。けれど、男の手には、まだ何か握られておりました。雪あかりに、ちらと光った。小さな、四角いもの。

私には、それがなんであるか、わかりませんでした。あとで〈みなと〉の親仁が、藍色のマッチ箱の話をしておりましたが――いいえ、あれは、マッチ箱ではございませんでした。マッチ箱なら、男は親仁にやってしまったはずです。男が握っていたのは、もっと小さな、もっと薄いもの。

私の見立てでは――あれは、写真でございました。色のあせた、一葉の写真。

なぜそう思うか。私は薬を売り歩く道々、いろいろな人の、いろいろな別れを見てまいりました。形見の写真を握りしめて去る男の背中というものを、私は何度も見ております。あの男の背中は、まさにそれでございました。

けれど、これは私の見立てにすぎません。証言とは申せますまい。私が見たのは、四角い、小さな、光るもの。それだけでございます。

私の話は、ここまでです。短いと申しあげたでしょう。私は橋のうえで起きたことの、ごく一部しか見ておりません。誰しも、そうではございませんか。真上から見おろしていても、見えるのは頭のてっぺんだけ。心のなかまでは、見えはいたしません。

ただ、ひとつだけ。

私は薬を売る人間です。患いの軽重は、声でわかると申しあげました。あの晩、橋のうえの女の声には、たしかに患いがございました。けれど、それは女の患いではなかった。

男の声のほうが、もっと重かった。あれは、もう手の施しようのない声でございました。私は薬箱を負って、いくつもの臨終に立ち会ってまいりました。あの男の声は――もう長くない者の声でございました。

私は、翌朝、宿を発つまえに、薬箱から、痛み止めの薬を一包(ひとつつ)み、抜きました。そして、それを帳場の女将に預けました。「もし、あの女のお客が戻ってきたら、これを」と。女将は、けげんな顔をしておりました。あの女のお客に、痛み止めは要りますまい。痛んでいたのは、女ではないのですから。

けれど、私は、こう思ったのでございます。痛んでいる男のほうへは、もう薬は届かない。男は、橋の向こうの闇へ、消えてしまった。届かない薬なら、せめて、その男を思って痛む女のために、置いていこう、と。

薬売りというのは、勝手なものでございます。届かぬ薬を、別の誰かに押しつけて、それで気を済ませようとする。あの晩、橋のうえで男が女に手袋を押しつけたのと、私が女将に薬を押しつけたのと――どこか、似ておりましたな。人は、渡せぬ思いを、いつも誰かに押しつけて、生きているのかもしれません。

四 ―― 女の客の話

わたしは、嘘をつきました。

宿の女将さんに、「なにも落ちませんでした」と申しました。あれは嘘です。けれど、わたしがついた嘘は、それひとつきりです。それだけは、信じていただきたい。

順を追って、お話しいたします。みなさまが、それぞれにご覧になったことを、わたしはぜんぶ、橋のまんなかで、引き受けておりましたから。

あの晩、わたしは、ひとを待っておりました。

橋のたもとの宿に部屋をとったのは、橋がよく見えるからです。あの人が来るなら、かならずこの橋を渡る。そう、文に書いてございました。二十年ぶりの文でした。差出人の名はなく、ただ、町と、橋と、雪の降る晩、とだけ。あとは、子守唄の一節が、書き添えてございました。

「眠れ、眠れ、星が海をわたるまで」

それは、あの人とわたしだけの唄でした。若いころ、あの人が国を出るとき、かならず迎えに戻ると言って、わたしの手に唄ってくれた唄。だから、その一節を見たとき、わたしは差出人を知りました。

二十年、待ちました。

最初の五年は、毎日、橋を見ておりました。あの人の国は海の向こうで、船が着くのはこの川を遡(さかのぼ)った先の港。だから、あの人が戻るなら、かならずこの町の橋を渡る。わたしは、橋の見える町に移り住んで、小さな仕立物の内職をしながら、橋を見て暮らしました。

次の五年は、橋を見るのをやめました。見るたびに、いないことを思い知らされるからです。

そのまた次の五年は、あの人のことを、忘れようとしました。縁談もありました。けれど、わたしの手には、片方の手袋がありました。対になるはずの、片方だけの手袋。それを抽斗の奥にしまって、けれど捨てられずにいるかぎり、わたしは、ほかの誰のものにもなれませんでした。

