記憶のいい人
私は、自分のことを、人より少しだけ記憶のいい人間だと思っている。
これは自慢ではない。むしろ、こうして妹のことを語るとき、その記憶のよさが私を苦しめる。忘れられたら、どんなに楽だろうと思う。けれども私はあの夜のことを、台所の蛇口からぽたりと落ちた一滴の水の音まで、はっきりと覚えている。だから安心して聞いてほしい。私が話すことは、すべて本当に起きたことだ。一字一句、違わずに。
妹の名は理沙といった。私より四つ下で、生まれたときから体の弱い子だった。母が早くに亡くなったので、私が母の代わりのようなものだった。理沙は私を「おねえちゃん」と呼ばずに、なぜか名前で呼んだ。「美月」と。子どものくせに、まるで対等な友だちのように、私を名前で呼んだ。それが私には、少しさみしかった。けれども、私は理沙を本当にかわいがった。これだけは、誰に何を言われても、譲れない。私は理沙をかわいがっていた。世界の誰よりも。
あの夜のことを話そう。順を追って、ていねいに。私は理知的な人間だから、混乱することはない。ただ、起きたことを、起きたとおりに、話せばいい。
冬のはじめだった。十一月の終わりか、十二月の頭か。寒い夜だったことは覚えている。理沙はその頃、十七歳で、高校三年生だった。私は二十一で、その年の春に大学を辞めて、家に戻っていた。父はもう何年も前に出ていって、家には私と理沙の二人だけだった。
私が大学を辞めたのは、理沙のためだ。理沙の体が、その春から、急に悪くなった。一人にしておけなかった。私は何のためらいもなく、東京の下宿を引き払って、この家に戻った。理沙のそばにいるために。それが当然のことだと思っていた。理沙も、喜んでくれた──いや、喜んでいたかどうかは、わからない。理沙は私が帰ってきた日、「美月、大学はどうするの」と訊いた。「あなたのために辞めたのよ」と私が言うと、理沙は、少しのあいだ、黙っていた。それから、「ごめんね」と言った。なぜ謝るのか、私にはわからなかった。私は、責めたつもりはなかったのに。
とにかく、その夜のことだ。
その夜、空に彗星が出ていた。
ミラ彗星、というのだそうだ。何十年に一度しか巡ってこない星で、蒼白い長い尾を引いて、東の空を斜めに横切っていた。理沙が「美月、外に出よう」と言った。理沙はそういう子だった。星だの花だの、きれいなものに、すぐに心を奪われる。私はあまり気が進まなかったけれど、妹がせがむので、二人で家の裏の、小さな川べりまで歩いた。
理沙はマフラーを巻いていた。私が編んだ、灰色のマフラーだ。手袋もしていた。白い、毛糸の手袋。これも私が編んだものだった。両手にきちんと、二つとも。私が、はめてやった。
私たちは川べりに立って、彗星を見上げた。理沙が、「眠れ、眠れ、星が海をわたるまで」と、小さな声で歌った。母が、私たちが幼い頃によく歌ってくれた子守唄だ。理沙は母のことなど覚えていないはずなのに、その歌だけは、どこからか覚えていた。私が歌って聞かせたのかもしれない。覚えていない。とにかく理沙はその歌を歌い、私は黙って彗星を見ていた。
それから、家に帰った。
理沙はその夜、眠るように亡くなった。心臓が弱かったのだ。生まれつきの病気で、いつかこういう日が来るだろうと、医者にも言われていた。私は朝、理沙を起こしに行って、冷たくなっているのを見つけた。あんなに悲しいことはなかった。世界が、半分になったようだった。
これが、あの夜のことだ。彗星の出た、冬の夜のことだ。
それからもう、十二年が経つ。
私は今、この古い家に、一人で住んでいる。結婚もせず、子どもも持たず、ただ理沙の写真と暮らしている。仏壇に毎朝、線香をあげる。理沙の好きだった、白い花を絶やさない。冬になると、ストーブの前で、理沙の編みかけだったマフラーを膝にのせて、ぼんやりすることがある。理沙は手先の不器用な子で、編み物がいつも途中で投げ出されていた。私が代わりに編んでやろうとすると、「美月はなんでもやってくれるね」と言って、笑った。あの笑い方を、私はまだ覚えている。少しさみしそうな、あの笑い方を。
近所の人たちは、私のことを、けなげな姉だと言う。妹を亡くして、十二年も喪に服している、優しい姉だと。私が買い物に出ると、八百屋の奥さんが、「美月さんは偉いねえ」と言う。「理沙ちゃんのこと、忘れないで」と。私は、曖昧に微笑む。忘れるはずがない、と思いながら。忘れたくても、忘れられないのだ、と思いながら。
最近、おかしなことがある。
夜中に、誰かが台所にいるような気がするのだ。蛇口から水のしたたる音がする。ぽたり、ぽたり、と。私が起きていって見ると、もちろん誰もいない。蛇口もきちんと閉まっている。けれども音はする。あれは理沙だろうか。理沙が、まだこの家にいるのだろうか。
私はそんなに、こわくはない。理沙ならば、いてくれて構わない。むしろ、いてほしいくらいだ。私たちは、仲のいい姉妹だったのだから。理沙は、私のそばにいたがるはずだ。私が、そばにいてほしいのと、同じように。
ここまで読んで、あなたはたぶん、私のことを、けなげな姉だと思うだろう。妹を失って、十二年も喪に服している、優しい姉だと。
それでいい。それが本当のことなのだから。
ただ、私は正直な人間なので、一つだけ、訂正しておきたいことがある。さっき私は、理沙が「眠るように亡くなった」と言った。けれども、正確には、そうではない。眠るように、というのは、少し違う。私が朝、起こしに行ったとき、理沙の顔は、眠っているような穏やかな顔ではなかった。
──いや、穏やかだった。やはり穏やかだった。私の記憶違いだ。理沙は穏やかな顔で眠っていた。間違いない。口もとに、少しだけ、笑みのようなものさえ浮かんでいた。そう、笑っていた。理沙は、笑って、死んでいた。
……笑って?
人は、笑って死ぬものだろうか。眠るように死んだのなら、無表情のはずだ。笑って死ぬというのは、何か、死ぬ直前に、笑うようなことが、あったということだ。
すまない。話を続けよう。私は、混乱しているわけではない。ただ、言葉の選び方を、間違えただけだ。
私と理沙のことを、もう少し話しておかなければ、あなたはあの夜のことを正しく理解できないだろう。
私たちは、二人きりの姉妹だった。母が亡くなり、父が出ていって、私たちは互いだけを頼りに生きてきた。私が理沙を育てたようなものだ。ごはんを作り、洗濯をし、学校の用意をさせ、熱を出せば一晩中、看病をした。理沙の体が弱かったから、私はいつも気が気でなかった。少し走っただけで唇が紫になる子だった。階段を上るのにも、踊り場でひと息つかなければならない子だった。
私はそんな理沙を、まるで硝子細工のように、大切に、大切に扱った。
理沙の友だちが家に来ることを、私は好まなかった。理沙が興奮して、体に障るからだ。だから私は、理沙の友だちに、やんわりと、帰ってもらうようにしていた。「理沙は今日、具合が悪いの」と言って。本当は具合が悪くなくても、そう言った。理沙のためだった。理沙が、はしゃぎすぎて、倒れたりしないように。
理沙は、だんだん、友だちを家に呼ばなくなった。それでいい、と私は思った。理沙には、私がいれば、十分なのだから。友だちなど、いらない。私たちは、二人きりで、完結していた。完結しているべきだった。
理沙は高校に上がる頃から、少しずつ、変わっていった。体は相変わらず弱かったが、心のほうが、強情になっていった。私の言うことを聞かなくなった。「美月は心配しすぎなんだよ」と言って、私の止めるのも聞かず、夜遊びに出るようになった。友だちの家に泊まると言って、何日も帰らないこともあった。私はそのたびに、夜通し、玄関で待った。理沙が帰ってくると、私は何も言わずに、ただ、抱きしめた。理沙は、私の腕の中で、身を硬くしていた。逃げようとするように。
ある男がいた。理沙の、その、つきあっていた男だ。
私はその男が、気に入らなかった。理沙の体のことも考えず、夜遅くまで連れまわす。理沙はその男のところへ行くために、私に嘘をつくようになった。私はそれが、悲しかった。あんなに大切に育てたのに。母の代わりに、私が育てたのに。なぜ、理沙は、私から、離れていこうとするのだろう。私が、何をしたというのだろう。私は、ただ、理沙を、愛していただけなのに。
──しかし、この話は、あの夜とは関係がない。なぜ私はこんな話を始めたのだろう。男の話は、もういい。忘れてほしい。本当に、関係のない話なのだ。
あの夜、空に彗星が出ていた、という話に戻ろう。
ミラ彗星。
私はこの星のことを、よく覚えている。なぜなら、その星が出た夜に、理沙が死んだからだ。蒼白い、長い尾を引いた星。あんなに美しい星を、私はそれまで見たことがなかったし、それから後も、見ていない。長く忘れられていた星が、また巡ってきた、という気配がした。何百年も、誰にも見られずに、宇宙のどこか暗いところを旅してきて、そして、たった一夜だけ、私たちの空に、姿を見せる。そして、また、去っていく。次に巡ってくるのは、私が、とうにこの世を去ったあとだ。
理沙が、「美月、外に出よう」と言った。
……いや。
正確に言うと、そうではなかったかもしれない。理沙は、外に出ようとは言わなかったかもしれない。私が、理沙を外に連れ出したのだったかもしれない。「理沙、彗星が出てるよ、見に行こう」と。そう、たしか私のほうが、誘ったのだ。理沙は、その夜、あまり具合がよくなかった。寝ていたいと言った。けれども私は、こんなにきれいな星は二度と見られないからと言って、無理に、理沙を起こした。
寒い夜だった。理沙にマフラーを巻いてやり、手袋をはめてやった。白い、毛糸の手袋。
そう──手袋を、はめてやった。理沙は手がかじかむと言って、嫌がった。けれども私が、両手に、きちんとはめてやった。
二つとも。両手に。きちんと。
なぜ、私はこんなに、手袋のことを、繰り返し言うのだろう。二つとも、両手に、きちんと、と。まるで、誰かに、言い聞かせるように。──いや、誰にでもない。私自身に、言い聞かせているのだ。両手に、二つとも、はめてやった。それが、本当のことだ。
理沙の写真のことを、話しておこう。
仏壇に飾ってある写真は、理沙が十六の春に撮ったものだ。桜の木の下で、少し首をかしげて、笑っている。この写真を撮ったのは、私だ。私は、理沙の写真を、たくさん撮った。何百枚も。理沙が、どこにいても、何をしていても、私はカメラを向けた。理沙は、最初のうちは、嬉しそうにしていた。けれども、だんだん、嫌がるようになった。「美月、もう撮らないで」と言って、顔を、手で隠すようになった。