そして、最後の五年。わたしは、あの人はもう死んだのだと、思うことにしました。死んだ人を待つのは、生きた人を待つより、いくらか楽でございます。期待がない分だけ。

そこへ、文が来たのです。二十年めの、雪の便りが。

「眠れ、眠れ、星が海をわたるまで」――その一節を見たとき、わたしの二十年が、いっせいに音をたてて崩れ、そして、もう一度、立ちあがりました。

雪のなかを、わたしは橋へ出ました。手には、なにも持たずに。あの人が、もう片方を持ってきている。そう信じておりました。二つを合わせるのは、家でなくともいい。橋のうえでもいい。揃いさえすれば。そう思って、出てきたのでございます。

わたしの片方は、宿の部屋の、文机のうえに置いてまいりました。揃える日のために、大切に。

あの人は、来ました。

橋のうえで向かいあったとき、わたしは、あの人だとわかりませんでした。二十年が、あの人の顔を、別の人のものに変えておりました。痩せて、黒ずんで、咳をしておりました。

「遅くなった」と、あの人は言いました。声だけは、昔のままでした。

わたしは、なにも言えませんでした。言いたいことは、二十年ぶんありました。けれど、いざ向かいあうと、ひとことも出てこない。喉の奥が、雪で塞がれたようでした。

あの人は、懐から、片方の手袋を出しました。

それは、わたしの手袋でした。青みがかった灰色の、毛糸の手袋。若いころ、わたしが編んだものです。あの人が国を出るとき、餞別(はなむけ)に、片方だけ持たせました。もう片方は、わたしが持っている。いつかこの二つを合わせる日まで、と。対になるはずの、片方だけの手袋。

「返しに来た」と、あの人は言いました。

わたしは、首をふりました。返してほしくて、編んだのではない。合わせたくて、片方を持たせたのです。返されたら、対になってしまう。対になってしまったら――もう、あの人がそれを持って戻ってくる理由が、なくなってしまう。

「いやです」と、わたしは言いました。「持っていてください。約束だったでしょう。いつか、合わせるのだと」

あの人は、首をふりました。そして、わたしの手をとって、無理やり、手袋を握らせました。あの人の手は、氷のように冷たかった。冷たくて、けれど、震えていました。

そのとき、空が光りました。

蒼白い、長い尾を引いた星でした。あの人が、ふと空を見上げて、こう言いました。

「ミラ彗星だ。覚えているか。おれたちが別れた晩にも、あれが出ていた」

覚えておりました。忘れるものですか。二十年前のあの晩、あの人が国を出るとき、空に同じ星が出ていた。蒼い、長い尾を引いて。あのときわたしたちは、あの星が次に巡ってくる日には、きっとまた会えると、誓いあったのです。

そして、星は、巡ってきました。約束どおりに。

けれど、巡ってきたのは、星だけでした。あの人は――もう、約束を果たしに来たのではなかった。

「おれは、もう長くない」と、あの人は、星を見上げたまま言いました。「医者にそう言われた。だから、来た。会いに来たんじゃない。詫びに来た。二十年、待たせた。そのうえ、これから、もっと長く待たせる。死んでしまえば、永遠に待たせることになる。それを、詫びに来た」

そして、あの人は、ぽつぽつと、二十年のことを話しました。

国を出てすぐ、戦に取られたこと。捕らえられて、遠い島で、何年も使役されたこと。やっと放されたときには、もう国も町も、あの人を死んだものとして葬っていたこと。帰る船賃を稼ぐのに、また何年もかかったこと。そのあいだ、ずっと、わたしのことを思っていたこと。けれど、思えば思うほど、戻れなくなったこと。「こんなに痩せて、こんなに歳をとって、こんな手で――どの面さげて、あの人の前に立てる」と、そう思うと、足が動かなくなったこと。

「それでも、来た」と、あの人は言いました。「来たのは、おまえに会いたかったからじゃない。会いたい気持ちは、二十年、ずっとあった。けど、それだけなら、来なかった。来たのは――おまえを、おれから、自由にするためだ。おれを、待たなくていいと、言いに来た。手袋を返して、約束を、終わらせに来た。おまえが、おれの抜け殻を、いつまでも抱いて生きていかなくて済むように」