なぜ、嫌がったのだろう。私は、理沙の、いちばん、きれいな瞬間を、残しておきたかっただけなのに。理沙が、どこかへ行ってしまっても、私の手もとに、理沙が、残るように。たくさんの理沙が、残るように。それの、何が、いけなかったのだろう。
葬式のとき、近所の人たちが、口々に言った。「美月さんは、本当に、妹思いだったねえ」と。「あんなに、つきっきりで、看病して」と。「あれだけ大事にされて、理沙ちゃんも、幸せだったねえ」と。
私は、うつむいて、泣いていた。涙が、止まらなかった。
けれども、あのとき、私が泣いていたのは、悲しかったからではない、ような気がする。あの涙が、何の涙だったのか、私には、わからない。悲しみだったのか。それとも、ほっとした、安堵だったのか。理沙が、もう、どこにも、行けなくなった、という。
──いや。悲しかったのだ。私は、悲しくて、泣いていた。大切な妹を、失って。それ以外に、何があるというのだろう。何が。
水の音が、する。
今夜も、台所で。ぽたり、ぽたり、と。私は布団の中で、その音を聞いている。理沙、と私は呼びかける。そこにいるの。返事はない。水の音だけがする。
私は起き上がって、台所へ行く。電気をつける。誰もいない。蛇口は閉まっている。けれども、流しの中に、水滴が一つ、光っている。さっきまで、誰かがそこで、手を洗っていたかのように。
私は蛇口の根もとを、きつく、きつく締め直す。これで音はやむはずだ。
布団に戻る。目を閉じる。すると、また、ぽたり、と。
理沙が、何かを言いたがっているのだろうか。あの夜のことを。彗星の夜のことを。
理沙、と私はもう一度、呼ぶ。何が言いたいの。何を、私に、思い出させたいの。
返事は、ない。ただ、ぽたり、と。規則正しく。心臓の鼓動のように。
川べりのことを、もう一度、思い出してみよう。
私たちは、川べりに立って、彗星を見上げた。理沙は、私の隣にいた。マフラーを巻いて、手袋をして。私は、理沙の手を、握っていた。手袋越しに。理沙の手は、冷たかった。
──手袋越しに、握っていたのなら、冷たいと、わかるはずがない。
それに、私は、さっき、両手に、二つとも、手袋をはめてやった、と言った。なのに、なぜ、私は、理沙の手の冷たさを、手のひらに、覚えているのだろう。手袋を、はめていたのなら、私が触れたのは、毛糸であって、理沙の手ではない。
つまり、私が、理沙の手の冷たさを、覚えているということは、理沙は、手袋を、していなかった。あるいは、片方だけ、外していた。あるいは、私が、外した。理沙の、素手を、握るために。
──いや。違う。私たちは、川べりになど、行っていない。私は、さっきも、そう言った。私たちは、川べりに行っていない。理沙は、その夜、外に、出ていない。理沙は、自分の部屋に、いた。ベッドの中に。私は、台所に、いた。彗星は、川べりからではなく、台所の窓から、見ていた。
では、川べりの記憶は、何なのだろう。理沙が、子守唄を歌い、私が、その隣で、彗星を見上げていた、あの、しずかで、うつくしい記憶は。
あれは、私が、欲しかった夜なのだ。そうあってほしかった、夜なのだ。本当には、決して、起きなかった、夜なのだ。私は、十二年かけて、その夜を、こしらえた。本当の夜の、上から、塗り重ねるように。少しずつ、ていねいに。
そして、私は、それを、信じていた。今夜まで。
水を、止めなければ。けれども、まだ、台所には、行かない。もう少し、思い出していたい。本当の夜のことを。塗り重ねた絵の、下にある、本当の絵のことを。
私は、覚えている。理沙の部屋の、ドアの前に、立っていたことを。手には、鍵を、握って。ドアの向こうから、理沙の、苦しそうな息が、聞こえた。「美月」と、呼ぶ声も。けれども、私は、ドアを、開けなかった。鍵を、薬の引き出しに、差さなかった。私は、ただ、立っていた。彗星の、青い光が、廊下の窓から、差しこんでいた。私の手の中の、鍵を、青く、照らしていた。
私は、その光を、きれいだと、思った。
理沙が、隣で、死んでいくあいだ、私は、彗星を、きれいだと、思っていた。
それが、本当のことだ。塗り重ねた絵の、いちばん下にある、本当の絵だ。
実を言うと、私は最近、あの夜の記憶が、少し、揺らいでいる。
歳のせいだろうか。それとも、十二年という時間が、記憶を磨きすぎて、かえって、すり減らしてしまったのだろうか。たとえば、こういうことがある。
私はさっき、川べりで理沙が子守唄を歌った、と言った。「眠れ、眠れ、星が海をわたるまで」と。けれども、よく思い出してみると、あの歌を歌ったのは、理沙ではなかったかもしれない。あれは、私だったかもしれない。私が、歌っていたのかもしれない。理沙を、寝かしつけるように。
──寝かしつける?