わたしは、ようやく、わかりました。

あの人が手袋を返したのは、約束を解くためでした。対の片方を返して、二つを合わせて、それでおしまいにするためでした。わたしが、もう、あの人を待たなくてもいいように。死んだ男を、待ちつづけなくてもいいように。

あの人なりの、やさしさでした。

けれど、わたしは、それがいやでした。

あの人は、背を向けました。

橋の向こうへ、歩いていきました。一度も振りむかずに。振りむけば、別れられなくなる。そう思ったのでしょう。あの人は、昔から、そういうひとでした。やさしいことを、不器用な形でしか、できないひとでした。

わたしの手には、あの人が返した片方の手袋が、握らされたまま、残りました。

これを宿へ持ち帰れば、文机のうえのわたしの片方と、二つが揃ってしまう。揃えば、終わってしまう。あの人の言うとおり、約束は果たされ、解かれ、おしまいになってしまう。

だから、わたしは――握らされた手袋を、欄干のきわに、置きました。落としたのではありません。投げたのでもありません。置いたのです。雪のうえに、そっと。

二つを、揃えないために。

片方を、この橋に残していくために。わたしの片方は宿に、あの人が返した片方はこの橋に。二つを、わざと、離して置く。離れているかぎり、約束は、まだ終わらない。あの人が死んでも、対の片方どうしが別々の場所にあるかぎり、わたしは、まだ「揃える日」を待っていられる。揃わない約束を、揃わないまま、抱いていられる。

それが、わたしの返事でした。

あの人が「もう待つな」と返した手袋を、わたしは「それでも待つ」と、雪のうえに置いた。

宿の女将さんが出ていらして、「なにか落ちませんでしたか」とお尋ねになりました。

わたしは、「なにも」と答えました。

これが、わたしのついた、ただひとつの嘘です。

落としたのではないから、嘘ではない、と申しあげることもできましょう。けれど、わたしは、ほんとうは、こう言うべきだったのです。「落としたのではありません。置いたのです。わたしの片方を、ここに。あの人にもう一度会えるその日まで、揃えずにおくために」と。

けれど、そんなことは、言えませんでした。だから、「なにも」と。

翌朝、わたしは橋を渡って、町を出ました。あの人の消えたほうとは、反対のほうへ。同じほうへ行けば、追いかけてしまう。追いかけて、揃えてしまう。それが、こわかったのです。

橋のうえには、あの人が返した片方の手袋が、雪に埋もれて、残っていたはずです。女将さんが拾って、落とし物としてしまっておいてくださるでしょう。それでいい。片方だけが、この町に残る。わたしのもう片方は、宿から持ち出して、わたしが持っていく。二つは、けっして揃わない。離れたまま、この世のどこかに、両方とも在りつづける。

それでいいのです。

あの人は、わたしを自由にしようとして、手袋を返しました。約束から、解いてあげようとして。

けれど、わたしは、自由になど、なりたくなかった。

ひとつだけ、申し添えておきます。

橋のうえで、あの人と別れたあと、わたしは、すぐには宿へ戻れませんでした。橋のまんなかに立ちつくしていたところを、宿の女将さんに声をかけられ、ようやく部屋へ戻ったのです。けれど、その晩、わたしは一睡もできませんでした。

夜更けに、わたしは、もう一度、窓から橋を見ました。

すると――橋のたもとに、見たことのない店の灯りが、ぽつんと点(とも)っていたのでございます。夕方には、たしかになかった店です。深い藍色の暖簾に、三日月の印。〈月光書房〉と、軒行灯(のきあんどん)に出ておりました。

その店のことは、次の声が、語ってくれるはずでございます。わたしは、もう、語る言葉を持ちません。二十年ぶんの言葉を、あの橋のうえで、ぜんぶ使い果たしてしまいましたから。

あの人を、おゆるしください。

そして、わたしを。

五 ―― 月光書房の主の話

私の店のことを、まず申し上げておかねばなりますまい。

私の店は、彗星の出る晩にだけ、現れます。ミラ彗星――蒼白い長い尾を引いて、何十年に一度、空をよぎる、あの星。あれが巡ってくる晩にかぎって、私の店は、どこかの町の片隅に、ふっと現れる。そして、朝には、また消えている。