なぜ、寝かしつける、という言葉が出てきたのだろう。理沙はもう十七で、寝かしつける歳ではない。それに、川べりで歌ったのなら、寝かしつけるはずがない。私たちは立って、彗星を見ていたのだから。
おかしいな。
もう少し、ていねいに、思い出してみよう。最初から。順を追って。私は理知的な人間だ。順を追えば、必ず、正しいことが、わかるはずだ。
その夜、私は夕飯を作った。理沙の好きな、白身魚の煮つけを。けれども理沙は、ほとんど箸をつけなかった。「食欲がない」と言った。「具合が悪いの?」と私は訊いた。理沙は、「ううん」と首を振った。そして、こう言った。
「美月、わたし、来年の春になったら、この家を出ようと思うの」
私は箸を止めた。
理沙は、大学には行かないと言った。あの男と、一緒に暮らすのだと言った。理沙は十七で、男は二十五だった。私は反対した。当たり前だ。体の弱い理沙が、家を出て、まともに暮らせるはずがない。私がいなければ、理沙は薬を飲むことも、発作のときに横になることも、できないのだ。私は、それを、理沙に言った。
理沙は、笑った。
そして、こう言った。「美月は、わたしが弱いままでいてほしいんでしょう」
私は、その言葉が、わからなかった。今でも、わからない。私はただ、理沙を心配していただけだ。母の代わりに、育ててきただけだ。なのに、理沙は、私を、まるで、何か、おそろしいものでも見るような目で、見た。あの目を、私は、忘れられない。あの夜、理沙が、私を見た、あの目を。
「美月が、こわい」
理沙は、そう言った。小さな声で。けれども、はっきりと。「美月が、こわいの」と。
──いや。
理沙は、そんなことは、言わなかった。理沙が、私を、こわがるはずがない。私は、理沙の、たった一人の姉だ。母の代わりだ。理沙が、こわがるはずがない。これは、私が、こしらえた言葉だ。悪い夢が、こしらえた言葉だ。理沙は、そんなことは、言わなかった。
この話は、関係がない。あの夜の、夕飯のあとの話は、関係がないのだ。なぜなら、そのあと、私たちは仲よく、彗星を見に行ったのだから。理沙が、「美月、外に出よう」と言って。
……理沙が、言ったのだ。理沙が。誘ったのだ。理沙のほうが。
整理しよう。私は理知的な人間だ。混乱しているわけではない。ただ、記憶が、いくつかの順序で、ばらばらに浮かんでくるだけだ。それを正しい順に、並べ直せばいい。
一、夕飯。理沙は箸をつけなかった。
二、理沙が、家を出ると言った。男のところへ行くと。
三、私は反対した。
四、理沙は、「美月は、わたしが弱いままでいてほしいんでしょう」と言った。
五、それから──
それから、何があったか。
五のあと、私たちは彗星を見に行った。そういうことに、なっている。けれども、四と五のあいだに、何か、抜けている気がする。何か、大事なことが。
思い出せない。思い出せないのだ。
水の音がする。ぽたり、と。
うるさい。
うるさい。うるさい。うるさい。
すまない。取り乱した。
私は、こういう人間ではない。私は穏やかな人間だ。理沙のことを、けなげに弔ってきた、優しい姉だ。そうだろう?
少し、休もう。お茶を淹れてくる。気持ちを、落ち着けなければ。落ち着いて、順を追って、思い出せば、すべては、わかるのだ。私は、何も、悪いことはしていない。私は、被害者だ。大切なものを、奪われた、被害者なのだ。
お茶を淹れた。
台所で、お湯を沸かしながら、私はマッチを探した。ガスの火が、最近、つきにくいので、マッチで点けることが多い。引き出しの奥に、古いマッチ箱があった。深い藍色の、三日月の刻印のあるマッチ箱だ。月光堂、と書いてある。いつ、どこで買ったものか、覚えていない。ずいぶん古いものだ。
──いや、覚えている。あれは、彗星の夜に、買ったものだ。あの夜、家を出る前に、私たちは、商店街を通った。もう店はみんな閉まっていたのに、一軒だけ、明かりのついた古い店があった。古本屋だった。月光書房、という名の。彗星の見える夜にだけ現れる、という噂の店だ。その店先で、私は、マッチを買った。藍色の、三日月のマッチを。何のために、買ったのだろう。あの夜、私は、何のために、マッチを買ったのだろう。
……いや。そんな店は、なかった。商店街など、通っていない。私たちは、家の裏の川べりに行っただけだ。古本屋などなかった。マッチは、ずっと前から、家にあったものだ。私の、記憶違いだ。
マッチの軸も、湿気っているのか、なかなか火がつかない。二本、三本と擦って、ようやく、ぼっと火がついた。
その小さな炎を見ていたら、ふいに、思い出した。
あの夜も、私は、マッチを擦ったのだ。この、藍色のマッチ箱の。
そうだ。思い出してきた。あの夜のことを。
夕飯のあと、理沙とけんかをして──いや、けんかではない。話し合いだ。話し合いをして、理沙は自分の部屋に行った。私は台所に残った。腹が立っていた、というのは、正しくない。私は、悲しかった。理沙が、私から離れていこうとしていることが。母の代わりに、あんなに大切に育てたのに。
私は、お茶を淹れようとした。お湯を沸かそうとして、マッチを擦った。あの、藍色のマッチ箱の。
そして、ガスの火を見ながら、私は、考えていた。
何を考えていたか。
それは、言えない。それだけは、思い出したくない。けれども、もう、思い出しかけている。台所の窓の外に、彗星が出ていた。蒼白い、長い尾を引いて。私は、その星を見ながら、青い炎を見ながら、考えていた。理沙が、いなくなる。春になったら、理沙が、この家から、いなくなる。あの男のところへ行って、私を、置いて、いなくなる。
そんなことには、させない。
そう、考えていた。私は。
理沙の薬のことを、話さなければならない。
理沙は、心臓の薬を飲んでいた。毎晩、寝る前に。それを飲まないと、夜中に発作が起きることがあった。発作が起きたら、すぐに、別の薬を飲ませなければならない。私はその薬の管理を、すべて、していた。理沙は、自分では、薬のことを、よくわかっていなかった。私が、わざと、わからないようにしていたのかもしれない。──いや、そうではない。理沙が、覚えようとしなかったのだ。私に任せきりだったのだ。
「美月がいないと、わたし、薬も飲めないね」
理沙は、いつか、そう言って笑った。少しさみしそうに。私は、それを聞いて、安心した。そう、それでいい。理沙は、私がいないと、何もできない。薬も飲めない。だから、理沙は、私のそばを、離れられない。離れては、いけないのだ。
一度、こんなことがあった。理沙が、十五のときだ。理沙が、薬の名前と、飲み方を、自分で、ノートに、書き写しているのを、見つけた。「いざというとき、自分で、わかるように」と理沙は言った。私は、そのノートを、取り上げた。「私がいるんだから、覚える必要はないでしょう」と言って。理沙は、何か言いかけて、やめた。そして、その夜から、理沙は、私に、隠れて、何かを、書くようになった。私は、それを、見つけるたびに、取り上げた。
理沙は、私から、自分の体のことを、奪い返そうとしていた。今になって、そう思う。けれども、当時の私は、それを、ただ、理沙を守ることだと、信じていた。理沙が、私なしでは、生きられないように、しておくことを。それが、愛だと。
理沙は、私が、こわかったのだろう。少しずつ、自分が、私に、閉じこめられていくことが。硝子の箱に、入れられていくことが。きれいな写真の中に、永遠に、しまわれていくことが。
──いや。この話は、関係がない。あの夜のことを、話していたのだ。あの夜、私は、理沙に、薬を飲ませただろうか、という話を。
あの夜、私は理沙に、薬を飲ませただろうか。
……飲ませた。もちろん、飲ませた。私は毎晩、欠かさず、理沙に薬を飲ませていた。あの夜だけ、忘れるはずがない。
あの夜だけ、忘れるはずが──
あの夜だけ、私は、薬を、飲ませなかった。
ちがう。
私は、毎晩、薬を飲ませていた。あの夜も。忘れるはずがない。私は、優しい姉だ。理沙の薬を、忘れるはずがない。私は、十二年間、毎日、欠かさず、線香をあげてきた。そんな私が、薬を、忘れるはずが、ない。