噂は、いろいろございましょう。あの店は狐(きつね)が化かしているのだ、とか、死者の出る古本屋だ、とか。けれど、ほんとうのところは、ごく単純でございます。私の店は、別れの晩に現れるのです。誰かが、誰かと、二度と会えぬ別れをするとき――その別れを見届ける者が、ひとり要る。私が、その者でございます。

私は、本を商っております。けれど、私の店でいちばん古い本は、紙にできておりません。人の記憶でできております。私は、別れを見届け、それを一冊の本として、棚に収める。そういう、奇妙な古書店の主でございます。

あの雪の晩、私は、橋のたもとに店を開きました。

ミラ彗星が、空をよぎっておりました。私はその尾を、店の窓から、ずっと見ておりました。蒼白い、細い、長い尾。あれは、別れる二人のあいだに引かれる、一本の線のように見えました。あの尾の上と下に、人は引き裂かれて、二度と一つになれない。彗星とは、そういう星でございます。出会いの星ではない。別れの星でございます。

橋のうえに、男と女が立っておりました。

私は、その一部始終を見ておりました。けれど、私が見たのは、女将の見た影でもなく、親仁の聞いた声でもなく、薬売りの見おろした頭でもございません。私が見たのは――二人の、心のなかでございます。これは、私のような者にしか見えぬものでございます。

男の心のなかには、こう書いてございました。「この女を、自由にしたい。おれという重荷から、解き放ちたい。だから、約束を返す。手袋を返す。憎まれてもいい。冷たい男だと思われてもいい。二度とおれを思い出さぬよう、いま、突き放す」と。

女の心のなかには、こう書いてございました。「この人を、待ちつづけたい。たとえ死んでも、待ちつづけたい。約束を返されても、受けとらない。手袋を、揃えない。揃わぬかぎり、待つ理由が残る。待つことだけが、わたしに残された、この人への、ただ一つの愛し方なのだ」と。

二人は、まったく逆のことを願いながら、まったく同じものを――二十年の約束を――手のあいだで、押しつけあっておりました。男は手放そうとし、女は手放させまいとした。誰も嘘をついておりません。誰も悪くない。ただ、愛し方が、逆を向いていた。それだけでございます。

男が橋を渡って、私の店の前を通りかかりました。

男は、足をとめました。藍色の暖簾に気づいたのでございましょう。三日月の印を見て、男は、はっとした顔をいたしました。

「この店は」と、男は言いました。「二十年前にも、あった店だ。あのとき、おれは、ここで、青いマッチ箱を買った。連れの女と、一緒に」

「覚えております」と、私は申しました。「あなたは、若かった。連れの女(ひと)も、若かった。あなたがたは、この店で、ひと箱のマッチを買い、それで火を点(とも)して、たがいの顔を見ましたな。二人は、この灯りを、いつまでも忘れまいと、そう言いあっておられた」

男は、私の顔を、まじまじと見ました。「あんた、あのときの主か。二十年前と、ちっとも変わらねえ」

「変わりませぬ」と、私は申しました。「私は、別れを見届けるだけの者ゆえ、年をとりませぬ」

男は、しばらく黙っておりました。それから、こう申しました。「あのマッチ箱は、さっき、酒場の親仁にやっちまった。もう、おれには要らねえ。火を点して、見つめる相手が、もういねえからな」

「いいえ」と、私は申しました。「相手は、おりますよ。橋のうえに、まだ、立っておられる」

男は、首をふりました。「あれは、もう、おれの相手じゃねえ。おれが、そうしたんだ。返すべきものを返して、約束を解いた。あの女(ひと)は、これで、自由だ」

私は、男に、一冊の本を差しだしました。表紙には、なにも書いてございません。「これを、お持ちなさい。あなたの旅の、最後の道連れに」

男は、それを受けとりました。「なんの本だ」

「あなたが、これから読む本でございます」と、私は申しました。「ひらいてごらんなさい」

男は、本をひらきました。そして――最初の一行を読んで、立ちつくしました。

その一行には、こう書いてございました。

「眠れ、眠れ、星が海をわたるまで」

男は、震える声で、私に尋ねました。「なぜ、この唄を」

「それは」と、私は申しました。「あなたが、橋のうえで、あの女(ひと)に唄った唄でございましょう。別れぎわに、喧嘩のように見せかけて、あなたは、あの人に、子守唄を唄った。二十年前と、同じ唄を。覚えておいででしょう。あなたは、自分でも気づかぬうちに、唄っておられた」