けれども。
もし、私が、わざと、薬を、飲ませなかったのだとしたら。
理沙が、自分では、薬のことを、わからないように、私が、しておいたのだとしたら。
あの夜、理沙が、自分の部屋で、発作を起こしたとして、薬の在りかを、知らなかったとしたら。
理沙は、私を、呼んだだろう。「美月」と。「美月、薬を」と。
私は、その声を、聞いただろうか。
聞いた。
聞いて、いた。台所で。マッチの、青い炎を、見ながら。彗星を、見ながら。私は、理沙の、声を、聞いて、いた。
そして、行かなかった。
水を、止めなければ。
私は、布団から出て、台所へ行く。電気をつける。蛇口は、閉まっている。けれども、ぽたり、と、水が落ちる。流しの底に、水滴が、たまっていく。私は、蛇口を、締める。きつく、きつく、両手で。あの夜、台所の蛇口から、ぽたり、と落ちていた音。あれは、私が、行かずに、台所に立ちつくしていた、あいだの音だ。理沙の声を、聞きながら、行かずにいた、あいだの。ぽたり、ぽたり、と。
ちがう。
私は、蛇口を締めているだけだ。あの夜のことなど、知らない。理沙は、眠るように、亡くなったのだ。心臓の病気で。私は、何も、していない。私は、ただ、台所で、お茶を淹れていただけだ。
けれども、両手の、この感覚を、私は、覚えている。十二年前から、覚えている。両手のひらに残った、あの、温かくて、それから、だんだん冷たくなっていった、
ちがう。ちがう。ちがう。
あの夜、彗星が出ていた。
私は、それを、覚えている。蒼白い、長い尾を引いた星。けれども、私は、その星を、川べりで見たのではなかった。私は、その星を、家の中から、見たのだった。理沙の部屋の、窓から。
そう。私は、とうとう、理沙の部屋に、行ったのだ。声が、やんでから。理沙が、私を、呼ばなくなってから。しばらく、経ってから。
理沙は、ベッドに、横たわっていた。眠っているように。けれども、眠ってはいなかった。理沙は、もう、息をしていなかった。手を、伸ばしていた。ベッドの脇の、引き出しのほうへ。薬の、入っている、引き出しのほうへ。けれども、その手は、引き出しに、届いていなかった。
理沙の右手には、白い手袋が、はまっていた。
なぜ、手袋を。
夜、寝るときに、手袋など、しないだろう。なのに、なぜ、理沙の右手には、手袋が、はまっていたのだろう。
それとも──私が、はめたのだろうか。あとから。理沙の、冷たくなった手に。私が編んだ、白い手袋を。せめて、暖かいように、と。
けれども、片方しか、なかった。左手の手袋が、見つからなかった。私は、探した。家じゅうを。けれども、なかった。だから、理沙の右手にだけ、手袋を、はめた。
片方だけの手袋を、はめた、理沙の、冷たい手を、私は、握った。
あの男のことを、最後に、話しておこう。さっき、忘れてほしいと言った、あの男のことを。やはり、話さなければ、終われない気がする。
葬式に、あの男は、来なかった。来られなかった、と言うべきか。私が、知らせなかったからだ。理沙が死んだことを、私は、あの男に、知らせなかった。男は、何日も経ってから、人づてに、それを知った。そして、家に来た。玄関先で、男は、泣いていた。大の男が、子どものように。「どうして、知らせてくれなかったんですか」と。「最後に、ひと目、会いたかった」と。
私は、玄関のドアを、細く開けたまま、男を、見ていた。私の中には、奇妙な、満ち足りた、しずけさが、あった。ざまあみろ、というのとは、違う。もっと、深い、底のほうの、しずけさだ。理沙は、もう、私のものだ。あなたには、渡さない。永遠に。死が、理沙を、わたしのところに、連れ戻したのだ。──そう、感じている、自分がいた。
「あなたが、理沙を、こんなにした」
私は、男に、そう言った。男は、私のことを、おそろしいものでも見るような目で、見た。あの夜、理沙が、私を見たのと、同じ目で。そして、男は、何も言わずに、帰っていった。二度と、来なかった。
私は、それを、勝った、と思った。
人の死を、勝った、と思う人間が、いるだろうか。妹の死を。けれども、私は、そう思ったのだ。あのとき、たしかに。そして、その記憶を、私は、いちばん、深いところに、沈めた。あれだけは、誰にも、自分にも、見せてはならないと、思って。
手袋のことを、話さなければならない。
理沙の葬式のあと、私は理沙の部屋を片づけた。理沙の服や、本や、こまごましたものを。そのとき、私は、引き出しの中から、白い毛糸の手袋を、見つけた。私が編んだ、あの手袋を。
片方だけ。
左手の、片方だけが、引き出しの中にあった。右手のほうは、理沙の手に、はまっていた。だから、葬式のとき、理沙は、右手にだけ、手袋をして、棺の中にいた。私が、そうした。せめて、片手だけでも、暖かいように。
引き出しの中の、左手の手袋。なぜ、それが、薬の引き出しの中に、あったのだろう。理沙が、薬を、探して、手袋を、脱ぎ捨てたのだろうか。引き出しを、開けようとして。けれども、引き出しは、開かなかった。なぜなら──