男は、唇を噛みました。「気づかれちまったか」

「気づいたのは、あの人だけではございませぬ」と、私は申しました。「物陰の親仁も、ひと節、聞いておりました。けれど、誰も、その唄の意味は知りませぬ。知っているのは、あなたと、あの人と――そして、私だけでございます」

男は、本を胸に抱いて、しばらく動きませんでした。やがて、ぽつりと、こう申しました。

「おれは、間違ったんだろうか。約束を、返すべきじゃ、なかったんだろうか」

私は、答えませんでした。私は、別れを見届ける者でございます。是非(ぜひ)を申す者ではございませぬ。ただ、こう申しました。

「あの人は、あなたが返した手袋を、欄干に置いてゆかれました。落としたのでもなく、捨てたのでもなく、置いてゆかれた。なぜだか、おわかりになりますか」

男は、首をふりました。

「あの人は、二つを、揃えなかったのでございます」と、私は申しました。「あなたは、二つを揃えて、約束を終わらせようとなさった。けれど、あの人は、揃えなかった。片方をこの橋に、もう片方をご自分の手もとに。離して、置かれた。離れているかぎり、約束は終わらぬ。あの人は、あなたの『もう待つな』という言葉に、『それでも待つ』と、手袋で答えたのでございます」

男の目から、涙が、ひとすじ、こぼれました。霜焼けの頬を、伝って落ちました。

「おれは」と、男は言いました。「自由にしてやろうとした。それなのに、あの人は――待つことを、選んだのか」

「左様(さよう)でございます」と、私は申しました。「人を待つというのは、不自由なことでございます。けれど、その不自由を、あの人は、ご自分で選ばれた。自由よりも、あなたを待つことを。それは、あなたが奪ってよいものでは、ございませぬ。待つ、ということは――その人の、最後の、誰にも譲れぬ持ち物でございますから」

男は、本を抱いて、雪のなかへ、歩いていきました。

橋の向こう、闇のほうへ。私は、その背中を見送りました。男の足あとは、まっすぐに、闇へつづいておりました。その足あとが、やがて雪に消えてゆくのを、私は、店の灯りのなかから、見ておりました。

夜更けに、宿の二階の窓に、女の影が映りました。あの人でございます。眠れずに、橋を見ておられた。私は、その窓に向かって、口のなかで、低く、あの唄を唄いました。

「眠れ、眠れ、星が海をわたるまで」

聞こえはしなかったでしょう。雪が、音を吸いますから。けれど、私は、唄いました。あの人が、せめてひと晩なりと、眠れるように。

朝が来て、雪がやみ、私の店は、消えました。

私は、一冊の本を、棚に収めました。表紙には、なにも書いてございません。けれど、ひらけば、最初の一行に、こうございます。

「眠れ、眠れ、星が海をわたるまで」

その本は、いまも、私の店の、いちばん奥の棚にございます。彗星の出る晩にだけ、店は現れますから、お読みになりたければ、次にミラ彗星が巡ってくる晩を、お待ちなさい。

待つ、というのは――そう、あの人が教えてくれたことでございます。揃わぬものを、揃わぬまま、抱いて待つ。それは、不幸なことのようでいて、じつは、いちばんやさしい愛し方なのかもしれませぬ。

橋のたもとの宿の、帳場の抽斗には、いまも、片方だけの手袋が、眠っております。

もう片方は、どこか遠い町で、年老いた女(ひと)の手もとに、眠っております。

二つは、けっして、揃いませぬ。

揃わぬからこそ――その約束は、永遠に、終わらないのでございます。

この物語にひそむ符牒

ほかの物語と、ひそかに分かち合っているもの:

  • ミラ彗星
  • 月光堂のマッチ
  • 子守唄
  • 月光書房
  • 片方の手袋

十二をつなぐ符牒について →

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