なぜなら、私が、その引き出しに、鍵を、かけていたからだ。
理沙が、勝手に、薬を、飲みすぎないように。私が、いつも、鍵をかけて、薬を、管理していた。あの夜も、鍵は、かかっていた。だから、理沙は、引き出しを、開けられなかった。手袋を、脱いで、必死に、引き出しを、引いても、開かなかった。鍵は、私の、エプロンのポケットの中に、あったのだから。台所の。私の。
私は、その鍵を、握りしめて、台所に、立っていた。理沙の声を、聞きながら。
あなたは、私を、責めるだろうか。
いや、あなたは、まだ、私を、信じているかもしれない。けなげな姉だと。妹を失って、十二年も喪に服している、優しい姉だと。私が、いま、こうして話していることを、年老いた女の、混乱した、たわごとだと。記憶違いだと。悪い夢だと。
そう思ってくれて、構わない。むしろ、そう思ってほしい。私自身、ずっと、そう思おうとしてきたのだから。十二年間。毎朝、線香をあげながら。白い花を、絶やさずに。編みかけのマフラーを、膝にのせて。それらは、すべて、私が、自分を、信じさせるための、道具だった。これだけのことをする女が、妹を、殺すはずがない、と。
道具。供物。儀式。
私は、十二年間、自分という裁判で、自分の弁護人を、つとめてきた。証拠を、ひとつずつ、組み替えて。順序を、入れ替えて。都合の悪い一語を、避けて。「殺した」という言葉を、決して、使わずに。「失った」と、「亡くなった」と、「眠るように」と、言い換えて。
けれども、弁護人は、いつのまにか、裁判官になり、そして今、証人席に、座っている。同じ、一人の女が。逃げ場が、なくなったのだ。語れば語るほど、語りの綻びから、本当のことが、立ちあがってくる。私が、いちばん、聞きたくなかった、本当のことが。
ちがう。
これは、記憶ではない。これは、私が、こしらえた、悪い夢だ。私が、こしらえた、おそろしい夢だ。本当のことは、こうだ。
夕飯のあと、私たちは仲なおりをした。そして、彗星を見に行った。理沙が、「美月、外に出よう」と言って。川べりで、彗星を見た。理沙が、子守唄を歌った。それから家に帰って、理沙は眠るように、亡くなった。心臓の、病気で。
そうだ。これが、本当のことだ。私は、優しい姉だ。理沙を、かわいがっていた。世界の誰よりも。
水の音が、する。
私は、もう、若くない。
四十に近い。この家に、一人で、住んでいる。理沙が死んでから、十二年。私は誰とも結婚せず、子も持たず、ただ、理沙の写真と、暮らしてきた。なぜだか、わかるだろうか。
罪滅ぼし、ではない。
私は、何も、悪いことはしていない。私はただ、理沙を、失っただけだ。大切な妹を。それなのに、私が、こうして、一人で、罪人のように暮らしているのは、なぜなのだろう。
私は、理沙のいない人生を、想像することが、できなかった。理沙が家を出て、あの男と暮らし、私を置いて、幸せになる。そんな人生を、私は、許せなかった。──いや、許せなかった、ではない。耐えられなかった、のだ。私は、理沙なしでは、生きていけなかった。
考えてみれば、私は、いつも、こう言ってきた。理沙が、私なしでは、生きていけない、と。薬も飲めない、何もできない、と。けれども、本当は、逆だったのだ。理沙なしでは、生きていけなかったのは、私のほうだった。理沙が、私の、生きる、理由だった。理沙の世話をすることだけが、私という人間の、かたちだった。理沙が、いなくなれば、私は、空っぽになる。だから、理沙が、出ていこうとしたとき、私は、自分が、消えてしまうように、感じた。
理沙を、留めることは、私自身を、留めることだった。
だから、あの夜、私が、ドアを開けなかったのは、理沙を、憎んだからではない。理沙を、あんまり、愛していたからだ。愛が、こんなにも、おそろしいかたちを、とりうるということを、私は、あの夜、知った。そして、それを、十二年かけて、忘れようとした。けれども、愛は、忘れられても、ぽたり、ぽたりと、したたりつづける。蛇口を、いくら締めても。
だから、私は、理沙を、誰にも、渡さないことにした。あの男にも。未来にも。春にも。理沙が、永遠に、私のものであるように。永遠に、十七歳のまま、この家に、いるように。私と、二人きりで。
だから。
だから、私は。
理沙が、私を呼ぶ声を、聞かなかったことにした。
理沙が、私から離れていこうとしていた、あの夕飯のことを、なかったことにした。
理沙が、私を、こわがっていた、あの目を、忘れたことにした。
薬の引き出しに、鍵をかけていたことを、思い出さないことにした。
そして、その鍵を、エプロンのポケットから取り出して、理沙の部屋の引き出しを開け、何ごともなかったように、鍵を元に戻したことを──
ちがう。
私は、そんなことは、していない。私は、理沙を、愛していた。世界の誰よりも。だから、私は、毎朝、線香をあげ、白い花を絶やさず、編みかけのマフラーを膝にのせて、十二年も、喪に服してきたのだ。
愛していたから。
愛していたから、私は、理沙を、どこにも、行かせなかったのだ。
水の音が、する。
理沙。
そこにいるの。
返事は、ない。けれども、私には、わかる。理沙は、まだ、この家にいる。あの夜から、ずっと。私の、そばに。私が、そう、望んだから。私が、そう、したから。
理沙は、もう、どこにも、行けない。あの男のところにも、どこにも。理沙は、永遠に、十七歳のまま、この家に、いる。私と、二人きりで。
私が、望んだとおりに。
それの、何が、いけないというのだろう。私は、ただ、妹と、ずっと一緒にいたかっただけだ。それの、何が。
──いや。
ちがう。私は、何も、望んでいない。私は、ただ、妹を、失っただけだ。心臓の弱い、かわいそうな妹を。生まれつきの病気で、ある夜、眠るように、亡くなった、妹を。
私は、被害者だ。私は、大切なものを、奪われた、被害者だ。私は、何も、していない。
何も、していない。
ただ、両手に、覚えがあるだけだ。
ただ、左手の手袋が、片方だけ、薬の引き出しの中に、あっただけだ。
ただ、彗星の夜の記憶が、いくつもの順序に、ばらばらに、立ちあがってくるだけだ。
ただ、エプロンのポケットに、鍵が、あっただけだ。
それだけだ。それだけ、なのだ。
もう、夜が明ける。
東の空が、白んできた。彗星は、もう、見えない。あれから、十二年。ミラ彗星は、もう、巡ってこない。次に巡ってくるのは、ずっと、ずっと、先のことだ。そのとき、私は、もう、この世にいないだろう。
理沙だけが、残るのだろう。この家に。片方だけの手袋と一緒に。永遠に、十七歳のまま。
私は、ときどき、考える。もし、あの夜、ミラ彗星が、出ていなかったら、と。もし、あの青い光が、廊下の窓から、差しこんでこなかったら。もし、私が、鍵を握った手を、あの光に、照らされていなかったら。私は、ドアを、開けただろうか。理沙を、助けただろうか。
わからない。けれども、私は、あの彗星を、恨んだことは、一度もない。むしろ、私は、あの星に、感謝してきたのだと思う。あの星が、あんまり、きれいだったから、私は、理沙のことを、忘れて、見とれていられた。あの星のせいに、できた。あの夜のことを、星のせいに、できた。何百年に一度の、めったにない夜の、めったにない星のせいに。
だから、私は、十二年間、あの星のことばかり、語ってきたのだ。手袋でも、鍵でもなく、薬でもなく、理沙の声でもなく、彗星のことばかり。蒼白い、長い尾のことばかり。きれいだった、うつくしかった、と。その、うつくしさの陰に、本当のことを、隠して。
けれども、星は、もう、巡ってこない。隠れる場所が、なくなった。だから、私は、いま、ここで、語っているのだ。隠すもののなくなった、明け方の、この部屋で。
水の音が、やんだ。
蛇口を、見にいかなくては。けれども、私は、もう、起き上がる気力がない。布団の中で、私は、目を閉じる。すると、まぶたの裏に、あの、蒼白い星が、見える。長い、長い尾を引いて。
私は、小さな声で、歌う。
「眠れ、眠れ、星が海をわたるまで」
誰に、歌っているのだろう。理沙にだろうか。それとも、私自身にだろうか。
わからない。けれども、歌っていると、両手のひらが、温かくなってくる。あの夜の、理沙の手の温もりが、よみがえってくる。だんだんと、冷たくなっていった、あの、温もりが。
私は、思い出している。とうとう、思い出している。私の、両手が、覚えていることを。
私は、自分のことを、人より少しだけ記憶のいい人間だと思っている。
だから、本当は、最初から、ずっと、覚えていたのだ。あの夜のことを。台所の蛇口から、ぽたり、と落ちた一滴の音まで。あれは、水ではなかった。あれは、お湯を沸かす音でもなかった。あれは、私が、理沙の部屋へ行かずに、台所で、しばらく、立ちつくしていたあいだ、聞こえていた、私自身の、心臓の音だったのだ。
ぽたり、ぽたり、と。
落ち着いた、規則正しい、私の心臓の音。理沙が、隣の部屋で、私を呼びながら、息を引きとっていく、そのあいだじゅう、少しも乱れなかった、私の、心臓の音だ。
理沙、と私は呼ぶ。
そこにいるの。
返事は、ない。けれども、私には、わかっている。理沙は、もう、どこにもいない。十二年前のあの夜、私が、台所の蛇口の前で、ただ立っているあいだに、どこにもいなくしてしまったのだから。手を下したのでも、ない。ただ、行かなかっただけだ。鍵を、渡さなかっただけだ。声を、聞かなかったことにしただけだ。それだけのことで、人は、片方だけの手袋を残して、いなくなる。
そして、私は、その同じ手で、今も、毎晩、蛇口を締めている。きつく、きつく。もう二度と、何も、したたらないように。もう二度と、あの心臓の音を、思い出さないように。
けれども、水は、止まらない。
ぽたり、と。
ああ、また、聞こえる。私の、いちばん奥の、暗いところから。十二年、止まることなく。
眠れ、眠れ。
星が、海を、わたるまで。